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19話「青嵐」 |
吸いかけの煙草が宙を舞った。 彼の言葉は途切れ、上体が後ろに傾く。 咄嗟に差し伸べたこの手は届かなかった。 凍えるような冬の日。 彼の後ろには切り立った崖。そして黒い海。 風は陸から吹いていた。 右手が空を切った。 無意識のうちに伸ばした右手。 届かなかった。 それは彼を助けるためのものだった? それとも。 あの瞬間、指先がわずかに触れたのを覚えている。 彼に触れたのは、それが初めてだった。 もうすぐ3月になろうという暖かい日。季節はもう春で、空の青さも風の柔らかさも違う。 そんなある日に、一人の男が、A.CO.扉を叩いた。 とんとん。 (…?) 事務所内で一休みしていたA.CO.所長・阿達史緒は、突然の来客に首を傾げた。 ここのメンバーの誰かなら扉を叩いてもすぐに入ってくるだろうし、今日は特に依頼のアポもないはずだった。 不審に思いつつも、史緒は立ち上がって扉に向かう。少しの警戒心を持って、内側から扉を開けた。 がちゃり。 「え───」 ノブを回した瞬間、ぐいっ、と引っ張られた。 扉は史緒の力を無視して勢いよく外側に開く。腕が引かれる力に足が付いて行けず、反動で転びそうになるが史緒の体を受け止めた腕があった。 史緒よりいくぶん背の高い人影。 「やあ。史緒ちゃん、お久しぶり」 そんな声が聞こえたかと思うと、むぎゅううぅ、と何の躊躇もない力に抱きしめられた。 「……っ!」 突然、というか唐突だった。 史緒は声こそ出さなかったものの、目を丸くして驚いたが、それはその行為にではなく、その人物に対しての驚きであった。 至近距離にいるせいで相手の顔は見えないが、その台詞だけで史緒は察した。この相手ならば、この行動も納得できなくもない。 「高雄さん……」 抵抗もせず、史緒は呆れた声で名を呼んだ。 関谷高雄は抱きしめたままの体勢で、ぽんぽんと史緒の肩を叩いた。 「いやー、史緒ちゃんが出てくれて良かったよ。これでドアを開けたのがうちの馬鹿息子だったりしたら、鳥肌どころじゃすまなかったなぁ」 男に抱きついたって楽しくもないし、と付け加える。 やっと体を解放されて、改めて顔を合わせると、目の前にはコートをまとった中年の男が立っていた。 しばらく会わないうちに白髪が目立つようになった、顔の皺が増えた。しかし史緒がそんな風に評した男はいたずらっ子のように笑っている。つられて史緒も笑顔を見せた。 「本当に、お久しぶりです。高雄さん」 「やっ」 関谷高雄は5親等は離れた親戚で、関谷篤志が大切にしている家族の一人である。職業は作家。昔からよく面倒を見てくれていて、史緒にとっても父親のような存在だった。 篤志と知り合って少したった頃、初めて高雄を紹介されたとき、すでに高校生だった篤志の隣で「ま、あんまりいじめないで、うちの愚息と適当に仲良くしてやってください」と言って史緒と司を笑わせたのはこの人だった。 「司くんは?」 「もうすぐ来ると思いますけど。……けど、どうしてそこに篤志の名前が出てこないんですか」 苦笑して言う史緒に、高雄は肩をすくめて見せた。 「成人した自分の息子なんて面白くないよ。もっとも、篤志とはついこの間会ったんだ」 「そうなんですか? 篤志ったら、何も言わないから」 「あ、何も聞いてない?」 高雄の表情が曇ったのを敏感に見て取り、史緒は改まった表情で高雄を見据えた。 「…何か、あったんですか?] 「いや、大したことじゃないよ」 「…」 完璧な笑顔でそんな風に言われてしまうと、こちらは追求のしようがない。嘘をつくような人物ではないので、確かに「大したことじゃない」かもしれないが、その内容は史緒に関係しているものと思われる。 「気になるなら話すよ。篤志は絶対に言わないだろうし」 嫌味な感じではなく、さらりと言った。 史緒は簡単に表情を読まれてしまったことを恥ずかしく思った。 「…お茶、いれますね」 「おかまいなく」 すすめられるままにソファに座ると、高雄は一通り部屋の中を見回した。机の上のパソコンと、本棚とロッカーと…。 史緒たちの仕事を知ってはいたが、改めてその場にいると奇妙な感動を覚える。(あの子たちがねぇ)と、耽ってしまう。これはささやかな親心。 ふと、部屋の隅の植物が目に入る。高雄には、それが史緒の趣味でないことがわかった。司でもないし、篤志はこんなところに気を配る性格ではない。……他のメンバーの誰か。 (……) 「史緒ちゃん、一人か? 他の子も見にきたのに」 「一人は秋葉原にある薬の卸でバイト中、他の3人は学校に行ってます」 と、史緒の背中が答える。 「学校…ねぇ」 目の前に立つ人物とは、うまく結びつかない単語だ。 高雄は史緒が留学してちゃんと学校に行っていたことを知っているが、それでも、おおよそ学生らしくない学生生活を送っていたのだろうと想像はつく。 高雄がひっかかった点はもう一つ。 メンバーのうち3人が学校に行ってる年齢であるということ。話の流れから、これには司と篤志はカウントされていないことがうかがえる(司が学生でないことは知ってる)。 その3人とバイトの1人と、史緒と司と篤志。これでメンバー数の計算が合う。 (……本当に、若いのが多いんだなぁ) 篤志から聞いてはいたものの、高雄は改めて驚いた。 事務所を背景に動き回るしおを見て、目を細めて笑った。この風景の中には、高雄の知らない4人も生活しているのだ。 (あの、人嫌いだった史緒ちゃんが、そばに置く仲間、か) 篤志と司はさぞかし驚いたことだろう。 他人を目に入れなかった、自分の世界に入ることを許さなかったころの彼女からは想像もできない。 「どうぞ」 「ありがとう」 湯気のたつカップを受け取る。向かいの席に史緒は腰を下ろした。 「それで高雄さん。今日はどんな用件でこちらまでいらしたんですか」 「それはもちろん、史緒ちゃんの顔を見るためさ」 史緒は目を細めて声をたてて笑った。 「光栄です。でも、本当は他のメンバーを見に来るのが目的なんでしょう?」 「そう。野次馬根性でね。もしくは親ばかとも言うのかな」 A.CO.設立と同時に篤志は横浜にある実家を出た。その時、篤志は「親にも"そろそろ独立しろ"と言われてるし」と言っていた。それは嘘ではないだろうが、実際出て行かれると、高雄としては淋しいのかもしれない。 「でも篤志のことだから、週一回くらいは連絡してるんじゃないですか?」 「電話ではね。…和代は3人揃って顔見せに来いって言ってる」 和代、というのは高雄の妻であり、篤志の母親の名前で、3人、というのは篤志、司、史緒のことを指す。 「ご無沙汰してます…」 「別に責めてるわけじゃないよ。忙しいのは分かってるさ。ま、和代の場合は不平不満は隠さないだろうけど」 肩をすくめておどける高雄に、史緒もくすくすと笑った。 「和代さんらしいです」 高雄は篤志や司の様子、近況などを一通り尋ねた後、さり気なく本当の目的を切り出した。 「そうそう、史緒ちゃん。実はもう一つ目的があったんだ」 カップを持つ史緒の手が止まる。顔を上げた。 高雄は思わず笑った。自分が考えて、これから実行する計画に。 「何ですか?」 首を傾げた史緒に、高雄は不敵な笑みを見せた。 「ちょっと一緒に遊んでくれないか?」 その頃、七瀬司は近づく足音を聞いていた。 月曜館の窓際の席に腰を下ろし、アイスティを飲む。その自然な動作のなかでも、司の感覚は足音に集中していた。 誰の足音か、というのはとうに分かっている。 その人物をここに呼んだのは司自身だったからだ。 (あと3歩。…2…1) ドサッと、向かいの席に体重がかかる音がした。 「よぉ、待たせたな」 「5分ほど」 付き合いの長さを思わせる言葉を司と交わしたのは、同じA.CO.のメンバーの一人、関谷篤志だった。 本当ならばこんなところに呼び出さなくても事務所では毎日会っているし、お互いの住んでいる部屋は100mと離れていないのだから、少し足を向ければ十分事足りる。 わざわざ外に呼び出した理由はひとつだった。 「珍しいな。司が俺を呼び出すなんて」 「まあね」 司と篤志は所長である阿達史緒と並ぶ古参メンバーだが、この2人だけで会うということはあまりない。もし木崎健太郎あたりがここにいたらその事を指摘しただろう。 篤志はふと気付いたことがあった。でもすぐに納得する。 「今日は三佳は一緒じゃないんだな。……バイトか」 「そう」 いつも司の隣にいる島田三佳は今日は不在だ。だからこそ、司は篤志を呼び出した。誰にも聞かれたくない話をするために。 本題を始めるために、司は顔をあげた。 司にとって、まっすぐ前を向いて話す必要性はあまりない。相手の視線で真偽を判断することはできないし、見なくても何をしているのか大体は分かる。けれどそういう些細な演技は、普通の仕種が身に付いている人にとっては有効な手段なのだ。目を見て嘘を言うことがどんなに難しいものか試してみるといい。人の目を見て話すということは、できるだけ真実を吐かせる為の牽制でもあるのだ。 司はそんな風に訓練されてきた。 懇意である篤志にそんな陳腐な演技をする必要はないのだが、既にこの動作は日常的なものになっていた。 「僕が珍しく篤志を呼び出した理由。…察しは付いてるんだろう?」 篤志は大袈裟に息をつきテーブルに両肘を付いて、がりがりがりと頭を掻いた。 「まーな」 苦々しい声で言う。 一方、司の表情はいつも通りだが、それが司なりの不機嫌の表現なのだと、篤志は知っていた。 「法事があるんだ。咲子さんの」 それは阿達政徳から連絡があったことを意味する。 「わかってる。行くよ、行けばいいんだろ?」 自棄になっているように聞こえる。 「僕に言われても」 「悪ィ。…別に、咲子さんの法事に行くのが嫌なわけじゃないんだ」 「分かってるよ」 故人の死から5年経つ今となっては、毎年集まること事態にも少しずつ意味が変わってくる。 阿達咲子とあまり関わりのない関谷篤志が呼ばれるのは、顔見せの意味もあるのだ。 「篤志が跡取りに抜擢されてから、もう2年か」 雰囲気をやわらげるために、からかうように司が言った。 法事にはアダチの幹部も毎年顔を見せている。阿達政徳の一人娘の婚約者に、興味が無いわけ無い人物達である。 意外にも予想していた篤志からの反発は返ってこなかった。篤志? と声をかける。 少しの沈黙の後、篤志はいつもより低い声で言う。 「それって、櫻が死んでから2年経ったってことだよな」 「………」 沈黙を招くと分かっていて、篤志はその名前を口にした。 この場にいない人物について語るのは、あまり気持ちの良くないことだ。悪口でなくてもそれは変わらない。 あの特異な人間性を持つ男のことは二人とも忘れられないでいる。 篤志の台詞は本当に正しくて、櫻がいなくなったからこそ、アダチの跡取りに篤志の名前が挙がったのだ。 司は少し迷ってから言った。 「史緒はまだ、櫻を死なせたのは自分だと思い込んでる」 違うだろ、と篤志は指摘する。 「櫻を殺したのは自分だと思い込んでるんだ」 史緒の実兄である阿達櫻は、現在生きていれば23歳になっていたはずである。しかし彼は二年前に亡くなった。真冬の、寒さの厳しい日に。 事故だった。 海へ落ちた。 最期をみていたのは史緒一人。だから篤志も司も史緒の証言から推察するしかない。その証言が真実だとは、二人とも思いたくないのだけど。 でもただ一つ言えることがある。 史緒は、櫻を憎んでいた。 阿達政徳の子供は史緒一人になったのだ。 * * * 篤志の携帯電話が鳴った。 ポケットから取り出して液晶を見ると、篤志は眉をひそめた。 「非通知設定」。 携帯電話の番号はごく親しい人間にしか教えていない。大学の連中も知らないはずだ。わざわざ非通知でかけてくる人間に心覚えはないが…。 (誰だ…?) 不審に思うのは当然だろう。 篤志がいつまでも出ないでいるので、司が声をかけた。 「どうかした?」 「いや…、ちょっと悪ぃ」 通話ボタンを押す。 「もしもし」 『所長は預かった』 たった一言。知らない男の声。 篤志は眉をひそめた。 『所長は預かった。返して欲しかったら、ここまで来い』 「…誰だ?」 自然と低くなる声。冗談かとも思ったが、相手の声は篤志が知る誰とも違う。 いつもならこの時間、史緒は事務所にいるはずだ。 篤志の電話から漏れる声を聞いて、司は素早く自分の携帯電話で事務所の短縮ナンバーを押した。篤志もその様子に注意を傾ける。誘拐犯を名乗る男との会話は一時中断された。 しばらくして司は耳から電話を離す。 「誰も出ない」 史緒は事務所にいない、ということだ。 (……本当なのか?) 「おい。どこの誰を預かったのかはっきりしてもらおうか」 思わせぶりないたずらを敬遠して、篤志は言った。 『A.CO.の阿達史緒、と答えればいいのかな? 関谷篤志。そして七瀬司』 「!」 少なくとも、間違い電話じゃないわけだ。と篤志は心の中で皮肉った。 しかし、あの史緒がそう簡単に連れて行かれるとは思わないけど。篤志は未だに半信半疑だった。 「篤志、貸して」 司は携帯電話を渡すように動作で示した。手を差し伸べた。彼は他人の声を分析し記憶することができる。 篤志はその意図を察し、すぐに司の手の上に携帯電話を置いた。 少々緊張した面持ちで、司は無言で耳を傾ける。 『できれば早く来てくれ。こちらもヒマじゃない』 ずいぶんアバウトな誘拐犯だな、と篤志は首をひねった。一方、司は電話口に向かってさらりと言葉を発する。 「どこにいるんですか、高雄さん」 「な…っ」 片肘ついていた篤志は飛び上がった。 篤志は何か言おうとしたが、司がそれを制し、電話に耳を預ける。 その人物は篤志も騙されるほど声色を変えていたけど、司は元の声の輪郭を見抜いていた。 なにより、関谷高雄は篤志の父親だ。篤志は司の言葉を疑いもせず、驚きの余り声を荒げた。 「ちょっと待てっ!」 そして。高雄がこのような馬鹿げた行動に出る理由は一つしか思い当たらない。 …単なる暇つぶしだ。 声色を変える名人とは聞いたことがなかった。 しかし史緒はこれが目の前の出来事でなかったら、それが高雄の声であることを信じられなかっただろう。 「所長を預かった。返して欲しかったら、ここまで来い」 何をするのか、だいたい聞いてはいたけど、それでも史緒は吹き出しそうになった。 ちょっと一緒に遊んでくれないか? この台詞の後、高雄は史緒を連れ出した。 A.CO.事務所の屋上へ。 晴天だった。史緒は扉を開けたとき受けた風に、初めてそれに気づいた。 (……いい天気) 日の眩しさに手をかざして空を仰いだ。 後ろを振り返ると、高雄が携帯電話を相手に声色を変えて奮闘している。 『どこにいるんですか、高雄さん』 七瀬司の声は史緒にも聞こえた。 「もうバレた」 高雄は振り返って笑った。 司の能力を知る史緒はこうなることをある程度予測していた。意図的に黙っていたから、こういう結果になっても高雄には苦笑を返すほかない。 ちょっと待てっ!! 篤志の怒鳴り声に、高雄は煩そうに携帯電話を耳から離す。 「なんだー。もうバレちゃったか。さすがにウチの馬鹿息子とは違うね。司くん、篤志に代わってくれ」 『お父さん! 何やってるんですかっ!』 「何って、誘拐だよ」 篤志をからかうように、心底面白そうな声で答えた。 昔からのことだが、この親子は仲が良いのか悪いのかわからないところがある。史緒が知っているところでも、関谷家では高雄と篤志の兄弟のような喧嘩を、篤志の母親である和代が力ずくで終わらせるという展開が何度かあった。関谷篤志が大切にしている家族はそういうところだった。 「早くここに来ないと、お前の二番目の秘密をバラすよ」 『え…、ちょっと! お父さんっ!』 唐突な高雄の脅しに篤志は付いて行けなかった。その後の篤志の文句を無視して、高雄は史緒に携帯電話を差し出した。 「何か喋る? ゲームを降りる気がないなら、分かりやすいヒントは避けてほしいけど」 (………) 史緒は少し考えて、高雄の手から電話を受け取った。耳に付けると、篤志がまだ何か言ってる。 「もしもし」 『史緒っ? 今どこにいるんだっ。無理にその人に付き合うことないぞ』 (…二番目の秘密って、そんなに後ろめたいことなのかしら) 篤志の必死な焦りように、いたずら心でそんなことを考える。 「篤志」 『なんだっ』 その慌てようがなんだか楽しくて、史緒は声に出さずに笑った。そして落ち着いた声で言う。 「いい天気ね。風が強いけど。……すごい音」 なに和んでんだよっ!! 篤志の声を遠くに聞いて、電話を高雄に返した。 史緒が伝えたメッセージに、高雄も首をひねる。そんな高雄に、史緒は満足そうに頷いて返した。 ま、いいか。という表情を見せて、高雄は電話に最後の言葉を告げる。 「それでは愛しい我が息子よ。二番目の秘密をバラされたくなかったらせいぜい頭を使えよ。それじゃ」 ぶちっ。と、無情にも電話は切れた。というより切られた。 「どうして二番目なんですか?」 「一番目は、あいつは死んでも口にしないから」 答えになっていないような気がする。 高雄は本当に楽しそうに電話をポケットに戻す。空を仰ぐと伸びをして、史緒を振り返った。 「毎日、穴蔵生活だからね。たまに外に出なきゃ体が鈍るよ」 それは篤志を脅していることの理由になるのか分からなかったが、とりあえず一つ、史緒は分かっていることを確認する。 「高雄さん、相変わらず篤志が可愛いんですね」 「やっぱ分かる?」 「本人も分かってるんじゃないですか?」 「それは可愛くないな」 高雄が真剣な顔で言うので、史緒は堪えきれずにくすくすと笑いだした。 「相変わらずですね、高雄さん」 「人間、そう簡単には変わらないよ。───…君の父親もね」 すっと真顔に戻り、史緒は刺すような視線で高雄を見据えた。 「この間、政徳がうちに来たよ」 「!」 今日はそのことを言いにいたんだ、と高雄は言った。 史緒が一番苦手とするネタであることは知っていた。 「まぁ、察しは付いただろうけど、例の話」 「ご迷惑おかけして……申し訳有りません」 史緒は押さえつけるような声で、深々と頭を下げた。 まったく、と高雄は嘆息する。 これが17の少女の姿だろうか。 「今の状況を見ると、君が三人兄弟の末っ子だなんて信じられないよな」 一見、この場に関係の無い内容に聞こえる発言だが、核心を突かれたかのように史緒は黙り込んでしまった。 「……」 「櫻と亨か。…司くんも篤志も、『亨』という名前さえ知らないんだよな。史緒ちゃんは二人兄弟だと思い込んでるんだろ」 「ええ。たぶん」 「意図的に隠してたりする?」 「わざわざ話す必要もないでしょう。今は居ない人のことなんて」 「確かに」 史緒の母親・阿達咲子には子供が3人いた。一人は昔、幼くして事故で亡くなり、数年後に咲子は病死した。そして2年前───阿達櫻も死んだ。 それぞれに、史緒は様々な受け止め方をしてきた。篤志や司に支えられてきた。ただあの2人にさえ、史緒はもう一人の兄のことを話したことは一度もなかった。 史緒の両親と同世代であり縁戚である高雄が知っているのは当然だが、高雄が篤志に教えていないのは意外だ。 「あの双子はもういない。残ったのは君だけだ」 高雄はそんなことを言う。史緒は眉をしかめた。 瞬間的な怒りを、必死に堪えた。 「……だから、父の言う通りにしろっていうんですか」 高雄は振り返り、困ったような表情で苦笑した。 「違うよ。だからこそ君は、幸せにならなきゃいけないってことさ」 「───…」 反射的に顔を上げ、史緒は高雄に目を向ける。 高雄はその視線を受け止め、言葉を続けた。 「ただ逃げたい、というのは理由にならないよ。君は君のやりたいことを実行する為に、あの家から逃げなければね」 目的がすり替わってはいないか。見失ってはいないか。 本当に自分の目的を理解しているか、また、その手段を考えているか。 高雄はいつも笑顔で、重い課題を平然と押し付けてくる。 史緒はそれが少し苦手だ。ご進言承っておきます、と口走りそうになったが留まることができた。浅はかな嫌味は自分を陥れるだけだ。 代わりに思い付いたことを訊いた。自分らしくない質問だと、分かっていたけど。 「高雄さんは、いつ頃から作家になりたいと思ってたんですか?」 史緒の台詞が意外だったのか、高雄は目を丸くした。少しの間の後、苦笑して、 「俺の昔の夢は作家じゃなかったな」 と、言った。 「じゃあ…」 「じゃあ、史緒ちゃんは、お嫁さんになりたいと思わなかった?」 高雄は真顔だった。史緒は即答することができる。 「考えたこともありません」 「俺は思ったよ。大人になったら、好きな女性と恋愛して、結婚して、子供を育てたかった」 「……」 史緒は不可解な視線を、そのまま高雄に向けてしまった。 高雄は目を合わせていなかったが史緒がどんな表情をしているか想像はつく。 多分、史緒には理解できないだろう。そういう思想があることさえ、受け止めるのに時間が必要なのではないだろうか。 (このへんは、昔の史緒ちゃんと変わってないなぁ) あの馬鹿息子は何をやってるんだ。 高雄は楽しそうに笑った。 史緒は腕時計に目を落とす。 (そろそろ30分……か) 長いとも言えないが、彼らの居る位置と現在の位置間を考えると短いとも言えない。 史緒は顔を上げた。 「高雄さん。そろそろ戻ります。これ以上は、本気で心配かけるから」 月曜館とこの場所の距離はさほど離れていない。この時間経ってもここへ来ないということは見当違いな場所へ向かっているのだろう。だけどそれは彼らのせいではない。無駄な心配もかけたくない。 「おやおや。史緒ちゃんは意外とあいつらを過小評価してるんだなぁ」 「え?」 くすくすと笑う高雄の横顔に見入った。 「そもそもあのヒントは司くんへのものだったんだろう?」 篤志は気付いてなかったからな、となかなか侮れないことを言う。 「確かにそうですけど。……ヒントと言えるほどのことでもありません」 あれだけの言葉で分かるほうがおかしい。でも、あの時思い付いたのはあの言葉だけだった。 分かるはずない。 司はここまで来れないはずだ。 「最後まで期待できないのも、弱さだ。憶えておくといい」 「…」 「まぁ、見ていなさい───」 確信の笑みを見せる。 そしてその時。 ばんっと、背後のドアが勢いよく開いた。 (───っ!!) 見開いた目の先で、高雄は目を細めて笑う。 「君の居場所を見つけられないほどの馬鹿じゃないよ、あの2人は」 史緒は振り返れなかった。 ただ、誰かがこの場に来たということに驚いて。 満足そうな高雄の表情から、目を離せなかった。 「お父さんっ!!」 そんな声が響く。 「よお、馬鹿息子。元気にしてたか? 司くんはどうした」 「後から来ます。それよりっ、…どういうことですか、一体」 よく知っている声と気配が後ろから近付いてきて、少しの風とともに史緒のすぐ横を追い越した。 その人影は大またでせっかちに高雄に近寄ると、途切れないくらいの苦情をぶつけている。 史緒は未だ、一歩も動けなかった。目を丸くして、その場に立ち尽くしていた。 史緒は微かな期待さえしてなかった。それなのに。 (どうして?) そんな言葉ばかりが頭の中を回っている。 どうして…。 「どういうことって、誘拐だよ、ってさっきも答えたじゃないか」 「暇つぶしに史緒を引っ張り出すのはやめてくださいっ」 「だっておまえは、家に顔出せって言っても聞かないし、つまらないだろ」 「だからって俺らで遊ばないでくださいよ」 目の前で展開する親子の会話を聞いても、史緒は言葉を挟めずにいる。 そうこうしているうちに、出入り口からもう一人、七瀬司が現われた。 「お久しぶりです。高雄さん」 いつもと同じ、のんびりした足取りで近づく。 史緒はやっと、振りかえることができた。 「司…」 「面白いことやってるね、史緒」 いつもの笑顔で、笑う。 「どうして分かったの?」 史緒はやっと、訊くことができた。 「何が?」 「何が…って」 「僕らがたったあれだけのヒントでこの場所に来れたこと? その前に史緒の何気ないヒントに気付いたこと?」 史緒は言葉を失った。やはり気付いていたのだ。 「…両方よっ」 「この場所に気付いたのは、勿論、史緒からのヒントがあったからだよ。篤志は分からなかったみたいだけど、史緒が電話に代わったとき何て言っていたかを全部教えてもらったんだ。それで分かった」 いい天気ね。風が強いけど。……すごい音 「───憶えてたの?」 「お互いさま。あの台詞を、この場所で、昔、言ったのは僕のほうだよ」 2年前。二人が初めてこの場所に立ったときのことだ。 たったそれだけの、ほんの些細な言葉を、二人とも憶えていた。 「何気ないヒントにどうして気付いたのかっていうのは、もっと簡単。君は天気やそれについて感じたことを口に出す人じゃないからね。言外に伝えたいことがある台詞だと気付くのは難しくなかった」 自分のことをそのように評されて史緒は笑った。 確かにそれは、自分のことをよく分かっている人間の言い分だろう。 「……あまり褒められてる気はしないわね」 「褒めてるつもりはないよ」 絶妙な受け答えで、これにも史緒は笑ってしまった。 目の前では、高雄と篤志の仲の良い(?)やりとりがまだ続いている。この勢いだと、実際に手が出るところまでいくかもしれない。 その言い合いの合間に、司はそっと、史緒に囁いた。 「伊達に長く付き合ってるわけじゃないよ。僕も、篤志もね」 「…ありがとう」 意識せず、史緒は呟いていた。 「お礼、言われるところじゃないと思うけど」 「素直に受け取っておいてよ」 史緒のふくれた横顔に顔を向けることはしなかったけれど、司は笑って答えた。じゃあ、と息を吸ってから言う。 「どういたしまして」 青い空が、本当にきれいだった。 長く、一緒に居られたらいい。 別れが来るなど、思わずに。 |
19話「青嵐」 END |
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