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18話「4月の丘」


「幸せになってね。───…」








 島田三佳は一人部屋の中で、その室内を見渡していた。朝、9時のこと。
 部屋と言っても、ここは少し広めのキッチン。テーブルに据えられた椅子に腰をかけ、三佳は膝を抱えている。
 視線を落とすと、少しくすんだ───けれど塵ひとつ無い───床。敷物の類は一切無い。壁際にはわずかな食器が収められている棚と、冷蔵庫、その上には電子レンジ。それらの間の壁には何も貼られていない。白い壁が見えているだけだ。
 先程まで三佳が立っていたシンクには、今は水滴一つ残っていない。きれいに片づけたから。ただ、調理台の上にはコーヒーメーカーがまだ湯気をたてている。これも、三佳はすぐに片づけるつもりだ。テーブルの上の、コーヒーカップが空になってから。
 目の前のテーブルの上には、カップがひとつ。それ以外に何もない。このカップは三佳専用であるが、この部屋は三佳の家ではない。
 椅子は2つだけ。一瞬、大勢の来客があったときどうするのだろうと考えた。すぐにその想像はやめた。あまり意味の無いことだから。
 けれど、三佳自身、他の誰かと一緒にこの部屋を訪れたことは、無い。
 この潔癖なまでに片づけられた部屋に。
 移動した物は元の場所に戻す───それが、この部屋を出入りする者の最低限のルールだった。
 何故なら、この部屋の主にとって、すべてものの位置に意味があるからだ。彼にとって世界で唯一この部屋だけが、神経を張り詰めさせずに行動できる場所だから。
 突発の危険や不安の無い、そう信じることができる場所。いつも、彼の何気ない笑顔の裏でさえ、頭の中では常にその環境を把握する為に計算が行われているのに、この部屋ではそれも無い。物の位置が常に一定で、それら全てが頭の中に描き出されているから。そんな奇跡の場所だから。
 その安定性、安全性を一度でも覆したら、彼は安らぎの場所を失うだろう。
 三佳はそれをよく分かっている。
 部屋の見渡しついでに、三佳はあるものに目を止めて、軽く笑った。
 それは壁にかけられた時計だった。これは初めてここへ訪れたときには無かったものだ。いつのまにか、そこに取り付けられていた。他にもある。カレンダーと、鏡、そして照明具。これらはすべて、この部屋の主である彼には必要無いものである。
 何も言ってないし、何も言わないのに、一つ二つと増えてゆき、その度に三佳は彼の気遣いに嬉しくなった。

「三佳、どう? おかしくない?」
 引き戸が開いて、この部屋の主───七瀬司が顔を出した。珍しく正装である。黒いスーツを着て、紺色のネクタイを締めた襟を息苦しそうに指で整え、三佳の前に立つ。つまりは喪服だ。十代の彼には、やはり少々野暮ったさを感じる格好だった。
 三佳は膝を抱えていた腕を解いて椅子から降りると、司の元へ近寄る。
「ネクタイ、曲がってる」
「あ、そう?」
 司は自然に腰を屈めて、三佳は自然に腕を伸ばし、司の襟元を整えた。手早くすませて、ぽん、と軽く肩を叩く。立ち上がりざまに司はありがとと短く言った。
 2人は向かい合いの椅子に腰掛けた。司は空振りせずに椅子の背を掴んだし、座る角度も深さも戸惑うことはなかった。
「他の支度は?」
「うん、完了。───あ、コーヒー飲んでる? 一口ちょうだい」
「新しいのいれるけど」
「いいよ、そろそろ篤志が向かえにくるから」
 三佳からカップを受け取ると、司はそれに口をつけた。そしてふと思い出したように言う。
「朝御飯ありがとう。おいしかったよ」
「どういたしまして」
 いつものように平然と受け答えする三佳だが、おいしかったと言われて悪い気はしない。特に司相手なら。
「史緒に恨まれるかな」
 三佳の同居人である人物の名前が出る。阿達史緒が家事全般苦手なことも、2人の同居生活で三佳がそれを担っていることも司は知っていた。
 今朝7時、三佳は食材を抱えて司の部屋へやってきて朝食を作り司に食べさせた。三佳も一緒に朝食を摂った。すると、史緒はどうしているのだろう。
 三佳はつまらなそうに答えた。
「あいつなら朝早く出かけた。礼服だったから、目的は同じなんだろ」
 合点がいったように、司はああ、と呟いた。
 そのとき、司の携帯電話が鳴った。曲目は「きらきら星」。篤志だ、と司は呟いた。
 懐から携帯電話を取り出し、ボタンを押す。
「もしもし。おはよう」
『はよっス。今、アパートの下に来てる。一条さんも一緒だ』
「分かった。すぐ行くよ」
 司はそれだけで会話を終わらせて、ぱちんと電話を折り、慣れた手付きで懐に仕舞う。
 司が電話を終わらせる前に、三佳はすでに立ちあがっていた。帰り支度を始めるためだ。
「三佳? 君はどうする?」
「帰る。今日は洗濯日和だ」
「所帯染みた台詞だね」
「史緒のせいだろ」
 玄関口で司は脇に置いてあるサングラスと白い細身の杖を持った。
 三佳は、彼がそれを持ち歩くことを煩わしく思っていることを知っている。
「これはパフォーマンスだよ」
 と、司は言ったことがある。
 慣れていない場所で、司は自由に活動できない。
 誰かに手を引いてもらわなければならないし、見知らぬ人の善意に頼らなければならないこともある。
「自分は障害者だと、アピールしなければならないこともあるんだ」
 不本意だけどね、と笑う。これは、障害者として見られるのが嫌なのではなく、単に彼は自分の能力に自信があるのだ。
 2人は靴を履いて玄関の外に出た。司が鍵を締め、歩き出す。
 三佳は手を貸さなかった。玄関を一歩出た瞬間から、司が気を引き締めるのが分かったけど、ここはまだ司の活動範囲内だから。
 このアパートは4階建で、司の部屋は2階にある。エレベーターはない。司はいつも、一階ぶんの階段を昇り降りしなければならなかった。本人はそんなことを気にも止めていないようだが、三佳は司が階段を歩くときは声をかけないようにしている。
 だから、三佳は、階段に差し掛かる前に司に尋ねた。
「今日は、誰の法事なんだ?」
「阿達咲子さん。史緒のお母さんで、僕もすごく世話になったんだ」
 すぐに答えた司に、へぇ、と三佳は短く答えた。
 2人、階段を降り始めたので三佳はそれ以上何も言わなかった。
(……)
 三佳は内心、自分の堪え性の無さに嫌悪していた。



*  *  *




 階段を降りると、道沿いに停めた車の前に立つ関谷篤志の姿が見えた。
 こちらも喪服で、長身のその肩に、束ねた髪がかかっている姿は何故か面白かった。司みたいに野暮ったさは感じないが、こちらは(三佳の私見を差し引いても)はっきり言って似合ってない。
 篤志は司の隣に並ぶ三佳の見て驚いたようだった。
「何で、おまえが朝っぱらから司んトコにいるんだよ」
「余計な世話。私の勝手だ」
 いつものことだが、三佳と篤志はあまり仲が良くない。司は2人の間に立って面白がっている節もあるが、今日は三佳の頭を撫でて、言葉による攻撃を宥めた。
 運転席で笑う人物に気付いたからだろう。
「おはよう、和成さん。迎えに来てくれてありがとう」
 ここではまだ、運転席に座る人物を特定する要因は掴めていなかったが、篤志からの電話で一条和成が一緒だと予告されていたので司は迷い無くその名前を口にした。
 司の挨拶に、停まっていた車の運転席から人が出てきた。篤志よりは背が低い青年、髪を丁寧に撫で付けて、こちらも服装は以下同文。彼は一条和成という。
「おはようございます、司さん。それに三佳さんも、お久しぶりです」
 落ち着いた笑顔で、彼は挨拶をした。
 一条和成は、阿達政徳の───つまり史緒の父親の、秘書、という肩書きを持つ。今年28歳という若さのはずだが、昔は史緒の教育係をしていたこともあるとか。三佳は過去、一度会ったことがあるだけで、この人物の詳細を知らなかった。
 和成と、それから司と篤志。この3人が並んでいる姿は、三佳の目に異様に映る。慣れていないせいも勿論ある。けど、三佳が司たちと出会うずっと前から、この3人が知り合いだったことを考えると、一種、不思議な感覚に囚われるのだ。
 和成は僅かに膝を折って、三佳に話し掛けた。
「三佳さん。今日は、篤志くんと司さんを、お借りしますね」
「篤志はいいが、司はちゃんと返してくれ」
 真顔で三佳が言うと、和成は軽く吹き出して、了解しました、と答えた。
 司と篤志が後部席に乗り込む。和成も運転席に収まり、エンジンをかける。司はそれを待って、窓を開け、顔を覗かせた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「…行ってらっしゃい」
 視線を交わすなんて成立しないはずなのに、そんな気になって、三佳は司に微笑みかけた。
 車は大通りのほうへ、走っていった。
 それを見送って、三佳も、A.CO.の事務所へと歩き出す。
 太陽が高くに上がっていて、気温が上昇しているのが分かった。もう、春なのだ。
 近くの公園では、桜の木が芽を大きくさせていた。
(史緒の母親は、こんな季節に亡くなったわけか)
 と、口には絶対しないことを考えた。
 そして、先程見送った車の消え様を思い出した。
 三佳は分かっている。
 自分が入り込めない一線があることは、よく分かっているのだ。
 史緒と篤志と司。彼ら3人の間に、その過去に。その、関係に。
 だから三佳は、必要以上に知ろうと思わないように注意している。
 でも司は、三佳が尋ねれば、ある程度は答えてくれる。
 それが一番怖い。自分が咄嗟に尋ねてしまうことが怖い。司が正直に答えてくれてしまうのが怖い。
 三佳は分かっている。
 自分が誰より司の近くにいられるのは、自分が司の過去を知らないからだと。
 分かって、いるのだ。





 車が走り出してからも、先程の三佳の発言が面白かったのか、和成はくすくすと笑っていた。
 和成は阿達政徳の秘書で運転手という肩書きは無いが、慣れた様子でハンドルを操作し、車を第一京浜に滑り込ませた。
「面白い人ですね」
 と、ミラー越しに話しかける。司は軽く笑って、
「冗談じゃなく、あれは本気なんだよ」
 と、言った。
「オイ、おまえが言うか」
 と、隣からは苦々しい篤志の言。2人の会話を聞いて、さらに和成は笑った。それが収まった後で。
「───史緒さんは、今年もサボりですか」
 と、誰にともなく尋ねる。答えたのは司だった。
「うん。朝早く出かけたらしいから、葉山に向かったんだと思う」
「例年通りだな」
 毎年、阿達咲子の法事は、この季節、東京都内の某寺で行われる。集まるのは阿達政徳と、ADACHIの幹部数名、親戚筋、知人など。決して数は多くないが、顔ぶれは層々たるものだ。そしてこれは毎年親戚筋から非難されていることだが、毎年この日に、阿達咲子の子供が出席したことは一度もない。
「今日、蘭は?」
 司は篤志に尋ねる。
「空港経由で先に行ってるはずだ。蓮家からも何人か来るらしい。…まさかあのじーさん、来日するつもりじゃないだろうな」
「それはないよ。もしそうだったら、もっと大騒ぎになってるだろうし」
 司の言うことはもっともで、蓮家の総帥が来日するなどということになったら、世界の報道が黙っていないだろう。川口蘭の父親は、そういう人物なのだ。
 運転席から和成が口を挟んだ。
「今日は、篤志くんのご両親もいらっしゃるそうですよ?」
「え。…あ、そうか」
 一瞬だけ驚いて、でも結局篤志は納得した。
「そうだよな。…それを言うなら、今日、俺が出席する理由は何なんだろうな。俺は咲子さんと面識無いんだけど」
 皮肉めかして、篤志は失笑する。
 確かに、篤志の父親は阿達の遠縁にあたり、阿達咲子とは何度か面識があったようだが、篤志自身は一度も彼女に会ったことはない。今日という日に参加するには、理由が不透明なようだが。
 運転席では和成が控えめに意見した。
「それは…しょうがないですよ」
「そうそう。阿達の一人娘の婚約者なんだから」
 司は遠慮がなかった。篤志は少し不機嫌になって吐き捨てた。
「冗談じゃない」
 うんざり、という言葉が伝わってくる。
 阿達家のこのへんの事情は司もよく知っていた。
 史緒の実父である阿達政徳は「ADACHI」という商標といくつかのブランドを持つ総合商社の代表取締役社長で事実上のトップである。一代で築いたそのグループは、90年代の経済不況に揺らぐこともなく、現在に至っても日本経済の柱の一つだった。
 阿達政徳は突然ある日を境に、篤志と史緒にその財産を継がせると発表した。
 周囲の反応は様々だったが、史緒は激昂して家を出て、篤志は適当に躱しながら今日まで来ている。
 問題なのは、その日から2年経つというのに、阿達政徳が一向に諦める気配を見せないということだ。そしてこの静かなる騒動が収まらない原因の一つを、司は感じ取っていた。
「…いくつかあるけど、篤志がはっきり断らないのも問題だと思うよ。僕は」
 いくぶん声のトーンを落として言った。
 関谷篤志への引継は公式に発表されたものだが、本人には全くその気がない。しかし篤志ははっきりと拒否したことは無かった。だからADACHI側も期待を削がれているつもりはないだろう。発表を取り下げないのは当然かもしれない。
 司の言葉に篤志は気を悪くした様子はなかった。
「今、俺が断ったって、あの人は別の人材を探すだけだ。今と何か変わるわけじゃない。それは俺達の望む生活ではないだろう?」
 結局は史緒は引き戻されることになる。それは何の解決にもならない。
 篤志がアダチの後継に選ばれたのは、ほんの少しの理由しかない。まず適当な年齢で、それなりの学歴で(卒業はしていないが)、それからほんの少しの、血の繋がり。
 馬鹿げたことだと、篤志も史緒も思っている。
 篤志が「俺達」という言葉を使った言外の意は司にも伝わっていた。
「史緒がA.CO.を立ち上げてから2年か。…早かったね」
 微かに笑う。言いにくい話題でも無いのに何故か喉が渇いた。
 2年という月日が長かったか短かったかは分からない。
 でも早かったことは分かる。
 今よりもっと堅物だった史緒が、声を震わせて頭を下げた。一緒に来て欲しいと言った。多分、あんな風に人に頼るなんてことは、彼女にとって後には数少なく、先には例がないのではないだろうか。
 篤志は断らないだろうと分かっていたし、司自身、この2人が居ないあの家に興味がなかったから。
 こうして、ここまで来た。

「お2人とも、社長の秘書である私の前で、そう無防備に会話しないでいただけませんか」
 和成が困ったように笑った。同じ車中にいるのだから発言は筒抜けだ。ADACHIの後継問題など、また、それの裏情報など簡単に口にして欲しくはない。
「あんたは別。立場が曖昧だからな」
 意外に思うほど、篤志は腕を組んではっきりと言った。司もそれに対し、特に意見しなかった。
 和成は声色を変えずに聞き返す。
「何故? 私はいつでも、社長側の人間です」
 篤志はそれに対し、何も答えなかった。司は微かな笑みを浮かべただけで、何も言おうとはしなかった。


 車が目的地に滑り込んだとき、司は和成に尋ねた。
「和成さん。今日、一研の関係者は来ないんだよね?」
「───ええ。その予定はありません」
 和成は司の質問の意味を分かっている。
 そして、篤志も分かっていた。
「…おまえも、いい加減引っ張るね」
 声だけで笑って、篤志は肩を揺らした。
「余計なお世話だよ。篤志」
 司は、笑っていなかった。
 窓の外では車の音に、阿達政徳が振り返ったところだった。






 阿達本家は東京23区内、さして高級でもない住宅街にささやかな面積で建てられている。
 古くもないし、豪勢な造りでもない。特に目立つこともない一軒家だ。
 門柱には一応「阿達」と記されているが、この家をADACHIの社長宅と思う人はきっといないだろう。 
 その代わり、というわけでもないが、阿達政徳は東京都内にいくつかのマンションを所有している。本人はそれらを点々とし、前述した家には滅多に帰らずにいる生活が、もう何年も続いている。他にも、税金対策で購入した別荘が日本中にある。家一件購入するのに齷齪働くサラリーマンには信じ難い話かもしれないが、こういった金持ちも確かに存在するのだ。
 そのうちの一つがある葉山に、今日、阿達史緒は訪れていた。


 花束は百合。
 石碑の前にそれを手向けると、史緒は黙祷した。手は合わせなかった。
 そこは砂利の林道を抜けた、人口芝の空間。遠くには人家も見えるが、これだけ自然に囲まれた場所を、史緒は他に知らない。上を見上げると緑の間に青空が覗き、太陽の光が射していた。
 ここは阿達家が所有する土地で、こじんまりとした別荘の、裏手の小高い丘を10分程歩くと辿り着く。
 今日───阿達咲子の命日には必ず東京で法事が行われるが、史緒は一度も出席したことがなかった。あえて尋ねたことはないが、篤志と司と蘭は、きっと顔を出しているのだろう。勿論、一条和成も。
 その日には、史緒は毎年、ここへ訪れている。彼女が好きだった花を持ち、彼女に、祈るために。
 阿達咲子はここに眠っているのだ。
 生前の咲子がそれを望んだとき、意外にも阿達政徳はすぐに頷いていた。咲子が亡くなったのは今から5年前のことだが、この両親の関係を、史緒は最後まで理解することができなかった。
「……」
 芝の上に座り込み、史緒は石碑にもたれた。
 目を閉じると、とたんに世界が広がるのを感じた。鳥のさえずりと、葉擦れの音が耳に触れてくる。
 日が暖かい。
 史緒、と。聞こえた気がした。分かってる。
 大丈夫。
 悲しみに溺れることはもう、ない。
 今はもう、色々なことを教えてくれたあなたに、感謝するだけだから。

「ごめんね、もう二度と会えないね」
 私を抱き締めて、咲子さんは言った。白い部屋で。
 いつも彼女が佇むベッドに私は腰をかけて、ただ、その力強さに驚いていた。彼女の細すぎる腕に、こんな力があるなんて思ってなかった。彼女は笑っていたけれど、その手が震えていたのを、今も覚えている。
「人と離れる悲しみを、史緒はもう知ってるでしょ? 悲しいのは辛いよね、…すごく、苦しいよね。ただ忘れないで、史緒には友達がいっぱいいるってこと。和くんも蘭ちゃんも、司くんも、ネコも、史緒の傍に居てくれてるでしょ?」
 咲子さんは私の肩を離し、微笑みかけた。
「あたしも、史緒の友達になれて良かった」
 優しい光の中で笑う。咲子さんは泣いていただろうか。
 それとも、私が泣いていたのだろうか。
 お願いだから、勝手なことは言わないで欲しい。
「幸せになってね。───…史緒」



 咲子さんは多分、私のことを何も知らなかった。
 私が見てきたもの、愛していたもの、憎んでいたもの。ずっと、抱えてきたもの。…そういう意味では、一条和成のほうが私を理解していたのだろう。
 でも、だからこそ、純粋に、私という存在を、愛してくれていたのだ。

 木陰を通り抜けてきたやわらかな風が、史緒の頬を撫でた。
 史緒は立ち止まり、振りかえる。新緑が息づく森林の中、日の光が眩しく輝いている。清々しい空気を胸に吸い込み、史緒は考えた。
 東京へ帰ったら、何しよう。
 そんな些細な、日常のことを。
 三佳は家にいるだろうか。篤志と司と蘭は今日は遅いだろうし、祥子は引越しの片づけが忙しいみたいで、健太郎は部活の新入生獲得に活き込んでると言っていた。
 史緒は目の前の風景に、眩しそうに目を細めた。
「…」
 数秒の後、史緒は踵を返し、その場を後にした。
 二度と振り返らなかった。




(どうして───…)
 怒りにも似た感情がある。
 時が経つにつれそれは収まってきたけれど。ほんとうに時折、胸の中で暴れだす。
 怒りと悲しみは、限りなく似ているのだから。





 どうして、勝手なことばかり。
 無責任に願い、そして微笑む。

 幸せになってねと笑った友達が居なくなった場所で、どうして私が幸せになれると。

 あなたは、思うのだろう。







18話「4月の丘」  END
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