16話/17話/18話
17話「GirlMeetsGirl 後編」


 1998年2月───。

 どういうわけだがさっぱり判らないのだけど。心当たりもないし、はっきり言って迷惑なんだけど。
 三高祥子はいつも通りの学校帰り、いつも通りじゃない胸中で気分が沈んでいた。
 放課後、祥子はいつも通り校門を出た。歩いて10分の駅から電車に乗り、3つめの駅で乗り換えて、さらに5つめの駅で降りる。母・和子の入院する病院はその駅から歩いて5分。そこで30分ほど見舞って、また駅へ。
 そしてまた。
(つけられてる…、私)
 それは疑問じゃない。推測でもないし、気のせいでもない。確信。
 学校を出たときから、誰かがついてきてる。ずっと。病院を出た後も。
(誰? どうして?)
 これは疑問。学校を出た後は、どう対応しようか迷ったこともあり放っておいたが、病院を出た後もまだ付いてきているというのはある意味異常だ。祥子は背筋が寒くなった。
 当然だけど、付けられるような覚えは全くない。一番、考えられる可能性は変質者。想像したくもないけど、そういう人間に狙われる対象には絶対なりたくない。あとは、かなりの希望的観測で忘れ物を持ってきてくれたクラスメイトとか(そんな仲のクラスメイトはいないけど)、落とし物を持ってきてくれた親切な人とか。
 このまま家に帰るわけにはいかない。
 咄嗟にそう思って、祥子は背後を窺った。どこにいるかは判らない、誰かは判らないけれど、いる。それは判る。
 もう駅まで歩いてきていた。人通りが多く、何となく安心した。
 撒くならここしかない。
 祥子は歩く速度を落として、引きつけさせた。追ってくる人間との間を詰めさせた。
 広告看板を大きく掲げている柱が目の前にある。祥子はその柱の影に、ひょいと身をひそめた。
「……」
 わざとらしかったのは判ってる。でも気づかれないように追ってきているなら、ここで一緒に立ち止まる愚挙はしないだろう。追い越された瞬間に柱の対角へ逃げてやりすごそう、と祥子は思っていた。
 そして案の定、祥子を尾行していた気配がすぐ横を追い越していった。本当にすぐ横を通っていったので、祥子はその人物を特定することができた。
「───っ」
 祥子はついてきていた人間の後ろ姿を見て驚いた。その後ろ姿は背中まで髪を伸ばした女の子だった。
 多分、自分と同じくらいの年代だろう。
 その意外さにびっくりした。
 そして考えるより先に体が動いていた。祥子はその後ろ姿を、追った。
 背中を向けるその人物は、つけていることを気づかれないように、わざと、祥子を追い越した。それは祥子の狙い通り。ただ、その後ろ姿は意外だった。人混みを掻き分けて、祥子はその肩を掴んだ。
「ねぇっ」
 長い髪が祥子の手に触れて、その人物は振り返った。笑っていた。何か言われる前に、祥子は言葉を発した。
「何なの? あなた、誰?」
「あ、やっぱり気付いた?」
 と、とくに驚いている様子も見せずに、余裕さえ見える態度で言った。さらに続ける。
「でも良かった。これで三高さんが家までたどり着いたら、私は骨折り損だもの」
 祥子とほぼ同じ高さの視線で、その瞳が不敵に笑った。
 どういうことだろう。学校からついてきていたのは確かにこの子だ。後ろ姿からの見立て通り、祥子と同じくらいの年齢だろう。長い髪が背中まで伸びていて、背筋を伸ばし立っている。
 通路のど真ん中で立ち止まる2人にいくつかの非難の視線が向けられたので端に寄った。
「阿達史緒といいます。───三高祥子さん」
「どうして…」
 名前を知ってるの? みなまで言わないうちに、阿達史緒は続きを口にする。
「12月に一度会ってるんだけど、憶えてない?」
「は?」
 意外な言葉に目を丸くする。
「渋谷の街中で、…たぶん、三高さんは学校帰りだったと思うけど。変な男についていこうとした私を止めてくれて」
 渋谷の街中で、と聞いたとき、やっぱり人違いだと思った。そんなところ、あまり行かないもの。───と考えた途端、わかった。思い出した。
(そうか───…あのときの)
 確かに渋谷の街中なんてめったに行かないけれど、そのめったなときに、出会ったのだ。
 あのときも、さっきみたいに祥子が肩を掴んでいた。
 あからさまに怪しい男についていくのを見かねて声をかけたんだった。そして更に思い出す。
 そうだ。何か変だった、この子。
「どうしてあなたは知ってるの?」
 と豹変した表情。その後、変なのに声かけちゃった、とも思ったんだ。
「…あの、12月に会ったのは覚えてるけど、それでどうして私の名前を知ってるの?」
「調べたの」
「え?」
「おもしろい能力だなーと思って」
 祥子は声を失った。頭からつま先まで、一瞬で血の気が引いたのを感じた。その際、背筋もなめて、体が冷たくなるのが判った。
 史緒は微かな笑みをこちらに向けていた。
「…何のこと?」
 さりげなく言いたかったけど、声がうわずってしまった。
「腹の探り合いはやめましょう。時間の無駄だわ」
 と真顔で言う。
 祥子はどうにか取り乱さないで対面しているが、内心はとんでもない状態になっていた。鼓動があがり、背中は汗をかいていた。(目をつけられた)という、あのときの直感は正しかった。今だって、さっさと逃げればよかったんだ。でもその時機を、完璧に逃してしまった。
「何のことかわかんないって言ってるでしょう? 変なこと言わないで」
 震える声でもどうにか強気な態度を取ることができた。
 すると史緒は小さく声をたてて笑った。
「確かに、私の言い分をここで証明するのは難しいわね。実際私も、ついさっきまでは半信半疑だったもの」
 祥子は理解した。史緒は今日、祥子の能力を確かめに来たんだと。でも今日の、祥子が尾行に気づき、史緒を捕まえたことだけでは、確信するだけの材料としては成り立たないのではないか。
 大体そうだ、史緒がこのちからを正しく理解しているとは限らない。自分から下手に吐いてしまう必要はない。とぼければいいのだ。
 そう、祥子は判断して、
「何かの勘違いなら帰るわ、急ぐから」
 もう何もかも無視して帰ってしまおうと思った。阿達史緒に踵を返す。
 あいかわらずの人混みに紛れてしまおうと思った。バッグを抱えるように持ち、その場から立ち去ろうとした。
「───ねぇ、三高さん」
 そんな呼びかけも無視すると決めていた。
 決めていた。それなのに。
 そのときの自分を呼ぶ声があまりにも凛として、ストレートに響いたので、思わず祥子は足を止めてしまった。
 立ち止まり、振り返ってしまった。
 …どうしてだろう。
 この子とは初めて会ったときから後悔ばかりだ。
 自分が予測できない行動ばかり、私はしている。
 そこで、史緒は笑ってなかった。真摯な表情。真っ直ぐに、祥子を見つめていた。
「三高さん」
 大きくない声で。
「うちに来ない?」
 と、阿達史緒は言った。
「…は?」
 と、祥子は聞き返した。
 史緒の言葉はちゃんと聞き取れていた。ただ、その内容を理解することができなかった。
 うちに来ない? と。
 これは単純に家に招待されたということなのだろうか。だったら丁重にお断りしたい。この目の前の人物に危険はないと判っていても、それが祥子にとって良いこととは限らないからだ。
 それともまったく別の意図が。
「はい、これ」
 と、名刺を渡された。思わず受け取ってしまう。
   A.CO.所長 阿達史緒
「…なに、これ」
 そこで史緒はいつもの対外用の笑顔を見せる。
「A.CO.っていうのは、一応事務所の名前。私が所長なの」
「…冗談でしょ?」
「本当よ。便利屋というか…興信所みたいなことをしてるわ。人捜し物探し、個人企業間の仲介や各種調査。ちゃんと行政手続きもしたし、登記簿だってある。信じられないなら見せるけど」
(…本当なんだ)
 そんな、史緒の絶対の自信を持つ表情なんか見なくても、祥子には判る。…ああ、やだ。
 更なる説明をしなくても伝えられたと、阿達史緒は確信している。
 それくらい、私のちからを理解している。
 手が汗ばんでいることに気付いた。
 目の前の得体の知れない存在に緊張しているのが判った。
「───あなた、何歳なの?」
「16歳。三高さんよりひとつ下ね」
 と、質問の意味をまったく気にしていない様子で答える。
 阿達史緒が自分より年下ということにも驚いたけど(年上だと思ってた)、その年下の彼女が「所長」という肩書きを持つことにはもっと驚いた。
 さらに。
 うちに来ない?
 さきほどのこの発言は、その事務所へ所属することを勧誘されていることに他ならない。
 便利屋、興信所。…何をしているのかわからない胡散臭さは拭い切れないものがある。それに。
「どうして、私を?」
 答えは分かってるはずなのに、あえて尋ねてしまった。分かっていたはずなのに、戸惑いながら。
 それをストレートに答えるほど、彼女は無神経な人間ではないと期待したかった。嫌悪感と思われるこの胸騒ぎを拭い取りたかった。
 期待───?
(やだ…、なに考えてるの、私)
 祥子は頭の奥深くで、微かに、本当に小さな期待を抱いていること、気付いてしまった。
 一度気付いたら耳の奥が熱くなって、頭ぜんぶが熱くなって、自分の愚かさに恥ずかしくなった。
 なんて愚かなんだろう。何度失敗してきた? それなのに。
 この、切り捨てることもできない能力以外のことで、自分を必要としてくれるんじゃないかなんて。
 そんな風に、思ってしまうなんて。
 そんなことを、自分は望んでいるなんて。
 恥ずかしくて、悲しくなった。
 阿達史緒は首を傾げて笑った。───何をいまさら、とでも言うかのように。
「三高さんのそのちから、役に立つと思ったから」
「…っ!」
 カッとなった。想像通りの答えであったにもかかわらず、一瞬で頭に血がのぼった。
 阿達史緒の無神経な台詞に怒りさえ覚えていた。
 怒りというようなこの激しい感情を、他人に向けるのは初めてかもしれなかった。
「…ばっ」
 自分のなかで何か変化したような気がした。それが何かを、今はまだ整理できないけど。
「馬鹿みたいっ。それで私にどんなメリットがあるっていうの!」
 今日会ったばかりの目の前の他人に、その感情をぶつけてもいいんだと思った。だからこのとき、祥子は言葉を飲み込まなかった。飲み込まなくてもいいんだと思った。
「無神経っ馬鹿っ」
 もう何が何だか判らないまま叫んでいた。息が上がっていた。
 耳の奥が今度は冷えていた。目に涙が滲んでいた。
 それが感情の昂ぶりのせいだと、祥子は気付かなかった。


*  *  *

 A.CO.では大抵、尾行は2人で行う。
 理由はいくつかあるが、一番は無理なく確実にターゲットを追えること。
 常に張り付かなくても済むことでターゲットに勘付かれる確率が減る。下手に無理に追わなくてももう一人に任せられることなどがあげられる。
 ───だからこのとき、阿達史緒は単独ではなかった。
「おい史緒」
 三高祥子が走り去った現場に立ち尽くす史緒の背中に、関谷篤志は声をかけた。
「あいつ俺のことも睨んで行ったぞ」
 篤志はついさっき、史緒のもとから去る祥子とすれ違った。その際、祥子ははっと顔をあげて、急に表情を曇らせ、篤志を睨んで行ったのだ。あれは一体なんだったのだろう。
 まさか、史緒の連れだと気付かれたわけではないだろうけど。
「…おい?」
 篤志の呼びかけに史緒は振りかえらない。タイル張りの壁に左手をかけて動かなかった。変に思って、篤志は史緒の正面に回り込む。名前を呼ぼうとしたところ。
「…っ」
 突然、史緒は声をつまらせて上体を屈めた。口元を手で押さえてうつむく。そして。
「あはははっ」
 笑った。声をたてて。
「!」
 篤志は心臓がひっくりかえるほどびっくりした。史緒がこんな風に笑うところを見たのは初めてかもしれない。
 史緒は篤志の袖をつかんで、まだ笑いが収まらないのか肩を震わせている。篤志はその体重を支えた。
「やだ…、おもしろい、あの子」
 その後、なにか弾けたかのように史緒はもう一度声をあげて笑った。
「…」
 篤志は視線を泳がせ、軽く息をついた。
「確かに、今までおまえの周囲にいなかったタイプではあるな」
 でしょぉ? 史緒はまだ笑っている。
 冷静にそんなことを言ってみせたものの、篤志は自分の鼓動が早うちしていることに気付いていた。
 三高祥子。自分が何をしたのか気付いているか? 本気にさせた。もう一度会いたいと言わせた。対面したことのない感性に触れて、おもしろいと言わせた。
 だからなに? と言われてもおかしくないけれど、わからないかもしれないけど、でもこれは驚くべき事なんだ。この人物にとっては。
 そして史緒、おまえも解っているのか? 三高祥子が自分にどんな影響を及ぼす存在か。気付いてないのか、それとも自分自身、変化することを望んでいるのか。
「篤志」
 史緒はもう笑っていなかった。真顔で、真剣な声を発した。
「なに?」
「事後承諾でごめんなさい。私、あの子欲しい。どう思う?」
 今更…、と吐き捨てたくなったがやめた。
 一応は相談される立場であることを自惚れておくことにする。
「作戦でも考えろよ」
 とだけ答えた。追求も反対も、無駄で意味のないことだ。
 すると史緒は篤志の腕から離れて、すぐに踵を返す。
「篤志、先帰ってて」
「どこ行くんだ?」
「病院」
「───何しに?」
 どこか悪いのかと、篤志は心配した。すでに歩き始めていた史緒は振り返り、誤解の無いよう行動の意図を明らかにする。
「根回しよ」
 短くそう言うと、本当に楽しそうに、史緒は笑った。



*  *  *



「───うん、わかった。こっちもとくに仕事の連絡はないよ、…うん、じゃあ」
 A.CO.の事務所。七瀬司と島田三佳は今日は留守番を言いつけられていた。
 史緒の机の上の電話が鳴り、司が受話器を取るとそれは関谷篤志からの連絡で、今日の用事は一段落したことを告げた。それから史緒が史緒らしくなく、仕事を放ってどこかへ出かけ、今日は遅くなるらしいことも。
 そして最後に、史緒が例の女子高生・三高祥子をA.CO.に入れようと画策していることも。
「まぁ、こうなることは予測できてたかな」
 そのことについて司は驚かなかった。受話器を置きながら、そんな風に呟く。
 史緒が素早く行動に出たということは三高祥子のちからを確信できたからだろう。───もし、祥子がそんなちからを持っていなかったとしたら、一度 目をつけた彼女にどんな理由をこじつけて、史緒は勧誘を試みただろう。それとも、用無しだとあっさり切り捨てただろうか。
 それを考えるのは興味深いものがある。が、今となってはあまり意味がない。
 三高祥子は特別な能力を持っていて、史緒はそれを利用しようと、A.CO.に勧誘している。それが事実であり結果であり現実である。 
 史緒のワンマンも今に始まったことじゃない。あとは成り行きを見守るだけだ。
「私はまだ半信半疑だけどな」
 と、三佳が言う。
「そんなちからが存在すると思い込んでいる史緒がそう判断したなら、それは納得する材料にはならない。…第一、もし本当にそんな能力が三高祥子にあるなら、それこそ史緒が嫌がりそうな能力じゃないか」
 と、かなり説得力のある三佳の発言を聞いて司は苦笑した。
「三佳は科学者肌だから、見たものしか信じないのはわかるよ」
「証明したものしか信じないんだ」
「はは、それは失礼」
 まぁ、でも、と司は真顔になって、
「史緒が構わないって言うくらいなら、三高祥子の能力は僕らには無害なんじゃないかな」
 と、言った。すごい発言だが、三佳は別段動じる様子もない。
「史緒を基準に測られてもな」
「ワーストケースを想定する基準にはなるだろ?」
「…それはそうか」
 ふむ、と結局は三佳も納得する。
 三高祥子の能力は…本当にそんなちからがあるのだとしたら、敬遠したいものだということは容易く想像できる。あまり近付きたくないのは当然といえる。
 しかし、史緒がそれを踏まえても利用価値があると三高祥子を評価しているのなら、一目見てみるのも、一興。
 それでも有害だと思ったときにどんな手段で追い出すか、それはその時に考えるとしよう。



*  *  *

(なにあの子、なにあの子、なにあの子〜)
 三高祥子は電車の手摺りに掴まって、先ほどの、阿達史緒のことを考えていた。怒りにも似た感情が自分のなかで暴れていた。
 うちに来ない? と。
 それが初対面の人間に言う言葉? わかったような顔して、生意気に。
 稚拙な文句しか出てこないが、史緒の印象が最悪だということははっきりしてる。
 帰り際に見かけた背の高い男、あれもきっと便利屋とやらの仲間なのだろう。そして阿達史緒は、祥子も仲間に入れようとしている。しかもそれがいたずらや冷やかしではなく、本気なのだ。
「…」
 そうか、と祥子はふと思い出した。
(そういえば初対面じゃないんだ…)
 12月の街中でのことを、今ははっきりと思い出せる。
 目をつけられた、と感じたことを憶えている。
 名前も何も知らないはずの祥子のことを、史緒はどうやって突きとめたのだろう。その執念深さというかしつこさというか、それを思うと背筋が寒くなった。1ミリも引くつもりが無い敵を前にしたとき、逃げることもできないと思ってしまったとき、こちらはどう対処すればいいというのか。
 さっきだって、「また、来るわ」と言っていた。
(冗談じゃない…)
 妙な人間とは関わり合いたくない。
 電車の窓の外には夜景が、進行方向とは逆に流れてゆく。祥子は遠くのビル群を眺めた。そしてこんな風に思う。この風景のどこかに、阿達史緒と、彼女と一緒に働く仲間がいるのだ、と。
 例え、祥子が史緒と出会わなかったとしてもそれは変わらない事実なのだが、その存在を意識した途端にそんな風に考えてしまう。出会いというのは不思議なものだ。
(は…っ、ちょっと待って)
 と、さらに祥子は思い立った。
(よく考えれば、12月、最初に声かけたのって私のほうだ)
 それに気づくと、どどーんと気持ちが重くなった。手摺りに体重をかけてうなだれてしまう。
 もしかしてこれは自業自得というやつだろうか。
 あのとき祥子はまったくの善意で声をかけた。それがこんな結果を招くことになるなんて。
 はあぁぁ、と大きな溜め息をつく。
《三高さんのそのちから、役に立つと思ったから》
 ぬけぬけと言ってくれる。はっきり言ってあの言われ方には猛烈に腹が立った。
 どうして利用されてあげなきゃいけない? あの生意気で無神経で態度でかい、年下の子に。
 あの年で「所長」という肩書きを持つなんて、一体何者なんだろう。背の高い男は史緒よりは年上に見えたけどそれだってそこそこ20代前半だ。他の仲間たちは? 便利屋なんて胡散臭いこと、目的は何なんだろう?
「!」
 そこまで考えて祥子は乱暴に首を左右に振った。
(やめてよ、興味なんか持ちたくない)
 突然の祥子の首振りに、電車の周囲の乗客は不振げな視線を向けた。祥子はそれに気づき、気まずそうに首を縮込ませる。少し恥ずかしい。
 …どんなことやってる事務所なんだろう。
「───…っ!」
 はっ、と祥子は目を見開いた。すとん、と、頭のなかに降り立った発見。
《三高さんのそのちから、役に立つと思ったから》
 役に立つ? このちからが。
 ───それは、いつも願っていたことではなかったか。
 祥子は息を飲んだ。急に目の前が開けたような錯覚があった。
「…」
 使いみちを探していた。何かのためにあるのだと思いたかった。
 役立たずなんかじゃない? この能力も、…私も。
 何かできるのだろうか。阿達史緒はそれを見込んでいるのだろうか。
 役立てられることを望みながらも、今までこのちからを隠すことばかり考えていた。そしてその矛盾に気づきながらもそこから抜け出せずに、ずっと立ち止まっていた。
 ポケットから阿達史緒の名刺を取り出す。
(…)
 便利屋というか興信所みたいなこと…って言ってた。
 いろいろと思考を巡らせながらも、祥子はある結論たどり着いた。
「───でも」
 くしゃ、と名刺が手のひらの中でゆがむ。
 自分に言い聞かせるように、強く思う。
(史緒の、人を見下したような態度は我慢できないわ)
 ふん、と息をついて、手のひらの中の名刺はまたもポケットに放り込まれた。


 そこまで思考が働いていながらも祥子は気づいていなかった。
 阿達史緒が祥子のちからを受け止めていたことに。

 同日、夜。
 史緒はいつも通り、やりかけの仕事のデータを自室のパソコンに移植し残務作業を行っていた。
 史緒の部屋は事務所の上、4階の一番奥にある。ひとつ手前は三佳の部屋で、まだ起きている気配がする。一緒に住んでいると言っても、始終顔を合わせているわけではないのでお互いがお互いの部屋にこもっているのはあまり珍しいことじゃない。
(隣りにいるということは、実験をやっているわけじゃないのか)
 と、それくらいには気にかけながら。
 三佳と暮らし始めて3ヶ月経ったころ、史緒は三佳に、自室への実験器具の持ち込みを禁止した。何故かというとどこから入手してくるのか、三佳はビーカーや試験管、試験紙やガスバーナーまで持ち込んできたからだ。峰倉薬業でアルバイトするようになってからは褐色瓶の薬品がごろごろするようになって、さすがに史緒は一言口出しした。三佳の知識を信用しているが隣の部屋でこんなものを扱われては気が気ではない。
 そういうわけで、今は5階の空き部屋を実験室として使用している。
 蛇足であるが、三佳が薬研を購入してきたことがあった。史緒は「そんなものまで使うの?」とびっくりしたが、これはインテリアだという。(薬研とは、漢方医学で製薬に用いる金属製の器具で、細長い舟形で、中にV字形のくぼみがあり、これに薬種をいれて、軸のついた円板系の車で押し砕くもの)
 その三佳は、この家の家事全般を担っているが、史緒の部屋だけは立ち入り禁止だった。そのことについて三佳は「ま、プライバシーだし」と、あまり気にしていない。
 そしてその部屋の主である史緒は今日、自室のパソコンの前に座りながらも、あまり仕事がはかどっていないことを自覚していた。
 部屋のなかには壁一面を埋める本棚とパソコン机、ベッドとクローゼット。装飾品の類は一切無く、カレンダーも書き込みなし、コンポもなければテレビもない。十代女性の部屋とは思えない内容であることは間違いないだろう。
「…ええ、見つけたの。例の子。今日、会って来たわ」
 ベッドの傍らのキャビネットに置かれている電話から線をひっぱって、史緒は今、電話中だった。パソコンの前に座りながら作業が捗っていないのはそのためだ。
『で? どうだった?』
「なにが?」
『期待はずれとか思わなかった? 本音言うと、史緒の直感がコケるところ、一度は見てみたーいって思ってたから』
「残念でした。期待以上だったわ」
『あそ。でも、真琴は苦労した甲斐があったよねぇ。今回、無茶言ったらしいじゃん』
「どうしてあなたがそれ、知ってるのよ」
『この間の会合でそんな事こぼしてたよん』
「それは嘘」
『なんでさ』
 史緒はクスリと笑った。そんな風に見破られること、当人も判っているくせに。
「真琴くんと文隆さん、あなたのこと嫌いだもの」
 そう。それを口にするほどに。
 大方、真琴が文隆に話しているのを耳にしたというくらいだろう。真琴が直接話したということは絶対にない。
『そーだよねー。文隆は近づこうともしないしぃ。別にいいけど、嫌いじゃないから、そういうの。ねね、それよりどんな子なの? 苦労して見つけたっていう、その女子高生は』
「興味あるの?」
『もちろん、真琴と文隆と、史緒のお仲間と同じように同じくらいには』
「なにそれ」
 含みを持った電話の向こうの声に史緒は不可解さをあらわにした。それにだいたい、電話の相手はA.Co.のメンバーと面識は無いのに。
(…)
 そして史緒は三高祥子のことを考えた。
 自分のこと嫌いみたい。
 自分の居場所を探してるような、孤独。
 でも外と関わっていたい、願望。
 不器用なコミュニケーション。
 おせっかい。
 必死。なにに?
 もがいている。
 もてあましている。自分のもうひとつの感覚器官。
 ───それらすべてひっくるめて、興味深い対象ではある。特に、あのちから。史緒はすでに使い道を見つけていた。
『史緒』
「なに」
『真琴もそうだけど、多分史緒のお仲間も、今回のターゲットのことすごく気にしてる。それが何でだが、わかる?』
「え?」
『それに気づくデリカシーが無いから、頭でっかちなお子サマだってゆーの。史緒は』
「藤子?」
 意味不明の國枝藤子の発言に疑問を返しても、満足に答えをもらえないまま、その日の電話は終わった。



 阿達史緒と初めて会ってから10日目のこと。
 その日、祥子は和子に頼まれたおつかいで、いつもとは違う下校ルートを通っていた。
 病院の最寄りの郵便局に、局留めで和子宛ての荷物が届いているので取ってきて欲しいとのこと。別に初めてのことではないので、祥子は難なく郵便局へたどり着いた。受け取った荷物は小さく、本かなにかだろうか? 鞄に入るサイズなので鞄に入れ、祥子は郵便局を後にした。
 郵便局から病院へは川沿いの道を通る。その途中には土手に沿う広い公園があって、祥子はその中のコンクリートの通りを歩き、病院へ向かっていた。そのときのことだった。
「こんにちは」
 ぽん、と。軽く肩を叩かれた。
 祥子は大声で叫んだ。
 突然のことに驚いたのと、その声の主に驚いたのと。
 振り返らなくても判っていた。背後には阿達史緒が立っていた。
「また…っ」
「考えてくれた?」
 と、いつものように笑う史緒は、強い風に髪をなびかせて、同じく白いコートの裾をなびかせていた。
「冗談じゃないわ」
 迂闊だった。と祥子は思ったけど、それは違ったかもしれない。祥子のいつもの行動パターンには無いこの場所で史緒に捕まったのは、史緒がよほどうまく尾行していたのか、まさかと思うけど単なる偶然か。
 ああ、やっぱり迂闊だったのかもしれない。いつも登下校は注意していたのに、アンテナを張り巡らせていたのに、今日はそれを怠っていたから。
「この間会ったときから、出向くの3回目よ。うまく逃げてるのね」
「何のこと?」
 しらばっくれても、多分史緒にはもう通じない。
 この10日の間、下校時に阿達史緒の気配を感じたことが数回あった。目視で確認したわけではないが、感じるまま、祥子は逃げていた。今日も同じように注意していれば避けられたかもしれないのに。
 でもいつもは人混みの中だから逃げられるのだ。こんな閑散とした、広い公園の中では史緒を撒くことはできないだろう。何にせよ、こんな場所を通ったことと注意不足がこの結果を招いたのだ。祥子は激しく後悔していた。
 それに祥子はもうひとつの気配にも気づいていた。この間も阿達史緒と共にいた長身の男、彼もすぐ近くにいることを祥子は気づいていた。
「この前、言ってたでしょう? うちに入ることで何のメリットがあるのかって」
「…ええ」
「利点ならあると思うわ。…失礼だけど、三高さんのお母様、入院されてるとか。三高さんて今2年生よね、卒業まで丸1年あるわ。入院費とか、生活費とか、心もとないんじゃないかしら」
「本当に失礼よっ! それに余計なお世話だわ、何が言いたいのっ?」
「うちで働いてくれるなら、そういう金銭面の心配はいらないっていうことよ───それに」
 史緒は祥子を指さした。
「そのちから、うまく使うことができるわ」
「───」
 祥子は自分の顔がひきつるのを感じた。まさか史緒は気づいているのだろうか。その言葉が、祥子の心を揺さぶることに。
 昔から。史緒に会うよりずっとずっと以前から、あの夏より遠い子供の頃から。
 このちからが何かの役に立てばいいと思っていた。できれば誰にも気づかれないまま。ずっと願っていた。
 その結果、去年の夏でのようなことが起こったわけ。何の役にも立たない、ひと一人救えない、その無力さに愕然とした。だから本当は、史緒のその誘いの声はとても甘く聞こえる。
 けれど。
 阿達史緒という人格に対する敵愾心がそれを凌駕する。その気持ちが、
「そういう風に、他人に扱われるのも気に入らないわ」
 という言葉になる。史緒は上目遣いで答えた。
「じゃあ、他に何かの役に立つの? それ」
 むかっ、と、よほど吐き捨てそうになった。素直に純粋に頭にきた。
 突然くすっと、史緒は笑った。自分の中の発想がおもしろかったのだが、そこまでは祥子にはわからない。
「陳腐な手段で申し訳ないけど」
 と、顔を上げる。
「?」
「学校の人達に、言いふらす…って言ったらどうする?」
 は? と、祥子は眉をひそめたが、すぐにそれの意味するところがわかった。
 正当手段が通じないと思ったら次は脅迫か。意外とつまらない人間───いや、もしかしたら、手段を選ばない人間なのかもしれない。
「誰も信じない」
 強気な態度で答える。けれど史緒がひるむ様子はなかった。
「そういう駆け引きは通用しないわ。信じようが信じまいがバラすって言ってるのよ」
「───っ」



*  *  *



 公園の敷地内、史緒たちから50メートル程離れたところには七瀬司と島田三佳も来ていた。
 芝を背にベンチに並んで座り、史緒と祥子の姿を遠くから眺めている。司はサングラスと白い杖を手に持っていた。サングラスをかけないのは、三佳をさらう誘拐犯に勘違いされないためでもある。杖を持ち歩いているのは、自分が障害者だとアピールするためである。不本意だけど。
 もちろん、史緒と祥子を眺めているのは三佳だけだが、実は司も、2人の様子をうかがい知ることができていた。
 司と三佳はそれぞれ片方の耳にイヤホンをつけていた。そのコードはぐるぐるごちゃごちゃになりながらも、司のコートのポケットの中、無線の受信機につながっている。
「今どきこんなレトロなもの、使うとは思わなかったな」
 ぐるぐるごちゃごちゃのコードに呆れて三佳は嘆息しつつ言った。右耳のイヤホンからは史緒と三高祥子の会話が聞こえる。アンテナをおおっぴらに出せないので、ノイズが耳についた。
「別にレトロなわけじゃないんじゃない? だって」
 司は左耳にイヤホン。
「コレ、盗聴機だし」
 そういう用途ではまだまだ一般(?)に使われている。
 携帯電話が普及してから無線のトランシーバは久しくなったものの、こちらは現役だ。
 盗聴機と通信機の大きな違いは単方向か双方向かというこで、盗聴機は単方向。つまり、こちらの会話はむこうには聞こえない。
「史緒のやつ、本当に陳腐な脅し文句だな」
 繰り返すが、史緒と祥子の会話はこちらにも聞こえている。そしてこちらの会話は向こうには聞こえないものだから2人は思い切りの良い辛口批評を始めた。
「でも効果はあったみたいだ。どうやら三高祥子さんはこういう駆け引きに慣れてないみたいだね」
「相手の狙いが何なのか理解しなけりゃ、交渉にもならないのに」
「そのあたりは普通の高校生。史緒には敵わない、か」
 敵う敵わないの問題ではないような気がする。
 相手は本当に普通(ではないかもしれないが)の女子高生だ。駆け引きとか交渉とか、そんなものに慣れているわけがない。
 同年代という枠組みでは史緒も分類されるが、あれは大きな例外だ。
「…」
 そこまで考えたところでふと思い立って、三佳は耳からイヤホンを外してみた。
 その動作が伝わったのか、司が顔を向ける。
「どうかした?」
「…ちょっと、おもしろい」
 ぽつり、と三佳は呟いた。
 イヤホンを外したのは、音声を抜いて見てみたかったからだ。
 祥子と史緒が立ち話している光景を。
 遠くで10代の女が2人、何やら言い合っている。あまり仲良さそうではないが、それは本音を言い合っていると良い意味に置き換えると、まるで友人同士のように見えなくも無い。
 会話の内容はかわいくもないことだと知っているけど、多分、周囲を通り過ぎる赤の他人にはそう見えているだろう。
 女子高生が2人、じゃれあっているような。
 会話が聞こえなければ三佳だってそう思う。
 三佳の目にさえ阿達史緒の姿がそんな風に見えてしまうとは、三高祥子に何やら敬意さえ感じてしまった。
 残念なことに、司にはその光景は見ることができない。
「篤志の言う通り、史緒は簡単には引かないだろうね」
 と、長期戦を危惧した物言いをした。
 ここで祥子が断わっても、史緒は簡単に諦める性格ではないことは三佳もよく知ってる。そう、その性格を知っていても、今回の三高祥子を追う史緒の執念には呆れた。三佳は当初、まったく別の意図が史緒にはあると思っていたから。
「私はてっきり───」
 三佳は思考がうまく言葉として並ばないので、そこで一旦切った。素早く頭のなかでパズルを並べ替え、自分の意見と齟齬が無いよう検証して、言い直した。
「単に史緒は、桐生院からまた前回みたいな仕事が来たときに動かせる人材が欲しいだけなのかと思ってた」
 史緒は否定するだろうが、それはかなり鋭い発言だ。
 この間の風俗営業法に違反している店へのおとり捜査、あれは史緒にとっては屈辱だっただろうから。
 司はあははと声をたてて笑ってから、
「それもあるよ。きっと」
 と、言い切った。




*  *  *



「迷ってるでしょ?」
 ぎくっ、とした。史緒のその言葉に。
 同時に腹が立った。
 どうしてこの相手は、人の心を見透かしたような物言いをするのだろう。同じちからを、持っているわけでもないのに。
 祥子は、自分が比較的感情が表に出やすいタイプだということを自覚していない。
 そしてそれ以上に、阿達史緒が無神経なわりに、他人の性格を掴む能力に優れていることを気づいていなかった。
「───ねぇ。こういうのはどう?」
「え?」
「私たちの足下、升目があるでしょう?」
 と、広い面積を持つ広場を手で示す。
 都心のなかにはあると思えないくらい広大な面積を持つこの公園は、一級河川のすぐ隣に位置し、土手を利用して坪数が確保されている。芝とコンクリートが地面を占めるが、その一画、ちょうど祥子たちが立っているところは隙間なくタイルが敷き詰められた広場になっていた。正方形のタイルは白とグレーからなり、その並びには何ら法則性が無いようだが、広い面積を埋め尽くすタイルはどこか幾何学的な模様にも見えた。
 そのタイルの上を、遠く人々が通り過ぎてゆく。散歩途中の子供を連れた女性、スーツを着て早歩きで去るサラリーマン、学生や老人など、たぶん格好の近道になっているのだろう。祥子は一通りそれらを見渡した。
「それが?」
 視線を戻すと、史緒はついてこいという仕草をして歩き始めた。その意図がわからないまま、祥子は史緒の後を追う。10メートル程移動したところで史緒は足を止めた。祥子はわかった。史緒はタイルが敷き詰められている枠の外に出たのだ。それに背を向ける方向に体を向ける。
「私の後ろ、白と黒の升目があるわけだけど、三高さんが指定した位置のタイルが何色か、私が当てるの。それが当たったら、三高さんはウチに入る。はずれたら、私が諦める。あなたを追うのはやめるわ」
「───」
 祥子は史緒の提案したことを理解するのに、少し時間がかかった。
 史緒は賭けを持ち出したのだ。祥子はすぐに反対した。
「そんなの、のれるわけないでしょ。どうせ、このマスの模様をおぼえてるんじゃないの?」
「三高さんは、これが何かの模様に見えるわけ? 私はどう見ても無秩序にしか見えないけど」
「…」
「このタイルの敷地、どう見ても30メートル四方はあるわ。ひとつの桝目が50センチだとしても、3千6百個はあるのよ? 例え模様があってそれをおぼえてたとしても、ピンポイントの色はわからないでしょう?」
 祥子は史緒の背後にひろがる敷地に目をやった。確かに、これだけの数のタイルの並びを覚えろと言われても、どんな手段を使うおうかすぐには思いつかない。史緒がそれを可能にしているようにも見えない。
 ただ、だからこそ、阿達史緒が勝算のない賭けをするとは、祥子は思えないのだ。
 しかしこの自信ありそうな表情はなんだろう。
「やる? やらない? どちらでもいいけど、三高さんが逃げ続けるつもりなら私は追い続けるから。それこそ、学校に乗り込んでもね」
 それこそさっきの「言いふらす」発言が本当になってしまう。祥子は震え上がった。
 でも逆に言えば、この賭けに勝てばもう追い回される心配はない。それは史緒自身が保証している。
 三高さんのそのちから、役に立つと思ったから───その言葉が頭に浮かんだがすぐに消えた。今現在、目の前の人物が発する嫌悪感を取り除くほうが大事だ。
「…ひとつ確認させて。ズルする気はないよね」
 これは重要な質問だった。その反応いかんで、祥子は史緒の本心を見抜くことができる。
「ないわ」
 と、あっさりと頷く。嘘はついていなかった。
「はずれたら追うのはやめるって言ったよね」
「ええ」
「その言葉、忘れないでよ」
 祥子は史緒の言い分に賛同し、この賭けにのることを承知した。
 祥子は史緒の正面に立った。史緒の肩越しに白とグレーの広場が見える。史緒は少し首を傾け静かに笑っていた。祥子はたじろぎそうになったが、どうにかそれを押し隠すことができた。
 本当は、祥子が先に答えを知るためにタイルを見に行ってから決めても良かったのだが、あえて祥子は自分も答えを知らない状態で勝負した。史緒から目を離して、不審な動きをされる恐れもあったからだ。
 祥子は一度、史緒の肩越しにタイルが広がる広場を見て、そして言った。
「私から向かって左から16個目。手前から17個目」
 これはまったくでたらめな数字で、思いついた数を口にしただけのものだ。ただ、キリの良い数字は避けた。そんなはずはないのだが、何となく、当てやすい気がして。
 祥子がその指定を口にしたとき、史緒は顎をひき、目をつむっていた。少しうつむき加減。
 でもすぐに顔をあげる。
「!」
 その自信満々な表情を見て、祥子は喉の奥が乾くのを感じた。
 史緒はまっすぐに祥子の瞳を見つめ、笑う。
「───白よ」
 あまりの即答に祥子は一瞬言葉を失った。
「え…」
「なに慌ててるの? どうせ2つに1つしかないんだから、時間かけて考えてもしょうがないでしょう」
「それは…そうだけど」
 と、口ごもる祥子に、史緒は自分の背後を指さした。
「じゃ、結果は三高さんが見てきて」
 いまだ、不敵な笑みを浮かべながら。


 自分でひとつひとつのタイルを踏みながら数え、該当部分のタイルの色を見る。
 祥子は信じられず、5回ほど同じことを繰り返した。それでも確たる気持ちになれなくて、6回目、数えたあと、ようやく祥子は口にした。
「白…───だ」
 結果は史緒の言った通りだった。
 その史緒は平然と、
「そう。じゃあ私の勝ち。私が当てたら三高さんはウチに入るって言ったこと、忘れてないわよね」
 と、言う。まるで初めから賭けなんてどうでもよかったかのように。
「…イカサマじゃないでしょうね」
 苦し紛れに祥子がそんなことを言うと、史緒は睨み返してきた。
「そんなものが通用する程度の能力なら、あなたなんかいらないわよ」
「…っ」
 鋭い視線を向けられて言葉を失い、祥子はかなり酷いことは言われたのに気づかなかった。何も言い返せなかった。
 でも、本当に。
 史緒は何もしなかった。外界からの情報に頼らず、史緒の頭のなかだけで答えを出していた。2分の1の賭けに、史緒は勝ったのだ。それは恐らく史緒本人の次に、祥子が判っている。そんな「感覚器官」が、祥子にはある。史緒が言った通り、イカサマを見抜けないような能力ではないのだ。
 たかが2分の1。されど2分の1。
 いや、実際は2分の1ではない。白と黒の数が等しいとは限らない。そんなあやふやな条件のままでの賭けだった。
 白。その判定を、史緒はどのようにして下したのだろう。迷いのなかった張り。もし賭けに負けて祥子から手を引く結果になったら史緒はどんな顔をしただろう。それとも、あっさりと引き下がっただろうか。
「これで、私は正式にあなたのちからを利用できるわけね」
 と、まるで宣言するかのようにはっきりと口にする。
「…待って、 気に入らないわ、その言い方」
 今までの祥子にはなかったような反論だ。この相手には言いたいことを言っておかないと自分が保たないと悟った。言い返さなきゃ、痛めつけられるだけだ。
 史緒は祥子の言い分が面白かったかのように顎を反らして目を細めて笑う。
「祥子の気に入るように言い換えてほしい? 私に嘘をつけって言うなら、やってあげてもいいけど」
「呼び捨てもやめてっ。あなた年下でしょっ?」
「私は祥子の上司になるのよ。…そうね、“三高”でもいいけど?」
「それだけは絶対にダメっ」
「じゃ、やっぱり“祥子”。いいでしょ?」
「あなた、すべてが自分の思い通りになると思ってるでしょう?」
 祥子にとって最大級の皮肉のつもりだった。自分の口から、こんな台詞が出てくるとは思わなかった。でも本気だった。
 この言葉で、少しでも阿達史緒が傷つけばいい。そう、思ってしまった。そう思える自分に素直に驚いた。
 しかし、史緒は祥子から一瞬たりとも目を離さないまま、口の端を持ち上げ、頷く。
「ええ。少なくとも今は、私の思い通りになっているもの」
「───っ!」
 叫びかけた。
 やめた。
 それを押しとどめたのには、ちゃんと理由がある。
 きっと通じない。そんな気がする。
 祥子は機嫌だけでなく、気分が悪くなるのを感じていた。
「今度の土曜日、午前10時に事務所へ来て。他のメンバーを紹介するから」
 何事もなかったかのような業務連絡。
 祥子は両手を握り締めることで、胸から込み上げるものに、耐えた。
「…わかってるわ。入るからには、やることはやるわよ」
 低く、それと分かるほどに震えている声を絞り出す。
 そして、祥子は勢いよく顔を上げると、最後の言葉を、阿達史緒にぶつけた。
「でも、あんたのことは嫌いだから」
 はっきりとそんな言葉を吐いたのに、史緒は口の端を持ち上げて、目を細めて笑っていた。祥子は完璧に気分が最悪な状態になって、それを振り切るように踵を返す。この人間と長い間相対するのは無理だ。そう思った。これからも顔を合わせることになるかと思うとうんざりする。
「祥子っ」
 背後からやっぱりその呼称で呼び付けられたので、
「なによっ」
 と、こちらもムキになって振り返った。
 史緒はまっすぐにこちらを見ていた。
「あなたのちからを活かせるのよ。それを忘れないで」
「利用しようとしてるんでしょう? さっきそう言ったじゃないっ」
 祥子にしては小気味良い皮肉を返す。史緒は正面から茶化さずそれを受け止めると、
「同じことよ」
 悪びれもせず言う。そして笑った。



*  *  *

 司や三佳より近くで、篤志は一部始終を見ていた。
「とにかく一段落だな。満足だろ、おまえも」
 と、半分呆れて、半分皮肉で、篤志は史緒に言った。意外にも史緒はストレートにそれを受け取った。
「そうね。…サボってた分の仕事、片づけなきゃ」
 そんな風に呟く横顔を見て、篤志は、そういえば、と口を出した。
「あの賭け。史緒らしくなかったな」
 さきほどの三高祥子との件だ。
 A.CO.のなかで篤志たちは日常のように些細な賭け事を行うが、史緒だけは参加することがない。篤志は史緒の性格から、些細なことに資産とプライドを預けられないと思っていることを知っていた。
 史緒は微かに笑った。自分の性格をよく分析できている篤志を憎たらしくも思ったけど、何故だかおもしろかったからだ。
「当たり。あれは賭けなんかじゃないわ」
「どういうことだよ」
 史緒は視線を泳がせて、少しだけ言葉に迷った。
「───最初はね、口だけであの子を言い負かせると思ってたの。あの子、勘は良いけど本人単純だし、良くも悪くも素直だし」
 真顔でそんなことを言う。
 そこで史緒は風上を向いた。なびく髪が邪魔だったからだ。篤志も足を止めて体の向きを揃えた。
「でももっと遊べることに気付いたの。───ほら、あれ」
 と、史緒は手を伸ばし指を差した。先程、賭けの種になっていたタイル敷きの広場を。
 史緒が指差す先に、篤志が視線を移したのを確認して、史緒は腕を下ろした。
「よく見て、タイルの並び。一見、ランダムに見えるけど実は法則性があるの」
「…?」
「あそこ、マンホールがあるでしょう?」
「ああ」
 広場のほぼ中央だろうか。目立たないけれど排水用のマンホールが見て取れる。
「あれを原点として道路に平行のほうがX軸、垂直にY軸を取ると、第一象限と第二象限がX軸に対して線対称なの。第三と第四はそれをひっくり返したかたち、つまり点対称。私もさっき途中でこのことに気付いたの」
 それを聞いている途中で篤志は目眩を覚えた。
 説明を追うことはできていた。それ自体はそう難しくもない。
 それに気付くことができる頭の回転に揺さぶられて、目眩がしたのだ。
「…途中って、三高祥子と喋ってる最中にか?」
「ええ。おもしろい模様だなって思って、視線の端で数えてた」
 と、こともなげに言う。
 篤志はもう一度広場に目を移して座標原点から桝目を数える。すべて確かめたわけではないが、確かに史緒の言う通り点対称になっているようだ。しかし、ふと、篤志はあることに気付いた。
「点対称って判っただけじゃ、色は当てられないな?」
 あのとき史緒は背を向けて、桝目をまったく見ていなかった。点対称というヒントが有効になるのは、ひとつの象限が見えているときだ。
 史緒は、ああ、と表情を動かした。
「これね、座標の(1:1)のところからX軸右方向へ見ていくと、色が切り替わってるでしょう? あれ、素数よ」
「…。…あっ」
 篤志は開いた口が塞がらなくなった。
 色の切り替わりは2,2,3,3,5,5,7,7…。その通り、素数である。
 ───実際、おもしろい、と史緒は思う。
 こんな、どこにでもあるような公園にこのような仕掛けがあるなんて。設計者に会ってみたいとも思った。
「それに気づいて少し数えればこの敷地の縦横数も計算で出るし、落ち着いて眺めてみれば誰にでもわかるわ」
「…いや、わからないだろ」
「そう?」
 篤志の返答に史緒は首をひねる。
「私は祥子と喋ってる途中でそれに気付いたから、あんな駆け引きを持ち掛けてみたわけ。いくつめのタイルかを指定されたら、素数ならカウントと検算で出せるわ。咄嗟のことだから、祥子は気付く暇もなかっただろうしね」
「悪どい」
 篤志が思わずはっきりと呟くと、史緒は控えめに苦笑した。
「頭脳戦の勝利と言ってよ。私は賭けなんて言った覚えはないもの。…あとは縦横の桝目数を教えれば司だって簡単に答えるはずよ。それとも既に、頭の中では図形が完成されてるんじゃないかしら。───どうなの? 司」
 コートのポケットのなか、覚えの無い小さな縫い跡に、史緒は声をかけた。







「ばれてた」
 司はイヤホンからの問い掛けにからからと笑い、肩をすくめてみせた。
 一方、三佳は悔しそうに右耳からイヤホンをむしりとって舌打ちした。苛立ちからくる嘆息を一回。
 実は史緒のコートに発信機を仕掛けたのは三佳だ。今朝早く、無断で。
 どんな言葉で三高祥子を口説くのか忌憚無く聞きたかったからだ。しかし史緒が初めから三佳たちの盗聴に気付いていたなら、今まで聞いていた会話はいろいろとデコレーションされたものになっているのだろう。しかもこんな風にさり気なく司に話し掛けるなんて、まったく性格が悪い。
「まぁまぁ」
 三佳を宥めるように司は笑う。受信機の電源をオフにして、イヤホンを回収するとポケットに押し込んだ。
「それなりに楽しめたよ」
 立ち上がりざまに呟く。
「楽しめたって、何が?」
 三佳が尋ねると、司はそれに答えた。
「うん、まぁ、いろいろとね」
 つまりごまかしたということだ。三佳はそれに気付いても何も言わなかった。
 司も、三佳に気付かれていると気付いても弁解も何もしなかった。
 でももし、三高祥子が史緒の誘いを蹴り、今日限りの付き合いになるのなら、司は三佳に言ったかもしれない。こんな風に。
 あの気性じゃ、特異な能力も持ち腐れだね───と。
(……そうか)
 史緒はそのことに気付いたから、三高祥子を無害だと判断し、仲間に入れようと思ったのかもしれない。祥子のちからを完璧ではないと、史緒も見抜いたのかもしれない。
 まぁ、いい。どちらにしても史緒が一緒に居ても構わないと思った人間だ。うまくやっていけるならそれにこしたことはない。
 司はそんな風に心内で評して、三佳には笑顔を向けた。
「じゃ、僕らも史緒たちと合流しようか。三佳、手、つないでもいい?」
 サングラスと白い杖を片手に、司はもう片方の手を差し出した。三佳はその手を握る。とても冷たかった。







「何で挑発させるようなこと言うんだ?」
 篤志は史緒に尋ねた。
 もともと阿達史緒という人間はあまり口数は多くなく、他人とじゃれあうような物言いをしない。しかし三高祥子相手では、どうやら違うようだ。
 まさか祥子と友達付き合いがしたいわけではあるまい。
「気づいたのよ」
 と、史緒。
「祥子のちから。…司の感覚もそうだけど、本人が冷静じゃないときにひどく鈍るのよね。司は精神制御(メンタルコントロール)の訓練を受けてきたからその感覚をフルで使えているけど、祥子のほうはちょっと突つけばムラだらけ。…私が祥子を挑発させているのは、私の本心を知られたくないからよ」
 淡々といつもの調子で言われたので気付きづらかったが、かなりひどいことを言ってる。篤志はそれに嫌悪を覚えるわけでなく単に呆れつつ、探るような言葉を口にした。
「それだけか?」
「どういう意味?」
「あいつ、初めはもう少し大人しい奴かと思ったけど…」
 と、篤志が呟くと、史緒は言った。ああ、それは。
「私っていう、敵ができたからでしょ」
「!」
 「受けて立つわよ」という意味合いが含まれる史緒の言葉に篤志は目を見開いた。
 あることに、気づいた。
(わざと怒らせている)
 そう言っていた。祥子に感情を読まれないようにする為に。でもそれは、ただそれだけではなく、もしかしたら。
 三高祥子。
 初めは大人しく見えた。思っていることを外に出さないで、表情にもうまく出せないで。あの特質のこともあるのだろうが、無意識に壁を作ってしまうタイプ。
 でも今は違う。覇気が備わったような気がする。
 伝わってくる怒り。史緒に対する敵対心。それらを露にしている言動、でもそれは決して悪いことではなくて───。
 むしろ、それは祥子にとって良い傾向。
 対等に遠慮なく口論できる相手を、祥子は、手に入れたのかもしれない。
 ちらり、と篤志は史緒をうかがい見る。
「司たちが来たわ」
 篤志の視線を無視して、史緒は遠く人影に軽く手を振った。







「今回のこと、私は利害一致、と考えているわ。祥子自身にとっても、私にとっても、使えるちからを持ち腐れているのはどう考えても利口じゃないもの。適材適所ということかな」
 4人は公園の片隅で輪になって言葉を交わす。こんな風に全員が外に出ているのは珍しいことだ。
「利害一致…ね。あまり良い言葉とは思えないけど」
「あの様子じゃあ、すぐにやめるって言ってくるんじゃないか?」
 祥子がこのまま長く居座るとは、司と三佳は思えないようだった。少なくとも本当の仲間となる日が、果たしてくるのだろうか。
「その可能性は薄ね」
 きっぱりと、史緒は言い切った。
「これは私の勝手な見解だけど、あの子、自分の能力が嫌いなんだわ。だからそのちからを持っている自分も嫌いなの」
「ずいぶん短絡的だな」
「そうね、言い方が悪かったわ。…祥子は自分の、役に立たない特別なちからが嫌いで、延いては何の役にも立たない自分に嫌悪を抱いている。でも、少なくてもA.CO.にいればその能力を役立てることができるのよ。所詮は利害一致だけど、彼女にとっては手放し難い条件だと思うわ」
 すらすらと、語られる筋の通った見解を聞くと、史緒が昔、留学先で心理学をかじったということが頷ける。祥子がA.CO.に留まるかはまだ不安定要素だ。しかし分はこちらにある。
 史緒は数日前に御園真琴から受け取った三高祥子に関する調査報告書の内容を思い出した。
「……」
 いつもながら真琴の情報網にはうんざりするほど感嘆する。その報告書から、祥子の生活を少しだけでも見てしまったアンフェアに胸が痛んだが、それは長引くほどのものでもなかった。とりあえず、書類は他の三人にも見せないことに決めた。
 史緒はもう一つ、かねてから考えていたことを口にした。
「それにあの能力は、新居さんのところに回せると思わない?」
「あ!」
 篤志と司が同時に叫んだ。
 すっかり忘れていたが、新居誠志郎がかねてから言い続けていた依頼があった。あまりにも突飛なものだったから手を引こうとしていたのに。
「おまえ、初めからそこまで計算してたのかっ?」
「まさか。つい最近からよ」
 楽しそうな声で、史緒は篤志に笑ってみせた。
 計算高いというか、なんというか…。これは誉め言葉といえるのだろうか。
 面食らっている篤志と司に構わず、史緒は次の行動を開始する。
「今日はここで解散。私は寄るところがあるの。先回りしたいから、タクシー使うわね」
 言うが早いか、史緒は白い息を吐いて背中を見せる。
「どこへ?」
「病院」
 背中が答えた。
「何しに?」
「私の画策がどこまで実を結んだかの確認にね」






 ここへ来ると何となく息が詰まるのは、これはもう条件反射かもしれない。
 三高祥子は何十回目かの息苦しさを味わっていた。
 和子の病室。
 白い部屋、消毒液の臭い、落ち着けない場所で。
「あのね、お母さん」
 消毒液の臭いのする空気を吸う。
 和子はいつも通り、窓の外を眺めて、聞いているのかいないのか、判断し難い素振りを見せている。組んだ指は毛布の上。それに視線を固定させるのが、祥子の処世術。
 そして祥子の手のひらの中には、阿達史緒の名刺が握られていた。
 それを、差し出した。
「私……、ここに入ることになったから」
 その肩がピクリと動き、和子がゆっくりと振り返った。途端、祥子は緊張した。ゆっくりと和子の指が動き、その名刺を受け取り、読む。
 和子が何か言う前に祥子は説明を始めた。事務所は浜松町にあり、そこへ通うことになること。責任者である所長は若いけど優秀な人物であること。怪しく思うかもしれないけど、大丈夫、と。
 それから小さく、この能力を買われたんだと。
「───…そう」
 名刺に目を落としたまま和子は呟いただけだった。
 それは少々意外だった。今まで散々迷惑かけてきたこのちからが外に知れてしまうのを、和子は何より危惧していた。それなのに、祥子のちからに目をつけた人間が現われたというのに、何も追求してこないなんて。
 和子は顔を上げて、祥子のほうへ目を向けた。
「わかったわ」
 と呟き、さきほどの名刺を祥子のほうへ返す。
「これはいらない。持って帰って。私には関係ないから」
 その言葉に傷つかなかったといえば、嘘になる。祥子は咄嗟にうつむいて、唇を噛み締めた。関係ないなんて言われたくなかった。
 返された名刺を受け取り、それを素早く鞄の中へしまう。その際、鞄の奥底で名刺が音をたてて折れた。でも別に構わない。
「じゃあ私帰る。…また、後で来るから」
 立ち上がって帰るしたくに取り掛かる。持ち帰る和子の着替えを手早くまとめ袋に詰め込む。コートを着て、マフラーを首にまく。うまくまとめられなくて、3回くらいやり直した。早くこの場を離れたいと、気が急いているせいだろうか。でもどうにかうまくいって、荷物を手にする。踵を返した。そのとき。
「がんばってね」
「───…っ」
 祥子は服の裾を引かれたように振り返った。
 和子はいつものように窓の外に目をやったままだった。横顔しか見れない。空耳? でも確かに和子の声だった。意外な言葉だった。確かに、激励の言葉だった。
 祥子は、それを聞いた。
 でも悲しいかな祥子は耳を疑った。首を捻って、背中を向けて、祥子は病室から出て行った。






「───結局、あなたの計画通りになったのね」
 三高和子は本当に感心して、息をついた。
 誰に向けた言葉でも無い。
 というわけではない。
 ジャッと隣のベッドのカーテンが開いた。ベッドは空だった。そこで寝ていたはずの人間は、昨日退院したのだ。
 代わりに、そこに座っていたのは阿達史緒だった。
「そういうことになりますね」
 コートとバッグを抱え立ち上がり、和子の傍らに腰を落ち着けなおした。
「でも実際、この結果にする為にずいぶん動いたんですよ」
 史緒は微笑んだ。和子はそんな史緒の表情を見て、肩をすくめる。視線を前に戻して言った。
「努力家なのね」
「自分の思い通りに事を進めたいなら、当然のことです」
「なるほど。立派なご意見だわ」
 半分は皮肉だ。その皮肉が、自分の娘と同年代のこの少女に伝わったかどうか。和子はちらりと盗み見るが、史緒の表情からは読みとれなかった。
 阿達史緒。彼女は数日前、初めてここへ訪れた。娘───祥子のことを尋ねたい、と。
 自らが所長をつとめる事務所のメンバーに祥子を招き入れたいと思っていること、そして祥子本人にもアプローチ中だということ。その旨、母親である和子にも了承して欲しいということを、史緒は丁寧に礼儀良く伝えた。
 史緒は祥子のちからのことは一切口にしなかった。でも、祥子のそれを理解しているのだと気付き、和子は驚いたものだ。
 それが、つい先日のこと。
 そして今日、祥子がやってくるより数分早く史緒は乗り込んできて、和子に事情を説明するより早く隣りのベッドに身を潜めたというわけだ。
「よく気付かれなかったわね」
「何となく、コツは掴めました」
 と、笑う。
 なにそれ、と返すことはしない。そのコツとやらの感覚は和子もわかるからだ。それは祥子の能力を理解し、そのちからが及ばない範囲、限界を測り知ることができた後の作業だが、阿達史緒はそれをすでに掴んでしまっていた。そう、祥子の能力だって、完璧ではないのだ。
 だからこそ、和子のほうもこんな親子関係が保たれている。祥子が和子の本心の本心を知ったら、今の関係とは違ったものになるだろう。
 実は、祥子に今日郵便局へ行くよう和子が頼んだのも、史緒から頼まれたことだった。祥子に近づく手段はないかと相談されてのことだった。
「…いつか、来るんじゃないかと思ってたのよね。祥子のこと、言ってくるヒト。どこかの研究所とか、変なサークルとか…映画の見過ぎかしら。…フフッ、まさか、あなたみたいな同年代の女の子が来るとは夢にも思ってなかったわ」
 でもどんな人間が祥子の前に現われても和子は何も言わないと決めていた。祥子自身がついていくと決めた相手なら信じられるから。そういうちからを、祥子は持っているから。
「───和子さんの、祥子さんに対するそっけない態度は、内に篭って欲しくないからですね」
 史緒の言葉に和子は笑みをひっこめた。初めて会ったときからそうだが、どうも娘と同年代の子と話をしているような気がしない。この、阿達史緒という人間には。
「当たりよ」
 和子は素直に答えた。史緒にはこの先、娘の祥子を預けるのだ。誤解のないように理解してもらいたい。だから下手に感情を隠すことはせず、和子は日頃考えている本当のことを、そのまま口にした。
「あのちからのことで、辛いことや苦しいことがあるのはわかるの。人間不信に陥ったり、理解してもらえない感覚に腹を立てたり、…孤独を感じたり。そういうことは中学のときに乗り越えたみたいだけど、あの子が独りでいることは今も同じみたいだから。ただ、何かあるたびに私のところへ来て弱音を吐くようになるのは困るなって思ったの。───外へ出て、自分で理解者を捜し出して欲しかった。まぁ結局は幸運にも、向こうからやってきてくれたみたいだけど」
 甘やかされてるわね、と和子は苦笑した。一方、史緒はその台詞についてはひとこと言いたい。
「…お言葉ですが和子さん。私は祥子さんの理解者になれるなんて、自惚れていませんよ」
 うかがうように進言しても、和子は目を細めて笑うだけ。
 実際、史緒は三高祥子の利用価値を高く評価しているだけだ。
 それ以上の何を期待しているのだろう。和子も、そして篤志も。國枝藤子も。
 …そんな風にしか今の状況を理解していない史緒でも、それ以上追求するのは自分のためにならないと直感することができた。わざとらしく大きなため息をついて、立ち上がる。
「───では、約束どおり、三高祥子さんは私のところでお預かりいたします。和子さんはゆっくり療養なさってください」
「わかったわ。あの子のこと、よろしくお願いします」
 母親らしい表情でそう答えて、和子は毛布をはいでベッドから降りた。
「見送りは結構です」
「すぐそこまでよ」
 和子が床に立つと、史緒より少し背が高かった。病人らしい線の細さがやっぱり目立って、史緒はそれに気づくと自分の母親を思いだした。すぐにその想像を頭から振り払う。
 病室の入り口まで並んで歩いたところで、和子が声をかけた。
「あ、それから」
「はい?」
「祥子はどう思ってるか知らないけど、私は私を養っていくくらいの貯蓄はあるの。現役時代にそれくらい稼いできたし、保険も充分降りてる。あの子が卒業するまでの学費だってちゃんと払えるわ。もしあの子がそういう心配をしているなら、今すぐに働く必要はないって、それとなく伝えてもらえない?」
「いやです。…そんなこと言ったら、ウチで働いてくれなくなるじゃないですか」
 あまりにも史緒が否定を即答したので、和子はおもしろくなって「そうね」と笑った。
 廊下に出ると史緒は振り返って軽く頭を下げた。
「今日はこのへんで失礼します。また、来ます」
「……」
 最後の史緒の、いつもの笑顔を見てとった和子は、はぁ、と息をついた。
 迷ったけれど、やっぱりひとこと言わせてもらうことにする。
「阿達さん」
「何ですか?」
 軽く促した史緒に返ってきたのは、和子の厳しい表情と、強い声だった。
「覚えておきなさい。自分の思い通りにしたいなら、裏で動くだけでなく、その要望を素直に直接相手に言うことも大切なのよ」
「……」
 毅然と立つ和子。史緒は目を見開いた。
 和子の台詞は、すでに史緒の性格を見抜いていることを示していた。見抜かれている笑いを向けるのは相手に失礼であるし、自分にとっても無駄な労力を使うことになる。
 史緒は口を閉ざした。笑顔をしまい込み、真顔で和子と相対する。
「和子さん」
 和子の言いたいことはわかる。それが分かるくらいには、史緒は無神経ではない。
 本心をそのまま素直に口にしても、それは恥ずかしいことじゃない。そんな、裏で画策するばかりでなくて、自分の要望を直接伝えても、望む通りの結果が待っていることもある。
 自分の語彙に任せて素直に言葉にならない。プライドが邪魔して本心を歪曲させる。「立場」という責任を言い訳に用意して。
「私みたくは、ならないようにね」
 先程より少しくだけた表情で、和子は苦笑した。
「ええ」
 史緒は応えるように口端で笑う。
 それはいつもの彼女とは少し違う、少しだけ本音が覗いた顔だった。
「ご指導ありがとうございます。…でも、これが私の性格ですから」
 それだけ言うと、史緒は踵を返し、和子を残して歩きはじめた。コートとバッグを片手に、看護婦と外来で慌ただしい人波に消えていく。背筋が伸びて、ヒールの足取りも様になっている後ろ姿は、近寄り難い印象を与えていた。
 それは1998年2月中旬のこと。


 阿達史緒は病院から外に出ると、青い青い空を仰いだ。
 風が強く、長い黒髪が踊って、耳元の赤い石のイヤリングが見え隠れする。
 その、身を切るような風に、史緒はコートの襟元を合わせ直した。
 空は澄んでいた。
 本当に。どこまでも。
 この冷たい風に、雲が速く、流れていく。
(三高、祥子、か……)
 あんたのことは嫌いだから!
 史緒は口元で笑った。
 特に意味はない。ただふいに、彼女の捨て台詞を思い出しただけ。

 執着する対象がいる、というのは生き方を変える。
 その存在ひとつのために生きられるか生きられないか、前へ進めるかその場に留まるか。それは当人次第。

 どんなかたちであれ、一人、仲間が増えたのだ。
「…桐生院さんに報告にいかなきゃ」
 史緒は病院前の賑やかな歩道を歩きはじめる。
 いつもと同じように、人波は周囲に無関心で、そして、流れ続いていた。







17話「GirlMeetsGirl 後編」  END
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