15話/16話/17話
16話「GirlMeetsGirl 前編」


「高校くらいは卒業してよね」
 たまに、母はそう言う。視線を窓の外に固定させたまま。
 突き放したような言い方。
 白い部屋。ここは空気が澄んでいる。静かで───でも、居心地の悪い場所。
 私はわずかに目を落として、いつも、母の指先を見ている。ここに来てから、いっそう細くなったように思う、白い指先。
 胸が苦しくなる。居たたまれない。黙るしかできない。
 お母さん。私もう、あの場所には居たくない。
 何もないはずだった乾いた教室には、今はつらい思い出しかない。
 周囲の景色を無視することに慣れたつもりだったのに、苦い空気に泣きたくなるなんて。
 こんな感情があったなんて、知らなかった。
 母は、僅かに口の端を持ち上げて、笑う。痛い。
「じゃあ、あなたに、他に何ができるの?」



 1997年12月。
 街はお定まりのようにクリスマス一色だった。
 雲一つない…でも、星一つない、高く、抜けるような黒い空。空気は刺すように冷たくて、通りは人にぶつからずには歩けなくて。それでも街はきらびやかで、平日の午後、学生たちは道にたむろしていた。
 放課後になると、この季節すでに日は落ちている。日の光にとってかわるのはネオン。ツリーのランプや賑やかな有線。この街は人を集める魅力がある。それとも、人が集まるから、街に魅力が備わるのだろうか。
 人を避けずには歩けない通りに立っていた。
 渋谷駅JR中央口前。
 めったにこんな場所にはこない。例えば季節モノの買い物でもなければ足を向けようとも思わないこの場所に、三高祥子はいた。
(…もぉ、あの先生、怒鳴らなくてもいいのに)
 悪態をつくでもない。ただ、クサっているのは、今日の学校での二者面談を思い出し、自分に非の無いことを主張したかっただけだ。
 肩までのウエーブの髪を揺らし、紺のセーラー服に赤いタイ、茶色のコート姿。あまり飾り気の無いことがこの街とは不釣り合いだったが、その見目の良さに通り過ぎる数人が振り返っていた。
 もちろん、祥子本人もその視線に気付いてはいる。
 自分に向けられる意識にびくびくしていた時期もあったが、今では街行く他人のその類の視線は気にならなくなっていた。進歩といえば進歩だ。
 三高祥子には生まれつき特異な特技がある。
 生まれてこの方17年間、それは祥子を苦しませるだけでしかなかった。それでもずっと付き合って行かなければならないちからなのだと悟ったのは中学生の頃。3回も転校して、母親をうんざりさせた頃。
 それは諦めにも近い。
 高校に入ってからは誰とも付き合わないようにしてきたし、関わらないようにしてきた。それでもその場に居ることを許されるのだから、学校という場所は祥子にとって確かに都合がよい。社会に出たらこうはいかない。
 ───例えば喜怒哀楽、それより複雑な思い。祥子は他人のそれを感じ取ることができる。音が空気を伝い耳に届くように、香りが鼻に届くように。感情が胸に届く。
 笑顔とは裏腹の悲しみや、裏切り、腹芸。
 祥子は騙されることもできない。ヒトは嘘ばっかりだ。そのことに呆れるけれど、ヒトの中で生きていくしかできない。そして何より恐いのはこのちからを気付かれてしまうこと。
 だから、一人でいる。
 そんな祥子が今日学校で、進路調査の提出用紙を初めてまともに記入して出した。高校二年生の冬、この時期に初めてまともに書いた。
 家事手伝い。そう書いた。
 本当に長い間迷っていたおかげで、担任はひそかな期待を抱いていたらしい。しっかりした人生設計を考えていたとか、自分なりの将来を決めていたとか。
 迷惑な話だ。結局、その後、一時間ほど続いた説教については思い出したくもない。
(しょうがないじゃない)
 この特異体質のせいで、人が多く集まるところに行くのは嫌だし、特に学びたいことがあるわけでもないし、進学するだけの金銭的余裕もないし。
 それに。
(お母さん、…具合良くないみたいだし)
 祥子の母親、三高和子は今年の7月から入院している。病状はあまり良くはない。
 それらのことを考えると、自分の下した結論は間違いではなかったように思う。
 手軽に移動可能なアルバイト生活を続ける。
(結局、そういうことになるかな)
 しかし問題がないわけではない。つまり問題があるということだが、率直に言うとそれは金。
 最寄り駅から徒歩十五分のマンションの家賃や水道光熱費に食費、税金。そして、和子の入院費も。現実はシビアだ。
 大変なのはわかってる。今まであまり努力してこなかったし。でも、学校という枠組みから外れても。
 前向きに生きるのは得意ではないけれど、私は。
 外の世界とのつながりを、手放したくないのだ。

 ハッとした。
 街中。突然、心臓を掴まれたような気がして、祥子は振り返る。
 急に立ち止まった祥子に、非難の視線を向けつつも周囲の人波は変わらずに流れてゆく。そんな夕暮れ時、殺人的混雑の中。
(なに…?)
 ざわつく胸を右手で押さえた。鳥肌が立つのが分かった。
 目の前は相変わらずビルに囲まれたにぎやかな街並み。その風景に紛れるように。
 気持ち悪い。よくない感じがする。というより、明らかな悪意?
 とりあえず祥子は街路樹のある端に寄った。目の前は無数の通行人。誰も何も気付かずに、わずかにも気付かずに、それぞれの家路へと向かう。
 …分かってる。この感覚器官を持つのは祥子だけだ。
 でもこんなとき、孤独にも似た悲しさを感じるのは何故? どうして誰も分からない、この、ざわめきに。恐い。どうして誰も、この悪意が存在していることに気付きもせず、笑っていられる?
 祥子は顔を上げた。
(誰…?)
 こういうことは珍しくない。とくに、こんな人波の中を歩いているときはなおさら。
 そうでなくても祥子は人間がたくさんいる場所が嫌いだ。意識的に避けている。
 いつも、このような場所にいて、特異な感情に出会ったとき、祥子は大抵無視してきた。───それは当然だ。下手に手を出して厄介事に巻き込まれても困る。それ以前に、そんな度胸は祥子にはない。
 でも。
 無視するときの、その場所から逃げ出すときの自分の気持ちほど、苦しいものはない。
 まるで背中に何か貼り付けてあるような、それを振り切って、転ばないように駆け出す。罪悪感。
 お願い、誰か気付いて。
 誰かが誰かを傷つけようとしている。
 助けて。悲しいことが起こらないように。
 臆病な私の代わりに。
 ───でもこの感覚は祥子だけのものだ。
 事態を変えたいなら、自分が動くしかない。
(どこ?)
 突然、すぐ近くで発生した悪意に、祥子は思わず辺りを見渡した。
 この感情の発生源を捜した。
 この感覚は、大体の方向も分かる。音や香りと同じ、強い方が発生源だ。

 ターゲット発見。
 白いコートを着て、背中まで髪を伸ばした女子高生。───の、隣に立つスーツ姿の20代後半と思われる男。
 2人は人波のなかを、女子高生が男の後をついていくように、歩いていた。
 男は顔はそこそこだけど、どこか胡散臭い笑顔。おまけに両耳ピアスに茶メッシュの無造作ヘアときた。女子高生に絶えず笑顔で話しかけ、誘導しているようだった。
 女子高生が少しの躊躇いをもちながらも足を運ばせているのを見て、
(ああ、もう、なにやってるの…)
 全くの他人事であるにも関わらず、祥子はハラハラして目で追ってしまう。
 女子高生、と祥子が思ったのは少々早合点だったかもしれない。その女の子は確かに祥子と同世代であるが、別に制服を着ているわけではなかったからだ。ハイネックのセーターに、白いコート。その裾から見える膝丈上の赤いスカート。髪は見事なストレートで背中まで伸びていた。
 どちらにしろ、見るからに胡散臭げな男に付いていくなんて正気じゃない。
 何かに釣られた? 自分に限ってそんなのに騙されないなんて思ってる?
 でも祥子だけは、今、明確に真実がわかる。その、男の悪意を。
 思わず後をつけてしまった。この混雑のなかでは尾行がばれることも無いだろうが、同時に見失わないように追うのも難しい。
 それでも何とか、会話が聞き取れる距離までの接近に成功する。人波が壁となり、ほぼ同じ位置で立ち止まっていても気付かれないだろう。
 祥子の位置からでは女の子の背中しか見れない。背丈は祥子と同じくらいだろうか。
「長く歩かせちゃってゴメンねー、もう少しだから」
 男が女の子の顔を覗き込むように甘えた声を出した。それを聴いていた祥子は鳥肌が立つのを感じた。寒気がした。ほとほと、人間というものは恐ろしい。
 女の子は何か答えただろうか。その声は祥子には届かなかった。でも首の動きで、特に気にしていない様子がうかがえた。男はさらに言う。
「ちょっと待っててくれる? タバコ買ってくるからサ」
 女の子が頷いて、男は離れ、近くのコンビニへと足を向けた。
(───っ)
 女の子は一人になった。祥子はこぶしを握る。息を飲む。
 ああ、私は今、何を考えている?
 耳が痛い。
「っ…」
 だめ。
 行っちゃだめ。もう懲りたはずでしょう? 助けることなんて、できないって。
 指先が震えてる。わかってる、馬鹿げた正義感の表われ。
 …見過ごすの? また、何もできないまま。
(どうしろって言うの?)
 自分のなかの葛藤。もう深く考えない、答えが出ないのは、もう知っているから。
 足が、動いた。
「───…待ってッ!」

 叫んでしまった。
 女の子の肩を掴んでしまった。
 細い肩。
 祥子の力が思いの外強かったのか、反動で、体が向き直る。
 そのとき長い髪が、かすかに手に触れた。
 驚いて目を見開いた顔と、祥子は目が合った。少しだけ、祥子のほうが視線が高い。
「え…?」
 突然、見知らぬ人に肩を掴まれて戸惑わない者はいないと思う。目の前の女の子も例に漏れず、祥子を見て複雑な表情を見せた。
「…あのぅ」
「あの男、あなたを騙そうとしてる」
 直球。
 祥子のほうが動転していたせいもあるが、祥子は深く考えることができず、口走ってしまった。そしてそれを省みるくらいの余裕も、このときの祥子にはなかった。
「とても、嫌なことを思ってる。私、わかるの、あなた、騙されてるよ? 早く、今のうちにここを離れたほうがいい」
 目を見開き凝視する女の子に、祥子は一気に言った。
 言い終わったあと、息があがっていた。手に汗をかいていた。極度の緊張と、感情の昂ぶりのせい。
「───…」
 祥子の言葉を理解するのに時間がかかっているのか、女の子は相変わらず祥子の顔を見つめたまま。
(別に構わない、通りすがりの他人だもの)
 進歩の無さを、そう納得させる。
 自分が、困っている人を放っておけないようなお人好しだとは思わない。
 ただ、いつも。
 このちからの使い方を探しているだけだ。
 目の前の女の子の口が微かに開き、何か言いかける。が、声にはならなかった。
 ───その瞬間、祥子は見た。
 目を細めて口端で笑う、がらりと変化した表情を。
「おせっかい」
 確かに、女の子は小さく、失笑して、そう呟いた。
(え?)
 耳を疑う祥子を前にして、女の子は(女の子なんて言えない、だって表情がさっきと違う)、嘆息して乱れた髪を払った。その際、髪の隙間から赤い石のイヤリングが見えた。
「知ってるわ。あの男の下心なんて、初めから」
 と、つまらなそうに言う。
 悪寒が走り、祥子は引き腰になった。
 つと、第一印象とはまるで違う、鋭い視線に射たれる。
「───だけど」
「!」
 突然。彼女の腕が祥子の手首を掴む。逃げられなかった。手首を引かれ、引き寄せられる。覗き込む、知らない顔。
「どうしてあなたは、それを知っているの?」
 底知れない余裕を持った、不敵な笑顔。
「───…ッ」
 祥子は息を飲んだ。
(何、この子…)
 もう、目の前にいるのは普通の十代の女の子には見えなかった。すべての情報を吸い出すような瞳。
 その目に測られている、と感じた。声をかけた意図、言葉の真意。
 嫌な予感がした。
 あ、やばい。と、理由も脈絡もなく祥子は思った。
(目を付けられたっ)
 これは祥子のちから云々ではなく、直感。
「…っ」
 バシッと祥子は掴まれている手を振り払った。遠慮しなかった。
 逃げよう。
 何か捨て台詞でも吐こうかと思ったが、実際、そんな余裕なかった。
 祥子は、人込みに紛れて駆け出した。
(変な人に声かけちゃった………!)






 3日前。
 12月某日。東京都港区。
 ───その番号は、3回しか鳴らない。それ以上もそれ以下もない。
『はい』
 そして名乗らない。いつものように落ち着いた声で女性が、電信を受け取った旨を伝える返事だけをした。
「桐生院さん、お願いできますか」
 声を抑えて、阿達史緒は言う。しかしその努力も虚しく、雰囲気を正確に読み取った台詞が返ってきた。
『不機嫌なところ申し訳ありませんが、名乗らない方には取り次がないことになっているのですよ。阿達史緒さん』
「伝わっているなら、問題は無いわ」
 初めに名乗らなかったのはそちらのほうだ。…口には出さなかった。
 阿達史緒は東京は浜松町、事務所の椅子に座り、電話を左手に、右手には今朝届いたばかりの書類を握り締めていた。
 電話の受信側のナンバーはかなり奇特なもので、教えられる人間は数える程度しかいない。その数えられるうちの一人が阿達史緒だが、このナンバーは第三者はもちろん、関係者にも口外は無用だった。とある経済界大物の第一秘書へのホットラインだ。それも当然だろう。
 それを考えると、相手が名乗らない理由も納得がいく。万分の一の偶然で、間違い電話がいつ掛かってくるとも分からないから。
『お待ちください』
 義務的にそう言うと、回線が切れる音がした。受話器の向こうは沈黙というより静寂が訪れる。保留の音楽は無い。それは待つ側に不安感を与えるが、もしかしたらあの女性はそれを見越しているのかもしれない。主人を有利な位置に立たせる為に。
 再度、回線がつながる音がした。
『もしもし』
 年配女性の貫禄のある声が聞こえてくる。低すぎず高すぎず、少しだけ遅く感じる言葉回し。史緒は少しだけ緊張する。いやいや。今日、文句を言いたいのはこちらだ。気迫負けなどしていられない。
「依頼書は届きました」
『そ。あれは急いでるの。手早くお願いね』
 と、まるでマニキュアを塗りながら片耳でしか聞いてないようにそっけなく言う。もちろん、被害妄想だけど。
「そうじゃなくて! これはどう考えても、A.CO.(うち)向きの仕事じゃないと思います」
『弱音? 珍しいわね。文隆のところへは頼めないわよ。あそこのメンバー、今、テスト中らしいから。史緒のところはそういう意味での学生が一人もいないでしょう? 頼むわね』
 畳み掛けるような言葉に、史緒は返答が遅れた。
「…藤子は?」
『あの子は別の仕事中。ちょっと地方へ行ってるの。真琴のところは条件に見合う人材がいないし』
「…」
『三佳ちゃんになんかやらせるんじゃないわよ。あなたがやりなさい』
「わかってますっ!」
 それこそ悪趣味な冗談だ。史緒は声を荒げた。
『次は結果を聞きたいわ。またね』
 がちゃり。
 一方的に切られた電話は空しい発信音を残すだけで、受話器を持つ史緒の左手はふるふると震えていた。彼女の後ろには壁を埋める窓があって、その向こうには気持ちの良い青空が広がっていた。
 今日の天気とはウラハラの史緒の心情を察してその様子を見ていた3人は痛ましい表情を落とす───はずがなかった。
「所詮、上から来る仕事は選べないってことだよな」
 その中で最年長、20歳の関谷篤志がからかい半分で言う。先程の史緒の電話を聞いていたのだ。背が高く長い髪を結んでいる彼は大学生という肩書きも持つが、学業よりこちらの仕事を優先している。
「雇われてる身の辛いところだよね。いくら所長とはいえオーナーには逆らえない、か」
 面白そうに笑うのは七瀬司、17歳。実は視力が不自由だが、それを感じさせないほど彼の立ち振る舞いは自然だ。今も、ハードカバーの本を開いていたりする。しかしそこはさすが視覚障害者、点字だった。それは書籍ではなく楽譜だったが、司以外に分かる者はいない。
「自分がやりたくないからって、意見するほうがおかしいだろ。仕事を選べる立場でもないくせに。何か勘違いしてるんじゃないか?」
 司の隣で雑誌をめくっているのは島田三佳、9歳。史緒の同居人で家事全般担当。それから間違いなくA.CO.のメンバーの一人。化学に秀でていて五十音より先にメンデレーエフを覚えた過去を持つつわもの。だからというわけではないが、年不相応な喋り方をする。
 そして阿達史緒を含む計4名が、A.CO.のメンバーである。現在の、と付け加えておこう。
 史緒はゆっくりと受話器を置くと、顔を上げ、苦々しくひきつった笑みを向けた。
「…言いたいことはそれだけかしら、3人とも」
 阿達史緒、16歳。彼ら3人の、立場上は上司にあたる。しかしおとなしく使われるような連中でないことは痛いほどよく分かっていた。
 史緒は乱暴に椅子に座ると、先程まで握り締めていた書類を手早くまとめ、元どおり封筒に押し込んだ。そして机の引き出しをひき、封筒を滑り込ませる。ばんっ、と引き出しを閉める音が響いた。
 一度だけ、溜め息。史緒はいつもの余裕ある表情で、3人に向き直った。
「観念したわ。私がやるわよ」
「当然だろ」
 と、すかさず三佳。その隣りで司が三佳をたしなめなかったら、史緒は一言いっていたかもしれない。そして篤志が、
「一応、俺もガードとして付いていくから」
「えっ、いいわよ。一人で平気、というか、付いて来て欲しくない」
 史緒の咄嗟の言い分に司が笑った。
「気持ちは分かるけど…」
「却下だ」
 強い声で篤志が言い放った。史緒は言い返せなくて、またも溜め息をついて、椅子の背もたれに背を預けた。
 最近、ついてないことが多いのかもしれない。
「───史緒、おまえが出かけてる間に電話があった」
「だれ?」
 史緒はその呼びかけに反応して、上体を上げ、篤志に報告を要求する。篤志は歯を見せて苦笑して、
「新居さん」
 と、言った。史緒は眉をひそめる。
「またぁ? あの話は断わったはずよ」
「無茶な依頼だってことは向こうも判ってるさ。だから『どれだけ時間がかかってもいい』なんて言ってるんだろ」
「……」
 史緒は腕を組み、空を見据え、言った。
「一生見つからないわよ。あんな条件の人間なんて」






 再び、3日後───。
 ドアを閉めるまで安心できなかった。
 本当に。心臓が収まらなかった。───胸騒ぎが、止められなかった。
 三高祥子は渋谷の繁華街から、駅を挟んで反対側の病院まで一気に走った。追われているような気がして。
<どうしてあなたが知ってるの?>
 不吉に笑ったあの子が、その質問の答えをしつこく尋ねてくるような気がして、祥子は病室まで走ってきたのだ。
 肩で息をして、ドアノブを押し付けたときに、やっと安心できた。そんな気がした。
 はーっ、と大きな溜め息をつく。
「祥子? なにしてるの、騒々しいわね」
 凛とよく通る、一本、筋を通したような硬い声。祥子は振り返った。
「…ごめんなさい、お母さん」
 6人部屋の病室、その一番奥が彼女のベッドだ。
 三高和子、36歳。祥子の実母。親娘とも目鼻立ちがそっくりで、でも実は祥子はそれがコンプレックスだった。商社に通うキャリアウーマンだった和子はいつもきびきびとしていて、びしっと仕事をこなして、人付き合いも巧くさらに家のこともソツ無くこなす人だった。祥子はというと、社会的にどう見てもアウトロー。高校に入ってからは開き直ってはいたものの、母と比べられると、やはり自分の至らなさを痛感してしまう。
 7月の朝。そんな和子が突然倒れたのだから、祥子はすっかり動転してしまい、大切な「約束」さえ忘れてしまっていた。
「───何かあったの?」
 いつも冷静な和子がわずかに目を見開き、ベッドから肩を浮かせて祥子を見つめた。
 ああ…その目は知っている。
 和子が何を心配しているのか、祥子には痛いほど分かった。
 安心させるために、笑えない笑顔を、和子に向ける。祥子は口を開いた。
「別に、何でもない」

 当然といえば当然、和子は祥子の力を知ってる。
 一番初めに祥子の能力に気付いたのは母親である和子自身だ。このちからが異質なものであること、むやみに口にしてはいけないことを教えてくれたのも和子である。
 祥子のちからを一番理解してくれていると言ってもいい。───そう、だから。中学のときの失敗で3度も転校させてくれたし、理解しているからこそ、和子は、祥子のちからを、嫌った。





 そして30分ほど、前。
 このとき、阿達史緒は都内某所でとある人物と落ち合い、その案内により混雑した街並みを歩いていた。
 仕事だ。
 そう。仕事でもなければ、こんな、おおよそ自分らしくない表情などしないだろう。
 愛想の良い、十人並みの女子高生の役回りなど。
 史緒の最も嫌う類の仕事だが、もちろんそれを口にしたことは無い。責任とプライドがそれを口にさせないのだが、…他のメンバーには簡単に知れられてしまっているようだ。
「いやぁ、最近、不作でさぁ。君みたいな真面目そうな子がウチに来るってあんま無いんだよね。大歓迎だよ、ほんと」
 人間を掴まえて不作も何もないもんだ。黒髪なだけで真面目と評されるなら、こんな便利な仮面もないだろう。
「そうなんですかぁ? ───…」
 つまらない返事をしながら、史緒はちらりと背後をうかがう。
 どこにいるのかは知らないが、篤志がついて来ているはずだ。
 史緒は頭が痛い。
 はっきりいって、これは屈辱である。
 ───桐生院由眞からの仕事。あまり珍しくはないのだが、潜入捜査というかおとり捜査というか…。今回は風俗営業法に反する疑いのある業者の居所を掴んできて欲しい、という内容だった。このような依頼をするのは大抵行政で、市民からの苦情を受けての行動に多い。
 業者の存在が分かっていても、なかなか場所を特定することができず、こうして仕事が回ってきたらしい。
 早い話がハイティーンの女が必要になるわけで、A.CO.所長・阿達史緒にお鉢が回ってきたというわけだ。
 このテの仕事は、的場文隆のところの現役高校生のメンバーへ回ることが多いのだが、現在テスト中とのこと。御薗真琴のところはまりえという美人秘書がいるが、例え年齢不詳の彼女でもさすがに女子高生には見えない。それ以前に、史緒以上にプライドの高いまりえはどんな手を使ってでもこの仕事を他人に振るだろう。
「長く歩かせちゃってゴメンねー、もう少しだから」
 先を歩く男がそう笑いかける。史緒は完璧過ぎない程度の愛想笑いを返した。
 桐生院由眞からの依頼書には、ターゲットとなる業者との接触手段が書かれていた。これは一部の、その気のある女子高生の間で口コミで伝わるもので、これを知るのにも2つの調査機関を経由したらしい。
「ちょっと待っててくれる? タバコ買ってくるからサ」
 史緒はもちろん、普通に頷いた。男がコンビニへ消える。
 ふぅ、と一息ついた。
 そのときだった。
「───…待ってッ!」
 背後に聴いた、高い、声。




*  *  *




 それから40分後。
 落ち合う場所は初めから決まっていた。
 最後から2つ目の角、南側の通りを下って左側、ひとつめの飲食店の前。
 篤志は腕時計を気にしながら、その場所で立っていた。
 時間は午後8時。退勤ラッシュが一段落して、また別の意味で街中が混雑する時間帯。耳をふさぎたくなる程の雑踏のなか、篤志は手持ちぶたさにやはり腕時計を見ながら、秒針に目を落としていた。
 …10分ほど前。史緒はある建物の中へ消えていった。
 業者の場所さえ掴めればこの仕事は終わりだ。あとは史緒が口八丁ですぐに抜け出してくることになっていた。30分経っても戻ってこなかったときは、この仕事は失敗だと判断し篤志がのり込むことになっている。しかしたとえ何かあっても、素人相手にふいをついて逃げてくるぐらいの護身術を、史緒には教えてあった。
「篤志!」
 人波から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。すぐに史緒の姿が見える。ここは少しの胸のつかえが取れて安心すべきなのだろうが───。
「史緒」
 篤志は驚いた。
 史緒が、大声を出して走って来るなんて。
 何か失敗して、まずいことになったのかと、篤志は体を緊張させた。息を削り走ってきた史緒の体を庇うように受けとめる。
「おい」
「篤志、見てた? あの子っ」
 史緒は篤志の顔を見上げて真顔で言った。
「───は?」
「途中、私に話し掛けてきた高校生がいたでしょう?」
 もちろん、史緒のあとを尾けていた篤志は見ていた。
 茶色のコートの下にセーラー服、ウェーブの髪、背丈は史緒と同じくらいだっただろうか。言葉を交わしていたようだが篤志がいた場所からは、内容は聞き取れなかった。史緒を掴まえるように詰寄って、逃げるように去っていった高校生。
 さして重要とも思えず放っておいたのだが。
「ああ。…何だったんだ? あれ」
「どっちへ行ったかわからない?」
 すかさず訊いてくる。篤志が首を横に振ると、史緒は軽く息をついて、
「そうよね」
 と、少し落ち着いたようだった。
 史緒は心の中だけで舌打ちした。本当は篤志に女子高生を追いかけて欲しかった。けれど仕事を放棄してまで、史緒に声をかけただけの彼女を追いかけることなんて篤志はしないだろう。
 史緒は思う。
 このまま放っておく?
 胸が騒いでいるのが判る。
(まさか)
 自然に笑ってしまう。
「そっちの首尾はどうなんだ? ───って…おい、史緒!」
 篤志を無視してとっとと歩き出す史緒。
「仕事は済ませたわ。そうでもなければあの子をむざむざ見送った意味がないもの」
 振り返らないまま。史緒の背中はそう答えた。この雑踏のなか、それはかなり聞きづらかった。もしかしたらその台詞は篤志に聞かせるためのものではなく、自分に言い聞かせるためのものだったのかもしれない。



*  *  *




 さらに1時間後。
「と、いうことがあったのよ」
 篤志、司、三佳を前に、史緒は一連の出来事をかいつまんで話した。
 時間は9時を回っていた。いつもならとっくに解散になっている頃だが、司と三佳は2人を待っていて、そして篤志は史緒の言動が気になっており、それを事務所に帰り着いてから尋ねたのでこういう状況になっていた。
 史緒の話の途中、3人の反応はそれぞれだったが、史緒が体験したことの内容は理解してくれたらしい。一番初めに口を開いたのは篤志だった。それは多分、3人の共通の意見だったに違いない。
「───…で? 史緒の気になっている部分というのは、どこなんだ?」
 三佳は頭を縦に振り、篤志の言葉に同意を示した。
 街中で高校生に話し掛けられた。ただそれだけのことに、史緒は何を気にしているのだろう。
 一方、史緒のほうも巧く伝えられるとは思っていなかった。
「その子の言動よ。どう思う?」
「どう思うって言われても、なぁ」
 肩をすくめる篤志。合い向かいに座る司は少しの沈黙の後に、言った。
「つまり史緒が疑問に思っていることはこういうことだろう。何故、その男の意図を知っていたか、そして史緒がそれを承知していることに驚き、何故逃げ出したのか」
「そうよ」
 要約した司の台詞を、史緒ははっきりと肯定する。
 三佳はつまならそうに片肘をついて頬を乗せた。
「男のほうもあからさまに怪しい奴だったんだろう? そういう奴に絡まれている人間を放っておけないただの世話焼きじゃないのか?」
「あからさま、ってほどでもなかったわ。それに、見るからに怪しい男にひっかかるような馬鹿な女なら、みんな放っておくわよ」
 さすがに司は呆れて一言。
「史緒みたいな思考の人ばかりじゃないよ」
 そして篤志。
「昔、その店で利用されてた経験がある女子高生、とか」
「そういうタイプでもなかったと思う」
 確かに美人ではあったが、派手なタイプではなかった。どちらかといえば内向的な部類に入るのではないだろうか。それに。
「私が違和感を持ったのはセリフなの。“嫌なことを考えてる、私にはわかる”。これはかなり微妙な言い回しでしょう?」
「それはそうだが…」
 ここで沈黙が生まれた。
 史緒の説明を聞く3人は理解できていないし、だいたい史緒本人が、自分の気持ちをうまくまとめていないのだ。
 史緒は椅子の背に体重をかけて天井を仰いだ。息をつく。
 あの高校生の何がこんなにも気を惹くのか、判らないでもないのだけど。
<どうしてあなたが知ってるの?>
 そう、どうして知っていた?
 何を感じた?
<とても、嫌なことを思ってる。私、わかるの、あなた、騙されてるよ?>
 史緒は目をつむる。
(……やっぱり)
 どう考えてもあの発言は変だ。おかしい。おせっかい。あの必死さは何?
 ひとつ。漠然とした直感がある。
 そう、きっと。
 あの子は普通じゃない。
 この言い方を、あの子は受け入れるだろうか。毛嫌いするだろうか。
 何が普通じゃないのか、うまく説明することもできないのに。
 そんな不確かなものに動かされたくないのに。
 この直感を口にしてしまうのは、浅はかすぎるだろうか。
「…あの子が声をかけたのは、ある種の使命感があると思うのよ、私は」
 と、言葉にしてみる。自分の本音からはかけ離れているわけではないが、あまり正確ではない。
「使命感?」
「日常に転がってる問題でも、本人しか気づかない問題は、本人が解決するしかないってこと」
 微かな笑みをたたえて意味ありげなことを言う史緒に、3人のなかで一番堪え性のない三佳が口を挟んだ。訳が分からない説明を聞いているより、自分から質問したほうが早いと思ったのだろう。
「ちょっと待て。結論として史緒が何を考えてるか聞きたい」
「───」
「質問を変える。史緒はその女をどうしたいんだ?」
 質問を変えてくれても答えにくい質問を三佳はしてくる。またも口を閉ざし、考え込んでしまう。
 でもどんなに考えても答えなんて出てこないような気がする。だって、問いが無いのだから。
 何の答えを探しているのかさえ判らないのに答えを見つけようとするなんて。そんな理論的で無い思考を、自分はしないはずだ。
 どうすればいいのかはちゃんと判ってる。
 知りたければ、その対象をもう一度見ればいいだけ。
「探して会ってみたい」
 ぽつり、と。無表情で史緒が言うと、篤志と三佳は顔を見合わせた。司は軽く肩をすくめた。
「史緒がそう言うなら、僕らに止める権限はないよ」
 と、言う。
 三人の中で、一番史緒にあまいのは司だ。一番付き合いが長いぶん、互いのあまり知られたくない昔話のストックは星の数ほどある。幼い頃の少々複雑ないざこざなどから分析すれば、司が史緒に対してあまり強く言えない性格になっても不思議ではない。司に自覚は無いだろうが、史緒は彼のそういうところが好きではなかった。
 あとの二人はもう少しシビアだ。篤志は史緒の仕事ぶりを静観しているように見えても、歯止めや忠告は惜しまない。三佳は史緒の言動すべてを見下している感があるが、史緒は彼女のそういうところが好きだった。
「……まぁ、その高校生探しを止める理由はないな」
「私には関係無い。勝手にやれ」
 史緒のはっきりしない結論を追求することもなく、三佳は興味無さそうに手元の本をぺらぺらとめくり始めた。
 確かに、史緒がその女子高生に会いたいだけなら、史緒が何をしようとも三人には関係がない。そもそも史緒が篤志たちに意見を伺う必要は無いのだ。ただ、会いたいだけなら。
 無意識? それともすでに史緒のなかでは計算が始まっているのだろうか。
 ただ、会いたいだけ。
 史緒の口からそんな言葉が出た時点で、三人はおぼろげながらも予感していた。
 「五人目」の存在を。



*  *  *



 検索条件はコンピュータでは探せないものだった。例え、それなりのデータベースを持つものであったとしても。

 まず、高校生であること。性別は女。───ここまではいい。
 制服は紺のセーラー服で、赤いタイ。バック、コートは自由。
 頭髪は肩までのウエーブで黒。あまり派手ではなく、八割の人間が認める程度の美人度。身長160p前後。
 行動範囲内に渋谷区を含めている。

 その日、御園調査事務所に朝一番でかかってきた電話は、同所員のまりえが受けた。
 見知っていて、気心が知れている人物だ。所長である御園真琴とも懇意で、まりえはすぐに真琴へと取り次いだ。───だから、真琴が今、受話器を耳に頭を抱えていようとも、自分のせいではないと、彼女は主張したい。
 自分の主である御園真琴をそりゃもう思いっきり尊敬して敬愛の心を惜しまないまりえだが、…だが、頭を抱えたく気持ちもよくわかる。表情には出さないが、まりえも同じ気持ちだった。
「…史緒」
 らしくなく、低くうねるような、重い声。
「そういう女子高生が都内に何万人いるか知ってる?」
 同業者である阿達史緒は、無茶ともいえる依頼を電話でしてきた。真琴は最初冗談かと思った。しかし相手は仕事のことについて冗談でも冗談を言う人間ではない。本気だと判ると真琴は頭を抱えるに至った。
 確かに、仲間内で最も“それなりのデータベース”を持つと自負する真琴だが、こんな無理な依頼は初めてだ。
 彼女は今度はいったい何を始めたのだろう。
 まさか東京都の人口を知らないわけではあるまい。
 それに史緒が提示した捜索条件はあまり意味がなかった。その条件では都内の女子高生全員が調査対象となってしまう。容姿や身長などは確実性が無い。
『その何万人をなんとか数千人くらいまで絞ってほしいのよ。後は私が首実験するから』
 と、気が遠くなるようなことを言う。
 都内の高等学校だけでも百は超える。もし真琴が数千人のデータを史緒に提出したら、史緒はその膨大なデータの中から、たった一人の人間を見つけることができるとでも言うのだろうか。そんな不確かな情報しか知らない人間の顔を記憶に留めておくことが、できるとでも言うのだろうか。
 そんな皮肉さえ言いたくなってしまう。
 真琴はまりえに視線をやると、まりえは慰めるように苦笑して、頷いた。
 ほかでもない、阿達史緒の依頼だ。
 断るわけにはいかないだろう。真琴はため息をついた。
「引き受けるよ、史緒」
『ありがとう』
「ただ、時間がかかる。…そうだね、早くて1月エンド。それから報告書はとんでもない量になるだろうから、郵便ではなくMOにするけどいい?」
『構わないわ』
 即答だった。報告書のことはともかく、納期について驚きを見せないのはある程度予測していたのだろうか。約一月半も、待つつもりなのだろうか。
 それと、真琴は忘れずに付け加えておくことにした。
「報酬も容赦なく請求するからね」
 軽く笑って言うと、電話の向こうで史緒も、
『覚悟しておくわ』
 と笑った。




*  *  *



「史緒が件の女子高生を捕まえられるか、賭けようか」
 と、最初に言ったのは七瀬司だった。
 いつもの場所、月曜館で。
 例の高校生捜しを御園真琴に一旦は預けたものの、史緒は落ち着かないようだった。始終、何か考え込んでいていつもなら手際よく済ます仕事にも支障をきたしている状況だ。そういうしわ寄せにより、今日も史緒は忙しそうに書類整理に追われていたので、今、ここには三佳と篤志がいる。
 司の発言に2人は落ち着いたもので、とくに篤志はそろそろどちらかが言い出すだろうと思っていたところなので、軽く息を吐いて、背を椅子に預けた。
 三佳は、ふむ、と片肘を付くと、スコーンを口にくわえたまま窓の外に視線を向ける。
「…追いかけてるのが女子高生っていうのがどうもな。男だったら面白味あったかも」
 と、三佳は言うが、結局は賭けにのる気でいる。どう面白味があるのか興味深いところだが誰もつっこまなかった。
「まぁ、珍しくあいつにしては本気になっているというか、熱くなってる、かな」
 と、篤志。
 たかが二つ三つ言葉を交わしただけの女子高生に、史緒がどんな興味を持ったかなんて知らないけれど、確かに彼女にしては端から見て驚く程の、熱の傾け様。
「でもその賭けって、御園さんのところの能力が問われることにならないか?」
「あそこの調査能力を疑うのは下愚だろう」
「じゃあ、史緒がどこまで条件を特定できるか。また、御園さんのところの調査結果の中から、その女子高生を特定できるのか、では?」
「そんなモンか」
「〆切は? 長びけば不利になるのは史緒だが、こちらが白けるのもごめんだ」
「うーん、御園さんのところの調査結果が出てから2週間」
 3人のひととおりの相談が済んで、今回の賭のルールがまとまる。
 それぞれは様々なファクターを想定したシミュレーションを行うが、三佳は驚くほど早く張りを出した。
「見つからないほうに千円」
「早」
 ちなみに賭けのレートは、一番最初に張りを出した人間に左右される。今回、三佳が提示した金額は前例からするとかなり高額なほうだ。
 三佳は腕を組み、言い捨てる。
「理由はあまりにもばかばかしいからだ」
「きついなぁ」
 司が苦笑する。
「だって、掃いて捨てるほどの東京の人口のなかから、どうやってたった一人の人間を見つけられる? あいつだってそれを判ってるはずだ。いったい何をムキになってるんだ」
 と、言う三佳のほうもムキになって力説する。司はうーんと考え込むが、それより先に考えて答えを出したのは篤志のほうだった。
「んじゃ、見つかるほうに五千円」
 悠々と言う篤志に三佳は訝った。
「根拠は?」
 篤志は三佳に向かってにやりと笑う。
「あいつは、本気になったらしつこいからな」





 結局、司は千円で賭尽ということになり、胴元のくせに今回の賭けは結果を見守る立場に回った。三佳の言い分はもっともだが、史緒の性格を理解している篤志の言うことも侮れない。
 慎重な司らしいと言えばらしいが、実際は司のほうが、篤志より史緒とのつき合いが長い。
 史緒があんな風に一人の人間に執着するのは極めて珍しいことだ。篤志の言う通り、史緒は本気になったら力ずくで物事を押し進めるだろう。かと言って海辺の砂を一粒拾う作業をこなせるのかも、また謎である。
(でも…。三佳のほうが分が悪いかな)
 そんなことを、司は思う。
 探して会ってみたい。史緒はそう言うが、会ってどうするというだろう。
 調査結果が出るのは少なくとも1月エンド。それが御園真琴の回答だった。
 では、少なくとも2ヶ月以内には、対象人物の身元か史緒の本気の実力の黒星、どちらかがはっきりするというわけだ。



 ───と、そんな風に賭けのネタにされているとも知らず、今日も史緒は椅子に深く座り、考え込むように窓の外を見ていた。
 御園真琴からはとくに連絡はない。まだ半月しか経っていないのだから当然だけど。
 でも。ひとつ、史緒が恐れていることがある。
 真琴から結果が届くのは1月末。あと一月もある。
(そのうちに忘れてしまうのが恐い)
 探している人物の顔、声、相対した印象、雰囲気。
 調査結果から最終的に決定する判断材料は、この記憶だけだから。
 肩を掴んだ強い力、あの必死さはなに? 赤の他人へのお節介。普通でない能力、それを持つ女子高生。
 その彼女が、都内のどこかで高校生活をしていると思うと口端が思わず笑ってしまう。
 おもしろい、と思う。
 一対一で向き合ってみたい。会ってみたい。
 焦らずに。そう思っても、いつも心の隅で彼女を捜している自分がいる。
「史緒」
「え」
 名を呼ばれて顔を上げると、篤志がすぐそこにいて、呆れたように笑っていた。気づかなかった。
「あ、ごめん。なに?」
「少しは落ち着けよ。…ほら」
 篤志は電話からのびる受話器を差し出した。電話は史緒の机の上にあったものなのに、それが鳴ったことさえ史緒は気づかなかったのだ。どうやら史緒宛の電話だったらしい。
「誰から?」
 尋ねると、篤志は、
「出ればわかる」
 と言った。訝りながらも受話器を受け取ると、史緒は営業用の声で、
「もしもし」
 と言う。すると、
『史緒さんっ、お誕生日おめでとうございます!!』
 と、高くよく通る声が叫んだ。びっくりして目を見開き、思わず受話器を見つめてしまう。
 瞬きをいくつか。
 篤志へ目をやると、静かに笑っていた。
「…」
 篤志の言う通り、電話の主は声だけで判った。
 海の向こう側。異国のともだち。
 でもやっぱり史緒はびっくりしたままで、すぐに声が返せなかった。素直に嬉しいけど、驚きの胸の鼓動も、同じくらい高く響いていた。
 今日、12月29日は、史緒の誕生日だった。
「………ありがと」
 それだけをどうにか返して、それからいくつかの言葉を交わして、電話を置く。
 胸の鼓動冷めやらず、ふぅと息をつくと、コツンと篤志が史緒の頭を小突いた。
「ほら、上着着てこい。出かけるぞ」
「え? …ちょっと、篤志っ」
 篤志はぐいと史緒の腕を引いて椅子から立たせた。
「こんな年末に仕事なんか入らねぇよ。たまには誕生日祝うのも悪くないだろ? 司と三佳は先に行ってる」
 戸惑う史緒を無視して、篤志は力ずくで史緒を事務所から追い出した。
 いつもの月曜館で、司と三佳が待っていた。






 1998年1月7日水曜日。
 学校の玄関を出ると日はまだ高く、青い空が眩しかった。
「三高さん、ばいばいっ」
 何気なく声をかけていくクラスメイトはまだいる。
 良心に触るのでさすがに無視はできない。
 こんな時、祥子は軽く頭を下げるだけだ。
 もうわかっているけど、気づくといつも人から避けることに気をつかっている。

 一人でいるのは楽なことだけど、一人でいられるほど強いわけじゃない。
 そんな簡単なことがとても難しい。
 昔、平気で孤立を保って居られたのは、何も知らなかったからだ。
 無知だったから。

 今はそんな無様な無邪気さが、少しだけ、うらやましいと思う。

 年が明けて2月。
 御園真琴は報告書代わりのMOを持ち、直接A.Co.の事務所を訪れた。
 応接用のテーブルを挟んで史緒が向かいに座ると、真琴はそれをテーブルの上に置いた。
「遅れてごめん。とりあえず3千人まで絞ってある」
 口調はいつも通りだが、改まった表情で言った。懇意の2人でも、仕事のことになると関係も変わってくる。緊張した空気が漂う事務所の端で、篤志と司と三佳はその光景を見守っていた。
「ありがとう」
「ひとつ言っておくけど」
 史緒がMOを受け取ると真琴は厳しい口調で口を挟む。
「この中に君が捜している人物がいるとは限らない。それは承知して欲しい」
「…」
「君が言った条件では該当する人間が一万は超すだろう。この仕事を受けるにあたって、ウチとしても絞り込む数を定めなければならなかった。期間や集められるだけの情報、史緒が流し見ることを考慮した人数…それらを考えて3千人と決めて、実際3千人にまで絞った」
 絞ると言っても、その絞るための情報がそもそも少なすぎた。この報告書の確実性は保証しきれるものではない。
「僕としても不本意だけど、君が捜す人物はもしかしたら漏れた中にいるかもしれない、いや、そもそも1万の中にさえリスティングされてなかったかもしれない。───そういう内情を理解して欲しい。それくらい、今回の君の依頼は無謀すぎたんだ」
 真琴はこの依頼が内輪なもので良かったと思っている。こんな失態を、自分らの上にいる組合には絶対に知られたくない。彼の片腕であるまりえだって同じ思いだ。史緒がその一人を捜し出せる可能性は1%を下るだろう、と。
 史緒はそんな真琴の内心を知ってか知らずか、MOをてのひらの中で弄びながら、何を考えているか判らない表情でそれに目を落としていた。
「ありがとう真琴くん。それからごめんなさい。まりえさんにも、そう伝えておいて」
「史緒?」
「真琴くんに責任を押しつけるわけじゃないけど、でもやっぱり私はコレに頼るしかないから。…それに、探しものはあると思って探さないと、見つからないものだしね」
 大丈夫よ、気長にやるつもりなの。史緒はそう付け足した。

 深夜3時。
 ベッドのなかで目が覚めてしまった三佳は、寒いのを我慢して布団から這い出た。
 喉が渇いていた。
 パジャマの上からカーディガンを着こんで、部屋を出る。
 三佳の部屋のドアを背にして、右側が史緒の部屋。左側がダイニングだ。音をたてないようにダイニングへと向かう。いくら史緒でも、この時間は寝ているはずだった。
 スリッパの音が響く夜中。そんな闇に恐怖を覚えるわけもなく、三佳はミネラルウォーターを一杯飲んだ。
 目と頭が冴えてくるのがわかる。また眠るための努力をしなくてはならないが、それは仕方ないだろう。
 ペットボトルを冷蔵庫へ戻し、流しでコップを手早く洗う。手を拭いて、さて戻るか、と部屋へ足を運ぼうとしたとき、ふと、三佳の頭を過ぎったものがあった。
(まさか…)



「やっぱり…」
 階段を降り事務所を覗くと明かりがまだついていた。容赦なくドアを開けると予想通り、阿達史緒がパソコンの前で、机に伏して寝ていた。三佳は苦々しい声を出した。
 部屋の中へ足を踏み入れると、机の上には数十枚のメモ。4桁のナンバーと○×、数行のコメントが書かれている。
 三佳はパソコンのディスプレイをのぞき込むと、女子高生の写真が映し出されていた。パソコンの前で眠る史緒を起こさないようにマウスを操作すると、映し出される顔が次々と変わる。なるほど、本当に3千人の写真が用意されているというわけか。あるところに売れば高く売れそうなものだ。
 史緒は微かな寝息をたてて、自分の腕を枕にして寝ている。何考えてるんだ、と言いたくなってしまう。
 一度すれ違っただけの人間。
 史緒は何故、こんなにも躍起になって探すのだろう。探してどうするのだろう。
 ただあの瞬間の言動に妙な点を見ただけで。
 何故、ここまで拘るのか。
(…わかってる)
 本当は知ってる。司や篤志も気づいているはずだ。
 見ていればわかる。とても単純なこと。
 三佳自身、この場にいられるのは阿達史緒に気に入られたからだ。
 自覚はある。
「───…」
 三佳は次の行動に悩まなかった。
 右手でこぶしをつくり、それを史緒の頭へ振り下ろした。ごつん。
「っ! …なに?」
 史緒は飛び起きて、痛覚が悲鳴をあげる頭を押さえた。
「あれ…三佳?」
「あれじゃないっ。上で着替えて自分の部屋で寝ろっ」

 ─── 関谷篤志と一条和成がある意味安心して史緒を自活させているのは、島田三佳という同居人がいるからこそなのだ。



*  *  *



 御園真琴がA.Co.の事務所を訪れてから10日目のこと。
 今日も史緒はパソコンにかじりつきだ。三佳のしつけの賜か、夜はちゃんと自分の部屋で寝ているようだが、本当、呆れるものがある。
「いい加減、あきらめればいいのに」
 事務所のソファで三佳はそんなことを口走った。史緒はすぐそこにいるが、聞こえてないのは判っている。
「期間は2週間…。あと4日か」
 司はおもしろそうに笑う。実際、4日後に史緒の黒星が見られるのも一興かもしれない。しかし勝手に2週間という期間を設けたのはこちらで、史緒は気長にやると言うのだから彼女はすぐには自分の負けを認めないだろう。
「篤志はどう思う?」
 史緒の業務の片腕を担う篤志は自前のノートパソコンを持ち込んで雑務をこなしていた。事務所のパソコンは史緒が人捜しのために占有しているからだ。
「俺は、今のところはまだノーコメント」
 キーボードから視線を離さずに一言、呟く。カタカタとキー音が絶えない。
 無表情で言ったので、その真意はうかがえなかった。
 いい加減、あきらめればいいのに。三佳のその台詞は篤志にも向けたい。
 ふぅ、と息をつくと三佳は立ち上がった。
「コーヒー淹れてくる。司と篤志は?」
「いる」
「僕も」
「三佳、私も…─── あっ!」
 耳ざとく、そして図々しく声を発した史緒。その語尾で突然、小さな悲鳴をあげた。
 何事かと振り返った3人。史緒はパソコンに見入っていた。ディスプレイの照度が顔を照らしている。その中で史緒の表情が変化する。
 目を見開いて強ばった顔から、口端を擡げ何かを確信した表情。
 三佳が嫌な予感を感じる前に、史緒は言う。
「見つけたわ、この子よ」
 静かに、でも自信を含んだ声。
 何万人のなかの1万人。1万人のなかの3千人。3千人のなかの、ひとり。
 ───捕まえた。史緒はそう確信した。
「…っ」
 そうなると史緒の次の行動は速かった。呆然とする3人をよそに、すぐに目の前の電話に手をかける。
「あ、真琴くん? 史緒です。例の資料の2746番の子の詳細な身元調査、お願いしたいんだけど。───そう、急ぎでね。あ、それから今回の支払いはA.Co.じゃなくて、私個人だから、…ええ、そう」
 素早く次の一手を打つ史緒の姿は本当に楽しそうだった。
 そしてこちらも。いち早く深々とため息をついたのは篤志で、キーを打つ手を止め、顔をあげた。
「三佳、掛け金」
「…わかったよ」
 刺を生やした台詞を、三佳は吐いた。隣で司が笑っていた。







16話「GirlMeetsGirl 前編」  END
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