14話/15話/16話
15話「ken2」


 1999年1月8日。午前2時32分。

 阿達史緒(17歳)は暗闇の中で目を覚ました。
 3秒程の放心状態があった後、史緒は、まず、現在の居場所が自分の部屋だということを確認した。暗くて何も見えない中でも、空気の匂いでそれが分かった。
 次に空間の明暗。例えこの季節でも、この暗さは朝ではないはずだ。何故、自分は目が覚めたのだろう? 深く考えなくても、理由はすぐに分かった。
(電話…?)
 枕元に置いてあるはずなのに、それは遠くで鳴っているように聞こえる。単調に、しかし頭にくるほどのしつこさは誰もが知っている、音。
 意識がはっきりしてきた頃合いで、史緒が最初に手を伸ばしたのは、電話ではなく時計だった。サイドテーブルに置いてある置き時計を空振り無しで右手で掴み取り、顔に近づける。暗くてよく見えない。とりあえず時計は枕の上に置いて、今度はもう少し手を伸ばして、電気スタンドのスイッチを押した。
 照明の明るさに目が眩む。少ししてからそっと目を開き、時計の針を読んだ。
 それは「朝」と呼ぶにはほど遠い時間だった。
 確か、床に入ったのは1時半だったような気がする…。
「……」
 その表情が少しだけ歪んだ。
 深夜の電話。もしかしたらあまり良くない知らせの場合もある。そう思い返したけれど、やはり8割は、電話の相手に対する怒りが内心を占めていた。
 一度深呼吸をして、史緒は受話器を上げた。
「もしもし」
 寝起きだと悟られないように声を出すのは、結構得意だ。もっとも、この時間に電話をかけてきておいて、寝起きだと思わない輩はいないだろうけど。
 史緒は髪をかきあげた。誰にも見られる心配はないので、史緒は遠慮無く、不機嫌そうな表情を素直に出した。
「!」
 受話器の向こう側から名乗られた名前に、史緒は眉をしかめた。
 想像していた中の誰でもない人物。その意外さで、史緒は眠気が剥がれるのを感じた。同時に、この電話が最悪の知らせでないことも悟った。
「ええ、阿達です、こんばんわ。一体どうしたんですか、こんな遅くに」
 少々の皮肉を込めて言う。
 電話の相手は何を焦っているのか、うまく要点の掴めない喋りかたで史緒に何か伝えようとする。
 何があったんですか? と、こちらから促してやろうとも思ったが、とりあえず最後まで聞くことにした。史緒は明りひとつの部屋の中で、ベッドに座り、喧しく騒ぎ立てている受話器に耳を傾ける。
 そして。
 ようやく話の内容が形のあるものになってきたころ。
「何ですって!?」
 史緒は勢いよく立ち上がり、眉をつり上げた。
 思わず叫んでしまった声は思いのほか響いて、となりの部屋にいる同居人をも、眠りから覚まさせてしまっていた。
「…ええ。承知してます、2時間以内にはそちらに」
 史緒は乱暴に受話器を置いて、すぐに立ち上がった。出かける準備をしなければならない。
 こんな夜中に呼び出されるのは初めてのことだった。




 午前3時4分。
「出かけるのか?」
 史緒が自室を出ると同時に、隣の部屋のドアが開きパジャマ姿の島田三佳(10歳)が顔を覗かせた。
 その声はしっかりとしていて、寝ぼけているのではなく、どうやら完璧に起こしてしまったらしい。電話を切ってからは物音を立てないよう注意していたのだが、無意味だったようだ。史緒は申し訳なさそうに謝った。
「ごめん。起こしちゃった?」
「何があった」
 暗い廊下に必要以上に声が響くので、2人は自然と声が小さくなる。
「帰ってから話すわ、緊急なの。…あ、心配いらないから。連絡取りたい場合は、組合本部にいると思うから電話して」
「ああ」
「戸締まりはしっかりしていくけど、不安だったら篤志を呼んでね。…司の部屋へ行くのはだめ、近所とはいえ深夜なんだから」
 とは言っても、三佳は絶対、篤志は呼ばないだろうし、深夜に司を起こすようなマネはしないだろうけど。
「じゃあ、行ってくる。まだ遅いし、三佳はまだ寝てて。風邪ひかないでね」
「そんなにヤワじゃない」
「どうかしら。医者の不養生とも言うし」
 三佳との軽口も早めに切り上げて、史緒は踵を返した。
 2階まで降りると、非常灯だけが暗闇の中で光っていた。史緒は躊躇なく進み、事務所の前を通り過ぎる。また階段を降り、1階へ。
 史緒が外へ出ると、呼び出しておいたタクシーが既に待っていた。
 切れるような寒さに一度だけ震えて、史緒はタクシーに乗り込んだ。
「新宿まで、急ぎでお願いします」



 午前3時25分。
 灯りが消えることが無い街。
 それは駅東口の繁華街だけでなく、西口のビジネス街も同様である。
 高層ビルが立ち並ぶ景色は光を失うことは無い。桝目状に並ぶ窓には、毎晩、点々とあかりが灯っている。大抵、その中では一人二人がデスクに座り黙々とパソコンに向かっているものだが、今夜、それらの一つでは、数十人の人影が見えるフロアがあった。
 TIA(Tokyo Infomation Association)本部───。
「被害状況を報告しろっ!」
「何が起こってるんだっ」
 深夜であるにも関わらず、今、ここにいる人間たちはいつも以上に活動的だった。年を考えずに走っている者もいる。ほとんどは周囲の人間といくつかの言葉を交わし、不安気な表情で挙動不審だ。青い顔になってなにやら叫んでいる中年の男は、いつもきっちりスーツを着ているのに、今日はボタンもかけないでしかもそれさえも気にして入られない様子だった。この光景を見て、何かトラブルがあったのだと思わない人間のほうがおかしい。
 本日1月8日の午前0時15分。本部で残業中だったネットワーク管理者が、コンピュータの作業記録に異変があることに気が付いた。そしてそれを入念に調べていくと、不正アクセスの事実が明らかになったのだ。本部のコンピュータに、外部からの侵入が行われていた。
 事態を重く見た管理者は午前1時、本部役員に連絡、本部役員は他の代表たちを叩き起こした。データベースの重要性をよく理解している代表たちは全員ここへ集結していた。
 信用が第一のこの組織で、ハッカーに侵入されました、なんて冗談にもならない。
 本部のコンピュータにアクセスする正規の方法は一つしかない。
 登録されているIDとパスワードさえあれば、いつでもアクセスできる。IDとパスワードを登録する手順は、組合員が組合に加入していることを照明するパスカードと必要書類を提示するだけで良い。ネットワーク管理者よりは制限がつくが、多数のデータを引き出すことができる。
 しかしネットワークの危険性はここにある。
 IDとパスワードさえあれば、例え、本人でなくともアクセスすることが可能なのだ。実はネットワークから外部の人間にコンピュータに侵入される犯罪では、パスワードを盗用される例が一番多い。パスワードさえ手に入れば、正規にアクセスしているのと同じことで、安全かつ比較的簡単だからである。
 ネットワークはその危険と常に表裏一体だということを忘れてはいけない。故に、パスワードの機密性を各々が自覚し、理解している必要がある。
 TIAでは、各自のパスワードを週一回変更することを義務づけられていた。使用規約はそれなりに厳しいし、事前教育も徹底している。それらは全て、このようなことを起こさない為であったのに。
 この様だ。
 けれど、今回の場合はパスワードが盗用されたわけではないことは分かっている。犯行時間に、どのIDからのログインも無かったことが記録されているからだ。もっとハードに近い、システムから入られたことを意味する。
 37代表が集まっているといっても、こう騒然としていては、一体何が起こったのか把握していない者もいるだろう。説明する者もいない───説明できる者がいない。いたずらにほんの少しの情報が口頭で伝わり、それは広がるにつれ真実性を薄れさせていく。本部役員に至っては責任問題に発展するだろうし、元々コンピュータの知識を持たない年配層は管理者を責めるしかない。
 上層部は管理者を問い詰めているし、他の者は上へ下への大騒ぎである。こんな状態は組合結成から初めてのことだし、このような事件も、初めてのことだった。
 忙しく動く人々の中、壁の隅に立つ4人の男女の姿があった。
「いい大人がみっともないなぁ」
 深夜に騒然としている部屋を見回し、そう言ったのは御園真琴(20歳)だった。彼にしては少しキツい台詞ではあるが、彼もまた夜中にたたき起こされたクチなのだ。不機嫌になるのもわからなくはない。
 彼の隣に淑やかに佇んでいる女性がいる。年端は20代後半くらい、ショートヘアに黒いスーツ姿は幼くは決して見せなかったし、目鼻立ちが整った顔は石膏のように白く、そして軽く目を伏せて微動だにしなかった。立ち振る舞いも優雅で、彼女は完璧と評されていた。
 史緒と的場文隆(21歳)は彼女の年齢も本名も知らない。ただ、彼女の雇用主である真琴には「まりえ」と呼ばれていた。まりえは御園調査事務所の情報処理技術者だった。
 史緒はまりえに尋ねた。
「そういえば、まりえさんのところは大丈夫だったの? 本部のLANに繋がってたわよね」
「定時過ぎは回線を切っています。被害はありません」
「おさすが」
 文隆は肩を竦めて賞賛した。まりえは微かに笑ってから顔を上げた。
「本来、ネットワークにつながっているマシンに重要な情報を入れておくのはご法度ですよ。盗んでくれと言っているようなものです。本部の危機感の欠落は問題ありますよ。いつかこんなことになると思ってました」
 しかし、まりえのこの台詞の前半は理想論である。
 組織柄、本部のデータベースを複数のグループが参照するシステムである。外部のグループがアクセスする為には、データベースはネットワークに置かれていなければならないからだ。それが必須というならば、問題は皺寄せされて、それはセキュリティに重きが置かれる。
 しかしTIAの場合、それは心配無いはずだった。
「何とか言ったらどうだ、桟宮っ!」
 部屋の中心にできている人垣の中から、ひときわ大きな声が響いた。
 その人垣の中心にいる人物は分かっている。
 桟宮肇(さんぐうはじめ)、36歳。TIA本部のネットワークセキュリティ総括者だ。
 桟宮は電算室から運び込んだパソコンを前にして、何やら考え込んでいた。ペンの先を噛り、膝と腕を組んで椅子にもたれている。あの様子だと周囲の怒鳴り声など耳に入っていないかもしれない。
 今、彼が責められているのは当然の成り行きだ。セキュリティはコンピュータを守るのが仕事で、今回の事件ではそのコンピュータに泥棒が入ったのだから。彼の管理能力が問われることになる。
 しかし桟宮肇は、元・某大手企業のプログラム開発研究課長という経歴の持ち主で、その団体気質が肌に合わず自主退職するまで一線で働いていた技術者だ。勿論、今でもその知識と腕前は誰もが認めているし、まりえも大人しくその力を認めた人物である。このような事が起こるとは夢にも思わなかった。
 まりえは真琴に言った。
「御園所長、桟宮さんと話をさせていただけませんか」
「いいよ」
 あっさりと真琴が頷く。
 すると、真琴は一歩前に出て、軽く息を吸った。
「いい加減にしていただけませんか!」
 凛と通る声が響いた。真琴の声に室内の騒動が一気に収束した。
「セキュリティを問題視するより先に議論すべきことがあるでしょう。現状の把握、そして解析、善後策とその実行。折角、深夜にも関わらず全員揃っているのだから、会議を行うのが最善と思われますが」
 20の若者にそんな風に仕切られては面目立たない者もいるだろう。所々に苦々しい表情を隠さない人間も見られたが、大概の人たちは真琴の台詞に頷いていた。
 史緒と文隆は目を見合わせてやれやれという表情をする。
 3人の中で、一番、何をやらかすか分からない突飛さを持っているのは真琴だ。外側に見せる表情をくるくると変えるので、その本質は未だ分かっていない。
「では、37代表は10分後に会議室へ集合。他の者はここで待機だ」
 本部役員がそう言うと、室内の緊張は取れ、空気が動き出した。室内にいたほとんどは隣の会議室へと移動することになる。
「じゃあ、まりえ。僕らはあっちに行くから」
「はい、ありがとうございます」
 何事も無かったかのように言葉を交わす真琴とまりえ、所長と所員という以外の2人の関係を、史緒たちは知らない。


 代表たちが会議室へと移動すると、残されたのはわずか数名だった。その中にはまりえと桟宮もいる。
 役員たちに取り囲まれていた時と変わらず、まだ思案中の桟宮に、まりえは近寄った。
「桟宮さん」
 呼びかけを耳にすると、桟宮はぷすーと息を吐いた。
「…まりえさんか」
 姿勢を変えずに、桟宮は呟いた。
「やられたよ。まさか俺のシステムに入れる奴がいるとは思わなかったなぁ」
 桟宮は肩を竦めて笑ってみせた。口惜しがっている心境も読み取れるが、深刻そうでもなく、面白がっているようだった。
「珍しいですね。あなたが素直に他人を誉めるなんて」
「だって、俺が構築したシステムだよ? まりえさんも構築仕様は知ってるだろう? 言語リストは勿体無くて見せてないけど」
「ええ。私の知る限りでも指折りのセキュリティでした。…いつかアタックしてやろうと思っておりましたのに、先を越されてしまいました」
 本当に残念そうに言ったら問題発言だっただろうが、まりえはいつも通り表情を崩さなかった。…でも、本心かもしれない。桟宮は冷や汗をかく。
「…そういうわけで、俺の自信作を下見も無しに1日で崩しやがったから、誉めてやって然るべきなわけだ」
「あなたらしいです」
 今度はまりえも素直に認めた。
 利害は関係無く、いち技術者として見た場合、これはもう拍手ものだ。
 桟宮はお手上げのゼスチャをして、降参を表したポーズでしばらく手を振っていた。
「ピンポイントで狙われたのかしら?」
「いや、適当にサーチしていたみたいだ。…最初から狙われていたわけではなく、偶然標的にされたんだろう。…こんな組織とは知らずにな」
「パスワードが盗用されたわけでもないのですね」
「ああ。…そうだよなー。昔は旧ソ連あたりから、BFA(パスワード総当たり攻撃)されたことは何回もあったけど、今時、それじゃ通用しないし」
「IPAには連絡しましたの?」
 IPAとは、情報処理振興事業協会のことで、ネットワーク上で起こった犯罪を記録し、対策案を考え、公表している財団法人である。通常、ネットワークでの異変があった場合はここに連絡される。
「俺はどっちでもいいんだけどな。…すると思うか? ここの連中が。お偉方は組合の面子も大事だが、自分たちのプライドはもっと大事なのさ」
 その台詞には、まりえは全くの同意を示した。
 まりえは身を乗り出して、桟宮の前に置かれているパソコンのディスプレイを覗き込んだ。桟宮は椅子を滑らし、場を譲る。
 ディスプレイにはいくつかのリストが表示されていて、まりえはマウスを操作しそれらを流した。数字とアルファベットの羅列はデータベースの操作記録を表している。まりえは数十秒目で追っただけで、もういいとばかりに目を逸らし、嘆息した。それだけで、状況を察したようだった。
「ログは?」
「飛ぶ鳥跡を濁さず」
「…あら、でも、ここ」
「そ。ファイルの削除された記録は残ってんの。そのファイルが何なのかは、不明」
「つまり、傷つけられたということですね」
 データベースに穴が空けられた、ということになる。これは問題だ。
「どうするおつもり」
 まりえが尋ねると、桟宮は吹き出し、大笑いし始めた。
 珍しくそれはすぐに収まって、桟宮はまりえに向き直って本当に楽しそうに言った。
「俺は単なるセキュリティだから、それを破られたら責任を取らされるだけだ。…犯人を追うのは別の人間で、本部役員が勝手に決めるだろう。もしかしたらまりえさん、あんたにお鉢が回るやもしれんぜ?」
 ネットワークの世界には2種類の人間がいる。「守る者」と「攻める者」だ。桟宮は前者であり、まりえは後者、そして今回の事件を起こした犯人も、当然、後者ということになる。
 他人任せのように聞こえる桟宮の台詞に、まりえは皮肉を込めて言った。
「意外と、薄っぺらいプライドなのですね」
「プライド高いに決まってんだろ!?」
 怒鳴られた。
「犯人がシベリアに住んでても俺の前に連れて来てもらいたいくらいだぜっ」
 吐き捨てるように言う。
「…暗に、私に犯人を捕まえろと、おっしゃりたいのでしょう」
「まだ、言ってないぜ?」
「では、口にしないでいただけます?」
「なぜ?」
「それは本部の役員に言わせましょう。私、常々、あの方達に頭を下げさせてみたいなぁって思っておりましたの。もちろん、報酬もいただきます」
「……」
 桟宮が絶句する目の前で、まりえはうっとりするほど綺麗に微笑んだ。



「まりえ、ちょっとおいで。桟宮さんも、お願いします」
「はい」
「ああ」
 真琴が呼びにきたので、2人は後を付いて行く。まりえと桟宮は自然に目を合わせた。
 きっと、代表たちの間で何らかの対策が練られたということなのだろう。その対策が、適切に的確であることを、まりえは願ってやまない。
 真琴、桟宮、まりえの順で会議室へ入ると、37代表の視線が一斉にこちらを向いた。しかし桟宮はそんなことを気にする性格ではないし、まりえもそれくらいで怯む胆ではなかった。
 代表たちの中には、史緒と文隆もいる。史緒と目が合うと、まりえは視線だけ会釈をした。そして、真琴も自分の席についた。
 まりえと桟宮に、組合役員の一人は言った。
「2人の意見が聞きたい」
 この台詞に、まりえは少なからずむっとしたが顔には出さなかった。
 本来、まりえはどんな仕事でも御薗真琴の命令しか聞かないのだ。先程の台詞のように、簡単に使われるなんて冗談ではない。
 表情には出さなかったはずなのに、遠くに座っている史緒と文隆に苦笑されてしまった。あの2人はまりえの性質を少しばかり理解しているので分かってしまったのだろう。こんなに簡単に心内を読まれてしまったことを反省しなければならない。真琴はこちらを向いてはくれなかった。
「各グループの仕事を止めるわけにはいかないので、8時から21時までは前日までのバックアップをネットワークに置く。それ以外の時間で、侵入されたデータベースはバックアップとの照合を行う」
 まりえと桟宮は目を合わせた。桟宮は顎の動きで、まりえに発言権を譲ることを示した。それを受けて、まりえは前に向き直って高い声を響かせた。
「呆れました」
「なんだと?」
「業務時間にバックアップをネットワークに晒しておいて、今度はバックアップに侵入されたらどうなさるのですか? TIAに信頼できるデータが無くなってしまいます」
「では、各グループに専用端末を設け、そのパソコンの個体ナンバーにだけアクセス許可を出すというのはどうだ。セキュリティは強まるだろう」
 これはつまりIDとパスワードを無効にし、各社のパソコンのみから権限を発行するということである。通常業務では外部からもアクセスしている為、かなり不便になる。が。
「───それでは、グループのパソコンにアタックされたら、本部のデータベースもやられます」
 半ば呆れたようにまりえが答えるので、本部役員は真っ赤になっていた。まりえは知識をひけらかすつもりはないが、無知な人間の考えることはどんな状況でも滑稽なものだ。
 ハッカー(クラッカー)がまた来るとは限らない。来ないとも限らない。この判断は非常に難しかった。
 真琴が口を出した。
「まりえ。何か案を出してあげてよ」
 言うが早いが、真琴の声を聞いて、まりえは即答した。
「一番、退化的な方法を取りましょう。ネットワークは一週間完全に停止させます」
 その発言は早すぎて、各々方の思考回路に辿り着くまでにかなり時間が必要だった。早すぎて、というより、真琴の口出しによるまりえの態度の急変に驚いた者がほとんどだろう。
 それでも逸早くまりえの言葉を理解した代表のうち一人が言い返した。
「それでは仕事にならない!」
「皆さん、都内に事務所を構えておられるのだから、データベースの情報くらい、直接、取りに来られれば良いでしょう。それくらいの労力は使ってもらいます。…3日でバックアップとの照合を取ります。残り4日で、犯人の推察と、犯人の処分をどうするか決議しましょう」
 それが一番、安全かつ効率の良い方法です。と、まりえは付け足して、対策案の発言を終了させた。
「桟宮っ」
 役員の一人が、無言で立っている桟宮に意見を求める。桟宮は面倒くさそうに視線を上げ、
「まりえさんに、異論ない」
 と、答えた。
 組合きっての技術者2人が言うのだから、誰も反論しようがなかった。

 ───かくして、まりえはかつてからの望み通り、本部役員に頭を下げさせることに成功した。犯人追跡を一任されたのだ。(報酬の交渉は真琴に任せた。ただ、真琴は無報酬でまりえを使わせる程、親切ではない)
 期限は3日。のんびりしている暇は無かった。まりえと桟宮はすぐにこれからのスケジュールを組み、会議が解散して2時間後には行動を開始していた。





*  *  *





 午前8時50分。
「ただいま」
 史緒がA.CO.の事務所へ帰り着く。ドアを開けると、三佳の他に、関谷篤志(21歳)と七瀬司(18歳)がそこに居た。史緒は少しだけ驚いた。驚いたのは、3人がソファに座っていて、史緒が現われると同時に3人が一斉に立ち上がったからだ。
「…どうしたの? 何かあった?」
 コートを脱ぎながら言う史緒に、三佳は詰寄った。
「何かあったのはそっちだろう。一体、何だったんだ?」
「ああ、こっちのこと? 別に、何もないわ」
「史緒っ」
 三佳の質問をはぐらかして、自分の席へと座る。
 三佳と篤志と司、そして史緒がここにいて、今日は平日なので残りのメンバーである三高祥子と川口蘭は学校へ行っているはずだ。
 史緒はいつも通り、まずパソコンの電源を入れた。冷却ファンの音が静かに響き始める。OSが立ち上がるまでは約1分。
 A.CO.のパソコンは、本部のデータベースを見るのに活用されることはない。データベースにアクセスする権限を史緒は持たない。その関連はすべて、御薗真琴を通してまりえに頼んでいるからだ。これはプロバイダを通してインターネットに接続できるようになっている。主な用途は情報集めとメールだった。
 三佳はまだ何か言っていたがそれを無視して、史緒はメールチェックを開始する。メールソフトを立ち上げるとまずパスワードを聞いてくる。パスワードは史緒と篤志しか知らない。それを入力すると、自動的に受信するように設定してある。
 メールは2通来ていた。
 ひとつは桐生院由眞からの定期連絡で、もう一つは國枝藤子の携帯電話からだった。こちらは私用だ。(事務所のアドレスには送るなって言ったのに)そう思っても、藤子は言っても聞かないのでもう諦めている。それにそもそもの原因は、史緒が自分のメールを週一にしかチェックしないことだ。
「史緒、後でしっかり聞き出すから、おまえは早く寝ろ」
 三佳を抑えて、篤志が言った。
「どうして朝から寝なきゃいかないの」
「1時間くらいしか寝てないだろ」
「…」
 何か言いかけて顔を上げると、三佳が不機嫌そうに睨んでいる視線と目が合った。史緒はしばらくその目から視線を離せなくて、結局、白旗を上げることにした。
「コーヒーいれてくれたら、言う」
 上目遣いで甘えるように言うと、三佳はすぐに給湯室へ向かい、トレイにカップを乗せて帰ってきた。この三佳の行動原理は好奇心だろう、きっと。でもそれより複雑な、史緒が深夜出て行ったことの心配や、胸騒ぎ、そういったものも、あったかもしれない。
「…実はね」
 コーヒーを一口飲んでから、史緒は本部に呼び出された理由を話し始めた。
 本部のデータベースに外部からの侵入があったこと。まりえがその犯人追跡を行うなどをかいつまんで話した。
 実は史緒は、本部のことをあまり口にしないようにしている。だから桟宮のことや、会議のやりとりなどは一切説明する気もないし、説明する必要もなかった。
 一通り説明が終わると、司と篤志の疑問点質問点を簡単に答えて、史緒はこの話題を終わりにした。
「篤志、後で話があるの」
「仕事の話か?」
「今は業務時間内よ」
 つまり、プライベートの話なんかしない、と言いたいのだ。篤志は背後の壁の、掛け時計を指差す。
「惜しい。業務時間まで、あと5分ある」
「…仕事の話よ」
 史緒は言い直した。どうやら頭がうまく働いていないようだ。ぼうっとしていることを、史緒は自覚する。
「ごめん。…やっぱり休ませてもらうわ」
「午後イチから打ち合わせ」
「分かってる」
 ほとんど秘書の役もこなしている篤志の確認事項に短く答えて、史緒は部屋を出る。
 階段を昇る。…何か思い出しかけた。
(───…何だっけ)
 何か、今日の会議中に閃きかけたことを、どうしても思い出せないでいる。
(最近、考えていたこと)
(…そう、あの、こと)
 2つの、全く別の事象を、…きっとうまく結び付けることができる気がする。ことわざで言うと一石二鳥。
 でも、今は頭の中が霞んでいて、うまく対処することができない。
(何だっけ)
 今は考えるのはよそう。
 史緒は自室のドアを開くと、気を失うかのように、ベッドへ倒れ込んだ。




 桟宮とまりえは、3日前から本部にツメていた。
 まず、桟宮は「二つのデータベースを照合し差分を調べるプログラム」を3時間で作った。そして満足なデバッグもしないまま、照合を開始させる。デバッグができなかったとはいえ、桟宮は自分自身が納得するものを作れたので、そのプログラムの確実性は保証していた。大した自信だ。
 まりえは本部の近くのビジネスホテルに部屋を取り、仮眠と入浴以外の時間を、桟宮と同じく電算室の中で過ごしていた。照合を始めてしまえば後は機械が勝手にやってくれるのでずっと付いている必要はないのだが、もし差分が見つかった場合、すぐに対応できるようにしているのだ。
 睡眠時間が3時間を切っても、まりえはいつもと同じ、スーツと、きっちり化粧をして電算室へ戻ってくる。そしていつも通りソツなく仕事をこなすのだった。
「もう少しラフな格好で来てもいいのに」
 と、桟宮が言うと、
「いつ御薗所長が様子を見に来てくださるか分かりませんもの。みっともない格好なんてできません」
 と、真剣に答えられてしまった。これには桟宮は笑わなかった。
「ご立派」
 と、一言。賞賛の言葉を贈る。
 そういうわけで、2人はプログラムが正常に動作しているか確認しつつ、交替で仮眠を取ったりしながら3日を過ごしていた。

「おまえら、狭苦しーから出てけ」
 桟宮は、室内の人口密度に悲鳴を上げた。
 3日目の今日、何故か、史緒、真琴、文隆の3人は本部の電算室へ集合していた。普通、この部屋へは組合の人間であっても滅多に入室させないのに、この3人に関しては桟宮は自分の調子が狂うことを自覚していた。もっとも、ここで真琴を入れなかったらまりえがヘソを曲げてしまうことは分かっているので、まりえのご機嫌取りの意味もあるけれど。
 室内にはコンピュータがひしめき合っていて、人間が通る幅は、人一人しか通れないくらい。そんな室内に、今、5人もいるのだから息苦しくてしょうがない。桟宮は常々、本部役員に「広い部屋をくれ」と直訴しているが、受け入れられる様子はなかった。
「だって、今日、照合が終わるんでしょう? もしかしたら犯人が分かるかもしれない日に、来ないわけにはいかないですよ」
 と、答えたのは文隆だった。
「いっつもは本部に来るのを嫌がってるくせに」
「本部に来るのは別に構わないですよ。話の通じない人間に会うのが嫌なだけです」
 話の通じない人間というのは、彼らにとって桟宮以外のほとんどの人間を指す。
 桟宮にとっては、あつかましいとしか思えない台詞だった。桟宮にとって、この3人は生意気としか思えない。けど、憎めない存在。つまり、やっかいな連中ということになる。桟宮は頭を掻きむしって、目を細めて言った。
「おまえらだって、まさか年齢で人を見るなー、なんて言う気は無ぇんだろ?」
「勿論です。そんなこと、理想にもならないじゃないですか」
 意外にも、文隆は素直に認めた。
 ただ、と続けた。
「実力は認めてもらいたいと思っています」
「文隆、実力じゃ言葉が悪いよ。実績にしておこうよ」
 真琴が横から口を挟む。勝手にしろ、と桟宮は肩を竦めて見せた。
 そして今まで黙り込んでいた史緒が、桟宮に尋ねる。
「ネットワークにはダミーを置いてるんですよね、ハッカーは? また来たんですか?」
 データベースを照合にかけている間、ネットワークには空のデータベースを置くことにしていた。これはハッカーがまたアタックをかけてくるかどうか、調べる為である。
 史緒の質問に、桟宮は首を横に振った。
 ハッカーはTIAのデータベースに、もう、見向きもしていないのか、それとも…
 桟宮の奥に座っていたまりえが口を開いた。
「桟宮さん。そろそろ終わります」
 まりえの前に置かれているパソコンのディスプレイには、いくつかの棒グラフがグラフィックで表示されていて、作業の進行状況を表していた。横向きの棒グラフはもう少しで右側に達しようとしていた。
「…ああ」
 まりえの報告に桟宮は頷いただけだった。
「どうしたんですか?」
「いや。…何となく、結果は見えてるから」
 桟宮の言葉に、まりえも深く頷いた。どういうことだろう?
 史緒たち3人が顔を見合わせると、桟宮は言った。
「3日前からノンストップで照合かけてて、…今までエラーゼロだ」
 それがどういうことか、分かるだろうか?
 ピ───
 まりえのパソコンから、周波数の高いビープ音が鳴った。それは、データベースの照合が終わったことを表す音だった。
 この時ばかりは桟宮は機敏に立ち上がり、まりえのパソコンに駆け寄った。マウスで操作して、いくつかのリストを表示させる。それらを本当に読んでいるのか疑わしいような速い速度でスクロールさせて、もう一度確認して、桟宮は深い深い溜め息をついた。
 意外な結果が出た。
「オールグリーン。エラー無しだ」
 それは手詰まりを意味する。
 予定では、この照合によって削除されたデータの内容を突き止め、そのデータの内容から犯人を推測するはずだった。しかし、バックアップとの照合では差分がゼロだという結果が出た。それはつまり、侵入されたデータベースとバックアップは同じ───傷つけられたデータが無かったということになる。これでは手がかりが何も無いことになってしまう。
 桟宮の後を追って、リストを眺めていたまりえが言った。
「でも、削除履歴は残ってます」
「それなんだよなー…」
 桟宮が構築したセキュリティによると、犯人が侵入の際、何らかのファイルが削除された履歴が残っているのである。そう、これは矛盾だ。
 本部きっても技術者である2人は揃って考え込んでしまった。
 コンピュータに精通していない他の3人は、余計な口出しをしないで、2人の決断を待っている。
 重苦しい沈黙があった。
 まりえはパソコンのディスプレイに向かいつつも遠い目をして、桟宮は目をつむり腕と足を組んで眉間に皺を寄せていた。
「講釈たれるつもりはないが…」
 ふと、桟宮が語り始めた。
「もともとハッカーというのは、コンピュータに以上に詳しく、犯罪とは関係ない奴を指す。不正侵入やデータ破壊などのの犯罪を行う人間のことは、クラッカーという。最近は欧米なんかじゃ、ブラック・ハッカーなんて言うらしいけどな」
 一息ついた。
「どっちにしても、奴等は、自分達が犯罪行為をしているという自覚が足りない奴が多い。それはハッキングの行為そのものが、どんなに遠く離れた国へでも、自分の部屋から攻撃できるからだ。そういう点において、実はクラッカーよりハッカーのほうが質が悪い。好奇心から泥棒するような奴だもんな」
 法律に反し悪いと知っていても強盗をする人間より、悪いと思わずに強盗をする人間のほうが桟宮は恐ろしいと思う。無知で、さらに道徳と倫理が無い人間との意思疎通は極めて困難である。それは脅威とも言える。
 そこまで考えて、桟宮はふと思い付いた。
 データベースの照合で、結果が得られなかったこと。この原因が自分のプログラムのミスだとは思ってない。それだけの自信はある。
 では、どういうことか。もしかしたらこれは…。
「…桟宮さん」
 まりえが小さな声を出す。思考を中断させて、桟宮は顔を上げた。
「なに?」
「ちょっと思い付いたことがあるのですけど、…任せていただけませんか」
 同じことを、2人は考えたかもしれない。



*  *  *



 平日の午前10時。
 どういうわけか、史緒は秋葉原の片隅で、歩道のガードレールに腰掛けていた。
 目の前を行き交う人に絶え間は無い。この寒いのに…と史緒は皮肉めいた事を考えつつも、今こんな所でガードレールに腰かけている自分も自分だ、と呆れた。1月半ば。昨日、都内でも初雪が降った。歩道の片隅にはまだ少し雪が残っている。
 これから2月末まで、ぱらつく程度の雪が何回か見れるだろうし、一回くらいは雪かきをしなければならないような雪もあるだろう。
 それを考えると史緒はうんざりした。
 寒い中じっとしていたから、体が芯から冷えて、史緒はコートの襟を直す。
「暇なら付き合え。荷物持ちだ」
 と、今朝になって唐突に、ほぼ強制的に宣言した三佳。篤志が事務所の留守番をしてくれるというので史緒はこうして付いて来てみたが、三佳の魂胆は見えてる。
 ずっと事務所の中で考え込んでいる史緒に、気晴らしをさせたかったのだろう。
 三佳の気遣いを分かっていたから、史緒は大人しく付いて来ているのだ。
 TIA本部の事件はまだ解決していなかった。バックアップとの照合で結果が得られなかった日、あの後、まりえと桟宮は御園調査事務所に本陣を移し、次の手を打っているようだった。自信は無いけれど、手応えはある、とまりえは言っていた。
(見つかったとしてもどうするのかしら)
 犯人はどこの誰? 本部の役員の様子では例え犯人が外国人でも、乗り込んで行きそうな勢いである。捕まったら犯人はどうなるだろう? 日本か相手国の警察に処分を頼むのだろうか。もしくはあの連中のことだ、裏の人間に処分を頼む気かもしれない。どちらにしろ史緒には関係ないけれど。
 でも、思うことがある。
(勿体無い、って思うのは浅ましいかしら)
 それだけの技術を持っている人間を消してしまうことを、誰も何とも思わないのだろうか。
 それとも犯罪者に対して、こんな風に考える自分がおかしいのだろうか。いや、単に、あれだ。史緒は最近、コンピュータに詳しい人材を探しているから、こんな気持ちになるのだ。
 史緒は、外注で頼んでいたまりえを頼るのはやめて、本部への情報交換もA.CO.でやりたいと考え始めていた。それにはある程度コンピュータに詳しい人間が必要になる。都内に住んでいて、情報業をやっていくモラルと覚悟のある人間、そしてこんな小娘に従える人間…。
 史緒は考えるのをやめて、深々と溜め息をついた。
(難しい、か)
 気長に考えようとは思っているけれど。
 昨日、篤志に相談したら、探すにしても時間がかかるだろう、という意見が返ってきた。
 史緒だって、ゆっくり探すつもりではいる。
「あの…っ」
 すぐ近くから声をかけられた。
 こんな所で知人に会うとは思えない。史緒は咄嗟に今日の自分の格好を眺め、端からどんな風に見られているのか推測して、それ相応の表情で、少し驚いた様子をしてみせた。
「はい?」
 そこには意外なことに詰め襟学生服を着た高校生の男が立っていた。多分学校指定の黒いコートを着て、白い息を吐いている。学生鞄には派手なステッカー、短すぎない短髪、流行りのスニーカー、まぁ普通の高校生と言えるだろう。その遥か後方には同じ制服を着た一団も見えた。
 今は平日の午前中だ。すると彼らは学校をサボっているのだろうか。話かけられた意図が分からないので、史緒はとりあえずよそ行きの笑顔を見せている。
「えーと…その。あ、誰か待ってんの?」
 あまり洗練されていない台詞に史緒は興醒めした。(ただのナンパか…)
「…ええ、まあ」
 どうやって追い返そうか、それとも少しからかってみようか、そんな二択を考えたけれど、条件反射的によくある感じの不審げな態度を取ってしまう。
 史緒には、キツい言葉で追い返すことも、気取ってからかってみることも可能だけど、どちらも本当の自分ではないことは、分かる。
「この間もここで見かけたけど、何やってる人なわけ?」
(この間…?)
 確かに、三佳に付き合ってここへ来るのは始めてではないけれど。
「あ、別にナンパとかじゃないから」
 と、男は言う。史緒は笑いそうになってしまった。その言い訳は面白かった。
 ナンパじゃなければ何だと言うのだ。結局、彼の言いたいことはよく分からなかった。
 そうこうしているうちに、史緒は男の背後に見知った人影を見つけた。
「あっ…」
「え?」
 つられて、男が振り返る。
 三佳が荷物を抱えて、そこに立っていた。
「待たせたな。誰だ? こいつ」
 と、相変わらずの口調で言う。史緒は一度息を吐いて、座っていたガードレールから腰を上げた。三佳が戻って来たなら、ここにいる必要はない。
 一方、男は史緒が待ちあわせをしていた相手の年齢に驚いているようだった。
「えぇっ!?」
 と、感情を隠そうとしない声を上げた。根本的に素直な人間なのだろう。
 史緒は三佳に歩み寄り、彼女が両手に抱えている荷物を引き受けた。
「おまえも、変なのに引っかかるんじゃない」
「そんなんじゃないわよ。寒いから早く帰ろう」
 三佳はちらりと史緒の顔を覗う。ナンパ男に対して演技している史緒に、三佳は気付いただろう。史緒は心の中で、軽く舌を出した。
 けれどもう帰る。気の毒だが男のことは無視だ。
「それともどこか寄ってく?」
「そんなに寒いなら一緒に来ればいいんだ」
「遠慮しとく。あの店の匂い、気持ち悪くなるんだもん」
「じゃ、今度の荷物持ちには篤志でも連れてくるか。───それから」
 三佳は突然振り返り、学生服の男を睨んだ。男はびっくりした様子を見せて、
「は?」
 と、三佳に目をやった。
 史緒はその男に同情さえしてしまう。きっと彼は、三佳のような年頃の子供にガンを付けられたのは初めてのことだろう。
「ナンパするならほかを当たったほうがいい。こいつは手に負えないぞ。それに世間知らずだ」
 史緒は少しだけむっとして、三佳の名を呼んだ。男のほうも弁解めいたものを出してくる。
「なっ、ナンパなんかじゃないっ」
「じゃ、なんだ?」
「それはっ」
 勿論、答えられない。
 三佳は勝ち誇ったような表情を男に見せて、踵を返した。
 史緒は本当に気の毒に思いながらも、三佳の後に続く。一度だけ振り返ると、さっきの男は、仲間たちと一緒に何か言い合っている様子だった。
「史緒」
「なに?」
 言葉が出るより先に、三佳の携帯電話が鳴った。ちなみに史緒は携帯電話を持ち歩く習慣が無い。
 何回かのコールの後、三佳は通話ボタンを押した。
「もしもし」
 ───電話はA.CO.の事務所からだった。史緒への伝言を篤志が伝える。
 TIA本部から招集連絡があった、と。






「犯人が分かりました」
 TIA本部。会議室。37代表を前にして、まりえは悠然と声を響かせた。
 犯行日時は1月8日。それから10日後のことだった。
 ざわっ、と。驚きを含んだ動揺が伝わっていく。それは目に見えないにも関わらず波のように広がっていくのが分かった。
「誰だっ!」
「犯人はどこの誰だっ?」
「被害状況は!」
 案の定、代表達の質問が飛んでくる。壇上にいるまりえは背筋を伸ばし、顎をわずかに上げて構えている。彼女はクールに見えて、実はこういった目立つことが好きだ。
 室内は騒然となった。数々の質問がまりえに投げられる。数日前、データベースの照合により結果が得られなかったときはここぞとばかりに非難していたのに現金なものだ。この騒々しい中では何を言っても無駄だということはまりえも分かっていて、役員方を焦らさせる意味も込めて、まりえは沈黙していた。
「まりえさん。判明している事実を教えてもらえませんか」
 立ち上がり、そう発言したのは阿達史緒だった。
 まりえは微かに笑った。まりえは、結果を急がず順序立てて物事を把握しようとする阿達史緒の考え方を気に入っている。
 彼女が動いたので、一同は静かになった。
「では、阿達さんのおっしゃった通り、今現在分かっている情報をお知らせ致します」
 会議室にはマイクもあったが、まりえはそれを使わなかった。
「今のところ、こちらで掴んでいる内容は次の通りです。犯行日時、犯行場所、犯人、犯人の身元、被害内容。それから次は推測によるものですが、犯行動機。以上です」
 即座に質問しようとする代表を抑えるように、史緒は立ち上がった。
「3日前、データベースのバックアップとの照合は失敗しましたね。その後、どうやってそれらの情報を得ることができたのですか」
 他の代表が立ちあがった。
「そんなことより犯人は誰だっ!」
 何人かがそれに同調し、同様のことを叫ぶ。騒ぎが大きくなってきたので、まりえはマイクのスイッチを入れた。
「では質問します。犯人が分かったところで、あなたたちはどうするおつもりなんですか」
 スピーカから響いた声は全員を黙らせた。こういう場では声の大きい者が発言権を得るものだ。
 誰かがヒステリックに大声をあげる。
「捕まえるに決まってるだろう!」
「どうやって?」
 まりえは予測していた通りの言い分に挑発的に答え、続けた。
「今回のような事件の犯人は外国人である可能性が高いのです。各国の法律が違うなど諸事情により日本の警察を動かすのは困難です。相手の国の警察を動かしますか? TIAにそれだけの力が? …それにどうやって、相手の犯行を説明するおつもりのですか。コンピュータに侵入されました、とでもお言いになるのですか? それが言えるのですか? 失態を明かすのですか?」
 誰も答えられなかった。
「犯人の処理…この問題は最後まで残ると思われます。初めから説明させていただきますので、皆さん、その間にご考察お願い致します」
 まりえは史緒と視線を合わせて微笑した。初めから説明するということは、史緒の質問の回答にもなる。
 史緒も硬い表情を崩して、まりえに向かって軽く会釈し、椅子に座り直した。


「まず、皆さんご存知かと思われますが、侵入されたデータベースとバックアップとの差分はゼロでした。つまり、犯人はデータベースを傷つけなかったということになります。しかし一方で、犯行時刻にファイルが削除された履歴が残っていました。これは矛盾していることだと、お分かりいただいていると思います」
 ドーナツ型のテーブルの周りをコツコツと歩きながら、まりえは語り始めた。テーブルに着いている37代表は皆、腕を組んだり、目を瞑ったりして、まりえの話に耳を傾けている。桟宮も部屋の隅でそれを聞いていた。
「そこで私、思いましたの。もしかしたらバックアップからも、同じデータが削除されてしまったのではないかって。そうすればこの現象は説明がつきます。…ええ、お察しします。バックアップは犯人の見える位置には置いてなかったのですもの。バックアップに偽りがあるはずありません。───…ですけど、こういうことも考えられます。犯人はTIAのコンピュータにも侵入できてしまうような人間…、勿論、素人ではありません。簡単なプログラムくらい組める人間です。つまり、犯人はファイルを削除しただけではなく、あるものを置いていったのではないかと思いました。多分、犯人は予測したでしょう、私たちがバックアップと差分をとることを。…バックアップとの照合が行われた場合、バックアップの同じファイルを削除するという実行ファイルを置いていったとしたらどうでしょう」
「罠を仕掛けられていたということか。そんなこと可能なのか?」
「簡単ですよ。桟宮さんなら、10分かからないでしょう。私も可能です」
「コンピュータウィルスというやつか?」
「いいえ。コンピュータウィルスの定義として、自己繁殖能力があることが上げられます。今回のものはその危険性は無いものでした。…あら、言ってしまいましたね。そうです、データベースを調べた結果、その罠は仕掛けられてしました」
「その後はどうやって調べたんですか?」
 史緒だった。まりえは頷いた。
「皆さん、お忘れかもしれませんけど、バックアップは一つではありません。データベースの情報をコピーする権限を持っている各グループは少なからず本部と同等のデータを保有しているはずです。御薗調査事務所のサーバにも、いくつか本部のコピーがあります。その中で、私が目を付けたのはハッカーのブラックリストでした」
 この場合のハッカーというのは、正しい意味の通り、コンピュータに詳しい人間のリストである。クラッカー予備軍、とも言う。
「桟宮さんにお願いして、本部コンピュータのブラックリストのテキスト情報だけを持ちかえらせていただきました。これは犯人の仕掛けた罠までも持って帰ることがないようにです。事務所へ持ち帰り、細心の注意を払ってブラックリストだけ照合しましたら、ヒットしました。一件だけ」
「何?」
「犯人は、ブラックリストの中から自分の名前だけを削除しました。それだけです。それが、被害内容の全てです。そして削除されたレコードの人物、それが犯人です」
 まりえは侵入されたコンピュータの、犯人が残した罠を調べた。解析した結果、犯人が罠をしかけたのはこの情報だけだったことが分かった。イコール、犯人が手を出した情報、ということになる。
「…犯人は誰だ」
 唸るように、本部役員が呟いた。今度はまりえはあっさりと口にする。
「驚くべきことに日本人でした。しかも東京です」
 ご近所さんだったというわけですね、とまりえはおどけて見せた。
 だんっ! 誰かがテーブルを叩く。まぁこれだけ人間が集まれば、短気な人間もいるだろう。
「名前はっ?」
「木崎健太郎」
 またも、さらり、と答える。
「裏の人間か? プロか? まさか普通の会社員とか言わないだろうな」
 それはごく一般的な想像である。
「…事実は小説より奇なり、です」
 しん、と静まり返った部屋に、まりえの声が響き渡った。
「木崎健太郎は17歳、学生です」
「なんだと…っ!」
 誰かが叫んだのがきっかけだった。
 信じられない事実への驚愕が部屋全体を満たしていく。
「本部リストには無く、私のところのリストには、その名前が残っています。それが証拠です」
 それこそが差分、つまりハッカーに削除されたファイル。
 そう、証拠を突き付けられても、すぐに信じられるものではなかった。
 そして驚いているのは高齢者ばかりではない。
「17…っ?」
 文隆も目を見開いて声を荒げた。
「史緒と同い年だね」
 まりえからあらかじめ聞いていた真琴が隣で呟いた。
 史緒も信じられないというように、発言したまりえを凝視している。
「犯行動機を推測したと言ったなっ? その木崎とかいう高校生がこの組織のデータベースに何の用があったと言うんだ、わざわざ自分の名前を消す為だけかっ?」
 珍しくまともな意見が飛び交った。まだ周囲のざわめきは収まらないままだったが、まりえはそのまま答えた。
「ええ。ここで言うことができる犯行動機は私の推測でしかありません。…しかし、限りなく事実に近いものと思われます」
「何だ」
「技術的興味、です」
「…?」
 まりえは手元に持っていた資料をめくった。
「木崎健太郎の身元を調べました。彼は、都内の私立高校情報処理学科の2年生、パソコン研究部に所属しています。性格は社交的、コンピュータの知識は教師を凌ぐようです。それから木崎健太郎は学校のパソコンから、よく外部のコンピュータに侵入しているようです。それこそ、遊びのように」
 子供のイタズラ。
 今のところ、彼の犯行による被害報告はどこからも出されていない。どうやら本当に、侵入するだけのようだ。今回、たまたま選ばれてしまったTIAのコンピュータでは、自分の名前がリストアップされていることに驚いて(面白がったのかもしれない)、ファイルを削除してみた、というところが真実なのだろう。
 組合役員はまだ信じられない様子で、ひそひそと話し合っている。すぐに決断が下るとはまりえも思っていない。ゆっくり待つつもりだった。
 しかし。
「はい」
 と、高く通る声が響き、その声の主が右手をまっすぐに上げた。
 阿達史緒だった。
 突然の、発言権を得るための行為に、場を仕切っていたまりえは少しだけ驚いた。史緒は何を発言するというのだろう。
「どうぞ、阿達さん」
 まりえがそう言うと、史緒は立ち上がって、一言一句はっきりと、発音による聞き返しを求められまいと、大きな声で言った。
「この件、A.CO.に任せていただけませんか」


*  *  *


「どういうことでしょう?」
 まりえとしては、ここで史緒と議論するなど本意ではない。しかし場の雰囲気的に、まりえは議長の役を拝しなければならなくなっていたようだ。史緒もそれを察していて、まりえとは目を合わせずに、各代表たちを見渡しながら言った。
「その犯人を、うちにください。所員として、招き入れたいと私は思っています」
 史緒の意見に、当然ながら誰もが驚いたようだった。まりえも、真琴や文隆までも。
「史緒…っ?」
「何考えてるんだ」
 隣の席から、そんな声が聞こえた。史緒は無視した。
「ちょうど、うちの事務所では情報処理技術者を一人探していました。条件ではこの木崎健太郎が最適な」
「馬鹿かっ? 爆弾を抱え込むようなものだ」
「そんな危険なことできるかっ」
 そのような反論によって、史緒の言葉は遮られた。
 確かに、ネットワーク犯罪において一番怖いのは内部の人間である。改心を装った悪人に内部情報を明かすのは危険だ。
 TIAの中、最年少17歳の史緒は、一同に向かって説得を始めた。
「───ですから、彼が使える人間かどうかは、こちらで判断します。もし使えるようなら、A.CO.が彼をもらいます。私の、ひいてはTIAの監督下に置かれるわけですから勝手なことは二度とさせません。…もし使えないと判断した場合、木崎健太郎は本部に引き渡します。その時は処分するなり好きにしていただいて結構です」
「そんな勝手が許されると思ってるのか?」
 木崎健太郎の処分はこちらが決める、とでも言いたいのだろうか。非生産的な決断しか下せないくせに。
「不祥事を表沙汰するより、よほど理想的かと思いますけど。私のほうも人員補充ができて一石二鳥。…もし彼が使えないと判断された場合は、彼の処分について同じことで会議を開かなくてはなりませんが───…まりえさんの言う通り、私は、彼が悪人でないほうに賭けます」
 賭ける、という言葉を使ったのは、我ながら自分らしくないと史緒は思う。大体、史緒は賭けなんか嫌いだ。あやふやな情報に自分の財産とプライドをすり減らすことなんてできない。けれどこの場合は、とても的確な言葉ではないかと思われた。
 組合役員たちは打算したと思う。今回の事件の責任を、一端でも阿達史緒に押し付けられることと、史緒が下手をすれば、組合にとって生意気な小娘も潰せるという思いもあったことだろう。もしかしたらそちらのほうが一石二鳥だと、役員たちは考えたかもしれない。
 それでも、こんな台詞を残したのは思いやりなのか、それとも精一杯の嫌味なのか。
「後悔することになるぞ」
 それを聞いて史緒は笑った。
「後悔というような心理的抑圧だけなら、いつしても構いません」
 そして言う。
「成功させてみせます」




*  *  *




 1月末。午後1時30分。
「篤志。木崎健太郎も来てるってさ」
 パチンと折りたたみの携帯電話を閉じて、島田三佳が言った。史緒は頷いて応えた。
 2人はタクシーに乗っていた。史緒は仕事先から帰る途中、秋葉原でアルバイトを終わらせた三佳を拾ったかたちだ。
 集合時間は1時だったから、こちらは完全に遅刻だ。祥子あたりはカンカンに怒っているだろう。「自分が呼び出したくせに」とか何とか。
 事務所の様子を、史緒は三佳に確認させた。篤志が電話に出たようだ。
 全員揃っているという。
 そして、木崎健太郎も。 
「呼び捨てはやめなさい。失礼よ」
「どうせA.CO.に入る人間なんだろ? さもなくば単なる犯罪者。それこそ呼び捨てで結構だ」
 史緒の箴言に三佳は耳も貸さない。史緒は嘆息する。
「祥子が向かえに行ってるはずよね、どうなったかしら」
「祥子に好印象を与えるほうが難しくないか?」
「言えてる」
 外の景色が見慣れたものになってきた。第一京浜の街路樹が後ろへと流れていく。大門の交差点が見えてきた。そこを右に曲がると、事務所はすぐそこだ。
「今日の報告書、早めに出してね。もう締めだから」
「了解」
 タクシーが事務所の前に止まると、三佳は飛び降りた。
「先、行く」
「はいはい」
 三佳は駆け出すように歩道を横切り、事務所へと向かって行く。七瀬司の元へ行くのだろう。いつものことだ。
 提示された金額を支払うとき、タクシーの運転手は史緒の顔をじろじろと見ていた。未成年の女2人が「報告書」や「犯罪者」という単語を口にしていることを怪しがったのかもしれない。史緒は運転手の視線を無視して領収書を受け取ると踵を返した。
 そんな風に見られるのも、いつものことだ。
 既に三佳が消えた入り口へ史緒も歩き出す。不思議と気持ちは急いてない。TIA本部を騒がせた犯罪者とこれから対面するというのに。
(犯罪者…?)
 口の端で笑う。史緒はもう、そうは思っていなかった。大体、そうだ、使えるとも限らない人間をここまで連れて来させたりしない。そんな危険な賭けはしない。だから事前に篤志に様子を見に行かせたのだ。
 関谷篤志と川口蘭の人を見る目は、自分のそれより余程信頼できる、と史緒は思っている。
 木崎健太郎本人を目にして帰ってきた2人───蘭は、いい人ですよ! と自信満々だったし(最も、彼女に言わせれば世界人口の90%は同じ評価になるだろう)、篤志は苦笑してから、悪い人間じゃない頭も良いと報告した。次に史緒は蘭に尋ねた。
「A.CO.に加えるメンバーとして、はどう?」
 蘭は少し考えてから、
「面白いと思います」
 と答えた。その回答だけで、史緒は充分だった。彼は7人目の仲間となるだろう。
 期待しているのだ。仕事や人間関係、その他のことをうまくやっていく為に必要な人材だと。
 そして多分、木崎健太郎にはしばらくTIA本部の監視が付くことになる。同じく、犯罪者を受け入れた史緒は、今まで以上に立場が悪くなるかもしれない。
 しかし、それはほんの些細なことだ。
 自分の目的のために、彼という駒を利用する。
 史緒はそれを否定しない。
(木崎健太郎。…一体、どんな人物なんだろう)
 A.CO.の事務所は2階にある。階段を上る途中、史緒は事務所から響く叫び声を聞いた。
「…?」
 一番響いた声は、多分、蘭だったと思う。それに祥子。何かあったのだろうか。
「はじめて聞きましたー、史緒さんの色モノ話ー」
 次に、はしゃいでいる蘭の高い声が聞こえた。
(何の話をしてるの! まったく)
 どうやら話のネタにされているらしい。でもその不満は顔には出さない。
 史緒はリズムを変えずに足を進める。扉の前まで来るとノブを回す。
 全員が待つ部屋へと、扉を開けた。
「大声だして何があったの? 下まで聞こえたけど…」







15話「ken2」  END
14話/15話/16話