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36話「模型風景」 |
───男は逃げながら思う。 この街はこんなに静かだったろうか。 この街はこんなに暗かっただろうか。 この街はこんなに寒かっただろうか。 どうして今、自分の足はこんなにも遅いのだろう。 どうして今、自分の肺はこんなにも辛いのだろう。 どうして今、奴は追いかけて来るのだろう。 奴が他人を追う理由はひとつしかない。───だから逃げるのだ。 季節は夏だというのに寒くて仕方ない。額から背中から汗が止めどなく溢れてくるのに。 寒くて堪らなかった。 夜も更けた街の片隅、アスファルトを叩く足音はふたつ。 コンクリートの壁に挟まれた裏の路地には、ビルのテナントから出されたゴミが積まれていた。それは夏の夜風に当たり生臭い匂いを放出している。ビルには飲み屋が集まっているのだろう、吐瀉物がそこかしこに落ちていた。アルコール臭が立ちこめていた。物陰に潜む獣が目を光らせていた。 壁一枚向こう側からは賑やかな音楽と談笑が聞こえる。薄く光りが漏れ、路地裏に僅かな灯りを差した。 しかしそれらは男に何ら救いを与えはしない。 男は必死で逃げ惑うあまり、袋小路に陥っている過ちに気付かなかった。腰砕けの状態で走り続けた足は限界を訴え、男はゴミの山に凭れるように倒れ込んだ。するとすべての疲労が胸に集中した。暴走する肺を堪え声を出せるようになるまでには時間が必要だった。 その間に、軽い足音がすぐそこで止まる。 同じ距離を同じ速度で走ってきたはずなのに呼吸も乱してない。大通りの灯りを背に、細い影が浮かび上がる。男はその存在を知っていた。しかし目にしたのは初めてのことだ。 「……ッ、何故だ」 男は言う。「何故、俺を…」 「───あたしの事を知っている人間が」影が口を開く。 「あたしに追われる理由がまったく無いはず無い…、とは思いません?」 場違いなほど穏やかな笑みを浮かべて首を傾げる。男の背筋に寒気が駆け抜けた。 「誰だッ!? 誰が、俺を」 心当たりが無かったわけではない。ざっと5人の顔が浮かぶ。それ以上は思い出すことができない。案の定、影はそのうちのひとりの名前を口にした。 「…それでは」 「やめろッ! …金ならいくらでもやる…だから、───助けてくれ!」 くす、と影は笑う。 「そんな言葉ではあたしを止められません。…あなたも、そうだったんでしょう?」 「…やめ」 影は右腕を頭の高さまで上げた。細い音がして、その指先で何かが光った。 それが何なのか、男は知ることができなかった。 生きることは簡単だった。進むべき道は目の前にあったから。 やわらかな空気の中、遙か地平線に続く道。どこまで続くか判らないそれは期待と不安を与える。 でも、この道がどうやって終わるのか知っていた。 それだけは、この道を歩き始めたときから知っていた。 ときどき振り返る。 そこには今まで歩いてきた一本道がずっと遠くまで伸びている。 雑草だらけだったり、 拾いきれないゴミが落ちていたり、 捨てたものがまだそこにあったり、 泥にまみれた消えない雨の跡、 いつまでも見ていたかった美しい景色。 (この道をあるいてきた) すべてを見てきたし、すべてを置いてきた。 その、達成感と悲壮感と焦燥が入り混じる感情に少しだけ足を休めて、少しだけ泣くのだった。 もう戻らない道にさよならをする。もう出会えない季節を振り返らない。 ほら、またすぐに前から優しい風が吹く。そして歩き始める。 この道の途中、立ち止まることはできない。 現在の自分の為には生きられないから。 過去の自分と、未来の自分のためにしか、現在は無いから。 過去の自分の悲しみが少しでも解かせるように。未来の自分が自由に生きられるように。 ここに他人はいない。たった独りの世界の中で、自分の為だけに生きる。 でも外に出れば、彼女には好きな他人が3人いた。 北田千晴。桐生院由眞。そして阿達史緒。 國枝藤子(くにえだ-とうこ)は夜の街を疾走していた。 平日の夜中だというのに街には人が溢れている。その間を巧みに縫って走るピンヒールの踵に危うさは無い。 (あちゃ〜、これは怒られるな) フランクミュラーのクロノグラフに視線を落とすと、約束の時間から17分経過。もう苦笑するしかなかった。 バラ模様の淡いピンクの肩紐ワンピースに白いボアレザーのハンドバッグ。お気に入りの服なので汗を掻きたくないけどしょうがない。藤子はさらにスピードをあげた。待ち合わせの店まであと2ブロック。 「ごめん、遅れたぁ」 息を削りながら謝ってるというのに、 「悪いと思ってないでしょ」 と、阿達史緒(あだち-しお)は冷めた視線を寄こした。この蒸し暑い夜の街中で20分も待たせたのだから怒るのは当然。しかしだからといって反省してないと思われるのは心外だ。 その史緒はジップアップの白いワンピースを首まできっちりしめて、しかも長い髪を下ろしているのに暑苦しさを感じさせない。つくづく不思議な女だ。 「走ってきて頭下げてるのにそれ?」 「4回連続遅刻。仏の顔も3度まで」 「仕事が長引いたんだよ〜」 「それは無能さをアピールしてるのかしら?」 「ちょっと! それは聞き捨てならないよ!」 声を強めても史緒はつーんと端を向いて不愉快を隠そうとしない。けれどその膠着は長くは続かなかった。 第三者が藤子の腕を掴んだからだ。 「やぁ、お姉サン達、ちょっとイイ?」 「今、ヒマ? どっかその辺で一緒しない?」 藤子の背後には、服のサイズが合ってないことを指摘したくなるようなファッションの男が3人立っていた。ダボっとしたTシャツとズボン、軽い音がするアクセサリーを付けている。 「どお? 奢るよ?」 藤子はにこりと笑った。 「こんなピチピチの若い娘つかまえて、お姉さんはどうかと思うよ? おっさん」 「おっさんは酷いなァ」 「…」 ビシッと鋭い音を立てて、藤子は男の手を払った。予想外に痛かったのか男は息を詰まらせた。 「あたし達、超多忙だから。また今度ね」 ひらひらと手を振って、藤子と史緒は男達の前を悠然と通り過ぎた。 ちっ、と男が舌を打つ音が聞こえた。 「もうちょっと穏便にいかなかったの?」 2人は並んで歩きながら喋る。夜の街、通り過ぎるのは10〜20代の若者が多く、賑やかで明るい。 史緒は息を吐く。藤子と一緒にいるときにナンパされたのは初めてではないが、もっと穏やかな言い方を藤子はできるのに。 「だぁって、このあたしの右手を掴むんだもん。ムカついちゃった」 「あれは根に持つタイプね」 「大丈夫、次に来たらコテンパンだから。───それより、待ってる間、暑かったでしょ? 中で待っててくれても良かったのに」 「あの店、禁煙席無いの。そんな場所でひとりでいるなんて我慢できないわ」 史緒は煙草の匂いが嫌いなのだという。藤子はその横顔を一瞥してさらりと言った。 「そういう風に、嫌いなものを口にして周囲に気を遣わせるの、どうかと思うよ?」 史緒は少しの間、口をつぐんだ。 「…そうね」穏やかな表情を見せる。「ありがと、正すようにするわ」 うん、と藤子はにっこり笑って返す。 「あたし、あんたのそーいう聡いトコ好きよ」 「私も、藤子のズケズケと他人を諫めるところ、嫌いじゃないわ」 「素直に好きって言え」 「やーだ」 2人、笑い合う。 「どこ行く?」 「特に希望は無し」 「じゃ、あたしダーツやりたい」「リテさんのとこ?」「いいね」 「サービスしてもらえるしね」 「それもあるけど、今日はサクマが来そうだから」 「あはは。佐久間くん、かわいそー」 * * * 薄暗い狭い階段を降りると、そこにはダーツバーがある。 重い扉を押し開けると、ゆったりとした洋楽が聴こえてきた。店内にいる客が少ないせいか人の声はうるさくは聞こえない。 右側はカウンターになっていて色とりどりのお酒やグラスが並んでいる。カウンターの中のバーテンダーが黙って頭を下げた。2人の顔を覚えているのだ。 「がら空きだね」 店の左奥はダーツボードが6台並んでいる。その一番奥で独りでゲームをしていた男がふと振り返り、顔を歪ませた。 「げっ、國枝」 その男───佐久間と目が合うと藤子はにやりと笑い、史緒は同情の溜め息を漏らした。 「やっほー、サクマぁ! 勝負しよ、勝負」 「おまえ…またタカる気かぁ?」 「売られた勝負は買うって言ったのそっちでしょ? ついでに負けたら一杯奢るって」 「んな、半年も前の口上、いつまで引きずるんだよ!」 「あたしが負けるまでよ。決まってるでしょ」 「おまえが強いのはもー分かったって!」 「じゃあ、今日あたしが勝ったら、あたしと史緒に一杯ずつ奢って。そうしたら金輪際、賭け勝負は挑まないから」 「なんで阿達さん?」 「実は今日は史緒に借りがあるのよね」 ちょっと、と史緒が口を挟む。 「藤子が払ってくれなきゃ意味ないでしょう。佐久間くんに奢ってもらってもチャラにはしないからね」 「そうだそうだ」 と、佐久間が合いの手を入れる。 「うるさい! サクマは仮にもこの店のタイトルホルダーなんだから、簡単に弱さを認めるな。史緒もケチなこと言わない」 「おまえがケチなんだよ…」 と、佐久間が呟く。 「じゃあ、こうしよう? 501で、あたしは史緒と組んで、1スロー交替で投げる」 1スローは3投のことで、通常、チームは1スローずつ同じ的に投げる。 「え? 私?」 「ハンデってこと?」 「そ。あたし一人で投げたらストレートで終了させるもん。史緒はほとんど素人だし。ちょうどいいでしょ」 501(ファイブ・オー・ワン)というゲームを少しだけ説明する。最初に各自501点が与えられており、それを0点にするまでのゲームだ。勿論、ダーツで得た点数をそのまま引いていく。 説明すると一文で済むが、やっかいな点が二つある。ゲームの始まりと終わり、ダブルスタートとダブルフィニッシュである。ダーツのボード(的)のダブルリングに当てるまでゲームは始まらないし、最後は必ず0点で終わらせなければならない。 ダーツをあまり知らない人は意外に思うかもしれないが、ダーツの1射による最高得点はインナーブル(的の中央)の50点ではない。トリプルリングに当てると獲得点数が3倍になりその最高点は60点である。 「よっしゃ!」 「相変わらず怪物じみたコントロールだな…」 藤子は難なくトリプルリングに当てに行く。ダブルスタートとダブルフィニッシュの寄せを除いてすべて同じ場所に当てた。 そして。 「詐欺だ…」 と、佐久間が膝を落とすまで20分かからなかった。 「人聞きの悪い」 と、涼しい顔の藤子。史緒はその隣で最後の一矢を投げたところだった。ちょうど、0点だ。 「阿達さんも強いじゃん!」 藤子はあっはっはと高笑いしてみせる。 「そりゃ、あたしの直伝だもん」 「な…っ」 「ごめんね、佐久間くん」 史緒の合掌も佐久間には慰めにはならない。 「詐欺だーっ!」 店中に響く声で叫ぶ佐久間を少々気の毒に思う史緒と、まったく気にしてない藤子は手を鳴らし合った。 「そういえばあたしね、天使にあったことあるよ」 結局、佐久間に奢らせたドリンクを持って2人はカウンターについた。バーテンダーが「あんまりいじめないでやってよ」と言ったが、藤子は「賭け勝負は最後だから」と悪びれもしない。 その藤子が唐突に発した言葉に史緒は怪訝そうな視線を返した。 「…なにそれ。臨死体験?」 しかし藤子の話題はあながち唐突というわけでもなかった。店内に今流れている洋楽の歌詞の中で「天使と悪魔」というフレーズが繰り返されていたので、そこから思い出したのだろう。 「ちがーう。街中で見上げたら、ばったりと」 「…」 史緒は頭を抱えて藤子の台詞を考察するが、うまく説明のつく解答を得られなかった。もしやこれは額面通りに受け取れということだろうか。 「……へーえ」と、適当な相槌でごまかすに留める。 「あ、信じてない」 さくりと図星を指されて史緒は半ばムキになって訊き返す。 「じゃあ、なに? 背中に羽根があって、頭に輪があったりするわけ?」 「羽根も輪もなかった。んーと、マントみたいな白い服着てて、白い髪ふたつに結んでて、怒ったような顔してた。無茶苦茶、機嫌悪そうだった」 「幽霊じゃないの?」 「あ、そっちなら信じるんだ」 「信じない」 畳みかける史緒の否定に藤子は思わず吹き出した。 「あんた、もうちょっと頭柔らかくしたほうがいいよ」 「…そういう問題の話じゃないと思うんだけど」 * 「───でね? この間、おばあちゃんに晴ちゃんを紹介したの。おばあちゃんたら、晴ちゃんに向かって“物好きね”って、───これってどういう意味? あたしが晴ちゃんと付き合うに値しないってこと? まったくもぉ」 「北田さんは何か言ってた?」 「それがさぁ、“同感です”…って」 史緒は吹き出して笑った。本人が言ってれば世話無い。 「笑い事じゃない!」 「ごめんごめん、…あ、でも、藤子ってお祖母さんいたんだ」 「普通いるでしょ。あと兄ね」 「お兄さん? …へぇ、ちょっと意外」 「史緒は? きょうだい」 「私はひとり」 「嘘」 「なんで」 「絶対、末っ子でしょ?」 「は?」 「基本的に我が侭だし、偏食あるし、面倒見悪そうだし───あぁ、史緒って確か同居人いたよね。面倒見るっていうより見てもらってるでしょ?」 「………。偏食って関係あるの?」 「面倒見云々は否定しないんだ?」 わざと話を逸らしたところを藤子は容赦なく突いてきた。してやったと人の悪い笑みを見せる。 「あたしが会った人間を見ると、そうだね、上の子は下の子を、食べさせなきゃ、病気させちゃいけない、って意識が自然と働くみたい。畢竟、食べさせる立場の人間は好き嫌いは言えない、と」 史緒は困ったように笑いだす。 「うちはそれ、多分、同居人が感じてると思う」 「あれ? 史緒の同居人って小さい子じゃなかった?」 「そう、11歳」 「あはは、ずいぶんしっかりしてる子なんだ」 * 「あ、あたし今日は晴ちゃんのトコ泊まり」 ふと、思い出したように藤子が言う。 「なんだ。約束あったなら今日はやめても構わなかったのに」 「ううん、押しかけ」 「…あ、そう」 「史緒もいーかげんカレシ作りなよ」 「う〜ん…、いらないなぁ、そういうのは」 「なんで」 「必要ないし」 「そういう問題じゃない!」 そこで藤子はびしっと指を突きつけた。 「いい? しなくていい経験なんて無いんだよ?」 「…それは、まぁ」 納得できるようなできないような曖昧な返事を返す。藤子はさらに熱弁を奮った。 「恋愛は駆け引きよ! どんな立派な人間だってその駆け引きを経験してないなら一人前とは認めないわっ」 かなり無茶な言い分の藤子に史緒は言葉を返せず、ただ見上げる。その藤子は言いたいことを言って気が晴れたのか肩で息を吐き、「まー、それはさておき」と、微笑う。 「好きな人と抱き合うのって、感動するよ。泣いちゃうくらい。…男でも女でもね」 「…そういうもの?」 「試してみる?」 にんまりと笑いながらスツールを降り掛けるのを見て、史緒は慌てて拒否した。 「いい! いい!」 * * * 店を出るとき、時間はすでに0時を回っていた。にもかかわらず街は相変わらず賑やかだ。2時間前と同じ人通りがそこにはあった。 史緒は腕時計に目を落とす。 「北田さん家ってどこだっけ?」 「ここからだと、史緒ん家の向こうかな。いいよ、タクシーで帰ろ? 途中で降ろすから」 現在地は賑やかな通りではあるが大通りではない。タクシーが通ることも無さそうなので2人は駅のほうへ歩き始める。 そのとき、2人の足を止める呼び声があった。 「こんばんは、お姉サン達」 藤子と史緒は同時に振り返る。そこには、どこかで見た男が3人立っていた。のらりとした足取りで近づき、取り囲むように立ちふさがる。 「もう用事は終わった?」 明らかに悪意の見える態度の3人に囲まれても、2人は少しも構えたところを見せない。史緒にいたってはげんなりと溜め息を吐いた。 「…だから、あれは根に持つタイプだって言ったのに」 「責任逃れする気?」 「そういうわけじゃないけど……いたっ」 手首を掴まれて史緒は悲鳴をあげた。それ以上、声を出さなかったのは彼女のプライドによるものだろう。一応、抵抗を試みたが無駄だと悟り史緒は大人しくする。 「2人とも未成年だろ? 補導されて学校に知れたらマズいんじゃないの。こんな遅くまで遊んでるなんてさ」 「俺達が送ってってやるよ」 藤子は男の発言を無視して史緒に話しかけた。 「史緒」 「なによ」 「一応訊いておくけど、こいつらに送られたい?」 「冗談やめて」 呆れたように溜め息をつく。しかしその目は「早くなんとかしろ」と語っていた。他力本願を諫めたいが、適材適所という言葉もある。藤子は苦笑した。 「お兄サン達さ、その子放してよ。───…一応、忠告」 「じゃあ、キミが一緒に来てくれるの?」 「まさか」 そう言うと藤子は音も無く動いた。前触れ無く男に詰め寄る。その素早さに誰もついていけなかった。 史緒の腕を掴んでいた男の手首に手を伸ばし軽く握ると、 「…いってぇ!」 と、男が叫び史緒の腕を放す。「史緒!」藤子の声を聞くまでもなく、史緒は走り出した。藤子がそれを追う。 汚い言葉を吐いて男達も追いかけてきた。 「まさかこのまま走って逃げるつもり?」 「あんたにスタミナが無いのは分かってる! そこの路地、曲がって」 藤子の意図が読めて、史緒はそのとおりに狭い路地に駆け込んだ。予想通り…というより期待通りにそこは人気が無く、灯りも少ない。 後を追ってきた男3人が道を塞いだ。追い詰めたとばかりに薄笑いを浮かべているが走ってきたので男達の肩は上下に揺れていた。同じく、史緒も息が上がっている。今、呼吸が平常なのは藤子だけだった。 「史緒」 藤子は後ろに下がらせた史緒に振り返らずに呼びかける。 「なに」 「あたし今日、晴ちゃん家に行くのね」 「さっきも聞いた」 「もの凄い、気合い入れて来てるのよ、この恰好」 「だから?」 「大立ち回りするのイヤ。あんたじゃ一対一でしか利かないでしょ? だから、…いい?」 最初からそのつもりだったくせに、とは史緒は口にしなかった。 「…いいんじゃない? そのほうが誰も怪我しなくて済みそうだし」 「よっしゃ」 藤子は不敵な笑みを浮かべ、軽快な足取りで数歩退がる。史緒は言われずとも藤子から離れた。 構えを取る藤子、その慣れた仕草に男達は怯んだようだ。 「な、なんだよ…やんのか!?」 藤子は右手を掲げてにかっと笑う。その指先が光った。次の瞬間、 カッ 硬質な音がして銀色のナイフが壁に刺さる。 それは左側の男の壁に付いた手───親指と人差し指の間に刺さった。 「───…ッ」 声も無く冷や汗を掻いた男が藤子を振り返る。 カッ カッ さらに音がして、残る2人の男の足先に突き刺さった。どれも身体まで3センチの位置。「ひ…っ」ひとりが短い悲鳴をあげてその場に座り込む。ときに、実際に攻撃されるより威嚇のほうが恐怖心を煽ることがある。指先に当てられた男は激しく震える手をどうにか壁から離したところだった。 「どいて」 藤子の冷えた声に男達は後じさる。 まったく、と藤子は構えを解いて息を吐いた。 「遅れてカレシに嫌われたらどう責任取ってくれんのよ!」 2人は大通りを駅の方へ歩いた。 「たかがナンパ野郎にやりすぎたかな。あたしたちに絡んでくるってことは素人だろうし」 藤子の台詞に史緒は眉を顰めた。気に障ったようだ。 「その、私たち、っていうのやめて」 すると藤子は鼻で笑う。 「今更、無関係でーっす、って顔しないでね? 事実、あんたと連んでるって大っぴらになってから、奇襲されることも減ってるんだから」 「どういう因果関係?」 「命も惜しいけど、社会的抹殺も恐いってことでしょ」 「…なぁに、それ。藤子に危害を加えたら私が黙ってないってこと? …馬鹿言わないで、そこまで義理堅く無いわ、それに藤子に何かあってもそれは完全に自業自得じゃない」 「あらま」肩を竦めておどけた。「───でも、あたしはやるよ」 「ん?」 「史緒に危害を加えたらあたしが黙ってないってコト」 史緒は深々と溜め息を吐いた。 「……藤子と連んでるって大っぴらになってから」「うん」「組合内での圧迫が減った気がするのよね」 「さすが情報屋さん、耳はいいみたいね。文隆と真琴はピリピリしてそうだけど」 「───…私だって、藤子の仕事に嫌悪感を抱いてないわけじゃないのよ?」 「うん、それは分かってる」 史緒は足を止めた。 「そのうち冗談じゃ済まなくなる」 倣って立ち止まった藤子は振り返り、平然と言い放った。 「人殺しが死を恐れてどうするの?」 「私は、恐いわ」 きっかり3秒。 「───。…へぇ」 史緒は目を見開いた。その3秒で確かに藤子は史緒の言葉の意味を理解していた。そのことに驚いた。 藤子はいつもの笑顔で史緒の顔を覗き込む。 「あんたのそういう、勝手に何か抱えて勝手に孤独に浸ってるトコ、好きよ」 「そりゃどうも」 史緒は複雑な表情で苦笑した。そしてまた、歩き始めた。 駅前のタクシー乗り場には数人の列ができていたが5分としないうちにそれは捌けた。地理的に、史緒を途中で降ろして藤子は恋人の家へ向かうことになる。2人はタクシーに乗り込んだ。 「───模型風景(ジオラマ)、ってあたしは呼んでるんだけど」 と、話題を切り出したのは藤子だ。タクシーは賑やかな街を抜け出して暗い夜道を走っていた。 「…なに?」 「自分の生き様を象徴するような風景を思い浮かべることって無い? 実生活で問題が起きてるときはその風景の中でも躓いていて、実生活で快調なときは調子が良いの」 史緒は眉を顰めて少しの間考え込んだ。 「…よく、解らないんだけど」 「まぁ感覚的なことだからね。晴ちゃんも解んないって言ってたし」 「具体的にどんな感じ?」 「空飛んでたり、川を泳いでたりしてるって言った人もいたけど」 「───益々、解らないわ」 「あたしはね、すごく広い場所に立ってる」 藤子はそのまま両目を閉じる。 「…幅の広い、平坦な道がずっと続いているの。地平線どころか消失点まで見えるくらい、長く続く道。あたしはそこをずっと歩いてる。天気は暑くも寒くもない、空に雲は無いけど、どこか乾いた色。───振り返るとそこにも道が続いていて、険しかったり綺麗な景色だったりする。でも戻ることはできないの。ただ「あたしはここを歩いてきた」って過去を想うだけ。戻れないから、仕方なく前に進む。───実生活でダウナーなとき、あたしはその道で立ち止まってる。座ったり、寝ころんだりしてる。アッパーなときはね、暖かい風が吹くの。風が吹くと、「ああ、行かなきゃ」って思う。そうしてあたしは、歩き始める。───風を吹かせるのは、好きな人達の言葉だったり、偶然耳にする音楽だったり、街中の景色だったり様々。誰にも出会わない、でも淋しいとは思わない。そこはあたしだけの世界で、あたししかいないのは当然だから。…そういう風景が、あたしの中にずっとあって、あたしはそうやって生きてるの」 パチッと目を開けると、藤子は話に聞き入っていた史緒に笑ってみせる。 「晴ちゃんや史緒は、あたしに風をくれる。…だからあたしは、模型風景の中で歩いていけるんだよ」 「…」 史緒は藤子の唐突な話題に聞き入りしばらく反応を返さずにいた。しかしはっと我に返り、ぎこちなく視線を逸らす。 「照れた?」 「…ちょっとね」 と、不本意そうに苦笑した。 「史緒の風景はどんなのかなって訊こうとしたんだけど」 「その感覚、さっぱり解らない」 「じゃあ、史緒の過去は別の手段で誘導尋問するしかないかぁ」 「なにそれ」 「史緒は振り返ったとき、過去の自分が見えるタイプだよね」 史緒はハッと息を飲んだ。どうやら図星らしい。 「…藤子は? 違うの?」 「あたしは歩いてきた道しか見えない。現在にしか、自分はいない」 タクシーが史緒の自宅前に着いて停止した。 史緒の家は都心部だがさすがにこの時間、辺りは暗い。自然と声を抑えて2人は言葉を交わした。 「じゃあね」 「うん、また遊んで」 「おやすみ」 薄暗闇で手を振る史緒に藤子も笑って手を振る。ちらりと史緒の背後に目をやった。 「後ろの彼にもよろしく」 「え…?」 史緒の背後には、腕組みをしてしかめっ面した背の高い男が立っていた。 藤子はそれが史緒の仕事仲間であることを知っていた。 「…っ」 背後の気配に気付いてぎこちなく振り返った史緒は青くなった。「篤志…」 少しの間、無言の対峙があったがどちらに分があるかは明白。それに付き合ってやる時間も義理も無いので、藤子は男に、にこやかに指先で敬礼して見せた。 「夜分も遅いので失礼、挨拶はまた後日に」 「藤子…っ」 情けない顔で史緒が振り返る。 言外に助けを求められても困る。夜遊びを隠し切れなかったのは史緒の詰めが甘いのだ。 「じゃ〜ね〜、史緒」 と、人差し指でキスを投げると、藤子は出してくださいと運転手に告げた。 タクシーが動き始めたとき、遠く、強い声と史緒の情けない悲鳴を聞いた気がした。そんなものは全く気にせず、藤子はバッグの中から携帯電話を取りだした。 藤子は携帯電話のメモリ機能を一切使わない。着信履歴も発信履歴も残さない。この電話を使用していた人間像が割れるのは契約書に記された名前と偽りの住所、それから指紋と、ストラップ代わりのブレスレットのみ。藤子の人間関係もこの電話から漏れることはない。 藤子は瞬きより少し長い間目を瞑り、瞠る。右手の親指でトタタタタと11桁の番号を叩いた。リングバックトーンを数秒聞いて、途切れると相手の声を待たずに言った。 「藤子だよ〜、これから突撃しまっす。何か買ってく?」 いらない、と短く答えが返る。「じゃ、待っててね。先に寝ちゃやだよ?」 パチンと藤子は電話を閉じ、窓の外を眺める。 恋人のもとへ向かう。抱き合い、感動するために。 |
36話「模型風景」 END |
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