36話/37話/38話
37話「grandmap前編」


#37 01.利己的な復讐
  02.アダチ
  03.情報の館
  04.招集
  05.復讐の代償
  06.走る体
#38 07.櫻と史緒
  08.篤志と和成
  09.藤子と史緒
  10.和成と史緒
  11.篤志と司と史緒
  12.文隆と真琴と藤子と史緒







01.利己的な復讐


 ゴオォォオオ──────

 風の強い日だった。
 厳寒の風はその崖を滑り落ち、厳しく海面を叩いた。波が高く持ち上がり、それに打たれた岩が砕けそうな痛々しい音をたてる。
 風が海をより一層荒くしていた。
 海が風をより一層冷たくしていた。
 枝をもがれそうになった木々が悲鳴をあげた。
 空を支え切れなくなった灰雲が轟く。
 潮風さえ海と仲違え、荒れ狂う波とは違う別の軌道を描き、それが大気をより不安定にさせた。
 そこではすべてが苦しみの声をあげていた。
 その場には一人しかいないのに、他には誰もいない───いなくなった───のに、絶叫が空間を占めていた。
 濁汚した空。
 どす黒い水平線。
 雲はごうごうと流れていくのに、ついぞ太陽が現れることはなかった。
 この時間、この地域特有の陸風は、崖の上、海に向かい立つ少女の髪を掻き上げ、その顔を隠した。
 爪先20センチ先の大地の途切れ目に臆することなく、少女は背筋を伸ばし立つ。
 数十メートル下に広がる荒れ狂う海を見ていた。
 吸い込まれそうな海を、黒い瞳は睨みつけていた。
 風の強い日だった。





「史緒っ!!」
 背後から腕が伸びてきて体を抱えられた。「…ぇ」
 その力強さで現実に引き戻される。視界が急に拓けた。
(───…ぁ)
 そこではじめて、阿達史緒は爪先の崖に恐怖し青くなった。
 気が緩んだとたんバランスを失い、必死でその腕にしがみ付く。
「…ッ」
 風は陸から吹いていた。
 史緒は地面に座り込むことで風をやり過ごし、そのまま草の上を這いつくばって崖から離れた。大きな手が支えてくれていたけど、うまく動かない手足のせいで信じられないくらい手間取った。ようやく5メートル移動できたとき、史緒は鳴り止まない胸を掴み、安全な所に退避できたことに安堵した。
 すぐ近くで息を吸う音。
「こんな場所で何やってんだ!」
 その腕の当人は史緒を厳しく叱り付けた。その表情には心配より、怒りのほうが色濃く表れていた。
「…あつし」
 史緒は呆然としていた。叱られたことは気に止めてない。それより何故、関谷篤志がここにいるのかという疑問を抱いた。
 突然、篤志ははっと思い立ち、背後の林に向かって叫ぶ。
「それ以上来るなっ! 風が強い」
 その声さえ、風は掻き消してしまいそうだったが、きっと届いただろう。
 史緒はここからは見えない木々の中に、七瀬司がいることを理解した。
「…どうして」
 消えそうな声で、史緒は呟いた。篤志は視線を戻し、今度は安心させるように笑いかけた。
「二人がいないから探しに来たんだよ」
 共に行動するはずのない二人が、同時にいなくなったのだ。篤志と司がおかしく思うのも無理はない。
 史緒は言葉を発せずにいた。篤志が来る前に何が起こったのかを思い出す。
 どくん、と心臓が鳴った。
「櫻は? 一緒じゃなかったのか?」
「───…」
 史緒は目が潤み、視界がぼやけるのを見た。
 それは頬を伝い、史緒の輪郭を象ってから、地面に落ちた。
「史緒…?」
 篤志が眉をひそめて覗き込んでくる。
 噛んだ歯が、ギリッと音をたてた。
「…、…っ」
 舌がうまく動かない。それでも史緒は何かを呟いた。
「───…なんだって?」
 声にはならなかったはずなのに篤志は非常性を察して顔を強ばらせた。
「おい! ちゃんと説明しろ!」
 声も無く涙を流し続ける史緒を叱咤する。
「───…さくら」
 息だけで答えた。
「おちた」




 気が付くと別の手が史緒の手首を捕まえていた。七瀬司だ。それが思いのほか強い力で、その手ひとつで自分は繋ぎ止められているかと思うと急に情けなくなって、史緒は手を振り払おうとした。けれども簡単には手は離れなかった。苛立って史緒は司の胸に頭突きをした。その胸は温かい。また泣けてしまった。
(…櫻)
 丘の上で振り返る櫻。嗤い、その唇が動く。
(───…さっき)
 唇が。
「なんて言ったの…? さくら」
 信じられないようなこと。馬鹿みたいなこと。すべてを揺るがすこと。
 息が詰まった。きっと嘘じゃない。でも信じない。───捕らわれてしまう。
 吸いかけの煙草が宙を舞った。目を見開き顔を歪ませたのが最後。
 櫻は堕ちた。
 ───さくら、と叫んだ。
 史緒は手を伸ばしていた。
 それは彼を助けるためのものだったのか、それとも。
 長年の願いを叶えるためだったのか。
「史緒?」
 すぐ隣から呼びかける声がある。何故だか、笑いが込み上げた。
「私、櫻を殺しちゃった」



 今日、私はいくつかのことを忘れるだろう。

 きっと、今、忘れた。

 昔、桜の下で見た櫻の罪も。無力だった自分も。
 今、櫻が言い遺したことも。

 すべて。









02.アダチ

 日本の大手総合商社であるADACHIといえば、日本人であれば誰もが耳にしたことがあるだろう。電機、貿易、銀行など、国内にとどまらず国際的にも活躍しているグループである。
 科学技術の分野では独自の研究所を持ち、セカンドソースだけでなく自社製品も精力的に開発を進めていた。一方、OEMの需要側企業でもあり、幅広い分野に対応している。
 何より驚くべきことは、これだけの大企業が一代で築かれたものだということだ。
 アダチは、戦後の混乱期に発足され、高度成長期にのし上がってきた会社なのである。
 グループ総帥、会長であり、アダチ本社の社長である阿達政徳は、世界の経済界でも有名な人物だった。それなりに高齢だがこのまま健勝であるならあと15年は現役を務めるだろう。

 そんな氏だからこそ、彼の子供達のことも一部で噂が広まっている。
 噂というものは尾ヒレが付いたり抉(えぐ)れたりしているのが常であり、正確性を保ち続けたまま広まるのは難しいとされる。彼の子供達の噂も例外ではなく、かなり根本的な部分での食い違いがあった。
 阿達政徳の子供は3人いるという説と、2人いるという説である。
 後者を有力とする見方が多いのは、2人分の人物像がはっきりしているからだ。
 ひとりは長男の阿達櫻。彼は幼い頃からアダチのパーティや公式行事に顔を出していて、役員や関連企業の重役にも顔が知れていた。社交性が高く、人当たりも良い。話してみればその聡明さが見て取れたし、父親の仕事を観察する熱心さもあり、跡取りとしては申し分なしと周囲を安心させていた。
 もうひとりは櫻の妹、阿達史緒。こちらは櫻と違い、一切、姿を現さないので噂だけが横行していた。最も口汚い噂では「あの子は狂ってる」とまで言われている。部屋に閉じ篭もり一日中出てこないのだという。当然、学校へも行かず、外出さえしない。家を訪れたことがある人間が言うには、悲鳴と、物が壊れる音を聞いたらしい。
 阿達は2人の子供について多くを語らない。





 一条和成が現場に到着したとき、すでに夕方の6時を回っていた。
 激しい雨が降っていた。暗雲が立ちこめ強風が雨を横殴りにさせている。和成は林の隅に車を停止させワイパーを止めヘッドライトを落とした。
(櫻…)
 傘も差さず車から降り、和成も何度か訪れたことがある阿達の別荘へ目を向けた。
 今日、別荘には家政婦の真木と、櫻と史緒、篤志と司の5人しか来ていない。そのはずなのに建物の周辺は騒然としていた。和成が車を建物のすぐ近くに付けなかったのは、パトカー3台が駐車場を埋めていたからだ。そして警察とその関係者と思われる人間が十数人、別荘の中と外を行ったり来たりしている。庭には照明が灯され簡易用のテントが張られていた。
「あなたは?」
 すぐ近くの警官に呼び止められ、「身内の者です」と和成は答える。
「うちの人間はどこに?」
「家の中にいます、どうぞ」
 2時間前に連絡を受けたとき、和成はアダチ本社での会議中だった。連絡は関谷篤志からのもので、訝りながらもそれに応じると、その内容の非常性に和成は大声をあげてしまった。躊躇無く会議室へ戻り、阿達政徳に耳打ちすると、阿達は15秒黙した後、和成にすぐ現場へ向かうよう指示した。
 別荘の近場には適当なヘリポートが無かった。それを踏まえ経路と天候を考えると、ヘリを飛ばす手続きの時間も惜しい。結局、和成は単身、車で乗り付けたのだった。
 ───櫻が崖から落ちた
 開口一番、関谷篤志は言った。慌ても叫びもしていなかった。ただ明らかな焦燥が伝わった。
 そのときの和成に篤志の本心を探る余裕は無い。怪我は? そう聞いたと思う。海に落ちた、まだ見つかってない、と篤志は声を絞り出す。それはとても悲痛な声だった。

 和成が別荘の中へ入ると、真っ先に真木が駆け寄ってきた。
「申し訳ありません、私が付いていながら」
 彼女の狼狽ぶりは想像以上だった。今回ここに来ている中で唯一の監督者である。子供たちの行動に気を配り責任を取らなければならない立場だ。
「マキさん、落ち着いて。…櫻はまだ見つかってない?」
「はい。地元の救助隊と警察が捜索を初めて2時間経ちます。陽も落ちてしまいましたし、天候も悪いからって、今日の捜索は打ち切ると」
 和成は息を飲んだ。今日見つからなければ、生存率がぐっと下がることくらい、素人でも想像できる。生存率、という言葉に寒気がした。日常生活でそんな言葉を使いたくはない。
「史緒は?」
「奥に、司さんと一緒です」
 ふと、和成は踏み出しかけていた足を止めた。
「…篤志くんは?」
「救助隊の方と一緒に海に出ています」
「───」
 それは意外な気がした。篤志なら史緒についてると思ったのに。
 通された部屋に、史緒と司はいた。2人はソファに座り、肩から毛布を被っている。史緒の隣には婦警が付き添っていた。
「史緒、司」
 近づくと、雨に当てられたのか髪が濡れているのが見て取れた。司は和成の声を聞いて、安堵の表情を向ける。一方、史緒は呼びかけに気付かず、ネコを胸にきつく抱いてじっと俯いていた。
「…史緒」
 目の前に膝をついてそっと声をかけると、やっと史緒は微かに顎をあげて視線を泳がせた。
「───…和くん?」
 そう呼ばれたのは久しぶりだった。和成がアダチに入社してからは一条さんと呼ばれていたので。
「司も、大丈夫か?」
「僕は平気。それより史緒が」
「史緒?」
 もう一度、視線を戻すと、
「…お父さんは?」
 史緒は目を逸らしたまま低い声で訊いてきた。父親が恋しいのだろうか。それは考えにくいことだが。
「今日は来れないと思う」
「…こんなときにも仕事?」
 史緒は小さく嗤う。片手で顔を覆い、肩を小刻みに揺らして声を噛み殺している。
「史緒? 一体、何が…───」
「私が突き落としたの」
 それは小さい声だったけれど。
「私が、櫻を殺したの」
 史緒ははっきりと口にした。



*  *  *



 地元の救助隊と海上保安庁による捜索は1週間続いたが、阿達櫻を見つけることはできなかった。捜索が打ち切られようとした頃、阿達政徳により別の民間部隊が投入されたが芳しい成果を上げることはできなかった。事故から2週間、阿達櫻の生存は絶望的とされた。
 一方、阿達史緒の自白(というより主張と見なされた)により、一応、警察による取り調べが行われた。しかし証拠や目撃者があるわけでなし、なにより阿達史緒は15歳の子供だったので、実兄の転落事故を目の当たりにしたショックによる記憶の混乱、もしくは自虐妄想とされる見方がほとんどだった。
「ちがう…ッ! 私が櫻を殺したのッ! 捕まえてよ、私を!」
 と、錯乱したように声を荒げる。
「史緒、やめろ」
「お父さん、口止めしたでしょう…?」
 図星だった。
「外聞を気にして都合の悪いことは隠すの? 汚い…! これじゃあ、七瀬くんのときと同じじゃない…!」
 語尾は掠れていたけど、父親への嫌悪感が明らかに表れていた。

 結局、阿達政徳は櫻を「失踪」扱いにした。遺体が揚がっていないので死亡届けは出せない。
 例外として、死体が無くても死亡とさせる「認定死亡」という制度が戸籍法第89条に規定されている。しかしこれを適用させるには死亡が確実でなければならず、今回の場合は認められなかった。
 一方、「失踪人」を法的に死亡させるには、民法第30条に準じて「失踪宣告」を家庭裁判所に申し立てればよい。(誤解の無いよう説明すると、これらの制度は残された遺族の権利を守るためにある)
 しかし、失踪宣告を出せるのは7年後である。それだけ経たなければ、櫻を死亡したとみなすことはできない。
 それだけ待たなければ、櫻の存在を消すことはできないのだ。








03.情報の館

 雨の日に拾ってきたネコは手のひらに乗るくらい小さかった。あれから9年。今では膝の腕でのっしりと丸くなっている。史緒はベッドの上に座ったまま、その柔らかな背を撫で、抱き寄せた。確かな体温を感じた。
 冷え冷えとした部屋の中は物音ひとつしない。
 史緒は意味も無く天井を仰ぐ。
(……)
 奇妙な空虚感があった。まるで体の中身をごっそり持っていかれたようだ。今まで、体の中で常に蠢いていた不安や焦燥はきれいに消え失せている。そっと胸に手を当てると、詰まりものが無い穏やかさがそこにあった。
 冬の暖かな日差しが窓から差し込んでくる。
 空気が清々しい。
 遠い、車の音。
 小鳥のさえずり。
(櫻はもういない)
(いつも感じていた気配はない)
(もう、いない)
 この家の中で、初めて穏やかな空気を感じている。
 長く、この暗い部屋を出られなかった過去の自分がいる。しかしそれは既に過去の自分だ。
 すぐそこ、部屋の隅に、過去の自分のビジョンを史緒は見た。
(もう同じじゃない)
 かつての自分はそこにいた。蹲って怯える、そのビジョンそのものだった。でも。
(もう一緒にいられない)
 ───もう離れてしまった。そこには戻らない。
 もう、ひとり部屋の中で怯える理由は無い。
 ───櫻に怯えていた理由はあの日に忘れた。
 夢に魘されることもない。
 もうこの部屋に閉じ篭もる必要は無い。動き出さなきゃいけない。
 そう、決意めいたことを考え、ふと史緒は苦笑した。
(ひと一人殺したというのに、この前向きさはなんだろう)
 自分がとても人でなしに思えてくる。
(でも後悔は無い)
 他人の罪を忘却できないのは辛い。今はもう忘れたから、辛くはない。
 この罪、この罪悪感と引き替えに、櫻の罪を忘れた。
(…あぁ、そうか)
 空(くう)を見つめ、無感動にその思いつきを受け止める。
 櫻の罪を忘れるために、自ら罪を犯したのかもしれない。
 それは本当に利己的な復讐だった。



「七瀬くん」
 隣の部屋に声をかけると、司はちょうど電話中だった。廊下のキャビネットに常設されている子機を部屋に持ち込んで気安そうに話していた。
「…ぁっと、ごめんなさい」
 史緒が回れ右すると、
「いいよ、もう終わる」
 と、司が声をかけた。その言葉通り、司は簡単な挨拶の後、通話を終わらせた。
「なに? どうしたの」
「うん、ちょっと出かけてくる」
「わかった。あ、何時頃、帰る?」
「夕方には戻るけど。…なに?」
「夜、篤志が来るって」
「───篤志が?」
 史緒は眉を顰めた。その意図を察したように司は苦笑する。
 関谷篤志は別荘での事件以来、阿達家に来ていない。以前は週2回は訪れていたのに、ここふた月は顔も見ていなかった。
 篤志が櫻を気に掛けていたことは史緒も知っている。気後れや頓着せず櫻に話しかけていたのは篤志だけだ。煙たがれてもしつこいほど櫻に構っていたのは、少なからず好意があったからだろう。
 櫻を殺したと言う史緒を篤志はどう思っただろう。
(軽蔑されたわけじゃなかったのかな)
 2ヶ月も訪れないのは、もう見放されたからだと思っていた。
(もしかしたら今日は絶交状を叩きつけに来るのかも)
 それはそれでいい。史緒はそう思っている自分を嗤った。
 ───その嗤いが癇に触ったのか、司は僅かに目元を歪ませる。
「あのね」
 と、苛立たしげに一言吐いた。
「なに?」
 司の変化に気付かないまま、史緒は促した。司は続ける。
「もちろん、僕は櫻が死んで喜んでるわけじゃない。…まだ実感は湧かないけど、やっぱり悲しいんだと思う」
 ぴくり、と史緒の肩が動く。けれどそれは司には見えないことだ。
「史緒を厭う気持ちは無い。───でも、櫻を殺したと口にして安心してる史緒の態度は見苦しいよ」
 司は史緒の反応を待たずに部屋の中に戻った。ぱたんと史緒の目の前で静かにドアが閉まる。
 突然のことに史緒は呆然とする。
 3秒、史緒の息は止まっていた。
 やっと息を吸ったついでに小さく呟く。
「…どういう意味?」
 詰るわけではなく、本当に司の言葉の意味が解らなかったのだ。
 責められたのだろうか? けど、一体、何を?
 櫻を殺したこと? でもそれについては厭わないと言った。
(何に怒ったの?)
 史緒は本当に解らなかった。
 判ったのは、司を怒らせてしまったということだけだろう。
 でももう少しだけ我慢して欲しい。史緒はもうすぐ、この家を離れるのだから。




*  *  *




 その都立図書館は史緒が篤志に教えてもらった場所だった。史緒が留学するより前、篤志が阿達家に出入りし始めた頃、篤志は部屋に篭もっている史緒をよく強引に外へ連れ回していたことがある。その頃、よく連れてきてもらっていた。
 エントランスの重いガラス扉を開くと、史緒は勝手知ったる様子で奥へ進んでいく。ここは平日の昼間は来館者が少なく、落ち着いてゆっくり本を読むことができる。史緒はそれを狙って、よく利用していた。
 そしてもう一枚、ドアを開けるとそこから空気が変わる。図書館とはそういう場所だ。
 天井はあまり高くない。本棚に囲まれ息苦しく感じるけれど、天井に直列に続く蛍光燈が、空間の広さを連想させる。外は晴れているけれど照明が灯っているのは、本棚の高さが窓からの光を遮るからだ。
 図書館では静かに。いつ教えられたのか、幼い頃から身についている教訓だ。けどここで今、囁き声一つないのは誰もがその教訓を守っているから、ではない。答えは簡単で、人がいないのだ。単に。
 新聞を読んでいる老人と、学生らしき人影が数人。
 聳え立つ本棚と足音さえ許さない深い沈黙と、古い本の匂い。
 ずらりと本棚が並ぶ一画、窓際の歴史書のコーナーに細い人影があった。
 左手に抱えた本を、棚に返している。立ち振る舞いと胸元の名札から司書であることがわかる。史緒は迷うことなくまっすぐその人物に近づいた。
「阿達さんかな?」
 背後の気配に感づいたのか、振り返らずに本棚の前の女性は言った。
 淡い色のシャツと、フレアのロングスカート、長い髪を背中で編んでいた。
 この図書館の司書で、谷口葉子という。
「こんにちは、谷口さん」
「2ヶ月も来なかったから、どうしたのかと思った」
 ひとつに束ねた三つ編を揺らし振り返る。眼鏡の奥の瞳が細く歪む。おそらく微笑んだのだろう。それに対し史緒はぶっきらぼうに答えた。
「…どうせ知ってるんでしょう、何があったのか」
「もちろん。次の日には入ってきた」
「売れたの?」
「ちらほらとね。何せ、大企業のゴシップだから、ブン屋さんが何人か。ほら、際どい記事が週刊誌に出てただろ?」
「見てません」
「それくらいチェックしな。あぁ、あんたの名前は出てないよ、未成年だからね。それと経済誌のほうもいくつか動いていたけど、あんたのお父様に潰されたようだ」
 葉子の喋り方は儚げな外見イメージと比べると違和感を覚える。史緒は慣れるのに少し時間がかかった。葉子は持っていた本を戻し終えるとカウンターのほうへ足を向けた。なんとなく、史緒もそのあとをついていく。
「関谷くんも最近見かけないね」
 カウンターの中で本を整理しながら葉子が言う。史緒はカウンターに両肘をついてその様子を眺めていた。
「そうなんですか?」
 そうとしか答えようがない。
「会ってないの?」
「…」
 葉子は返事をまたずに、パソコンのキーボードをいくつか叩いた。
「関谷くんの貸出履歴がひと月以上カラになるなんて、今までなかったのに」
「篤志ってどんな本借りてるの?」
「司書にも守秘義務がある」
 ディスプレイを覗こうとしたら、葉子に阻まれた。史緒は別のことを訊いた。
「篤志、ここを利用して長いの?」
「もう6年くらいかな。私が初めて見たのはヤツが小学生だか中学生だか…それくらいだったから」
「え、でもその頃の篤志は横浜在住でしたよね」
 ここに通うには無理があるのでは、と史緒は首を傾げた。
「あぁ、この近くに病院があるんだ、1年間ぐらいそこから車椅子で通ってた」
「車椅子?」
「あれ、知らない? 怪我で入院したんだって」
「初耳です」
 葉子は肩を竦め「まずったかな」と呟いた。口を滑らせてしまったようだ。それを取り繕うように話題を転換する。
「で、今日、あんたは何しにきたわけ?」



「この間の話を、詳しく聞かせていただきたいんです」
 史緒が言うと、葉子は、うん?、とペンを弾きながら顔を上げた。「この間の話」が何なのかすぐに思い出したようだ。椅子に背を預け、何か考えるように指先で器用にペンを回転させる。
「そっか、確か来週だったね。もう、ふた月経ったんだ。…行くの?」
「正直、迷ってます」
「あぁ、それならやめたほうがいい」
「…」
「中途半端な覚悟じゃ先方に迷惑をかける。他人に相談してフラフラしてるような覚悟なら以下同文。紹介した私も信用を無くす。行かないでくれ」
「…半端な覚悟というわけじゃありません」
「じゃあ、なに」
 容赦ないツッコミに、史緒は尻込みしそうになる。意地も手伝って力強く答えた。
「簡単な知能テストと50足らずの設問だけで通るような試験に疑問があります」
「相手の身元なら保証するよ。名前の通りの人だから」
「ええ、それは知ってます。でもおかしいでしょ? 私みたいな子供が」
「それが中途半端な覚悟だっていうの」
「違います!」
「頑迷だな。ネットの申し込みの際、テストがあったろう。さっき言った知能テストと設問とやらだな。それがあちらさんの採用基準なんだ。あんたに声がかかったなら、採用されたってことだよ。何が不満なんだ」
「あちらの本心が知りたいんです」
「本心…? ははは」
「何が可笑しいんですか」
「お子様だねぇ」
「どういう意味ですか」
「まぁ、いいじゃないか。どうせ来週には顔を合わせることになる。そのときに何でも聞いてくればいい」
「それはそうですけど」
「悩んでるならやめとけ───…ちょっと離れてて」
 突然、葉子は声をひそめた。エントランスに視線を固定する葉子から史緒はすぐに察した。無言のまま自然に足を運び、近くの本棚に待避する。カウンターから5メートルは離れた。棚の影で本をぱらぱらとめくる史緒の姿は、今、入館してきた男───40代だろうか───からは、単に図書館の一利用者としか思われないだろう。
「谷口」
 男の声が微かに届く。史緒が横目で見やると男はスーツで手ぶらだった。
「どうも、入金は確認してます」
 と、葉子が答える。そしてA4版の封筒を男に渡した。男はそれを検分せずに脇に抱え込む。葉子は笑って言う。
「たまには本を借りていったらどうです、カモフラージュの為にも」
「名前を取られたくない」
「偽名でも結構」
「ばれたときに揉める」
 ぼそり、とそれだけ言って、男は踵を返し出て行った。
 谷口葉子。彼女はこの都立図書館の司書という職業の他に、もう一つ、副業がある。
 彼女は司書という立場を利用し、そして図書館という場所をも乱用して、堂々と情報の売り買いを行う。図書館というものは思いの外、幅広い年齢と職種の人間が出入りするもので、それらと共に情報も常に流動的である為、データベースやデータバンクより更にリアルタイムな情報を得られる場所なのだ。個人レベルの情報機関としてはかなり有名な人物らしい。
 図書館を利用するでもなく葉子の元へ訪れる人の動きに、ある日史緒は気付いた。半月のあいだ観察して、それが何を意味するのか葉子に訊いてみた。
「考察もせず結論も無しに観察結果だけを持ってきて答えを知ろうなんて、小学生かあんたは」
 と、葉子は笑う。
「そこまでの材料を押さえているなら、誘導尋問する器量くらい欲しいね」
 答えを教えられて、史緒はそういう職業が実在することに驚いたものだ。
 男が帰った後、史緒が再びカウンターに寄ると、葉子はもう司書の仕事に戻っていた。
「世も末ですね。公務員が情報屋なんて」
 史緒の嫌みが通じたのか、それとも通じなかったのか、葉子は微笑をもらした。手を休め、史緒を真正面から見つめる。
「図書館は情報屋だ」
 それがさも聖書の一句かのように、葉子は厳かに言う。
「周りをごらん」
 葉子は顔をあげて、広い室内を見渡す。
「これは全て、情報だろう」
 立ち並ぶ本棚、万は下らない蔵書を背に葉子は言い切った。
「たくさんの本を前にすると興奮しないか? 自分の知らないことがこんなにあることに。世間の出来事や表沙汰にはならない歴史。知らない言葉、知らない分野。人のなかの光と影、作家の妄想世界。すべてに目を通すには人間の一生は短すぎる。何百年も語り継がれている寓話、後世に託す学術的探求。これらは人間の歴史そのもの。───それらを無料で貸しているとは、図書館は一番収益の無い情報屋だ」
 ペン端で顎をつつく。
「で、図書館に無い情報の流通を、私は副業しているというわけだ」
 次にそのペン端で史緒を差す。
「あんたもこの業界に入るなら、扱うものの真価を自分なりに定義づけておきなさい」








04.招集

 3月の18日だった。
 暦の上で春は終わろうとしているのに、冬の名残を思わせる冷たい風が吹く。史緒は身を縮めて両肘を抱き寄せた。
 夕方、定時前であるが人通りは多い。歩道の人波に流されるように、史緒はそこへ辿り着いた。辿り着いてしまった。
 指定されていたのは都内のあるマンションの一室。いくら谷口葉子が身元は保証すると言っても、いきなり自宅に招くのは怪しくないだろうか、と史緒は訝る。
 しかしすぐにそれは勘違いだと気付く。
 このマンションにはいくつも企業が入っているらしく、途中、企業名が書かれた表札をいくつも見かけた。
 そして指定された部屋も同様、ドアの中央に「YK」と書かれた看板が貼られていた。自宅ではなく、事務所のようだ。
 史緒は少しの逡巡の後、チャイムを押した。壁の向こうでそれが響く。
 ややあって玄関が開かれた。20代半ばの、美人というよりは可愛いという表現が似合う女性が出てくる。スーツ姿で眼鏡をかけていた。史緒より背が低いために下から覗き込まれる恰好になった。
 女性はドアを片手で開けた体勢のまま無表情で史緒を凝視する。そのまま不自然な間があった。
「あの…?」
 そのとき初めて史緒は訪問者である自分が挨拶もしていないことに気付く。
「こ、こんにちは。阿達史緒、です」
 慌てて一礼すると、まるでそれがスイッチだったかのように女性は眼鏡の奥でにっこりと、機械的に完璧に微笑む。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りになってください」
 外から見ると普通のマンションだったけど、玄関の中はシート床で土足。8畳ほどの広さの部屋は右側にひとつデスク、その上にはパソコンモニタ、周囲は書類が詰められた本棚。FAXと電話など。左側には取って付けたような給湯所。史緒はマンションの中がこんな風になっていることに驚く。
「奥へどうぞ」
 さらに奥があるのか正面に扉があった。部屋を横断し、その扉を軽くノックする。
「どうぞ」
 と、女性の声が返った。



 阿達史緒は入室した途端、目を細めて右手をかざさなければならなかった。窓からの西日がまともに目に入り眩しかったからだ。
「ようこそ。阿達史緒さんね?」
 老年女性の落ち着いた声が響く。その部屋の中には3人の人間がいた。老女と、若い男2人。
 老女は60歳…70歳? もう少し上だろうか。ほっそりとした、というよりは弱々しい体型、薄手半袖の赤いセーターと、黒いロングスカートという洋装。タイトなおかっぱは真っ白で派手な服装のはずなのにどこか上品に見える。顔のしわはくっきりと見えていたがきりっとした姿勢やはっきり口調から若々しい印象を受けた。
 2人の男は多分10代後半だろう。史緒よりは上だ。2人ともスーツを着ており訝しげな視線を史緒に向けている。
 大きな窓からは駅近くの高いビルが見えた。それを照らす西日。こちらの部屋は書類棚ではなく本棚が壁を埋めている。生花や絵画が飾られて、前の部屋には無い、主の趣味が表れていた。史緒の素人目利きでもかなり高価な物だと判る。
「桐生院由眞です。はじめまして」
 この部屋に他人を座らせる椅子は無かった。示されるまま2人の男の隣に史緒は並んで立つ。その際、会釈をすると2人も視線で返してきた。
「あなた達3人を呼び出したのはわたしよ」
 と、桐生院は微笑む。
「まずは…そうね。お互い馴れ合う必要は無いけど、名前くらい知っておくべきかしら。どうぞ」
「御園真琴です」
「的場文隆」
「阿達史緒です」
 名乗る3人の声はどこか戸惑っているように響いた。
「わたしが用意した起業試験を受けてくれてありがとう、あなたたち3人が合格者というわけよ。倍率はきっかり4倍…大した難関じゃ無いわね」
 桐生院由眞がネットで公開した試験には12人の応募があった。これは勿論、驚くほど少ない。それには理由がある。由眞は応募資格に「20歳未満」という条件を付けていたのである。
「もうひとりいるんだけど、どうやら遅刻みたい。後で紹介するわ」
 と、付け足した後、
「単刀直入に言います」
 よく響く声で言い放つ。
「ネットに掲示した通り、あなたたちの可能性に1年間出資します」
 三ヶ月前、インターネット上の星の数ほどあるサイトのひとつに、ある掲示が出された。起業意欲ある人間に出資する、と。資格は20歳未満の若者に限る、試験として知能テストと経済・社会に関する50程の設問。それを仕掛けたのが桐生院由眞だった。
「これは、無利子無担保無返済よ。ただし、2年目以降はペイメントを払っていただくわ。業種は通知していたとおり情報産業───組合に入ってもらいます。
 初めてのことで何から始めればいいか解らないでしょう? 無駄な時間は割きたくないし、闇雲な仕事も見苦しいわ、だから最初の半年は研修として同業者のアドバイザーを斡旋します。支度金、登記、事務所、その他すべて協力は惜しみません。何か質問は?」
 淀みなく発せられた由眞の台詞にすぐに対応できた者はいなかった。まるで反応速度を測るかのように、由眞は3人をじっと見つめて質問を待つ。最初に声を出したのは、的場文隆だった。
「飲み込めてない部分はいくつもありますが……開業に漕ぎ着けたとして、信用も経験も無い会社に仕事が来るとは思えない。その点についてどうお考えですか」
 その言い回しは微妙で、由眞の計画の無謀さを揶揄するようにも聞こえた。しかし由眞はけろりと文隆の態度を無視し、台詞にだけ答えた。
「需要はあるのよ。最初のうちはわたしが仲介して仕事を回すわ。心おきなく信用や経験を積み重ねていってちょうだい」
 次に御園真琴が尋ねる。
「従業員は増やして構いませんか」
「それはもちろん、あなたたちの都合の良いようにどうぞ」
「20歳以下に限定した理由は?」
 文隆の2度目の質問に、由眞は興ざめしたような息を漏らす。
「その質問は無意味だわ。今後のことに対する質問は促したけれど、わたしの意図を訊いてそれが何になるの?」
 と、切って捨てた。文隆は反論しかけるがうまくいかない。由眞は5秒しか待たなかった。
「まぁ、いいわ」と表情を改める。「例えば、25歳が起業したいと思ってそれなりの行動を起こせば出資者はいくらでも現れるでしょう。昨今はベンチャーも流行ってるし、将来有望な人材を押さえバックアップすることをステータスとする階級層もいる。わたしもその例に漏れず。───10代がベンチャービジネスを興すことは、海外では決して珍しくない。わたしが先陣を切って国内で始めてみただけの話よ。ご理解いただけたかしら」
 文隆は大きく眉をひそめさせた。由眞の口上はもっともな理由に聞こえなくもなかったが、それ以上にもっともな建前に聞こえたからだ。由眞は笑顔でかわして視線を隣の人物に向けた。
「阿達さんは、質問は無いの?」
 指名されたことに驚き、史緒は不安そうにわずかに視線を泳がせる。迷うような仕草を見せたので、由眞は優しく促した。「どうぞ?」
 史緒は姿勢を正すと「では」と口を開く。
「あなたはさっき出資と言ったけれど、通例それは利殖を目的とする行為です。けれどお話を聞いていると、こちらに都合が良すぎて、あなたにメリットがあるとは到底思えません。ここで話し合っていることを実現することは、あなたにとってどんな価値があるんですか」
 文隆と真琴はぎょっとした。言葉少なく、臆していたように見えた史緒が、由眞に食いつくように喋り始めたからだ。史緒は視線を逸らさずにさらに続けた。
「確かに海外では10代の起業は珍しくありません。ですが、それらベンチャービジネスの出資者はハイリスクを覚悟し、なによりハイリターンを見込んでいます。ベンチャーの多くが研究開発や時代の先駆的商業なのは、それらが後に多くの利益を生む可能性が高く、その還元を期待する出資者が多いからです。今回のお話はグローバルな観点ではローリスク・ローリターンに見えます。あなたがどこにメリットを見出しているのか解りません」
 一気に畳みかけると、室内がしんと静まった。史緒に特に表情は無く、無感動に由眞を見つめていた。
「ばかね」
 と、その由眞は白けたように呟く。デスクから立ち上がると、ゆっくりと足を運び3人の目の前に立った。
「同じ事を二度も言わせないで。先の質問と同じよ、わたしの意図を訊いてそれが何になるの?」
 そして史緒を睨む。
「あなたたちに都合が良すぎて、胡散臭いというわけ? それはそうでしょうよ。───勘違いしないでね。わたし達は信頼のおける仲間になるわけじゃない。お互い利用しようとしていることは解っているでしょう。そんな相手に本心を言えだなんて、幼子でも通用しないわ。わたしを利用するかしないかはあなた達の自由。それを判断する材料は各自勝手に探してちょうだい。わたしが見せるカードはこれ以上無い。…わたしはわたしの利益を考えている。それを見なきゃ判断できないというなら結構、今すぐお帰り願うわ」
 由眞は怒りを見せて切り捨て、それぞれ3人を見据えた。その厳しい表情に文隆、真琴、史緒の3人はたじろぎを隠せなかった。
 そのとき、ドアの向こうから微かな話し声が聞こえてきた。
 あちらの部屋にいた女性と、もうひとり。
 由眞はふと微笑む。それは今までの対外的な笑顔ではなく、少しくだけた笑い方だった。そして言う。
「最後のひとりが来たみたい」
 3人がその意味を理解するより早く、どかん、と破壊的な音を立ててドアは開かれた。
「由眞さん、遅れてごめん!」
 雰囲気をぶちこわす高い声が飛び込んでくる。息を削って、肩を上下に動かして、汗を掻いていた。入ってきたのは史緒と同年代の少女、柔らかそうな茶色い髪、ファー付きの白いダッフルコート、そしてピンクのロングブーツを履いている。どう見ても場にそぐわない恰好の人物の登場に3人は面食らった。
 あれ、と史緒は首を傾げた。恐らく走ってきたであろう少女の、玄関からの足音が聞こえなかったことに。
「相変わらず、時間通りに現れない子ね」
 と、由眞は少女をからかう。
「急な仕事があったの」
「まぁ、いいわ。───この子が4人目よ」
 少女に向けて、挨拶するよう由眞が視線で促すと、少女は歯を見せて豪快に笑った。
「國枝藤子でっす。よろしく!」
「───…え? “國枝”?」
 真琴が呟いた。その声は小さく、本人には聞こえなかったようだ。
「すでに何か仕事を?」
 文隆が訊く。
「あ、うん。あたしは」
「藤子」
 答えようとした藤子の台詞を由眞が遮った。
「その質問には契約後に答えるわ」
 そう3人に言った由眞の横で、國枝藤子は軽く舌を出して肩をすくめていた。
 パン、と一打ちが響き、室内はしんと静まる。
「さて、わたしも暇じゃないの。そろそろ散会しましょ。十日後、了解のサインをする人だけ来てちょうだい。やる気の無い人間は断りの挨拶も時間の無駄、但し、ここでのことは他言無用よ」




「ねーえ、由眞さん」
 3人が退出した後、藤子は甘えるように由眞の椅子に凭れた。
「なぁに」
 一息吐く由眞は藤子の言葉に耳を傾ける。
「本当にやるの? そんなにうまくいくとは思わないけどなぁ。あたしが言うのも差し出がましいけど」
「年寄りの道楽よ。それなりの結果が得られれば満足だわ」
「それなり、ね。当人たち、聞いたら怒りそうだけど」
「あら、だからあの子達の前では言わなかったでしょう」
 由眞は目を細めて笑う。
 彼ら3人、プライドだけは並以上、己の仕事を「それなり」で済まそうなどとは思ってないだろう。しかし実行前からプライドを振り翳すことは子供にもできる。具現させるため、そして由眞自身が見極めるために1年という猶予を敷いたのだ。
「少なくとも、私は1年間、遊ぶことができるわ」
「ずっとやりたかったことだもんね」
「まだまだよ、スタート地点にさえ立ってない。あの子達が成長して活躍してくれなくちゃ」
「何年先かなぁ」
「私の目が黒いうちに成果を見せてもらいたいものね」
 不敵な笑みを浮かべ容赦ない物言いをする。「悪く無い素材を選んだつもりよ。まずは1年間、手腕と頭脳を計らせてもらいます」
 楽しそうな由眞の横顔を見て、藤子も歯を見せて笑った。すると由眞が振り返り言う。
「あなたも、本当に私の道楽に付き合うの? 私の傘下に入らずとも仕事は順調でしょう? 却って邪魔することにならない?」
「あたしは由眞さんの傍にいられるなら、なんでも」
 頓着無さそうに答える藤子。相変わらず由眞の背もたれに寄っかかり、それが楽なのか目を瞑りくつろいでいる。
 そういえば、と由眞は別の話題を口にした。
「あなたの新しい恋人って、あの、北田氏なのね。大丈夫なの?」
 藤子は苦笑する。
「新しい、って…。あたしがすごく尻軽みたい」
「それは失礼。nextではなくbeginよ」
「ふふ。晴ちゃんは、あたしに復讐する気はないの」
「そう?」
「狙いは別のトコ。あたしをどうこうする気はないの。今度、紹介するね」
「楽しみにしてるわ」




*  *  *




「さて…」
 と、溜め息混じりに呟いたのは的場文隆で、3人が近場の喫茶店に入って20分が過ぎた頃だった。
 その間、誰も一言も発しなかったのは、それぞれ考えることがあったからだ。端から見たら、ずっとだんまりな3人組はおかしく見えたことだろう。座ると同時に注文した「アメリカン3つ」は結局誰も口を付けないまま冷めてしまった。
「改めて自己紹介でもするか?」
「いや、とりあえず名前は覚えた」
「私も」
 御園真琴に倣って史緒も頷く。すると的場が「あ」と短い声を上げて史緒を指さした。
「なぁ、“阿達史緒”って、もしかしてあのアダチ?」
「知ってるの?」
「一人娘の噂は有名だったから」
「どんな噂?」
 訊いたのは御園だ。
「えーと、…引き篭もりだっていう」
 言葉を選んだ的場の気遣いを察して史緒は苦笑した。「そんな可愛い噂じゃないでしょう?」
 アダチの娘は精神を病んでる。そういう噂が流れていることは史緒も知っている。亨や咲子の葬儀の時節、自宅を訪れていたアダチ役員らから伝わったのだろう。
「噂は当てにならないってことは解ったよ」的場は苦笑して、「まぁ、うちも経済界の動向を無視できない稼業だから、耳はいいんだ」と付け足した。要するに、噂と違ってアダチの一人娘はこうして初対面の人間と会話できるくらいには社会適応性を持ち合わせているということだ。
「で、何者なんだ? あの女。あ、婆さんのほうな」
「あ、そのことについては、多分、僕が一番詳しい」
 文隆の疑問に真琴が反応した。
「桐生院のブランドは知ってると思うけど」
「紡績の?」
「そう。かなり古いよ、大正まで遡るんじゃないかな。社歴にこの人ありと謳われた前社長は3代目で、傾きそうになった会社を何度も建て直した辣腕家だって。数年前に死んだけど」
「で?」
「その前社長、夫人」
「あの人が?」
「そう」
「へー」
「役職は?」
「無い。筆頭株主なだけ。普通に51%所有」
「あんな大きな会社の筆頭株主が個人、って珍しくない?」
「いや、名義は企業になってる。といってもほとんどあの媼の個人会社だけど」
 先ほどのマンション、「YK」がそれだという。
「どちらにしろ、婆さんが“桐生院”の最高権力者ってことか」
「ちなみに、桐生院というのは本名じゃないよ。前社長も桐生院を名乗ってたけど、後になってブランド名を自分に冠したわけだ」
「詳しいのね」
「うん、まぁ、古いことは得意」
 さして面白いことでもないという風に御園は嘆息とともに椅子に背を付く。
 的場が言葉を継いだ。
「その大会社の筆頭株主の婆さんが何のつもりなんだろうな」
 史緒も考える。
「未成年の私たちに仕事を持たせる、それも1年間は収支決済は要らず、1年後に辞めても返済無用、続けた場合のペイメントも雀の涙───…あの人に何かメリットある?」
「無い」
 的場の即答に御園はくすりと笑った。しかしすぐに思い出したように「あぁ」と呟いて顔を上げた。
「でもさ、簡単には辞めないような事情があってこの条件で飛びつくような切羽詰まった人間を選んだんだと思うよ、あの媼は」
「どこまで調べてるんだよ、あの婆さん」
「知らないほうが幸せかもね」
 声を顰めた的場と冷えた笑みの御園。不服を唱えながらも挑むような口調に、史緒は視線を上げた。
「…2人とも、断るつもりはないのね」
 思わず呟くと、御園は心底意外そうに目を向けた。
「この条件なら頭下げてでもやらせてもらいたいな、僕は」
「阿達さん、この話、蹴るのか?」
「え、…ううん、そういうわけじゃないけど」
 勿論、史緒は乗り気だ。そのために今日ここまで来たのだから。
 的場が御園に訊いた。
「人増やしてもいいかって訊いてたろ? 誰かいるのか?」
「一人は決まってる」
「俺も、数人候補はいるけど。阿達さんは?」
「私はひとり」
「手伝いでも誰かいたほうがいいんじゃないか?」
「そうだよ、精神的にも大変だと思うよ」
「うん、でも私、そういう親しい知人もいないしね」



 最寄り駅で3人は別れた。
 文隆と真琴は同じ路線だったので、史緒と別れた後、並んで歩き出す。
「どう思う?」
 そう訊いたのは真琴だ。省略された目的語を文隆は正しく理解していた。
「あの試験を通ったんだから頭はあるんだろうさ。でもな」
「でも?」
 立ち止まり振り返る。先ほど別れた史緒はもう見えなかった。
「あれはちょっと、覚悟が足りないと思うな」









05.復讐の代償

 史緒が図書館から帰ると、玄関に関谷篤志が出迎えに出てきた。
「よ。ふた月ぶりくらいか」
 と、あの事件の前と変わらない笑顔を見せられ、史緒は肩すかしを食らったような気分になる。
「…」
 本当にこの再従兄はよくわからない。
 ふた月の間、現れなかったのは、史緒を見放したからではないのか?
「ほんと、久しぶりね。忙しかったの?」
 靴を脱ぎながら、探りを入れる意味で尋ねた。多分、篤志は史緒の意図に気付いただろう。
 篤志は低く笑う。
「俺が受験生だって忘れてたか」
 一瞬凍り付いた後、あ、と史緒は声を上げた。長く訪れなかった理由が判って、憎らしいような安心したような複雑な心境になる。
「無事終わったの?」
 史緒が先に立って廊下を歩く。篤志も歩調を合わせて付いてきた。
「ギリギリ、なんとか」
「おめでとう」
「ありがとう。またこっちに通わせてもらうから、よろしく」
「…櫻はもういないのに?」
「おまえと司がいるからな」
「櫻を殺したのは私なのに?」
 篤志は足を止めた。「いいかげんにしろ」怒気を孕んだ溜息を吐く。
「吹聴して他人に認めてもらわなきゃ自覚できない、そんな罪なら捨てちまえ」
「!」
 引っ張られたように史緒が振り返った。痛いところを突かれたように顔を顰める。
「そんな話を聞いて面白いはず無い、わざわざ他人に不愉快な思いをさせたいのか? 本当におまえが犯した罪なら、黙って背負ってろ」
 篤志の言うことが解ったからこそ、史緒は反論しなかった。おそらく司が言っていたことも同じなのだろう。史緒はそれを吟味するために俯く。すると篤志の苦笑が聞こえた。
「…なんて、偉そうなこと言っても、多分俺は、信じてないんだ」
「───なに?」
「おまえが自分の願望を、都合良く起きた事故にはめ込んでるように、俺には思える」
 史緒は崩れそうになる脱力感を感じた。少しの悲しさを自覚した。
「…あぁ、初めから信じてなかったんだ」
 だから、櫻を殺したと言う史緒の前でも、いつも通り笑っていたんだ、と。
「あ、悪い、違うな」手を振って否定を示した。「俺は信じられないんじゃなくて、───信じたくないんだ」
 史緒はその言葉をどう受けとめていいか解らなかった。史緒の自白を信じたくない、と篤志は少しも悪びれずに言う。その態度は少しばかり腹が立つ。
「俺の勝手だろ?」
 鷹揚に胸をそびえさせる篤志。史緒はそれに顔をしかめたが、
「確かにね」
 と、苦く笑う。
 そのままダイニングに向かおうとする史緒に、じゃあなと軽く手を振って篤志は階段を上っていく。
「あ、そうだ」と史緒は呟いた。
「なに?」
「私、家を出るかもしれない。近いうち、お父さんにも言うつもり」
「は───?」
 階段の上から篤志が何か言っている。しかしそれを聞き流し、史緒はダイニングの扉を閉めた。






 史緒は生まれて初めてそこを訪れた。株式会社アダチ本社ビルである。
 皺ひとつ無い白いスーツに、薄いピンクのブラウス、履き慣れない革靴は歩きづらくて仕方ない。袖はつっぱるし、肩も硬い。でも周囲を見回すと大半の大人はこれと同じような服を着ているし、史緒にはよく解らないがこれがごく常識的な恰好なのだろう。
 TPOというものがあります、とマキは楽しそうに諭す。父親に会いに行くと言ったらマキは大層驚き、史緒を朝早くに家から引きずり出し、ショップでまるで着せ替え人形のような扱いをした。口を挟む余地が無いまま上から下まで着飾らせられるとそのまま電車に押し込められた。
 今まで父親と関わろうとしなかった史緒が、その父親に会いに行くと言い、マキは嬉しかったのかもしれない。そんな明るい話をしに行くわけじゃ無いのだけど。
 昨日、父への面会を和成に申し出たところ、「忙しい、会社に来い」という言づてが返ってきた。 そして今、史緒は初めて父親の会社の扉を開く。

 大きな回転扉を通り抜け、史緒はビルの中に入った。
 天井が高く、広いロビーの中では、そこかしこにスーツ姿の大人達が行き交っていた。その慌ただしさに呑まれ史緒は歩行にさえ戸惑う。通り過ぎる幾人かは、物珍しそうに史緒のほうへ視線を投げていた。どんなに無理をしても、史緒は子供にしか見えない。何故こんな所に子供が? そう思っているのだろうが問いただしてくる人間はいなかった。
 正面の受付カウンターには女性社員が3人座っている。やはりここは受付を通すのが道理だろうと、史緒はカウンターに近寄った。
 受付嬢のひとりは史緒の姿に気付くと一瞬目を丸くした。一瞬だけだ。一流商社の総務部たる者、子供くらいで動揺してはいけない。けれど、その受付嬢はちらりと視線を動かした。その先には大きな柱の前に仁王立ちする守衛官がいる。注意するよう、アイコンタクトで黙契が行われた。
 史緒がカウンターまで5歩の距離に寄ったとき、受付嬢はさも今気付いたというような仕草を軽く見せ(そういうマニュアルなのだ)、笑顔を向けた。
「おはようございます」
 隙の無い高い声が明るく響く。少し驚いて、史緒は小さく返した。
「…おはようございます」
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「父に面会に。アポイントは取ってあります」
「お父様、ですか」
「ええ」
 受付嬢は眉を顰めるような真似は絶対にしない。マニュアル通りの質問を投げた。(最も、親に面会に来た子供に対するマニュアルなど無いが)
「部署名はわかりますか?」
「…」
 史緒は口篭もる。
「部署は…ちょっと、わかりません」
「そうですか」
 と、受付嬢は完璧な笑みを見せた。胡散臭いほどの笑顔だったが、こうでもなければ商社の受付は務まらないのだ。
 例えばここで史緒が「父はここの社長だ」と言えば、受付嬢は慌てて確認を取り、丁寧に史緒に応対しただろう。史緒がそれをしなかったのは、この父親の本拠地でその娘だと名乗りたくなかったからだ。好奇の目で見られるのは避けたかった。
「お名前は?」
「阿達といいます」
 かたり、とそのままキーボードに打ち込もうとしていた受付嬢の手が止まる。背後にも大きく掲げられている、自らが所属する会社名を思い出したのだろう。このとき受付嬢は迷った。あだち、とはどんな漢字なのか、それともフルネームを訊くべきか。
 後者を実行しようとしたところで、ロビーの離れたところから別の声が響いた。
「史緒さん!」
 史緒ははっとして振り返る。エレベーターホールのほうからスーツ姿の和成が走ってくるところだった。
「…一条さん!」と声を上げたのは史緒ではなく受付嬢。大きく見開き和成と史緒へ交互に視線を向ける。
 和成は足を止め呼吸を整えると、史緒に向かって丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです」
 たまらず史緒は顔を背けた。和成の行動は「社長令嬢」に対してのものだ。そんな扱いをされたくはないし、なにより親しかった相手に敬語を使われるのは悲しい。それを素直に言えるほど子供では無いので、和成が頭を上げたときには史緒は視線を戻していた。
「先月、会ったわ」
 そっけない返答に和成は苦笑した。
「あの、一条さん」と、横から声をかけたのは先ほどの受付嬢で、「この子は…」戸惑いの表情を見せる。
 ああ、と和成は答えようとしたが、鋭い視線で史緒に睨まれ、言葉を飲み込む。
「今度からこの子が来たら私に連絡してください」
 と、言うに留めた。
「大丈夫です。もう二度と来ませんから」
 史緒は受付嬢に捨て台詞を残す。それに対し和成は何かいいかけたが時計を見て表情を改める。
 右手を差し伸べ、史緒をエスコートした。
「さあ、行きましょう。社長がお待ちです」




 アダチ本社ビルは地上43階、塔屋1階、地下4階で、社長室は役員室とともに13階にある。これは有事の際にはしご車がとどく41メートルぎりぎりの高さだ。
 そのフロアは床が絨毯だった。エレベーターを降りた瞬間から足音が消える。エントランスやロビーと違い、人の気配が全く無い。同じ建物内とは思えないほどのギャップだった。
 先を歩く和成に遅れないように足を動かすが、その動作はどこかぎこちなかった。ヒールの革靴で絨毯の上を歩きにくかったこともあるが、なにより…。
 長い廊下を歩き、突き当たりを曲がり、さらにその先を和成は指し示した。
 思考はいつも通り平常なのに、心拍数が異常な速さで胸を打っている。信じられないほど指先が震えていた。
(私、緊張してる)
 史緒はそれを自覚した。その、重く大きな扉を目の前にして。



 その部屋の窓はすべてブラインドで閉じられていた。防犯の為だろう。それでも漏れる少しの陽光は部屋を照らしている。それを補うように室内の照明も点っていた。
 広い部屋の奥、木製の大きな机に座る男がいる。このビルを占める大企業・アダチの社長、阿達政徳である。
 史緒の背後で和成が扉を閉めた。すると和成は史緒の傍を離れ、部屋を横切り、政徳の斜め後ろに立つ。それは彼の立場上、当然の行動だ。しかし史緒は、その立場の違いを線引きされ政徳と和成2人と向き合うことになり、途端に息苦しくなった。政徳と正面から対峙するとさらにそれは増した。
「こうして対面するのは本当に久しぶりだな」
 政徳の低い声は室内に驚くほどよく響いた。史緒は特に懐かしいとは思わない、最後に会ったのはいつだったろう、と思考を巡らす。
 はぁと政徳の溜息が聞こえた。
「挨拶くらいできんのか」
 と、苦々しく苛立ちを隠さない声。史緒は慌てて頭を下げた。
「お久しぶりです、お父さん」
 すぐに頭を上げると、値踏みするような政徳の視線とかち合う。ふいと顔を逸らしたのは政徳で、その視線は次に和成に向けられた。
「申し訳ありません」
 促されたように和成が目礼する。───史緒は、かっとなった。
「どうして一条さんが謝るの」
「おまえの教育係として和成を雇っていたのはわたしだ。充分な結果を出せなかった和成が謝罪するのは当然だと思うが」
 充分な結果を出せなかった、というのは史緒が至らないということだ。
 史緒は声を返せない。父の言うことは正しい。和成に謝らせなければならない自分が悔しかった。「ところで、話があるとか?」
「───はい」
 危うく頷きそうになったがどうにか返事を返す。
「その前に、こちらからも話がある。先に聞いてもらおう」


「相変わらず学校へは行っていないのか?」
 と、政徳は訊いてきた。
「はい」
 質問の意味が判らず史緒は眉根をひそめる。今更、子供の常識はずれを心配しているわけではあるまい。
「行く予定もないか」
「…はい」
 ただ頷くだけの史緒を、政徳は真正面から見据えた。
「アダチに入るための準備をしろ。勉強させる」
 史緒はその台詞の音を理解するのに5秒かかった。「───え?」
 政徳は苛立たしそうにまた溜息を吐いた。「もう一度言おうか?」
「ちょっと、待って」
 和成を見る。彼は無表情で視線を落としていた。恐らく知っていたのだろう。そのことに何故かショックを受ける。今更ながら政徳の言葉を理解し史緒は愕然とした。
 アダチで働け、というだけの意味で無いことは史緒にも判った。役に立たない娘をコネで雇おうなどと、政徳は絶対に考えないだろう。
「…お父さん?」
 まさか、と史緒は思い立つ。それを完全に否定することはできなかった。
(まさかアダチを名乗らせようとしてるの?)
 考えるだけでぞっとした。
「自分が阿達の人間だということを忘れてないだろうな」
 史緒の内心を肯定するようなことを言う。
「そんなの知らないッ」
「何でもそうだが、知らないでは済まされない。───どう足掻いても、将来おまえはアダチに入ることになる。どうせやることが無いなら、今から始めればいい」
「や…やることはあります!」
 震える声でどうにか訴えると、政徳は興味深そうに先を促す。
「へぇ」
「き…今日はそれを言いに来たんです」
「で?」
「働きます」
 不器用な直球に、政徳は失笑した。和成は目を瞠った。
「学校へ行ったこともない、他人との付き合いも知らない、世間から逃げ、引き篭もっていたお前に何ができるんだ?」
 ガタンと椅子に音を立てさせて政徳が立つ。史緒はその音に情けないくらい動揺してしまった。
「社会の駆け引きも厳しさも知らん人間、しかも15の子供がどうやって働くと?」
 息が詰まる。力を込めた手に爪が食い込んだ。睨んでくる政徳の視線は強い。それに呑まれてしまうのが怖くて、史緒は目を逸らした。
(悔しい)
 何も言い返せないくらい、何もしてこなかった自分が悔しい。
 閉じ篭もっていた年月を後悔しても遅い。取り戻すことはできないから。
 アダチに入る? それは冗談じゃない。古い話だが史緒は司の事件と、さらにそれを隠蔽した父を許せなかった。
「それでも…ここに来るのは、嫌です」
「血縁の後継者が必要だ」
「だからって」
「おまえの今までの無駄飯食いは、ここの金だということを忘れているようだな」
「だからって、そんな、後継って、今までそんな話したことなかったじゃない。今までは、さく───」
 自分の言葉に驚いて大きく瞠る。
 政徳は微かに顔をしかめて、静かに言った。
「…その櫻を 殺したのは誰だ」
「信じてないくせに!!」
 叫んでいた。
 ダンッと机が鳴る。
「では、人殺しだと罵れば満足なのかッ!」
「…っ」
 予想外に強い言葉を返され史緒は息を飲む。
「甘えるな。周囲の人間はおまえを満足させる為にいるわけではない。いくらなんでも、それくらいは判っているだろう。───今のこの状況が自分のせいだということを忘れるな。本来ならそれなりの罰を受けてるところだ」
 史緒はたがが外れたように大声を張り上げた。
「私はそれでも構わなかった! …それを、醜聞を恐れて、七瀬くんのときと同じように隠蔽したのはお父さんじゃない!」
「史緒」
 と、和成の諫めるような声。それを無視して大きく息を吸う。
「“本来ならそれなりの罰”?」
 震える声で嗤う。涙が滲んだ。
 そんな理想的な世界ではないことはとうに知っている。
 すべての罪に罰があるわけじゃない。
 すべての善が笑うわけじゃない。
 史緒はそれを目の前で見ているから。───遠い昔のことだ。
「それなら、どうして誰も櫻を罰しなかったの…?」
「なんの話だ?」
「なんでもありません!」
 両手で胸ぐらを掴む。それ以上、記憶を呼び起こさせないために。
(思い出しちゃだめ、思い出しちゃだめ…!)
「まぁいい」と政徳は息を吐いた。「実際にアダチを動かすのは篤志だ。ここに来るのが嫌だというなら、おまえは適当に遊んでいればいい」


 耳が聞こえなくなったのかと思った。何を言ってるのか判らなかったから。
 今度こそ本当に絶句する。
(何言い出したんだろう、この人は)
(篤志?)
 何故そこに彼の名が出てくるのか。
「篤志とおまえが結婚して、篤志がアダチを継げばわたしに不満は無い。ここも安泰だ。やつは期待した以上に優秀だったな。こちらの調査では申し分無い。おまえらと遊んでいても名門大学に受かったんだ、甲斐性もあるだろう」
「そんな勝手な…っ」
 史緒は政徳に詰め寄った。
「今まで私のことなんか気にも留めなかったくせに…ッ、櫻が死んだら篤志と結婚しろ? …篤志にアダチを継がせる? …冗談やめて、勝手なこと言わないで!」
 だめだ。それだけはどうしても許せない。
 司だけでなく篤志までアダチに巻き込むなんてできない。それは許せない。
 こみあげる怒り。胸焼けと嘔吐感。
 怒りで涙が出たなんて初めてだ。
 握り締めた手が、大きく震えている。
 私は今まで何もしてこなかった。その反動がこんな風に表れるなんて───。自業自得。
(………自業自得?)
 今、思うようにならないのは、今まで何もしてこなかった代償だと、それは解ってるつもりだった。解ってるけど、足掻き続ければ突破できると思っていた。
 でもそのせいで他人を不自由にさせてしまうというなら。それに気付いてしまったら、ひとり脇目もふらず自分勝手に足掻くことなどできるはずもない。
 ───ああ、それならせめて。
「篤志を巻き込まないで! 私だけにして!」
「自惚れるな」
 太い失笑が漏れる。
「何年も家に引き篭もっていたおまえに、人の上に立つ資格は無い。おまえに何ができる? おまえには何もできまい」
 ぞわり、と何かが体を駆け抜けた。
 そして弾ける。









06.走る体

 きっと、誰にでも、こんな瞬間があるのだろう。



 自分を殺した経験。

 そこから目覚めさせた光。


 自分を生かす希望。───走り出す決意。





 死んでも構わないと思ってた。死にたくない理由は無かったから。
 生きたい理由はいくつかあった。でも、どれも棄てて構わなかった。───ネコのやわらかい毛並みを抱いていたい。その程度のことだ。
 どれも、胸を撃つ痛みに耐えられる希望にはならない。
 未来は無い。したいことも、できることも無い。私は子供だし、「何の苦労も知らないお嬢さん」で、大した苦労もしてないし不幸でもない。「死んでも構わない」なんて口にできない。でも思ってた。
 生きたくても生きられない人間もいるんだから。───だから? それが、なに?
 そんな風に誰かの事情を憐れんで同情して比較して生きたくなんかない。私は私のための生きる理由が欲しい。そんなもの見つからないから、撃たれてそのまま死んでしまいたかった。

(でも)
 今、切ない熱情が胸を熱くする。
 静かな激情に指先が震える。
 体がふわりと軽くなった。肩に重い何かを背負っていたことに、今初めて気が付く。
(どうして私は、立ち止まっていたんだろう)
 部屋に閉じ篭もったままで。
(どうして走らずにいられたんだろう)
 過去の自分を責めるつもりはない。たった数分前はこんな熱があることを知らなかった。こんなに目の前がクリアになったことは無い。
 父の言葉にはひとつだけ誤りがある。
(私が何もできないなんて嘘だ)
 確かに、私はまだ何も成していないけど。
(これから先、できないことなんて何もないんだ)
 その思いに胸が焦げた。
 今、この瞬間に、たくさんのことを理解した。
(死んでも構わないのは、生きる理由が無かったからだ)
(周囲からの棘や圧力に身を削られるのが辛かったから、それから逃げたかったから)
 生きる理由を探すことはこんなにも簡単だった。目的をでっち上げてしまえばいい。
(目的がないから、ほんの少しの痛みにさえ倒れていたんだ───)
 染み入る幸福感に涙が滲んだ。抑えきれない激情に体がわななく。
 大丈夫、まだ何もしていない、まだ強くなれる。
 かつて和成が言っていたではないか。「何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる」と。
(では、私はたくさんのものを守るために生きよう)
(醜いエゴでもいい、自分のために、この手が届くすべてを)
 これから手にするもの。このさき出会う誰か。父の言いなりにならない自分、その私が望む世界。
 すべてを守るために。


 もう、迷いは無い。


「───私、家を出ます」
 真っ直ぐに、阿達政徳と一条和成を見据えた。
「なに…?」
 2人はぽかんとしている。政徳でさえ史緒の言葉の意味をすぐに理解できなかったようだ。
 臆することはない。
「篤志と結婚なんてしない、お父さんの思い通りにならない。私は家を出て、独立します」






つづく
37話「grandmap前編」  END
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