37話/38話/39話
38話「grandmap後編」


#37 01.利己的な復讐
  02.アダチ
  03.情報の館
  04.招集
  05.復讐の代償
  06.走る体
#38 07.櫻と史緒
  08.篤志と和成
  09.藤子と史緒
  10.和成と史緒
  11.篤志と司と史緒
  12.文隆と真琴と藤子と史緒







07.櫻と史緒

 その日の昼下がり、別荘の玄関から出た史緒は湿った風を感じた。無意識に空を仰ぐ。黒い雲が低く見える。雲の動きなど知る由も無いけれど。
 多分、雨になるだろう。
 そのとき、確かに史緒は頭の片隅でそう思った。しかしそれは決して、不吉な予感ではなかったし、カレンダーを見て祝日に気付くのと同じくらいどうでもいいことだった。遠く、風が波を打ち付ける音が強く鳴っている。だが、それもいつものことだ。特に気にせず、史緒はキョロキョロと首を動かしながら林のほうへ歩いた。
 ネコの不在に気付いたのはついさっきのこと。別荘の一室で、篤志と司と、真木が淹れてくれたコーヒーを飲みながら話をしていたときだった。ネコ探してくる、と言って史緒は部屋を出た。どこの部屋にもいなかったので家の外に出た。
(ネコ…?)
(どこ行ったの?)
 史緒は林の中を歩いていく。
 風が強く、針葉樹の隙間を通り過ぎる音がする。その葉が擦れ合う音が痛々しく響く。仰ぐと、黒い雲がもの凄い速さで空を覆い尽くそうとしているのが見えた。
 その嵐の前兆に史緒は不安になった。
(ネコ…)
 そのとき、うるさい風の合間から微かな泣き声が聞こえた。
「───ネコ!?」
 小さく叫んで史緒は細い砂利道を走り出す。辺りを注意して見回しながら先へ急ぐ。しかし草むらの影にネコを見つけることはできなかった。
(どこ?)
 さらに先へ進み、躊躇なく草葉を割って入る。
 すると突然、視界が拓けた。
 高木が途切れた。
 海が見えた。
 崖の上に出た。
 一面の曇天に向かい立つ人影がひとつ。
 ──ぞわりと鳥肌が立つ。

 息を飲む。
 その場所は知っていた。そうだ、真木に危ないから近づくなと言われていた場所だ。
 林道から外れ、整備されてない土肌。見晴らしのいい丘だが、その向こうは断崖絶壁で下は海。
 そしてこの強風のなかでも臆すること無く崖縁に立つ阿達櫻。───その腕に抱かれているネコ。
「…おまえか」
 振り返った櫻がつまらなそうに言った。視線を向けられただけで史緒は震えてしまう。
「ネコ…、放して」
 それだけ口にするのにも極度の緊張を強いられた。
「あぁ、いいよ」
 櫻はネコの首根を掴み、その手からぶら下げ、腕を伸ばした。崖縁の向こう側へと。
 そして口端で笑う。「(はな)そうか?」
「やめてッ!」
 千切れそうな悲鳴をあげる史緒。櫻は腕を下ろすついでに無造作にネコを放り投げた。「…ひッ」
 ネコは史緒の足下の草の上へ転がった。猫科の習性から難なく着地する。
「ネコ…っ」
 史緒はネコを抱き上げ安堵の声を漏らす。その様子を櫻はつまらなそうに見ていが、ふと何かに気付いたように史緒に言った。
「そいつはもうすぐ死ぬよ」
「!」
 史緒は息を詰め青くなった。
 櫻の呪いのような言霊。
 史緒は呆然としたまま何かに撃たれたようにその場に膝を落とした。
 その呪いを取り払おうとネコを強く抱きしめたけれど、一度染みついた汚れのようにそれは消せない気がした。
 そんな史緒の様子を意に介さず、櫻は辺りを見回し史緒に声を掛けた。
「おまえとは前にも一度、ここで話したことあったよな」
 崖縁に立っているというのに、櫻は悠然と胸を反らす。「覚えてるか?」
「…?」
「そのときは蓮家の末娘と、…亨がいた」
(───)
 その記憶を史緒は今の今まで忘れていた。けれどそれが鮮やかに蘇る。
 思わず振り返った。
 蘭が駆け寄る。しおさん、捕まえたー。その後ろから歩いてくる亨。こんな所にいたのか。
 そろそろ戻ろう。マキさんが待ってる。
 櫻も。行こうぜ。そーだよ。櫻くんも行こー。
 それが現実だったかと疑うほどの眩しい記憶。どこで違ってしまったんだろう。
(…亨くん)
 史緒は本当に久しぶりに彼の顔を思い浮かべた。しかしすぐに、その記憶を振り払うために目を瞑り首を振る。何故なら彼の顔は、目の前に立つ櫻と同じものだからだ。
「史緒」
 櫻が呼ぶので反射的に顔を上げてしまった。櫻と目が合う。櫻はゆっくりと口を開いた。

「───は生きてる」

 そのまま次の台詞を口にした。
「黒幕は咲子だな」
 それだけ言うと櫻はぷいと海のほうへ目をやった。さらに強くなった風が丘の上を走り抜けた。史緒はその風に目を瞑る余裕さえなかった。
「……え?」
「2度は言わない」
「ふざけないで…ッ!!」
 大声を出したせいで涙が滲む。込み上げてくるものがある。呼吸が乱れた。
 今さら、何を言うのだろう。
「櫻が」
 眩しい遠い日の記憶を櫻がその手で断ち切ったくせに。
「櫻が、…───…ぃッ!」
 声が掠れて言葉にならなかった。けれど櫻は解っただろう。
 このとき史緒は、何度も忘れたいと願った記憶を───桜の花が散る幻覚を見た。
「櫻が…っ! …私の、目の前で…」
 風が強く吹いた。
 その風は陸から吹き荒び、史緒の長い髪と櫻のコートを空に靡かせていた。


 そうだ。前にこの場所で。
 ───ここから落ちたらどうなると思う?
 そんな話をしたのだ。
 櫻が。






08.篤志と和成

「さくら、おちた」
 と、史緒から聞かされた後の篤志の処置は迅速だった。その場を司に任せ、全速力で林の小径を走る。途中、雨が降り出した。それはあっというまに激しくなり、足下の草を浸す。遠くで雷が鳴った。篤志は舌打ちして、腕時計の針を読む。───午後4時7分。嵐が近づいてくる、辺りは暗くなり始めていた。
 別荘まで辿り着くと、篤志は転がり込むように玄関を開けた。そして怒鳴る。
「マキさん!!」
 その声で有事を察したのか、家政婦の真木敬子が慌てて廊下に出てきた。洗濯物を取り込んでいたところだったらしい。
 肩で激しい呼吸を繰り返す篤志に何事か尋ねようとしたが、それより先に篤志が喋った。
「櫻が崖から落ちた、119番して」
 真木は悲鳴をあげた。篤志は息を切らしながら続ける。
「警察にも連絡を。マキさんは史緒と司を迎えに行ってくれ、2人は崖の上にいるから。雨が酷いからマキさんも気をつけて」
 篤志の敏活な指示にマキは狼狽えながらも頷く。
「篤志さんは…」
「下に行く、車、借りるよ!」
 玄関先に置いてあったキーを掴み、篤志は再び外へ飛び出して行った。すぐそこの駐車場には、別荘へ来るときに皆で乗ってきた白いワゴンが1台。篤志は運転席に飛び乗り、イグニッションキーを回す。アクセルベタ踏みでバッグする。実は篤志は無免許であるが、今はそんなことを気にしていられない。ギアをロウに入れると、雨で前がほとんど見えないことに気付いた。ワイパーのスイッチを入れる、けれど篤志はすぐに発進させなかった。
 ハンドルを握る両手が震えていた。それを自覚した途端、どうしようもない不安に襲われ篤志は叫びそうになる。それを払拭するために拳で窓を叩いた。───車の窓は樹脂が埋め込まれていて簡単には割れない。しかしもしこれが窓ガラスだったなら間違いなく砕けていた。そんな力で篤志は窓を叩いた。
 歯を食いしばり、祈り願うように、篤志は胸の内で叫んだ。
(櫻───!)




 一条和成が海岸線に降りたとき、既に雨脚は遠くなりつつあった。
 陽は完全に落ち、20名ほどの救助隊員がサーチライトが流れるなかを慌ただしく動き回っていた。相変わらず風は強く、波が高い。捜索活動は難航しているようだった。崖の上に警察がいるのだろう、無線のやりとりが聞こえてくる。岩場の一角では火が焚かれ、休憩中の隊員が暖をとっていた。
 波打ち際、不安定な岩場に立つ篤志を見つけた。白いタオルを肩に掛け、睨むように海へ目を向けている。暗闇の中、時々サーチライトが横顔に当たる。その顔はどこか急くように───櫻が早く見つかって欲しいと願う表情だった。
(純粋に櫻の無事を願っているのは彼だけかもしれないな)
 と、和成は思った。勿論、和成だって櫻が心配だ。早く見つかって、無事であることに安堵させて欲しい。多分、まだ実感が湧かないのだ。あの櫻がこんな事故に遭うとは思えない、こんな風にいなくなるなんてあるはずない。司も同じだろう。真木のように責任者ではなく、史緒のように加害者(自称)ではない和成や司は、篤志が抱えているであろう不安───櫻がいなくなるとは、想像できないでいるのだ。
 篤志は背後に近づく和成に気付いた。
「あんたは史緒についててくれ」
 海を睨んだまま言う。和成になど構っていられないとでも言う様に。
「手を退けと言ったのは君だろう」
 和成は低く呟いたが篤志はこれを無視した。
「史緒はどうしてる?」
「…“櫻を殺したのは自分だ”と、繰り返しています」
「そうか」
「何があったんですか」
「一条さん」
「はい」
「史緒のところに戻ってくれ」
「篤志くんは?」
 そう尋ねると、篤志は顔を上げて黒い海を睨んだ。まだ、櫻は見つかっていない。
「ここにいる」






09.藤子と史緒

 図書館司書の谷口葉子は慎重な面持ちで副業の顧客と向き合っていた。
 貸し出し用カウンターの向こう側で、客は葉子が手渡した資料を封筒を覗き込むように確認している。鼻歌を唄いそうな陽気な調子で、客は器用に指先で資料をめくっていた。
 葉子はこの客とはできれば付き合いたくなかった。私情だけで挙げるなら、この客は葉子のブラックリストのトップにいる。
 ブラックリストと言っても、金払いにだらしないとか極度に性格が悪いとか意味も無く腹立つとか、そういうことではない。どんな人間であろうと客は客、葉子は一様に対応しなければならない。そう、客を選んではいられないのだ。───例えば、犯罪を生業にしているような相手でも。
(例え話ならよかったけど)
 葉子は自分の副業───情報屋としてのネタの信頼性を自負している。だからこそ、目の前の客の「仕事」を疑うことはしない。
 故に、それは解っていることなのだ。
 この客に情報を売るということは、必ず犯罪に繋がるということを。
 もちろん、売った情報の使途は葉子には与り知らぬこと。それでも葉子は、売った情報が犯罪に使われていることに、後味の悪さを味合わずにはいられなかった。
「いつもありがとう、葉子さん」
 と、犯罪者にはとても見えない少女───國枝藤子は笑う。
「お礼は金銭で結構。さっさと帰んな」
「つれないなー」
 藤子はくすくすと屈託なく笑う。葉子はその笑顔を微笑ましいとは思えなかった。その破綻した人格に寒々しさを感じるだけだ。仕事でもなければ付き合いたく無い。早く帰れと追い払おうとしたとき、
「あ、阿達史緒だ」
「───は?」
 ぽつりと発せられた藤子の言葉に葉子は目を丸くした。
 顔を上げると、図書館のエントランスから、本業のほうの馴染みの客が入ってくるところだった。藤子が口にした通り、阿達史緒である。
「おい…」
 と、葉子は呟く。藤子は大声で大きく手を振った。
「阿達さーん、こっちこっちー」
 その声が聞こえたのか、史緒は足を止めた。軽く首を傾げ、迷ったようだが結局こちらに足を向けてきた。
「…國枝、藤子さん?」
「そっ。この間はどーも。ね、阿達さん、すぐ帰る? 駅まで?」
「え? ええ、…うん。本を借りてからだけど」
「じゃあさ、待ってるから、一緒に帰ろう? あたし、駅前からバスだし」
 馴れ馴れしい藤子の調子に史緒は困ったような表情をした。押し切られたかたちで頷くと、葉子にも目礼をして、史緒は奥の本棚へ消えた。
「───おい」
 強い声で言うとやっと藤子はこちらを向いた。
「やぁだ、葉子さん、コワイ目向けないで」
「なんでおまえがあの子と知り合いなんだ」
「さぁ、なんででしょう? 心配しないで、とりあえずまだヒミツだから」
「とりあえず、ってなんだ。真面目に答えるんだ。カタギと関わらないのはおまえらのルールだろう」
 本気で諫めてみても藤子は涼しい顔だ。
「うわぁ、そんなに阿達さんのこと心配なんだ? あたしのことより? 妬けちゃうなー」
「ふざけるな。私みたいなどっちにも関わってる人間には、双方を干渉させない義務があるんだよ」
「───でも、阿達さんをこっち側に来させたのは葉子さんでしょ?」
「!」息を詰めた。藤子は穏やかに笑っていた。「…國枝」
「なにー?」
「まさか、おまえの後ろにいるのは…」
「あらやだ。あたしったらバラしちゃったぁ、あははは」
 わざとらしく笑う様は毎回鼻についていたが、このときばかりはそんなこと気にしていられなかった。葉子はとても危険な情報を得てしまったことを自覚した。
 國枝藤子の名前が知れ渡るようになったのはここ半年のことだ。葉子が持つ資料の中では、2年前に初めて登場している。異様に若い女だということ、単独で行動していること、いわゆるフリークではなくビジネス───請負屋(始末屋、と呼ぶ)だということはすぐに聞こえてきた。その受注率と成功率の高さが騒がれ始めるのにそう時間はかからなかった。
 始末屋のあいだでは「同業には手を出さない」という暗黙のルールがある。同業者の仕事を妬んで実力行使という短慮は許されないのだ。しかしそれでも一触即発のいざこざはは多々ある。
 もし、葉子がたった今得た情報が流れたらどうなるか。己の牙だけでなく虎の威を後ろに持つ藤子を狙うことは危険だ。そして恐らく大半の始末屋は桐生院由眞にも手が出せなくなるだろう。國枝藤子からの報復を恐れて。
「売ってもいいよ、由眞さんも気にしない。でもね、あたしは由眞さんに迷惑かけるのはイヤなの。扱いには気をつけてよね」



 國枝藤子は桐生院由眞のところで会ったよく分からない人物だ。
 史緒の記憶が確かなら、史緒は藤子に名乗ってない。にも関わらず、図書館で名指しされたということは、藤子はどこから史緒の名前を知り得たのだろう。当然、一番可能性が高いのは桐生院だが、史緒たちの知らないところで史緒たちのことが藤子に伝わるのはフェアで無い気がする。それでなくとも、試験を受けた際に桐生院にあずけた情報は、住所氏名年齢学歴その他家族構成やその職業にまで渡るのだ。それが気安く藤子に流れるのは喜ばしいことではない。
「由眞さんが教えてくれるわけないじゃん」
 と、藤子は駅までの道すがら肩をすくめた。桐生院のところで初めて会ったときファー付きの白いダッフルコートを着ていた藤子だが、今日は赤い。派手なことに変わりは無いが印象がまるで違うので、図書館で声をかけられたとき史緒はすぐに気付かなかった。
「自分で調べたんだよ」
 史緒は藤子と並んで駅までの道を歩く。平日だが春休みということもあって歩道を歩く若者は多い。そういえば史緒は今まで同年代の人間と肩を並べて歩くことなど無かった。そのことに気付いて藤子との出会いを不思議に思ったりする。
「調べた…って、どうやって?」
「あらま。阿達さんって、葉子さんの裏の仕事のこと知ってるんでしょ?」
「裏…? って、副業でしょ?」
「まぁ、いいけど。そういう情報屋さんたちがちょっと動けば、阿達さんの名前や身元なんてすぐ判るよ。阿達さんはそういう仕事をしようとしてるんじゃないの?」
 そういう仕事、というのはまだよく判らない。桐生院由眞は「業種は情報産業」と言ったが、具体的にどういうものか知らされていないし、また、想像もできない。さっき藤子が「調べた」と言った史緒の名前(だけじゃないかもしれない)、それを情報屋に調べさせたのなら藤子は金を払ったはずだ。需要と供給が重なることでそこに取引が成立するのは解る。けれどそんなものを金を出してまで欲しい人間がそういるとは思わない。史緒はその業界が存在する価値を未だに理解できずにいた。
 そんな業界に史緒は飛び込もうとしている。けれど桐生院のところへ行ったのは、その業界で働きたかったからじゃない。
(単に、家から出たかっただけだ)
 本当にやっていけるのかな、と今更ながら───父親に啖呵を切ってから、はじめて不安になった。
 櫻はもういないのだから、あの家で怯える必要は無い。櫻がいなくなった世界は空気の色が変わったような気がした。視界が広がった。そんな場所で、部屋でひとり考えていたときに頭を持ち上げたのが自立願望だったというわけだ。史緒はそう自己を分析する。
 やるしかない。今更尻込みする気は毛頭無いのだが、それでも、一人家を出て、よく解らない業界で果たして働いていけるのだろうか、不安が無いとは言えない。
「え…、ひとりでやるつもりなの?」
 びっくりしたように藤子は丸い目を向ける。
「うん?」
「ばかもの」
 と、細い目が睨む。「…は?」
 藤子は足を止め、さらに史緒をも止めさせた。
「いや、そればか。まじでばか。慎重そうに見えて、意外と何も考えてないのね」
「國枝さん…?」
「人間、自分だけを守ることには、慎重になれないものよ」
「?」
「そりゃ、ひとりならイイ仕事ができるでしょーよ。自分で仕事受けて、自分で仕事こなして、失敗しても自分のせい、功績は自分のもの、報酬は独り占め。気楽よね。思い切った決断も気楽、失敗しても気楽、客の信頼失くすのも気楽」
「…」
「仕事をこなすこと。それは当然のことだけど、同じように仕事を継続させること、コレもちょー大事。ひとりでやるのは楽だよ、でも組織を存続させようって意気や粘り強さは、仲間がいる場合より格段に落ちるものなの。他人に責任を預け、他人の責任を預かる、切磋琢磨ってやつ。息の長い組織はそういうもんよ。ひとりで何かできるって勘違いしてるなら断って。由眞さんの足ひっぱらないでね」
 史緒は何も返せない。そんな史緒を見て藤子は僅かに表情を崩す。
「…と、まぁ、そんな心情的なことだけじゃなくてさ。事務所を構えるわけじゃん? 阿達さんが出掛けてるときに、新たな客が事務所に来たら誰が対応するの? そういう根本的なところのシミュレーションができてないんじゃない?」
 そこまで言って気が済んだのか、藤子は止めていた足を動かし始めた。史緒もその後に続く。
「國枝さんは、何人でやってるの?」
 史緒が訊くと藤子はあっさりと、
「あたしは一人」
 と、答えた。史緒は呆れて肩を落とす。
「…言ってることと違うじゃない」
「だって、あたしのは、スポーツの個人競技みたいなもんだもん。仕事してるときの味方は誰もいないの。そっちとは根本的に違うんだよ」
 そういえば、と史緒は桐生院の部屋でのことを思い出した。的場文隆や御園真琴は史緒と同じ立場のようだが、藤子だけは最初から違った。恐らくネットのあの試験は受けていないだろう、既に仕事をしているようだし、桐生院とも知り合いだった。
「さっきも言ったけどね? 由眞さんの邪魔はしないでね。そんなことしたら、あたしが殴るぞ、グーでっ」
 おどけた調子でこぶしを振る。その様子に史緒が苦笑すると、だいたいねぇ、と藤子は真っ直ぐに進行方向に顔を向けた。
「新聞読んで、外に出て、世の中のからくりを理解して、その中からピンとくるものが見つからない人間は商売は無理。絶対」
「……」
 史緒はその横顔を眺めた。
 多分、それは間違ってないのだろう。引き篭もりをしていた史緒には「外に出て」のくだりは耳が痛い。でも、藤子の台詞は史緒に向けられたものではなかった。皮肉でもない。
「ねぇ、國枝さんの仕事って───…」
「あ! バスが来たっ」
 そう叫ぶと同時に目と鼻の先のバス停へ走り出す。
「…え、ちょっと」
 つられて史緒も走る。史緒が藤子に追いつく前にバスは定位置に滑り込んだ。ぷしゅーと軽い音を立てて扉が開き、藤子はステップに足をかける。振り向いて、ようやく追いついた史緒に手を振った。
「じゃあね、また来週、由眞さんのトコで会おうね」
 史緒は息が切れて返事を返せない。藤子は手摺りに手をかけてさらに一段ステップを上ったところでもう一度振り返った。
「一度言ってみたかったんだ。ねぇ、“職業はなに?”って訊いて」
「は?」
「ほら、早くぅ。バスが出ちゃう」
「……“職業はなに”?」
 藤子は笑った。
「殺し屋ですのよ」
「───」
 ぷしゅー、とバスのドアが閉まった。
 史緒は何も言い返せないままバスは走り出す。
 ようやく声を発し掛けるがもう遅い。藤子は窓から手を振っていた。
 ひとりバス停に残された史緒は呆然とその場に立ちつくした。

(…冗談、なの?)
 あたりまえだ。
 それが冗談ではなかったら、一体なんだというのだろう。









10.和成と史緒

 その日、部屋に戻るとネコが()んでいた。

 時間は夜8時を過ぎている。当然、室内は暗かったので、史緒はまず照明を点けた。見慣れた部屋、ベッドの上でネコが丸くなっていた。
 音も無く酸素が冷たくなった。
(───っ)
 突然、引っ掻かれたような痛みが胸を刺し、息を飲む。(───あぁ)
 史緒は直感的に、ネコが息をしていないことが解った。
 どうしてか、それをすぐに飲み込むことができた。
 その直感を否定する声は、頭の中のどこを探しても出てこない。
「そいつはもうすぐ死ぬよ」
 予感は、あったのだ。
 史緒は放心したようにそこから動けなかった。ほんの少しの空気の流れに肩を押されて、とすん、とその場に膝をつく。
 ネコは死んだのだ。
 ようやく老衰という言葉が頭に浮かんだ。
「ぅ…」
 ずん、と圧倒的な重量をもって頭に降るものがあった。喘ぎそうになる。(だめだ)隣の部屋には司がいる。史緒は無理矢理に口を塞ぐんだ。痛いほど歯を食いしばって、感情の波が収まるのを待つ。
(もぉやだ)
「た…」
 呟きそうになる言葉を飲み込んだ。それを口にすることはできない。
(お願い、早く収まって)
 頭を抱えて祈った甲斐あって、脳天まで満タンになりそうだった感情の波は喉のあたりで一度退き始めた。けれど、すぐに戻ってくる気配がある。
 突然、史緒は立ち上がった。部屋のドアを開け、廊下に飛び出した。
「七瀬くん! 私、出かけてくる」
 隣の部屋に声を投げて、階段を駆け下りる。
「史緒? こんな時間にどこ───」
 司がわざわざ部屋から出てきたが、それを無視して玄関を飛び出した。
 ネコの亡骸を抱いたまま。


 どれくらい走っただろう。史緒は無我夢中で暗い夜道を走った。何も考えられなかった。思考はその役目を放棄し、あらゆる感情を受け入れず、神経は足を動かすためだけに働いた。
 家からはかなり離れた。人通りが多い、もう駅が近いだろう。史緒は全力疾走のまま、大通り側の公衆電話ボックスに駆け込んだ。そして受話器を取る。
「…はぁ、…は、ぁ」
 慣れない運動に心臓と足が悲鳴をあげている。しかしそれ以上に胸を占める痛みがあった。
(守るって決めたのに)
 歯の根が鳴りやまない。温かさを失った毛並みに手をやると、そこから絶望が流れ込んでくるようだった。
 史緒は膝から崩れ、電話ボックスの中で座り込んだ。
(ネコ───…)
 よく判らない感情のせいで泣きそうになる。歯列から漏れそうになる声。膝の上にネコを置いたまま、史緒は右手で顔を覆った。───そして左手が握る受話器から声がする。
「はい、もしもし」
 びくっと史緒の肩が揺れる。漏らしそうになった声は理性を総動員して飲み込んだ。
(…え? どうして?)
 その相手の番号を押した覚えはない。史緒は愕然とした。無意識にかけていたのだ。
(なにしてるの、私)
「もしもし?」
 左耳を掠める、よく知る声。
(一条さんにかけて、…なにを)
 一条和成に何を訴えようとしたのだろう。
「もしもし? どちらさまですか」
 和成の声に微かな苛立ちが含まれ、史緒は慌てて声を返した。
「ごめんなさいっ」
「え? 史緒? …さん?」
「あの、ごめん…なさい。なにも、ありません。…間違い電話。本当に、ごめん。切りますね?」
「待って! こんな時間にどうしたの? 今、家? マキさんと司くんは?」
「切りますね」
「史緒!」
「…っ」
 和成の強い声に揺れた。史緒は溢れてくる激情を抑えようと、歯を食いしばる。
 ネコを拾ったのは8年前のことで、雨の日だった。
『この猫は、ここにいたらあと1日も経たずに死ぬけど』
 まだ学生だった彼が言った。
『何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる』
(───っ)
 史緒は歯を食いしばり、冷たくなったネコを抱きしめた。
(私は強くなれた?)
(あの日、死なせてしまうより、ネコは幸せだっただろうか)
(ネコがいなかったら、私は耐えられなかった)
(どうしよう───…悲しい)
 悲しいという名の感情を史緒は理解した。
 この空虚感。
 淋しいとは明らかに違う喪失感。
(悲しい)
 口にするのは辛い。でも言えばほんの少し楽になれると、史緒は知っていた。
「ネコが、死んだの」
 受話器の向こうで息を飲む音がした。





 和成に電話をかけてから3時間後。史緒はベッドの上で目を覚ました。
(あったかい)
 まずそう思うほど、毛布が温かかった。強ばる身体を溶かすような熱が表面から伝わってくる。
 部屋は薄暗い。どこかで照明が点っているのだろうが、天井のそれで無いことは見てとれた。視線を巡らすと、反対側の壁にある机の上でスタンドが煌々と光っていた。それが逆光となって、人影が浮かび上がる。和成だった。机の上のパソコンに向かっているようだった。背中の向こう側からカタカタという音が聞こえてくる。静かな部屋の中にそれはよく響いた。思いの外それは心地良く、史緒はそっと目を閉じた。
 公衆電話ボックスの中で座り込んでいると、和成はすぐに飛んできた。史緒は無言でそれを迎え、促されるまま、重い足取りで車に乗り込んだ。和成はそのまま車を走らせ、阿達咲子が眠る霊園まで連れてくると、その片隅にネコを埋めさせた。史緒は長いことその場を動かなかったけれど、やがて史緒が踵を返すまで、和成は待っていてくれた。その帰りの車の中で史緒は目を閉じた。
 そして和成のマンション、今、彼は仕事中なのだろう。キーボードを叩く音だけが部屋に響いている。薄暗い部屋の中、浮かび上がる背中を長い間見ていたらなんとなく泣けてきた。じわりと涙が滲んでシーツに流れ落ちる。
(いつ、声を殺して泣くことを覚えたんだろう)
(昔はよく大声で泣いてた)
(喚き散らす汚い声を聞いた周囲がどう思うかなんて、考えもせずに)
(傲慢に、悲鳴を撒き散らしてた)
 いつもそれをなだめてくれていたのは和成だ。
 幼い頃は、すぐそこにある背中に手を伸ばせていた。声をかければ振り返ってくれると知っていた。今もそれは変わらない、けれど今、薄明かりのなか見える背中に史緒は手を伸ばさなかった。和成がアダチに入ったときから、それをやめたから。
 和成は史緒を置いていった。それなら史緒は追いたくない。邪魔になるだけだろうし、置いていったということは望まれてないわけだから。───ネコも、史緒を置いていってしまった。全身全霊をもって守ろうとしたものさえ、いつかは離れてしまう。
 ぎゅっと、毛布を身体に絡め取る。
(わかってる。私は何も、誰も引き留められない)
(私が守ろうと決めたものは、いつか、必ず離れることになる)
(それでも…、せめて)
「───っ」
 毛布の中で見開く。頭に浮かんだ2人の人物を思った。「…っ」毛布を剥いだ。


「七瀬くん、一人になってる」
 突然の高い声に和成は振り返った。ベッドの上で史緒は身を起こしていた。
「もう遅いよ、寝てたら?」
「今、何時? 私、七瀬くんに何も言わないで出てきちゃった、マキさんもいないし、心配してるかも」
 ベッドから抜け出し、慌てて支度を始める史緒を和成はなだめた。
「司のところには篤志くんが行ってる、大丈夫だよ」
「…え? 篤志? なんで?」
 不思議そうに目を向ける史緒を、和成はもう一度座らせた。
「司から連絡がいったらしいよ。2人にこっちの状況も伝えておいたから心配ない」
「そう…なんだ」
 史緒は安心したように息を吐いた。
 車で家に帰る途中、史緒が寝付いてしまった後、和成の携帯電話が鳴った。関谷篤志からだ。
「そっちに行ってないか?」
 と。開口一番がこれだ。和成は面食らった。その台詞の主語は訊くまでもない。
 話を辿ると、史緒が帰って来ないと司が篤志に連絡したらしい。そのまま篤志は和成に電話した。ほぼストレートで史緒の居場所を掴んだ篤志には感嘆する。
 昔、和成は篤志のことを史緒の母親のようだと評したことがあるが、それ以上かもしれない。
(母親みたい、か)
 和成は苦笑した。そう考えると確かに篤志は、阿達咲子ができなかったことを代わりにやっているようにも見える。娘を心配し、窘め、叱ったり、誉めたり、教えたり───。
 しかし、と和成は笑みをしまう。
 篤志と初めて会った日のことを思い出す。それは咲子の葬儀の日だった。篤志は名乗るより先に和成にこう言ったのだ。
「あんたはもう手を引いていい」
 ──何から?
 その答えを和成はもう解っていた。けれどそれは新たな疑問を生んだ。
 篤志は何者なのかと。
 誰の意志を継ぐ者なのかと。


*  *  *


(もうなにも、だれも失いたくないの───)

 片腕を落としてしまったような喪失感も、(まと)(おお)われるような悲しみも、もう味わいたくはない。
 ネコはずっと傍にいてくれた。だから、あの家の中でも息ができた。櫻の気配に凍り付いたときも、腕の中のネコの温かさに自分を励ますことができた。
 ネコはここにいて幸せだっただろうか。何かしてあげられただろうか。縛り付けてなかっただろうか。ねぇ、どう思ってた? ネコの本心など解るはずもないのに問わずにはいられない。
(ありがとう)
 一緒にいてくれてありがとう。いつも助けられていたよ? あの雨の日に出会えて良かった。ずっとそばにいてくれてありがとう。
(強くありたい)
 こんな自分にも何か守ることができると、自己満足でもいい、自分にちからがあることを知りたい。
(それは一人じゃ実現できないんだ)
 何かを守ることは、自分以外のものがあってはじめて成り立つ。
 こんな自分勝手な願いを一人で叶えることができない、その矛盾に泣けてしまう。
(結局、ひとりじゃなにもできないんだ───)
 …でもいいの?
 彼ら(・・)を巻き込んで。
 自分勝手な行動に他人を巻き込んで。
 私といて幸せ? 私は何かしてあげられる? 縛り付けてない?
 ───彼らはネコとは違う。訊いてみれば判るのに。
 どうしてその答えを、こんなにも恐れているのだろう。

 もう自分の世界でなにも失いたくない。
 そんなワガママを、貫き通せるだろうか。






11.篤志と司と史緒

 朝、和成に送ってもらい家に帰ると篤志がいた。どうやら昨夜はそのまま泊まったらしい。
 玄関で鉢合わせした。
「朝帰りとはいい度胸だ」
 と、わざとらしく軽口を叩かれる。こんなときどう返せばいいか判らず史緒は固まってしまう。とりあえず、ただいま、と返した。
「一条さんは?」
「…会社」
「そっか」
 篤志は少し迷うような仕草でうつむいた。そして改まった表情で顔を上げ、
「ネコのこと、残念だったな…」
 と、言った。
(心配、してくれてたんだ)
 その一言に篤志の心遣いを感じた。
「…うん」
 それだけしか返せなかったけれど。
「じゃ、あとで司の部屋にも顔出せよ。あいつも心配してたから」
「うん───あっ、ねぇ、篤志」
 背中を向けた篤志を呼び止める。
「ん?」
「お父さんから、聞いてるんでしょ?」
 階段に足を掛ける手前で篤志が振り返る。確認しておかなければならないことがあった。
「本気で私と結婚する気? ───阿達を継ぐの?」
 史緒としては阿達家の問題に篤志を巻き込みたくない。けれど篤志にとってアダチの仕事が魅力的に思えるのなら話は別だ。
 ふーっと息を吐く音が聞こえた。
「おまえと結婚するってのはないな」と苦笑する。「それは絶対ない」
「…じゃあ」
「いいじゃないか」
 史緒の台詞を打ち消すように篤志がさらに続けた。
「2人でおじさんを(たばか)ってやろう」
「謀る…?」
「おじさんの話は、他人の俺から見ても少し強引だと思う。だからってわけじゃないけど、少しくらいのいたずらは罪じゃないだろ」
 いたずら、と史緒が呟くと篤志は大きく頷く。
「逆らえない振りしてさ、不承不承で従うような素振りで、期待させておいて。最後には拒否してやろう」
「…」
「史緒はアダチに入りたいのか?」
「まさか」
「じゃあ、やりたいことをやればいい。心配すんな。最後はすべて丸く収まるから。───絶対」
 その言い切りに史緒は半ば呆れる。
「…すごい自信ね」
「根拠は無いけどな」
 と、舌を出して笑った。
「大丈夫だ」
「───」
「いざとなったら俺がどうにかする。おまえは好きにやればいい」
 通り過ぎざまにぽんと肩を軽く叩かれた。篤志はそのまま2階へ上がり、司の部屋へ入って行った。
(……)
 史緒は何も言えずその場に立ちつくした。
 誰もいない冷たい廊下。
 胸が騒ぐ音をひとり聞いていた。
 触れられた肩が熱い。
 嬉しくて泣きそうになる。
 状況は何も変わってないのに、篤志が味方だとわかっただけでこんなにも肩が軽い。
 父親に気を張るのもひとりで踏ん張ることない。
 ひとりじゃない。
(だいじょうぶだ)
 根拠も無くそう思う。思わず笑ってしまった。
 理由も挙げてないのに、そう思えるなんて。
「…」
 ぐいっと史緒は階段の上に目を向けた。
 ───味方でも、一緒に来てくれるとは限らない。
 でもひとりじゃ動けなくなる。
 断られるのが怖い。
 この覚悟を嗤われるのは辛い。
「…っ」
 史緒は駆け出した。ネコを持たないその身体で。




「篤志!!」
 ノックも忘れて司の部屋のドアを開け放つ。篤志は反応が早い、何かトラブルかと素早く腰を浮かせかけた。司は想像の範疇外の出来事に机の上のカップを倒した。
「…七瀬くん」
 史緒は緊張した面持ちで2人を交互に眺めた。
「聞いてもらいたいことがあるの」
 そして史緒は、桐生院由眞に関わった今までの経緯を話した。
 史緒はドアの横で立ったまま話した。すぐ傍の柱に掛けた手は膝から先が大きく震えて止めることができない。きっとその揺れは喋る声にも派生していたことだろう。
 篤志はベッドを背に座って両腕を組んでじっと動かない。司は机の椅子に座って史緒には背を向けていた。
「私、家を出るわ。…それで、ね…、あの──」
 2人の顔を見るのが恐い。史緒は目を床に逸らした。
「…ぁ、私は、まだ、年齢的に認められないところもあるし、世間知らずなとこあるし……」
 知らず、両手を胸の前で組んでしまう。
「自分で思ってる以上に子供だし、何もかもうまくいくなんて嘘でも言えないし、保証なんてできないし、1年後どころか一ヶ月後のことも見えてないし、明日のことも判らないんだけど、でも私はやりたいの!」
 涙が滲む。
 史緒は大きく息を吸い、気力で震えを止めた。
「一緒に来て」

 顔を上げると篤志と目があった。
 嗤うでもなく叱るでもなく、表情の読めない、でも強い視線とぶつかる。その強さに、一瞬、怯みそうになるが、史緒は負けるもんかと篤志を睨み返した。
 しばしの対峙の後、先に目を逸らしたのは篤志のほうだった。
「……くっ、あははは」
「え?」
 篤志は額に手のひらを当てて笑っていた。どっと緊張が崩れて、史緒はその場に膝を落としてしまった。
「篤志…」
 篤志はまだ笑いが残る声で言う。
「もう少し素直に言えないのかとは思ったけど」
「…え?」
 もう一度目を合わせると、今度は笑っていなかった。
「いいよ。おまえと行く」
「篤志」
「いいかげん、親からも独立しろって言われてるし。───司は?」
 司は自分の机に片肘をついて、篤志と史緒のやりとりを黙って聞いていた。
「う〜ん、…史緒がそんなこと考えてたっていうのは、正直、驚いた」
 と、さして驚いてないと思われる口調で言う。
「篤志は、もう確定なんだ?」
「確定」
「あっそ。僕もとくに異論は無いよ。史緒のやりたいようにしたら? ───あぁ、僕の場合はおじさんの許可がいるのか」
 などと、あまり深く考えてないように、司までが了解してしまった。
 史緒は一気に気が抜けて呆然とする。
 篤志と司は笑っていた。その表情がとても暖かく感じられて、史緒も半泣きの顔でどうにか笑ってみせた。
「ありがと」
 消え入りそうな声で、それだけ返すことができた。
 ───この責任はとても重いものだけど、背負うことを辛いとは思わない。
 大丈夫だと、そう思うことができた。






12.文隆と真琴と藤子と史緒

 桐生院由眞からの二度目の招集日。家を出てからずっと、史緒は國枝藤子のことを考えていた。
(殺し屋…?)
 その意味を考える。
 人を、殺す仕事。そのままの意味で取ればそうとしか読めない。他にどんな意味があるというのだろう。
 史緒は首をひねった。
(けど…)
 それは道徳観、宗教観、社会性、どれをとってもタブーな気がする。殺人を容認する思想や法律など、世界中を探しても無いだろう。
 けれど、タブーとされているからには、確かにそれは存在する。この世に無いものはタブーにもならない。
 そういえば、留学中、世話になった教師がこんなことを言っていた。
「神は殺人を容認している」
 教師は怒っているわけでも悟っているわけでも無かった。しょうがない、とこぼした。
「もし神が許さないなら、それは存在さえしない」
 生憎、史緒は神と呼ぶような崇拝の対象は持ち合わせていない。その話も片耳で聞いていただけの話題だ。ただ、ほとんどの文化がそれを禁止しているのは確かなようで、だから、それが仕事として存在できるのか、史緒は疑問だった。
 ───人を、殺す。
 突如、ぐらり、と視界が揺れる。倒れて、アスファルトに額をぶつけ───そうになった。どうにか足を踏ん張ることができた。
 史緒は青い顔で足下を見下ろした。
(何言ってるの)
(人殺し…?)
(それは私じゃないか)
 忘れていたわけじゃない、それは絶対に違う。けど、ここ数週間のうちに、自分の中でそれほど重きを置かない記憶に変わってしまっていたことは否めない。
(後悔はしてない。それは嘘じゃない)
 櫻がいたら、あの部屋から出られなかった。
 史緒は泣きたくなった。───とても醜悪な言い訳をしていると自覚したからだった。
「あれっ、阿達さん。よく会うねぇ」
 呑気な声が背後から掛けられた。
「…國枝さん」
「ども」
 にかっと笑って挨拶してくる。黄色のPコートにそれに合わせたニット帽、相変わらず派手な恰好だ。
「これから由真さんのトコでしょ? 一緒に行こ」
 強引に手を引かれて並んで歩き出した。桐生院のマンションまではあと10分は歩く。
「今日、むちゃくちゃ寒くない? もう4月になるってゆーのに、異常気象もここに極まれり、ってかーんじ。神様もねぇ、気候調整サボらないで欲しいよねぇ、まったく」
 勝手にひとりで喋っている藤子。その台詞に引っかかるものがあり、史緒は聞き直した。
「神…?」
「ん?」
「ねぇ、この間言ってた……國枝さんの仕事って」
 ああ、と藤子は手を叩いた後、人差し指を向けた。
「殺し屋ですのよってやつ? あれねぇ、せっかく演出決めたのに阿達さん解ってないでしょ? もしかしてフィクションは読まないタチ?」
「───冗談なの?」
 憤り半分、安堵半分で史緒は息を吐く。
「仕事はマジです」
 涼しい顔が答える。
「だから、ジョークだと思ってあたしとこうして喋ってるなら、その認識は改めたほうがいいよ」
 夕暮れの町を背景に藤子は穏やかに笑った。それはとても深いもので、史緒は目を奪われる。
 殺したことあるの? それを知ってしまうのは怖くて訊けなかった。何よりも「殺した」と口にすることが怖かった。
 けれど不思議と藤子に対して怖いとは思わない。その人柄がそう思わせるのか、単に史緒が未だ理解に至ってないせいか。
「仕事…っていうからには、お金をもらってるのよね」
「だねぇ」
「商売として成り立つものかしら?」
「…冷静だね」
 藤子からの視線に、史緒は正直に答えた。
「たぶん、まだ疑ってるからだと思う」
「妥当だね」
 そう苦笑すると、藤子は「ん〜」と首を傾げてしばし考えていた。「阿達さんの言う“商売として成り立つか”っていうのは、収支が合うかどうかってこと?」
「ええ」
「それなら、合うよ。高いもん」
 と、あっけらかんと答えられて史緒の背中に寒気が走った。一体、自分たちは何の話をしているのだ。
「しゃ…社会的に需要があるとは思えないんだけど」
 そう言うと、藤子は喉の奥で笑った。
 そして突然、
「あっ、あそこのお店のケーキおいしいの。後で一緒に行かない?」
 と、道の向こう側のパーラーを指さした。
「由眞さんち来る時は必ず寄ってるんだ。もうね、無くてはならないってかんじ」
「…へぇ」
 どう答えていいやら、適当な相づちを打つ。
「あとあたしね、こう見えても結構自炊するの。コンビニ弁当より、ぜったい、あたしが作ったほうがおいしい! 缶コーヒーよりウチで淹れたほうがおいしい! それなのに、コンビニっていっぱいあるよね。どうして営業が成り立つのか不思議」
「……便利だからじゃない?」
「それとね、ウチのマンション、大通りに面してるんだけど、夜中、トラックの騒音が酷いの。近所でも悪評買ってる。あんなトラック、全部止めさせちゃえばいいと思わない?」
「そう…だけど、流通は…必要でしょ」
「ウチの近所、24時間営業のスーパーがあるの。暇なときに、一日中そこにいたことがあるんだけど」
(…物好きな)
「定期的に同じものが運び込まれてきて、定期的に同じものが売れていくわけ。それを毎日繰り返えされてるかと思うと呆れちゃった」
「需要と供給の縮図ってこと?」
「殺しが罪とされるこの世の中で、どうして殺し屋なんて職業があるのかな」

「…?」
 史緒は眉を顰めた。「…ぁ」
 ───やられた。
 藤子を見るとこちらを向いて変わらない笑顔を見せていた。史緒は藤子の意図に最後まで気がつかなかった。
 誘導尋問だったのだ。
 ある仕事が成り立つ理由はひとつしかない───需要があるからだ。
 必要とされているからだ。
 呆然としている史緒に藤子は言った。
「阿達さんは潔癖なんだと思うなぁ」
「え…」
「ほら、見て。夕日がきれいだね」
 ビルの間の赤い空を指さす。藤子の意図不明な話題変換に史緒は警戒した。さっきのような展開は嫌だった。しかしそれは杞憂で、藤子は赤い空を背に、史緒の潔癖さを語った。
「自分が見ている景色だけで社会が成り立ってるわけじゃないのにね」
 と、苦笑する。
「例えば、阿達さんは人を殺したくないと思う。他人もそうであって欲しい。幸い、それは法的にも禁じられている。だからそれをする人はいない───んなわきゃ〜無いって」
「…」
「知り合いの刑事なんか、『警察(うち)はどんな時代も不況知らずで結構なこった』な〜んて達観してるしね」
「刑事に知り合い…? え? 刑事部に?」
「そりゃ、“刑事”だし」
「國枝さんの仕事のことは?」
「知ってる」
「どうして捕まらないの?」
「2課だから」
「…?」
「自分のテリトリーの事件しか興味を持たない人なの」
 いい情報源にもなってる、と藤子は笑う。
 警視庁刑事部捜査1課は殺人や強盗、誘拐の凶悪犯罪を担当する。2課は汚職や背任、選挙違反などの知能犯罪が担当となる。だから藤子の知人という刑事は、殺人犯の逮捕は仕事では無いと言っていることになる。
「世の中、そういうもんだよ」
「───」
 これはちょっとショックだった。殺し屋と刑事の癒着など、史緒の想像の範疇ではない。
 改めて藤子を見る。史緒と目が合うと藤子はにっこり笑いかけてきた。寒気がした。
 桐生院由眞の傘下に下るということは、國枝藤子の仲間になるということだろうか。
(…ちょっと、それは)
 違う、と史緒は思う。
 これから始めようとしている仕事の詳細はまだ判らないけど、それが道徳倫理から外れた仕事だとは思わない。桐生院由眞もそのあたりに言及はしていないが、騙されているわけじゃないと思う。他の2人、的場と御園も、おそらく史緒と同じような認識だろう。
 しかしそこに國枝藤子が加わると途端に色が変わる。藤子だけ色が違う。何故、桐生院は史緒たちを藤子と突き合わせたのだろう。
 この殺し屋と「仲間」になるのだろうか。
「今更、迷うの?」
 ぎくり、と史緒の肩が揺れる。藤子は相変わらず笑っている。けれど今は、さっきまでの人の良い笑みではなく、目を細めどこか冷めたような顔だった。
「…関谷篤志、七瀬司、だっけ?」
「なんで…っ」
「この間も言ったじゃない。カンタンに調べられるよ」
 多分、史緒はまた騙されていたのだ。藤子の笑顔に。
 今、史緒の頭の中では警報が鳴り続けている。この目の前の人物は危険だ。簡単に付き合っていい人種じゃない。だが藤子が危険であることはずっと変わってない。それなのに藤子が殺し屋だと名乗っても、それが嘘では無いと知らされても、今の今まで警報は鳴らなかった。それは一重に藤子の人懐っこい笑顔と藤子の仕事がうまく結びつけられなかったからではないか。こんな風に笑う人が、人を殺すはずないと思いこんでいたからではないか。史緒は冷や汗を掻く。
「結局、そのふたりを連れていくわけ? いいんじゃない? それで阿達さんがいい仕事できるなら安い犠牲じゃない」
「ちょっと…っ!」
「やぁだ、怖い顔しないで。ちょっとふざけただけ」
「…っ」
「ひとりでやるのは無謀だって言ったのはあたしだもん。阿達さんが仲間を連れてくるなら歓迎こそすれ異論は無いったら」
 そう言いながらも藤子はさらに続けた。
「───優しい彼らはあなたについてきてくれたけど、迷惑だったんじゃないかとか、これでよかったのかとか、間違っていたんじゃないかとか、考えてない?」
 心当たりがありすぎて、史緒は無意識に胸を掴んでいた。
「フラフラ迷ってばかり。阿達さんって基本ワガママでしょ? 自分に自信は無いけどプライド高いタイプ。好き嫌いはっきりしているのに、他人のことばっかり気にして。そのくせ他から向けられる気持ちには鈍感。いるいる、そういう人」
「…」
 藤子が覗き込んでくる。
「怒った? ごめんね。でも褒めたんだよ」
 そして人懐っこい笑顔を見せた。
「いざという局面で迷う人、あたしは好きだよ。悩んで、迷って、それからする決断には強い力があるから」



「依頼人の善悪は問わないの。あたしは神じゃないから」
 仕事のことを尋ねると藤子はそう答えた。
 罪の意識は無いのか。殺される人の家族や友人の気持ちを(おもんぱか)ることは無いのか。
「阿達さんは、生きていくうえで邪魔な他人っている?」
 そう問われて答えられるはずも無かった。史緒は相槌を打つ気力さえ無い。
 けれどあまりにも自然に胸に浮かんだ名前があった。
(櫻)
 迷い無く名を挙げた史緒の心中を藤子が知るはずもなく、返事を待たずに続けた。
「例えば、社会的地位を得るために邪魔な人間がいるならちょっと痛めつければいい、そういう仕事する人もいるし。あとは、身近にどうしても合わない人間がいるなら自分が逃げたほうが早いでしょ? あたしの依頼人はそういうのとは違うの」
 藤子は涼しい顔で進行方向へ真っ直ぐに目を向けた。
「その人が生きてたら、自分は毎日が辛い。好きとか嫌いとかじゃない、逃げて済む事情じゃない。恨みはあっても、世間の同情は慰めにならない、社会は何もしちゃくれないし、法がその人を庇うことだってある。でもその人には死んでほしい、もしくは自分が死ぬしかない。憎しみを通り越して、その人と同じ空気を吸うことさえ苦痛。───あぁ、勘違いしないでね。あたしはそういう人たちの苦しみを消してあげようなんて慈善的な考えは持っちゃいないの。あたしは、人を殺したいという願望を自覚して決意できる人間を尊敬してるだけ。───あたしの仕事が高価なのは手を汚す代金じゃない。依頼人の決意を計ってるの。財産の多くを失くしてでも生きていて欲しくない人間がいる。それを実現しようとする尊敬すべき人がいる。それが、あたしの依頼人なの」
 藤子は振り返る。
「阿達さんはあたしとツルむ必要は無いよ」
 けど、由真さんには付いててあげて。
 藤子は笑って、史緒の3歩を前を歩いて行った。


 あの人がいたら生きられない。
 もしくは私が死ぬしかない。
(ああ、その気持ちは知っている)
 そんな気持ちを抱えた人が、藤子の下を訪れるのだろうか。
 ひとつ間違えば、自分も藤子に殺人を依頼していたのだろうか。
 史緒は櫻を想う。最後の日、崖の上で笑う櫻を。
 今となっては夢の中の出来事のよう。記憶も曖昧になってる。
 でも櫻を殺した。それは自分。忘れちゃいけない。この罪を捨てたいとは思わない。
 この罪悪感は、この先歩くのに必要なものだ。


 藤子には、この罪悪感が無いのだろうか。






「最初に言っておくが、國枝藤子」
 桐生院の部屋で4人が集まり、解散となったとき、的場文隆は苦々しい声で言った。
「なーに?」
「俺は絶対、認めないからな」
「はぁ」
「おまえとは付き合いたくない。顔を合わせるのは桐生院の前だけにしてもらいたいな」
 厳しく吐き出す文隆の台詞を、藤子は顔の筋肉一つ動かさないで聞いた。
 真琴と史緒の二人は、文隆をなじることも、藤子を庇うこともしなかった。文隆がそう言うだけの事情は知らされていたから。
「別に構わないわ。一緒に仕事することなんて、ありそうにないし」
「あたりまえだっ!」
 表情を変えない藤子に憤りを感じて、つい怒鳴ってしまった。しかし文隆は後悔なんてしてない。藤子は「嫌な奴」なのだ。
 文隆は二人に向き直って尋ねた。
「史緒たちは?」
「…ま、僕もあまり仲良くしたくないとは思うよ」
 真琴が答える。
 史緒は少し考えてから、遠慮がちに呟いた。
「私は…違う。いろいろ話してみたい。仕事以外のことも」
 この言葉を聞いたとき、滑稽にも他の3人が目を見合わせた。藤子もだ。
 史緒は笑っている。







38話「grandmap後編」  END
37話/38話/39話