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39話「ran3」 |
樹齢1000年を数えるケヤキが切られた日の夜、そこで見たものを、蓮蘭々は生涯口にしなかった。 雲ひとつ無い暗黒の空に月があった。 そこに豊かな枝で空を埋めていたケヤキはもう無い。代わりに、空にぽっかりと穴があいて、月があった。 ただそれだけのことだ。 天に穴があいていた。 そこに月が煌々とあった。 ただそれだけのことなのに。 「───…ぁ」 声が出ないほど、胸が詰まる。 大気は冷えて痛いほど張りつめている。土の冷たさが靴を通して伝わってくる。町は深い眠りに就いて、衣擦れの音さえ拒絶した。 この身体だけが熱い。 叫んでしまいたい。 でもこんな小さな口からでは吐き出せないくらい大きな想い。 「………あぁ」 頭のなかの竹林に、風が通り抜けた。 風景が広がり澄んでいくのがわかる。 いくつかの不安が気分を落ち着かせて、それぞれが顔を上げ、風が抜ける方向を向く。すると追い風に背中を押され、足が軽くなり、歩を踏み出すのがわかった。 指の先までが冴え渡る。 全身が研ぎ澄まされ、目や耳や肌さえも敏感になっていく。 (───あぁ!) この身に受けた衝撃を口にしなかったのは初めてだった。 (あたしは今、ひとつのことを理解した) ─── うまく繋げないけど。 なにも見えてないけど。 まだ、失くしたわけじゃない。 ───諦めなくていい。 泣いてる場合じゃない。悼んでる暇はないの。 じっとしてないで、歩き出せばいい。この足で捜しに行けばいい。 新しい風景を、あなたは見せてくれるはず。 このケヤキのように。 その人とは、2度、初めて出逢うことになる、と。 占いのおばあちゃんは言ったんだ。 1. 6月の誕生日 6月の半ば。 その日、大きな花束を両手に抱えた少女が街中を駆け抜けた。色とりどりの季節の花は少女の両腕からあふれこぼれそうに揺れる。行き交う人々は、その花束の鮮やかさに思わず振り返った。それから少女の表情、息を削りながらも喜びを隠せない無邪気な笑顔にも見入ってしまう。そしてつられて口が緩む己に苦笑しながらも、つい少女を見送ってしまうのだった。 「おっはよーございまーす!!」 「わっ」 「なんだぁ?」 「おはよう、蘭」 など。 蘭は背筋をのばしまっすぐ歩を進める。ソファに座っていた 「篤志さん、お誕生日おめでとうございます」 「…」 突然、生花の香りを間近にした篤志は数秒の間、固まった。さらに数秒の後、はぁ、と息を漏らした。蘭の突飛な行動にはいつになっても慣れない。それでも笑って「ありがとう、蘭」と返し、花束を受け取った。 「えー、篤志、今日、誕生日なんだ?」 「おめでとう」 「つか、篤志に花束ってビジュアル的にどーよ」 など。 「……ありがとう」 こちらにも、苦笑しながら返す。 「でね、篤志さん」 「ん?」 蘭はにっこりと笑った。 「デートしましょう」 * * * 「デートしましょう」 あたしがそう言うと、いつも、篤志さんは困ったように苦笑する。 理由は、なんとなくわかる。 結局は付き合ってくれるし、あたしのこと嫌いなわけじゃないって自惚れたい。そう。 ただ、篤志さんは、あたしと2人きりになることが、ちょっとだけ怖いんだ。 駅の人だかりの中で、篤志は突然足を止めた。 「篤志さん?」 どうしたのかと見上げると、篤志は目を見開き、呆けたように改札の向こう側をまっすぐ見ていた。蘭はその視線を追った。 すると、ちょうど、前から歩いてくる40歳前後のスーツ姿の女性が顔を上げたところだった。 「あら」 と、 含み笑いの声。 「お久しぶりです」 篤志は軽く笑いながら言った。 「え? …お知り合いの方?」 眼鏡をかけてきっちりスーツを着ている中年の女性。大きな封筒を持っていた。蘭は仕事繋がりの知人かと思った。しかしそれは違うらしい。 「珍しいね、こっちに出てくるなんて」 気安い調子で篤志が言うと、 「お父さんのおつかいよ」 女性は手にしていた封筒をひらひらと振って見せた。 (お父さん…?) 蘭が首を傾げていると、篤志は相手の女性に蘭を紹介した。 「川口蘭。史緒の事務所のメンバーの一人」 「まぁ」 「で、蘭、こっちは俺の母親」 「え」 思ってもみなかったその正体に、 「ええぇぇ〜! 篤志さんのお母様ぁ!?」 場所もはばからず大声を出してしまった。何人かが振り返って行った。幸い、目の前の女性はそれを気にはしないでくれたらしく、蘭に向かって微笑み、深々と頭を下げた。 「はじめまして。関谷和代です」 蘭も慌てておじぎした。 「川口蘭です! こちらこそ、はじめまして」 頭上から、 くす、と笑う声がした。窺うように頭を上げると、和代は指を口元に当てて小さく笑っている。その仕草はとても上品で、なぜだか小さな感動をおぼえた。 とても落ち着いた女性だ。 (この人が、篤志さんのお母様) 想像もしなかった、と言えば嘘になる。篤志の実家は横浜で、小説家の父親と専業主婦の母親がいるということは聞いていた。会いたいと思っていたけど、今までその機会に恵まれなかった。 「あなたが蘭ちゃんね。噂は聞いてるわ」 「えっ。篤志さん、あたしのこと噂してくれてるんですか?」 「ううん。篤志じゃなくて、咲子よ」 「…咲子さん!?」 思ってもみなかった名前が出た。 「ええ。私は咲子とは古い友人なの。蘭ちゃんのことも、聞いたことあるわ。元気で明るくて可愛い子だって」 阿達咲子は史緒の母親だ。すでに病死しているが、蘭も幼い頃に面識があった。その柔らかいあたたかな笑顔を思い出して、目頭が熱くなった。 (…ぁ) 「咲子さん…。…ぁ、なんか、…嬉しいです」 「そう、お会いできて良かった」 「はい!」 和代はふと顔をあげて、今度は篤志に声をかける。 「そうだ。篤志」 「はい?」 「誕生日おめでとう」 「…ありがとうございます」 「近いうちに顔を出しなさいな。お父さんもお祝いしたいそうよ」 「あの人の場合、適当に理由付けて騒ぎたいだけ、って気もするけど」 「それはそうね」 息子の的確な評価に和代も苦笑した。それはさっきまでよりくだけた表情だった。そして、 「そのときは是非、蘭ちゃんもいらしてね」 と、蘭に笑いかけて、それから次に、冗談とも取れない雰囲気で言った。 「できれば史緒と司も連れてきてくれると嬉しいわ。久しぶりにいじめたいから」 2. 蘭と篤志 あの人が、篤志さんのお母様。 蘭は、最後まで彼女を見送っていた。 あれが、「関谷篤志」の───。 大通りに入り混雑してくると、篤志は手を繋いでくれた。蘭は嬉しくて口元が緩む。が、これはちまたの恋人同士のそれとは意味が違い、幼い子が迷子にならないようにという親心と同じ行為だと、蘭は解っている。それでも満足だった。 一歩先を歩く篤志の背中がある。手を伸ばせば届いてしまう。それだけのことをこんなにも嬉しく感じられるのは、その背中を探している時間がとても長かったからだ。すぐそこに彼の背中があって、それを見守ることができるなら、蘭にとってこれほど幸せなことはない。 もう二度と見失わないようにと、蘭は繋いだ手に力を込めた。 「篤志さん」 「ん?」 「いつまで、このままでいられますか?」 その問いに、篤志は振り向いて蘭を見た。目が合ってしまうと、篤志はまた前を見た。目を逸らしたのだ。 蘭は苦笑した。 「ごめんなさい。こういうこと言うから、あたしと2人きりになるの嫌なんですよね」 「別に、…嫌じゃないよ」 そう言っても、篤志はこちらを見ようとしない。でも繋いだ手は離れてない。離すもんか、と必死で付いていく。 「…蘭は、いつまでこのままでいたい?」 「いつまでも」 即答する蘭。はぁ、と篤志の溜息が聞こえた。呆れたのかもしれない。でも。 「でも、篤志さんはいつかは動くんでしょう?」 「さぁな。その理由は半分無くなったから」 「櫻さん、ですね」 「ああ」 篤志は振り返って蘭を見た。「───…でも櫻は、多分、まだ」 「え?」 振り返ってくれるとは思ってなかった蘭はびっくりして顔をあげると、言いかけたままの篤志がこちらを見ていた。口を閉じて笑う。 「なんでもないよ」 「篤志さん」 呼び掛けは笑いを含んでしまった。純粋な思い出し笑い。蘭はくすくすと声を抑えることができなかった。 「どうした?」 訝しい顔で篤志は視線を返してきた。それに応えて、 「司さん、最初の頃、篤志さんを警戒してましたよね」 「懐かしいな」 「ええ、急に思い出して」 「あいつもなぁ、人見知りってわけじゃないけど、信用できるか判然とするまでが大変なんだよな」 と、篤志が軽く息を吐いた。いいえ、と蘭は首を振る。 「違いますよ。司さんが篤志さんを警戒していたのは別の理由です」 「なに? 俺って、そんなに不審人物なのか?」 「はい」 「…否定するところだよ」 苦い顔をした篤志が振り返る。ふふふと笑いが込み上げる。 「だって、司さん言ってました」 「なんて?」 「篤志さんは櫻さんに似てるんですって」 そこで篤志は目を丸くした。 「司が? ってことは、外見じゃないよな」 「ですねぇ」 「性格が櫻に似てるって言われるのは、ちょっと…」 「性格ってわけでも、無いみたいですよ。あたしは篤志さんと櫻さんは似てないと思うので、どうとも言えないですけど」 「それで蘭はどう答えたんだ?」 篤志に問われずとも、蘭はそのときのことを思い出していた。 蘭が篤志と初めて会った日、その日の夜のこと。 空港近くのホテルに泊まっていた蘭のところに司から電話がかかってきた。彼はこう言った。「篤志は櫻に似てる。だからまだ、僕は篤志が怖い。蘭は一目惚れしたって言ったけど、本気?」と。 もちろん、本気だ。 「篤志さんは史緒さんを裏切りません。それだけはわかります。…って」 自信を込めて司に、そして今、篤志に答える。 「…それだけで司が納得したかよ」 「いいえ。時間が解決したってトコでしょうね」 「にしても、櫻と似てるから警戒されてたって……」篤志は苦笑する。ひでぇな、と小さく言った。 そしてわずかに遠い目を前に向ける。「櫻も、どうしてああだったのかな…」 あなたでも知らないんですか? 蘭はそう訊こうとして、やめた。それを「篤志」に訊くのは不自然だ。 代わりにまったく別のことを言った。 「ね、篤志さん」 「ん?」 「あたしの実家のすぐ近く、大きな欅の木があったんです」 「…」 「でも切られちゃいました。もう、ずっと前に」 蘭は篤志に笑いかけた。多分、篤志はこちらを見ないだろう。それでもそのことを篤志に知ってほしかった。 「そうか」 と、篤志は答えてくれた。わずかに目を伏せて。 欅を悼むように。 3. 回廊のほうから派手な足音が近づいてきた。 部屋の中にいた2人の少年のうち、ひとりは何事かと顔を上げ、もうひとりは嫌悪感たっぷりの溜息を吐いた。 近づく足音はそのままドアの破壊音につながった。 ばたん! 現れたのは蓮流花だ。 「亨!」 ヒールの踵は危なげもなく床を打ち付け、流花は阿達亨に詰め寄った。 「蘭を見なかった!?」 「ううん。昼過ぎは見てないよ」 「本当に? 匿ってないでしょうねっ?」 20歳の流花は8つ年下の少年を仁王立ちで見下ろした。しかし亨は臆する様子も見せずゆっくり小首を傾げる。 「昼食のとき会ったきりだけど。何かあった?」 「それが」 と、流花が口を開いたとき、がんっ、と背後の机が鳴った。 椅子の上で本を読んでいた阿達櫻が机を蹴飛ばしたのだ。 「どうでもいいから、出て行け。うるさい」 「出て行くのはあんたよ! ここは私の家よ?」 櫻は亨と同じく流花の8つ下、その年齢差を侮ることができない相手だととうに理解しているので、流花はおとなげもなく本気で言い返した。 櫻は低く笑った。 「おまえの家じゃないだろうが」 「…っ」 「じーさんに言えよ、“阿達のヤツらを早く帰らせろ”ってさ」 「あら、お父様が招待したのは阿達のおじ様よ? 櫻じゃ」 「流花さん」 亨が割って入る。 「蘭がどうかしたの?」 「あ、そうだ」 蓮家の兄姉は末妹に甘い。櫻を無視してすぐに元の話題に戻った。 「昼から姿が見えないの」 「昼から、って……もう夕方の6時なんだけど」 「だから皆で探してるのよ。もうすぐ夕食よ? それまでに出てこなかったら父様にも知られて大騒ぎになるわ」 「いなくなる前、何かあった?」 「あ、うん。でもそれが原因とは思えないんだけど」 と、流花が言うには。 昼食の片づけが行われている厨房に忍び込んだ蘭が、一番上の兄のグラスを割ってしまったらしい。素直に謝りに行って、一段落した後から蘭の姿が見えないというのだ。 「そのときはすごく落ち込んでたみたいだけど、兄さんは怒らないですぐ許してくださっていたし」 そのとき、櫻がわざとらしく吹き出した。「ばーか」 「なんですって?」 「おい、櫻」と、亨が諫めた。そして流花にも言う。「流花さん、多分、それが原因だよ」 「え? どうして?」 「蘭は自分が叱られないことにコンプレックスあるから」 蓮家のきょうだいは13人いる。流花は2番目で、蘭は13番目だ。そしてその13番目の末妹は、他12人の兄姉から溺愛されていた。蘭はそれを自覚し喜んで受けとめていたようだが、甘やかされることにどこか戸惑っているようだった。 「きっとあそこだ」 亨の呟きに、流花が飛びついた。 「あそこ? あそこって、どこ?」 亨が答える前に櫻が、 「遠いんだからさっさと行け。他の連中がやかましくなる前に」 と、わずらわしそうに言った。 蓮蘭々が暮らす町には、大きなケヤキがあった。 高台に上れば、色とりどりの屋根の間から頭を出しているのが見える。 その傍へ足を向ければ、葉陰から差し込む光が見えた。 風に鳴り、そよぐ枝。幹の冷たさに額を押しあてる。 大気が澄んで、身体が融けてしまいそうだった。 蘭々はその欅が大好きだった。 今、蘭は幹元に座り、ぼんやりと遠い空を見ていた。オレンジ色の空は消えて、夕暮れの最期、紫色に明るい空が遠くに残っているだけだった。真上を仰ぐと、欅の枝がいっぱいに広がっている。日が落ちた後の町はずれのここは暗い。それでも不思議と怖くはなかった。不思議と落ち着いて、蘭は太い幹に耳を澄ました。 「やっぱり、ここにいた」 突然の人の声に蘭は飛び跳ねる。 「亨さん!」 走ってきたのか、亨は息を切らせていた。 「迎えに来たよ。帰ろう? 流花さんたちも心配してた」 「え…どうしてわかったのぉ?」 「ん? なにが?」 「あたしがここにいるって」 「なんとなく」ほら、と蘭の手を取った。「さぁ、帰ろう」 やんわりとケヤキから引き離されて、蘭は名残惜しみながらもその背中に付いていく。 兄のお気に入りを壊してしまった胸の痛みは、ケヤキに吸い取られていた。ありがとうと心の中で呟いて、蘭はケヤキに手を振る。 「ね、亨さん。あたしがここにいるって、すぐにわかった?」 「しつこいなぁ。そんなに不思議なことじゃないだろ」 「不思議ですよぉ」 「だって、蘭は、嬉しいことがあったり落ち込んだときによくここへ来るじゃないか」 亨は振り返って笑う。 「見てれば、わかるよ」 と、言った。 4. 悪魔の証明 蘭は、亨の墓石の前で目を 亨はここにはいない。だからぜったい、手を合わせたりしない。 蘭は両手を握りしめて胸を張った。気を抜いたら目を瞑ってしまいそうだった。 (だめ。亨さんはここにいない。別の場所にいるの) 目を閉じて彼を想ってしまったら、彼が死んだことを認めることになってしまう。 父と兄と姉は墓石の前に膝を付き手を合わせて追悼している。 蘭は一歩退がって、必死でそれを拒否した。 そのときのことだ。 (───…?) 視線を感じて顔を上げると、蘭たちをここへ案内してくれた人物と目が合う。 阿達櫻。その顔は見る間に険しくなった。「おまえ…ッ」酷い力で腕を掴まれる。余裕の無い表情を隠そうともせずに。 それは一瞬だった。にもかかわらず、とても長い時間に思えた。なぜなら強い風が吹いたことも、櫻が息を呑んだことも、確かに感じられたから。 (…あ!) 蘭は目を細め咄嗟に口元を隠した。解ってしまった。櫻と目が合う、その一瞬で。 (読まれた) そして、蘭も読めた。 (櫻さんも───) 掴む腕をそのままに、驚愕を見せて唇を空振りさせる。 「おまえもか…ッ、蘭!」 はじめて、櫻に名前を呼ばれた。 このとき、あたしは安心したんだ。 あたしだけじゃないという心強さに。 櫻という強い目利きを手に入れた───満足感に。 * * * 直感だ、と櫻は言った。 「例えば、俺が行方不明になったとしても、あいつには俺の生死が判るだろう。それと同じことだ」 蘭は、占い師の話を櫻にした。 すると、櫻は嗤う。 「嘘吐け。そんなもん、信じてないくせに」 と、頭から否定する。 「どうしてですか」 「前から思ってたけど、おまえって、大概、自己陶酔型だよな」 「え?」 「おまえは、亨に生きていて欲しいわけじゃない。自分が信じたものが失くなるわけないと、自分に自信を持ってるだけだ」 「!」 ずきんと胸が痛んだ。 「ち、違います、あたしは…」 櫻の言葉に思い当たるものがある。満足な反論はできなかった。 (あたしは───…) だって。 ずっと探してたの。 家族から愛されて育ったあたしが、この愛をそそげる対象を。 同じ気持ちを返されなくてもいい。だけど、あたしのすべてをあげよう。 あたしのすべてを賭けて守ろうと。 「まぁ、おまえの目は多少は見所あるよ。価値あるうちは利用させてもらうさ」 「じゃあ、櫻さん。約束しましょう?」 「…約束?」 「亨さんを見つけたら教えて。あたしも、そうしますから」 櫻は訝しげに目を細めた。蘭はまっすぐにその視線を受けとめて言った。 「あたしは絶対見つけます。見つけられないなんて、少しも思ってません。亨さんがいないことより、いることを証明するほうがずっと簡単ですもの」 ふ、と櫻が笑った。 「“悪魔の証明”、か」 「え?」 「───いいだろう」 櫻は颯爽と腰を上げ、蘭の目の前に立つ。見下ろされる角度だったが、蘭は負けじと視線を逸らさなかった。 「亨を見つけたら必ず報告しろ」 「櫻さんも」 その約束を言い出したのは、蘭のほうだった。 そして運命の再会の日。 「あたしっ、篤志さんに惚れましたっ!」 信じていた。占いのおばあちゃんの預言より、櫻さんの予感より。何より、この思いを。 信じていたから、いつかこんな瞬間が来ることは解っていた。 解っていたはずなのに、今、全身が震えるほど嬉しい。 嬉しい。行き場の無かったこの思いを胸にやっと歩き出せる。 やっと、あなたのために生きられる。 「あの…、櫻さん」 1階のダイニングに降りると、櫻はソファに寝ころんで本を読んでいた。櫻は読書を邪魔されると途端に機嫌が悪くなる。なので蘭はおそるおそる声をかけた。 「今、よろしいですか?」 「ああ、さっきは面白いこと聞かせてくれたな。久しぶりに馬鹿笑いしちまった」 篤志への告白が聞こえたらしい。可笑しそうに肩を奮わせた。 蘭はそれを冷めた目で見る。 (───そうか) 「櫻さん」 (櫻さんは) (見つけられなかったんだ) 息を吸い、わざとゆっくりと口にした。 「あたし、探しものするの、やめます」 「───」 櫻は真顔に戻って低い声で言った。 「諦めたのか?」 眼鏡の奥から睨んでくる視線を、蘭は柔らかく受けとめた。 少し悲しくなった。捜しものを見つけた喜びを櫻と分かち合えないことに。 悲しい気持ちのまま蘭は微笑んだ。 「…やめるんです」 「関谷に鞍替えしたからか?」 「そうです」 「…どうやら、おまえのことを過大評価していたようだ」 「すみません」 蘭は眉尻を下げて笑う。 (あたしも) (櫻さんに期待しすぎていたみたいです) 5. 嘘吐きの独白 阿達櫻のかたちばかりの葬儀(遺体は揚がってないという)の後、蓮蘭々は斎場の近辺を歩いていた。 篤志は話しかけられる雰囲気ではなく、司を不慣れな場所へ連れ出すわけにはいかない。史緒は来ていなかった。重苦しい空気のその場にいるのが辛くて、蘭々はひとり外に出た。 (寒い……) 二月の寒さは容赦なく身体を刺した。下を流れる川の音がいっそう寒さを際だたせている。橋の上から川を覗き込むと州に空き缶が打ち上げられていて、蘭々はそれを拾えないもどかしさに目を細めた。 すぐ後ろを車が通りすぎて行く。先日の雪がまだ残っていて足元ではねた。すぐそこを歩く人々の声が遠く、白々しく聞こえた。 欄干に肘をかけて、手のひらに息を吹きかける。 そのまま両手を組んで目を閉じた。 ───これは祈りじゃない。 懺悔だ。 「櫻さん……」 ごめんなさい。あたし、嘘吐いてました。 もう、言い訳もできないけど。 ねぇ、櫻さん。 “探しもの”は見つけたの。櫻さんは、あたしが諦めたんだと思ったみたいだけど、違うの。 もう、見つけたの。 櫻さんは、見つけられなかった? あたしと櫻さんは同じ手がかりを持っていたのに。 史緒さんの近くにいれば、探しものはいつかやってくると。ねぇ、解っていたでしょう? それはいつか史緒さんの下へ戻ると。だから史緒さんを見張ってたんでしょう? それなのに見つけられなかったの? 櫻さんの、その厳しい瞳でも。 あたしは見つけたよ。 一目で分かったよ。 あたしから本当のことを言うことはできないけど。 櫻さん。 どうしてこの嘘を見抜いてくれなかったの? どうしてこの嘘を信じたまま、死んでしまったの? あたしに、この嘘を吐かせたまま。 6. 嘘吐きの謝罪 これは近い未来の話である。 蘭はいつかの占い師と邂逅する。 蘭が関谷篤志の誕生日に花束を渡した、その年の暮れのことである。 年末年始、蘭は三高祥子を連れて香港へ帰った。仕事の予定も入らなかったし、旅行でも行こうかと話が出ていたので「じゃあ、あたしの家に来ませんか?」と誘った。祥子に家族を紹介したかった。木崎健太郎も誘ってみたがこちらは「…後にしとく」と丁重に断られた。蘭の実家が海外だと少し遅れて思い出した祥子は怖じ気づいたようだが、蘭は強引に話をまとめた。「年が明けたら上海も回りましょう。旧正月まで賑やかで楽しいですよ」 年末には史緒の誕生日がある。そのプレゼントとメッセージも先渡しして、蘭と祥子は飛行機に乗った。 そして祥子に香港の町を案内しているとき、蘭は占い師と再会した。 建物の影、道の端にたむろする浮浪者の中にその人を見つけたとき、蘭は祥子の手を引いて走り出していた。 その、水晶玉の色を覚えていた。 「あの…っ」 「はい」 「ぇっと…、こんにちはっ」 「はい、こんにちは」 「おばあちゃん」 「はい、お嬢ちゃん」 「あたし、10年くらい前に、あなたにお会いました」 「はい、お会いしまいした」 「お礼が、言いたくて」 「はい、伺いましょう」 「ありがとう。あなたの言葉のおかげで、強くいられました、この気持ちを信じてこられました。本当にありがとう」 「2度、会えた?」 「ええ!」 「後悔してることがあるね」 「…たくさん」 「嘘を吐いた」 「───はい」 「謝ってない」 「はい」 「大丈夫」 「え?」 「それは謝罪することができる。そう、遠くないうちに」 言葉も事情も解らないはずの祥子が飛び上がってこちらを見た。 それに応えることはできない。 「……え?」 そう呟くのがやっとで。 |
39話「ran3」 END |
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