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40話「関谷篤志3」 |
「ひどーい、篤志さん! あたしを置き去りにするなんてぇ!」 蘭は篤志の横っ腹に飛びついた。しかしそれしきのことでよろめく篤志ではない。篤志は振り返りもしなかった。蘭はそれが悔しくて、ぎゅうううぅ、と回した手に渾身の力を込めるがそれでも効果はなかったようだ。篤志からの反応は無かった。 場所はA.Co.の事務所、日曜日の午前8時。室内には蘭と篤志の他に、司と史緒もいる。蘭は高校の制服姿で、他の3人は外出着だった。史緒も珍しく仕事で出かけるときのようなスーツではなく、年相応の夏らしい服を着ている。日曜日はA.Co.は定休日。なので、他のメンバーが来るとしても昼過ぎだろう。 「人聞きの悪いこと言うな」 ようやく篤志が蘭のほうへ顔を向けた。 「おまえは学校なんだろ」 と、容赦なく蘭の腕を引き剥がす。 「そーなんですけど! でもずるいですッ、3人でお出かけするなんて! しかも篤志さん家!」 半泣きの蘭に、端で見ていた史緒と司は苦笑するしかない。 「また機会があるじゃない」 「そうそう。次は篤志と2人で行けばいいよ」 「え? えぇっ! 2人でって、それってすごく特別な意味がある気がしません!?」 赤くなってはしゃぐ蘭の額を篤志が小突く。 「しない。ほら、遅刻するぞ。課外研究なんだろ」 実際、もう危険な時間だった。蘭は壁掛け時計を見上げた後、渋々と鞄を手に取る。 「ねっ、篤志さん。お母様にくれぐれもよろしくお伝えくださいね! 後で伺いますからって」 「あぁ」 「それから、そのときは篤志さんが一緒に連れて行ってくださいね。お父様も紹介してくださいねっ」 「わかったって」 「やった」 笑うしかない篤志が生返事をするも、蘭は言質を取ったとばかりに拳を握る。 「じゃ、行ってきまーす!」 元気よく一礼して、蘭は走って事務所を飛び出していった。嵐が去ったような余韻だけが残る。 「俺らも行くか」 篤志が鍵を鳴らした。 今日は3人で篤志の実家へ行く。 「実際のところ、どうなの。蘭と篤志は」 ボックスシートに収まってから司が言った。今日は遠出のため、サングラスをかけ白い杖を持っている。含みを持つ司の問いに、向かいに座った篤志は白けた声で返した。 「どうって」 「昔馴染み以上のつきあいがあるのかってこと」 くす、と司の隣で史緒が笑った。 「この顔ぶれでそういう話題は珍しいわね」 「え。史緒は他では恋愛話なんかするんだ? 祥子とか?」 「まさか!」 想像すらできないことを司が言うので史緒は真剣な表情で声を大きくした。司も冗談のつもりだったのだろう、「だろうね」と軽く笑ってすぐに納得する。2人のやりとりを聞いていた篤志は少し考え込んだ後、ぽつりと言った。 「夜遊び友達か」 ぎくり、と史緒の肩が揺れる。 「う…」 視線を逸らして唸る。なんだ、と司がつまらなそうに嘆息した。 「知ってたの? もう少しのあいだ、脅迫カードとして使えるかと思ってたのに」 脅迫カードというのは、もちろん、「夜遊びしていることを篤志に知られたくなかったら…」というものだ。史緒は恨めしそうな視線で何か言いかけるが篤志のほうが早かった。 「知ってたなら注意しろ」 「僕が言ったって史緒が聞くわけないさ。三佳だってそう。適任なのは篤志くらいだよ」 「どうかな」 じろり。 「だ、だって」 史緒は見るから慌てた。珍しいことだ。 「向こうも仕事だし、都合を合わせると夜になるの。仕方ないでしょ」 「仕事? 高校生くらいに見えたけど」 「 「理由はどうあれ、女2人であの時間は危険だろ」 「危ない場所には行ってない。帰りはタクシー使ってるし、相手の子は私よりしっかりしてるし、そんなに心配しないで」 この話題は避けたいようで、史緒は端的に答える。篤志もそれは解っているが身近な未成年の夜遊びを容認するわけにもいかない。 「交友関係に口出ししたくはないけど、どういう友達なんだ?」 「それは、機会があったらちゃんと紹介するから…」 語尾が小さくなる。勘弁してやるか、という空気で篤志はため息を吐いた。史緒はこの場を逃れられて冷や汗が退くのを本当に実感した。 「じゃあ、話を戻すけど、篤志」 と、司が矛先を転じる。 「なに?」 「蘭とはどうなの」 もともとは篤志と蘭の話題だったはずだ。話を逸らしてしまった責任をとって、きっちりと元に戻す。 史緒とは違い、篤志は冷静に返した。 「あいつと付き合うってことがどういうことかわかってるか?」 「まさか家柄を気にしてる?」 「違う。…あの兄姉が後ろにいるってことだ」 司と史緒は一瞬「?」という表情をした後、「あー」と納得したように苦笑いする。 蘭には年の離れた兄姉が合わせて12人いる。彼らは揃って末妹の蘭を溺愛しており、その蘭が片思いしている篤志に対して風当たりが厳しい。もし、蘭の念願叶って2人が付き合うなどということになったらどうなるか、想像するに難くない。 「それに、今、蘭と付き合ったりしたら、二股かけんなって親に殴られるよ。外聞もよく無いだろ」 「え? 二股って…、あ」 司は手で言葉を止めた。史緒は目元をしかめて視線を伏せる。 篤志は名目上、史緒の婚約者なのだ。本人たちにまったくその気はないが、その関係を解決させないことには恋愛云々など言っていられない。 「それに、蘭は盲目的なところがあるから、少し突き放しておくくらいがあいつのためだ」 そう付け足して篤志はこの話題を打ち切りにした。 「それより、悪かったな、2人とも。休日に付き合わせて」 努めて明るく言うので、司もそれに応える。 「いいよ、おばさんとはもう1年くらい会ってないし」 そうね、と史緒は伏していた顔をあげた。 「再三、呼ばれていながらずっとご無沙汰していたもんね。こうして3人揃って行くのも、久しぶりじゃない? たまにはいいわよ」 * * * 七瀬司がはじめて関谷家を訪れたのは、篤志と知り合って間もない頃のことだ。 「えっ、史緒も一緒なの!?」 その日の朝、出かける直前になってから、司は驚きの声をあげた。篤志が阿達家まで向かえに来てくれて、さあ行くかというときに、2階から史緒を引きずり降ろしてきたのだ。 史緒は最近、この年上のはとこに振り回されている。同じ家にいてもほとんど声を聞かないほど部屋に籠もっていた史緒を、篤志はよく連れ出しているのだ。その傍若無人たるや司の度肝を抜いたほどである。 今日も史緒は篤志に手を引かれて階段を降りてきた。どうやら本当に同行するらしい。司にとって史緒は、櫻より話す機会が少ない同居人だ。気まずくてしかたない。 史緒が切符を買うのに手間取っている。それを待っているときに、 「本当は櫻も連れてきたかったんだけど」 と篤志は司が耳を疑うようなことを言った。 「櫻は絶対来ないよ。それにもし櫻が来たとしても、今度は史緒が来ない」 と心から呆れて見せると、 「まるで磁石だな」 と、篤志は笑った。司は言葉を失う。 笑い事じゃない。 大物なのか無神経なのかわからない。篤志が阿達家に出入りし始めて早半月。その半月の間に阿達家の空気は読めているだろうに。そう、わかっているはずだ。にもかかわらず篤志は、強引に史緒を連れまわし、鷹揚に櫻に接し、まるで台風のように周囲を巻き込んでいく。阿達兄妹の根深い怨恨を肌で感じている司はいつもハラハラさせられていた。 電車の中で史緒はずっと無言だった。やはり手放せないのかネコはケージに入れて連れてきていた。 渋々とは言え、ここまで付いてきているということは、篤志のことを少しは気に入っているのかもしれない。 「手、貸そうか?」 大きくも小さくもない声で篤志が言った。これは司に対しての言葉だ。不慣れな駅構内でうまく動けないでいたので、司は素直に手を借りた。 目が見えない人間にとって、先に声を掛けてくれるというのは本当に重要なことだ。突然、肩を叩かれたり、無言で手を引かれたりするのは、例えそれが助け手であっても恐怖の対象でしかない。 そういう意味で、篤志の気遣いは有難かった。不必要に手は貸さなかったし、階段では僕より一歩先を降りた。足下の状況を教えてくれていた。それは絶妙なタイミングで、本当にさり気ないもので、さりげな過ぎて、篤志が気遣ってくれていることにしばらく気付かなかったくらいだ。 どうして篤志には司が必要としている助け手や情報がわかるのだろう。晴眼者である篤志にはどうやったってこの感覚は伝わりはしないのに。 「どうしてわかるの?」 と、口にしてから気づいた。 これはかつて、櫻に抱いた疑問と同じだ。 (どうしてわかるの? 櫻は見えてるんでしょ? なのにどうして僕が見ているものが解るの?) 櫻は人を不安がらせるということにかけては天才的で、他人の弱点をやんわりと突いてはひやりとさせた。櫻はそれが楽しいのだろうか、他人に危機感を与えなければ気が済まないように、司には思える。しかもそれは、注意しなければわざとやっているということに気づかないほどにさりげなく日常的な行為だっだ。司は櫻が同じ空間にいるというだけで重圧を感じる。その気配に注意を払わなければならなかった。 どうして解るの? (見えないおまえには解らない) 櫻はそう答えた。 そして今、篤志が答える。 「見てれば解るよ」 「…っ」 背筋が寒くなった。 (───同じだ) 自然と冷静に結びつけることができた。 きっと櫻はそう答えたかったのだ。見ていれば解る、だから、「見えないおまえには解らない」と。 櫻の嫌がらせと篤志の気遣いは、よく他人を観察し客観的思考ができるという点について同じものなのだ。ただ、ベクトルの方向が正反対なだけで。 篤志が櫻に似ていると気づくと途端に怖くなった。このまま付き合っていてよいのだろうか。篤志のベクトルがいつ反転するとも限らないのだ。 和成に訊いてみた。 「櫻と篤志くん!? 全然似てない…と思う」 妥当な答えだろう。 そして蘭。 「篤志さんは史緒さんを裏切りません。それだけはわかります」 蘭の目利きは大概は根拠が無いけど、大抵は信用することにしている。 しかし今回に限って妙な断定の仕方をする蘭の答えは、司に猜疑心を持たせるだけだった。 * * * 阿達史緒がはじめて関谷篤志と会ったのは、阿達咲子の葬儀から10日後のことだった。 その日、昼過ぎに部屋のドアが鳴った。呼びかけは司の声だったので、史緒はとくに警戒することなく、ゆっくりとドアを開ける。 「!」 ドアを開けた途端、史緒はハッと息を呑んでドアノブを戻した。しかし前に立つ男に阻止されてしまう。そこにいたのは司ではなかった。見知らぬ背の高い男だった。咄嗟に腕のなかのネコを抱きしめる。そうすることで取り乱さずに済んだ。 「はじめまして。関谷、篤志です」 その声に史緒は顔をあげる。人なつっこい笑顔がそこにあった。 「だれ?」 「さっき、和成さんが連れてきたんだ。おじさんのところで挨拶してきたんだって。史緒たちの親戚らしいよ」 関谷篤志の背後から司が顔を覗かせる。とりあえず知らない他人と1対1でないことがわかり、史緒は安心した。それにしても。 (親戚?) 耳慣れない言葉だ。 「俺の父親と、史緒のお父さんが従兄弟同士なんだ」 「知ってた?」 ぶんぶんと首を横に振って答えた。今まで、家族以外の血縁者のことなど考えたこともなかった。母方の祖父には会ったことがあるが、あまりよく覚えてないくらい久しくなっている。それ以外にもこんなに年の近い親戚がいたなんて。 「あ、史緒、今、ひま?」と、唐突に篤志。さらに答える隙さえないまま「とくに用事無いなら、付き合って。この辺、前から行きたいところあったんだ」 「え」 「出掛ける予定だった?」 「う、ううん」 「じゃ、行こう」 笑顔のまま強引に手を引かれる。「え、…きゃあ」突然のことに史緒は満足な抵抗もできない。突然でなくてもできなかったと思うが。 手を引かれたまま廊下に出て、さらに階段を降りる。 「司も行くかー?」 「いや、僕は病院行くから」 篤志の呼びかけに司はひらひらと手を振った。 この頃の史緒には司のあからさまな嘘でさえ見抜くコミュニケーション能力がなかった。もちろん篤志は見抜いている。 「じゃ、また今度な」 1階まで降りると和成がいた。史緒は助けを求めようとしたがそれすら叶わず玄関へ引きずられていった。「ちょっと史緒と出掛けてきます」和成は目を丸くして2人を見送っていた。 初対面の人と出かけるなんて初めてだ。史緒はびくびくしながら、そのまま手を引かれて長く歩いた。腕の中にネコがいる。道中、それを何回も確認したのは不安さ故だろう。 空は晴れていた。久しぶりに陽の光を浴びてめまいがする。 そっと、前を歩く篤志の背中を見る。史緒は歳を読む能力を持たない、けれどたぶん、櫻と同じくらい(後で聞いたところによると、櫻のひとつ下だそうだ)。篤志は長い髪を結んでいる。それが印象的で、史緒はしばらく毛先が動くのを見ていた。 篤志が行きたいと言っていたのはここのことだろうか。なんのことはない、家の近くの公園だった。 篤志は少しも迷わずここ向かった。そもそも史緒は尋ねられても道案内などできない。果たして史緒が同行する意味があったのだろうか。 促されてベンチに座る。なんとなく居心地が悪くて、視線のやり場に困る。俯くと履き慣れない靴を履いている自分の足が見えた。 ふと顔を上げると、篤志がまぶしそうな表情で風景を眺めていた。少しの興味が沸いて史緒も同じ方向へ視線を向けた。 公園の端にはいくつかの遊具がある。子供たちが走り回って遊んでいる。赤ん坊を連れた母親も数人見られた。史緒にとっては見慣れない光景だが、取り立てて珍しいものとは思えない。篤志には楽しい風景なのだろうか。 もう一度、篤志の横顔を見上げる。篤志のその表情には懐かしさが込められているように見えた。道順も知っていたようだし、前にも来たことあるのかもしれない、しかし訊く必要も意味もない。口を利くのが億劫なので史緒はまた俯いた。 逆に、篤志のほうが訊いてきた。 「史緒はここで遊んだりしないの?」 「…」 無視したわけでない。答えに迷ったのだ。驚いたことに篤志はちゃんとそれをわかっていて、史緒の返事を待っていてくれた。 「私は」 「うん?」 「遊ぶ、っていうのが、よく、わからない」 小さく不安定な声だったけど、初対面の人にちゃんと答えを返すことができた。 「外に出るのが怖い?」 顔を覗き込まれて、慌てて視線を逸らす。篤志の質問は結局答えられなかった。答えたくないという思いはあった。しかしそれ以上に、質問に対する答えが複雑すぎて史緒は言葉にすることができなかった。 「関谷くんは」 「篤志でいいよ」 「…」 猫を抱きしめる。 「どうしてウチに来たの」名前は呼べなかった。「今まで、知らなかったのに」 篤志が視線を向けた。気配でそれが判ったが、合わせる勇気は無い。 う〜ん、と悩む声。次に息で笑う。 「櫻と史緒に会ってみたかったから、だな」 正直に言えば、この家に関わる人間が増えるのは憂鬱だった。司のときもそう、櫻の犠牲者が増えるという懸念は史緒を苦しめる。 でも、篤志に関してはそんな心配は無用だった。 関谷篤志には櫻の陰険さに負けないくらいの快活さがあった。とても明るくて温かい、大きなものだ。事実、篤志は櫻の嫌みも平気で突っぱねて、それどころか毎回しつこく話しかけては櫻に煙たがられていた。「あれは嫌がらせだよ」と司が真顔で言ったことがある。 では、「部屋に閉じこもってんな」「暇ならついてこい」などと振り回される史緒も、嫌がらせを受けているのだろうか。史緒自身は篤志の強引さを苦痛には感じないが櫻は違うらしい。受け止め方は人それぞれなんだ、と妙に感心した。 図書館に連れて行かれたことがあった。 「ネコは館内に入れられないぞ」 大きな建物の前で、篤志は史緒はかれこれ30分立ち止まっている。「公共の場所ではケージに入れるのが常識」 「…やだ」 「あのな」 史緒は胸に抱いたネコを離そうとしない。やがて根負けしたのは篤志のほうだった。篤志は上着を脱いで史緒のネコを抱く腕にかける。 「隠してろ。今日だけな」 図書館という場所を初めて訪れた史緒は、その本の多さに圧倒された。 「高価な本をタダで読めるという点で使わない手はない。俺なんか内容もわからないのに7万円の本を読んだりもしたし」 と篤志は笑う。史緒も笑った。 「俺にとっては暇つぶしに最適な場所だな。なんせ、ここにある本を全部読むのは一生かけたって無理なんだ。それを思うだけでおもしろい」 どうやら常連らしい。篤志は史緒が興味を持ちそうな書棚をいくつか案内した。 「動物は持ち込み禁止だ、関谷くん」 背後から声をかけられ、2人して飛び上がる。そろそろと振り返ると、2人を見下ろすように女性が両手を腰に立っていた。ネームプレートを胸に付けている。この図書館の司書らしい。 「葉子さん、今日だけ見逃して」 篤志が声をひそめて言った。 「平日の昼間に小さい子を連れ回すのも感心しないな。2人とも、大人しく学校へ行け」 「それも見逃して」 司書はふんと息を吐く。それから史緒を一瞥した。 「そっちの子は?」 篤志は史緒の肩に手をかけて答える。 「俺の妹。カワイイでしょ?」 「嘘を吐くな。君は一人っ子だろうが」 「うわ、即バレ?」 「大体、君に妹がいるなら、高雄氏が自慢しまくって今頃耳にタコができてるだろうよ」 「ごもっとも」 篤志と司書の応酬に人名がでてきたので訊いた。 「…だれ?」 「俺の父親。おもしろい人だよ、史緒も会ってみる?」 * * * 篤志の実家は新横浜の郊外。静かな川沿いのマンションの2階にある。 「いらっしゃい!」 と、勢いよく3人を出迎えたのは関谷高雄、篤志の父親だった。 「ただいま」 「こんにちは」 「ご無沙汰してます」 篤志、司、史緒の挨拶を受けて、高雄は満面の笑みを浮かべた。 「やぁ、揃って来たな。嬉しいよ」 そして家の中に向かって声を張り上げる。 「おーい、母さん。子供たちが来たよー」 ぱたぱたとスリッパの音とともに関谷和代が現れる。篤志の母親だ。 「そんな大声出さなくても聞こえます、お父さん」 「ただいま、お母さん」 「珍しい。何しに来たの」 「顔見せろってしつこく言ってたのはそっちでしょう」 「しつこく言わなきゃ帰らない薄情な息子なんて知りません」 ぷいとそっぽを向く和代に苦笑して、すみませんと篤志は謝った。 「ほら、早く上がりなさい。外は暑かったでしょう? 史緒、司、なにやってるの、玄関先でぼーっとしないで、早くいらっしゃい」 「はい」 「おじゃまします」 史緒と司は自然とこぼれる笑みを抑えることができない。 「相変わらずだね」 司が耳打ちするので、 「ほんとに」 いつ来ても変わらない関谷家の風景を見て、史緒は同意した。 篤志にとって、父・関谷高雄は、良き理解者で、厳しい教師だった。 中学生の頃、母はパートで働いていて昼間は家にいなかった。その代わり父がいた。篤志が学校から帰ると、必ず部屋から出てきて「おかえり」と言ってくれる。 明るく快活で、雑学豊富な父。たくさんのことを教わった気がするが、直接教えてもらったことはほとんど無く、たいていは痛い目にも合わされたし、反省を伴った教えだったように思う。 そんな父の教えのなかに、ひとつ、鮮烈に覚えているものがある。 「欲しいものは、考え無しに口にするものじゃない」 父がそこまで直接的に言うのは珍しく、篤志は驚いた。 「ただ、これは難しいんだ。篤志が何が欲しいのか言ってくれないと、父さんは何もあげられなくなるからなぁ」 と、眉尻を下げて苦笑する。父の顔を見上げた篤志の視線を、父はまっすぐに受け止める。 「父さんはね、おまえにはやりたいことをやって欲しいし、手に入れたいものをちゃんと手に入れて欲しいと思っているよ」 難しいな、とまた呟いた。 「欲しいものを口にすることは決して悪いことじゃない。でも気をつけなさい。それはときに、人を悲しませる。それが得難いものならなおさら」 「どうして悲しむの?」 「それをおまえに与えてあげられない不甲斐なさが、とても辛いんだ」 篤志にはよくわからなかった。 「お父さんは、なにが欲しかった?」 父は大きなてのひらで篤志の頭を撫でる。 「そうだな、俺はもう手に入れたから、篤志になら言ってもいいかな。父さんは昔から───好きになった女性と恋愛して、結婚して、子供を育てたいと思っていた」 「好きになった女性って、お母さん?」 「もちろん」 「へ〜ぇ」 「おっと、この話は母さんには内緒な」 「どうして?」 「照れくさいからだよ」 と歯をみせて笑う。 しかし、篤志は後になってから知った。母さんには内緒、と、父が言った本当の意味を。 かつて父はその願いを口にして、母を悲しませたことがあるのだろう。 「嘘は吐かないでいましょう」 そう言い出したのは母・和代だ。 そのとき、篤志は車椅子での生活を強いられていた。背中に傷を負い、立ち上がることさえできなかった。やっとリハビリを始められるかというときのことだ、入院していた病院の中庭に、父と母そして篤志の3人はいた。父が篤志の車椅子を押し、先を歩く母がゆっくりと振り返る。 「そういうことにしておいたほうが、篤志も気が楽でしょう?」 青空を背景に母は穏やかに笑った。 「誰かに訊かれたら、正直に言いましょう。嘘は吐かないでいましょう。私たち家族、3人の約束」 父・高雄と篤志は視線を合わせる。和代の意図が判らなかった。 「私はね、嘘を気づかれてしまうことに怯える生活なんてごめんなの。嘘を拠り所にするのも嫌」 和代は篤志の車椅子の前で膝を付き、その手を取った。 「嘘なんか吐かなくても、あなたを愛せるわ。本当よ」 篤志はその手を握り返して微笑う。 「ありがとう、お母さん」 その背後で高雄が息にのせて笑う。 「俺らも、咲子さんのイタズラ好きが伝染したのかな」 「ふふ、そうね」 「誰が、俺ら3人のイタズラに最初に気付くだろう」 「それは決まってる」 と、篤志が即答する。和代と高雄は興味深そうに篤志の顔を覗き込んだ。篤志はふたりに笑ってみせる。 「櫻だ。間違いないよ」 それは関谷篤志が、阿達史緒、七瀬司と出会うより6年前のことだった。 |
40話「関谷篤志3」 END |
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