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41話「キラーの恋-first-」

★注意★

■この話の冒頭殺人(流血)描写があります。
    A.殺人(流血)描写が苦手な方
    B.読みたくない方
 上記AおよびBに該当する方は、冒頭を飛ばして読むことができます。下のリンク1から飛んでください。大したことない描写ではありますが、読んだあとの苦情は受け付けられませんのでご注意ください。

   リンク1   冒頭の殺人(流血)描写は飛ばして読む(1章から読む)
   リンク2   はじめから読む(プロローグから読む)






































   ↓


















































41話「キラーの恋-first-」


 彼は机のスタンドの電気を点けた。古い論文を読むためである。
 彼はついさっきまで1階で夕食を食べていた。2時間ほど家族と団欒したのち、午後9時には2階の自室へさがる、それが彼の日課だった。自室ではテレビを見ることもあるし、アルコールを嗜むこともある。しかし今夜はこの論文を読んでしまわなければならない。彼は机の抽斗をあけて老眼鏡を取り出した。
 一週間前に職場に沸いて出た古い論文は、すぐに、彼と同年代の職員のあいだで注目の的となった。我も我もと人が集まり、いい大人が白熱したじゃんけん大会を繰り広げ、両手の人数ほどの回覧順序が決められた。───いまどき回覧などせずとも、コピーして配布したりデータ化してメールなりすればよいものの、彼らのような古い人間の多くはそれを好まない。遠い昔、学生の頃に参考書を奪い合い、それが回ってくるあいだ胸を躍らせて待っていた記憶がある。そのときの気持ちを、彼らはときどき再現させて楽しんでいるのだった。
 彼はどの論文を読むときもそうするように、著者名を確認した。論文はドイツの大学の研究チームによるもので英語で書かれている。最後のページを見ると、チームの構成は6人。そのうちのひとりが日本名のようだが彼には憶えのない名前だった。表紙に戻ってもういちど題名を読んだあと、彼は一枚目をめくった。
 ふっ、と手元の灯りが消えた。
 蛍光灯の余韻が残る。論文の紙の白さが吸収していた光を、刹那のあいだ残した。顔を上げると部屋の照明も落ちていた。どうやら停電らしい。
 窓からの明かりは薄く室内を照らす。彼は机を離れ、足を床に擦るようにして移動した。廊下へと続くドアを開けると家中が真っ暗だ。
「おい、どうした」
 階段下に声をかけると彼の妻の声が返った。
「停電みたいです。お父さんのほうは大丈夫ですか?」
「ああ」
「様子を見てきますので少し待っててください」
「ああ、気をつけてな」
 ぱたん、とドアを閉めて室内に戻る。ふと見ると、窓の外、近所はいつも通り灯りが点いていた。ということは電力会社による停電ではなく、ブレーカが落ちたのだろう。この家では珍しいことだ。彼は窓に寄って、窓を開けた。冷たくはないが湿った空気が家の中に入ってきた。
 やはり停電しているのはこの家だけのようだ。彼は窓から見える町内を見渡した。あの子がなにかやらかしたかな、と遊びに来ている甥を思う。
 彼の甥はもう大学生だが、幼い頃から可愛がっていたこともあり、つい子供扱いしてしまう。子供みたいなその呼び方はやめてくれとむくれる甥を思い出し、彼は笑った。背も追い越され、来年になれば成人もするのに、彼から見たら今でも幼い少年のようである。
 電気はまだ戻らない。ブレーカーが落ちているだけなら上げれば済むことだ。長すぎる停電に訝しみ男は窓から離れた。しかしその際、視界の端に動くものが映る。彼はぎょっとして振り返った。
 にょきっと、窓枠から白い腕が伸びてきた。
「…っ」
 声をあげる暇はなかった。暗闇のなかから現れた白い腕を見てオカルトが頭を過ぎる。それよりあと、彼が論理的な思考に辿り着くより先に、白い手は鼻の先まで近づき、彼の口を掴むように塞ぐ。
「!?」
 顎を掴まれて声を出すことができない。その手は紛れもなく生身の人間のものだった。口を塞ぐ手、腕を視線でたどると、次に窓枠から人間が侵入してきた。現実離れした現実に彼は自分の行動を選択できなかった。侵入者は全身黒い服を着ていた。窓からのわずかな灯りでしか確認できないが、若い女だ。細い腕、細い指にかかわらず、信じられない強い力で顎を掴まれている。
「こんばんは。殺し屋です」
 薄暗闇のなか、女は無邪気に笑った(殺し屋に邪気が無いとはどういうことだろう)。彼は目を見開く。かなり遅れて、体が大きく震えた。呆然としているあいだに口を塞がれたまま、先ほどまで座っていた椅子に座らせられた。そこで、初めて彼は抵抗することを思い出した。女の手を引き剥がそうとした。すると女はそれを阻止しようと右手で男の手首を掴む。
「うあ…ッ!」
 折れた。身体が軋むような痛みに彼は悲鳴をあげた。しかし口を塞がれているために、それも満足には響かなかった。
 彼が手を放すと女は右手で男の襟を掴み、そのまま切り裂いた。そのまま、むき出しになった男の左胸に触れ、指先で撫でる。ひんやりと冷たい指に彼の恐怖はさらに高まった。女は執拗に男の胸を探るように撫でる。彼はその意図を察し、暴れた。判ってしまった。彼は医者だったので。
 女は肋骨の位置を計っているのだ。
 鋭利なナイフなどで心臓を刺すのは意外と難しい。肋骨があるからだ。
 彼は1階から誰か来てくれないかと祈った。しかしその気配はない。
 やがて女はまるでマーキングするかのように、左胸の少し上のあたりを親指の爪でひっかいた。
「誰に依頼されたか知りたいですか?」
 そっと小さく囁く。彼は、殺さないでくれ、という意味で首を振った。
「じゃあ、もう、あなたの命が消えます。さようなら」
 見慣れたはずの自分の部屋に、黒い服を着た女の影が浮かび上がっている。これは現実じゃない、夢だ、夢だろう。
 女は一度背中に右手を回す。次にその右手が彼の視界に現れたとき、その手は銀色に光る刃物を持っていた。刃渡りは包丁ほど。まだなにもされていないのに、男は血液が逆流するのを感じた。寒くなり、痛くなった。

 どんっ
 酷いシャックリのようにそれは体内に響いた。
 わずかに視線を下ろすと、左胸のマークされた位置に女のこぶしが当たっている。こぶしは銀色の刃物を握っていた。
 腸が攣ったあと胃液が逆流するような感覚があり、異変を察知した肺が咳き込もうとする。すると口のなかに脳が溶けるような生臭い鉄の味が広がった。
「…ゴフっ」
 口を塞がれているので血を吐き出すことができない。女の力は強く、とくに親指は顎骨を砕きそうだった。おそらく女の指の間から、吐き出した血が滲み出ているだろう。もう声も出せないと解っているはずなのに、女は手を離さない。返り血を浴びないためだ。
 肩甲骨があるので身体に刃物を貫通させることは難しい(それ以前に、刀身はそこまで長くなかったようだが)。女はこぶしを強く当て続けているので何かと思えば、これも体外への出血をできる限り止めて、返り血を極力避けようとしているようだ。
 目が霞んできたとき、女の意気込む呼吸を聞いた。と同時に、彼は両目を剥く。
「ぎ」
 そのままナイフを90度回す。これは相当な力が必要なはずだが女は手首を捻るだけでやってのけた。
 肋骨が折れる音を、遠く、最後に聞いた気がした。


「伯父さん、どうしたのっ」
 彼が椅子ごと倒れた音を聞きつけたのか、彼の甥が階段を駆け上がってきた。
 彼の甥は見た。停電が解けない薄暗い部屋の、窓際に佇む人影。
「…誰だ?」
 女だ。目が合うと人影はひらひらと手を振って───飛び降りた。



















 (みち)のおわりには白い花が咲いている。





1.逢魔が時のあと

 國枝藤子(くにえだとうこ)は黒い服を着て夜の街を走る。
 夜の闇に紛れるとはいえ繁華街で地味な黒服というのは返って目立つものだ。藤子はできるだけ裏道を選び、人目につかないように街を駆け抜けた。人気を避けられない通りではうつむき加減で人と人のあいだをすり抜ける。移動距離はすでに3kmに達しているが速度はほとんど落ちていない。一度、腕時計に目を落としたほかは、よそ見もせず走り続けた。
 私鉄の小さな駅はこの時間になるとほとんど人はいない。薄暗い駅に駆け込み、迷うことなくコインロッカーに鍵を差し込む。ロッカーの中には4点。薄茶のサマーセーターとフレーム無しの眼鏡と携帯電話とサイフ。セーターは仕事着を隠すため、眼鏡は変装用。サイフのなかにはあらかじめ買っておいた切符が入っている。それを抜き出しサイフはポケットにしまうと、ロッカーをしめた。切符を折ってしまったふりをしてそそくさと有人の改札を抜ける。ちょうどホームに電車が入ってきたところだった。

 JRの駅で降りると走り抜けられないくらいの混雑があった。昼間ほどではないが会社帰りのサラリーマンや遊び帰りの若者がどこか疲れたように改札へと流れて行く。藤子は時間を気にしながら人波を縫って階段を降りた。通路を横切ってそのまま構内のトイレに駆け込んだ。
 鏡の前で化粧を直している10代の女がひとり。駆け込んだ藤子に見向きもせずアイメイクに集中している。女の横手にはボストンバッグが置かれていた。藤子は躊躇うことなく女の横のバッグを掴み取り、そのままトイレの個室に入った。都会の公衆トイレに入って最初にやることは隠しカメラが無いことの確認だ。手早くそれを済ませると、藤子は服を脱ぐ。ボストンバッグには藤子の自前の服が入っている。
 着替えを終えて個室を出るとさっきの女はもういない。藤子はとくにそれを気にすることもなく鏡の前で身支度を確認した。白いカットソーにピンクのフレアスカート。ミュールを履いて、指輪以外のアクセサリーを身に付ける。ソープで念入りに手を洗ったあと、指輪をはめた。仕事着はボストンバッグに押し込み忘れ物がないことを確認すると、藤子は気持ちを切り替える儀式のように鏡の前で笑顔を確認した。今夜の仕事は終わり。いや、実際にはあと少し残っているけれど。
 鏡の前で最終チェックを終えてトイレを出る。手荷物はボストンバッグと手提げバッグのみ。ゆっくりと歩き改札のほうへ向かうと、階段の手前でさっきの女が手を振っていた。藤子も笑顔で手を振り返す。
「やっちゃん、久しぶりー。テスト終わったんだ?」
「うん、とーこさんにはご贔屓にしてもらってるのに、勝手に休みもらってすみませんでした」
「いやいや、学生さんは学業第一だよ。気にしないで」
 端から見ればこの2人は女子高生の待ち合わせに見えただろう。なかには、2人が同じような背格好、同じような髪型をしていることに気付いた人もいるかもしれない。だからといって、2人の関係を正確に当てられる者などいないだろうが。
 2人は電車には乗らず、駅を出て並んで歩き始めた。にぎやかな通りに絶えず人通りがある喧騒のなかを歩いて行った。
「はい。過去2時間の行動範囲と録音MDとレシート」
「ありがとー。助かるよ」
「仕事だもん。お礼は不要」
 藤子はレポート用紙一枚程度のメモを歩きながら20秒かけて読んだあと、ライターで燃やした。燃えかすがアスファルトの上に落ち、それを踏みつけた。MDのほうも聞いた後にもちろん処分する。
「あとね、単行本も買ったの、新刊出てたから。とーこさんの趣味に合わせたつもりだけど、これでよかった?」
「うん、おっけ」
 藤子はタイトルを確認して頷く。少しだけ表情を改めて先を促した。
「じゃ、やっちゃんの所感を聞かせてくれる?」
「はーい。えーと、まず、予定してたライヴは整理券が取れなくて入れませんでしたー。トリが“Missing Kisses”だから予想以上の客入りだったみたい。私の他にも門前払いされた人、5人いたし。しょうがないから街中をテキトーにぶらついて、あっと、MDにも入ってるけど、J町の交差点、今日から夜間工事やってるの。うるさくてみんな文句言ってた。街頭VTRでASDFの新曲プロモ流れたよ、周りの女の子が騒いでたけど、私はあまり趣味じゃないな。このあたりでナンパ2名撃退、人相はMDに入れたから聞いて。夕食はデニーズ、メニュー取りは石焼さん。50歳くらいの髭のおじさん、名前が珍しいから覚えてたんだ、ネームプレートの肩書きは副店長だって。食べたものはレシート確認してね。食べてるときさっきの単行本読んでたらハマっちゃって、結局、10時過ぎまでいたから夜間料金取られちゃった。それから〜、帰りは、駅で路上パフォーマンスの集団がいたよ。高校生の男の子、ストリートダンサー。曲がクラシック使っててミスマッチが面白かった。こんなところかな。あとはMD聴いてください」
 一気に喋る女の説明を聞き漏らすまいと、藤子は口を挟まずに聞いていた。
「…うん、ありがとう! やっぱ、やっちゃんだな〜」
「えー、なんですか」
「やっちゃんがテスト休みのあいだ別の人だったんだけど、風貌合わないうえに、仕事意識薄くて。いくらバイトでもあーいうお遊び感覚のコは困るな」
「とーこさん、店長にも言ったでしょ、それ」
「言った。だって本当に困るもん」
「干されてたよ、その子」
「仕事はやっ。店長のそういうところ好き」
「あはは。私も、とーこさんの仕事のときは、かわいい服着れて楽しいから好き」
「それはよかった」
「あ、もちろん、お金をもらう以上は責任もってまじめにやります」
「うん、やっちゃんの仕事は信用してる」
「ねぇねぇ、とーこさんって何の仕事してるの?」
「それは聞かない約束って、店長に教わらなかった?」
「そうだけど。だって、とーこさんて、あたしと同じくらいでしょ?」
「さあ」
「って、自分の歳じゃん」
「うん、でも、あたしは数えることやめたから」
 2人はまた元の駅に戻ってきている。さりげなく密談するために近場を一周しただけだった。
「じゃ、やっちゃん。気をつけて帰ってね」
「うん、とーこさんも」
 手を振ってわかれた。
 時間は夜11時を回った。









2.模型風景のはじまり

 やっと見つけた
 刺すような光とともに、その人は現れた。


*  *  *


 格子の影が移動する周期を「一日」という。
 床にその影が見えるあいだは「昼」、見えないあいだは「夜」。遠くで鐘が鳴ると「一時間」。「一時間」は足音100を40回ぶん。食事を与えられない日がくると「七日」。土塀の湿気と藁敷の床の冷たさが反対にあって「半年」。一巡すると「一年」。
 それだけを数えていた。
 数える以外、考えることをやめた。
 黴臭い壁にもたれ、固い床の上で、膝を抱えて座る。膝を抱えて眠った。
 ときどき「仕事」に呼ばれた。刃物を持たされ、町に放たれる。安定した時間の流れのなかで、「仕事」だけが動的な活動だった。少しでも遅れると殴られたので呼ばれたときすぐに立てるように、横になって眠ることは習慣から消えた。
 数えているだけの「毎日」のあいだに髪が伸びること、爪が伸びること、襤褸(ぼろ)を羽織る手足が少しずつ伸びていくこと。それはすべて数えている「時間」の経過の具現に過ぎない。積まれていく「時間」がなにを意味するのか、どうしてここにいるのか、自分は誰なのか、どこにいたはずなのか、なにをしているのか。考えることはやめた。必死で考えることをやめた。胸に絡まる言い知れない不安のむこうに、辛さや寂しさを見つけてしまわないように。

 近づく足音がした。
(しごと…)
 条件反射で立ち上がり、重い足を戸へ向ける。薄い木の戸に手をかけるより先に、戸は外側に開いた。
 キィ、と音を立てた。
「やっと見つけたわ」
「───」
 刺すような光とともに、その人は現れた。いつも呼びにくる人間とは違う。服装も言葉も、向けられる表情も。
 光は脳裏を焦がすほどで思わず手を翳した。
 4秒後に体勢を戻したとき、さらに鋭い視線に射抜かれた。その痛みに息を呑んだほど。
 11秒後、それはふっと優しい笑顔に変わった。笑顔を笑顔と認識したのは本当に久しぶりのような気がする。
「…(だれ?)」
「私は桐生院由眞(きりゅういんゆま)。あなたを探していたの」
「(どうして?)」
「私の息子の子だから」
「…?」
「ここの連中と話は付いるわ。さっさと帰りましょう、日本へ」
 そう言って差し伸べられた細く白い手の先には、しなやかな指がすらりと伸びていた。
 その数は5本だったけれど───もう、数えることは忘れていた。







 10ヶ月後───
 藤子はマンションの一室から、窓の外に広がる都心の景色を眺めていた。
 すぐ下には幅の広い川がゆっくりと流れている。ビルのあいだを太くゆるやかに南へと流れる。そしてこの窓からは海も見える。川が流れ着く場所だ。キレイとは言えない色の海、海を埋め立てて建てた港。誉めるような景観ではないが藤子は好きだ。コンクリートカラーの建造物と赤いクレーンが並ぶ倉庫街の景色はどこか乾いている。その乾燥感が好きなのだ。
 地球上のすべての川は海へ繋がるらしい。
 狭いこの国の地形では川の長さなどたかが知れている。それでもどこか高地で生まれたひとしずくが、さまざまな風景のなかを漂ってくる。いつ辿り着くかわからないまま、海という終着点を目指して。
 視線を上げると遠く都心のビル群が見えた。その隙間に夕日が堕ちていく時間。西日が港を照らし、この時間だけは海も赤く染まった。
 とても短い一日がまた終わる。
(やっぱり、だめ、か)
「由眞さん」
 窓の外を眺めたまま、藤子はぽつりと呟く。
 ここは由眞のオフィス。東京は晴海、川沿いのマンション。すぐそこに東京湾が見える。藤子は放課後になると制服のままここへ訪れて、窓から景色を見ていることがよくあった。
「なぁに?」
 デスクで仕事をしていたはずの由眞はすぐに声を返してくれた。キーボードの音は絶えず聞こえてくる。
「あたし、働く」
「学校はもう飽きた?」
「ううん。ただ、なんか違うなって」
「そう。で、なにをするの?」
「前と同じ仕事」
 少し遅れてキーボードの音が止まった。
 藤子は沈む夕日を見続けている。


 初めて「仕事」をした日のことを、今でも覚えているよ。
 長く続く(みち)を見つけたの。それを境に生きることが少しだけ楽になった。
 今から歩くその径がどう終わるのか、同時に解ってしまったから。


 この生は大海を目指す川の流れと同じ。
 終わりへと向かわなきゃいけない。そのためには、居心地の良い教室で、気の良い友人達と歩幅を合わせているわけにはいかなかった。
 目の前の(みち)を無視できなかった。その先からなにかが呼んでいるみたい、惹かれてたまらない。径がどうやって終わるのかももう知っている。それを見るために行かなきゃいけない。歩かなきゃいけない。歩いて、終わりへと向かわなきゃいけない。
 この日だまりの空気のなかを。
 長く遠い、孤独な道程を。










3.キラーの恋

 やっと見つけた
 刺すような光とともに、その人は現れた。


*  *  *


 藤子はショッピングが好きだ。もっと正確に言うと服が好きなのだ。自分に似合う服を選ぶのは手間だけど出会えたときは声をあげてしまうほど嬉しい。さらにその服を着て、頭からつま先まで身につけるものを服に合わせて、見立てどおりキメられたときは、なにか勝負に勝ったような達成感がある。出掛けることも楽しくなる。だから服に合わせて髪もいじるし、コスメも遊ぶし、アクセサリーもつける。
「似合ってないわよ、派手なだけじゃない」と、いつもの毒舌で由眞は言う。「派手なのがあたしの信条なの!」まぁ、約40歳差がある由眞と服の趣味が合うとは思ってないが。
 藤子はサイフが許す限り高額な買い物もするけどカードは使わない。いつもすべて現金で支払う。カードを持たない理由は、藤子が携帯電話のメモリ機能を使わない理由と同じだ。足跡を残さないためである。同じ理由で、電車の定期券を持たない。切符は時間差をつけて買う習慣がついている。発券時間から追跡されないためだ。そしてできるだけ有人の改札を目立たないように通る。それらの行動は日常のことだった。
 その日も藤子は駅に着いてすぐ切符を買った。その後、いったん駅を出てファーストフードで朝食を済ませ、約1時間後に改札をくぐった。街に出て、馴染みの店をいくつか回ったあとのことだった。
 突然、腕を捕まれた。
 人目の多い昼間の街中でのことだ。藤子は最も少ない動作で身構える。が、それは解いた。(あ、好みの顔)と思ったからではなく、相手は明らかに素人だったからだ。
 大学生くらいだろうか、男は息を削っていた。
「やっと見つけた」
「───」
 その一言に、藤子は弾かれたように目を見開く。予測もしなかった台詞に表情を整えることさえ忘れた。
「おまえだ、間違いない」
「…え?」
「なんでやったッ?」
「は? なに?」
「なんで伯父さんをっ」
 男は言葉に詰まる。藤子はわけがわからないまま、目の前の男を観察していた。気を取り直したのか男は乱暴に藤子の手を取り、ずんずんと歩き出した。
「行くぞ」
「ちょっと待ってよ。どこへ? デートの誘いにしては強引すぎない?」
「ふざけるなっ、警察に決まってるだろ」
「あんた補導員? あたしは学生じゃないよ、連れて行かれる理由はない!」
「しらばっくれるな、この人殺し!!」


 そのとき藤子は意図せず笑ってしまった。胸があたたかくなった、その幸福感に。
(とうとうきた)
 そう思って胸が弾む。切ないほどの喜びに少しだけ涙が滲む。
 まっすぐに向けられた敵意に期待した。男の目が表す剥き出しの憎しみが快感でさえあった。今すぐ抱きつきたかった。(やっときてくれた)長く待っていたものがやってきてくれたこと、憎しみを携えて探し続けてくれたことが何よりも嬉しい。
 けれど。
(警察、ね)
 復讐者と認めるには少々資格が足りないようだ。





 独特な空気だった。湿度が高い所為かなんとなく空気が重い。沢山の人が行き来しているのに、街中のような自分を無視してくれる喧噪はなかった。喋り声は小さく聞こえるだけで足音が大きく聞こえる。ほとんどの人はこちらを見ていないはずなのにどこか見張られているような感じ。
 ロビーに入ったとき、藤子はそんな感想をもった。
 警察署と呼ばれる場所。
 そこに受付の職員が一名、刑事らしい若い男が一名(受付のほうは制服を着ていた。刑事は私服だ)。そしてさっき捕まえに来た男と藤子が、警察署の玄関先で顔を突き合わせていた。
「で、どうしてあたしはここに連れて来られたんでしょーかー」
 藤子が不満げな声をあげると、
「…っ」
 ぐっと胸ぐらを掴まれた。胸ぐらを掴まれるのは初めての体験だった。
 男の腕は怒りで震えていた。
「俺の伯父は半月前、おまえに殺されたんだっ」
 喉が掠れて悲痛な声だった。その声は玄関ホールに響き渡り、幾人かが振り返っている。
「…は? え? なんであたし!?」
 藤子は非難より驚きを表して言い返した。
「窓から逃げるおまえの顔を見たッ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。マジなの? 冗談じゃなく? …ていうか手ぇ放して! 服が伸びちゃうじゃん!」
「しらばっくれるなッ! なんで…、どうして伯父さんを…っ」
「きゃっ」
 乱暴に突き放された。よろけた藤子を若い刑事が支える。
「おい、君っ」
 刑事の言葉には耳を貸さず、男は藤子を鋭く指さした。
「こいつは殺人犯です。さっさと死刑にしてください」
「コラ!」
 刑事は強い声で男を諫めた。
「俺が見た犯人の風貌は何度も説明してるじゃないですか。この女がそうですよ」
「いいかげんにしなさい」
 若い刑事が一喝すると、やっと男は黙った。しかしその表情は不満を隠していない。
「あのね」と、若い刑事が藤子に声をかけた。「ごめんね。少しだけ話を聞かせてくれる?」
「なに? 話って」
 藤子は不機嫌な様子で答える。
「世間話と思ってくれれば」
「別にいーけど。暇だし」
「おまえッ!」
 掴みかかってくる男を藤子から引きはがすように若い刑事が割り込む。
「ともかく君は先に帰って、なにか判ったら連絡するから」
 なおも男は叫んだ。
「こいつです、間違いありませんッ」
「わかったから」
 刑事と職員によって藤子と男は引き離される。藤子は通路の奥へ、男は玄関へ。
 藤子がちらりと振り返ると、男はまだあの敵意の目を藤子に向けていた。
 若い刑事に付いて通路を進む途中、別の刑事とすれ違った。一瞬、目が合う。しかしお互いすぐに視線を外し、そのまま通り過ぎた。

 事情聴取といっても取調室には連れて行かれなかった。室内の端っこの事務机の隣に椅子を用意されてそこに座るよう言われる。その程度の扱いらしい。ちょっと待ってて、と言ったさっきの若い刑事が事務机にすわりパソコンに向かっている。お茶を出されたけど、藤子は二度は口をつけなかった。
 刑事が藤子に向かって言う。
「彼ね、伯父さんが殺されてるんです。犯人を見たらしくて、ずっと探し回っていたようなんだ。あぁ、どうやら君みたいな若い女の子らしい」
「あたしが殺したっていうの?」
「彼はそう言ってるね」
「冗談じゃない」
「まだ決まったわけじゃないから」
「あたりまえよ」
「君、名前は?」
「國枝藤子」
「くにえだとうこさん、ね」
 キーボードを軽く打つ。藤子からモニタは見えないが、藤子の名前を打ったのは明白だ。
「…えっ!?」若い刑事が勢いよく顔をあげる。モニタと藤子の顔、交互に視線を走らせた。
「はい?」
 藤子はにっこりと笑って返す。
「あ…、えっと、学生さん?」
「中退して、今はフリーター」
「ち、ちょ、ちょっと待ってて」
 慌てた刑事はガタガタと音を立てて席を立つ。机から離れようとしたが、2歩進んだところで戻ってきた。またキーボードをいくつか叩いたあと、改めて部屋の奥へ駆けて行った。
 最後の動作はパソコンにロックを掛けたかログオフしたのだろう。藤子は舌打ちする。期待したほどには間抜けではないようだ。それにしても。
(さすがに、名前くらいは知られてるか)
 なんだかんだ言っても警察は優秀である。迷宮入り事件は数あれど、容疑者がゼロだった事件はないのだ(容疑者といっても冤から確まであるが)。ここ数年で台頭した國枝藤子の名前くらい、警察だってもう知っているだろう。
 藤子自身は現場に証拠を残さない。足跡もサイズが違うし、指紋も残さない、体毛が落ちないよう特殊なスプレーをかけてる。現場のセキュリティ種別や防犯カメラの位置もチェックしてる。凶器は置いてきているがそこから身元がばれるようなことはない。───何も、偽装が完璧である必要はないのだ。國枝藤子を特定できる証拠があっても、國枝藤子ではありえない証拠を残しておけばいい。あとはアリバイ屋の工作と警察の調査能力、どちらが上回っているかだ。
 捕まるかもしれない、とはいつでも覚悟している。ただ捕まらないための最大限の努力はする。自首もしない。警察次第なのだ。藤子はその結果が突きつけられるのをただ待っていればいい。気楽なものだ。
 まずは、同一人物とみるか同姓同名ととるか、それはこれからの駆け引きしだいだ。藤子は楽しみにしている。
「國枝藤子さんだって?」
 コワモテのおっさんが現れた。顔の割りに言葉は穏やかだ。ただ目は鋭い。
「いや〜、どうも。はじめまして」
 と、藤子の目の前に座る。
計良(けいら)といいます、ヨロシク」
「あんまり警察とよろしくしたくないです」
「まぁまぁ。さっきの、彼の伯父さんが殺されたって、聞いた?」
「さっき」
「半月前なんだけど」
「あのね、だいたい、さっきの人のおじって誰? あたし、さっきの人もそのおじさんって人も知らないんだけど」
「うーん。もっともだ。でもそれは教えられないな。もし國枝さんが犯人だったら、彼に口封じするかもしれないだろ」
「じゃあ、あたしはなんの事件かも知らないまま犯人扱いされて、取り調べ受けるわけ?」
「犯人とは言ってないよ」
「あたりまえ!」
「ま、もっと気楽に考えて、おじさんとお喋りしてくれよ。半月前の6月19日の夜9時頃、なにやってた?」
「…おぼえてるわけないじゃん」
「だよなぁ」
 藤子は少し考える仕草をして、バッグから手帳を取り出す。6月19日。日付を数える習慣はないがメモは残っている。"J町 ケイコライヴ8時"と走り書きがあった。
「そうそう! でもコレ、整理券取れなくて。結局、ファミレスでごはん食べて帰ったんだ」
「ファミレスってどこの?」
「デニーズ。駅前の」
「何時から、何時までいた?」
「8時すぎに入って〜、10時回ったかな?」
「ずいぶん長いな」
「文庫本読んでたから。1冊、読破しちゃった」
「それが本当かどうか、一応調べさせてもらってもいい? 事件のほうは被害者の甥の目撃証言があるわけだからさ」
「それだけで調べられるの?」
「まぁ、ほとんどは地道に聞き込みだけど。レシートなんか残ってると楽かな」
「う〜ん、…たぶん、捨てた」
「なに食べたか憶えてる?」
「マンゴーのパフェは食べた。新メニューだったから」
 計良刑事は口端で笑った。
「なにかわかった? 刑事さん」
「うん、まぁ。ずいぶん都合のいいアリバイがあるなと思ってな」
「そう? こんなもんじゃない?」
 そうかい、と藤子の顔を覗き込む。
「もうひとつ、その次の日の夜はなにしてた?」





「ふはぁ〜」
 とすん、と長椅子に倒れ込む。取り調べから解放され、藤子は警察署のロビーで一息吐いた。だらしなく手足を伸ばして浅く腰掛ける。
 取り調べでは事件の夜にどこでなにをしていたかを一通り訊かれた。しかも同じことを何回もネチネチと。これは警察の常套手段である。何度も訊くのは、証言に一貫性があることの確認で、さらには矛盾が生じるのを誘っているのだ。別の日のアリバイを訊いたのは、明かなアリバイが他の日にもあるのか、当日のものが用意されたものではないかを確認したのだろう。もちろん、その程度で穴を空ける藤子ではない。憶えていることを不自然ではない程度に教えてやった。
 これから警察が裏を取るらしい、ご苦労なことだ。藤子はもう一度溜め息を吐いてから、自販機で買った紙パックのいちごジュース(果汁0%)にストローを刺した。
 ちるちると音を立てて飲んでいると、背中合わせの背後の椅子に人の座る気配がした。ややあって、憶えのある煙草の匂いが漂ってきた。
「なんかヘマしたのかい」
 背後からのひそめた声に、背中合わせのままの姿勢で答える。
「顔見られてたみたい。あたしは憶えてないんだけど」
「ありゃ、待先昭光の甥だ」
「…あー、そっか、そういえばあのとき」
「どうせ証拠なんて残してないんだろう。捕まる気がないならここへは来ないでほしいなぁ。1課の連中にあまり恥をかかせてやるな」
「はーい。1課の計良くんにはこれから気をつけます」
「しばらく尾行がつくよ」
「わかってる」
「待先のおぼっちゃんにも接触しないことだ」
「うーん、それはイヤ」
「何かあるのか?」
「恋」
「………」
「なんで黙るの」
「………」
「ねぇ、木戸くん。あのおぼっちゃんは、復讐心に乗じてあたしを殺せると思う?」
「無理だ。そんな度胸は無い」
「やっぱ、そっかぁ」
「おぼっちゃんのことは俺は知らん。ただ、計良さんは遣り手だよ。“始末屋・國枝藤子”もそろそろ潮時か?」
 ちる、とストローを吸う。
「潮時なんてないよ。あたしが足を洗うのは、あたしが死ぬときだから」
 背後の気配は腰を上げて煙草をもみ消した。その後、何も言わずに足音が遠ざかっていく。藤子はいちごジュースを最後まで飲んでから警察を後にした。









4.ヒトの殺し方

 警察署から裏が取れたという呼び出しを受けた。出頭してみれば相手はあの計良刑事だ。
「國枝さんのアリバイは確認できたよ。一番の決め手は、ライヴの券を取り損ねたときの係員の証言だな。人相と服装も一致してる」
「あたしは最初からそう言ってるんだけどねぇ〜」
「まぁ、気を悪くするな。…そうそう、先日も思ったけど、國枝さんって目立つの好き?」
「なにそれ?」
「いや、服装とかさ」
「個人の趣味に文句ある?」
「いや、ライヴの係員も、派手な格好だから憶えてたって言ってたから」計良は不敵に笑う。「だから、そのために目立つ格好してるのかな、と思って」
「意味わかんないんだけど」
「まぁまぁ。ああ、今日はもういいよ。ご苦労さん」
「そちらもご足労、ご苦労さま」
「いやいや。今回は國枝藤子さんの顔を拝めただけでも大した手柄だよ」
 藤子と計良はしばらく見つめ合った。
「───刑事さん」「ん?」「もしかしてあたしに気がある? でもだめ、あたし、今、好きな人いるから」
「そりゃ残念だ」
 計良は最後に笑ったあと、藤子に言い添えた。
「これからヨロシク」

 警察署を出るとほんとうに丁度、被害者の甥が息せき切って到着したところだった。自動ドアからピロティに出てきた藤子に気付くと途端に表情が険しくなった。「おまえ…っ」
 すでに警察から連絡が行ったのだろう。その表情は、藤子が釈放されたことを知っているようだ。
 藤子はにやりと意地悪く笑って大きく手を振る。
「出迎えご苦労! 復讐くん」
 男が目の前まで来るのを待ち、視線を合わせると藤子は挑発するように笑う。そしてそのまま男の横をすり抜ける。すると男はあとをついてきた。藤子は上機嫌だ。
「警察になに言ったんだ? どんな言い逃れを」
 藤子は早足で歩く。すぐ後ろからの質問にも歩きながらそっけなく、しかし楽しそうに答えた。
「人聞きの悪いこと言わないでくれる〜? アリバイってやつがハッキリしてんの、復讐くんのおじさんが殺された日、あたしはJ町のライヴ行ってたもーん」
「嘘だっ」
 背後からの悔しそうな声に、藤子は声もなく笑う。
 男の声には明らかな怒りが含まれている。
 揺るぎない敵意、捨てられない憎しみ。それを向けられることを、藤子は待っていた。
「そう! ウソなんだ」
 突然立ち止まり振り返った藤子に驚き、男も足を止める。藤子の台詞を理解するには時間がかかった。その時間を無視して藤子は喋り続ける。
「アリバイ屋さんっていうのがいてね、あたしと似たような風貌の子にあたしの服を着せて別の場所で遊ばせておいてくれるの。そのあいだの会話はもちろん周囲の音も録音してるし、居場所も報告される。そりゃもちろん100%安全ってわけじゃないけど、不特定多数の目撃証言があるんだもん、他のなにを持ってこようとも、状況証拠は成立できないわけ」
 男は目を見開き藤子を見下ろしている。説明を理解できているかは謎だ。
「だいたいねぇ、証言だけで逮捕させようなんて復讐くんも甘いんだよ? あたしみたいなか弱そうな女の子を突き出して人殺しですーなんて、誰が信じると思う? せめて現場の物的証拠を持ってこなきゃね」
 藤子の表情はよく動く。違和感を感じるほどに。
「警察があたしを捕まえられないのはしょうがないの。日本の法律はぜんぶ、“疑わしきは罰さず”が基本原則だから。偽装されたら、それを崩すか証拠を見つけなきゃいけないの。あたしは証拠なんて残さないけど。この商売、捕まらないことも信用のソース。偽装はあたりまえ」
 そこで男ははっとした。
「…商売? 仕事、なのか?」
「あ、言ってなかったっけ。あたし自身はきみのおじさんに私怨はないよ。しがない雇われ始末人」
「…誰が? 誰が伯父さんをッ!?」
「それは死んでも教えません」
「どうして…?」
 独白のように口に出た疑問は、“死んでも教えない”理由を請うものではない。
「伯父さんは立派な医者だった。いつも仕事のことを考えていたし、子供たちのことを真剣に悩んでいた。あんないい人を、こ…殺すよう依頼した人がいるのか? だとしたら、そいつのほうがおかしい! 間違ってる…」
 やれやれ、と藤子は肩をすくめた。
「依頼人とターゲットの善悪はどうでもいいの。他人の人格を査定できるほどあたしは高尚じゃないもん。どっちにしろ、復讐くんのおじさんが他人から殺したいほど憎まれてたのは事実だし」
「そんな…」
 呆然とする男を見て、藤子は苦笑する。
 この男に期待したのは見込み違いだったかもしれない。こんな善人も珍しい。
「あのね。ここまで喋ったのは、復讐くんが録音してないからだよ」
「!」
「もう遅い。次に復讐くんが準備してきてもあたしは間違っても口を割らない。ついでに、今、あたしたちに尾行がついてるけど会話が聞こえる距離じゃないし」
 尾行と聞いて男は身体を強ばらせた。が、あたりを窺うような真似はしない。前言撤回、少しは見所がある。
 男は視線を泳がせたあと、藤子の顔を見てわずかに表情を歪ませた。
「警察に捕まるのが怖いのか」
 皮肉か挑発のつもりだろうが藤子は相手にしない。
「もちろん怖いよ。あたしの一生は短いんだよ? 無駄な時間は1秒でもつくりたくない。───復讐くん、おじさんが殺された復讐をしたいの?」
「復讐したいんじゃない。許せないだけだ」
「おじさんを殺したあたしが、のほほんと街中を歩いていることが許せない?」
「ああ」
「刑罰を与えられず、己の罪を忘れたかのように奔放に振舞っているのが気に食わないわけだ」
「ああ」
「じゃあ訊くけど、あたしが警察に捕まったら許せるわけ?」
 男は言葉に詰まった。藤子はたたみかける。
「許せないでしょ? あたしに殺しを依頼してくるのも、そういう人たちなの」


「ほとんどは怨恨。しかもあたしのところにくるのは立証できなかったケースが大半。警察や法律はなにもしてくれない、加害者は罪を隠して日常をいつも通り生きてる。警察に捕まえてもらっても気が済まない、たとえ死刑になったって許せない。許せないって解ってるけど、自分の気持ちが晴れるわけじゃないって解ってるけど、それでもどうしようもない気持ちを抱えてあたしのところにくるの。あたしはそういう人たちに応えてるだけ」
「自分に罪はないとでも?」
 あからさまに責められて藤子は困ったように、まさか、と笑う。
「だから、ね? 覚悟してるのよ。これでも」
「じゃあ、おとなしく捕まれよ」
「やーだ。さっきも言ったじゃない、無駄な時間を過ごすのは嫌なの。刑法199条、“人を殺した者は、死刑または無期、もしくは五年以上の懲役に処する”…人を裁くって時間がかかるんだよねぇ。今すぐ死刑っていうなら捕まってもいいけど」
 藤子は「あ」となにか思いついたように顔を上げた。
「ねぇ、復讐くんならあたしを殺せる? それこそ正当な復讐じゃない?」
「───」
 言葉もない男の顔を覗き込む。
「警察に捕まってあげることはできないけど、復讐ならいつでもどうぞ。ただし殺すんだよ? それ以外は受け付けない。───いつでも覚悟してる。こんな仕事だもん」
「…」
「さぁ、やってみて?」
 藤子は男の前で無防備に目を閉じる。男は動けなかった。藤子は長い時間じっと待っていた。
「他人を殺すって、意外と難しいでしょう?」
 やがて目を開けた藤子が言った。
「ねぇ、どうやって殺そっか。いろいろあるよね。車で轢く? 屋上から突き落とす? 駅のホームで背中を押すとかー、うん、そういうのは比較的ラクだよね」
「刃物で刺す…とか?」
「そうそう。でも素人にはおすすめできないなぁ、ヘタしたら自分も怪我しちゃうし。…おっと、そのまえに偽装するかしないかを決めなきゃだめか。あたしの理想としてはそんなの考えて欲しくないけど、それは当人の復讐心しだいでどちらでも。でもなにより先に普通のひとはまず感情論。罪を犯すという罪悪感、同類(ヒト)を殺すという本能的嫌悪」
 藤子の声は少しずつ抑えたものになっていく。
「自由を奪われて刑に服す時間、家族や友人にかける迷惑を考えると、怖いよね。復讐っていうのは、人生の大半を捨てるようなもの。よほどの覚悟が必要ってことなの」そして抑えて笑った。「どうせ復讐くんには、そんな覚悟はないんでしょう?」
 パンッと高い音が響く。
 平手で叩かれた勢いで、藤子はよろめいた。
 男は息を乱し、藤子を睨み付けている。
「───わかった?」
 頬を押さえたまま向き直り不敵に笑う。「所詮、君の復讐心なんてその程度よ」
「!」
「人殺しという罪を被りたくないでしょ? 警察に捕まって社会的信用を失うのが怖いの。自分の保身のためには身内の(かたき)にさえ手を掛けられない、うん、誰でもそうよ? だから警察に任せるの。法に任せて復讐を果たしたつもりになるのは、自らの手を汚したくない人間の逃避なのよ」
「ちが…っ」
「法が人を裁くのは許すため、そして許されるため。刑に服すのは、それでチャラにするってこと、みんなで忘れようってことでしょ? だけど、ほとんどの被害者は、復讐くんと同じようにそれで納得できるわけないのに。それなのに、加害者が裁かれてしまったらそれ以上なにもできない。いったい、そうすることで誰が幸せになるんだろ」
 男は答えられない。
「復讐くんはあたしのこと許せないなんて言っておきながら、結局、なにもできないじゃん。自分の手をくだせないなら他人の手を借りる方法だってある、でもそれもしない。それだったら、あたしの依頼人のほうがよっぽど覚悟と行動力がある、尊敬できる人間」
 もう一度、男の平手が飛んできた。しかし藤子は軽々と払う。
「二度は殴られてあげない」






 由眞のオフィスに来客用の椅子はない。部屋の中央に由眞のデスクがあり、他には調度品があるくらいで室内は閑散としている。隣の部屋から椅子を持ってきなさいと由眞は言うけど、藤子は由眞のオフィスの窓からの景色が好きだった。それなので今日も窓際に立ち、窓の外を見ている。
「なにかいいことでもあったの?」
 由眞が訊いた。
「え? なんで?」
「さっきから笑ってるから」
 藤子はきょとんとする。しかし思い当たることはある。自覚もある。はにかんで笑った。
「あたしの中では由眞さんが一番なんだけど、でもいま、あたし、恋してるみたい」
「そう、素敵ね」
「だって、この人になら殺されてもいい、ってすごくない?」
 それは恋心とはいえない、と由眞は言おうとしたがやめた。恋心の定義など人それぞれだ。
 そして、藤子がそう思うのは相手が復讐者だからだ。それも普通の恋愛感情とはまったく違うのだが、藤子に区別はできない。
「そういうわけで、早速、明日、ゲットしてきます! 報告は後日に!」
 藤子は敬礼して宣言すると、由眞のオフィスから出て行った。








5.殺し屋の資質

 幼い頃から慕っていた伯父が死んだ。
 他殺だ。暗闇のなか逃げる人影を見た。停電が解けて、見た、床の赤い褥。それから、伯父の胸から生える銀の茎。悲鳴。
 犯人の顔を見た。若い女だった。警察に言っても信用されない。だから自力で捜し出して警察に突き出したんだ。しかし、警察は犯人を釈放した。証拠が無かったからだ。
 犯人は殺し屋だった。依頼されて伯父を殺したという。
 伯父は誠実で頼れる人だった。尊敬していた。その伯父を殺したいほど憎んでいる人間がいたなんて!
 人殺しは笑う。
「あたしを殺せる? それこそ正当な復讐じゃない?」
 復讐は考えた。殺してやる、とも思った。しかしそれは一瞬のことだったように思う。それらはすぐに「捕まえてやる」という思いに変わった。勢いに任せてでもそれを実行したら自分が人殺しになってしまう。
「法に任せて復讐を果たしたつもりになってるのは、自らの手を汚したくない人間の逃避なのよ」
 そうかもしれない。しかし法治社会とはそういうものだ。それがこの世界のルールだ。安定の仕方なのだ。
「人を裁くのは、許すため、そして許されるため。刑に服すのは、それでチャラにするってこと、みんなで忘れようってことでしょ。だけど、ほとんどの被害者は復讐くんと同じようにそれで納得できるわけないのにね」
 その通りだ。あの人殺しが警察に捕まっても許せるはずない。裁かれ、刑に服してもこの憎しみは収まらないだろう。
 ───…だから忘れるんだ。
 たぶん、世の中はそういうふうにできている。
 犯罪者が社会のルールによって裁かれることによって事件は一旦の解決を見る。そこで忘れなければいけないんだ。
 たとえ少しずつでも、忘れていかなければいけないんだ。
 悲しみを忘れなければ、今頃世界は憎しみで満ちている。
 人間は忘却するもの。そうすることで、世の中は憎しみに包まれることなく安定していくのだろう。

 今回は結果的に警察は捕まえることができなかった。そして自分自身も、もう、何もできない。3週間前、絶対捕まえてやると誓った自分を裏切ることになる。そのやるせなさだけが残る。
 結局、伯父のために自分の人生を棒に振ることができないということだ。伯父はそれはあたりまえだというかもしれない。それでも、人殺しを追おうとしたときの自分の覚悟がその程度のものだ思い知らされて溜息がとまらなかった。この言いようのない虚しさも、いつか忘れることができるだろうか。
「こんにちはっ」
 突然、視界に人殺しが現れた。
 場所は大学の構内。もちろん、人殺しはここの学生ではないはずだ。どうやって調べたのだろう。
 派手な格好をしていた。ピンクで統一された服で、周囲から異様に浮いていた。何人かが振り返っていく。
 もう関わり合いたくないので無視して歩き出すと人殺しは後をついてきた。
「あ、待ってよ」
「まだ殴られ足りないのか」
「衆目の前で女を殴る度胸もないくせに」
 その言いようにむかついたがどうすることもできない。人殺しはなおも並んでついてくる。
「今日は尾行ついてないよ。 復讐くん、あたしへの疑いを早く取り消して警察のストーカー行為やめさせてよ」
「一生、見張られてろ」
「ばかだな、警察もそんな暇じゃないって。───ねぇ!」
 ぐい、と袖を引かれた。払おうと思ったがそんな気力もない。必然的に足を止めることになり、人殺しに向かって立った。
「…なんだよ」
「あたしのこと恨んでる?」
 真っ直ぐ目を見て訊いてくるのでそれに答えてやった。
「ああ」
「あたしが死ぬところ見たい?」
「…わからない」
 1週間前の自分ならば迷いなく頷いていただろう。けれど今は、そんなことを考えたくなかった。
「なによぅ。テンション下がるなぁ」
 人殺しは不満げに言う。
「あたしのこと恨んでるんでしょう? じゃ、あたしと付き合おう?」
「───」
 さすがに絶句してしまった。
「…は?」
 人殺しは熱心に喋った。
「あたしは警察には捕まらない。そして復讐くんはあたしに手をかけられない。でもね、あたしがこの仕事を続ける限り、あたしを殺したいと思う人はこれからも現れるよ。あたしはいつか殺される。復讐くんと同じ恨みを持つ誰かに。一緒にいればあたしの最期を見られるよ? だから付き合おう? ね? あたしのそばにいなよ」
「…」
 どうしてか、車に酔ったような感覚があり返事が遅れた。
「おまえの顔なんか見たくもない」
「つれないなぁ。あたしはキスもハグもセックスもしたいと思ってるのに」
「ふざけるな」
「ふざけてない。あたしは復讐くんのこと好き、だから一緒にいたい。復讐くんはその気になったら闇討ちできるんだよ? それができなくても、あたしの最期が見られるよ? 悪い条件じゃないでしょ?」
 自分たちはいったい何の話をしているのだろう。周囲に人が行き交う学校のなかで、景色は変わらないのにまるで別の場所に飛ばされたかのようだ。
 目の前の人殺しは“あたしを殺せば?”と言う。それができないなら恋人になって最期を見届けろと。その気になったら殺せばいいと。
 ただの不幸に酔った死にたがりは嫌いだ。関わり合いたくない。
「…死にたいのか?」
「まさか」
 目の前に立つ女は楽しくてしかたないという顔をしている。
 なにかがおかしい。
「恐くないのか?」
 女はびっくりする。
「なに言ってんの? 人殺しが死を恐れてどうするの?」
 まただ。気持ちが悪くなる。この人殺しを相手にしていると、ときおり世界が歪んだようで目眩がする。
「…毎回復讐を覚悟してまで、その仕事をしている理由はなんだ?」
「“天命を知る”」
 意外にも人殺しはちゃかさずに答えた。
 天命を知る───天に与えられた使命。
「これ、あたしが好きな言葉。…前に言ったよね。人を殺すことは難しい。心情的なこと、その手段も。───でも、あたしはできる(・・・)から。だからやるの」
「…」
「わかってもらえた?」
 わかる日がくるとはとても思えない。
 答えないでいると、急かすように人殺しは言う。
「ねぇ、あたしを憎しみ続けるおまじない」
「?」
「復讐くんのおじさんは、復讐くんのこと何て呼んでた?」
 伯父とは幼い頃から付き合いがあった。物心付いたときから呼ばれていた愛称がある。恥ずかしいからやめるよう訴えたこともあったが、伯父は最期の日までその愛称を遣い続けていた。
 質問の意図がわからないまま答える。
 人殺しは意表を突かれたような表情のあと、破顔した。
「これからよろしく。“(はる)ちゃん”」

 北田千晴(きただちはる)は大きく顔を歪ませた。
 照れたのでも恥じたのでもない。全身を嫌悪感に襲われたのだ。人間をおぞましいと感じたのは生まれて初めてだった。
 千晴はこれからそう呼ばれるたびに伯父の死を思い出すだろう、そして同時に復讐心を呼び起こさずにいられないのだ。
 人殺し曰く、「あたしを憎しみ続けるおまじない」。
 忘れさせないための手段なのだ。
 その笑顔に底の見えない違和感を覚えた。この女はおかしい。普通でないことは解っていたはずなのに。
 普通の神経の持ち主なら人殺しなどしない。しかし今それ以上に戸惑うほどの違和感がある。
 今、千晴の視界に映ってる人間のなかで、人間を殺せるのはこの女だけだ。
 もし他にいたとしても、人間を殺して笑っていられるのはこの女だけだろう。
 人殺しはなおも笑う。
「あたしは國枝藤子。乙女座のA型、趣味はオシャレと街をぶらつくこと、特技はダーツ。職業は殺し屋ですっ」








6.Killer and Angel

 桐生院由眞は取引先の会長婦人に招待された会食に出かけるところだった。午前11時、マンションの前に停められた車のリアシートに落ち着く。時間は少し押していた。会場への到着はギリギリだろう。といっても、この先の時間配分は運転手と秘書の仕事だ。由眞は今日のような退屈な催しをいかに有益な仕事に繋げるかを考えればいい。
 秘書が外からドアを閉めようとしたときのことだった。
「あ、待って待って! 由眞さん!」
 覚えのある声を聞いて、由眞はちらりとサイドミラーに目をやった。國枝藤子が歩道を走ってくるのが見える。
「由眞さん!」
 走ってきたままの勢いで藤子はリアシートに上体を乗り込ませてきた。由眞は視線を前に向けたまま言う。
「今日は時間がないの。急用なら乗りなさい」
「すぐ済むから! ね、この前言ったでしょ? あたしのカレシ」
 そこで初めて由眞は藤子のほうを見た。少し遅れて歩いてくる青年の姿があった。
「…あぁ。北田くんね」
「由眞さんに紹介したくて。あたしとお付き合いしてる晴ちゃんです」
 由眞は秘書にひとこと添えて車を降りた。無愛想な青年が藤子のとなりに立つ。その腕に両手を回してはしゃいでいる藤子。その若いカップルを前にして由眞は溜め息を吐いた。
「はじめまして。桐生院由眞です」
「北田、千晴です」
 挨拶を返すくらいの愛想はあるようだ。
「藤子と付き合ってるの?」
「そのようです」
「物好きね」
「同感です」
 淡々と答える北田に由眞は眉を顰めた。
「適当なところで手を引きなさい。あなたの貴重な時間が無駄になるだけよ」
 北田は態度を崩さない。
「復讐とはもともと無駄なものでは?」
「…そうね」由眞は目をそらすように視線を隣りにずらす。「あなたの行動を制限する気はないけれど、他人を巻き込むのは感心しないわ。北田くんにだって危険は付くのよ?」
 藤子はいつもの調子で笑う。
「だいじょうぶ。晴ちゃんには手を出させない」
「藤子」
「ごめんなさい、由眞さん」
 謝る藤子に踵を返して由眞は車に乗り込んだ。「北田くん、いいわね、年寄りの忠告は聞くものよ」
 運転手に車を出すように指示する。ドアが閉まり、すぐに車は走り始めた。
 ミラーを覗くとふたりは由眞の車を見送っていた。藤子は笑いながら手を振っている。
 その歪んだ恋人たちを見て、もう一度深い溜め息を吐いた。
(私では、無理)
(好きな人ができても、それでも駄目なのね……)
 由眞は真剣に憂う。
(一体、なにが、あの子を変えてくれるかしら───?)






 藤子は自分名義の住まいを3つ持っている。毎日帰って寝泊まりしている部屋はそのうちのひとつだ。
 1DKの部屋の内装は藤子の趣味を色濃く反映している。壁紙は白だがそれ以外はピンクとオレンジが基調。一番大きな家具はベッドで、そのカバーもピンク地に大きな薔薇が刺繍されている。
 しかし、そのベッドは一度も使われたことがなかった。
 藤子は横になって眠る習慣がない。
 一日の睡眠時間は3時間を切る。かといって、眠る暇がないわけではない。睡眠という無防備な状況に身体が長時間耐えられずに、自然と目が覚めてしまうのだ。寝るときはいつも、ベッドの横で、膝を抱えて、毛布を肩にかけて眠る。由眞と会う前の習慣がそのまま残っていた。藤子がベッドで眠るのは北田千晴の部屋に泊まるときだけだ。
 はじめて千晴の部屋に泊まった夜、「横になって眠るなんて、10年ぶりくらいだよ」と言ったら千晴は目を丸くしていた。
 今日も、毛布をかぶりベッドの横で膝を抱えて眠る。暗闇のなかで藤子はそうやって朝を待つ。冷蔵庫の音と時計の音だけが、夜の静かな空気を揺らしていた。
 ふと、藤子は気配を感じて顔を上げた。もちろんそこにはなにもない。誰もいない。けれど藤子は暗闇を見つめて薄く笑う。
「また、天使さんか」
 囁いた声が空気を揺らす。
「どうしてあたしのとこに来るの?」
 答える声はない。
「あたしの死期が、近いのかな? ───あっと、ごめん、睨まないで。そうだよね、天使さんと初めて会ったのはずっと前だもんね」
 そう言うと藤子は笑みをしまい、ふと視線を逸らした。
「ねぇ、天使さん。お願いがあるんだ」
 もとの暗闇に向かって語りかける。
「もう来ないで。…あたしは、夜、部屋にひとりでいるときにまで、他人に気を遣えるほどオトナじゃないから。かといって、天使さんを無視できるほど図太くもないし。だから、もう、来ないで。ごめんね」
 でも、と藤子は続ける。
「あたしの最期のときは、もう一度だけ姿を見せてほしいな。迎えに来るのは死神だろうけど、天使さんにも、お別れを言いたいから」



 ねぇ。初めて「仕事」をした日に誓ってしまったんだ。
 人を殺したあたしは人に殺される。この径はそうやって終わるの。
 じゃあ、終えるために「この径を歩き続けよう」。
 この径を歩き続けて、「この径を終わらせよう」。

 そのときの強い誓いに、今も脅迫されてるんだ。
 別の径を歩くことも、歩みを止めることも許してくれないの。
 変えられないの。あたしはこのまま生きるしかないの。
 ねぇ。でもちっとも嫌じゃないんだ。
 清々しいほどの諦観は、胸に染み入る幸福感ととてもよく似ているから。



 藤子は膝に顔を(うず)めた。
 とても短い一日を始めるためには、この永い夜を越えなければならない。






41話「キラーの恋-first-」  END
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