41話/42話/43話
42話「キラーの恋-latter-」


01.10月5日 火曜日 11時30分
02.青嵐
03.千晴
04.史緒
05.藤子
06.12月20日 月曜日 16時50分






 あたしたちはリレーをしている。
 大勢のヒトが集まる街中にいるときに、とくにそう思う。
 馴染みのショップのお姉さん。アクセ売りのお兄さん。通り過ぎるカップルや学生さん、子供たちや年配のヒトとか。話をしたこともない、視線さえ合わせたことのない赤の他人。そこに大きな流れを感じる。
 ここで生きているみんなで、なにか大きなものを動かしてるんだと思う。
 それはたぶん、過去から渡り、未来へ継ぐもの。

 今、通りすぎた小学生の女の子を殺しても、リレーは止まらない。ここであたしが視界に入るヒトすべてを殺してもきっと流れは止まらない。少しの歪みを与えるくらいで、それはずっと後になれば意味が無くなってしまう程度の、些末なものだ。
 たとえそれを実行しても、あたしの腕では全部殺す前に取り押さえられてしまう。でもときどき、やってみたい衝動に駆られることはあった。みんなはそんな風に思わないのだろうか。
 街の景色を見るのは好き。ゆったりとした大きなリレーを見ているようで、その壮大さに目を奪われる。大勢の人の流れも、リレーの一部。あたしにとっては景色でしかない。全体を見るのは好きだけど、それら個々に興味なんて持てないし、それらのひとつを殺しても構わない。
 殺しても、あたしが見る景色に大きく変わりは無いから。

 2年半前───
「私は、國枝さんといろいろ話してみたい。仕事以外のことも」
 なに言ってるんだろう、この子。
 あたしのコトはちゃんと教えてあげたのに。
 どうしてこっちを向くんだろう。
 あんたはあんたの場所でリレーに、そうと気付かないまま参加していればいいのに。
「…どうして、そんなこと言うの?」
「國枝さんは、人を殺して罪悪感は無いの? 人を殺してなにか得られるの? それは具体的になに? 私はそれが知りたい」
 ああ、この子はバカなだけかも。
 無知で考え無し、あたしと付き合うリスクも想定できない。
 そんな目で見ないで欲しい。なにかを期待している? 正直、気持ち悪いんだけど。
 景色の一部と馴れ合うことはしない。同じ景色を見ることなんて、ぜったい無いんだから。
 でも。
「え〜? そんなこと、一言じゃ答えられないよ」
 バカな子は嫌いじゃない。
「ねぇ、阿達さん。じゃあさ」
 短い道程、それは遊んで楽しむものだ。
「友達ごっこしよっか」










1. 10月5日 火曜日 11時30分

 昼前にA.Co.に訪れた客の顔を見て阿達史緒は目を剥いた。ここへ訪れるはずが無い人物だった。それだけじゃない、この人物に会うときは必ず穏やかでない事情も一緒に付いてきた。
 30代後半の男性。くたびれたYシャツのうえに着古した背広、もう残暑も遠く肌寒いというのに青いハンカチで汗を拭いている。頭髪は白混じりで背も高くはない、しかしどっしりとした体躯の男がやたらと腰の低い態度で入ってきた。
 男は軽く手をあげて挨拶をする。
「やぁ、史緒さん」
 そのとき事務所内には、史緒のほかに三高祥子と関谷篤志もいた。2人からの視線に備える余裕も無かった。史緒は呆けた表情のまま、思わず立ち上がっていた。
「……木戸さん?」
「突然、ごめんなぁ。仕事中だとは思ったんだけど」
 申し訳ない、と男───木戸は両手を合わせた。
 祥子が椅子を勧めたが木戸は丁重に断る。ありがとう、急ぐので、とすまなそうに顔をゆがませた。
「なにかあったんですか?」
 史緒の声が緊張するのを聞いて、木戸は否と手を振る。
「いや、すまんね。えっと、あー、デートの誘い、かな」
「は?」
「俺のオフィスでお茶でも?」
 おどけた木戸の台詞にも史緒は笑わない。
 そっと窓際に寄って道路を見下ろすと、路肩に黄色のクーペが停まっていた。木戸の所有車だ。史緒は振り返って真顔で礼を言った。
「お気遣いいただいてありがとう」
 木戸は軽く肩をすくめる。「どういたしまして」
「任意でしょうね」
「もちろん」
 それだけ確認すると、史緒は視線を隣りに移した。
「篤志、祥子。ごめんなさい、私用で出かけます。あとのこと、よろしく」
 祥子は突然のことに頷くしかできない。篤志は何か言いかけたがそれはしまって、最低限の確認事項を訊いた。「行き先と帰り時間」
 史緒は木戸を指して答える。
「この人のオフィス」
 木戸はにこやかに笑った。
「夕方までには送り返すよ」
「木戸さん、すぐに支度しますので、待っていてもらえますか?」
「もちろん。ごゆっくり」
 木戸は人好きのする笑顔で頷いた。


「あんなもんでよかった?」
 階段を降りる途中で前を行く木戸が言う。史緒は申し訳なさも含めて頷いた。
「ええ。助かります」
「史緒さんには何度か来てもらってるけど、史緒さんの事務所にまで迎えに来たのは初めてかな」
「そうですね。……でもどうして木戸さんが? あの子のことで私が呼ばれるとしたら、いつもどおり計良さんのところのはずでしょう?」
 史緒が訊ねると、木戸は肩を揺らして低く笑った。
「俺は暇だったから使いっ走りさせられただけ。まぁ今日もいつものだから、史緒さんも気楽に迎えに行ってやって」
 1階に降りて玄関を出ると、街路樹の向こう側に木戸の車が見えた。もし営業車(・・・)で乗り付けられていたら、篤志たちへの言い訳に苦労するところだ。近所への印象も悪い。
「本当に、お気遣いありがとうございます」
 史緒はもう一度礼を言った。
「気にしないでくれると嬉しいな。俺がパト乗り回すのが嫌いなだけだから」
「どこに拉致されるのかも喋らないでいてくれてありがとう」
「拉致って……」
「ええ、木戸さんに恨みはありません。文句はあの馬鹿に言いますから」
 木戸がわざわざ助手席を開けてくれた。お礼を言って車に乗り込んだ途端、煙草の匂いが鼻の奥を刺す。史緒は表情を崩さなかった。木戸がヘビースモーカーだということは知っている。しかし史緒は彼が吸っているところを見たことはない。(そういう風に、嫌いなものを口にして周囲に気を遣わせるの、どうかと思うよ?)かつて藤子が言った通り、周囲の人に気を遣わせてしまっているのだろう。
 木戸が運転席に乗り込むと車はすぐに動き出した。
「前から訊きたかったんですけど」
「ん?」
 車が走り出してから、木戸は器用に片手でシートベルトをしめている。
「木戸さんは、藤子と付き合い長いんですか?」
「うーん」木戸は唸った。「まぁ、史緒さんや奴さんの旦那よりは長いかな」
「旦那…って、北田さんのこと?」
「ああ」
 北田千晴は國枝藤子の恋人の名前だ。史緒も何度か顔を合わせている。藤子はいつも北田の腕に手を回してはしゃいでいるが、北田のほうは無口でいつも視線を伏せている印象がある。
「あの2人も不思議。よく会ってるらしいけど、仲が良いようには見えなくて」
「そりゃそうだろなぁ」
「え?」
 視線を向けると木戸は目を細めて笑っているのか困っているのか判らない微妙な表情をする。
「……うん、まぁ、いろいろあるみたいだよ」
 昼時のせいか道路は混んでいた。木戸の職場に到着するには時間がかかるだろう。





 阿達史緒が警察署に来るのは初めてではない。木戸は署内で何度も阿達を見かけたことがあった。阿達の潔白のために補足しておくと、彼女が警察に出頭するのは決して自らの不始末からではない。
「やっほー、史緒ー」
 阿達曰く“あの馬鹿”こと國枝藤子。阿達が部屋に入ると、ソファに座っていた國枝が大きく手を振った。紙パックのジュースを飲みながら、にっと笑う。さらに足をばたつかせて不満を口にした。
「遅いよー、待ちくたびれたよ〜」
「……」
 引き戸に添えられたままの阿達の腕は見るからに震えている。木戸は苦笑したが、それで場が和むわけではない。
「──藤子」低い声が響いた。「これで何回目!?」
 平日の昼間に仕事を邪魔されたのだ。阿達には怒る権利はある。おそらく何度目なのかは國枝も阿達も判らなくなっているだろう。
「待って、怒っちゃやだ! 今回も言いがかりなの、まじで!」
「わかってるわよ。藤子が手錠かけられたら、私が呼ばれる必要も無いもの」

 警察は國枝が「始末屋」であることは知っている。警察だって「裏」の事情はある程度把握していた。少し調べれば國枝藤子の名前は嫌でも耳に入る。名前が売れてなければ商売が成り立たないのはどこも同じだ。
 ただ、警察にしてみれば「始末屋だから」という理由では逮捕できない。職種「始末屋」で登記されてるわけでなし、名乗るだけなら個人の自由。実際、「始末屋を名乗っているだけで手を下したことが無い者」もいる。逮捕するにはもちろん殺しの証拠が必要だった。
 そういう意味で、國枝藤子は何度か警察に呼び出されてはいるが、裁判所へ逮捕状を請求できた試しは一度も無い。
 突発的衝動的な素人犯行より、「裏」と呼ばれる職業犯罪人たちの犯行は何倍もやっかいである。彼らは直接的な利益を求めることと同じくらい(もしくはそれ以上に)プロ意識もある。スキルとノウハウもあるため警察は逮捕以前に証拠を揃える段階で大変な時間と人手を浪費することになる。さらに職業犯罪人たちはチームを組むこともあるからタチが悪い。開錠屋、運び屋、復讐屋、調達屋などなんでもありのようだ。
 國枝も職業犯罪人の一人。警察が初めてその名を得たのは2年半前になる。そして國枝が初めて警察を訪れたのは2年前のことだった。
「なんだ、興信屋までお出ましか」
 ドアが開いてまた一人刑事が入ってきた。
 興信屋という言葉は無いのだが、この人は阿達のことをいつもこう呼ぶ。
「手続き上しかたないとはいえ、身柄引き受け、毎度、ご苦労さん」
「お久しぶりです、計良さん」
 愛想は良いが、阿達の声に少しだけ警戒色が混じる。それもそのはず、計良は1課所属で殺人および凶悪犯担当、國枝藤子を捕まえる立場にある。連れの阿達としてもボロは出せない。
「そっちは最近どうよ、儲かってる?」
「ぼちぼちですね」
「俺のほうは相変わらずだよ。誰かさんが、しょっ引かれては証拠不十分で釈放の繰り返しだから、無駄骨もいいとこ」
「あたしは無駄足だよー」
 國枝が茶々を入れる。
「おまえが言うな」
「それは私の台詞よ」
 計良と阿達の声がうまく重なったので木戸は噴き出した。当の2人は顔を合わせてお互い苦笑する。
「お疲れさん」
「計良さんも、お疲れ様です」
「本当にそう思ってる?」
「もちろん」
 だったら、と計良は國枝を指した。
「興信屋もさっさとこいつを見限ってくれれば有り難いんだがな」
「どういう意味でしょうか」
「あんたからの制裁を恐れて証言しない人間もいるんだよ」
「制裁? 冗談でしょう? 私は藤子が傷害や強盗で捕まっても偽装や偽証なんかしません。ましてや他人の口を塞ごうだなんて」
「そうは言っても、今の力関係じゃ、裏の連中もその冗談を考慮しざるを得ないんだが…」
 計良の勢いが少しだけ落ちる。國枝だけでなく、阿達のほうも相当口が減らないことは解っているからだ。阿達はなおも笑って言った。
「なにか勘違いされてません? 私は表でも末席の、ただの興信所兼なんでも屋です。計良さんのおっしゃる“裏の連中”に対して圧力をかけられるはずもないし、藤子のために自分の立場が危ぶむようなまねはしません」
「史緒、それひどい」
「事実よ」
 切って捨てるように言われて國枝が不満をこぼす。
「計良くんも、史緒をいじめちゃだめだよー。あたしのお気に入りなんだから」
「俺のほうがいじめられてる気分だよ」
 “あたしのお気に入り”。それが同業者を震え上がらせる原因なのだが。
 はい、と國枝が姿勢よく片手を挙げた。
「ね。木戸くん、あたし、もう帰っていいんでしょ?」
「あぁ、外で書類書いて行って。史緒さんも」
「わかりました」
「それじゃあ」
 國枝は音もなく立ち上がる。阿達の隣に並び、その肩に手を置いた。2人は室内に視線を返すと、
「またね」
 顔を並べて不敵に笑う。
 始末屋・國枝藤子。
 興信屋・阿達史緒。
 今ではこの2人は、表も裏もそして警察も周知の仲だった。





 史緒は木戸の送迎の申し出を断って、藤子とともに警察を後にする。すでに顔なじみとなった受付の職員に藤子は手を振り、史緒は軽く頭を下げた。何度も警察に足を運んでいる2人はさぞ不審人物だと思われているだろう。場にそぐわない少女2人が悠然と玄関をくぐる様を、幾人かの職員が物珍しそうに見送っていた。
「おなかへった〜。お昼まだでしょ? どっかで食べてこーよ」
 天気の良い並木道に出て藤子は大きくのびをする。史緒はそのうしろをついて歩いていた。
「いや」
「ぶーっ。付き合いわるーい」
「誰のせいだと思ってるのよ。私は帰るわ。仕事が残ってるの」
 足を止めた藤子の横をそのまま追い越し、史緒は腕時計で時間を確認する。もう正午を回って1時に近い。残っている仕事を思い浮かべて優先順位と所要時間をタイムテーブルに並べ替える。その思考を邪魔するかのように藤子が背後から声をかけてきた。
「史緒」
「なに」
「セーラくんに頼みごとしてたでしょ?」
「いきなりなに?」
「取りに来いって言ってたよ」
 史緒は複雑な表情でくるりと振り返った。藤子はこちらを向いてニヤリと笑っている。
「あたしもセーラくんに用事あるんだ。一緒にいこ? ついでにごはん食べよ、ね?」
「……」
 史緒は観念して肩を落とした。しょうがない、付き合うしかなさそうだ。しぶしぶと了解を伝えると、よしっと藤子は拳をつくった。
「なに食べたい?」
「なんでも」
「じゃあ、目白のケーキ屋さん。雑誌に載ってたの」
「…ごはんじゃないの?」
「だから、デザートにケーキを食べるために、その近場でレストランを探す」
「ここからセーラさんのところとは逆方向なんだけど。しかも路線も違う」
「いるよねー、なんでもいいって言ったくせに、文句言うヤツ」
「それとこれとは違うでしょ。セーラさんのところ寄って、早く仕事に戻りたいのよ」
「仕事仕事うるさいな、あたしと仕事、どっちが大事なの?」
「仕事よ。それがなに?」
「むーかーつーくー」
 そのとき、すれ違った中年男性の小さく笑う声が聞こえた。じゃれ合う2人を微笑ましく思ったか、子供らしさを笑ったのかどちらかに違いない。中年男性は慌てて取り繕って早足で駅のほうへ向かって行った。───まさか彼は、2人のうち片方が始末屋だとは夢にも思わないだろう。
「それにしても、本当によく捕まらないわね」
 史緒が呆れたように口にした。
 木戸はともかく計良は、始末屋・國枝藤子を捕まえなければならない立場にある。それでも毎回見送るしかないのは、藤子がことごとく不在証明(アリバイ)を持っているからだ。さらに現場の物的証拠もなく、逮捕状請求には至らないものばかり。計良が無駄足と嘆くのも無理はない。
「うーん、計良くんはじっと待ってるって気がするなぁ」
「待つ? なにを?」
「あたしが尻尾出すのを、ね。軽々しく呼び出しておいて、馴れ馴れしく接しておいて、ひとつでも確証を掴んだらそれみたことかって、容赦なくあたしに手錠をかけるよ、きっと」
 藤子は楽しそうに笑う。
「でも、まだまだかな。実際、あたしの仕事の数のうち、警察に呼ばれるのは3割程度だし、逆にあたしの仕事じゃないのに呼ばれるのは2割。かなりあてずっぽうなのよ」
 そこまで聞いて、史緒は途端に機嫌が悪くなった。視線を逸らして、声を低くする。
「藤子の仕事の数字なんか聞きたくないんだけど」
「警察の無能さの数字を言ったんだよ」
 史緒が藤子の仕事を良く思ってないことは藤子も知っている。しかし藤子にとってはそれが生きる糧、それ以上に自分の生き方。史緒の機嫌などに構っていられない。
「そういうわけで、今のところ、あたしが警察に捕まることはないかな。確率で考えれば、誰かに復讐されるほうがよっぽど早そう」
「…藤子」
「あたしはずっとそれを待ってるんだから、そうでなきゃ困るけど」
「藤子!」史緒は声を荒げた。「その話は聞きたくない」
 藤子は相変わらず笑っていたが、少しだけ声のトーンを落とした。
「いい加減、慣れてよ。あたしがそういう覚悟でやってるってことは、最初に教えてあげたでしょ?」
「私は嫌なの。藤子の覚悟なんて聞きたくない」
 死の覚悟なんて。
「あのー。友達にすぱっと否定されるのもなかなか痛いんですけどー」
 そんなこと知るか、と言わんばかりに史緒はそっぽを向く。変なところで子供っぽい史緒に藤子は苦笑した。
 この会話は2人のあいだで何十回も繰り返されている。それなのに史緒は藤子の仕事の話を大人しく最後まで聞いたことは無い。耳を塞ぐくらい嫌なことらしい。一方、藤子は自分の生き方の話なので否定されるのはもちろん気分が悪い。それでも2人とも付き合いをやめないのは、一体、どちらが物好きで頑固なのだろう。
「史緒は(こっち)にも片足入れてるんだから、これくらい普通に聞けるようにならなきゃ」
「片足入れてる、じゃなくて、入れさせられたのよ、藤子に」
 話が逸れたのはわざとだ。
「言ったでしょ? (こっち)のルールも知らずに“國枝藤子”と付き合うのは危険だって。だからいろいろと教えてあげたんだよ」
 うっ、と史緒は言葉に詰まる。
「そのおかげで、史緒の仕事内容に幅ができたんじゃないの?」
 実はそうなのだ。
「だったら、藤子サマサマじゃない。感謝してもらわなきゃ!」
 高らかに笑ったあと、びしっと人差し指を向ける。
「というわけで、今日は目白。付き合いなさい」
「…わかりました」
 端から見れば年頃の少女のじゃれ合い。それを新鮮に感じる2人は、ときどき合図無く、こういう会話を 楽しんでいる。










2. 青嵐

 殺し屋という職業をご存知だろうか。
 文字通り、殺人を生業とする者のことである。直接的な表現を避けて始末屋とも呼ばれる。ただし、「始末屋」はもう少し広義で、依頼の対象者に精神的・肉体的ダメージを与える商売を指すこともあるので注意されたい。
 意外に思われるかもしれないが、殺し屋を名乗る人間のうち7割はそれを兼業、しかも副業としている。そういった人間の本業はというと、暴力団構成員のほか、自営業、公務員、医師など社会性の高い職業も多い。一方、殺し屋を本業とする者は全体の2割程度、そして専業が残りの1割である。
 殺し屋のメリットは金しかない(ごく少数のものは趣味と答えるかもしれないが)。相場は一件100万から200万円、海外へ向かわされることもあるので、経費など細かい料金は状況により変化する。この仕事は最悪は逮捕&死刑、ハイリスク・ハイリターンの代表例とも言える。
 殺し屋のなかには、自分の手を汚さない人間もいる。どうするかというと、依頼を請けたら貧困層の外国人に20万円程を与え、仕事をさせたあとは海外へ飛ばせるという寸法だ。被害者と関係の無い人間が通り魔的に実行し、本格的な捜査が始まる頃には犯人は国内にいない。これは実際に行われている方法であり、このような事件に関しては捕まる人間がほとんどいない。
 ポピュラーな例を紹介したが、殺しの手段は殺し屋によってさまざま。各個の特性に合わせて仕事を割り振るのも私の仕事だ。
 私が知る中に、突出して珍しい殺し屋がいる。
 女性、専業、特定の組織には属さず、趣味でも金目当てでもない。年齢は公開していないがおそらく10代だろう。腕は良いらしくたった半年で台頭した極めて珍しい例だ。
「セーラくん!」
 私の名前は青嵐(せいらん)。情報屋、仲介屋、仕入屋、紹介屋など肩書きが多いので、人は私のことを万屋(よろずや)と呼ぶ。
 高い建物の間の細い路地の奥、ビル1階の倉庫がここ(・・)だ。場違いなくらい明るく大きな声が聞こえたので顔を出すと、若い女が2人、扉の前で立っていた。
「セーラくん、おはよー」
 脳天気な笑顔を向けて挨拶したほうが私が知る殺し屋のひとり、國枝藤子だ。今時の若者と同じような華やかな恰好をしている。そんな服装でここまで来られたら目立ってしかたないのだが、何度注意しても聞かない。
「突然押しかけて来てなんなの?」
「あのね、あたしの友達を紹介させて」
 もうひとり、國枝の後ろに髪の長い女が立っている。
「紹介…?」
「史緒。この人が万屋(よろずや)のセーラくん。オネエ言葉だけど別にオカマじゃないから」
「青嵐よ」
 これも何度訂正しても覚えやしない。
「で、こっちが史緒」
 そこでやっと後ろの女が口を開いた。
「阿達、史緒です」
「阿達史緒……、商社のアダチの令嬢が確かそんな名前ね」
「あ、そういやそうだっけ」
 國枝はつい先日、私に阿達史緒について身辺調査を依頼している。報告書をまともに読んでいないようだ。
 阿達の表情が曇った。親の肩書きを引き合いに出されたことが気に入らなかったらしい。
「それから、桐生院由眞が集めた3人のうちのひとりでしょ?」
「え? 3人って…いたっ」
 阿達は小さく悲鳴をあげた。
「どうかした?」
「いえ、なんでも」
「でね、セーラくん。この子、興信所はじめるの。出世する予定だから、よろしくしてやって〜、おねがいっ」
「……ぁー」
 その台詞で國枝の狙いは判った。しかし私は國枝の狙い通りに動く気にはならない。
「國枝」
「ん?」
「フィガロを待たせてるみたいだけど」
「げっ。嘘、マジ?」
「まじ」
「どーしてあの人、電話も持ってないの? 連絡くれれば、すぐに顔出すのに」
「昔の人だからでしょ」
「あぁああ、もー。史緒、ごめん、あたし、ちょっと抜ける。すぐ戻るから!」
 慣れているのか鈍いだけなのか、阿達は返事を返さなかった。そのあいだに國枝は踵を返し飛び出していく。ここは路地裏なので、扉を開けてもさほど明るくはならない。それでも國枝が扉を開けた瞬間に少し光が差して、閉めるともとの薄暗さに戻った。
「あいつはいっつも騒々しいわね」
 狭い倉庫の中にはガラクタが無造作に転がっている。一際大きな酒樽が私の専用の椅子だ。突っ立っているのにも疲れたので酒樽の上にあぐらをかいて座る。
 こちらの出方を待っているのか阿達は姿勢を崩さない。とりあえずそのまま立たせておくことにする。少しの無礼は許されるだろう。なぜなら、彼女はまだ私の客ではないから。
「阿達さん」
「はい」
「悪いことは言わないわ、國枝と付き合うのはやめなさい。あの子はあなたが思ってるほど、普通じゃないわよ」
「……」
 忠告は一度までと決めている。それで解らなければ本人が痛い目に合うしかない。
「それから、ここにも来ないでちょうだい。何も知らないお嬢ちゃんが気軽に足を踏み入れるところじゃないの」
「そうはいきません。私は仕事を始めると同時に藤子とも付き合っていかなければならないんです。この業種で殺し屋(あのこ)と付き合っていくには業界全体の事情や力関係を知る必要があると言われました。そのためには、あなたの客になるのが良い、とも」
 大人しいだけの社長令嬢かと思えば、意外なことに口は達者らしい。しかし、口が達者なだけでは生意気な子供でしかない。
「今のお嬢ちゃんじゃ、顧客になられても私にメリットは無いでしょ?」
 阿達はその口を閉じた。物分かりが良いのは助かる。
「國枝が悪いわね。普通、素人はここまで来ないの。私の居場所を知る人は限られている、それを簡単に教えるなんて、國枝の信用問題にも関わるわ」
「…っ」
 自分の行動が國枝の評判を落とすことにつながることに今更気付いたらしい。
「情報は金で売るものじゃないわ。わかるかしら」
「…?」
「金で売るのは末端の興信所くらいよ。かく言う私も情報屋をやってるけど、基本は物々交換(バーター)。持ち寄られた情報と等価なだけ、相手が知りたい情報をあげるの」
「すべての客に対して知る限りのことを教えていては、情報のインフレで混乱になる。過剰な情報は無能な人間をさらに無能にし、無能な社会をさらに無能にするのよ。依頼通りに仕入れて売る、調べて売るのが情報屋だとは思わないで欲しいわ。依頼人にどこまで渡すのか、その見極めに手腕を問われるのよ」
 果たしてすべてを理解できているかは謎だが阿達は黙って聞いている。
「大事なのは、身の程をわきまえること。手に負えない事件は断る、必要以上に深入りしない。それから、危険人物とは付き合わない」
「藤子のことですか」
 みなまで言う必要は無い。
「お嬢ちゃんが仕事を始めて國枝とのつながりがおおっぴらになれば、いろいろなところから目を付けられることになるわ。國枝はそういうヤクザな職業なの、理解しなさい。それらから逃げるには、國枝の威を借りることになるわね、例えお嬢ちゃんが望まなくてもそうなるわ。そうそう、お嬢ちゃんにはアダチと桐生院もバックにいるのよね。あらいやだ、結構強力じゃない。下手に手出されないわよ、よかったわね」
 この程度の皮肉は当然通じてもらわなきゃ困る。
「お嬢ちゃんのバックグラウンドは魅力的だけど、今のお嬢ちゃんには何の実績も肩書きもない。私は、今の阿達さんとは取引しないわ。帰りなさい」
 阿達は目を伏せて返事を返さない。私としては本当にさっさと帰って欲しいのだが。
 すると、阿達は顔を上げた。強い視線がこちらを向く。
「セーラさん」
「青嵐よ」
「ひとつ教えていただきたいのですが」
「人の話聞いてた? 知りたかったら持ってきなさいよ」
 飲み込みの悪い人間は嫌いだ。しかし阿達は余裕の態度で答える。
「アダチの娘が興信所を始めることと、國枝藤子とつながりがあるという情報ではだめですか?」
「───」
 思わず絶句してしまった。阿達のその台詞はアダチと國枝の知名度を利用している。なかなかどうして、したたかな性格らしい。確かに、その情報をこちらがタダで貰うわけにはいかないようだ。
「何が知りたいの」
「國枝藤子の実績」
「どうして?」
「業種は違っても、場数と実績は目標になるかと思いまして」
「……そう。書面で出しましょうか?」
「口頭で構いません」
 國枝藤子の名前が出始めたのは1年前になる。頭角を現し始めたのはその半年後。確実に仕事をこなすことでは定評があり、今では、國枝藤子の名前はかなり有名になっている。
 私が勝手に集計しているランクで、國枝のランクはA。成功率だけならSクラスだが、報酬が高いために依頼数が少ない。数をこなしてる殺し屋に比べて下なのは当然だ。國枝はわざと報酬を高めに設定している。金額の高さで依頼人の覚悟を計っているという。
「うちとしては、変なポリシーを持たずに客を選ばないで仕事を受けてくれるほうがありがたいんだけどね」
 阿達は苦笑する。「おまえもだ」と言わんばかりだ。
「ご指導ありがとうございます。今日は帰ります」
「もう来なくていいわよ」
「またよろしく」
「来なくていいったら」
 阿達は丁寧におじぎして帰っていった。

 その後、図々しく通われるかとも思ったが、予想は外れた。
 次に阿達が私のところへ訪れたのは半年後のことだった。

 その半年のあいだに、某大手薬品会社が検挙されるという大きな事件があった。一般には厚生省監査委員の不祥事としか認識されなかったが、裏では鼎の沸くような騒ぎ、沈静化するまでひと月かかったほどだ。その薬品会社は名の通った薬品会社だったが、一方で非合法な薬を研究・生産を受注していて、その薬はこちらにも多く流れてきていた。その供給が完全に停止したので特に売人や中毒者は生活の糧を奪われると同時に、捜査の手を逃れる為に身を潜めなければならなかった。
 その薬品会社が倒産、組織として解散に追い込まれた事件に、阿達も関わっていたらしい。この事件から阿達の名前が知られるようになる。
 さらに、その後、殺し屋・國枝藤子と連んでいる噂が広がると同時に阿達の名も飛躍的に広がった。「國枝に手を出せば阿達によって社会的に抹殺され、阿達に手を出せば國枝に殺される」なとどいう笑えない噂も広がる。実際、國枝は阿達のことを「友人」と公言し、手を出させないよう牽制していたようだ。
 表の興信所の組合でTIAというものがある。TIAは参加団体の名簿登録を義務づけているが、阿達は「A.Co.」のなかで自分ひとりしか登録していない(後に、業務上しかたなく、DB(データベース)のアクセス権限をもらうために木崎健太郎が追加された)。他のメンバーを登録していないのは、殺し屋と付き合いがあることで何かと目を付けられることが多い立場から部下を守るためだろう。
 阿達の身辺など、私のようなものが調べればすぐに判る。しかしそれでも阿達が意図的に内情を伏せていることもあり、阿達の知名度とは裏腹にA.Co.という組織はかなり不鮮明だった。それ故に阿達史緒の名は興信所所長という肩書きより、國枝との癒着のほうが目立っていたほどだ。そしていつの間にか、國枝と並び称されるまでに成長していた。
 薬品会社の事件の他にも、いくつかの功績を耳にした頃、阿達は再度ここの扉を開いた。
「セーラさん」
「青嵐よ」
 憎々しさを込めて言っても、どうせ相棒と同様、直す気は無いのだろう。
 私は諦めの境地で溜息を吐き、姿勢を正す。客商売なのだから、客の前ではそれもあたりまえではないか?
「いらっしゃい。A.Co.の阿達史緒さん」
 阿達ははにかむように笑った。









3. 千晴

 國枝藤子と「付き合い」始めて2ヶ月経った頃のことだ。
「晴ちゃん、晴ちゃん!」
 騒々しく人の部屋に上がり込んでくるのは毎度のこと。しかし騒々しいのは口だけで、足音は無い。藤子曰く「職業柄当然の特技」らしい。
「晴ちゃん、報告。あたしに友達ができました」
 いつもなら無視するところだが、その台詞の異様さに思わず顔を上げてしまった。藤子はいつもの貼り付いたような笑顔をこちらに向けている。
 藤子に友達。
 深く考える必要はない。想像は容易だ。
「どうせ、また、ごっこ遊びなんだろ」
 千晴自身がそうであるように。
 藤子はすぐに白状した。
「あ、すごい。見抜かれてる」
 なんの屈託もない表情で笑う。
「ごっこ遊びっていいよね。恋人も友達も、両思いじゃなきゃ成り立たないけど、ごっこ遊びなら、片思いでもできるもん」



 桐生院由眞と一対一で話す機会があった。
 この(おうな)は妙な貫禄があり、目の前にするといつも威圧感を与えられていた。千晴に対する排他的な態度は、2人が付き合うのを反対しているのかと思ったがそうではなかったらしい。
「正直に言うと、北田くんには幻滅してるのよね」
「そうですか」
「わたしはあの子の価値観を変えてくれる人間を待っているの」
 由眞は遠回しに言ったが、その真意は知れた。
 藤子に仕事をやめさせることができる人間。由眞はそれを待っているという。
「俺では役者が不足ですね」
「どうやらそのようね、残念だわ」
「またひとり、候補が現れたようですが」
「え? 誰?」
「友達、らしいですよ」
「あの子に友達? だれ? 名前は?」
「阿達史緒」
「史緒? あの子、藤子と付き合ってるの?」
 あとで聞いた話によれば、藤子と阿達を引き合わせたのは由眞だという。もちろん、友達になるよう引き合わせたわけではない。





 千晴は夜中に自室のベッドの中で目が覚めた。暗闇のなか、新聞配達のバイクの音が遠ざかっていく音がする。どうやらその音に起こされてしまったようだ、眠りが浅かったのだろう。
 夢と現のあいだの浮遊感に漂いながら辺りを窺うと、隣りで寝ていたはずの藤子がいない。シーツの温かさも残っていない。帰ったのだろうか。時計を確認すると午前4時を回っていた。
 隣りの部屋へ続くふすまが開いている。そこから見える床は微かに明るい。月明かりが差しているらしい。カーテンは閉めたはずだ、と気になって千晴はベッドから起きあがった。なんとなく足を忍ばせてふすまに近づく。そこに、藤子はいた。
 照明もつけずに、窓際で膝を抱えて、空を見上げていた。部屋に差し込む月明かりを浴びていた。
「…藤子」
 声をかけると、とくに驚く様子も見せず振り返る。おそらく千晴の気配で気付いていたのだろう。
「ごめん。起こしちゃった?」
 声をひそませて小さく笑う。
「なにしてる」
「月、見てた。満月でね、(かさ)かぶってるの」
 そう言うとまた空に視線を戻した。その言葉どおり、丸い月を避けるように薄い雲が広がっている。空に視線を固定させたまま、藤子は語りかけるように言う。
「あのね、晴ちゃん。あたしは体質的に、ずっと横になってられないんだ」
「?」
「無防備にしてることができないの。睡眠も3時間で充分。それ以上は寝ているのが辛いの。だから朝まで一緒には寝てられないんだ。起こしちゃってごめんね」
 深夜なので声は小さいがちゃかしたつもりなのだろう。しかし千晴はそれには乗らなかった。
「いつも、そうなのか?」
 藤子は横になって眠る習慣は無いのだという。千晴は最初にそれを聞いたとき激しく驚いた。殺し屋という人種は皆そういうものなのだろうか。それとも藤子がさらに異質なのだろうか。
 藤子は空を見上げる。
「朝を待つのは好きだから。空が明るくなっていくのを数えることだけは、…なんでかな、やめられなかったんだ」










4. 史緒

「あのね」
 は〜ぁ、と藤子はわざとらしく溜め息を吐く。
「16歳でしょ? もっとオシャレしなさい。なにも着飾れって言ってるんじゃないよ、あたしと違ってクライアントと顔を合わせる仕事なんだから、ちゃんとそれらしい恰好しなきゃ。オフィスでの身だしなみってもんがあるでしょ!」
 付き合い始めたばかりの頃、藤子は史緒の恰好について、よく文句を言っていた。史緒は服装などにあまり感心が無く、文字通り適当もしくは無難にしていた。それが藤子の気に障ったらしい。
「次の休日、あたしに付き合いなさい」
 藤子はそう言って、彼女がよく行くというショップを連れ回した。
「藤子とは服の趣味が合わないような」
「なにも気を遣ってないヤツが“服の趣味”なんて生意気言わないよーに。だいじょーぶ、だいじょーぶ、オフィス物もちゃんとあるって。それと、店員さんとは喋っておいたほうがいいよ。営業(ほんね)を隠したお友達トークと向かい合うのはある意味訓練になるから」
 そういう藤子は、「趣味はオシャレと街をぶらつくこと」と言うとおり、よく買い物に出掛けるらしい。史緒はそれに付き合わされるようになった。
「その長いだけの髪もどうにかしようよ。編むなりまとめるなりさ。首周りすっきりさせない? ただ下ろしてるだけじゃやぼったい。見てるほうが暑苦しい」
「だめ? みっともない古傷を隠してるからこうなっちゃうんだけど」
「古傷? どれ」
 藤子は史緒の襟に指を入れ、引っ張って覗き込んだ。史緒はびっくりして慌てて離れる。悪気のない藤子は、なんだ、と肩をすくめた。
「そんなグロくないじゃん。服だけでも十分隠れるよ」
 史緒はその場を笑ってごまかした。
 藤子の影響で服装に気を遣うようになった史緒だが、結局髪型は改善されなかった。
 後になって藤子が言った。
「その傷は史緒にとって勲章みたいなもの?」
「で、史緒は勲章を見せびらかしたりしないタイプ。ただ大事にしまっておくだけなんでしょ」





「あたしは人殺しを悪いこととは思わないよ」
 藤子はまっすぐな目で言う。
日本(ここ)の法律に反してはいるけど、それが悪いことかどうかは別問題じゃない? 個人の正義の問題。ま、少数派だろうけど」
 ときどき、冗談にしか聞こえないことがある。藤子はあまりにもこともなげに言うので史緒は言葉を失ってしまう。
 その正義について、藤子と論争することは無意味だ。何年も殺し屋として生活してきた人間に対して殺しは悪だと説いても傾くはずがない。史緒のような、殺しの何たるかも語れず、ただ悪いことだと常識を植え付けられている人間が相手ならなおさら。
「史緒、見て。きれいな夜景」
 促されて顔を上げると、眼下にネオンが煌めく都会の夜景が広がっていた。史緒にとってはそれは見慣れた風景でしかない。しかし隣りの藤子はその風景を眺め、感動しているようだった。史緒はもう一度夜景に視線を戻す。
 ネオンの明るさで街のかたちが判る。それらの光の分布はそのまま人口の分布でもある。面白い対比だとは思った。
「史緒?」
「あ、うん。…きれい、って言うのね。こういう景色のこと」
 すると藤子は呆れたような顔をした。
「史緒ってほんと人間? たまに宇宙人と喋ってる気分になる!」
「そこまで言わなくても」
 人殺しは悪くないと言った同じ口で、景色が綺麗だと語る。それはとても奇異なことのように思えた。
 藤子は本当に同じものを見ているのだろうか。
 史緒は何度も、そんな疑問を繰り返している。
「世界は綺麗だよ。それを見るだけでも、生きる価値はあるね」





 藤子といるときに奇襲されたことがあった。奇襲という言葉は使い慣れないが、使い方は正しいようだ。
 人気のない夜道に人影が立ちはだかる。藤子はさがるよう指示したが遅かった。人影は史緒の背後に回り込み、腕で首を押さえつけた。
「史緒っ」
 藤子は笑みを消して素早く構える。
 が、それより先に史緒は相手の腹に一発当てて、隙を付いて逃げていた。
 まさか史緒にそんな芸当ができると思わなかった藤子は呆気にとられ、苦笑いする。
「やるじゃん」
「逃げるくらいはね」
 そう、逃げただけだ。相手にダメージを与えることは史緒の腕では無理がありすぎる。

 私怨で殺しをする者に殺し屋は名乗れない。そんな不文律があるために、殺し屋同士の争いはめったに無いのだという。それでも藤子は夜道で奇襲されることがあった。やってくるのは同業者や復讐者ではない、始末屋だ。(この場合の始末屋は、ターゲットを痛めつけることが目的の始末屋である)その目的の多くは、藤子が殺し屋として受けた依頼を阻止すること。殺し屋に大人しくしていてもらおうと、痛めつけにくるらしい。
「さて、と」
 藤子は拳だけで始末屋を大人しくさせた後(さすがに素人の史緒とは手際が違う)、壁に叩きつけて笑顔を見せた。
「まーだ、あたしに手を出してくるヤツがいるんだぁ。しかも友達といるときを狙ってくるなんて穏やかじゃないなぁ。ねぇ、誰に頼まれたの?」
 始末屋は睨み返してくるだけで喋ろうとしない。藤子も簡単に吐いてくれるとは思っていない。
「あたし、気は長くないよ」
 そう言って藤子は指先にナイフを光らせた。逆手に構えると始末屋の右目に突き刺す───寸前でぴたりと停止する。
 始末屋だけでなく、史緒も息を飲んだ一瞬だった。
「暴れると危険だからね」
 そう言う藤子の横顔はいつもの藤子ではない。史緒は叫んでいた。
「藤子やめて!」
「どうして?」
 心底、不思議そうな顔でこちらを見た。藤子がよそ見をしてもナイフの位置は少しも動かない。始末屋は切っ先を向けられたまま動けないでいた。
「どうして…って」
「大人しく帰しちゃったらまた来るよ。ここでちゃんと解らせておかなきゃ。何度も相手するほどあたしは寛容じゃないの」
「…そんなやり方で、今までよく無事だったわね」
 ここで返り討ちにしたら余計な恨みを買うだけだ。乱暴すぎると史緒は思う。
「史緒はやっぱり解ってないよ。この人はプロだもん、仕事の失敗を言い触らすことはしないし、力量差が判ったら二度と近寄らない。…あぁ、依頼人の名前を言ってくれたら帰してあげてもいいかな。でもそれをやったら、この世界では二度と仕事できないけど。だから、せめて少しは痛めつけておかないと」
 史緒は寒気がした。藤子の仕事は解っていたつもりだったが(解りたくもないが)、想像以上に血生臭い。
「…やめて」
「まだなにかあるのー?」
 眉根を寄せて藤子はぼやいた。
「私は、人が傷つけられるところを前にして、大人しく見てることはできないわ」
「それは困る。下手したら史緒に怪我させちゃう」
「じゃあ、私と一緒にいるときはやめて」
 藤子は鼻で笑う。史緒も自分の言ってることが可笑しいくらい我が儘なことは自覚している。けれど嫌なものは嫌、受け入れられないものもあるのだ。
 藤子は怯えている始末屋に笑いかけると、ゆっくりナイフを遠ざけ、押さえ付けていた首元を払う。始末屋はどうにか立ち上がると素早く逃げていった。
 藤子はそれを見送り、史緒はそっと息を吐いた。
「偽善者」
 だったら、目の前の殺し屋を警察に突き出せばいいのに。藤子の言葉はそう言っている。
「なんとでも言って。目の前のことから片づけているだけよ」





「まだ國枝藤子と付き合ってるのか」
 会うたびに的場文隆は同じことを言う。御園真琴も口にはしないが文隆と同意見のようだ。
 彼らのように、殺し屋である藤子を盲目的に毛嫌いするのは当たり前なのかもしれない。実際史緒も、藤子が殺し屋である事実を深く考えたくなくて耳を塞いでいる節がある。
「最初から疑問だったけど、なんであいつと付き合ってるんだ?」
 なんでだろう。
 殺し屋・國枝藤子。史緒も一歩間違えば彼女の依頼人となっていたかもしれない。自分で手を下した罪を、その罪悪感を、藤子は持たないのだろうか? 自分とは違うのだろうか? なにが違うのか。藤子は殺しの仕事でなにを得ているのだろうか。───最初、藤子に近づいたのはそれらの疑問があったからだ。


「史緒のこと好きだなぁ」
 藤子は思い出したようによく口にする。最初に聞いたときは本当に驚いた。
「なに固まってんの?」
「人にそんなこと言われたのはじめてだから」
「そんなことないよ。史緒が聞いてないだけだよ」
「いや、ほんと、はじめて」
「だから、史緒が聞いてないだけだって。きっと言ってるよ、史緒のお仲間やお友達は」
(友達…?)

 藤子は知ってる?
 ごっこ遊びは、いつから“ごっこ”でなくなるのか。










5. 藤子

 たとえば。
 駅へ向かう人波の中にいるとき。同じ方向へ歩いていく群衆に恐怖することがある。雨の日の色とりどりの傘の群れとか、交差点のスタートの瞬間とか、泣いてしまうくらい不安になるときがあるんだ。
 まるで自分がなにかに埋もれていきそうで、蝕まれていくようで、苦しくて吐きそうになる。自分のいる場所が急に不安定になる。
 なんであたしはこんな場所にいるの?
 なんでこんなところで遊んでるの?
 なんで呑気にごはん食べてるの? 眠ってるの? 笑ってるの?
 あたしが立つ場所はこんな堕落した世界ではなかったはずだ。
 常に背後に気を遣い、走り、息をも潜め、血染めのナイフを握りしめて泣きながら帰った。格子窓がある黴臭い部屋へ。
 戻らなきゃ。
 この世界の生ぬるさに耐えきれず急くような強迫観念に襲われる。でも、たとえあの部屋に戻れたとしても、あたしはこの堕落した街を離れないだろう。離れたくない。
 戻りたくない。
 両側に引き裂かれそうな思いに泣き叫ぶ。
 そんなときの、衝動。
 ───目の前の女の子を刺したら、きっと楽になれる
 そうだ、そんな些細な狂気は、誰でも持っている。
 綺麗なものに無性に苛立つことがある。吐き気がする。無垢な心を壊したくなる。
 だから、自分の痛みを少しでも軽くするためにあたしのところへくる依頼人は好き。その身勝手さに尊敬する。そう、ヒトは楽になれる手段がある。社会的、道徳的、倫理的に禁じられていることの中にさえ。
 ときどき、史緒にも嫌悪感を憶える。高潔、潔癖、理想が高く、そこに近づけないのは自分の努力不足のせいにしている。(こちら)に片足を入れてもなかなか染まらない頑固者。そしてあたしの仕事を毛嫌いしているくせに、あたしと付き合ってるのは最大の矛盾。
「人を殺して罪悪感は無いの? 人を殺してなにか得られるの? それは具体的になに? 私はそれが知りたい」
 変なこと訊くなぁ。
 罪悪感なんて無い。得られるのは径の終わり。それが目的、それが見たいの。だからこの仕事をしている。
 それを訊くためにあたしと友達するのかな。へんなやつ。
 でも後でわかった。
 ───人殺しが死を恐れてどうするの?
「私は、怖いわ」
 ───ああ。
 あんたも人殺しなんだ。
 罪悪感があって、なにも得られず、後悔しか残らない殺しをしたんだ。
 それをずっと引きずってるんだ。
 馬鹿みたい。だけど。
「史緒のそういう、勝手になにか抱えて勝手に孤独に浸ってるトコ、好きよ」
 この子はあたしとは違う。
 なにも捨てられないんだ。過去も傷も、仲間も。
 ひとりで独りの径を終わりへ歩いているだけのあたしとは違う。
 この場合、どっちが身勝手なんだろう。





 リテさんのダーツバーは藤子のお気に入りだ。落ち着いた雰囲気で酔っ払いに絡まれることもないし、サクマのような気の良いダーツ仲間もいる。ひとりで来ても遊べるし、リテさんはよく話し相手になってくれた。
 史緒と知り合ってからはよく連れて行くようになった。
「北田さんて、本当に藤子のこと好きなの?」
 ダーツの合間に史緒はそんなことを訊いた。藤子はあんぐりと口を開けたまま言葉をなくす。
「…未だかつてないくらい、失礼なんですけど。史緒じゃなかったら平手が飛んでるんですけど」
 藤子は少しの怒りを込めて言うと、史緒はすぐにごめんと謝った。謝るような質問だと解ってるなら、もう少し訊き方に気を遣って欲しい。
「だ、だって、北田さんっていつも怖い顔してるし、藤子がノロケても反応無いし、手を繋いでいてもなんか嫌そうだし」
 最後の一言にはグサッときた。事実だろうが、そこまではっきり言われたらいくら藤子でも傷つく。
「あのねぇ、愛情表現なんて、人それぞれでしょ?」
「…北田さんは、藤子の仕事のこと、知ってるのよね?」
「もちろん知ってるよ。いくらあたしだって、それを隠して誰かと付き合うなんてできないよ」
 そう言っても史緒は釈然としない表情をしている。そんなに藤子と千晴の仲が疑わしいのだろうか。確かに、馴れ初めは普通とは言えないが、それを史緒に説明するつもりは無い。
「でもまぁ、晴ちゃんはあたしのことちゃんと好きだよ。───死に目を見たいと思うくらいにはね」
「不吉な表現しないでよ」
「だってホントのことだもん」
 は〜ぁ、と藤子は大げさに溜息を吐く。
「史緒もねぇ、仕事仕事言ってないで恋愛すればいいのに」
 と、史緒に話を振ると、
「ぜんぜん興味ない」
 と、平然と首を横に振る。かわいくない女だ。
「つまんなーい」
「藤子を面白がらせてどうするのよ」
 だんっ、と藤子はテーブルを叩いた。
「だって華の10代だよ? 命短し恋せよ乙女、恋愛してナンボ。男の振り方もキスの仕方も知らないまま20歳に突入したら、ぜったい苦労するよ?」
 そんなこと言われても、と史緒は苦笑した。
「誰かいないわけ〜? 身近な人でもさ〜」
「だいたい恋心なんてさっぱり解らないし」
「そうだな〜、史緒の性格から言ったら…」
 確かに、今の史緒を見てたら恋愛事なんて想像できない。仲間内に男が数人いるのは知っているが同時に仕事のパートナーでもあるので、腹を割って弱音を吐くなんて史緒はできないだろう。何にせよプライド高いこの女のことだ、素直に甘えることも自分をさらけ出すこともできないのではないか。
 藤子は顎に指を当てて、う〜ん、とわざとらしく悩んだあと、
「ずばり、この人の前でなら泣ける、って人」
「───」
 史緒はストローを口につけたまま硬直した。
 3秒後、微かに視線が泳ぐ。
「あっ! 思い当たる人がいるんだ?」
 鬼の首を取ったような藤子の台詞に史緒はグラスを置いて必死で否定した。
「ち、違う! ぜったい違う!」
「誰? 白状しなさい、誰?」
「違うったら!」
 椅子から腰を浮かせるほど動揺する史緒と、それを追いつめる藤子。
「あんた達、そういう会話は教室でやってくれない?」
 リテさんがカウンターの向こうから呆れたように言う。未成年が出入りしているとはいえ、ここは夜の店だ。うるさく騒いだら店の雰囲気を壊すことになる。なにより青臭い恋愛話を聞いているほうが恥ずかしいのかもしれない。
「はーい」
「ごめんなさい」
 藤子と史緒は行儀良く返事をして、大人しく椅子に座りなおした。
 隣りを見ると史緒は赤い顔をしてグラスを傾けている。とりあえず“その人”を意識させることに成功したのかもしれない。もしかするとこの先なにか進展が? 藤子はひとり笑いを噛みしめていた。





「最近、阿達のことばっかりだな」
 藤子が千晴の家に押しかけても、大抵の場合、千晴は学校のレポートを書いていたり本を読んでいたりする。藤子は一方的に話をするだけで放っておかれているが、千晴はいつも耳を傾けてくれていた。
 壁とクッションに寄っ掛かって本を読んでいた千晴が顔を上げた。彼が相づちを打つのは珍しい。藤子は気を良くして、テーブルから離れて這うように移動し、ぴたりと千晴の横にくっついた。
「あれぇ。そうだっけ」
 千晴が藤子のことに意見してくるのはもっと珍しい。そんな風に言わせてしまうほと、史緒の話題をしていたのだろうか。それはそれで問題があるような気がするが。
「史緒のことは好き。って、やだぁ、これじゃ恋人に恋愛相談してるみたいじゃん!」
 藤子は腹を抱えて笑う。
「頑固ものなんだよね、未だにあたしの仕事、納得してないし。大人ぶってるけど、やっぱ子供だし。周囲を守ろうとして一人で躍起になってる馬鹿みたいなところとか。なにか色々と抱え込んでるところとか、好きかな。もっと楽にすればいいのに」
 千晴はまた本に目を戻している。
「でも安心してね、晴ちゃんのことも同じくらい好き、浮気してないよ。由眞さんも好き…」
 と、そこまでテンション高く喋っていた藤子はふと笑いをしまう。千晴のほうへ身体を傾けて、抑えた声で言った。
「でもねぇ、あたしを一番理解してないのも、やっぱり史緒なんだぁ」
 由眞、千晴、史緒の3人のなかで、きっと史緒が一番遠い。
「だって、史緒ったら、あたしが死ぬのイヤだって言うんだもん。そんなの、無理なのに!」
 本当に馬鹿みたいな話だ。藤子は人殺しだ。いつか殺されて終わる。そんな当たり前の因果応報を、史緒はどうして理解できないのだろう。
 何故か声が震えて、笑顔もうまく作れない。史緒に対する苛立ちが大波のようにやってきた。
「何度言っても解ってくんないんだよ、あの子。だって、あたしはそういう(・・・・)人間なの、そういう風に生きるって、あたしが決めたの。晴ちゃんや由眞さんは解ってくれてるけど。でもあの子は、馬鹿で、何回も、あたしが死ぬのは困るって…、困るって言うの!」
 ふと視線に気付いて顔を上げる。
「──……晴ちゃん?」
 藤子は苦しそうに顔を歪ませた。千晴に両手を伸ばす。
 指で髪を漉き、こめかみにキスをする。千晴の頭を愛しそうに胸に抱き寄せると、振るえる声をもらした。
「どうして…、憐れむような顔するの?」
 どんなときもそう、千晴はやっぱり、抱き返してはくれなかった。





 12月も半ばに差し掛かった頃のこと。
 クリスマスのデートを千晴から勝ち取った藤子は上機嫌で買い物に出掛けていた。街は煌びやかなイルミネーションが遠くまで続いている。この国の宗教感覚には甚だ疑問があるが、要は楽しめばいいというノリは藤子の気質に合っている。毎年流れる同じクリスマスソングにはそろそろ辟易しているが、それも苦笑いしながらの世間話のネタになる。ついさっきも、ショップの店員さんとその会話をしてきたところだった。
 夕暮れの街は人で溢れている。秋の夕暮れは赤く、冬の夕暮れは青い。澄んだ空気のなかに灯りが瞬く。そんな中をひとりで歩くときの微かな孤独感が藤子は好きだった。

(───…)

 それは突然だった。
 一瞬で全身に鳥肌が立つ。視線を上げると、もちろん見慣れた街並みが広がっている。しかしその雑多な人混みのなかから、心臓を突き刺すような鋭い気配があった。
(なに?)
 咄嗟に道端に寄り、壁に背を当てて辺りを窺う。しかし目の前では藤子など目に入ってないような通行人が素通りするだけだ。
 その気配は藤子を捉えている。藤子はその源を探した。けれどこの人の多さでは特定は難しい。
「……」
 こんなことは初めてだった。襲われるにしても、こんな衆目の中ではあり得ない。それにこの気配、藤子は毛が生えているはずの心臓に汗が流れるのを感じた。殺意とはまた違う、まとわりつくような空気に気分が悪くなる。
 どうする。藤子は自問する。今ここで手を出されることは無い。それなら藤子も無視してこの場を去ればいい。しかし追跡されては後が面倒になる。
 藤子が壁から離れられないでいると、ふと、視界にそれ(・・)が入った。
 車道を挟んで反対側の歩道。絶え間なく流れる通行人の中、立ち止まる人影があった。
 スーツの上に黒いコートを着た、会社員風の男がこちらをまっすぐに見ていた。
(───あいつだ)
 藤子はガードレールに駆け寄り相手を確認する。目が合うと男は片手を上げてゆっくり手を振った。手を下げて、視線を外し、男が人波に合流したとき、藤子を取り巻いていた気配も消えた。
 それだけだった。
 藤子は汗を掻いていた。その場に膝を付いてしまうほど疲弊していた。

 刺すような風が髪を撫でた。

(なぁに、それ)
 失笑する史緒。
(藤子に危害を加えたら私が黙ってないってこと?)
(馬鹿言わないで、そこまで義理堅く無いわ)
(藤子に何かあっても、それは完全に自業自得じゃない)
 そして藤子。
(あたしはやるよ)
(史緒に危害を加えたら、あたしが黙ってないってコト)
 それは嘘じゃない。
 だから史緒。あんたも、嘘じゃないよね……?











6. 12月20日 月曜日 16時50分

 その日はとても寒い日で、窓ガラスが曇って外が見られないほどだった。都内で初雪は観測されていないが日本海側では大雪になっているという。暖房によって室内は温かいのに、足下からの冷気に震えてしまうような寒い日だった。
 A.Co.の事務所では久しぶりに全員が揃っていた。
 史緒は自分のデスクに座り、部屋のあちこちに散らばるメンバーに事務的に言葉を投げる。
「───というわけで、無事に仕事の調整もつきました。予告通り、年末年始は異例の長期休暇になります」
 長期休暇と聞いて室内の空気が弛まる。あからさまに喜ぶ姿もあり史緒は苦笑しながら続けた。
「早い人は明日から、かな。年始は17日の月曜日から。私は三が日以外は電話番もかねて事務所にいる予定だから、有事の際には連絡ください」
「はいはい!」蘭が勢いよく手を挙げた。「あたしと祥子さん、明日からあたしの実家に行ってきます! おみやげ買ってきますね」
 今から楽しみな気持ちを抑えきれない蘭は声を大きくして言った。
 健太郎も手を挙げた。
「俺も実家。急用あったら電話かメールくれれば対応するよ」
「大丈夫だと思うけど」
「なにかあったときに、仲間はずれにされるのが嫌なの」
 すると、蘭が健太郎に近づいて不満そうにこぼした。
「ケンさんも一緒に行こうってお誘いしたのに、断ったのはご実家に帰るからなんですね」
「いや、それだけじゃないけど」
「どういうわけ?」
「だって、祥子。蘭の実家って言ったら…」
「え…? …って、あ!」
「おまえ、今更気付いたの?」
「だ、だって」
 祥子は蘭の実家が海外だということは知っていた。パスポートも取った。しかし祥子はあることを失念していた。蘭の実家は有数の大企業を抱える資産家だということを。
「俺も蘭の実家にはすっげー興味あるけどさ、気後れしそうだから今回はパス」
「え? え? なんですか〜。あたしの家がなに〜?」
「なんでもないって。蘭、おれは次の機会にでも挨拶させて」
「はーい」
 健太郎は祥子にいじわるく声をかけた。「帰ってきたらどんなだったか教えてくれよな」祥子は自分の考え無しを嘆くように項垂れていた。
 蘭はさらに史緒に声をかけた。
「史緒さんのお誕生日、近いですよね。プレゼント送りますから!」
「ありがとう」
 史緒は笑って返す。
 騒々しい蘭たちをよそに篤志は司に言う。
「俺は実家に顔見せるのは年明けてからだな。そっちの予定は?」
「僕は適当に。三佳は26日までバイトだっていうし」
「史緒は?」
「年明けたら確定申告の準備しなきゃならないの。年内いっぱいは事務処理。のんびりやるわ」
 それを聞いて三佳は冗談じゃない、と首を横に振る。
「そうはいかない。大掃除、手伝ってもらうからな」
 史緒は吹き出した。
「はいはい」


 最初に気付いたのは祥子だった。
「……えッ?」
 弾かれたようにドアのほうを向く。
 それはあまりに唐突だったので、史緒は訝って訊いた。
「どうしたの?」
 祥子はドアから目を離さない。
「誰か…」
「なに?」
「くる」
 ばんっ
 ノックも無しにドアが開かれた。それと同時に高く大きな声が響いた。
「こんにちはーっ」
 ドアを蹴破ったのではないかと思わせるような勢いで高校生くらいの少女がやってきた。祥子から遅れて、全員がその少女へ目をやる。場の空気を壊したことなど気にもせず、少女はにっこり笑って言った。
「史緒、います?」
 とりあえず、一番ドアの近くにいた篤志が応対する。
「失礼ですが、あなたは?」
「あたし? 史緒の友達」
 来客者が人なつっこい笑顔で答えると、一拍おいたあと、何故か全員、史緒ではなく祥子のほうを振り返った。
 愕然としたのは祥子も同じで、周囲からの視線でやっと我に返る。この場合、首を振るのは縦なのか横なのか迷う。しかしその表情からメンバーは察した。史緒の友達、というのは間違いない。そんな嘘を吐く必要性は無いと思うが、全員が一瞬疑ってしまったのだ。
「藤子」
 史緒は慌てて立ち上がり、デスクから離れた。
「やっほー」
「何の用?」
「あ。冷たい」
 史緒は藤子に迫り、耳元で凄むように言う。
「何の用かって訊いたのよ」
「まぁまぁ、せっかくなんだから紹介してよ」
「……」
 業務時間内に押しかけてきて、せっかくだからもないもんだ。藤子の意図は知れない。それでもここで紹介せずに追い返すのは不自然になる。
 史緒は突然の来客に驚いているメンバーに向き直って、藤子を紹介した。
「國枝藤子さん。私の…知り合い」
「もしもし? それじゃ、さっきのあたしの発言が嘘になるんだけど〜?」
「…友達」
 小さい声だったが、史緒にそれを言わせただけでも満足したようだ。
「そ。國枝藤子です。よろしく。あ、そっちの人は会ったことあるよね」
 来客者の女───藤子は、篤志のほうを見た。以前、夜中に史緒を送って来たときに顔を合わせたことがある。篤志のほうも思い出したようで、ああ、と声をあげた。
「ごめんね、あたしが付き合わせてるんだ。あんまり叱らないでやって」
 藤子のその台詞でピンときたのか、三佳が口を挟んだ。
「もしかして夜遊びの?」
「そうそう。あ、もしかして、史緒と同居してる子? うわぁ、一度、会ってみたかったんだ。すごく面倒見いいんだってね」
 次に、祥子が思い出したように言う。
「そういえば、前に、的場さんと御園さん以外に友達いるって言ってたのは…」
「あたしのこと? だと思うけど」
 ええと、と藤子は一同を見回して首をかしげた。
「なんで史緒の友達っていうだけでこんな珍しがられるわけ」
「そりゃあ…ねぇ」
 健太郎の笑い声が響いた。他はそれぞれ微妙な表情で視線を逸らしたものの、それが表す内容な同じもののようだった。
 たまりかねて史緒はもう一度訊く。
「なにしに来たの」
 藤子は今度はすぐに答えた。
「史緒の顔、見たくなって」
 しーん。
 室内の発言者が誰もいなくなる。不自然な沈黙になっても史緒が答えないので、幾人かが史緒のほうを振り返った。史緒は表情を崩して照れている。視線に気付いて顔を隠すがもう遅い。メンバーは素直に照れる史緒に驚いていた。
 ぽーん、と、終業を知らせる時報が鳴った。



 無理矢理に史緒が藤子を連れて外へ出て行ったあと、事務所内では、強烈な印象を残して去っていった藤子の余韻が残った。
「史緒の友達というには、意外なタイプだな」
 篤志は意外そうな表情で窓の下を歩く2人を見た。
「どうかな」
「なんだ?」
 司の硬い声に篤志は視線を室内に戻す。
「あの子、足音が無かった」
 あれだけ勢いよくやってきたのにそれまでの足跡が少しもなかった。ドアを開けられたとき本当に前触れがなかったので司は驚いた。
「えっと、あたしも」
 それに便乗するように蘭がおずおずと口を挟む。
「さっきの方、訓練してると思います。隙が無いっていうか…なんか恐い。ごめんなさい、史緒さんのお友達なのに失礼ですけど」
「あ、俺からもひとつ」
 雑誌を読んでいた健太郎が手を高くあげた。
「他は知らないけど、付けてた腕時計、100万するよ。まっとうな女子高生ではないと思うな」
 室内に微妙な空気が流れた。篤志と三佳はとくに感じるものはなかったようだが、次々に挙げられる見解に戸惑いが生じる。そして自然と、全員の目が本命の祥子に集まっていた。
 突然注目を受けて祥子は挙動不審になる。けれどそれぞれの目に訊かれていることはわかっていた。
「……うーん」
「どうした?」
「ちょっと、よくわからないんだけど」
 藤子がドアを開ける前、異質な人間が近づいて来るのが判った。他の人間と同様、いくつかの感情が混じっていたが、それでもこんな極端な偏りを、祥子は感じたことがない。
「……なにがそんなに楽しいんだろう、あの子」



*  *  *



 楽しくない日なんてあるだろうか。
 藤子は空を仰いだ。
 いつもどおり、空は手が届かないほど遠く、手の届く位置には愛すべき人たちがいる。それだけで充分、なにを憂うことがあるだろう。
 天上は雲一つ無い青が広がっている。
 この空を飛びたいと願ったことは無い。一度も無い。羽根を欲したことも無い。空は望むものじゃ無い、仰ぐものだ。
 ただ、藤子は足が欲しかった。
 この径を最後まで歩いていけるしなやかな足が。
 径の終わりを目指していつも歩いている。どうやって終わるかも、この径を歩き始めたときから知っている。行き着く先はわかっているのだから、あとは道程を楽しめばいい。
 でも。
 うしろから付いてくる友人は、そんな風には考えられないだろう。終わりなど想像すらできず、居心地の良い現在(いま)を維持させることに精一杯。その姿は端から見ていると可哀想なくらい必死だ。しかし自分のエゴを貫き通そうと努力する人間は愛おしくもある。

事務所(ここ)には来ないでって言ってあったでしょう?」
 史緒は恨めしそうな表情で言う。
「あたしが人殺しだから?」
「…うちは、勘がいい人間がいるのよ」史緒は口ごもった。「で? 今日は何の用なの?」
「さっき言ったじゃん。史緒の顔を見に」
「……なにか、あった?」
「ううん。ほんとにそれだけ」
「どこか入る?」
「あ、いいの。今日はこれから由眞さんのとこ行くから」
「じゃ、駅まで送る」
「──史緒」
「なあに?」
「……」
 藤子は確認せずにはいられなかった。潔癖で、藤子が知らない多くのものを抱えているこの友人が、まさか馬鹿なことするはずない。解っているのに、それでも確認せずにはいられなかった。
「だいじょうぶだよね? らしくないこと、しないよね?」
 遠まわしな言い方に史緒は軽く笑う。
「なんのこと?」
「自分が守らなきゃいけないもの、ちゃんとわかってるよね?」
「……なに?」
 不審を感じたのか史緒は視線を向ける。しかしそれには応えない。
 藤子は手を伸ばす。
 史緒の首に両手を回して、そのまま抱き寄せた。
「…っ」
 細い肩は藤子の力でも折れそうだった。
「と…、藤子?」
 身を捩る史緒を屈させるように、構わず力を込める。
 好きな人と抱き合うと感動する───史緒を抱きしめたのはこれが初めてだった。その愛しい存在の温かさに込み上げるものがあって息が震えた。
 藤子はゆっくりと息を吸う。
「幸せになってね」



「──」
 史緒は不吉な既視感に襲われた。
 ぞわりと背筋を伝わる不安に泣きそうになる。
 目の前が霞んだ、その言葉を耳にして。
(そんな台詞、聞きたくない)
(その言葉には、なんの意味もない)
 かつて同じ言葉を聞いたときの記憶をまさぐり始めたとき、両肩を引き剥がすように藤子は離れ、豪快に笑った。
「ここまででいいよ。じゃあね! よい御年を!」
 そのまま踵を返し歩道を走っていく。
 抱きしめられていたぬくもりが消えて喪失感が残った。
「……藤子?」
 思わず呟いた。聞こえなかったのだろうか、藤子は振り返らなかった。
「藤子ッ!」
 冷たい冬の風が吹いた。氷の欠片が髪を漉いていくような、痛いくらいの寒冷。
 結局、藤子は立ち止まらずに行ってしまった。
 嫌な予感がした。
 史緒は確かに、それを感じ取っていた。







42話「キラーの恋-latter-」  END
41話/42話/43話 

参考:
「百人の殺し屋」(笑いのページ)
「バイトファイル-殺し屋」