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43話「星が生まれた日 前編」 |
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▲01.12月22日 水曜日 22時 雪が積もったような夜空だった。 タクシーから降りて史緒は空を仰ぐ。冬の澄んだ夜空に薄く雲が広がっていた。月明かりが透けて雲が明るい、それがまるで雪のように見えた。「…っ」あっという間に体温を奪われて身体がぶるっと震えた。暗い空に、白い息が拡散していった。 タクシーのドアが閉まる音で視線を戻す。目の前のマンションのエントランスへと足を向けた。─── 一刻前、桐生院由眞から電話があった。こんな夜遅くに呼び出されたのは初めてのことだった。 部屋の前でインターフォンを押すと、ドアを開けて出てきたのはいつもの由眞の秘書。年齢不詳の可愛らしい女性。そろそろ3年になるが、実は名前も知らない。愛想は良いが余計なことは喋らない人だし、由眞も紹介する気は無いようだった。 「あれ、私が最後?」 コートを脱いで奥の部屋へ入ると、暖房の効いた空気に包まれて身体がほっとする。部屋の中には由眞と、それから文隆と真琴が待っていた。ふと見ると窓の外が暗い。時間を考えれば当たり前なのだが違和感があった。いつもは昼間に訪れるからだ。 いつもとは違う時間に呼び出した張本人・桐生院由眞は史緒が落ち着くのを待って切り出した。 「3人とも、夜遅くにごめんなさいね」 文隆はまったくだと言わんばかりだ。 「仕事ですから」 「仕事っていうか…、お願いがあるのよ」 「帰っていいですか?」 仕事じゃないなら用は無いだろう、文隆は由眞にいちいち突っかかる癖がある。しかし由眞はそれを相手にせず話を続けた。 「実質的にお願いするのは史緒になると思うわ」 「…なんですか?」 「藤子と連絡が取れないの。───探してきてくれない?」 その台詞に眉を顰めたのは史緒だけではなかった。何の冗談だと思ったが由眞は真顔だ。 「本当に、帰っていいですか?」 「年末の忙しいときに僕らで遊ばないでください」 「あら、あなたたちの仕事量は把握してるつもりよ。だから、史緒にやってもらうの。史緒のところはものすごく暇だから」 ものすごくは余計だ。けれど他の2人に比べて時間があるのは事実。だからといって、やることが無いわけでは無いのだが。 「そうなの?」 「ええ…。今年はほとんどが実家に帰るから、仕事を調整してたの」 真琴と小声で話していたら由眞に睨まれた。 「経費はちゃんと払います。腕試しだとでも思って、藤子をここまで引っぱってきてくれないかしら。2,3日経っても見つからなかったら諦めるから。ついでに、もちろん史緒の評価も落ちるけど」 「國枝藤子もグルですか?」「まさか鬼ごっこでも?」 文隆と真琴の冷やかしに由眞は小さく笑ってかわす。 「まぁ、そんなところね」 「あのう」史緒は口をはさむ。「連絡が取れないのはいつからですか? 藤子だったら2日前──20日の夕方に会いましたけど」 「どこで?」 「私の事務所です」 「───よく行くの?」 「いえ、はじめて」 そう答えると由眞はなにやら考え始めた。 「ともかく」文隆が話を切る。「俺はパス。國枝藤子には関わりたくない」 そして真琴も。 「僕は、國枝はどうでもいいです。ただ余計な仕事は持ち帰りたくありません」 「そう。───じゃあ、史緒」 「……はい」 どうやら史緒に拒否権は無いらしい。2人に倣って職務放棄というわけにはいかないようだ。 「あなたなら、藤子が寄りそうな場所も判るでしょう? 手腕に期待して、結果を待ってるわ」 「はい」 「私が藤子と最後に連絡を取ったのは昨夜──21日の夜8時よ。こちらのほうが後だったみたいね。…あぁ、それから、後ろの2人に進捗報告すること」 「え?」 「結局、手伝わせるのか」 由眞はデスクから立ち上がり、窓辺に寄った。 「史緒まで連絡が取れなくなったら困るでしょう。文隆と真琴は史緒の居場所は掴んでおいてちょうだい」 お願いね、と振り返った顔は、いつもどおり不敵な笑みを浮かべていた。 誰もいなくなった部屋で、由眞はしばらく考え込んでいた。 深い溜息を吐く。いくら考えても同じところへ収束するだけだった。 「そう…、史緒のところへ行ったの」 その事実は、由眞が昨夜から憂えている可能性を80%から95%へ引き上げた。 現時刻、12月22日午後11時。 由眞はきつく目を閉じる。 「だめかもしれないわね」 窓の外は暗い。いつになく、不吉な色だった。 |
▲02.12月19日 日曜日 22時 藤子は鼻歌を歌いながらマンションまでの道を歩いていた。 駅周辺は人通りもあったがひとつ奥に入ってしまえば静かな住宅街。この時間に通り過ぎる車も人影もなく、窓からの明かりだけが煌々と道を照らしていた。 (さむい〜。早くおフロ入りたーい) もう12月も半ば。吐く息も白い、藤子はマフラーに顔を埋めて足を速めた。髪の先まで凍ってしまいそう。自然と肩をすくめた姿勢になってしまう。今日の白いコートはポケットがついていないので凍えた指先を服の中に入れることもできない。手袋はしない主義。藤子は仕方なく両手を繋ぎ合わせて指先を温めていた。 (おなかへった…。やっぱり、駅前のスーパーに寄ってくればよかったなぁ) マンションの前にコンビニもあるが、寒さで真っ赤になった顔を店員に見られたくない。冷蔵庫に残っている食材を思い浮かべてどうにかなると踏んだ藤子はコンビニに寄ることを諦めた。マンションまではあと100メートルほどだった。 (───) 藤子は足を止めた。 軽く舌打ちをすると、丸めていた背筋を伸ばし息を整える。背後の気配に意識を集中させた。覚えのある、まとわりつくような空気に気分が悪くなった。 「ねぇ」 振り返らずに声を出すと、その声は夜道によく響いた。 「この時期にストーカーは寒くて大変ね」 闇から低い声が返る。 「仕事ですから」 藤子はここ数日、後をつけてくる気配に気付いていた。最初は真っ昼間の街中、反対側の歩道から手を振った人影の気配だった。そして今日、藤子は初めて相手の声を聞いた。 振り返ると黒いコートに黒い鞄を持ったサラリーマン風の男が立っている。藤子はその距離に驚いた。思っていたよりずっと近くに立っていた。 「それに、寒さで言ったらスカートを履いてる國枝さんには負けますよ」 さらりと藤子の名前を口にした。当然、調べてあるのだろう。暗いので顔は見えない。ただ人好きのする声と口調だった。 「寒さを我慢できずに冬のオシャレはできないの」 「女性は大変ですね」 「今日は早く帰っておフロ入りたいんだけどなー」 「手数はかけさせません。今日は挨拶だけです」 「挨拶? じゃあ、名乗ってくれるわけ?」 「通称は、“鈴木”といいます」 目の前の男を警戒する意識のうち、少しを記憶の検索に回す。同業の名前は調べているつもりだったが、その名は聞いたことがなかった。 「鈴木くんかぁ。本名だったら笑ってもいい?」 鈴木は笑ったようだ。 「裏稼業で本名を名乗ってるのはあなたくらいですよ」 「そっちも殺し屋なの?」 「そういう、型にはまった職種で呼び合うのは気色悪い馴れ合いだと思いませんか」 「便宜上の部類分けでしょ。そういう妙な差別意識持ってるほうが気色悪くない? 鈴木くん、友達いないでしょ?」 「國枝さんは友達いますよね」 ぴくりと藤子の眉が動く。「───聞きたいんだけど」 「どうぞ」 「鈴木くんはあたしを殺すの?」 「依頼内容はそういうことになってます」 「もうひとつ。これは復讐?」 藤子にとってこれは重要な質問だ。答えてくれる可能性は低いと思ったが、鈴木は頓着なく喋った。 「わたしはクライアントの動機に興味はありません。でも、そうですね。復讐、では無いようですよ。なんでも、國枝さんが持つ鬼籍に、名前を書かれてしまったとか」 「臆病な依頼主さんなんだ」 「そのとおりです」 ここは住宅街。面倒をしたくないなら、助けてと高く叫ぶだけで鈴木は去るだろう。けれど鈴木のストーカー状態が長引くのはもっと面倒だ。今後の対策のために追っ手の実力を見極めておかなければならない。 「復讐ではないわけか」 藤子は右足を一歩引いた。 「それなら───抵抗するよ」 音もなく、藤子は指先にナイフを閃かせた。鈴木は動かない。 次の瞬間、藤子は下段から襲いかかる。1秒足らずで鈴木の懐に入った。鈴木は一歩も動かない。藤子は鈴木の腹にまっすぐ刃を入れ───ようとして、寸止めした。鼻先に鈴木の胸がある距離でしばし停止する。鈴木も動かなかった。 くす、と藤子は笑って構えを解いた。 ナイフの 「防刃ベストでは無いみたいだけど」 至近距離の鈴木を見上げる。そのとき初めてはっきりと鈴木の顔を確認した。30代だろうか、髪を撫でつけてこざっぱりとしている風貌は普通の会社勤めのサラリーマンに見える。その顔が藤子を見下ろした。 「鉄板を入れてるだけです。こんな風に事前準備ができれば國枝さんの相手は容易いということです」 「舐められたものんだ」 藤子は軽く笑うとそのままの姿勢から鈴木の目に向けてナイフを突き出した。しかし鈴木は首を傾けるだけでそれを躱す。 (速い) もう一度、藤子はナイフを切った。さっきより際どい角度に入ったそれを鈴木は地面を蹴って避ける。しかし藤子はそれを見越して左手を繰り出していた。 「…っ」 躱しきれない軌道に入っていたはずなのに鈴木は皮一枚で外れた。空を切った手首を鈴木の肘で打たれて右腕に痺れが走る。鈴木はそのまま身体をひねり藤子の頬に拳を入れた。藤子はアスファルトの上に転げたが、回転を利用してすぐに立ち上がった。 構えることはしない。それを見て鈴木も手を下ろした。 「…今のはやられるところでした。流石ですね」 「女の顔殴るなんてサイテー」 「失礼しました。次は気を付けます」 「ホントだよ。腫れちゃったらデートもできないじゃん。それから! 鈴木くんがあたしを仕留め損なったら、クリーニング代、請求するからね」 アスファルトの上で受け身を取って、白いコートは台無しになってしまった。 「そのときにわたしが生きているか謎ですが」 「いいよ。クリーニング代を払わせるために、生かしておいてあげる」 「それはどうも。次は、そうですね24日…金曜日の夜に来ます」 「なんで24日?」 「本業が商社勤めなので、週末じゃないと動けないんですよ」 「イヴの夜に仕事? クリスマスに一緒に過ごす家族も恋人もいないの?」 「國枝さんは恋人いますよね」 「いちいちムカつく言い方するなぁ!」 「すみません」 「ドタキャンしてもいい?」 「追いますよ」 「がんばって探してね」 藤子が科をつくって言うと、鈴木は背を向けて去っていった。 鈴木の気配が完全に消えた後も、藤子はその場に立ちつくしていた。 キン 「!」 夜の静寂に金属音。それは自分がナイフを落とした音だった。 (……っ) すでにこの刃は身体の一部。 (落としたことなんて今までなかったのに) 鈴木の肘に打たれた手首が痺れていた。痛めたわけじゃない、一時的なものだ。しかし藤子は身体の異変に気付いた。手首の痺れが全身に伝わったように、背筋が震えていた。 寒いからじゃない。 (これは、とうとう来たかなぁ) 背中に汗を掻いていた。 |
▲03.12月23日 木曜日 15時 史緒が図書館に入ると、カウンターにはいつもどおり谷口葉子が座っていた。こちらに気づくといつもどおり視線だけで挨拶をする。視線を離される前に史緒はカウンターに近づいた。 「あぁ、國枝さん? 来たよ。3日前かな」 藤子について訊くと、あっさりと回答があった。 昨夜、由眞から藤子を捜すオニに任命させられて、1日目。まず、藤子の携帯電話に掛けてみたがRBT(=呼出音)が鳴り続けるだけだった。しかしこれは今に始まったことではない。仕事で動いているときや、それから北田と会っているときは藤子は絶対に電話に出ない。 次に藤子がよく顔を出しているショップやクラブ、リテさんや青嵐のところも一通り回ってきた。しかしそれだけ訊いて回っても目撃証言は無し。史緒は段々心配になってきていた。 (最初からこっちに来ればよかった) 3日前──葉子が答えた日付は、史緒が最後に会った日と同じだ。藤子の足跡をたどるために史緒は時間を訊いた。 「昼過ぎだったかなぁ。阿達さんのほうにも行ったんじゃないの? 帰り際にそんなことを言ってたよ」 ということは、ここへ寄った帰りにA.Co.に足を運んだことになる。 (あの日───…?) 3日前のあの日。 来るなと言っておいた事務所に藤子は押しかけた。なんの用かと尋ねれば「史緒の顔を見に」と笑う。へらへらと笑って、本心を見せない、なにかをごまかすように。 「藤子、なんの用だったんですか?」 「なにって、本を返しに来て、それから毎度の仕事を頼みにきて」 「その他にどこか行くとか、なにか言ってませんでした?」 「なにも?」 (あの日) (藤子の様子、おかしかった…?) 手を振って走り去った。 ──だいじょうぶだよね? (なにが?) ──らしくないこと、しないよね? (らしくないことってなに?) ──守らなきゃいけないもの、ちゃんとわかってるよね? (わかってる。なんで、そんなこと訊くの?) 史緒は途端に不安が広がるのを感じた。3日前、様子がおかしかった藤子。その藤子に、今は連絡が取れない。 (藤子?) 「なに、連絡取れないわけ?」 葉子の問いかけにはっと我に返る。 「えっ? …ええ、まぁ」 「じゃあ、手を引いたほうがいいんじゃない?」 「どうして?」 史緒の返答を聞いて、葉子は眉を顰めた。 「どうして…って。なにかあった可能性はかなり高いと思うけど」 「───ッ」 漠然としていた不安を容赦なく突き刺された。思わず顔が歪む。そしてそれを葉子に見られた。 「あのさぁ」 「…はい」 「私は國枝さんのことを快くは思ってないわけ。彼女になにかあったとしても、私は関わりたくないな」 文隆や真琴と同じことを言う。それは藤子の職業を知っている人間なら普通の反応なのかもしれない。 「私が國枝さんを邪険に扱うのは、ヤツ自身を嫌いなわけじゃない。下手に情が移らないようにするためだ。…青臭いことを言うようだが、情が移ってしまったら、相手になにかあったとき自分が痛い思いをする。そうならない為に危険を伴う人間には近づかない。それは当然の防御本能、処世術だろう? 阿達さんは國枝さんに対してそういう危機感が足りないと思うよ」 「…藤子に、…危険が伴うと?」 「あたりまえじゃないか」 「!」 「あいつはいつ死んでもおかしくない。そんなことも判らないで、國枝さんと付き合ってたの?」 胸を突かれた。判っていたはずのことを、他人から言われただけのことなのに。 |
▲04.12月20日 月曜日 15時 藤子が図書館に入ると、カウンターにはいつもどおり谷口葉子が座っていた。葉子はちらりと顔をあげると、いつもどおりあからさまに嫌な顔をする。 「葉子さん、こんちはー」 「…早かったな。連絡してから30分経ってないぞ」 「ちょうど近くにいたから。で? お願いしておいたことは?」 催促をすると葉子は辺りを窺った。平日のこの時間は人が少ない、それでも慎重に、葉子は封筒を差し出した。「どうぞ」 「半日でレスくれるなんて、さっすが葉子さん」 「アウトラインだけでいい、納期重視という注文だったからな──おい」 封筒を受け取ってそのまま封を切ったら避難の目を向けられた。 「まーまー、誰もいないし、いいじゃん」 怒鳴られるかと思ったが場所をわきまえたらしい。葉子はそのかわり大きく舌打ちした。 「…おまえの同業で通称が鈴木」 と、嫌そうな声で言う。今回の調査対象について。 「でも鈴木は殺し屋じゃないぞ」 「へぇ」 「始末屋、だな。実際、調べた限りでは鈴木が殺しをしたことはない。仕事の遣り方は主に“素手”。仲介人は通したり通さなかったり。仕事の絶対数は少ない、兼業なんだろう。成功率だけならランクは上の中。そのあたりは青嵐に訊いたほうがいいんじゃないか?」 「セーラくんはお金じゃ動かないから」 書類を封筒に戻してバッグにしまう。 「ありがと、葉子さん」 「ああ、早く帰れ」 「あっ、史緒になんかある? これから史緒のとこいくんだ」 「まだ阿達さんと付き合ってるのか?」 「すごく嫌そうに言わないで」 「正直、嫌だな。阿達さんの保護者もここに通ってるんだ。合わせる顔がない」 「史緒の保護者って?」 「阿達さんの親戚」 「へ〜。あ、もしかしてこのあいだ会った男の人かな。今日会えるかも」 「おい」 「おっと、そろそろ行くね。じゃあね〜」 いつものように騒々しく大きく手を振って、藤子は図書館を後にした。 |
▲05.12月23日 木曜日 21時 史緒は藤子のマンションへ来ていた。住所は知っていたが、来たのは初めてだ。藤子と会うときは必ず外に出ていたので、お互いの家に行くこともなかった。もっとも、史緒は事務所(=家)には来ないよう言っていたのだけど。 当然、予想していたように、チャイムの応答は無い。ドアに耳を峙ててみても、とくに人の気配は感じられなかった。 (藤子…) 焦りが生じている。葉子が変なこと言うからだ。 (どこにいるの?) ふと思いたって、史緒は小走りでエレベーターホールまで戻った。携帯電話を取り出し、アドレス帳の検索をかける。 (なにか知ってるかも) その人物に電話するのは初めてだった。 コール8回でやっと繋がった。かなり間があって「…もしもし」というあきらかに怪しむ声が返った。 「北田さん? あの、突然ごめんなさい。阿達です」 北田千晴。藤子の恋人。最初から彼に連絡を取っておくべきだった。史緒が知る中で、もっとも藤子に近い人間だから。 「……阿達?」 「藤子と連絡が取れないんです。北田さんは藤子の居場所、ご存じないですか?」 何故か沈黙。口数が少ない人だということは知っている。史緒が辛抱強く待っていると、北田は思いの外、強い語調で言った。 「藤子を捜すのはやめたほうがいい」 「え?」 「そのうちわかる」 「…どういう意味?」 「もうかけてくるな。君とは馴れ合いたくない」 「北田さん?」 ぷつり、と電話は切られた。 史緒は迷うことなくリダイヤルする。すると今度は着信拒否されていた。次に苦情覚悟で非通知でかけてみる。非通知は許可しているらしく繋がった。しかしいくら鳴らしても北田はでなかった。 (捜すのはやめろ…って、どういうこと?) ──君とは馴れ合いたくない (馴れ合いって…) もしかして嫌われていたのかもしれない。そう考えると軽くショックだった。 マンションの管理人は101号に住んでいるらしく、史緒はそこを訪ねた。 「夜分に申し訳ありません。502号の國枝の友人です。彼女、最近、帰ってきてますか?」 夜の9時を過ぎて訪問した史緒に、当然、管理人は良い顔をしなかった。夕食を終えてテレビでも見ていたのか、ラフな格好の中年女性が玄関から顔を出した。 「國枝さんは、何日か前にスーツケース持ってでかけましたよ。わざわざ挨拶に来てくれましたもん。しばらく旅行で留守にするって」 「旅行!?」 どっと押し寄せた脱力感。人騒がせな、と文句を言いたくなったが、それでも史緒は安堵に胸をなで下ろした。旅行なら部屋にいないのは当たり前だし、連絡がつかないのも納得はいく。 (……でも) 由眞になにも言っていかないのはおかしくないだろうか。それとも千晴は知っているのだろうか。 「それは何日のことですか?」 「ん〜、2日前…21日かな。ちょうどこのくらいの時間に。夜でかけるのも変だな〜と思ったんですけど」 「すみません、國枝の部屋を開けていただくことはできませんか?」 「できるわけないでしょ」 「お願いします、緊急なんです」 「無茶言わないで。…保証人ならともかく」 管理人の主張は正しい。ただの友人というだけではどうにもならない。史緒は必死で上手い言い訳を考えたが、管理人を納得させられるだけのもは浮かばなかった。しかし、ふと閃く。 「もしかして…、國枝の保証人は、桐生院という人物では?」 管理人は少し考えてから訝しげに言った。 「そうですけど?」 * 「後でもめても困るんで、すぐ出てもらいますよ」 前を行く管理人は不満げな表情で振り返った。 「ええ。お手数おかけして申し訳ありません」 史緒は桐生院に電話をして、委任状をFAXしてもらった。───よくよく考えてみれば、藤子だけでなく、史緒たちが構える事務所の連帯保証人は桐生院由眞となっている。すぐに気付くべきだった。 委任状で納得はしてもらえたものの、それでもしぶしぶと管理人は鍵を持ってきて、史緒の前を歩く。 「國枝さんは、最近の若い子にしちゃイイ子だよね。挨拶もしっかりしてるし、滞納もないし。最初は、なんでこんな子供がウチみたいなところに、パトロンでもいるのか、って噂になったもんだけど、保証人がどこかの会社のお偉いサンだって聞いて納得したもんだ。なんだか高価そうな車に乗ってきて、丁寧に挨拶に来たよ」 「…そうなんですか」 史緒は適当に相づちを返しておいた。 藤子が旅行に出たのならそれでいい。スケジュールやパンフレットの類が部屋に残っていれば安心できる。もし別件でも、なにか手がかりが残っているかもしれない。 「すぐに出てもらうよ」 管理人はもう一度念を押して、藤子の部屋の鍵を開けた。 史緒ははじめて藤子の部屋に入った。当然、室内は真っ暗。照明は付いてない。 スイッチを探そうと壁に手をやったとき、史緒は視界の端に小さく光ものをみつけた。 (なに…?) 緑色の光が史緒の手元でゆっくり点滅している。 ぱちり、と電気が点いた。後ろにいた管理人がスイッチを入れてくれたのだ。 光っていたのは、靴箱の上に置かれた携帯電話だった。 「……なんで?」 見覚えがある。藤子のものだ。史緒はそれを手に取ってフタを開けた。ディスプレイに文字が表示される。 【着信 4件】 3回は史緒がかけた。もう1回は由眞だ。 それにしても、どうして藤子は携帯電話を置いていったのだろう。純粋に忘れていったのか、それとも…。 靴箱の上には、もうひとつ、小さな紙切れが置かれていた。どうやら携帯電話はその紙の重しにされていたらしい。 (なに…?) 二枚折りのメモ用紙。史緒はそれを手に取り、開いた。 bye. 小さく一言。特徴のある丸文字。 「……藤子?」 史緒は青ざめた。 |
▲06.12月21日 火曜日 21時 藤子は玄関でブーツを履いてから振り返った。 自分の部屋がいつにも増して乾いて見える。冷ややかな空気は乱されるのを拒むように重い。そんな部屋のなか、天井に吊された照明の明かりはまるで舞台のライトのように生活感が欠けている。白い壁紙には染みひとつ無く、赤いドレッサーの上には櫛も置いて無い。一度も使われたことが無いベッド、水滴も無いシンク。 (まるで、おままごとだ) ───まさか違うとでも? 自問して、自嘲する。 この部屋で食事をして、寝て、学校へ行き、遊びに出掛けて、この部屋に戻ってくる。そのとおり、この部屋での生活はおままごとに違いない。 藤子は帰る部屋など無くても生きていける。こんな部屋は必要無かった。 「ここではそういう生活があたりまえなのよ。頼むからそうしてちょうだい」 外聞を気にする由眞の言うとおりにした。でもおそらく由眞は、藤子に、このおままごとのような生活に馴染んで欲しかったのだろう。 途端に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。 (由眞さん、ごめんなさい) (あたしを捜してくれてありがとう) 学校にも通わせてもらったのに、結局、我慢できずに辞めてしまった。 (迎えに来たこと、お願いだから後悔しないで) (せっかく見つけてくれたのに、ごめんね) (もしあたしがいなくなっても、紫苑くんがいるから平気だよね) 藤子は携帯電話を靴箱の上に置いた。携帯電話にはメモリも着歴も発歴も残していない。この部屋の家具と同じ、いつ捨てても構わないものだ。 (またここに戻る確率はどれくらいかな) 無駄なことを考えていることに気付く。そんなことを思うくらいには、ここでの生活に未練があるのか。 藤子はスーツケースを持ち上げ、乾いた部屋を後にした。 玄関の鍵を閉めると、鍵はそのまま新聞受けに落とした。 ぴんぽーん 「晴ちゃん、こんばんは〜」 ドアを開けるなり、千晴はうんざりした顔をする。大きく溜息を吐いてから藤子を睨み付けた。 「連絡入れなかったろ」 千晴は珍しく怒気を表した。 藤子は千晴と付き合い始めたときに、部屋に来るときは必ず事前連絡することを約束させられていた。おそらく千晴は、会う前に気持ちを切り替えなければ、伯父の仇である藤子と付き合えないのだろう。それが解っていたので藤子は約束を守り続けた。けれど今日、藤子は初めてその約束を破った。 「ごめん。すぐ帰るから許して?」 「なにか用か」 「あのね、せっかくクリスマス空けてもらったのに会えなくなっちゃった。ごめんなさい。すごく楽しみにしてたのに。ほんっとに残念なんだけど」 「わかったよ。それだけか?」 「つーめーたーいー」 早く帰れ、という千晴の態度に藤子は頬をふくらませて抗議する。千晴は無言で部屋の中に戻ろうとしてしまうので、あわててその腕を捕まえた。 藤子は表情を消して、真顔で言う。 「もう会えないかも。だからキスして」 そのとき、今日初めて、千晴は視線を合わせてくれた。それだけのことに感傷が押し寄せる。けれどそのような独りよがりな思いは、千晴が知る必要は無いことだ。 千晴は動かない。待ちきれずに藤子が両手を伸ばす。強引に唇を押しつけた。いつもより少しだけ長く。千晴はそれにも応えることができない。 離れた藤子はもういつものように笑っていて、 「じゃあね」 走って、去って行った。 |
▲07.12月23日 木曜日 23時 「…わかった。ともかく史緒も、今夜は帰ったほうがいい」 文隆は電話の向こうへ宥めるように言う。いつになく狼狽し、要領を得ない喋り方をした史緒は文隆の言葉を聞きそうにない。「三佳ちゃんが心配するだろ」と付け加えたらやっと大人しくなった。 通話を切ってから溜息を吐く。すると室内から声がかかった。 「史緒、なんだって?」 真琴はソファの上で足を伸ばして、電話が終わるのを待っていた。 「國枝藤子の不在は事件性があるらしい。史緒はえらく慌ててる」 「……へぇ」 「読めていた展開ではあるか」 「薄情だなぁ」 「薄情で結構、俺ははじめから協力する気なんてない」 乱暴に椅子の上に電話を投げる文隆を横目で見て、真琴は肩をすくめて見せた。もちろん、真琴だって國枝藤子に関わりたくないのは同じだ。 「媼も、有事を悟ってるようだったよ」 「いや、確信はしてないだろ。こうなると判ってて史緒に捜させているなら、それは人格を疑うくらい趣味が悪いぞ?」 史緒に國枝の屍を探せと言っているようなものだ。 大体、桐生院由眞が國枝を見つけて来いというのは不自然すぎた。史緒はそれに気付かなかったのだろうか。桐生院が國枝と最後に連絡を取ったのは「昨夜」だと言った。たかだか24時間連絡が取れなかったくらいで文隆たちを集めた不安要素が桐生院にはあったのだ。 「媼が何かしらの不安要素を持っていたのは間違いないね。史緒に依頼したのは…、そうだな、事件性が無いほうの可能性に縋って、杞憂であることを確認したかったんじゃない?」 「それは想像し難いな。あのばあさんが、そこまで俺らに情があるとは思えない」 「“俺ら”じゃない、國枝に、だよ」 「ばあさんからしたら同じ駒だろうが」 「違う。媼にとって、國枝と僕らは違うんだ」 「……?」 視線を向けた文隆に、真琴は笑ってごまかした。「それより文隆」 「今更、國枝の身に何か起きても、それに驚く僕らじゃないだろう」 「そうだな。俺らはな」 「そういう意味では、無事でいて欲しいよ」 國枝藤子のことなど放っておけばいい。 ただ、放っておけない人間もいるということだ。 |
▲08.12月23日 木曜日 23時 藤子は新宿のWホテルに宿を取っていた。 WホテルはJR新宿駅の南口から徒歩15分のところにある。都庁のすぐそばだ。休日深夜のビジネス街に人通りは無い。クリスマスのイルミネーションが道を照らすだけで、通りは静まりかえっている。甲州街道を走る車の音が遠くに聞こえていた。 藤子は外で食事をして、ホテルへ帰る途中だった。 足を止めた。数メートル先に立つ人影に気付いたからだ。あれだけひどい気配を漂わせていたのに、今日はそれがない。 「24日って言ってたじゃん、うそつき〜」 そう言うと暗闇から声が返る。 「今日、会社休みだったんですよ。祝日だってこと忘れてました」 「だから早く片づけておこうって? 相手の都合を考えない男はいろんな意味で失格」 「今日できることは今日済ます 藤子は遣りづらさに頭が痛くなった。新宿のど真ん中と言っても暗い通りは暗い。それから言い訳にもならないが、動きづらい服を着ている。24日と言った予告違反をする人物にも思えなかったので本当に油断していた。 「大人しく付いてきてもらえませんか」 「どこへ?」 「 「ここだって、 「大人しく一緒に行くのと、眠ってるあいだに連れていかれるのはどちらがいいですか」 「第3の選択はない?」 「ありません。───…っ」 音も、前触れもなく、鈴木の右頬に赤い線が走った。 同時に、背後の街路樹にナイフが突き刺さる音。タンッ、と軽い音が、刃物の鋭利さを物語っていた。この距離で、カーブを描かずにほぼ直線的に空を切ったナイフ。そんな筋力があるとは思えない細い腕を向けたまま、笑みが消え去った藤子の両眼が鈴木を見つめていた。 3秒後、鈴木の頬から赤い液体が滴り落ち、顎を伝い、静かにアスファルトに落ちた。 「鈴木くんの力量は量れたつもりだけど、無様でも、抵抗することにしたから。───次は眉間よ。外すつもりはないわ」 足を少し開き、構えを取る藤子の姿を見て鈴木はにやりと笑った。 「意見が合いますね。わたしも、國枝さんを逃がすつもりはありませんよ」 「!」 不意に間合いを詰められ、咄嗟に藤子は退いた。そのまま刃先を向けようとしたが投げの姿勢にはいっていたので構え直す暇はなかった。それくらい速かった。鈴木の蹴りは完璧には避けきれず、腹にくらった衝撃にアスファルトの上に手をついた。 すぐに体勢を整え構え直す。 「顔は避けました」 「げほっ……。さすがに、懐に素手で攻撃するような馬鹿はしないかぁ」 「もちろん。対ナイフ使いの初歩です」 「ナイフ使い…って、ダサいよ、それ」 「じゃ、刃物使いで」 「……シブいかも」 無駄口を叩きつつも藤子は鈴木の動きを瞬きもせず観察しつづける。 鈴木が、一歩、踏み出した。 「…っ」 藤子は素早く身を翻した。先日の受け身一貫と比べて鈴木の動きはまるで違う。体格からは考えられないくらい俊敏な動き、なにより藤子とは腕力の桁が違う。 予期した鈴木からの攻撃は無かった。少しの間の後、ゆっくりと近づく足音が響いた。 藤子は大して動いてないはずなのに、緊張の為か息が乱れている。 (…飛び道具は持ってないはず) 息を整えながら、藤子は構えた。 |
▲09.12月24日 金曜日 08時 史緒は怒鳴られて目が覚めた。 「またソファで寝て!」 同居人の三佳に毛布をひっぺがされる。エアコンをつけてから寝たので寒くはなかったが、やはりどこかひんやりとした空気が伝わって史緒は「さむい」と小さく抗議した。 「冬くらい大人しくベッドに行け。エアコンつけっぱなしも電気の無駄!」 朝から元気の良い三佳の声が家の中に響き渡る。 「うん…」 ソファから離れて毛布をたたんでいると、幾分抑えた声で三佳が訊いてきた。 「昨夜も遅かったし、桐生院さんのほうの仕事、うまくいってないのか?」 「あ、ううん。そういうわけじゃないの。実を言えば仕事じゃなくて、単に頼まれごとだから」 「今日もでかけるのか?」 「ええ。それよりこっちの様子はどう? なにかあった?」 「とくになにも。私は明後日までバイト。それと電話番と掃除。司は病院行ったりこっちに寄ったり。篤志は大学に顔出してるらしい」 「そう。…あ、結局、掃除手伝えてない」 「手伝わなくて正解。足手まといになるだけだ」 「ヒドイ」 「あと香港組からも電話が一本」 「なんて?」 「“Merry Christmas”」 「…あー」 「23日は天皇誕生日で祝日。24と25はキリスト誕生日で平日だけど世の中大騒ぎ。いったいこの差はなんだろうな」 三佳が真面目にそう言うので、史緒は思わず笑ってしまった。 確かに両方誕生日ではある。比較するものではないと思うが、とくにクリスマスの世間の浮かれ様は確かに興味深い。 ひととおり笑った後、史緒は三佳にお礼を言った。 「ありがと」 三佳は肩をすくめる。 「どういたしまして」 しっかり朝食を摂らせられて家を出た。 立ち止まっていられないくらいの寒さに自然と早足になる。 (心配させてるうえに気を遣わせて…、本当、どっちが保護者だろう) 同居人の島田三佳は7歳年下。それなのにどちらがしっかりしているか、もし事務所の仲間に訊いたら、全員が三佳を指さすだろう。果たしてこの先、三佳が家を出るなんてことがあったら、自分はひとりで生活できるだろうか。 (むり) 情けなさに苦笑してしまう。もちろん、自分から離れていく人を引き留めることなど、できないけれど。 (…藤子) ──Merry Christmas そういえば街中が賑やか。藤子はこのお祭り騒ぎが好きだと言っていた。 「楽しめるものは楽しんでしまえっていうのが、この国の宗教観でしょ? そういうノリは、あたし好きだよ」 そう笑ったのを見てから、まだひと月も経っていないのに。 (どこへ行ったの?) (あの書き置きは誰に向けたもの? どういう意味?) 英単語の意味を知らないわけじゃない。「bye.」その意味を考えてしまうのは怖い。 そう、怖いのだ。 (ねぇ、藤子。誰にも言ったことなかったけれど、私の行動理念はね…) ずっと昔から、ネコが死んだときから、篤志と司に一緒に来て欲しいと頭を下げたときから。史緒にはそれだけしかない。 (もう、なにも失いたくないの) わがままだけど、その些細な願いを、ずっと守っていこうと思っていた。 (本当にそれだけなのに) (もしかして、口にしなければいけなかったの?) そのとき電話が鳴った。 「もういいわ」 由眞は開口一番にそう言った。 「え?」 「藤子の捜索は中止。文隆と真琴にも伝えて、解散してちょうだい」 「なにかわかったんですか?」 「なにも」 「どういうこと?」 「依頼主が中止って言ってるのよ? 聞き分けられないのかしら」 「最初からこれは仕事ではなかったはずです」 史緒が強気で言うと、電話のむこうがわはしばらく黙り込んだ。長く待たされたあと、根負けした由眞の溜息が聞こえた。 「…藤子は新宿のWホテルに泊まっていたらしいわ」 その台詞で一気に緊張が解けた。藤子の居場所が掴めたのだ。今までの心配は杞憂だったのだ。 由眞は続けて語った。 「Wホテルから電話があったの。藤子は昨夜、ホテルに戻らなかったそうよ」 「…え?」 「宿泊カードに私の住所と電話番号を書いていたのね」 「どういうことですか? 戻ってないって…」 「何度も言わせないで。藤子の捜索は中止」 「桐生院さん!」 「あなたも、あの子と付き合ってたならわかるでしょう? あの子は、いつ何があってもおかしくない仕事をしているのよ?」 「…っ」 「そんな仕事だから、あの子はいつも、私に定期連絡をよこしていたの。一日に2回、毎日、欠かさず。それが2日前に初めて途絶えた。3年間で初めてよ? 3年間で初めての気まぐれかもしれないと思ってあなたに捜してもらったけど、それもここまで。…なにかあったんだわ。そのなにかが判らないわけじゃないでしょう?」 史緒はなにも言えなかった。頭の使い方をすっかり忘れてしまったかのように、思考を動かせない。なにも考えられなかった。 「史緒、もういいの。帰りなさい」 「───嫌です」 「史緒!」 「もういいなんて言わないでください! どうしてそんな、簡単に諦めるようなこと言えるんですか? 軽蔑します」 「あなたにまで何かあったらどうするの? それこそ取り返しがつかないのよっ?」 「取り返しがつかないのは誰だって同じです!」 大声を出したら鳥肌が立った。 歯の根が鳴っている。それでもまだ、思考を動かすことができなかった。 |
▲10.12月24日 金曜日 08時 藤子は寒さで目が覚めた。 風が頬を撫でた。 ( 何故かコンクリートの上で寝ている。 (鈴木か、あのやろう) まずそのままの姿勢で身体の状態をチェックする。左足が重かった。わずかに視線を動かして確認すると鉄枷がつけられていた。鎖の先はフェンスにつながっている。フェンスのむこうがわは眼下、ビル群が広がっていた。どうやら高い建物の屋上のようだ。頭の方向に人の気配があった。誰か、もちゃんと判っている。現状把握はそれで十分だ。 「あたしが寝てるあいだに変なことしてないでしょうね」 「おや、おはようございます、残念ですね、もう少し早ければキレイな朝焼けが見られたのに」 相変わらずどこかふざけているような口調が返った。視線を向けると鈴木はスーツにコートをはおって悠々と煙草を吸っていた。 藤子は上体を起こして苦情を言う。 「冗談。あたしと一緒に朝を迎えるのは晴ちゃんだけだもん」 「誰ですか? …あぁ、北田千晴くんですね」 「馴れ馴れしく呼ばないでくれる?」 もう陽は完全に上っていた。確か、ホテルへ戻ろうとしたのは夜の11時。その帰り道で鈴木が現れて、今はもう朝8時を回っているだろう。こんなに長い時間、意識を放したのは初めてだった。 「なにか薬使ったでしょ〜? うー、頭いたいー」 「軽い睡眠薬です。身体には残りません」 「あと、これ」足を動かすとじゃらと重々しい鎖の音が響いた。「随分クラシカルなもの使うなー。今時、飼われてる犬でもこんなチェーンじゃないよ?」 「すみません」 「足首を落として逃走するかもよ。そうしたら鈴木くんの依頼主を追うから」 「足を切って“逃走”は無理ですね」 「くだらない言葉遊びに付き合うつもりないし」 「這って降りても、階段の途中で出血多量でしょう。まぁ、でも、念のため國枝さんの武器は没収させてもらいました」 「うわ、懐探ったんだ。えっち」 「携帯電話などは持ってないですね」 「あぁ…置いてきちゃった」 由眞から連絡入っても困るので部屋に。もし持ってたら取り上げられてたのか。 そこで化かしあいの喧嘩は途切れた。鈴木は悠々と辺りの景色を楽しんでいる。藤子は鈴木の意図が読めない。藤子をここに拘束することで鈴木はなにを狙っているのだろう。 「ねぇ。殺す気がないなら、早く帰して欲しいんだけど」 「わたしは殺し屋ではないので。仕事はここまでです」 「───」 藤子の顔が大きく歪んだ。 「あたしに事故死しろっていうのッ!? 冗談じゃないわッ」 「國枝さんが声を荒げるのを初めて聞きました」 「うるさいっ! 殺すならさっさと殺して! こんな…、こんな死に方するなら今までこの仕事をやってきた意味がないじゃないッ」 「なんのために殺し屋を?」 「あんたに言う義理ない」 「まぁ、世の中には思い通りにならないこともあるということですか」 「だいたい、なんであんたみたいなヤツが来るの? 魚なら魚屋、本なら本屋、殺しなら殺し屋でしょ」 「どうしてか、そのへんの殺し屋は國枝さんに手を出したがらないようで、わたしに回されたようです」 鈴木は軽く笑って煙を吐いた。 「わたしもね、クライアントにちゃんと助言したんですよ? 國枝さんに手を出したら、別のところから刺客が来ますよって」 別のところから刺客。鈴木が誰のことを言っているか判った。その人物を思って、藤子は冷静さを取り戻すことができた。 「鈴木くんのクライアントを安心させるわけじゃないけど、それはないよ。あの子は動かない」 (そんな真似はしない) (あの子にはあの子の守るものがあるから) 「そうですか? それを恐れて動けないでいる業者もいるようですけど」 「周囲が思ってるほど、あたしたちの結束は固く無いってこと。もちろん、その勘違いをあたしたちは利用してたんだけど。最初からあたしたちはお互いを利用してたのよ」 「へぇ。そうなんですか」 頷いたものの鈴木はどうでもよさそうだった。ただ一言、「情が移るって言葉、わかります?」と言った。藤子は答えなかった。 「阿達史緒さんは」 「慣れ慣れしく呼ばないで」 「助けに来ると思いますか?」 藤子は顔を歪めて失笑した。 「ねぇ、それってあたしへの侮辱?」鈴木を睨み付ける。「あの程度の子に追えるほど、あたしは足跡を残して歩かないの」 「ですよね。期待を寄せてくれた國枝さんに何かあったら阿達さんも辛いですからね」 「いちいち癇に障る男ね。お喋りな男は嫌いなのよ」 「わたしはね、國枝藤子の仕事ぶりは嫌いじゃありませんでしたよ」 「そりゃどーも」 「じゃあ、わたしはそろそろ本業の仕事があるので」 「遅刻じゃないの?」 「ギリギリというところです。…ああ、それから、今夜の天気は晴れです」 「丁寧にありがとう」 「では、またお会いしましょう。藤子さん」 「地獄で待ってるわ」 身体は冷え切って───気温は5℃を下回っていた。 |
▲11.12月25日 土曜日 04時 史緒はWホテルに泊まった。 23日夜にホテルへ戻らなかった國枝藤子の荷物は、24日のルームクリーニングで回収され、3日間保管の後、宿泊カードに書かれた住所へ着払いで送られる。藤子は宿泊カードに由眞の住所を記入していたので荷物の送付先は由眞のところだ。 由眞との電話を切った後、史緒がWホテルのフロントへ駆け込んだときは夜8時を回っていた。最初、話が通じないのでおかしいと思ったら、藤子は偽名で泊まったらしい。よくよく考えれば、足跡を残さない生活をしている藤子が本名で泊まるはずがない。 國枝紫苑。 (紫苑…って、確か、桐生院さんの孫の名前じゃない。苗字は知らないけど) 毎回同じ名前を使えっていればそのうち足が付く。その都度、変えているはずだ。もしかしたら史緒の名前を使われていることもあるのかもしれない。 偽名の謎が解けてフロントと話が繋がったのはいいが、藤子の荷物を検めさせてもらうことはできなかった。ホテルの信用を考えれば当たり前のことだ。荷物の発送先である由眞に話を通してもらおうとしたが、由眞は史緒の動きを止めようとしているし、今は史緒が追われる立場になっているので由眞へは連絡できなかった。それにおそらく、藤子は居場所のヒントとなるものを残していないだろう。結局、史緒は荷物を見させてもらうことを諦めて、シングルの部屋を取った。 史緒はベッドの上に、着替えもせず寝ころんでいる。 夜が明けたあとの行動を考えなきゃいけないのに、わざと思考を閉ざした。怖いことを考えてしまうから。 (まるであの頃のようだ) ひとり、部屋に閉じこもっていた、ネコを胸に抱いて、なにも考えないようにしていた。 櫻が怖いわけじゃなかった。 櫻の顔を見るのが怖かった。櫻の顔は別の人を思い出させるから。 (怖いのはそのままでいいから) (この怖さが薄れなくてもいいから) (おねがい) (───その理由を早く忘れたいの) 櫻によって記憶を引き出されるのが怖かった。 傷つけられてもいい。そのかわり思い出させないで。 思い出させないで。 (───大丈夫) もう忘れたから。 昔、桜の下で見た櫻の罪を。無力だった自分を。 崖のうえで櫻が言い遺したことも。 携帯電話の効果音が鳴った。 うとうとしかけていた史緒は、見慣れないホテルの天井を見て現状を把握する。史緒が起きあがる前に電子音は途切れた。 (なに…?) 次の瞬間、史緒は目を瞠った。今のは自分の電話の設定音ではない。 (藤子のケータイ…っ) ベッドから飛び起きる。ドレッサーの上の藤子の携帯電話を掴み取った。キーを押してバックライトを点灯させると、メールが届いている。 他人のメールを勝手に…、などとは考えられなかった。史緒は躊躇なくメールを開いた。 「國枝藤子の現在地 ワビユノー ビル屋上」 本文はそれだけ。 迷っている余裕は無かった。 史緒はベッドサイドの電話に飛びついた。 |
▲12.12月24日 金曜日 16時 藤子はフェンスに背を預けて冬の青い空を見上げていた。 おそらく鈴木はこの場所を念入りに調べたのだろう。周囲のビルからも見つけてもらえないし、このビルの最上階には 陽が傾き始めた。 鈴木が去って7時間以上、風は微風で天気が良く直射日光が当たることもあり気温はそれなりに暖かかった。しかし、身体は冷える一方。 (意地でも寒いなんて言ってやるもんか) 足に付けられた鉄の枷は、ものすごく重いわけでもないのに足がだるくなってきていた。こころなしかきつくなってきているように感じるのは、足がむくんでいるからだろう。 (せめて手錠にしてくれればいいのに) 手錠はコツさえわかれば誰でも外すことができる。親指の付け根の骨を折ればいい。そうすれば手は手首と同じ幅を通れる。当然、手錠から抜けるなどわけない。藤子も一度やったことがあるが、「痛いから二度とやりたくない」と思っていた。しかしこんな場合なら背に腹は代えられないものだ。 (もし手錠だったら、あたしは指を折ったかな) 逃げることは簡単。でも今まで、自分が死ぬときのために生きてきたはずだ。死ぬ直前になって、なにをそんなに慌てよう。 (もっと嬉しいんだと思ってた) 復讐されるという形でも、殺されるという形でも無かったけれど、径の終わりを見るために今まで生きてきた。そして今がまさにその状況なのだ。ずっと待っていた瞬間が訪れたら、興奮してしまうくらい嬉しいのだと思っていた。 それなのに今胸にあるのは穏やかな静寂だけ。 藤子は寒さに身震いした。太陽が降りて、気温はこれから急降下する。 (ねぇ) 誰にともなく、藤子は胸の中で囁く。 一人目を殺したときのことを、今でも憶えているよ? 傍らにいた幼い子供に憎しみの目を向けられた。直感。この子はあたしを殺しに来る。 この子と同じ目をした誰かが、いつかやってくる。 じゃあ、あたしは待とう。 殺されるために、誰かを待ち続けよう───。 (この使命感をなんて呼べばいい?) そうする以外ほかにないことを、既に全身が理解している。他をすべて諦めても、その生き方を選ぶしかないことを解っている。悲壮感はない。ちっとも嫌じゃない。清々しいまでの諦観があるだけ。 この径を終わらせること。 幸せな今の自分が、過去の自分のためにしてあげられることは、それだけなんだ。 (そうやって結局あたしは、自分の為にしか生きられなかったんだ) ──情が移るって言葉、わかります? 鈴木が言った。もちろんわかるよ、馬鹿にしてるわけ? 好きってことでしょ? (由眞さんと晴ちゃんと史緒。あたしはあの人達のこと好きだから、あたしの情が移ったことになるんでしょ?) そこまで考えて藤子は、最後に千晴に会いに行った日のことを思い出した。 あの日、千晴に会いに行った日、強引に最後のキスをして去った藤子を千晴が追いかけてきた。 「藤子ッ」 アパートの前の駐車場で捕まった。 短い距離とはいえ藤子に追いつくほどの速さで駆けてきた千晴は息を切っていた。藤子の腕を強く掴んで逃がすまいとしている。そんな千晴は初めてだった。 「俺は、見に行かない」 藤子は眉をひそめた。 「…どうして? そのために付き合ってくれてたんでしょ?」 2人、ひとつめの約束だったはずだ。千晴は伯父の仇である藤子を憎んでいた。でも近いうち藤子の死に顔が見られる、だから一緒にいようと。 それなのに千晴はそれをしないと言う。 「人が死ぬのはもう見たくない。親類でも他人でも、仇でも。人間ってそういうものなんじゃないのか?」 訴えるような千晴に、何故か泣きたくなって首を横に振る。 「ごめんなさい。あたしには…わからないよぉ」 千晴の胸に飛び込んだ。抱き返してくれた。 (情が移ったの? 晴ちゃんも?) 好きってことでしょ? (あぁ───) 言いようのない感動に胸が熱くなった。 藤子が千晴を好きだったように、千晴もまた、藤子を好きでいてくれていたのだろうか。千晴だけじゃない、史緒も? 由眞も? (あたしも好き。晴ちゃんのこと、史緒も、由眞さんも) (それなのにどうして?) この径を捨てて、彼らと歩くことができることも知っている。それなのに。 (どうしてあたしは、あたしを裏切れないんだろう) この径を後悔したことなんかない。一度だってない。 ただ、何故、と。 この径を歩くと決めた、その誓いは強すぎた。 (どうして?) (晴ちゃんや史緒と出会う前の、自分の誓いを破れないんだろう) 藤子はコンクリートの上に倒れた。ひんやりとして気持ちがいい。 (史緒かぁ) 今までわざと史緒のことは考えないようにしていた。 ──藤子に危害を加えたら私が黙ってないってこと? …馬鹿言わないで、そこまで義理堅く無いわ ──藤子になにかあってもそれは完全に自業自得じゃない ──藤子のために自分の立場が危ぶむようなまねはしません 史緒のことを思い返していたら腹が立ってきた。 (よくよく思い返したら、かなり失礼だな、史緒め) でも史緒らしい。 「…だめだよ」 呟いてみても、近い未来は容易に見えてしまう。あの無情な言い方も史緒らしいけど、でも同じように素直であったためしもない。 (だめだろなー、あの子は動くだろーなー) 一気に涙があふれた。 「…っ」 死ぬのが惜しいんじゃない。怖くもない。 好きなひとが悲しむのが嫌。原因が自分のことなら尚のこと。 悲しまないでほしい。 忘れてくれればいい。 (そうだ) (息絶えた瞬間に、世界があたしを忘れてくれればいいのに) 史緒も千晴も由眞も、自分のことなど忘れてしまえばいい。 そうすれば死ぬことなんて、もっとずっと楽なのに。 しばらく涙は止まらなかった。不快感は無い。大空の下で、感情に任せて泣くのは気持ちが良かった。 頬を乾かす風がくすぐったくて笑う。楽しかった。 (…あれ?) 藤子は空の一点を見つめた。 「…天使さんっ?」 その視線の先へ声を投げる。藤子は嬉々として喋った。 「久しぶり。相変わらず仏頂面だな〜。…なんか隣りに黒い人もいるみたいだけど、友達?」 藤子は遠くの空へ笑いかけた。 天気が良い。とても気分が良かった。 「あ、もしかして、最期に会いに来てっていうお願い、聞いてくれたの? ありがとう」 都会の真ん中で贅沢にも一面の空を見ている。 少し紫がかった空は、吸い込まれていきそうな、とても深い色だった。 |
▲13.12月25日 土曜日 06時40分 史緒はホテルの部屋の電話から、外線104(無料電話案内)でワビユノービルの住所を調べた。住所は東京都代々木。ここからいくらも離れていない。フロントからタクシーを呼んでもらい、10分後にエントランスにつけた車に史緒は乗り込んだ。 住所と建物名称だけではたとえ土地鑑のあるタクシードライバーでも迷わずに着くというわけにはいかない。史緒は待っているあいだにフロントで地図を借りて目的地を確認していた。到着地の目安となる通りといくつかの施設を言うと、ドライバーは了解してアクセルを踏んだ。 「急いでください」 史緒はそう伝えたが、早朝の薄暗いビジネス街には対向車さえいない。 (落ち着いて) 考えなければならないことは山のようにある。 まず、あのメールが誤報だという可能性は除外するべきだ。今、手にしている情報は他に無い。次の手を考えるのは、実際に確認した後でいい。 (屋上、って…どういうこと?) 藤子が自発的にそこにいるのか、もしくは動けない理由があるのか。一人でいるのか、それとも他に誰かが? マンションに残された書き置きは筆跡を確認するまでもなく藤子のものだ。それに第三者が偽装するならもっと長文になるはずである。そのことから、たとえ強制させられたのだとしても、マンションを出てホテルに滞在したのは藤子自身の行動だ。チェックインは21日の夜、予定は24日まで。それなのに23日の夜にホテルへ戻らなかった。不測の事態であることは間違いない。 (メールを出したのは誰?) 藤子の居場所を伝えるメールが藤子の携帯電話に届いた。メールの発信者は、藤子が携帯電話を持っていないと知っていることになる。メールのfromはそのままアドレスが表示されていた。アドレス帳に登録されていないということだが、元より藤子はアドレス帳を使わない。過去に藤子とやりとりのある相手かどうかは確認できない。 (…罠かもしれない) (呼び出された?) けれど藤子の電話を史緒が持っていることは誰も知らないはずだ。それとも無差別か。 そんなことを考えている間にタクシーは現場に着いた。 ワビユノービルは各フロアに企業が入っている12階建てのオフィスビルだった。 「すみません、帰りもお願いしたいので待っていてもらえますか?」 史緒はタクシーを降りて辺りを窺う。当然だがビルの入り口は鍵が掛けられていた。警備会社が入っているようなので忍び込むわけにもいかない。建物の周りを見て回ると上まであがれそうな非常階段があった。史緒はもう一度タクシーに戻りドライバーに言った。 「20分で戻らなかったら警察を呼んでください」 ドライバーは面倒に関わりたくないと渋ったが史緒は無理を言って押し通した。罠に呼び出された可能性を捨て切れなかった。 非常階段の入り口はアルミフェンスの簡素な戸で施錠してある。背丈ほどのそれに、史緒は迷うことなく足をかけて乗り越えた。 午前6時50分。空が白んできている。 カンカンカンッ 早朝の街中に非常階段を叩く音はよく響いた。史緒は12階ぶんの階段を駆け上がる。 「……はぁっ、……はっ…」 街は寝静まっている。この階段の上に誰かいるとは思えない静けさ。その静けさが、史緒を不安にさせた。 (藤子) 心配する必要なんかない。どうせいつもの調子で───遅いよー、待ちくたびれたよ〜───などと言うに決まってる。 いくつ目かの踊り場で切り返したとき、目が眩んだ。ビルの隙間から朝日が差していた。副都心のビル群、その影が鮮やかに街に映る。 「…っ」 胸が騒いでいる。史緒はそれを自覚する。いっそのこと、そこに誰もいなければいいのに。階段を駆け上がる労力が無駄だと判って悔しがれればいい。そうすれば次の手を考えて、また藤子を探しに行ける。 (どうして…?) 胸が不安でいっぱいになっている。なにをそんなに焦っているのだろう。 カンカンカンッ 最後の踊り場を回った。 (藤子…っ!) 史緒は最後の階段を、踏みしめた。 静かだった。 12階の屋上では地上の音も届かない。街の喧噪も雑音も聞こえない。信じられないくらい静かだった。風が強いのに風の音は遠い。風を遮る障害物も、風の通り道も無いからだ。史緒の長い髪はマフラーから掻き出され強風にはためいた。その風に足を取られた。その一歩で、史緒は屋上に立つ。 屋上は四方がフェンスで囲まれている。その向こうには副都心がパノラマとなって、まだ薄暗い景色が広がっていた。現実感の無い光景に目が眩む。 「……」 息切れと動悸で肩が上下する。鼓動がやたらと大きく感じられた。 屋上の広いスペースには塔屋と給水塔があるだけ。人の気配は無い。 「……とーこ?」 発した声は異様に小さい。声を反射する障害物がなく、すべて空に吸い込まれてしまう。たかが12階なのに、ここはまるで空の上。いかに人間が地を這っているか解る。 史緒は無意識に足を進めた。屋上は視界が良いが塔屋の影はここからでは見えない。早く確認して、待たせているタクシーに戻りたかった。 早く。 そう思うのに、史緒の足はなかなか前に進まない。どうしてか、身体はなにかを拒んでいるようだった。 塔屋の壁に手をあてて、慎重に一歩を踏み出すと、そこに足があった。 心臓をひっかかれたような衝撃があった。 コンクリートの上に投げ出された足。その足首は鉄の枷に噛まれていた。鉄枷からは鎖が伸びてフェンスに留められている。 もう一歩進んでみると、きれいな姿勢で横たわる身体が見えた。 両手は腹の上に置かれ、指先は丁寧に絡めてある。 まるで人形のようだった。こんな吹きさらしの屋上に、女が横になっている。目を疑う光景でも、その顔は知っている。國枝藤子だ。 なにも考えられないまま史緒は歩み寄り、その手にそっと触れる。その手は絶望的なまでに冷たかった。 「……ぁッ」 喉が水っぽく鳴った。 「うわああぁぁぁぁああ!!」 コンクリートの上に両手を着く。肩から髪が落ちて目隠しをした。 思考は働かない。 ただ叫び続けた。まるで呼吸するように。そこには痛みも悲しみも無い。大声を出さなければ息を吐けなかった。それだけのことだ。 この状況を理解することを全身が拒んでいる。大きな喪失感に食われてしまいそうで、それを振り払うために、叫ぶしかなかった。ただこの空の上では、史緒の大声など天にも地にも届かなかったけれど。 ──…うそでしょう? やっとそれだけ、意味のある思考に辿り着いた。 顔を上げると、もちろん夢などではなく、そこに藤子の体がある。そして、 「…っ!!」 藤子の顔を見て、史緒は目を瞠った。信じられないものを見た衝撃に顔が大きく歪む。 (───…ぇ?) 史緒は頬を引きつらせたあと、痙攣したように唇を空振りさせる。呻き声もでない。 どうして? それは声にならなかった。吐息が唇のかたちに合わせ、かろうじて意味の取れる音にする。 「ねぇ…」 可笑しいくらいに声が震えていた。 込み上げる感情は悔しさによく似ている。歯を食いしばって堪えたのは嗚咽ではなく罵声だった。コンクリートを爪で抉らなければ声を抑えることができなかった。 「どうして微笑ってるの……ッ?」 灰色の街に朝が訪れた。 それはまるで美しい絵画のようだった。 つづく |
43話「星が生まれた日 前編」 END |
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