43話/44話/45話
44話「星が生まれた日 後編」


#42 01.10月5日 11時30分
  06.12月20日 16時50分
#43 01.12月22日 22時   02.12月19日 22時
  03.12月23日 15時   04.12月20日 15時
  05.12月23日 21時   06.12月21日 21時
  07.12月23日 23時   08.12月23日 23時
  09.12月24日 08時   10.12月24日 08時
  11.12月25日 04時   12.12月24日 16時
  13.12月25日 06時40分
#44             14.12月24日 17時
  15.12月25日 07時   16.12月25日 09時
  17.12月25日 10時   18.12月25日 10時
  19.12月25日 12時   20.12月25日 15時
  21.12月25日 20時   22.12月25日 20時
  23.12月26日 11時   24.12月26日 12時
  25.12月26日 12時   26.12月26日 20時
  27.12月27日 19時   28.12月27日 19時
  29.12月27日 19時   30.12月27日 22時
  31.12月27日 23時
  EPILOGUE







14.12月24日 金曜日 17時

 藤子は、たそがれ時のなかにいた。
 黄昏(たそがれ)()(かれ)、つまり「お前はだれか」と尋ねるような晩、夕闇の薄暗さをいう。
 昼を終えて拡散しきった大気中のチリが、今度はゆっくりと街に降ってくる。まるで雪のように。
 そのチリの遙か天上、群青色の空のなかを、最後の光へ向かって雲が蠢いていく。雲だけじゃない、風も、大気すら。大きな流れが天にあり、ただ置いていかれるだけの、圧倒されるだけの自分という個。夕暮れに飲み込まれてしまいそうな小さな自分。
 藤子はただ眺めていた。摩天楼に沈む夕日を。
(きれい…)
 この世界を見るだけでも、生きる価値がある。
 そして目指した径の終わり。そこに辿り着くことができた。
 概ね満足している。上々な人生だったと言えるのではないか。
 ───少しだけ、別離を惜しむ気持ちがあった。
 どうしてだろう、ずっと独りで歩いてきたはずなのに。
「さよなら」
 藤子は柔らかく微笑んだ。
 もう、落日を数えることは無い。








15.12月25日 土曜日 07時

 史緒は、かわたれ時のなかにいた。
 彼誰(かわたれ)とは()(だれ)、つまり「君はだれか」と尋ねるような朝、暁の薄暗さをいう。
 夜を越えて、一度リセットされた大気は痛いほど澄んでいる。その清涼さを浸食するように、街が起きて、人が動き出す。
 空が明るくなっていく。
 ビル群の稜線が浮かびあがる景色のなかで、史緒は晨風(しんぷう)に吹かれていた。
 長い髪が絶えずはためき、そのたびに視界を隠す。けれどそれは、目の前の現実を隠してはくれなかった。
 史緒は理由も判らず、何度も、確認するようにその肌に触れた。けれども残酷な冷たさは疑う余地も無い。朝日の温かさが史緒の頬に触れても、横たわる身体に熱が戻ることは無かった。
 どれくらい時間が経っただろう。
(…立たなきゃ)
 けれど、コンクリートに付いた両膝は少しも動かない。
 立ち上がることがこんなに辛いなんて。
 史緒は何かに憑かれたように、ふらり立ち上がった。
 まるでひとり荒野に置き去りにされたような、強い風の中で。








16.12月25日 土曜日 09時

 その日、篤志は朝からA.CO.の事務所に来ていた。かれこれ数十分、史緒のデスクに浅く寄っかかっている。事務所内には他に司と三佳もいたが、それぞれ口数は少ない。重苦しい空気が漂っていた。三佳は昨夜から寝ていないようで、司の腕にもたれてウトウトしている。部屋で休むよう声を掛けても聞かず、頑なに事務所に留まっていた。
 来たよ、と司が呟いた。その台詞の主語は聞くまでもない。三佳ははっと体を起こし、篤志はゆっくりと腰を上げて、それぞれドアを見据えた。ドアが開くまでいくらもかからなかった。
「ただいまー」
 気軽な様子で史緒が入ってきた。後ろ手でドアを閉めて、息を吐いて、顔を上げたところで、その足がぴたりと止まる。一拍遅れて事務所内の空気に気付いた史緒は困惑したように眉をひそめた。
「…どうしたの? みんな揃って」
 本来なら仕事納めも過ぎて年末年始の休暇中。三佳はともかく篤志と司が何故ここに、と史緒は言いたいらしい。
 早朝、篤志は三佳から電話を受けた。史緒が帰ってきていないという。聞けば、桐生院由眞から個人的に仕事を受けていたようで、帰ってこないからといって騒ぎ立ててよいものどうか悩んだようだ。結局、三佳は朝まで待って篤志に連絡した。篤志と司は半刻ほどで事務所に集まり、とりあえず10時まで待とうと話をしたところだった。
 果たしてのんびり帰ってきた史緒は、状況が判らない様子でそれぞれの表情を伺っている。
 まさか、同居人が心配するということに気付かないほどバカなのだろうか。篤志は真剣にそれを憂えた。こういう言い方は三佳は嫌がるだろうが、子供を預かっている自覚がない。というより、誰かと同居しているという自覚がない。やはり解っていない様子の史緒はとぼけたことを言った。
「もしかして、なにかあった?」
 真剣な顔で心配してくる始末。史緒のこういう鈍感なところは本当に相変わらずだ。
「なにかあったのはそっちだろう。連絡も無しにどこに行ってたんだ」
 あっ…と、史緒は表情を曇らせた。ばつが悪そうに上目遣いになる。
「桐生院さんのほうから仕事がきていて…」
「それは三佳から聞いた。連絡くらいできただろ?」
「昨晩が追い込みだったの。ごたごたしていて、連絡するの忘れてた。心配かけて、…ごめんなさい」
 謝る対象は解っているようで、史緒は三佳に頭を下げた。三佳は、簡単には許さない、という態度でそっぽを向く。それを司が宥めているあいだに、篤志は史緒の報告を促した。
「的場さんたちと一緒だったのか?」
「ええ」
「仕事は? 終わったのか?」
「ええ」
「とりあえず、おつかれ」
 そう言うと、史緒は目を細めて笑う。その表情に疲れが見えた。
「寝てないのか?」
「あんまり」
「じゃあ、今日はここまで。説教は起きてから」
 史緒は小さく悲鳴をあげた。それから苦笑して、「うん、今日は休ませて。本当に、騒がせちゃってごめんなさい。ありがとう」
 じゃあ、と背を向けた史緒を「──おい」篤志が呼び止めた。
 ぴたり、と史緒の足が止まる。
「…なに?」
「この寒いのにコートも着ないで帰ってきたのか?」
 史緒は薄手のセーターを着ているだけだった。この季節、外を出歩くには上着は必須だ。
「あー…、忘れてきちゃったみたい。タクシーで帰ってきたから気付かなかった」
 あとで取りに行ってくる、と言って改めて踵を返す史緒を、今度は司が呼び止めた。「どこから、タクシーで帰ってきたの」
「桐生院さんのところよ? それが?」
「いや、なんでも」
 そうしてようやく史緒は事務所を出て行った。
 ぱたん、と軽い音を立ててドアが閉まった。
 ふぅ、と三佳が深く溜息をつく。三佳は勝気な性格の反面、心配性でもある。史緒が無事帰ってきたことに安心したのだろう。しかしそれでもまだ、三佳は不審そうな視線をドアのほうへ向けていた。
「どうした?」
 篤志が尋ねても、三佳はドアから視線を外さない。
「休めと言われて大人しく下がるのも珍しいな、と思って」
 その隣りで、司は大きな動作で腕を組んだ。
「とりあえず、タクシーで帰ってきたっていうのは嘘」おもしろくなさそうに目元を歪めた。「徒歩だったよ」
 司の耳を疑う理由は無い。とすると、史緒はなんのためにそんな嘘を吐いたのか。
「なにかおかしい。的場さんたちと一緒だったっていうのも、どうかな」
 見え透いた嘘を吐かれて司は面白くないようだ。そんな嘘が司に通用するとは史緒も思ってないだろうに、すぐに見抜かれると分かっていても苦し紛れの言い訳。後ろめたいことでもあるのだろうか。
「…でもまぁ、本人は何事もなく帰ってきたわけだし」
 と、言いながらも、三佳もどこか不安が残る表情。篤志は息を吐いて場をまとめた。
「夜にでも聞いてみるか」

 それからしばらくして、A.CO.の電話が鳴った。
 冬季休暇に入っているとはいえ仕事の電話かもしれない、腕を伸ばして篤志が取った。「はい、」とそこまでしか発言は許されず、
「篤志! 史緒はっ?」
 容赦の無い怒鳴り声。篤志は言葉を失う。緊急性をはらんだ鋭い声は的場文隆のものだ。返事を2秒も待たなかった。
「おい、聞いてるのか? 史緒はどうした」
「さっき戻ってきました。今は休んでいますが」
「さっき?」
「30分くらい前です」
 時間がもったいないと言わんばかりに急かされる。「確認してくれ」
「は?」
「史緒がおとなしく寝ているか確認してくれっ、早く!」
「しょ、少々お待ちください」
 篤志は電話口を押さえて振り返る。「史緒が部屋にいるか見てきてくれ」三佳はうなずいてソファから立ち上がると小走りで部屋を出た。
「一体、どうしたんです? 仕事は終わったって聞きましたけど」
 昨夜まで一緒に仕事をしていたのではないのか?
 文隆は篤志の質問には答えず、意外なことを訊いてきた。その声にも緊張感が漂っていた。
「“國枝藤子”を知っているか?」
(國枝…?)
 その名前は最近知ったばかりだ。「史緒の友達だと、紹介されています。的場さんも知り合いなんですか?」
 しかしその質問も無視された。
「あいつについて、他になにか聞いてることは?」
 あいつ、という呼称に違和感があった。好意的でない響きが感じられる。
 他になにか聞いてること? そんな曖昧な訊かれ方では答えようがない。そもそも史緒の所在の確認と國枝藤子にどんな関係があるのか。
「いえ。…なにも」
 そう答えると、電話の向こうで文隆は溜め息をつく。それから少し声が遠くなって話し声が聞こえてきた。どうやら文隆の背後に誰かいるらしい。御園真琴かもしれない。
 もう一度、文隆の声が戻った。今度は少し抑えた声だった。
「今、そこに誰がいる?」
「司と…、それと三佳が史緒の様子を見に行ってます」
「では、三佳ちゃんがいないうちに言う。國枝藤子が死んだ。事件性が見られる。おそらく他殺だろう」
 流れるような台詞回しに聞き逃してしまいそうだった。
 ソファに座っていた司が飛び上がった。篤志も聞き返さずにはいられない。
「死…って、え? 國枝さんが?」
 話を飲み込めないうちに文隆は先を続ける。
「110番通報があったのは今朝の8時31分。現場は代々木なのに、通報はJR浜松町駅北口の公衆電話からだ。警察は被害者の身元確認と現場検証、同時に通報者を捜している。この通報者はおそらく史緒だな」
「は? え…待ってください、どうして史緒が」
「史緒は桐生院の依頼で、行方不明の國枝藤子を捜していたんだ。そしておそらく見つけたんだろう、しかし手遅れだった。もしかしたら史緒は」
 篤志は凍りついた。
 ───國枝藤子さん。私の…友達
 そう、史緒から紹介されたのはつい先日のこと。史緒と同年代の、明るい少女。いつから付き合いがあるのか、どこで知り合ったのかは知らない。でも長い付き合いを感じさせたし、遊びに出掛けたりもして気心が知れてそうだった。
 その國枝藤子が死んだ。
(まさか)
 あまりにも自然に予測できる史緒の次の行動。
 そのとき、三佳が駆け込んできた。
「篤志! 史緒がいない!!」
 ほぼ同時に文隆が言う。
「もしかしたら史緒は、復讐を考えているのかもしれない」
「…っ」
 その通りだ。史緒がおとなしくしているとは思えなかった。しかし。
「復讐…? それにしたって、どうやって」
「最悪な事態にならないことを祈るしかないだろう」
「…追います」
 篤志は無意識で呟いていた。
「一度こっちに来ないか? 経緯を説明するから」
「はい。すぐに伺います」
 腕を落とすように電話を下ろす。すぐには動き出せなかった。今、聞いたことを整理できないせいだ。顔を上げると、何事かと不安げな面持ちの三佳。篤志は三佳の目を見ながら、別の名前を呼んだ。
「司」
「わかった、早く行って」
 耳の良い司には電話の内容はすべて伝わっているはずだ。
「任せた」
 篤志は上着を取ると事務所を飛び出した。








17.12月25日 土曜日 10時

「じゃ、葉子さん、ありがとうございました。またよろしくお願いします」
 史緒はお礼を述べて図書館を後にした。玄関を出て外の階段を足早に駆け下りながら、携帯電話を取り出しアドレス帳を呼び出す。
「…あ、どうも阿達です、お世話になっております。お休みのところ申し訳ありません。先ほど、問題のメールを転送したんですけど…はい、そうです。…ありがとう、お願いします」
 颯爽と歩きながら会話を続ける。
「急いでいるので時間制限させてください。24時間以内に、結果は電話でいただけますか? 夜遅くても構いませんから。…それはもちろん、無理を言ってるのは私のほうですもの、言い値で結構です。支払いは私個人で振り込みます、請求書はいつも通りに。…ええ、よろしくお願いします」
 電話を切って、ポケットへしまいこむ。バッテリが少なくなっているので、夜までには充電しなければならないだろう。些細なことだがこれは重要なライフラインだ、切らすわけにはいかない。そんなことを心配しながら、史緒は駅前を通り過ぎた。
 駅前では、5人ほどの募金活動員が声を張り上げていた。クリスマスの余韻が残る浮かれた街中で、それは異色な光景だった。多くの通行人は興ざめしたように視線を残したり、募金箱に小銭を落としたりしていた。
 40代くらいの男女が必死とも思える様子で募金を訴えている。聞いていると、歳末助け合いではなく、個人の募金活動のようだった。史緒はサイフを取り出すのも面倒なので足早にその場を通り過ぎた。その際、なおざりにチラシを受け取る。軽く目を通してポケットへ。個人で、難病の息子の手術代を集めているとか。焼け石に水ではないか。通りすがりの素人目にもそう思える。しかしそれ以上考えるくらいの興味は、今の史緒にはなかった。


 「少し休む」と言って事務所を出た後、史緒は小走りで自分の部屋へ戻った。出掛ける支度を整え、三佳への書き置きを残す。───躊躇いはなかった。
 裏口から家を出て、まず最初にしたことは現金を落ろしたこと。文隆のところは銀行系のつながりがある。この先カードを使って万が一にも追跡されないようにだ。
 それから図書館司書・葉子のところ。藤子が最後に依頼したという仕事、その内容を聞くためである。寄る場所は他にもあったが、葉子のところへ最初に訪れたのは、今朝の事件が伝わる前に情報をもらいたかったからだ。
 その次は、さきほど電話した相手、電話屋。こちらは青嵐つながりで紹介してもらった人物で、某電話会社に勤めている。電話番号やメールアドレスから契約者を割り出してくれるのだ。送信元が偽装されている場合でもフォローアップしてくれるので、こちらの手間が省ける。この手の電話屋の多くは金銭目的なので多少高くつくが、携帯電話がここまで普及している現代において重宝さで右に出るものはない。仕事においては繋がりを断つことができない相手だった。
 この電話屋の調査結果は重要な道筋になる。今朝早く、藤子の携帯に、藤子の居場所を通知してきた人間を突き止めなければならない。


 自分が追われる立場になったのは解っていた。
 真琴、文隆、篤志、A.CO.の事務所の番号、それと非通知からも電話があった。もちろん取らなかった。
 それから警察も動き始めている。110、119への通報者は現場に残る義務がある。史緒は通報はしたものの現場を離れて逃げた。警察は通報者を捜しているだろう。案の定、木戸と計良から電話があった。史緒はそれを無視している。追うプロを相手にどこまで逃げ切れるだろうか。
 Wホテルに本名で泊まったのはまずかった。フロントには散々手間をかけさせたので顔も名前も覚えられているだろう。それにタクシー運転手も証言するはずだ。突拍子もないことだが、現場から逃げた史緒が藤子殺しの容疑者に仕立て上げられる可能性もなきにしもあらず。
 それでも、まだ捕まるわけにはいかない。
 史緒は自然と早足になって、次の目的地へと急いだ。








18.12月25日 土曜日 10時

「関谷です。お邪魔します」
 篤志は的場文隆の事務所を訪れた。御園真琴もいる。軽く手を上げて挨拶を返した。文隆の事務所に来ると、大抵ここの所員がたむろしているのだが今日はそれは無い。土曜日で定休だからか、それとも席を外させているのか。
 文隆は専用のデスクに、真琴はソファに座っている。篤志は真琴の向かいに腰を下ろした。
「死因は、なんですか?」
 挨拶もそこそこに切り出しても2人は嫌な顔をしなかった。緊急事態なのだ。
 國枝藤子が死んだ。篤志が知る藤子はにぎやかで明るい、その辺で遊んでいそうな女子高生のように見えた。史緒にそういう友達がいるのは初耳で、意外で、驚いたものだ。藤子の融通の利かない強引さに史緒は振り回されているようだったが悪い気もしてない、仲の良い2人に見えた。その藤子がこんな突然に消えてしまうなんて微塵にも想像させない、世の中の多くの友人同士のように見えたのに。
「検屍によると、凍死、らしい」
 メールで情報を得ているのか、文隆がパソコンモニタに視線を向けたまま答える。その声は知人の死因を語っているとは思えないほど冷静なものだった。
「凍死? …じゃあ、事故では?」
「ビルの屋上に鎖でつながれていたんだ」
「!」
「午前8時31分の通報は若い女の声。警察が現場に駆けつけたとき、そこに通報者は無し。通報そのものが離れた場所からだったから、当然と言えば当然か。警察はビルの屋上にて、足を鎖で繋がれた凍死体を発見、目立った外傷は無し、しかし右足首に生活反応の無い掻傷。これは、死亡後に他の誰かが鎖を外そうとした、というのが鑑識の見解。実際には外れなかったようだが。…それから、遺体には白いコートがかけてあったそうだ」
 篤志は眉をひそめた。
「…史緒?」
「目撃証言から、早朝、現場付近にタクシーが停まっていたことが確認されている。タクシー会社に当たったところ、午前6時半頃、新宿Wホテルから現場まで乗せた客がいるらしい。客はタクシーを待たせて降りた後、20分後に戻ってきて、またWホテルまで戻ったそうだ。───そして史緒は昨夜、Wホテルに泊まっている。今朝8時にチェックアウト。自宅へ帰ったのは9時頃だったな? その途中の駅で、史緒はやっと警察に通報したんだ、つじつまは合う。通報を遅らせた理由は推して知るべし」
「自分の行動を制限されないため」
 そうとしか考えられない。篤志の呟きを受けて文隆は深く頷く。
「だろうな。史緒は犯人を追っているんだろう。どんなカタチでかは判らないが、目的は復讐しかない」
(あの馬鹿…)
 史緒は今朝、どんな気持ちで事務所へ帰ってきたのか。どんな気持ちで部屋を出たのか。それ以前に倒れている友達を見て史緒は…。
「状況は解りました」
 一刻も猶予は無い。史緒を追わなければならない。けれど。
「ただ、國枝さんのことが分からない。史緒の友達、というだけじゃないですね。的場さんと御園さんもよく知っている…しかも國枝さんのことをあまり良く思ってないようだ。それから、桐生院さんが國枝さんの捜索を依頼していたというのも。人間関係が繋げられないんですが」
 文隆と真琴が目を合わせた。何故だか言いづらそうに文隆が口を開く。
「國枝藤子は桐生院由眞の下につくひとりだ。俺らは“3人”ではなく、最初から4人だったんだ」
「…え?」
 初耳だった。かつて、A.CO.の開業と同時期に、文隆と真琴を紹介された。それが今から約3年前。それなのについ最近まで、篤志は藤子の名前を知らなかった。國枝藤子が他の2人と同じ立場だというなら、この差はなんだろう。
(史緒が隠していた…?)
(どうして)
「───知りたい?」
 篤志の表情を読んだのか、目の前に座る真琴がはじめて口を割った。ゆったりとソファに座ったまま、鋭い視線だけを篤志に向ける。
「國枝の正体を知ったら、篤志は、史緒や僕らを軽蔑するかもしれないね。そして自分らの組織にも疑問を抱くかもしれない。それでも、知りたいかい?」
 國枝の正体。真琴はずいぶんと物々しい言い方をした。篤志は不用意には頷けなかったが、頷く意外に答えはなかった。


*  *  *


「喋りすぎたかな」
 篤志が去った後、真琴は肩を竦めて言った。しかしその表情には微塵の後悔も見えない。真琴の性格をある程度把握している文隆は呆れたように溜息を吐いた。
「史緒に対する國枝藤子のフォローを、篤志に押し付けたかっただけだろ、実は」
「人聞き悪いなぁ。仮にも知人が死んだんだ。僕だって悼んでるんだよ」
 いつもどおりの軽口だが表情は笑ってない。それは2人とも同じ。國枝藤子はなにがあっても付き合いたくない相手だったが、こうなることを望んでいたはずもない。複雑な心境になる複雑な状況なのだ。
「ただね」と、真琴は続ける。「僕は最初から、國枝のことはどうでもよかったんだ。史緒のように好意を持つことも、文隆のように嫌悪することもしなかったよ。それより、気に入らないのはあの人のほうだ」
「あの人?」
「電話借りるよ」
 真琴はソファから腰を上げて、文隆のデスクの電話を取る。携帯電話を使わなかったのは、その通話を文隆にも聞かせるためだ。わざわざスピーカで鳴らして、真琴は番号を押した。ややあって回線が繋がった。
「御園です。おはようございます」
「…おはよう」
 電話の相手は桐生院由眞だった。その声は酷く重い。真琴はわざとらしいまでに快活に喋った。
「当然知ってるでしょうね、國枝のこと」
「そうね」
「新聞社の速報にも出ていない。あなたが手を回したんでしょう?」
「そうよ」
「それから警察にも。司法解剖はせずに遺体を引き渡すよう、圧力をかけている」
「ええ」
 淡々と答えるその反応は、真琴はおもしろくない。憤りと苛つきが声にも表れてしまった。
「もう少し残念がったらどうです? あなたの手駒とはいえ、正真正銘、血の繋がった孫娘なんだから」
 それを聞いて文隆は目を瞠った。口を開き掛けるが真琴が制す。
 電話の向こうの声が少し揺れた。
「…知ってたのね」
「“國枝”は“桐生院”の前身だ。そしてあなたの本名でもある」
 紡績ブランドの「桐生院」、前社長はその名を名乗っていたが、それはブランド名を自分に冠しただけであり、本名は國枝という。由眞のオフィスは「Y.K」というが、登記の代表者名は桐生院ではなく、國枝由眞となっている。
「あなたは孫娘になにをさせたかったんだ」
 文隆は藤子を嫌悪していたが、真琴にとっては藤子より由眞のほうが嫌悪の対象だった。身内でありながら、殺し屋として働く孫を黙認していた。しかも自分の下で働かせていた。
 由眞は答えない。長い沈黙があった。
 由眞は藤子になにをさせたかったのか。もとより、真琴も簡単に答えてもらえるとは思ってない。本音を吐く媼ではないことは、初めて会ったときから知っていることだ。
「…あなたたちも判っていたでしょう? あの子は、いずれこうなるって」
「それはもちろん判ってました。見事なまでの因果応報だ。でもそれじゃあ納得しない人間もいる」
 そこで由眞はやっと気付いたのか、声を改めた。
「…史緒は? そこにいるの?」
「お察しの通り、現在、行方不明中です」
「…馬鹿な子。あれだけ止めたのに」
「それには同感ですね」
 由眞は強い声で言った。「史緒を止めて」
「言われなくても」
 言われるまでもない。真琴は苛立ちを込めて電話を切った。








19.12月25日 土曜日 12時

「こんにちはー」
 史緒は青嵐を訪ねた。
「あら、いらっしゃい」
「セーラさん」
「青嵐よ。…ったく。ああ、おととい捜していた國枝は見つかったの?」
「ええ。おかげさまで」
「そう」
「セーラさん、調べて欲しいことがあるの」
「はい。なにかしら」
「鈴木という始末屋をご存じですか」
「名前と噂くらいは。面識は無いわ」
「これなんですけど」
 史緒は先ほど谷口葉子からもらってきた封筒を差し出した。内容は藤子の最後の調査依頼「始末屋・鈴木について」。青嵐は中を検めると首を傾げた。
「葉子ちゃんのところに頼んだの? それならうちは必要ないじゃない?」
「さわりだけしか調べてもらってないんです。この人の連絡先と、自宅の住所か勤務先、それとできれば最近の仕事内容を知りたいんですけど」
「はぁ。…始末屋の鈴木、ね。なんか、阿達の依頼内容とは思えないわねぇ。仕事で必要なわけじゃないんでしょ?」
「まぁ、個人的に」
「理由を訊いてもいいかしら」
 そんなことを言っても、青嵐のその質問に意味が無いことを史緒は知っていた。史緒の理由など、青嵐は興味がないはずだ。どんな軽口を利いても青嵐にとって史緒は客でしかない。やはりそのとおり、笑ってごまかしただけで、青嵐はあっさりと引いた。
「いいわ。調べてあげる。半日待てるかしら?」
「はい。お願いします」
「で、阿達はどんな情報をくれるの?」
 青嵐は金銭では動かない。『万屋・青嵐』はバーター ──物物交換が基本。史緒はその回答を準備していた。
「そうですね。大きな情報(ネタ)があります」
「へぇ」
 出口で振り返り、史緒はそれを口にする。その後の青嵐の反応は見たくなかったので、史緒はすぐにその場を去った。
「殺し屋・國枝藤子は死にました」








20.12月25日 土曜日 15時

 篤志が訪れると、葉子はうんざりという表情を見せた。
「阿達さん? 午前中に来たよ。なんなんだおまえらは。いったりきたり騒々しいな」
 仕事の邪魔するな、と文句を言われたが、それくらいは葉子の挨拶みたいなものだ。篤志が中学生の頃からの付き合いなので、谷口葉子の口の悪さには慣れている。
「國枝さんのことは聞いた?」
 篤志が切り出すと、葉子はあからさまに嫌な顔をした。「驚いたな。関谷くんもあいつと知り合いなのか」
「いや、ほとんど喋ったこともない」
「それはよかった。あいつとは関わるな。阿達さんにもそう言っておきなよ」
 葉子はいつものように投げやりな態度で言うと、すぐに仕事に戻ってしまう。篤志は声を抑えて言った。
「國枝さんが亡くなったこと、史緒は言わなかった?」
 がんっ、と机が鳴った。葉子が叩いた音だ。
 顔を上げると、信じられない、という表情で篤志を見る。なんだって、と唇が動いた。しかし葉子は声を失くしていた。たっぷり10秒の沈黙のあと、葉子は篤志を睨み付けた。
「阿達さんはどこだ」
「それを探してる」
「あの馬鹿が…っ」
 吐き捨てたあと、葉子は電話に手を伸ばした。暗記しているのか10桁の番号を信じられない速さで押すと、受話器に噛み付くように声を張り上げた。
「青嵐っ」
「あ〜ら、葉子ちゃん。お久しぶり」
 耳を近づけて篤志も相手の声を聞いた。葉子の勢いとは反対に、やけにのんびりした男性の声だった。葉子はイラつきを隠せない様子で言葉をつむぐ。
「なにが起きているかは知っているだろう」
「もちろんよ。警察はとっくに動いてるわ」
「なんでこんなに静かなんだ。それとも(そっち)は騒いでいるのか?」
「こちらもまだ静かなものよぉ。警察が身元確認に手間取ってるの。それと情報が流れないのは桐生院由眞が圧力をかけてるからよ。───慌てることないわ。あと2、3日もすれば明るみになる。國枝がいなくなったことでパワーバランスが崩れて…、勢力争いが見物ね。ええ、もちろん阿達がこれからどう動くかも重要な要素だけど」
「阿達さんに会ったのか!?」
「いちいち大声出さないで。来たわよ。3時間くらい前」
「なにしに?」
「仕事よ」
「内容は?」
「愚問ね」
 この業界では自分の体より守らなければならないものがある。それは守秘義務だ。そのルールに従い青嵐は口を閉ざした。
 しかし想像は容易い。
「どうして止めなかったんだ」
「どうして止めなきゃいけないの?」
「阿達さんがなにをしようとしているのか、それくらい判るだろう」
「もちろん、判った上で訊いてるのよ。どうして阿達の復讐を止めなきゃいけないの?」
「……ッ」
 葉子が歯を食いしばる音を聞いた。篤志は2人の情報屋のやりとりに言葉を挟むこともできなかった。
 篤志は葉子の副業を知っていても、葉子と仕事の付き合いをしたことは無かった。何故か史緒はそういう仕事は他のメンバーには回さず、すべて自分でやっていたからだ。
 谷口葉子。そして、青嵐。彼らの口から語られる史緒は、篤志のまったく知らない史緒だ。果たして史緒は彼らとどんな付き合いをしていたのだろう。
「ねぇ、葉子ちゃん。そこに誰かいるでしょう?」
「!」
「國枝藤子の死亡を知った表の(、、)情報屋はおそらくあなたが最初よ。そこに誰がいるの? 誰に聞いたの?」
「愚問だ」
 情報提供者(ニュースソース)の個人情報を守る、それも守秘義務のひとつだ。
「まぁいいわ。ともかく葉子ちゃんも、阿達のことは放っておきなさい。数日のうちに決着するでしょ」
「馬鹿言うな。それじゃあ手遅れだ」
「葉子ちゃんがそんなにお人よしだとは知らなかったわ。それにずいぶんと過保護。あの子が子供だから?」
「そうじゃない。阿達さんは(こちら)の人間だ、そちらのルールで語らないでくれ」
「それはどうかしら。國枝と関わった時点でカタギとは言えないと思うけど。國枝が死ぬ蓋然性を阿達がちゃんと予測できていたなら、今回の行動は計画的なものよ。そうでなければ、ただの馬鹿の暴走。…放っておきなさい。阿達は自分の責任でもって、後始末をするでしょう」
「しかし、このまま放っておいたら、最悪なケースも起こりうる」
「当たり前のこと言わないで。私たちはそういう世界にいるのよ」
「阿達さんは違う」
「さっきも言ったじゃない。國枝と名前を連ねていたのよ? 裏の連中(わたしたち)はそうは思わないわ。…わかってるの? 阿達がなにもしなくても、それはそれで大事(おおごと)なのよ」
「どういう意味だ」
「國枝と阿達はお互いの立場を利用していた。阿達だって、國枝の威を借りていたからこの業界で大きな顔していられたんじゃない。國枝がやられて、阿達がなにもしなかったら、この先、阿達はこの業界で生きられないわ」
(……)
 正直、篤志は葉子と青嵐の会話に付いて行けなかった。篤志が持つ國枝藤子のイメージと、あまりにも違いすぎるのだ。藤子とは2回面識がある。1度目は夜遊び帰りのタクシーの窓越しで、2度目は事務所に押し掛けてきた。どちらも明るい笑顔が強烈に印象深く残っている。文隆たちから彼女が殺し屋だと聞かされても、それが事実だと知っても、國枝藤子という人間をうまく捉えることができなかった。
 史緒についても同じだ。
(あいつ…、なにやってたんだ)
 史緒が裏と呼ばれる世界で顔が利くとは思いも寄らなかった。一緒に仕事をしていたはずなのにまったく知らなかった。篤志は史緒の業務内容を把握しているつもりだったがそうではなかったのか? 疑惑が生まれてしまう。史緒はA.CO.で、他のメンバーが気付かないまま、一体なにをしていたのだろう。
「葉子ちゃん。阿達を子供扱いするのは感心しないわ。あの子が大人だっていう意味じゃないのよ。子供だからなんて関係無い、(こちら)にいる以上、責任は取ってもらうわ。私はね、秩序を乱す人間は大嫌いなの」








21.12月25日 土曜日 20時

 史緒は薄暗い部屋で丸くなっていた。しんとした静かな部屋で、ベッドの傍らに腰を下ろし、膝を抱えている。
 藤子のマンション、藤子の部屋だ。今回は管理人に開けてもらったわけではない。2日前に訪れたとき、郵便受けに鍵が入っているのを見つけて、こっそり持ち帰っていた。
 昨夜からほとんど寝ていない。休めるうちに休んでおこうと宿を探したが、文隆や真琴が張っているかもしれない、それに警察の動向も見えない。そういう理由から、史緒は、鍵を持ってきていた藤子の部屋に不法侵入したというわけだった。
 誰が郵便受けに鍵を落としたのか。藤子自身の確率が一番高い。最後にこの部屋を出たとき、鍵を掛けたあと、郵便受けに落とした。もしそうだとすると、藤子はこの部屋に帰れないことを覚悟していたのかもしれない。
 つい先ほど電話屋から調査結果の連絡があった。藤子の携帯電話に藤子の居場所をメールしてきた人物の身元。意外なことに、送信元の偽装は無く、送信履歴と該当メールのヘッダも一致しているらしい。契約者名ももちろん聞いたことがない名前だ。その人に会いに行くのは簡単だが、今の手持ちの情報だけでは、例え会ったとしてもそれ以上進めようがない。青嵐のほうの結果を待って、次の手を考えるしかなさそうだ。
「…ふぅ」
 溜息を吐いて史緒は顔を上げた。
 あらためて部屋を見渡す。意外と物が少なくシンプルな部屋だった。しかしピンクのベッドカバーに赤いドレッサー、これは確かに藤子の趣味だ。けれどどこか無機的。生活感が無い。つい先日まで、藤子はここで暮らしていたはずなのに。なにがそう思わせるのだろう。史緒がよっかかっているベッドもしわひとつない。藤子は本当にここで寝ていたのだろうか。
 藤子はどんな風にこの部屋で過ごしていたんだろう。やっぱりあの明るい笑顔で、ごはんを食べたり、テレビを見たりしていたんだろうか。あの笑顔で。
 ──あたし、史緒のこと好きだよ
「……ッ」
 静かに全身が震え始める。とうとうきたか───食いしばっても歯の根が合わない。少しでも油断すれば声を漏らしてしまいそうだった。
(だめ、まだ崩れるわけにはいかない)
 歪む顔を押さえるために手のひらに埋めても、その手のひらさえおかしいほど震えている。
(落ち着いて。まだだめ)
 一度倒れてしまったらきっと二度と立ち上がれない。
 座っているだけなのに呼吸が乱れる。なにか病の発作でも起きたように苦しくて、苦しくて口で浅くなんども息を吸った。そうしなければ呼吸の合間に叫んでしまいそうだった。床に倒れ込んで、さらに浅い呼吸を繰り返す。
 なにかを求めるように伸ばした手に、冷たいものが触れた。
「───」
 見なくてもそれがなにかは解っている。
 視線を上げて用心深く、史緒はその、銀色のナイフを握った。
 先ほど、この部屋の中から見つけたものだ。調理用でも工作用でもない。見覚えがあった。藤子がいつも身に付けていたものと同じものだった。
 その、銀色に光る鋭利なナイフに指先で触れたとき、すっと冷静に戻ることができた。
(私はこれからなにをしようとしているんだろう)
 固く目を閉じる。──それ以上考えてはいけない。
 動けなくなってしまう。
(大丈夫)
(まだ動ける)
 このまま崩れてしまっては、あの頃からなにも変わってないことになる。
 ひとり部屋のなかで怯えていた頃から。黒猫の温かさだけを拠り所にしていたあの頃から、なにも。
 またなにもできないまま、倒れて終わるのか。
(──わかってる)
 どんな理由を付けても、史緒のこの行動に正当性は無い。
 請負殺人のシステムがあり、それに加担していた以上、例え自身が殺されても文句は言えない。
 藤子はちゃんと解っていた、最初からそれを覚悟していた。復讐は受け付けると言っていたではないか。史緒がいまさら動揺しているのは、今まで耳を塞ぎ、考えることから逃げていた証拠だ。
 藤子の仕事を考えれば、藤子が殺されても文句を言えないのに。
 藤子が殺し屋だということ、それはちゃんと理解していた。それを承知で藤子に近づいたのは史緒のほうだった。ただどうしても受け入れ難かったのは、藤子が死を覚悟していたこと。「いつか誰かに殺される」と、まるでそれを待ちかねるように。
 ──あのー。友達にすぱっと否定されるのもなかなか痛いんですけどー
 そう苦笑した藤子の表情はどこか憂えていたかもしれない。
 もしかしたら、藤子の一番大切な部分を否定し続けていたのかもしれない。
(私はあなたのこと理解してあげられなかった?)
(無神経に傷つけて、それにすら気づけないでいた?)
(期待を裏切ってしまっていた? 結局、ごっこ(、、、)でしかなかったの?)
 藤子はいつも笑っていた。その笑顔に誤魔化されて、見えてないものがあったのかもしれない。
(ねぇ)
(私はちゃんと、あなたの友達でいられた?)
 いなくなってから考えても遅い。
 ──幸せになってね
(……)
 吸った空気は肺が凍るほど冷たい。胸が痛くなる。
 史緒はそっと、ベッドに顔を埋めた。このまま倒れてしまいたかった。けど。
(私はこれからなにをしようとしているんだろう)
 解っているはずなのに、自問してしまう。
(利己的な復讐を果たそうとしている)
(そうだ)
(櫻を殺したときのように)








22.12月25日 土曜日 20時

 篤志が事務所へ戻ると司と三佳が待っていた。
「おかえり」
 司はいつもどおりだが、
「史緒はっ!?」
 三佳は椅子から飛び降りて篤志に詰め寄った。その様子から、三佳も藤子の訃報を聞いたことがわかる。司のことだからきっとうまく伝えてくれたのだろう。他殺、復讐のあたりは伏せてあるはずだ。
「史緒の足取りは掴めてない」
「そんな…」
「でも、他に色々とわかったこともある」
 篤志はソファに倒れこむように座り、ひとつ息を吐いた。今まで知らなかったいろいろなことを聞いて、精神的に疲れていた。
「…客観的に見れば、俺たちはかなりとんとん拍子でやってきてるよな」
 史緒の話じゃないのか、と三佳が首を傾げる。
「なんの話?」
A.CO.(おれたち)の話」
 短く答えると、篤志は改めて事務所内を見回した。今は3人しかいないが普段は7人集まることもある部屋だ。そう狭くはない。以前に比べれば物も増えてきている。あたりまえだ、それだけの年月をここで過ごしてきた。
「そろそろ満3年。小さな躓きはいつでもあったけど、それはなにをするにしても、どこにでもあることだ。こんな若造ばかりの集まりで、今までよくやってきたと思うよ、実際」
 最初の半年、今よりさらに平均年齢が低かったA.CO.で、かつかつながらも仕事が途切れなかった。それは桐生院由眞が仲介に立ち、仕事を回してくれていたからだ。それと組合に入ったことも強い。しかし本当なら、TIAに入る資格はかなり厳しい。A.CO.がその末席に着けたのは桐生院のコネがあったからだ。
 ただ、それらだけが運良くやってこられた理由じゃない。
 A.CO.を維持するために、史緒は篤志の想像以上に動いていた。
 谷口葉子を足がかりに、國枝藤子、青嵐という情報屋、他にも葉子が言うには新聞社や金融、果てには警察まで。「阿達さんの情報網は推測もできないな。私は裏のことには手を出さないから」
 史緒はワンマンだ。ひとりで抱えすぎている。おそらく、A.CO.が利用する情報網や組織間の繋がり、その大半は史緒しか知らない。
 裏との繋がりが欲しいから藤子と付き合い始めたのか。藤子と付き合い始めたから裏との繋がりができたのか。
 そんなことは本人しか知り得ないことだ。しかし、史緒が裏との繋がりを隠していた理由は理解できる。犯罪者と付き合うことを、たとえ仕事でも割り切れない潔癖性がA.CO.にはいるからだ。篤志から見ればそれは三佳と祥子だった。そして自分も含めて全員が、殺し屋という職業を容認できないだろう。
「まさか、國枝さんも桐生院さんのところのひとりだったとはね」
 さわりだけ説明したあと、司が口を開いた。
「それは俺も驚いた。3年前、史緒は“3人”って言ってたからな。4人目を隠していたのは意図的だろう」
 すると三佳が口を挟んだ。
「どうして、史緒は隠してたんだ?」
「國枝さんの仕事を、俺らに知られたくなかったらしい」
「どんな仕事?」
「やばい仕事」
 下手に隠すのは逆効果だ。そう答えれば、三佳がこれ以上追求してこないことはわかっていた。
「さぁ、もう、亡くなった人のことを喋るのはやめよう。問題は史緒だ。明日、もう少し回ってみる」
 三佳は心配そうに窓の外を見た。
「ちゃんと食べてるかな」
「いっそのこと、無理が祟って倒れてくれたほうが捕まえやすいんじゃない?」
 こんなときでもの司の毒吐きに三佳と篤志は笑った。
 そして篤志は隠れて安堵の溜め息を吐く。
 なんの仕事? と訊かれたら、篤志は嘘を吐かなければならなかった。








23.12月26日 日曜日 11時

 佐東孝三(33歳)の右頬には絆創膏が貼られている。
 その絆創膏は24日金曜日の朝からのもの。冷やかし訝しむ同僚たちに、佐東は「猫に引っ掻かれた」と答えていた。実際、そんなようなものだ。
 商社勤めの佐東は普段は土日が休日である。しかし、ふた月に一度、最後の日曜日は定期研修のために休日出勤をしなければならなかった。それは年末でも変わらない。クリスマスを一緒に過ごした恋人にぐちぐち言われながら(そのクリスマスも予定が一転二転して顰蹙を買ってしまった)、今日、佐東は出社していた。
 退屈な研修を無難にこなして喫煙室へ逃げ込んだ。あとはレポートを提出すれば帰れる。あと1時間で終わらせるには一服の休憩が必要だった。
「なんだ、その顔。女にひっぱたかれたか?」
 喫煙室には先客がいた。同じく休日出勤を強いられたとなりの部署の男だ。軽い挨拶のあと、佐東は笑って返した。
「幸い、相方はそんな凶暴ではありません」
 向かいに座って煙草に火を点ける。テーブルの上の灰皿にはすでに5本の吸い滓。目の前の男も相当ストレスを抱えているようだ。
「じゃあ、なんだよ。もしかして、そっちの課長サン?」
「まさかまさか。部下思いの課長はそんなことしません。──野良猫ですよ」
「猫? ひっかかれたの?」
「ええ」
「それはそれでマヌケだなぁ」
「不覚でした」
(本当に)
 1本目を半分も吸ってないうちに、首から提げているPHSが鳴った。それは課内からの呼び出しを意味している。休憩を邪魔された佐東は芝居がかった調子で口元を歪ませた。男は冷やかすように笑う。
「お忙しいようで」
「そのようで…。──はい、佐東です」
 電話に出ると、同じ課の新人の声が返った。
「白井っス。受付から佐東さんに内線入ってますよ」
 回してください、と言うと回線が切り替わる音。「お待たせしました。C3-D12の佐東です」
受付(レセプション)です。佐東さんに面会です。ロビーでお客様がお待ちです」
「どなたですか?」
「名刺はいただけませんでした。鈴木様という女性の方です」
(──スズキ?)
 佐東はその名に覚えがあった。とてもよく知っている。けれどそれは、他人の名前じゃない(、、、、、、、、、)
 しかし、よくある名前であることも確かだ。取引先にも数人いる。だが、その取引先は日曜(きょう)は休日だし、そもそも面識があるのはすべて男性である。
 佐東が答えないでいると、電話の向こうが続けて言った。
「アポは無いので時間が空くまで待つ、と仰られていますが」
(誰だ?)
 時々、機器メーカーの営業がアポ無しで訪れることもあるが、日曜に来ることはまずない。そのほかに思い当たる節もない。
 佐東は訝りながらも、すぐに行く旨を伝え、電話を切った。

 受付の女性社員に案内されて、佐東は鈴木なる来訪者を見つけた。
 パンツスーツの女性だった。髪を高い位置でまとめ、首にはオレンジ色のスカーフ。テーブルの上のカップには手を付けた形跡がない。眼鏡を掛けていて顔はよく見えない、しかしずいぶんと若そうだ。やはり心当たりはなかった。
 ロビーの片隅のテーブルへ、佐東は慎重に近づいた。
「佐東です」
 声をかけると女性──鈴木はやけにゆっくりと顔を上げた。佐東の顔を3秒かけて確認するとその表情が歪む。けれどそれも一瞬、鈴木は営業スマイルを向け、立ち上がった。
「こんにちは。お忙しいところお邪魔して申し訳ありません。おかげで確定しました」
「なにがですか?」
「失礼ですけど右頬の…、切創ですね」
「あぁ、ええ、野良猫にひっかかれまして」
 ここ数日、何度言ったか知れない言い訳をすると、鈴木は薄く微笑った。
「私は、その猫の友人です」
 そして目だけ笑うのをやめた。
「野良猫に首輪をかけたのは、あなたですね」
「───」
 佐東の背後を他の社員が通り過ぎた。そういう場所だと考慮しての隠喩。この会話は一言間違えば危険だ。
「新宿駅西口の街路樹に、猫の爪が刺さっていました。ちょうど、佐東さんの頭の高さに」
「──あなたは誰ですか」
「さっき言いました。野良猫の友人だと」
 “鈴木”は眼鏡を外して佐東を見据えた。
「はじめまして。阿達史緒です」







 史緒が名乗ると鈴木(、、)は目を瞠った。そのリアクションで、鈴木は、史緒の名前は知っていても顔は知らなかったことがわかる。しかしさすがに頭の切り替えは速い。鈴木は無言で椅子に座ると、テーブルの上に肘をついて両指を組んだ。倣って、史緒も着席する。
「これは…、無礼ではありませんか?」
 その声は深い。低い声に威圧感があった。
 史緒は笑って返す。
「不調法で申し訳ありません」
 礼儀なんか知るか、と暗に伝えると鈴木も笑った。
「復讐のつもりでしょうか」
「いいえ。佐東さん(、、、、)に復讐しようとは思ってません。ここへ来たのは軽い嫌がらせです」
「ずいぶん危険なことをするんですね。あなたのこの行動は命取りになりますよ」
(そちら)の方々が依頼ではなく私怨で動くのはルール違反ではありませんでしたっけ?」
「そういうローカルルールを強要させる馴れ合いには与してないつもりです。“(そちら)”と一括りにされるのも不愉快です。最も基本となる法律(ルール)に反している人間のたまり場で、さらにルールを作っても意味が無いでしょう?」
「なるほど。でも私のほうも、その手の脅しを効かせないくらいには、佐東さんのことを調べてきています」
 それを聞いて佐東はわざとらしく肩を竦めた。
「調べたところで、あなたには何もできない」
 強い声が響く。
「…と、わたしは見ていますがどうですか?」
 史緒は返事を遅らせなかった。「───試してみます?」
 笑顔で対峙する2人の会話はそこで途切れた。そのままお互い視線を逸らすこともしない。社員の集団が2人の横を通り過ぎる。いくつかの喧噪が、2人の頭上を通り抜けていった。
 沈黙を止めたのは史緒のほうだった。
「安心してください。私もここ(、、)で騒ぐ気はありません」
 そして鈴木は笑顔を消し、不愉快さを表情に出す。
「そう思っているなら、今夜にでも仕切りなおししませんか? 本業を邪魔されるのはとても気分が悪い」
 史緒は調子を崩さずにこやかに言った。
「すみません、用件は些細なことです、すぐに帰りますから。…それから、残念ですけど、アフターでのお付き合いはできません。今はまだ怪我を負うわけにはいかないんです」
「人聞きが悪いですね」
「それに」
「それに?」
「私はこれでも我慢しているんですよ? あなたに切りかからないように」

 鈴木に会いに行くのに「人目の多い敵地」を選んだ理由はふたつある。
 自衛と自制だ。
 人気(ひとけ)の無い場所で鈴木と相対したらあっという間に返り討ちされて病院送りになってしまう。今、足を止められるわけにはいかなかった。それからもうひとつ。この男を前にしたら、衝動的に史緒のほうから切りかかってしまうかもしれない。そうしたら警察送りだ。理性を保つため、短慮を起こして自滅しないために人目の多いところを選んだというわけだった。


「煙草を吸っても?」
「遠慮してください」
 即答すると鈴木は溜め息を吐いて、煙草を挟んだ指をおろした。不機嫌そうな表情で促す。「用件をどうぞ」
 史緒がここへ来た目的はひとつだ。
「依頼主は誰ですか」
 単刀直入の用件も、鈴木は予測していたのか驚かなかった。一定のリズムで、煙草の先を机の上で弾ませている。
「…やるんですか?」
「ええ。やります」
 ふぅ、と鈴木の吐息が聞こえた。
「あなたは動かないはずだって、野良猫さんは言ってたんですけどね」
「それはあの子の読みが甘かっただけでしょう。所詮は他人のこと、推測でしかありませんから」
「なるほど」鈴木は火を点けない煙草を未練がましく指でいじっている。「…で」
「依頼主です」
 話を逸らすことを許さない史緒。鈴木は厳しい目で睨んだ。
「常識的に考えて、わたしがそれを教えると思います?」
「思いませんね」
「解っているならお帰りください」
「でも、佐東さんは教えてくださると思います。…と、私は見てますがどうですか」
「なぜ」
「昨日の早朝、メールをくれたのはあなたですね」
 藤子の居場所を知らせてきた携帯電話のメール。送信元の契約者名は佐東孝三。そう、始末屋・鈴木だった。
 それを知ったとき、史緒は酷く驚いた。しかしよく考えれば当然のこと。鈴木が単独で動いているなら、あの時点で藤子の居場所を知っているのは、藤子に手を下した本人しかいない。
 鈴木は肩で息を吸い、ゆっくりと吐く。
「そうですね。それがなにか?」
「どうしてそんな、アシが付くような危険なマネを?」
 発見時刻を早めたいだけなら、危険を冒してまでメールを投げる必要は無い。放っておいても朝になれば、誰かが見つけて警察に通報していた。その2,3時間のタイムラグに意味があるとも思えない。
「どうしてあの子の居場所を知らせようとしたんですか。どうしてそれをあの子の携帯に送ったんですか。あの子の携帯を誰が持っているか知っていたんですか。その誰かがあの子を探していると知ってたんですか。───あなたの狙いは、居場所を知らせることじゃなかった。その誰かを動かすためだった。焚き付けるために、メールを出したんじゃないですか」
 そしてその誰かとは史緒のことだ。「あなたの狙いどおりこうして訪れたんだから、まさかここで手詰まりにさせるつもりはないでしょう?」
 鈴木は表情を無くし、煙草を弄ぶ指を止めた。
「───阿達さん」
「はい」
「こんな噂をご存じですか?」鈴木は声を抑えた。「“國枝に手を出せば阿達によって社会的に抹殺され、阿達に手を出せば國枝に殺される”」
「……」
 史緒は眉をひそめて首を振った。
「知りません」
 そこで鈴木は吹き出した。あながち演技ではなさそうだった。
「あっはっは。本当に? 知らぬは本人ばかりなり、ですか。いや、びっくりですよ」
「それがなにか?」
「わたしの依頼人はね、わたしより前に、5人の請負屋に猫の始末を依頼しているんです。その5人は猫の名前を聞いて逃げたそうですよ。おそらく半分は、猫に怖じ気づいたんでしょう。そして半分は、あなたを恐れたんだ」
「…まさか。私はただの、表の情報業の末席です」
 そんな風に恐れられるのは心外だ、と言うと、鈴木は苦笑する。
「じゃあ、あなたは今、なにをやろうとしているんですか」
「───」
「あなたがどう思おうと、あなたからの制裁を恐れた始末屋は数多くいるということです。そこで、わたしはその噂の真偽を確かめてみたかったんです。本当に、猫の友人が動くかどうか。だから、メールを出しました」
 史緒はなにも言い返せなかった。すると、鈴木はもう一度史緒の前で煙草を持ち上げた。
「吸ってもいいですか」
「遠慮してく」「了解したほうがいいですよ」
 鈴木の含みを持たせた台詞に、史緒はかなり躊躇して、椅子を後ろに引いてから、やっと頷いた。
「どうぞ」
 鈴木は遠慮無く火を点け、美味そうに煙草を吸う。史緒はそれをじっと待っていた。妙なひとときだった。
 一本吸い終わって、もみ消したところで、鈴木は史緒の前に紙片を差し出した。
 名刺だ。
 「佐東」の名刺ではない。
 史緒は息を飲んだ。鈴木が構わない、という素振りをするので、遠慮無くそれを受け取る。
「…信じていいんでしょうね」
 史緒の呟きを聞いて鈴木は鼻で笑う。
「無精はやめましょうよ。どうやったって、わたしたちのあいだに信用関係は無いでしょう? わたしの言葉を信じようが信じまいが、ウラを取るのはあなたの仕事です」
 それは確かにそのとおりだが、史緒は疑心を持たないわけにはいかなかった。
 クライアントデータを漏らすのは最大のタブー。自分だけでなく、仲介屋の信用も失墜する。その仲介屋にぶらさがっている請負屋すべてが干されてしまうのだ。たとえ「最も基本となる法律に反して」いても、仕事は仕事、請負と信用は切り離せないもの。
 それなのに鈴木は史緒に大声で漏らし、その経過を楽しむ素振りさえ見られる。
「どういうつもり?」
「そうなんでも邪推されるのは心外です。わたしはわたしの仕事は済ませました。そのことで一定の評価は得られたわけです。───そしてあなたに足を掴まれたことで、少しの汚点が付いた。しかし、それはマイナスにはならない」
「…?」
「わかりません? いつもの仕事で3歩進んで2歩下がるところを、今回は5歩進んで3歩下がったようなものです。わたしは地道な性格なんですよ」
「…?」
 鈴木の説明はさっぱり解らなかった。史緒の表情がおもしろかったのか、鈴木は失笑した。
「あなたはもう少し、あなたの友人の猫とあなた自身の世間的な評価を客観的に見たほうがいいですよ」
 それ以上、史緒に解り易く説明しなおすつもりは無いようだった。

 帰ろうと席を立った史緒を鈴木が呼び止めた。
「阿達さん」
 鈴木は胸ポケットから取り出したものを史緒に差し出す。
「ここまで来たことに敬意を表してあなたにはこれを」
 小さな紙袋。押しつけられるかたちで史緒はそれを受け取る。片手に包まってしまうほどのそれには、なにか硬い、いびつな形のものが入っているようだった。首を傾げた史緒に鈴木は慌てて付け加えた。
「あぁ、まだ開けないで。これ以上、社内(ここ)で騒がれてはわたしも困ります」
「…なんですか?」
 訝しむ史緒に鈴木は目を細めて笑う。
「急いで開ける必要はありません。もう、意味の無いものですから」








24.12月26日 日曜日 12時

 篤志は西新宿に来ていた。
 しかしアテがあったわけではない。
 文隆たちのほうから警察の動きはちらほら出てきていたが犯人の手がかりはなにひとつ出ていないようだ。史緒の追跡も予想以上に困難で、手詰まりの一歩手前となっている。
 葉子は青嵐の居場所を頑として吐かなかった。それをしたらこの先仕事ができない、と言っていた。しかし、場所は新宿だということ。それだけは聞き出すことができた。
 史緒は藤子を殺した人物について調べているはずである。もしかしたら青嵐とまた接触するかもしれない。それにちょうど事故現場もこの近くだ。実にはならないだろうが、篤志が持つ手札はそれくらいしかなかった。
 事件現場にも行ってみた。屋上へつながるフェンスは立ち入り禁止になっていた。しかし人の気配はある。1日以上経過した今も、警察が現場検証をしているようだった。
 駅までの道は、日曜、そして年末だということもあって混雑している。大きな旅行カバンを持った人も見られる。帰省、もしくは旅行だろうか。いつも以上に慌ただしい空気に篤志は疲れた息を吐いた。
 ふと、篤志は絶え間ない人波に目を留めた。うずくまっている人影を見つけた。歩道の端、陸橋の手すりにもたれかかるように、気分が悪いのか顔に手を当てて、立ち上がれない様子。篤志は近寄って声をかけた。
「大丈夫ですか? 具合でも?」
 うずくまっているのは女性だった。篤志の声を受けて、なんでもない、というように明るい声で顔をあげた。
「あ、平気です。ありが───」








25.12月26日 日曜日 12時

 史緒は駅へ向かう途中で、鈴木に渡された紙袋を開けてみた。
 紙袋を逆さにして、手のひらに音も無く転がり落ちたのは、鈍色の、真鍮の小さな鍵。
 ピアノの鍵のようなクラシカルな形。鍵としての構造は単純なものだった。
(なんの鍵…?)
 思い当たるものが無い。鈴木はなんのつもりでこれを史緒に渡したのだろう。
(鍵…?)
 錠の形を想像してみる。
「…」
 かちり
 鍵が開いたように閃いた。体がカッとなる。
「ぁ───…ッ!」
 ──急いで開ける必要はありません
(あの男…ッ!!)
 悔し涙が滲んだ。鈴木に対して圧倒的な怒りが込み上げた。全身が憤怒で震える。今、目の前に鈴木がいたら、この衝動に従って間違いなく刺していただろう。人目など気にせずに。
 ──もう、意味の無いものですから
 自分の甘さに気づく。鈴木のとぼけた態度にすっかり騙されていたようだ。情をかけるような素振りを見せても、あの男は藤子を殺した人間なのに。
「…っ」
 きりきりと胸が痛んだ。
 ───鍵は足枷の鍵。
 藤子を殺した凶器だった。
 史緒はしばらく立ち上がれなかった。膝にまったく力が入らない。通行の邪魔になっているのに、足が動かなかった。
「大丈夫ですか? 具合でも?」
 頭上から声がかかる。史緒は慌てて顔を上げた。
「あ、平気です。ありが───」
 お礼は最後まで言えなかった。
 心配そうな顔で手を差し伸べていたのが関谷篤志だったからだ。
 篤志のほうも、史緒の顔を確認すると目を剥いて、苦々しく顔を歪めた。「…って、おまえかよ」
 咄嗟に駆け出した。しかし、篤志が一歩も動かないうちに腕を掴まれる。容赦無い力に引き戻され、史緒は悲鳴をあげた。
「史緒」
 頭上から痛いくらい厳しい声が降った。腕を掴む力はさらに強くなり、史緒はその痛みに顔をしかめた。
「……篤志」
 恐る恐る顔を上げると、篤志は睨むように史緒を見下ろしている。史緒の恰好を一瞥すると言った。
「変装のつもりか?」
 実はそのつもりだった。
 髪をあげて、眼鏡をかけて。気休めでしかないが、追っ手(とくに身内)に捕まらないようにと思っての采配だった。無駄だったようだが。
 藤子のことを聞いた篤志が追ってくることは予測していた。そして一番手ごわい追っ手だということも。
 それにしても、篤志はどうやって史緒の足跡を掴んだのだろう。流されるままにしか歩けない人波の中でも、篤志はただ一人、史緒を見つけた。
「…どこまで聞いたの?」
「全部では無いだろうけど、一通り」
「藤子の仕事のことも?」
「ああ」
「私のこと、軽蔑した?」
「しない」
「簡単に否定しないで。あの子は…!」
「史緒、家に戻るんだ。そして休め」
 首を横に振る。
「史緒っ」
「私のことは放っておいて」
「國枝さんは史緒の復讐を望んでいるのか?」
「そんなわけないじゃない! あの子は、無駄なことはやめておけって、笑うに決まってる。…私だって、藤子があんなことになってもおかしくない人間だったってことは知ってる。でも、友達が殺されて泣くしかできないなんて、自分の無力さを証明したくないの」
「復讐は次の復讐を生む。それくらいわかるだろう?」
「じゃあ私が殺されたら、連続する復讐劇を篤志が止めて」
「それはできない」
「───」
 予想外の即答に史緒は絶句した。
「…説得力ないわ、それじゃあ」
 悔しさが込み上げる。鼻先が冷たくなった。史緒は頭を振ってそれをやり過ごした。
「昨日の今日で気が昂ぶってるんだ、とにかく頭を冷やせっ」
「私も解ってるのよ? 今の気持ちは長くは続かない、少しずつ冷めて、薄くなっていくって。だから」
 篤志の胸を叩く。力は入らなかった。
「だから、今、動くしかないの。まだこの気持ちが残っているうちに」
「投げ槍になるな、おまえには他に守っているものがあるだろう? 一時の感情に任せた軽率な行動で、それをすべて失くすのか?」
「わかってるわ! でも私は…ッ」苦い空気を吸う。「なにもせずに怒りを収められるほど大人じゃないし、なにかを守るためなら他になにもいらないなんて言えるほど、無知な子供じゃないの!!」
 悔しかった。篤志は史緒のことを本当によく理解している。一番揺さぶられるところを突かれて、心がぐらついた。
 でも譲るわけにはいかない。今、この気持ちに従わなかったら死ぬまで後悔することになる。藤子の記憶とともに。
 ごめんなさい、と史緒は小さく呟いたあと、
「いて…っ」
 篤志のつま先を踏んだ。その隙を突いて腕をふりほどく。史緒は全力で走り出した。
 人混みのなかを掻き分けるなら、体の小さい史緒のほうが有利だ。
「史緒っ!」
 篤志の声が聞こえたが立ち止まるわけにはいかなかった。








26.12月26日 日曜日 20時

 三佳は事務所の窓から外を眺めていた。
 史緒は今日も帰ってこないのだろうか。篤志もまだ戻ってない。こんな風に待っていることしかできない自分が嫌になる。なにか手伝う、と篤志に言ったけど、おとなしく留守番してろ、と言われてしまった。
(ムカツク)
 けれど外に出ればどこへ行っても三佳はただの子供だ。史緒の居場所を聞いて回っても、相手にされないだろう。解っていても、なにもできないことが悔しかった。
「司、前に言ってたな」
「うん?」
「史緒は気に入った人間をとことん守る性格だ、って」
 だから僕たちも自分自身を大切にしなきゃいけない。かつて、司はそう言ったことがある。
「…それって、今回みたいなことになるから?」
「そうだね。とてもいい見本だ」
 見本、という語彙は不快だった。しかし正して欲しいわけじゃない。司のそういう物言いはわざとだ。








27.12月27日 月曜日 19時

 6時間前───
 そのビルのそのフロアでは、人は走り回り、電話は鳴り続け、怒鳴り声はあちこちから聞こえる。これならまだ、駅の改札口のほうが静かだと思わせる喧噪。よく言えば活気づいているのだが、聞こえてくる大声は穏やかでないものが多い。
 ここは、いつも、こうだ。この慌ただしさと騒々しさに圧倒されてしまう。史緒は壁に擦り寄るようにして大人しくしていたが、それでも脇を走りすぎる人に邪魔物扱いされた。ごめんなさい、と謝ってもその対象はすでに通路の向こう。この様子では、先ほど頼んだ呼び出しもきちんと伝わっているかどうか怪しいものだ。
(新聞社ってみんなこういうものなのかしら)
 身の置き所に困っていると、机と机のあいだから見知った顔の男が小走りでやってくるのを見つけた。
 とりあえず、呼び出しは伝わっていたらしい。
「諏訪さん」
「やぁ、A.CO.さん、お久しぶりです。いつかは本当にお世話になりまして」
「お世話になっている数はこちらのほうが上です。お忙しいところお邪魔して申し訳ありません」
「え? 別に忙しくないですよ?」
 けろりと答えるその目は嘘を吐いてない。史緒はちらりと諏訪の背後を見る。あいかわらずの喧騒。「……」これが普通なのかもしれない。
 フロアの端の会議室に通された。「すみません、落ち着けるところがここくらいしかなくて」そう言ったあと、諏訪はドアの外に向かって、「ヒツジ、茶ぁ出せ!」と鋭い声で叫んだ。さすがこの職場の人間と言うべきか。史緒はその様子に苦笑した。
「年末はどうですか。なにか大きなニュースでもあります?」
 勧められた椅子に腰掛けて話題を出した。諏訪は新聞社勤務、社会部記者。かつてA.CO.の客として知り合った人物だった。
「いや、さっぱり。社会部は各地の正月風景を取材するくらいです」
「え。じゃあ、年末年始も出づっぱりですか?」
「いえ、そういう取材は大抵フリーのライターが行ってます。我々はデスクワークですよ。う〜ん、欲言えば、他に、ちょっと派手な話題が欲しいところです。今年は嫌な事件も多かったし、最後くらい和める話題があるといいんですけどね。ちょっとイイ話、みたいな」
 そこで、湯飲みを乗せたトレイを持った女性が入ってきたので話は一時中断した。諏訪の部下らしい若い女性が史緒と諏訪の前に湯飲みをおく。史緒がお礼を言うと、軽く視線を返してきた。そして退室。
「で、阿達さんの御用というのは」
「はい。ええと、半年くらい前のことなんですが」
「ええ」
「こちらの新聞でゼネコン企業の特集をやってましたよね。確か、経済ではなく、社会だったと記憶してますが」
「ああ、ありましたね。はい、社会(うち)です」
「とても興味深く読ませていただきました。昨今ではゼネコンというとマイナスイメージが強いけれど、少し街を歩けばその仕事は必ず目につくのに、それを意識する目は一般人にはほとんど無い…、アピールも兼ねた社会貢献に対する意欲───そういう主旨でしたか」
「ええ、そうですね。そうなんですけど…どうしました? ずいぶんと回りくどいですね」
「え?」
「國枝藤子さんの件で、なにか調べているのではないですか?」
「!」
 史緒は目を見開いた。諏訪の口からその名前が出るとは思わなかったからだ。
「…おかしいなぁ」少しの後、笑いが込み上げる。「私たちの関係を知ってる人は、大抵、カタギじゃないんですけど」
「こんな商売ですから。情報は広く浅く、なんでも仕入れますよ」
 控えめに笑う諏訪に、心からありがたいと思った。
 そう、まだ足を止めるわけにはいかなかった。
「その特集記事のインタビューに答えていたうちのひとり、庫勝建設常務、北実明次と面会したいんです。仲介をお願いできませんか」







 大きな窓からは都会の夜景が広がっている。
 広大な光の渦は、黒い土の上に、白い小石をまぶしたようだった。安っぽい模型のよう。こんなジオラマの中で人々が生活しているかと思うと不思議な気分だった。
 ──あのね、いつもながら史緒の情緒の不細工さには驚かされるよ、ホント
 そう笑った藤子はもう、このなゆたの光のなかにいない。どこにもいない。
 会えない(、、、、)んじゃない。いない(、、、)んだ。一生会えないという表現も違う。
 この世界にはもう、あの存在が無い。
 無い。
 忘れていた。人が亡くなるとはそういうことだ。
 会いたいのに、世界中のどこへ行ってもそれは叶わない。どんなに努力しても、手を汚しても、祈っても、この命と引き替えにしても。ただひとりの人間と会うことができない。そんな絶対の別離があると、思い知らされたのはいつだったろう。
 無い、という言葉に恐怖したのはいつだったろう。
 天の上や土の下に生の前や死の後を探すのは無意味。同じ時間を共有できないなら意味は無い。
 腕を傾けて時間を読む。この部屋に通されて20分、そろそろ来るだろう。
 手のなかには、小さな真鍮の鍵。史緒はそれを握りしめる。長いあいだ手のなかにあったのに、まだひんやりと冷たい。
(私はこれからなにをしようとしているんだろう)
 ここまで来て、まだそんなことを考えている。いや、意味なく自問しているだけであって、本当は最初から解っている。
 胸元に忍ばせているナイフに、服の上からそっと触れる。そして目を閉じた。
 危惧していたよりは、ずっと冷静だった。
(大丈夫)
(やれる)
 もちろん、藤子はこんなこと望んでない。
 ──守らなきゃいけないもの、わかってるよね?
 彼女の制止は史緒の足を止めるだけの力は無かったようだ。
 藤子は望んでない。
 では、なんのために?
 自分の憂さを晴らすため。この喪失感を重くする(、、、、)ため。
(綺麗な理由を付ける必要はない。それだけで充分だ)
 そうしているあいだに、ドアが開いて男が現れる。
 史緒はそれを笑顔で迎えた。








28.12月27日 月曜日 19時

 風向きに注意して窓の外に煙を吐き出した。白い煙はすぐに闇に溶けて跡形も残らない。
 篤志は久しぶりの煙草の軽い目眩を楽しんでいた。もちろん、自分の部屋で。はとこがアレなので煙草の消費量はかなり減ったが、元々篤志は結構な喫煙家だった。実家にいた頃は「庭で吸え」とよく追い出されたものだ(未成年だったけど)。
 篤志にとって煙草による最大の恩恵は、思考を切り替えられることだった。精神を落ち着かせ、集中する。外界を意に掛けず、意識の渦に浸かる。10代の頃はどうしてもそういう時間が必要だった。そう、「自分」のことを考えるために。
(あいつは今頃、どこでなにしてるだろう)
 嫌煙権を頑なに主張するはとこは行方をくらませたまままだ見つかっていない。手を尽くしてもその足跡を追うことができなかった。あとは待つしかない。彼女の良識に期待するしかなかった。
 篤志は視線を微かに動かした。
 窓枠の影が映る机の上に指輪が置かれている。
 装飾はない、シルバーのシンプルなものだ。しかし月明かりを反射する(けい)が、まるで宝石(いし)のように光っていた。
(…いいかげん、手放したいところだな)
 少しずつではあるがこれを持つことが重くなってきている。このままというわけには、やはりいかないのだろう。
 ゆっくりと、煙を上空へ吐き出す。
(さてどうしましょうか、───咲子さん)








29.12月27日 月曜日 19時

 1ヶ月前───
「國枝藤子さん、ですか。あまり気乗りしませんね」
 薄暗いバーのふたつ隣りの椅子に座る始末屋は言った。ふざけるな、と北実は小さく舌打ちする。
「貴様で6人目だ、この仕事を頼むのはな。前の5人はターゲットの名前を聞くなり逃げた。こっちだって急いでるんだ、これ以上、苛つかせないでくれ」
「まぁ、落ち着いてください。やらないとは言ってません。───ただ、忠告させていただけませんか」
「忠告?」
「國枝藤子さんに手を出したらしっぺ返しを喰らいますよ。これは業界内では有名な話です」
「殺し屋を殺した復讐に遭うってか? …はん、そんなヤツが本当に来るというなら、またあんたみたいのを雇ってやるさ。殺し屋の動向を掴めた俺のネットワークをなめるな」
「はぁ、そうですか」と、始末屋はにべもない。「表の人間の動向のほうが、かえって掴みにくいこともありますがね」
「どういう意味だ」
「いえ、なにも」
 これ以上の情報提供は報酬外。國枝藤子の復讐に訪れるのは表の一般人ですよ───このとき、始末屋・鈴木はそれを口にしなかった。

 今日、自分を狙っていた殺し屋の終熄を聞いて北実は浮かれていた。もちろん顔には出さないが、ここ数ヶ月、心労の原因だった問題が片づいたのだ。その知らせに体が軽くなったようだった。年内の仕事も明日で終わる。気持ちよく年を迎えられそうだった。
 昼間に新聞社から連絡を受けた。過去の特集記事に興味を持ったフリーのジャーナリストが北実を取材したいのだという。とくに他に約束もない、気分がよかった北実はジャーナリストの所属と取材の趣旨を確認しただけで了承を出した。来るのは若い女だというので、ちょっと楽しみだった。
「お待たせしました。北実です」
 客人を待たせておいた部屋に入ると、窓際に立っていたパンツスーツの女が振り返った。
 少しのあと、「ふふ」と女が笑う。
「…なにか?」
 あまりよい笑い方ではなかった。名乗りもしない女に不快感を覚えた。すると女は「失礼」と笑みを収める。そして北実に大胆に歩み寄った。数歩の位置まで近寄る。目線は少し下。女は言った。
「私が國枝藤子だったら、北実さんはもう刺されてますね」
 妙にはっきりした、よく響く声だった。國枝藤子、という名前がなんだったか思い出すより先に、さらに女が言う。
「だって、誰かがあなたを殺すよう、國枝に依頼したのは事実ですもの。無事でいられてよかったですね」
「な…っ!」 (殺し屋の名前だ)「なんだ、貴様は!」
「失礼。名乗ってませんでした。───阿達史緒といいます」
 名前など、今は関係ない。ここで本名を名乗る馬鹿がいるものか。
「貴様はだれだっ」
「殺し屋の友人です」
「ななな…なにしに来た!?」
 女は笑った。
「復讐です」




 史緒が胸元からナイフを取り出すと、「ぎゃっ」と北実が喉を鳴らした。腰が引けて後ずさりするが、史緒は自分の立ち位置を計算している。扉に背を向けて北実が逃げ出せないようにする。それから史緒は、この部屋の電話のジャックを抜いて、詰め物をしておいた。当然、この部屋にカメラ等が無いかも確認している。助けを呼ぶことはできない。
「ひぃ…っ」
 ナイフを見て、悲鳴をあげる。「待て…、待て待て! やめろっ!」
 慌てふためき冷静さを失っている。史緒はそれを利用する。北実が落ち着きを取り戻し、力業で抵抗されたら敵わない。
 史緒はソファの上からクッションを取り、それを切り裂いた。羽毛だったらしく、羽根が飛び散り、ゆっくりと床の上に降る。北実は悲鳴をあげた。
 北実を壁際に追い詰めて言った。
「私があなたを刺してはいけない理由があったら言ってください」
「ば…馬鹿かっ! 犯罪だ! 痛いだろうがっ、こんなことしてただで済むと思ってるのかっ」
「忘れてないとは思いたいですが、あなた自身、始末屋を使って人を殺させました。それも犯罪ではないですか」
「それは…っ。あ、あいつは人殺しだ!」
「だから。あなたも同じでしょう?」
「あいつは…殺し屋は、俺を殺そうと狙っていた! …そうだ、これは正当防衛だっ! あいつを()らなければ俺が殺されてたんだぞっ!? それが解っていながら、なにもするなと言うのか? 殺されるのを黙って待っていろというのかっ!?」
「───」
 どちらが悪い? と訊いたら、ほとんどの人間が藤子を指す。おまえこそなにをしているのかと、史緒を責めるに違いない。
 藤子は人殺しだ。それは悪とされる。人々が共存していくためのルールに反している。己の意志で、故意で、殺しを生業とする藤子の存在を社会は許さないだろう。───だから殺されてもいいの?
 藤子は自分が社会に受け入れられないことをちゃんと解っていた。非難され、糾弾され、誰かに殺されるだろう未来も受け入れ、覚悟していた。
(でも───…)
 史緒のこの復讐に正当性はない。それは解ってる。藤子は悪だった。最低の職業だろう。でも。
 あの笑顔も、言葉も、ずっと遠くを見る瞳の色を。なんでもないような街並みを眺める横顔、恋人について語るときの声、一緒にいて安らぐ雰囲気を。
 それらを失くしてもいいなんて、誰も言わないで。それは必要無いものだなんて言わないで。
(私の悲しみを否定しないで)
(この気持ちを無駄だと言わないで)
 殺されて構わない人間なんていない。いなくなって、誰も悲しまない人間なんていない。誰に責められようとも、史緒は。
(それでも私は、藤子のこと───)
 一度も言えなかったけれど。
「殺し屋を殺したのは私じゃない、始末屋だっ」
「…っ」
 史緒は知らず、ナイフを構え直していた。
「くだらない」
 と低く呟く。
「本当にくだらない…ッ。あなたみたいな人間に藤子は殺されたっ! あなたみたいな、なんの覚悟もない人間に!」

    幸せになってね
「───…ッ!」
 背筋を一気になにかが駆け上った。そのなにかに身体を操られるようにナイフを振り上げる。「ウワァッァァア!!」北実は悲鳴をあげた。逆手に握った銀色の刀身を史緒は渾身の力で───振り下ろした。








 鈍い音がした。

 北実がわずかによろめいた。
 ナイフは史緒の背後に落ちた(、、、、、、)
「……ぅ」
 北実は状況が掴めない。極度の緊張から抜け出した体が、痙攣のような足の震えに耐えきれず、膝を折り、その場にへたりこむ。「かは…っ」呼吸すらままならなくて咽せた。そしてようやく痛みを感じたのか、左頬に手を添え、すぐに手のひらを見る。出血はなかった。
「───?」
 刺されてはいない。ほっとしたのもつかの間、頭上から呼吸が聞こえ、北実は振り仰いだ。
 そこには、歯を食いしばり、大きく肩を揺らし、なにも持たない右手を握りしめる史緒が立っていた。

 史緒は素手の拳で北実の頬を殴った。北実の頬は赤くなっただけだ。
 背後にナイフを捨てた。振り下ろした拳にナイフは握られていなかった。
 それなのに、まるで史緒のほうが刺されたように、苦しそうに胸を押さえている。
「ハ…ッ、ぁ」
 史緒は口を開け、肩で息を繰り返した。溺れたときのように体が酸素を欲しがっている。肺が、胸が痛い。苦しくて、そのまま心臓が止まってしまうかと思った。一瞬だけ本気で、死んだらあの友達に会えるかも、と思った。
(…馬鹿だ)
(あの子がいなくても、生きていかなきゃいけない)
(あなたがいない世界でも、私は───)
「───」
 両眼を固く閉じ、ナイフを持たない右手を握りしめる。
 その拳を額まで持ち上げ、深呼吸。
 史緒は顔をあげた。
「一千万円、出せますか?」
 落ち着き払った史緒の声が小さく響いた。
 床にへたったままの北実は眉をひそめて史緒を見上げた。なにを言われたか判らないという様にいくつか表情が動く。
「…なんだって?」
 史緒はそんな北実を見下ろしたまま淡々と言葉を継いだ。
「難しいことは訊いてません。今すぐ一千万出せるのか出せないのか訊いているんです」
「はっ…」北実は大きく笑った。いくぶん調子を取り戻した様子で、余裕のある表情で史緒を睨め付けた。「金で片づけようって魂胆かぁ?」
 史緒は深く頷く。
「そうです。私への口止め料です。あなたの社会的地位を守るためなら安いものでしょう? それとも、あなたから始末屋に渡った資金の証拠と一緒に警察に行ったほうがいいですか。…あぁ、警察じゃどうにもできませんね、じゃあ、庫勝建設にリークすることにします。会社はあなたを守るでしょうけど、人の口に戸は立てられません。末端の人間ほどなおさらに」
 北実は勢いを付けて立ち上がり、ついでに机を叩いた。
「脅迫する気かっ!」
「脅迫罪で訴えてくれても構いませんよ。こちらも出せるだけの証拠は揃えていきますから」
「……ッ」
 北実は顔を大きくひきつらせて史緒を見上げた。史緒はそれを冷静に観察する。さらに史緒は、ゆっくりした動作で落ちたナイフを拾った。それを見せつけるように北実に向き直る。「私は、どちらでも(、、、、、)構いません」
「く…っ」
 北実は歯を噛んで顔を歪ませた。この時点で、どちらが優勢かは明かだった。緊張した空気が2人の間を走る。しかし、
「すみません」
 と、一転、史緒はくだけた笑いをする。
「これじゃあ、あなたに条件が悪すぎますね。金額も高すぎますし。───だから、その一千万は非課税になるよう、手を回します。それなら、あなたにとっても大した損失ではないでしょう?」
 緊張を解かれ、北実は息を吐く。史緒の台詞を反芻しているのか、視線が短く泳いだ。
「…どう、手を回すんだ」
「それはこちらに任せてください、としか言えません」
「払うとしたら…。おい、まだ払うとは言ってないぞ! 払うとしたら、だ! キャッシュで今すぐは無理だ。振込も記録が残るのは厄介だぞ」
 史緒は軽く頷く。
「そうですね。それはこちらも都合が悪いです」少し考える素振りを見せて「手形ではどうですか? できれば小切手にしてくれます?」
 それなら記録の細工はどうにでもなります、と笑った。「当然ですが不渡りは出さないでくださいね」とも。
「領収書は換金後に送付します」
「おい、待て。どうやって信用しろと?」
 北実が声を荒げると、史緒は困ったような顔をした。
「非課税にするための細工に少し時間をください。送付する領収書は確定申告でも充分通用する代物です。それにもし私が北実さんとの取引を違えても、こちらの身元は明かしているのだから、いくらでも処罰のしようがあるでしょう。警察は動かせなくても、他に役に立つ請負屋を、あなたは知ってるはずです」
「しかし」
「少しは信用してくださってもいいのでは? もう二度と顔を合わせないでしょうけど、私も賄賂をもらったんだから、あなたに失脚されたら困ります」
 北実は目を丸くして、次に肩を震わせた。
「ふは…はははは、そうだな」
 北実はいやらしく笑う。それは2人だけの部屋に染みつくように響いた。
 史緒は微かに目元を歪ませたのだが、北実はそれに気付かなかったようだ。
「あんた、大物になるよ」
「それはどうも」
 そんな皮肉を巧くかわせないほど、史緒は酷く疲れていた。
 この場の嫌悪感に泣きたくなっているのは、心身ともに疲労の限界だからだろう。
 それでも北実の不愉快な笑い声を、史緒は目を逸らさずに聞いていた。
 まるで、己への罰を甘んずるように。








30.12月27日 月曜日 22時

 A.CO.の事務所に電話の音が響いた。
 史緒のデスクに座っていた篤志はなにかを覚悟するように固く目を瞑る。少しの後、ゆっくりと開いて、手を伸ばし、受話器を取った。「はい」
「関谷さんいらっしゃいますか」
 声はしわがれた男性のもので、名乗るより先に篤志を名指しした。
「自分ですが」
 司と三佳は上の部屋で休んでいてここにはいない。事務所には篤志ひとりだけだった。
「木戸といいます。史緒さんの知人で…、あぁ、2ヶ月くらい前に一度そちらに訪問しました。確か、そのときお会いしていると思うのですが」
「…ああ。ええ、憶えています」
「今、こちらで史緒さんを保護しています。そちらでも捜しておられたのではと思い、連絡させていただきました」
「それで、今、どこに?」
「警察です」
「警察っ!?」
「申し遅れました、小職は刑事です。史緒さんは現在、取り調べを受けています。今夜中には釈放されると思うので迎えに来てもらえませんか」
「國枝さんの件ですか?」
「ご存じでしたか。それなら話が早い。そうです。史緒さんは第一発見者であることと通報者であることで事情を聞いています」
「それだけですか? 他になにか」
「ありません。けれど、史緒さんのことだ。なにもしなかったとは思えませんが、警察はそれを掴んでいません」
「そうですか。あの、史緒はどこで保護されたんでしょうか」
「ええと、実は保護というより、史緒さんから連絡がありまして。“今から出頭する”と。それが1時間前のことです」








31.12月27日 月曜日 23時

 史緒は警察署を出ると空を仰いだ。夜空が明るかったからだ。
 空一面に薄い雲が広がっていた。一際明るい部分があり、月が見えなくてもその位置を知ることができる。史緒は空を見上げながら、冷たい空気を深く吸い込んだ。肩で息を吐くと、雲と同じように息が白い。身体が急激に冷えていった。
 そして、張りつめていた神経も、音をたてて緩んでいくのを感じた。気が抜けたせいか、歩くことも危うい。両膝がおかしいくらいに震えている。少し休んでから帰ろうと、史緒は玄関前の階段に腰を下ろした。
 辺りは静かだった。警察署の玄関からの灯りが、史緒の影を階段に映し出していた。
 澄んだ空気を胸に吸い込む。
 ───きっと、今、なにかが終わった
 途中、足を止めずに終わらせることができた。その達成感はあった。
 じわり、と涙がにじむ。それは気が緩んだせいか、寒さのせいか、それとも悲しいせいか、史緒には判らなかった。大声で泣きたかった。でも自分自身にそれを許すことができない。
 さきほどまで続いていた事情聴取の相手は計良。25日朝の発見から通報が遅れたこと、行方をくらましたことなどを訊かれた。「友達があんなことになって、気が動転してたんです」他の刑事はともかく、計良は信じないだろう。途中、木戸も顔を見せたが目を合わせることができなかった。今の気持ちを読みとられてしまいそうで怖かった。
 えいっ、と勢いをつけて立ち上がる。
 早く帰ろう。
 このまま独りでいたら、感情に呑まれて崩れてしまう。
 薄暗い駐車場を横切って、敷地内の階段を足早に駆け下りる。(今、何時だろう。電車まだあるかな)
 そのとき、史緒は胸を突かれて足を止めた。
 警察署の門柱の傍らに、大小3つの人影があった。
(どうして…?)
 司と三佳、そして篤志。
 むこうも史緒に気付いたらしく、それぞれの表情がこちらを向く。篤志は無表情、司は安堵の笑みを浮かべ、三佳は泣きそうな表情で司の腕にしがみついていた。
(もし、北実を刺していたら、私は彼らをも失うところだった)
 北実にナイフを向けた瞬間、その判断はできなかった。だからこれは結果論でしかない。
 それでも手放さずに済んだ。感情的になって暴走しても、守ることができた。失わずに済んだ。そのことに、史緒は祈るように感謝した。
(これでよかったんだ)
 階段を降りてゆっくりと3人に歩み寄る。ふと、篤志が史緒の右手に目を向けた。長い袖で隠れていたはずなのに本当に目ざとい。史緒は包帯が巻かれた右手を持ち上げて見せた。
「思いっきり殴ってきたら、痛めちゃった」
 篤志は一瞬目を見開いた後、やんわりと笑った。
「ばーか」
「なによー」
 むくれて見せる。
「気は済んだか?」
 篤志の問いかけに、首を横に振って返す。
「まさか、後悔だけ」
 関係無い人を巻き込んで利用してしまったこと。沢山の人に迷惑をかけたこと。仲間に心配させたこと。
(でも、何もしなかったときの後悔よりずっといい)
(そう。何もしなかったときより、ずっと)
 表情を保っていられなかったので俯いて隠した。それだけのことで身体がよろけて、篤志に支えられる。
「泣いていいんだぞ」
 優しい声に従ってじんわりと込み上げるものがある。けれど。
「───ごめん」顔を上げて笑顔を見せた。「泣けないみたい」
「史緒」
「大丈夫。年が明けたらみんな帰ってくるし、それまでにはちゃんと立ち直る」
 駅までの道を、史緒は篤志に支えられながら歩いた。ぬかるみを歩くように足がうまく動かなかった。
 初めて害意を込めて人を殴った。その右腕と右肩が痛い。酷く痛い。
(この痛みがずっと残ればいい)
(そうすればずっと、忘れずにいられるのに)
 一番恐れていることこそが必然。───史緒はもう知っている。
 共に過ごした喜び。亡くした辛さ。悲しみ。
 この記憶さえ、いずれ風化してしまうことを。


 空の色は重い。
 雪が積もったような空だった。








EPILOGUE

 12月28日火曜日。
 ほとんどの社会人が仕事納めとなる今日、世間をささやかに騒がせたニュースがあった。
 朝刊の見出しは、『3日遅れのクリスマスプレゼント』、『平成版傘地蔵』など3面記事ではあるが大きく取り上げられている。他にさほど大きなニュースも無く、久々の明るい話題とあって、各紙はこぞって盛りたてた。
 難病の少年が多額の寄付を受けたという。
 少年の両親はあまり裕福ではなく、資産を売り払い、病院へ通うかたわら働きに出るなどして少年の入院費を払い続けていた。そんな折に、手術の必要があると宣告される。しかし多額の手術費用は当然払えるはずも無く、借金をしても賄えるものでは無かった。それでもどうにか、と両親はたまの休みに街頭募金活動をしていた、そんな矢先のことだった。
 27日の夜、少年の家のポストに一通の封筒が投げ込まれた。
 ──ご子息の御息災をお祈り申し上げます。
 という添え書きの他に、一枚の小切手。その額面に、両親は思わず悲鳴をあげたという。添え書きに署名は無かったが、小切手には振出人の記載がある。新聞社に問い合わせたところ、ある大手企業の上役であることが判った。
 この美談に新聞社は飛びつき、28日朝刊の社会面を割いた。テレビのニュースやワイドショーにも取り上げられ、なによりその募金額が世間を騒がせた。
 “彼”が上役を務める企業が11月に障害者支援を打ち出していることも判明し、企業のイメージアップを図っての募金かとも思われた。なかには、寄付は非課税なので(てい)の良い税金対策だろうと皮肉る声もあった。しかし、やらない善よりやる偽善。世間は好意的に受け止め、彼の善意を賞賛した。
 ───映像は、彼の出社風景から始まる。
 ビルの玄関前ロータリーに黒いセダンが乗り付けた。その後部席から彼が降りると同時にカメラはズームし、フラッシュが焚きしめられた。集まっていた10人ほどのマスコミに囲まれ、突然のことに彼は驚いた様子を見せた。
「な、なんですか一体! おい、勝手に映すな」
 マスコミを掻き分けるなか、焦った表情が映る。
「北実さん! 難病の少年に一千万円を寄付したそうですね」
「…なに?」
「あなたのおかげで、年明けにはすぐ手術だそうです」
「少年とそのご両親は是非あなたにお礼を、と言っています。涙ながらの会見はもうご覧になりましたか?」
「どうしてこのように大金の寄付を思い立ったのですか?」
「御社の障害者支援の先陣を切ったということですか?」
「北実さん、一言、お願いします!」
「今のお気持ちをお願いします!」
 マスコミに囲まれ暇無くシャッターを切られる、その中心で、彼の表情は不自然に歪んでいた。愕然としているようにも見えた。アップになった表情は唇が細かく震えていた。
「北実さん!」
「は…はぁ、ええ。…その、はい、そうですね。その…、少年? には、早く元気になって…いただきたいと」
 しどろもどろの発言中、北実は不自然に手で隠してたが、画面にしっかり映っている。
 北実の左頬には大きな痣があった。







 真相を知る者はごく僅かだった。

 マスコミに囲まれる北実の顔の痣を、仕事場のテレビで見た佐東考三は声をあげて笑った。見る者が見れば、その痣は殴られたものだと判る。誰がやったかは悩むまでもない。あの様子では殴ったほうの腕も相当いかれているはずだ。「慣れないことはするものじゃないですよ」佐東は同情した。しかし、この結果こそが、彼女流のやり方なのだろう。

 その他、耳ざとい情報屋は、この茶番を仕掛けたのが阿達史緒だと聞きつけていた。同時に國枝藤子の死亡と、國枝藤子に手をかけたのが鈴木という始末屋だということも。
 國枝に手を出せば阿達によって社会的に抹殺され、阿達に手を出せば國枝に殺される───その噂通りに手は下された。國枝亡き後、阿達史緒は己の立場を守り、力を知らしめたのだと、業界内では評価された。




 桐生院由眞はオフィスで電話を受けていた。
「そう、史緒は戻ったのね、それならいいの。…あなたたちも仕事納めでしょう? もう年内は連絡しないから…ええ、よいお年を」
 電話の向こうで的場文隆が「お悔やみ申し上げます」と言った。辞令だろうがその声は慎重だった。
「ありがとう」
 由眞は電話を切って立ち上がり、窓の外を眺めた。あの子がよく、そうしていたように。
 あの子はいつもここから景色を眺めていた。なにが楽しかったのかは解らない。でも、日本へ連れ帰って、初めてここに来させたときもそうだった。窓にへばりついて、飽きもせず見ていた。「由眞さん、世界ってキレイなんだね」ここからの景色はお世辞にも綺麗とは言えない。海へ続く川と、対岸に灰色のビル群が見えるだけだ。それをキレイと言うあの子は、ここからの眺めからなにを読みとったのか、それまでどんな世界を見ていたのか。それを思うと辛い。
 國枝藤子の遺体は本人の遺言に従って献体に回された。おそらく史緒は、それを警察で聞いただろう。
 千晴にはもう連絡が取れなかった。由眞はなんとなくそれは予感していた。もう会うこともなさそうだ。それは彼らしい。誰かと藤子を偲ぶなどしない。大学のメールアドレスに今回の結果だけを送っておいたが、果たして彼は読むだろうか。どちらでも構わない。どちらにしろ、これが最後のメールになる。
 由眞は重い重い溜め息をついて、デスクの上の電話の内線ボタンを押した。すぐ隣りの部屋の秘書に繋がる。
「年内は休むわ。予定はすべてキャンセルして」
「了解しました」
「それから、紫苑に連絡をお願い」震える声を正さなければならなかった。「藤子は死んだって」
 内線を切ると同時に、由眞は机に伏した。
 顔を上げるまでには時間がかかるだろう。




 篤志、司、三佳はそれぞれ自分の部屋でニュースを見ていたが、多くの視聴者と同じように特別に気にかけることはなかった。少しの興味深いニュースとして捉えただけだった。




 史緒はこの日、部屋から一歩も出なかった。ニュースも見ていない。一日中、ベッドに寝ころんでいた。
 夜、カーテンの隙間から七日月が見えた。
 雲一つない黒いだけの空を煌々と照らす。史緒はなんとなく、それを眺めていた。
 どれくらい経ったか知れない。
 視界が滲んで、月が見えなくなった。
 あっという間にあふれ、頬を伝い、シーツに染みこんでいく。
 とめどなく溢れる涙を止めようとは、もう思わなかった。
 藤子を失くしてはじめて、史緒は泣いた。




 そして翌日。
 12月29日水曜日。
 この日、阿達史緒は18歳になった。









44話「星が生まれた日 後編」  END
43話/44話/45話