44話/45話/46話
45話「さくら」









 さらさらと。






 さらさらと花が降る。




 風にほどけていく。
 空にとけていく。


 限りなく白に似た薄紅。
 視界を霞ませる花の散る(らん)


 咲き誇る(くれない)
 こぼれるような連翹()雪柳(しろ)


 灼灼たる花嵐の辻。
 あたたかい吹雪に、うもれてしまうような。

 さらわれてしまうような。







      さら
         さら
             さら







 遠くへ、力いっぱい手を振った。早く。
 ここへ来て。桜がきれいだよ。


 声がきこえて、名前を呼ばれる。
 花のなかに影が浮かんで。
 少年がかけてくる。
 笑顔でかけてくる。



 触れるまであと少し。
 ふと。
 なにか聞こえたように、少年は足を止めた。

 振り返るより先に、その表情が。

 歪む。

 唇がことばを象る。


「……さ、くら」


 それは花の名ではなく。





 少年はつまづいたように。
 前のめりに、不自然な体勢で。

 倒れた。





 ───それは不思議な光景だった。
 少年が2人に分かれた(、、、、、、、)

 倒れた少年が立っていた場所に(、、、、、、、、、、、、、、)少年は立っていた(、、、、、、、、)




 倒れた少年の背中は塗り潰したように黒く。
 緑の褥に赤い液体が流れ落ちていく。
 その背中が、一度だけ、踊るように跳ねた。


(……とおるくん)
 わけもわからず手を伸ばす。
 けれど。

 掴まれた。

 もうひとりの、立っている少年の顔が。
 ひきつるように歪む。
「───…ッ!」

 心臓を掴まれた。

 歪んでいるのに。

 それは笑顔だった。







      さら
         さら
             さら







 倒れた少年は赤く花に埋もれ、
 佇む少年は花のなかで嘲笑う。



 私は、
 叫んだらしい。















 1.
 1−1



 史緒は夢から引き剥がされた。
「───ッ!」
 内臓を置いてきてしまったような喪失感があって、ゆるやかな痺れが四肢に残っていた。手の握りさえだるい。ふっ、と地面が無くなったような浮遊感に、藻掻くようにしがみつく。史緒が両腕で抱きしめたものは枕だった。体は、ちゃんとベッドの上にあった。
 ───今のはなに?
 脳裏にまだ残る鮮やかな光景。目の前の暗闇と比べて愕然とするほどの違和感。
(どうして暗いの? どうして寒いの?)(今は夜、季節は冬)(温かい日差しはない。桜も咲いてない)
(名前を呼ばれた)(誰に?)
(亨くんは? 櫻くんは?)(いない)
(わかってる)(本当に?)
(あの双子はもういない)
 忘れていた呼吸をようやく思い出して、喉が奇妙な音を立てた。
「大丈夫か?」
「!」
 暗闇から声が掛かって、一気に現実感が戻る。
 ここは自分の部屋だ。聞き慣れた時計の音。その響き方。毛布の肌触り。空気の冷たさ。
 夢を見ていた。
 落ち着いてみれば大して暗くもない。ドアが開いて、廊下の照明が室内に差し込んでいる。
 警戒心は生まれなかった。ドアを開ける人物は一人しかいない。
 目線を少し上げれば、彼ら(、、)と同じ年代の女の子が心配そうに覗き込んでいた。(───違う)
(あれから10年も経ってる)
 目の前の女の子の名前を思い出して、史緒はそれを確認した。
「三佳」
(うな)されてたぞ」
「…そう?」
 心臓の音が大きい。全身に汗を掻いて、ベッドの中が蒸れていた。
(夢を見ていた)(何年ぶりだろう)
 幼い頃、何度も、繰り返し見た夢だ。
(夢だ)(怖い夢)(どうして今になって?)
「史緒?」
「…うん?」
「どうした、いつもと逆だな」
 三佳が静かに笑いかける。安心させようという気遣いが見えて、史緒も笑顔を返す。でもうまくいかなかった。失敗したみっともない表情を、両手で覆い隠した。
(夢じゃない───)
(だめ)(掘り起こさないで)
(だめだ)(もうごまかせない)
「史緒?」
 なんでもない、そう言わなきゃ。
(もう忘れた振りはできない)
「───おもい、だしちゃった…」








 朝食の支度を一段落させて三佳は一息吐いた。
 ちょうど、朝のニュース番組が時報を告げる。午前7時。
(あいつ、起きてくるかな)
 朝食が並ぶテーブルを三佳は心配そうに眺めた。せっかく作った食事が無駄にならなければいいけど。
 昨夜、史緒は(うな)されていた。史緒と同居し始めて2年半、はじめてのこと。
(そのあとも様子がおかしかったし…)
 年末───先週のことだが───史緒の友人が亡くなった。三佳の前では平静を装っていたけど、史緒は年明けまで目を腫らしていた。ようやくそれも収まりつつあって、落ち着きを取り戻したように見えていた、少しは立ち直れたかと思っていたのに。
 同じく年末に痛めたという史緒の右手と右肩は、まだ包帯が取れない。心配要素が次々と増えていくことに、三佳は心労を覚えずにはいられなかった。
「おはよう」
 史緒がリビングに入ってきた。三佳は挨拶を返して立ち上がり、ケトルに火を点けに行く。
「あのあと、眠れたか?」
「うん、すぐ寝たよ。夜中に起こしちゃって、ごめんなさい」
 その科白の真偽を確かめる為に、三佳は史緒の顔を覗き込む。なに? と、史緒は口端を持ち上げて応えた。不自然に笑ってもいないし、顔色も悪くない。額面通りに受け取るわけにはいかないが、心配するほどでもないか、と三佳は息を吐いた。
 いつものように、2人、席に着いて軽く手を合わせる。テレビでニュース番組を流しながら、その日のお互いのスケジュールを確認し合うのが朝食の席での日課だった。
 2人が同居し始めて2年半。家事全般は三佳の担当である。史緒は「そんなことしなくてもいいのに」と言うが、居候の身分ではこの程度の労働は当然。しかしそれだけが理由じゃない。三佳は声を大にして言いたい。史緒は家事能力ゼロだ。放っておけばなにも、とくに食事に関しては、最悪の場合食べることさえ忘れる。だから三佳のこれは恩返しではなく使命感。この、手のかかる同居人を真っ当に生活させていくことが、三佳の日常のなかで最も重要な仕事だった。
「史緒、行儀悪い」
 手を合わせて箸を持ったものの、さきほどから史緒はごはんを口に持っていけてない。どこかぼーっとして、箸でおかずをつついているだけだった。
 三佳の呼び掛けに史緒ははっとした様子を見せて、縮こまったあと、茶碗と箸をテーブルに置いた。
「ごめんなさい。…ちょっと、食欲なくて」
 と、視線を落とす。
「体調、悪いのか?」
「ううん、そうじゃないけど」
「残していいから、少しでも食っとけ。自己の健康管理ができないほど子供でもないだろ」
「うん」
 しかし結局、史緒はその日、コーヒー以外を口に付けなかった。








 翌日。
 朝食の後かたづけを済ませた三佳は、休む間もなく出掛ける支度を始めた。
「今日から仕事だから、バイト行くけど」
「はーい、行ってらっしゃい。あ、峰倉さんにお年始持って行って」史緒はソファに座って新聞を読んでいた。「それから、私もあとで挨拶に伺うからって伝えて」
「了解。他の挨拶回りはどうする? いつもなら、桐生院さんと、親父さんのところだな」
「桐生院さんのところは、今年は仕事始めの挨拶だけでいいわ。真琴くんたちと一緒に行ってくる。……父さんのほうは、毎年のことながら気が重いわね」
 史緒がわざとらしく額を抑えるので三佳は笑って返した。
「毎年のことなんだから観念したらどうだ。あちらも忙しい中、時間を割いてくれてるんだろ」
「三佳も一緒に行く? 父さんに気に入られてるみたいだし」
「親子の化かし合いに付き合いたくない」
 史緒は肩をすくめて見せた後、新聞に目を戻した。こんな風におどけて言い合っても、実際の場はとてもじゃないが冗談を言える空気ではないだろう。もちろん、三佳は同席などしたくはない。それでも相手は史緒の実の父親で、新年の挨拶も毎年のことだ。がんばってこい、としか三佳には言いようがなかった。
「史緒のほうの今日の予定は?」
「デスクワーク。年末サボっちゃったから。ほんと、溜まってるのよ」
「一応、言っておくけど、ちゃんと食べろよ?」
 史緒は苦笑して頷いた。
 ───その苦笑いがとても自然なものに見えて、リビングを出た後、三佳はとても嫌なものを見たように顔を歪ませた。

 あえて口にしなかったけれど、史緒の様子がおかしいのは明白だった。
 一晩明けてみれば目の下にクマ。顔色も良くない。そんな様子でいつもと同じような態度だから、心配を通り越して滑稽でさえある。それだけでなく、史緒は昨日からほとんど食べてない。
(國枝さんのこと? でもおとといまで、食事は摂っていたし)
 篤志に任せようとも思ったが、今は実家へ帰っている。連絡したらすぐに来るだろうが、そんなことをすれば史緒は却って意固地になるだろう。
 三佳は電車に揺られながら考えた。
 史緒には弱音を吐ける相手がいるのだろうかと。同じ質問をされると三佳も困るが、でも三佳にとっては司や史緒、峰倉だって良い相談相手だ。では、史緒にとっては?
(もしかして國枝さんが、そういう相手だったのかな)
 どうも阿達史緒という人間は、A.CO.のトップである体面が先に立ち、仲間にもなかなか本音を見せないところがある。確かに、トップが不安になればみんなが不安になる。その気遣いは理解できる。けれど一人で全部抱えられては周囲は逆に心配になる、そのことに史緒は気付かないのだろうか。


 三佳がバイトから帰ってきたとき、用意しておいた食事はなくなっていた。
(ちゃんと食べたのか)
 と、一安心。念の為キッチンのゴミも確認する。捨てたわけではなさそうだった。
 史緒が部屋から出てきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
「私、夕飯いらない」
「史緒」
「ほんとに食べられないから」
 そう言って、逃げるように戻って行った。
(───…。まさか昼も)
 思っていた以上に深刻かもしれない。









 寒さに目が覚めた。なにか飲もうとキッチンへ向かった三佳は、驚きで眠気が吹っ飛んだ。リビングに明かりが点いていたからだ。
(史緒…?)
 強盗でなければ、同居人が消し忘れたか同居人が起きているかだ。足音を忍ばせてリビングを覗くと、やはりいた。三佳の位置からはソファの背しか見えない。けれどそのソファの肘掛から長い髪がこぼれている。
「史緒」
 名前を呼ぶと短い悲鳴をあげて史緒は飛び起きた。派手に飛び起きたのでその際、毛布が床に落ちた。
「びっくりしたぁ」
「こっちの科白だ。何でこんなところで寝てるんだ」
「あ、うん。こっちのほうが暖かいかな、と」
「どう考えても、史緒の部屋のほうが暖かいと思うぞ」
「そうみたい。三佳も寒くて目が覚めた? お茶いれようか?」
 そう言ってそそくさとキッチンへ向かう。
「史緒」
「んー?」
「國枝さんのこと?」
 ぴたりと足が止まった。不自然な沈黙の後、その背が小さく答える。
「……半々かな」
「他に、なにか?」
「ううん。年末のことは片づいたし、うちの仕事にも問題は無いし」
「じゃあ」
「個人的なことなの。それを、無駄にいろいろ考えてるだけ。鬱陶しいかもしれないけど、しばらく放っておいて」
「…篤志か誰か、呼ぼうか?」
「どうして?」
 我慢できなくなって三佳は声を荒げた。
「飯もまともに食えなくなって何日経ったと思う? それだけのあいだ無駄に考えてるだけでどうにもならないなら、大人しく他人を頼ればいいじゃないか」
 三佳の声が強く響いた後、史緒の反応は遅れて返ってきた。
「…ええと。違うの、そういうのじゃない。ほんとに、無駄なの」
「は?」
「なにかが解決できるわけじゃないの。…ううん、問題ですらない」
「…」
「考えた末になにかが変わるわけじゃないし、なにかを得られるわけでもないから」
 振り返った史緒は、やはり笑っていた。
「───大丈夫よ、三佳。心配かけてごめんね」









 1−2


 どこか冷えた空気。肩を抱く根付くような寒冷。
 壁に背をつけて、ベッドの上で膝を抱える。
 闇は目が利かない。その代わり耳を澄ますと、遠くから車の音が聞こえた。その響き方で、今が夜だと判る。
 その空気は懐かしかった。
 実家にいた頃、七瀬くん(、、、、)が隣りに住み始めた頃、よくこうしていた。
 あの頃と同じ。
 眠ってしまうのが怖い。夢を見るのが怖いから。
 なにかに脅迫されているような圧迫感。まるで見張られているような緊張感がある。
 この感覚を長い間忘れていた。
 あの頃と違って胸元が心許ないのはネコがいないからだ。
(一人で眠れないなんて、もう子供じゃないのに)
 その記憶を意識すればするほど、忘れさせないのは自分自身だ。馬鹿みたいな堂々巡り。
 ───どうして思い出した?
 春の日。桜の下の幻影。あの日の風の匂いや、温度や、空の色まで克明に憶えている。
≪怖いのはそのままでいいから。早く忘れたいの≫
 忘れたいと願った春の日の記憶は、あのときに忘れたはずだった。
 冬の日。櫻が墜ちた日に。
 どうして、いまさら思い出したの?
(…藤子だ)
 屋上の風の中で藤子を見たからだ。倒れているのを見たから。
 あの春の日と同じように、死を目の当たりにしたから。
 藤子を失ったから。
「……っ」
 重いものが胸から込み上げる。鼻の奥が冷たくなって、あっという間に涙が溢れた。
 夜は弱くなる。だから早く眠ってしまいたいのに。

 三佳が心配している。
 来週には他のみんなも帰ってくる。早く元の自分に戻らなきゃいけない。それなのに体はちっとも思い通りにならなかった。
(この記憶は、もう何の意味もないのよ?)
 櫻も亨もいない。怯える対象はもうない。
 それなのに、記憶は今もなお史緒を見張り続けている。息が詰まるような胸の軋みを伴って。
(どうして笑うの? 櫻)
(どうして亨くんを)
 見てしまった。
 同じ顔が倒れ、嘲笑うのを。血に染まるのを。
「…っ」ぞわりと寒気が駆け抜けて思わず叫びそうになる。唇を噛んで声を抑えると今度は涙が滲む。
(いつまでこんなものを気にし続けるの?)
(もうあの頃の私じゃないのに)
「た……」

(───!?)
 史緒は暗闇で目を見開いた。
 搾り出すように息に乗せた声。なにを言おうとしたのか。
(…あぁ)
 愕然とすると同時に胸が温かくなった。震える唇から、どうしてか笑いが込み上げる。自嘲ではない。自棄になってもいない。懐かしさと、それから。
(あぁ、私はまだ、こんなにも弱いんだ)
 できることなら認めたくない。でもまだそれ(、、)を吐いてしまうのは明らかに自分の弱さだった。受け入れなきゃいけないという諦観があった。認めるしかない。
 自分の弱さを自分が認めたら、少しだけ楽になった。




 幼いころ。
 叫び続けていた言葉がある。
 胸が軋んだとき、恐怖に抱かれたとき、息ができなくなったとき。

「    」

 何度も、何度も。耳を塞ぎながら、胸を掴みながら、髪をかきむしりながら、まるで祈るように、願うように。
 叫んだ。
 まるでこの身体にしがみつくように。
 叫ばずにはいられなかった。



「   て」

 一度も、声にしたことはないけれど。










 1−3


 三佳はベッドの中で、遠くドアの音を聞いた。控えめな足音が三佳の部屋の前を通過して行く。おそらく、隣りの部屋の住人は、しばらく帰ってこない。昨夜もそうだった。
(ぜんぜん、大丈夫じゃないじゃないか!)
 歯ぎしりの後、三佳は勢いよく毛布を剥いで起きあがる。
 寒さなど感じる余裕は無かった。暗闇の中で手を伸ばし、枕元の携帯電話をむしり取る。適当にキーを押すと点灯した液晶画面に目が眩んだ。そのせいで手こずりながらもメモリロックを解除、気が昇ぶっているせいか指が震えてしまう。
 目当ての番号が発着履歴に無いことは判っていた。身近な人間だが電話をかけるような相手ではないからだ。アドレス帳からその番号を取り出すと力任せに発信ボタンを押した。
 長いコールが続く。時間帯を考えれば当然寝ているはずだ。しかし三佳に遠慮は無い。早く出ろ、と心の中で文句を言った。
「どうしたッ!?」
 コールが途切れると同時に緊張した声が返った。時間が時間なので有事と思ったのだろう。そんな誤解を与えたことに謝罪する気はさらさら無い。言うことはひとつ。
「篤志! なんとかしろ!」
 八つ当たりだ。
 怒鳴りつつも声が震えてしまった。三佳が呼吸を整えるあいだ、電話の向こうは沈黙していた。
「…わかった」
「まだなにも言ってない!」
「わかったって。史緒だろ? 朝になったら呼んでやるから」
「誰を?」
「ともかく、夜が明けてからだ。おまえもちゃんと寝ろよ? 強情な同居人に付き合うことはない」


 しかし遅かった。
 その日の朝食の席で、史緒はとうとう倒れた。










 2.
 2−1



 一条和成が病院に駆けつけたとき、病室前の廊下に関谷篤志はいた。
 上着も脱がず椅子に腰掛けている。他に人影は無く、消毒液の匂いが染みついた冷えた廊下に、硬い影が映る。篤志はまるで床を睨むように視線を落としていた。
 和成の足音で顔を上げる。けれど一瞥しただけで、どうでもいいというようにすぐに視線外した。挨拶もなかった。
 静寂な空気に声を出すのも憚られて、和成は篤志のそばまで近づいた後、抑えた声で訊いた。
「酷いんですか?」
「寝不足とエネルギー不足。大したことはない」篤志は横顔を向けたまま答えた。「三佳が言うには、このところほとんど食べてなかったらしい。原因があれば相応の結果は出る」
 篤志は大抵、和成にいい顔をしないが、このときはいつも以上につっけんどんな態度だった。
「…三佳さんが、ずいぶん動揺しているようですね」
 ロビーで今にも泣き出しそうな顔をしているのを見た。隣で(なだ)めていた司が、和成に病室を教えてくれた。
「あいつは史緒の面倒見るのに使命感を持ってるから。責任を感じているんだろう」
 篤志は椅子から立ち上がって裾を払う。「医者が言うには意識は戻ってるらしい。あとは頼みます」
 そう言って、和成の横を通り過ぎた。
 頼みます、という科白に耳を疑った。篤志にとっては不本意なはずだ。既に手を引いたはずの和成に、史緒のことを頼むなどということは。
 篤志は最後まで和成と目を合わせなかった。しかし。

「首の火傷」
「───!」
 首根を掴まれたように和成は振り返る。すると、篤志が鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。そして重そうに口を開く。
「櫻か?」
 どうりでいつもよりさらに当りが厳しいわけだ、と和成は冷静に思う。
「…ええ」
「その頃は、あんたがいたはずだな」
「ええ」
 言うが早いか篤志の拳が飛んできた。避けるつもりはなかったが避ける暇もなかった。頬を殴られて2歩ほど後退する。2歩で済んだのは、篤志が殴りかかってくることを予測していたからだ。
 篤志が史緒の火傷を見たら自分を殴りにくるだろうと、和成は判っていた。
「…いてて。顔はやめて欲しかったな、社長に叱られる」
「手加減はした」
「お気遣いどうも」
 篤志の声には明らかな怒りと苛立ちが込められている。
「何のためにあんたが残されたのか(、、、、、、)、解ってなかったのか?」
「勿論、解ってました。あれは私の責任です」
「解ってるなら、行動で示せ。取りきれない責任だってあるんだ」
 そう言い捨てて踵を返す足音を、和成はじっと聴いていた。

 ───解っているつもりだった。
 “彼女”のイタズラに巻き込まれ、役割を与えられ、それを引き受けた。もう10年以上前のこと。
≪次に史緒を守ってくれる人が現れるから、それまでは、お願い≫
 それはいずれ出会うだろう史緒の恋人を指しているのかと思った。しかし違う。
≪だって約束だもの≫
 彼女が意図的に残したのだ。次に史緒を守る誰かを。
 いつ現れるのか。それが誰なのか。彼女は言い残さなかった。
 それから数年。本当にそんな人物が現れるのかと疑い始めていた頃。
≪あんたはもう手を引いていい≫
 奇しくも彼女の葬儀の日に、彼は現れた。彼の立場を観察するのに時間を要したが間違いない。
 彼女が残したもの。それが現れた。そして史緒を守ることから手を引けと言う。
 それなら自分は、彼女が残した者に託して手を引こう。
 外から彼女のイタズラを見届けよう。
 すべての問題を、彼女が彼に託したというのなら。
≪でも、櫻がいるもの!!≫
 史緒が櫻に怯える理由。
≪あの子は可哀そう≫
≪櫻をあんな風にしたのはあたしのせいだから≫
 彼女の、櫻に対する負い目。
(…櫻)(そうだ、櫻だ)
 史緒を守ることは付随に過ぎない。
 彼女は───咲子は、櫻を救おうとした。そのために、彼を残した。
 彼を。
 和成は勘違いしていた。後から現れた彼も、和成と同じ、阿達兄妹と関係の無い第三者だと思っていた。咲子がその人懐っこさで、やはりどこかで知り合った他人に託したのだと思っていた。
(違う。彼は知っている(、、、、、、、)
 彼は知っていた。初対面であるはずの史緒を。なにより櫻を。

「───待ってください」

 彼の正体など、推測はできている。それはあり得ないことだと否定しても、何度も同じ結論にたどり着く。無理に暴く必要はない、彼は咲子が残した者だ。役割を終えた和成に許されるのは傍観のみ。…けれど。

あなたは(、、、、)誰ですか(、、、、)

 かつり、と篤志の足が止まった。
 振り返らない。冷たい廊下がそのまま凍り付いたように空気が緊張した。
「…知ってるんじゃないのか?」
 篤志の背中が問い返す。
「確認させてください」
 一字一字区切るように答えると、篤志はやっと振り返った。
 その表情は不敵に笑っている。
 それはイタズラをする子供のような、憂いの無い清々しい笑い方だった。
「俺は関谷篤志だよ。嘘じゃないのは、知ってるだろう?」









 2−2


 史緒は壁に向かって丸くなって寝ていた。
(膝を抱えて眠る癖、直ってないな)
 と、和成は苦笑する。面倒を見ていた子供の頃と変わっていない癖に懐かしさを覚えた。
 見ると、左腕にはまだ点滴が刺さっている。こんなときくらい、姿勢を正せないものだろうか。さらに、右手と右肩には包帯が巻かれていた。これは篤志からは聞いてない、まだ何かあったというのだろうか。
 そして水色の病院服からは首が覗いていた。なるほど、篤志はこれを見たのだろう。今日、初めて。
 手近なところに椅子がなかったので、和成は史緒が眠るベッドの端に腰を下ろした。覗き込むと微かな寝息が聞こえる。史緒の寝顔を見るのは久しぶりのことだった。最後に見たのは2年以上前。黒猫が死んだ日、史緒を自分のマンションに泊めたことがあった。あの後、史緒はすぐに実家を出て、会う回数も減り、お互いの付き合い方も変わった。だからこんな無防備な顔を見るのは本当に久しぶりだ。
 長い黒髪が白いシーツの上に散っている。袖からは白い腕が伸びる。細く折れそうな腕だがしなやかで女性らしい肉付きだった。
 もう、和成が面倒を見ていた頃の幼い少女じゃない。その成長には感動さえ覚える。イタズラ屋の彼女は、この姿をどんなに見たがっただろう。それを思うと胸が痛んだ。同時に、自分はその成長を見ることができた幸運に感謝する。史緒と引き合わせてくれた彼女に。
「…どうしてあなたが来るの?」
 ベッドの中から声が聞こえた。どうやら起きていたらしい。調子に乗って髪を撫でなくてよかった、と和成は冷や汗を掻いた。
「あ、すごい。どうして判りました?」
「あのね」史緒は不機嫌そうな様子で上体を起こす。「三佳だって、私が寝てるベッドに腰掛けたりしな───」
 唇の動きが止まった。史緒は目を見開いて、驚きと心配、ちょうど半々くらいの声で言った。
「…どうしたの、その顔」
 篤志に殴られた顔が赤くなっているらしい。明日には青くなるかと思うと気が重い。まさか本当のことを話すわけにもいかず、和成は笑ってごまかした。
「ちょっとありまして。史緒さんこそ、それ、どうしたんですか」
 包帯が巻かれている右手を指差すと、史緒は言葉に詰まった。
「…ちょっとありまして」
 と、気まずそうに視線を落とす。史緒のことだから、その怪我の原因が事故でも自業(じごう)でも喋らないだろう。それが解っているので和成はそれ以上追求しなかった。
「史緒さん、いくつか申し上げたいことが」
 態度を改めて言うと、ぎく、と史緒の肩が揺れる。「…はい」
「まずは新年のご挨拶を。本年もよろしく」
「…は?」一拍遅れた。「あ、いえ、こちらこそ」
「それと遅ればせながら、18歳の誕生日おめでとう」
「───え?」
「え?」
「…あ、…あぁ、最近はばたばたしていて…。そっか…ありがとうございます」
「プレゼントはなにがいいですか?」
「なにもいりません。言葉だけ受け取ります」
 それを聞いて和成は思わず吹き出した。
「それを言うなら、気持ちだけ、です」
 あいかわらず、史緒はそういうところが駄目だ。
 和成が添削すると、史緒ははにかむように笑った。それは自然に出た笑顔だったので、とりあえず和成は安堵する。最低最悪の精神状態ではないということだろう。
 突然、史緒は両手で両耳を塞いだ。それからほっとしたような表情をする。───和成はその行動の意味を理解していた。史緒はイヤリングを付けていないことに安心したのだ。
 2年前の史緒の誕生日に、和成は赤い石のイヤリングを贈った。史緒は和成の前ではそれをわざわざ外している。照れ隠しであろうその態度は微笑ましくある。
「じゃあ、お見舞い品は? 今日は急いでいたので手ぶらですが、次に持ってきますよ」
 史緒は黙って首を振った。疲れた表情で笑いながら。
 どうやら雰囲気を砕くことには失敗したので、和成は本来掛けるべき言葉を掛けた。
「具合はどうですか?」
「寝不足が祟ったみたいで。2,3日入院です」
「下で三佳さんに会いました。とても心配されてましたよ」
「…司は?」
「一緒でした」
「そう」
 史緒はひとまず安堵の溜め息を漏らす。
「それに篤志くんも」
「篤志も来てるの? 実家へ帰ってたはずなのに」
「会いませんでした?」
 篤志は廊下にいたが、一度は病室に入ったはずだ。史緒が目覚めるタイミングと合わなかっただけか。それとも。
(火傷について問いつめてしまうのを自制したのかな)
 篤志と和成のやりとりなどもちろん知らない史緒は、前髪を掻き上げながら苦笑する。
「私、ついさっき目が覚めたんです。問診のあとは誰とも。…だから、最初に来たのが一条さんで、驚きました」
 心なしか声が強くなる。
「まだ休暇中だったんでしょう? 新年早々、こんなところに来させちゃって、本当にすみません」
「謝ることでは」
「そうそう、父さんに挨拶に行かなきゃって思ってたところなんです。…行けない口実ができて、喜んでたりして」
 不謹慎ですね、と苦笑い。わざとらしいまでに表情が動く。
「史緒さん?」
「一条さんは、年が明けてから父さんに会いました? 実を言うと、私、梶さんのこともちょっと苦手で…。だから、行くときは一条さんがいるときがいいな、なんて。勝手ですね」
「……」
 いつも以上に饒舌な史緒の様子は和成を白けさせた。どう見ても(カラ)元気だ。
「史緒さん」
「───っ」
 強く名前を呼ぶと史緒は肩を震わせて口を(つぐ)む。その様子はまるで怯えているようだった。
(怯える…?)
 その単語には懐かしさを覚えてしまう。あまり良くないことだ。
 沈黙が怖いのか、史緒はさらに口を開いた。
「……一条さんに連絡したの、誰ですか? すぐに退院するし、本当に、大したことないんです。来てもらうほどのことでもなかったのに」
 そう言うあいだにも視線が泳いでこちらを見ようとしない。
 史緒の様子は確かにおかしい。だからこそ篤志も、和成を呼びつけて「頼みます」などと言ったのだろうが。
 けれど様子がおかしいどころか、その様子が子供の頃の史緒と重なるのは気がかりだ。
「一条さ」「史緒さん」
 三佳や篤志にもう少し事情を聞いてきたほうが良さそうだ。
「無理に繕わないで。余計な気を遣わせているなら、もう少し落ち着いた頃にまた来ます」
 和成がベッドから立ち上がり改めて向き直ると、史緒は顔を伏せて黙っていた。
「…なにがあったか知りませんけど、今はちゃんと体を治してくださいね」
 史緒は答えない。
(これは重傷だな)
 沈黙はなにかあったことを認めることだ。自らの不調を隠すこともできないとは史緒らしくない。篤志がこちらに振ってくるのもよくわかる。といっても、あちらにしてみれば藁にもすがるというやつだろうが。
 和成が踵を返そうとしたとき、つん、と引っ張られるような感覚にそれを阻止された。
 史緒が手を伸ばし、和成の袖を掴んでいた。




 無意識に伸びた手は和成を引き留めていた。史緒は自分の行動に愕然とする。「あ…」取り繕うために必死で言葉を探した。
「あの…」
「はい」
 思いの外、優しい声が返る。その優しさに負けて、声が揺れた。
「…眠れないんです」
「見れば判ります。ひどい顔ですよ」
 ひどい顔と言われて史緒は慌てて顔を伏せた。それでも和成に伸ばした手は放せなかった。掴んだその存在を手放すことができなかった。
「あの、私」もう片方の手で顔を隠しながら。「子供の頃、眠るの、…下手でしたよね」
 頭が回らない、言葉がまとまらない。これ以上、おかしなことを言って、迷惑をかけたくないのに。
「私、子供の頃、…どうやって眠ってた?」
 体調を整えるには眠らなきゃいけない。でも今は、眠り方を忘れてしまったようにうまく眠れない。体はだるいし、意識を放棄したいと頭が要求している。心臓だけがそれを許さないとでも言うように冷たい緊張感がついて離れなかった。それがこの記憶のせいなら、同じように記憶を持っていた子供の頃、あの頃はどうやって眠っていたのだろう。
 どうやって眠ればいい?
 言ってから顔がカッとなった。
(ばか、そんなこと子供でも言わない!)
 和成はしばらく喋らなかった。呆れたのだろう。
 史緒は力を込めて目を(つむ)る。手を(ほど)くには強い意志が必要だった。「…すみません。変なこと言って」
 これ以上、馬鹿な自分に付き合わせたくない。
 勢いをつけて手を離すと、逆に、和成が追いかけるように史緒の手を取った。「…!」思わず手を引くが和成は放さない。指から伝わる体温を感じた。手を繋がれてはじめて、自分の手が震えていることに気付いた。
 和成は史緒の肩に手をかける。「一条さん? …え?」そのまま肩を押されてベッドの上に横にされた。すぐに毛布が掛けられて、和成はまたベッドの端に腰を下ろした。
「あの…」
 史緒が頭を持ち上げるより先に、ぽんぽんと毛布の上から体を叩かれた。そのやわらかい感触が体を包む。とても、温かかった。
 ぽんぽんぽん
 和成は史緒を安心させるようにゆっくりと毛布を叩く。
 かつて幼い史緒に、そうしていたように。
「───ぁ…」
 ぶわっと懐かしい匂いが蘇った。実家の、自分の部屋の空気。和成の手の温かさ。ネコの毛並みの感触まで。
 幼い頃は同じ家の中に櫻がいた。あの記憶を持っていた。
 でも。ネコがいて、和成がいた。
 眠ることなど簡単だった。
 ネコを抱きしめた。
 和成の手を、握りしめていた。
 眠ることなど簡単だった。
 すぐそばにぬくもりがあったから。
「──…ッ」
 つないだ手にすがるように、史緒は声をあげて泣いた。










 2−3


 泣き声が収まってしばらくたった。そのまま寝たのかと思ったが、和成の手を握る細い指にはまだ確かな力がある。
「幸せになって───って、言うんです」
 か細い声が聞こえてきた。
「誰が?」
「…友達。それに、咲子さんも」
 そこで史緒は喉を詰まらせた。「ひどいと、思いません?」
「どうして?」
「2人とも、いなくなるって判ってて言ったんです」
「?」
「自分がいなくなるって判ってるのに、私のこと好きだって、幸せになって、って…。ほんとに、ひどい。そう言ってくれた人を失くして、どうして私が幸せになれると思うの?」
 史緒の爪が和成の手に食い込んだ。毛布の上からでも判るほど体が震えている。
「私は、もう誰も失いたくない。それだけなのに。それだけよ? 過ぎた願いじゃない、贅沢なこと言ってない。それなのにどうして…?」(かす)れた声で絞り出すように。「亨くんも咲子さんもネコも、藤子も! どうして? ヒドイ…、ヒドイ…っ!」


 あれはひとつめを失くした夢だ。
 はじめて、失くすことを知った夢。
 とても大切で、大好きなもの。それが突然に、思いも寄らず、まるで景色を切り裂くように、失われてしまった。もうこんな痛みは欲しくない。だから、もうなにも失わずに済むように、強く、守ってきたつもりだったのに。
 またひとつ。
「…藤子…っ」
 もう会えないことが寂しいんじゃない。
 もうこの世界のどこにも、藤子はいない。
 もうなにもしてあげられないことが悲しい。彼女のためにできることがない、それが辛い。
 ぽん、と頭を叩かれた。
「私も、史緒さんのこと好きですよ」
 穏やかな和成の声が降ってくる。一瞬、なにを言われたのか判らず現実感が薄れた。
「──…え?」
 おそるおそる顔を上げると、和成の優しい表情と目が合った。
「幸せになって欲しいと思ってます」
 一気に熱が冷めた。
「勝手なこと言わないで!」
「私はいなくなる予定はありません」
「嘘つき…ッ!」
 自分の声に目が霞む。「あなただって、私を置き去りにしたじゃないッ!」
「───」
 言って、驚いた顔をしたのは和成だけじゃない。史緒も(みは)り、口を塞いで目を逸らした。
「史緒さん?」
「…すみません、今のは」
 ずっと握っていた和成の手から指を離す。しかし今度は手首を掴まれた。
「待ってください」
「なんでもないっ」
「僕が」
「離して」
「僕がアダチに就職したこと?」「ちが」「あのときはもう、史緒さんのそばには、篤志くんや司さんがいたでしょう?」
 カチン
「だからなに? 彼らがいたからなんなの? 誰も代わりにはならない。全然、違うでしょう…っ?」
 止めなきゃいけない。そう思っても堰を切った言葉は喉で止まらなかった。
「留学したのだってそう! 逃げたの! 和くんがいなくなって、櫻と同じ家にいられるわけないじゃない!」



「───櫻?」
 和成は史緒の言葉を聞き逃さなかった。「眠れないのはそれが原因?」
 あの頃と同じ?
 どうして今になって?
「史緒さん」
 呼びかけても史緒は首を振るだけで喋ろうとしない。
 振りほどきはしないまでも、和成が掴んだままの手はどこか退き気味で。そして震えている。その姿は10年前の史緒と重なる。
「櫻は、なにをしたんですか?」
 史緒はかたく口を閉じて黙って首を振る。
 これでは本当に初めて会った頃と同じだ。
 もう10年経つ。それなのに。
 もういない櫻は、どうやって史緒を苦しめているのだろう。












 3.
 3−1



「付き合って欲しいところがあるんです」
 和成が再びやってきたのは2日後だった。ちょうど退院する日で、史緒が返事をする間もなく和成は退院手続きを済ませ、半ば強引に史緒を車の助手席に押し込んだ。

「マキさん!?」
 興奮のあまり史緒は思わず大声を出していた。
 車が郊外に出た頃、和成はようやく事情を説明した。
「ええ。少し前から連絡を取り合ってたんです」
「マキさんと? わぁ…、本当に懐かしい。ずっと会ってないし」
「時間があるときに顔を見せろと言われたので、史緒さんを誘ってみました。よろしかったですか?」
「ええ、もちろん。すごく驚いたけど、楽しみです」
「きっと恨み言を言われますよ。ずっと音信不通だったから」
 和成はハンドルを操作しながら苦笑した。
「それを一人で聞きたくなかったから史緒さんも巻き込んだ、というのが本音です」
 助手席で史緒も笑う。
 真木敬子は阿達家の家政婦をしていた人物だ。史緒が物心つく前から、ほぼ毎日、通いで来てくれていた。食事を作ってくれていたのも、掃除をしてくれていたのも彼女だ。
 けれど櫻が死んだ後、史緒と司が強引に家を出てあの家は誰もいなくなった。彼女ともそれっきり。
 実家は現在も無人で、ときどきクリーニングが入っているはずだが、もちろんそこに彼女の仕事は無い。史緒が家を出たせいで彼女には迷惑を掛けてしまった。
「マキさん、今、どこにいるの?」
「社長の計らいで、別荘の管理人をしているそうです」
「別荘? どこの?」
「逗子です。今、向かっているのもそこです」
 史緒の父親は定住先を持たない。その代わり、不動産を多く所有している。全国の別荘地に、それから都内にもいくつかマンションを所有していて、本人はそれらを転々としているようだ。
 史緒も幼い頃は各地の別荘に遊びに行ったものだが、逗子と聞いてもピンとくるものはなかった。行ったことがあるかもしれない、という程度だ。
「マキさんって結婚してましたよね。ご家族は?」
「逗子の別荘の管理人といっても、マキさんは都内に住んでますよ。別荘のほうは社長や史緒さんが使わなければいつも無人ですし、週1に訪れて掃除などしてくださってるようです」

 数時間の後、やがて車は止まった。
「ここからは歩きです」
 アスファルトが途切れた場所に、こじんまりとした駐車場があった。標高はあまり高くないようだが、周囲は高い樹木に覆われている。
「林道を歩いた先に別荘地があるんです」
 そう言って和成が指し示す方向には、幅5メートルほどの林道の入り口があった。公道だが車は進入できない。道は芝肌だ。よく整備されていた。
 街からはかなり離れているようで他に車の音も聞こえない。ただ鳥の鳴き声だけがこだましている。史緒は和成に誘導されて林道に足を向けた。
 平坦な林道を2人は並んで歩く。他に人影はなかった。乾いた芝は、カサリ、カサリと音を立てる。空気は冷たく本当に静かで、人里離れた、という言葉を実感する。
 注意してみると、歩道の両脇は同じ木が並んでいた。並木道なのかもしれない。この季節、葉は無いが、花が咲くのだろうか。史緒は幹から木の名を知ることはできなかった。
 体調が完全でないところで、久々の日差しはこたえる。体力が落ちているのか、少し歩いただけで息切れがした。
「手を貸しましょうか?」
「…結構です」
 確かに身体は辛いがこれ以上醜態を晒したくない。数日前から和成には格好悪いところばかり見せてしまっている。
 深呼吸すると少し楽になった。木が多いので空気が良いのだろう。木漏れ日が芝の上に落ちる。それはまるで絵画のようだった。
 ふと、誰かとすれ違ったような風を感じて、史緒は振り返った。
 しかしそこには誰もいない。駐車場からここまでの、冬の枯れ木の林道が続いているだけだ。
 木々は、葉無しの枝が擦れ合い、雑踏のような音を立てていた。その音が、胸をざわめかせる。
(…なに?)
 もう一度、今度は確かな風が吹いて、髪を持っていかれた。視界が隠れ、そして霞む。
 史緒は幻惑される。


 ザザァァァア


 風に背中を押されるような浮遊感があった。
 薄紅の霞が視界を覆う。
 その向こうに、色とりどりの花。青々とした芝の褥。
 あたたかい陽光が差し、景色を包み込む。
「…っ」
 史緒は愕然として目を(みは)った。
(この場所は知ってる)
(この木は───)
 この並木路は。











 3−2


 史緒が視界から消えたので、和成は振り返った。
 史緒は3歩離れたところで背中を向けていた。今、歩いてきた道を真っ直ぐに見据えている。冷たい風が吹き、その髪を乱した。
 背中から史緒の腕を取る。すると、史緒は拒むように体を(よじ)った。
「放して」
 腕を捕らえたまま答えないでいると、顔を上げて叫ぶ。
「どうしてあなたが知ってるのっ?」
「なにも知りません」
「うそッ! ここに連れてきた理由はなに!?」
「ここが、阿達亨の死亡事故現場だということは聞きました」
 史緒の体が強ばる。
「…マキさんに会うっていうのは、嘘?」
「本当ですよ。でも、ここへ連れてくるほうが本題だったということです」
 史緒は再び和成の手を外そうと藻掻く。
「手…放してぇ」
「史緒さんは、昔から、なにか言いかけて結局言わない」
「…え?」
「子供の頃、追い詰められたような顔で、いつも、なにか言いかけてたでしょう?」
「───」
 史緒の表情は図星を表していた。
「それは櫻のこと? それとも、亨のことですか?」
「───」
「言ってください」
 うつむいて首を振る。その肩はどう見ても震えているのに、史緒は気丈にもひとりで立っている。
「…私が初めて史緒さんに会ったのは、あなたが7歳のときです。その直前、阿達亨が事故で亡くなったというのは聞いています。その事件を境に、史緒さんが櫻に怯え、部屋に閉じ篭もるようになったということも」
 咲子は櫻を救おうとしていた。つまり櫻が死んだ時点で、彼女の企みは無駄になったことになる。篤志もそれは理解しているはずだ。だから篤志や和成が彼女から託された仕事はあとひとつしかない。
「なにに苦しんでいるのか、教えてくれませんか」
 幼い頃、病的に怯えていた史緒をいまさら救えるとは思ってない。和成ができることはただ吐き出させることだけ。史緒がずっと口に出せずにいたこと。ひとりで抱えていたもの。それで史緒が楽になれるなら。




 それは、ずっと抱えていた荷物を下ろす行為と似ている。
 長い間、それは両肩にあった。だからその重さには慣れてしまった。でも時折、過去に囚われたとき、胸が騒いだときに、倒れてしまうくらいに重くなる。それをやり過ごす苦しさにも、もう慣れてしまったけれど。
「…誰かに言えたら楽になる、のは、わかってるんです」
 史緒は消え入りそうな声で言った。
「でも私は、言いたくありません。この思いを誰かに預けたく、ない」
 少しだけ荷物を下ろして、軽くなった体に息を吐く。けれどそれは嫌悪する行為。ずっとそう思っていた。
「どうして?」
「自分の弱さを許すことと同じだから」
 心のなかの悲鳴を声にしたことは無い。子供の頃、和成に言いかけたことはあったかもしれない。けれど、自分自身にそれを許すことができなかったはずだ。───今と同じように。
「自分の内だけで完結する感情を聞いてもらっても、相手を困らせるだけです。困らせると解っていて、自分ひとりで抱えているのが辛いからって吐き出してしまう、そんな勝手な自己満足の、自分の弱さを認めるのは嫌です」
「私は困りませんよ。史緒さんが子供の頃なにを言いかけていたのか、なにに苦しんでいたのかを知りたいだけです」
「…な、慰めて欲しいわけじゃない、自分を正当化して欲しいわけじゃないの。そういう、傷を舐めてもらうような行為がほんとに、気持ち悪いんです」
「慰めも正当化もしません。ただ聞くだけです」
 和成は思いのほか強い声で答えた。逆に、史緒の声はそれとわかるほど震えている。
「…今更…何かが収まるわけじゃないんです」
「ええ」
「何かを変えたいわけじゃないし、何かを得られると期待もしてない」
「史緒さんの気が済むなら、それでいいじゃないですか?」
 唇が震えて口を閉じていられない。歯列が鳴りやまない。
「…わがまま、言ってもいいですか?」
「どうぞ」
「疑わないで」
「わかりました。信じます」
「否定しないで。笑わないで。子供の戯れ言だと思わないで」
「ええ」
 これでは本当に子供だ。疑うな、などと他人に言う傲慢さ。それなのに和成のやわらかい笑顔は少しも揺るがない。
「───…」
 口にしてしまったら、そこでなにかが終わる。
 きっと変わってしまう。
 抱えていた荷物のなかには、この体を歩かせる杖もあった。
 辛い記憶も自分を支えていた。
 それを手放して、次にどんな強さを持てる?
「史緒さん」
 手を引かれ、その温かさと力強さに揺れる。
 きっとこの身体は弱くなる。でも、今までの強さなど、種の無い実のようなものだから。


「たすけて」


 和成が目を(みは)る。その表情が涙で見えなくなった。
「ぅー……」

 たすけて。
 なにから?

 この記憶から。

「櫻は、亨くんを殺した」














 3−3


「私の…目の前で」
 あのとき、心臓を握り潰された。
「亨くんの背中が、ほんとに、真っ赤で…。櫻は、嘲笑ってた」
 抉られるような感覚は痛くはなく、ただ苦しかった。空虚感があった。すべてを抜かれてしまったような喪失感が、体を冷たくした。
 和成はかすかに目を見開いただけで、史緒を見つめている。約束通り、否定も、笑いもしない。本心では、史緒の戯れ言に呆れているのかもしれないけれど。
「…それで史緒さんは、櫻に復讐したんですか」
 静かな問いかけがあった。
「あんなの復讐じゃない!」
 史緒は怒鳴り返した。
 崖の上に立つ櫻。久しぶりに会話らしい会話をした櫻は相変わらずだった。
「櫻を解ろうとするのは徒労! どうして、なんて考えるのは無駄! 櫻を解れないままで、二度とあんな気持ちを味わいたくないなら、逃げるしかない、怯えるしかなかった、私は───」
 口にして初めて気づくことがある。言葉という形にして、初めて。
 自分の勝手さや汚さ。目を逸らし続けていたもの。
「私は怖かっただけ…。亨くんの復讐なんかじゃない。私は、利己的に、楽になりたかっただけなの」
 糾弾されるべきは自分だ。櫻は亨を殺したけど、その櫻も死んでしまった。史緒が殺した。
(それなのに私はずるい)
 まだ願っている。
 誰も失いたくないと。
 現在の自分を取り巻く人たちを守りたいと。一緒に生きたいと。
 そう願うことをどうか許して欲しい。櫻や亨、咲子やネコ、藤子に───。
「史緒さん」
 肩を引かれたかと思うと、ぬくもりに包まれた。和成の腕に抱きしめられていた。
「…ぇ、あの」
 目の前の胸を押し返そうとしても、和成のほうが力が強かった。
「言ってくれて、ありがとう」
「───」
 辛かったね、苦しかったね。そんな言葉よりずっと心が軽くなる。
 ぬくもりが優しい。
≪好きな人と抱き合うのって、感動するよ≫
 そう言ったのは藤子。
 史緒は戸惑いながらも体を預けた。
「…っ」
 そのぬくもりに涙が溢れた。

 櫻が風の中に立っている。
(…なに?)(なんて言ったの?)
(あの崖の上で、櫻は)(櫻はなんて言った!?)
≪───≫
(櫻…?)
 突然、和成に両肩を掴まれて思考が中断した。顔を上げると、和成は史緒の背後に視線を留めている。
「じっとしてて。人が来ます」
 ここは公道だ。少しだけ体を(よじ)ると、駐車場と反対のほうから、長身の男性が歩いてくるのが見えた。史緒は自分がひどい顔だと自覚していたので、大人しく和成の影に隠れた。
 芝の上を歩く足音が近づいてくる。道のむこうがわを、足音が通り過ぎていく。
 ぴゅ〜、と口笛が聞こえた。端から見たら抱き合っている2人を冷やかしたのだろう。
 その足音は少しも速度を変えずに、そのまま遠ざかっていった。
 史緒はそっと和成から離れる。見ると、和成は男性を目で追っていた。その表情には驚きが含まれている。
「どうしたの?」
「…今の」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
 和成は視線を下ろして史緒に笑ってみせると、
「さぁ、行きましょうか。マキさんが待ってます」
「ええ」
 自然と手をつないで、2人は歩いた。











 通り過ぎざま、男は笑ったように見えた。

 誰かに、似ている気がした。










45話「さくら」  END
44話/45話/46話

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