45話/46話/47話
46話「リンケージ」


 Prologue
 -1- 01. 02. 03. 04. 05. 06.
 -2- 01. 02. 03. 04. 05. 06.







「櫻を恨まないで」
 細く力強い腕に抱きしめられる。
「大丈夫、あなたを守ってくれる人が現われるわ、そういう約束なの」
 病室のベッドの上で、母は苦しそうに笑った。





 いつ始まっていたか(、、、、、、、、、)なんて、きっと誰にもわからない。







−1−
1.
 史緒にとって最悪の年越しから半年。季節は初夏、7月。
 その日、史緒は朝から馴染みの美容室へ出掛けた。予約しておいたシャンプーとブロー、それとセットをしてもらう。「今日はなにかあるんですか?」という美容師のトークを笑ってかわして、店内の姿見で全身をチェック。髪だけでなく服もいつもと違う。ふくらはぎが隠れるマーメイドスカートは白地に赤の模様が流れて上品さを和らげている。薄地の黒のボレロはカジュアルすぎるのを抑える。主張のない、無難なお嬢系ファッション。メイクを直して、アクセサリーとバッグの組み合わせを確認、美容師にOKサインをもらって、史緒はタクシーに乗り込んだ。待ち合わせ場所である都内の某ホテルへ。
 時間ぴったりに合流して、挨拶ののち、エスコートされるままにラウンジへ。ゆったりとしたソファに腰を下ろし、アイスティをオーダー。そして1時間ほど談笑。
 父親と。

「不満、か。…そうだな、自立した大人に育って欲しいとは思っていたが、10代のうちから家を出るとは思わなかった。そのあたりかな」
「大勢の社員を抱える仕事に、そうですね、尊敬します。…なんて、私が言うのはおこがましいですけど」
 テーブルに着くのは史緒と父・阿達政徳。
 だけではもちろんなく、政徳の秘書・梶正樹。それから、某経済誌のインタビュアーとカメラマン、計5名がひとつのテーブルを囲んでいた。
 テーブルの中央にはレコーダーが置かれ、一連の会話を録音し続けている。インタビュアーとカメラマンはともに男性、少しでも多くの言葉を引き出そうとはしゃぐように(けれど型どおりの)質問をぶつけてくるインタビュアー。それに受け答えする政徳と史緒に、会話を邪魔しない程度の間隔でフラッシュを焚くカメラマン。
 政徳はおおらかに、史緒はわずかに緊張した面持ちで、けれど2人ともにこやかな笑顔を絶やさなかった。
 某経済誌は「社長の家」というテーマで特集を組んだ。企業のトップ、そのプライベートに迫ろうというものだ。「社長の家」その10回目のゲストとして総合商社アダチに、編集者は白羽の矢を放った。
 ───迷惑な話だ。
 史緒は歯の裏まで出かかった科白を飲み込む。同じ科白を政徳も飲み込んでいた。

 やがて芝居のようなインタビューは終わり、雑誌社の2人は席を立った。史緒も起立し笑顔で見送る。彼らはラウンジを横切り、エントランスを抜け、駐車場のほうへ消えていった。少しの余韻が残る。
 途端に場の空気が冷えた。まるで仮面を外すように父と娘は表情を下ろす。
「疲れたか?」
「ええ、とても」
 ただ一人、始終一貫して愛想笑いひとつせずに視線を落としていた梶が「お疲れ様でした」と低い声で言った。
 史緒は椅子に座り直し、通り掛かったボーイにホットコーヒーを頼む。そうして、ようやく盛大な溜め息を吐くことができた。
「質問も回答も梶さんのシナリオどおり。私が来る意味は無かったのでは?」
「面倒な風評を立てられないために形式は重要だ」
 まるで部下に説くような言い方が鼻につかないでもないが、いきなり馴れ馴れしくされても本当に困る。史緒はおとなしくそれを聞いた。
「それにしても…」
「はい?」
「よく、この仕事を受ける気になったな」
 梶から連絡があったのは一週間前のことだ。雑誌社の取材に同席してほしいというもの。もちろん即断で拒否。けれど史緒が来なければ取材そのものを断ると聞き、悩んだ末に返事を改めた。
「いろいろと私なりに思うところがありまして」
「聞かせてもらおうか」
 茶を濁したつもりが食い下がられて史緒は言葉に詰まった。気恥ずかしさとしばらく戦う間に適当な建前も思いつかない。結局、正直に言った。
「娘としての義務もあるか、と」
「ずいぶん変わったものだな」
「成長したと言ってもらえませんか」
 こんなくだけた雰囲気での会話は初めてかもしれない。いつも会うときは社長室で、刺々しい空気と言葉のやりとり。けれど今はこの場の雰囲気のせいか、それとも単に社外であるせいか、政徳がまとう空気も少しだけ丸く感じられる。
「私は今の自分の居場所に満足しています。もし父さんの娘として生まれなかったら、篤志とも司とも出会えなかった。当然、今の居場所もなかった。…ということに、今更ながら気付いたわけです」
 政徳とのあいだには未だ確執がある。けれどこのことに気付いたのは決して悪いことではない。今更ではあるが、遅すぎたわけでもないだろう。
「感謝しているんです。これでも」
「取材はもう終わっているが?」
 史緒は声もなく笑った。父の言葉が否定の意味でないことがわかったからだ。もし照れ隠しだったりしたら、驚きの発見になる。
「しかし、娘としての義務というなら…」
「それと、仕事と結婚は別です」
 余裕をもって釘を刺す。
 政徳は縁戚にあたる関谷篤志を後継者として育てようとしている。そのために、史緒と結婚させようとしている。数えてみればもう3年以上、この話で揉めていることになる。
 史緒と篤志は婚約はしたものの、2人とも本意ではない。篤志はなんとかなると気楽に構えているが、史緒としては、本来は関係ないはずの篤志を阿達家の問題に巻き込みたくなかった。いつかは決着を着けなければならないと解っていても、政徳とは平行線のまま。
「史緒」
「はい」
 次はなにを言ってくるかと身構えると、政徳は意外なことを口にした。
「咲子からなにか預かってないか?」
「…咲子さん?」
 質問の意味が解らず5秒ほど返事が遅れた。「いいえ」
「ならいい」
 あっさり引き下がり、政徳は席を立つ。
「送ろうか?」
「けっこうです」
 史緒は儀礼的に立ち上がって政徳が去るのを待った。
「おまえは今の仕事を続けるつもりらしいが…」
「もちろんです」
 政徳は軽く笑った。妙に含みのある表情だった。
「篤志はどうかな」
「え?」
「今一度確認してみたらどうだ。ついでに司と、他の部下たちにも」
 踵を返して史緒から離れていく。梶もそれについていき、史緒はひとり残された。
「……なに?」
 政徳の含み笑いの意味を、掴みきれないまま。








2.
 朝、司はいつもより3時間早く出掛ける支度を済ませた。
 季節柄、窓の外はすでに明るく朝日が眩しいはずだ。けれど司にはそれを感知できる視力はない。解るのは雨の音が無いこと、カーテンを開けたときの肌を刺す熱、気温と湿度。それらから司は今日の天気が判っていた。ちなみに温度は21℃。…ニュースでそう言っていた。
 危なげなく家具の間を通り抜けて寝室へ入る。ドアは閉めない。一刻ほど前まで寝ていたベッドに腰を下ろして出発予定時刻を待つ。司は座ったまま、自分の部屋、それに続くキッチンを見渡した。見渡す、というのはもちろんおかしい。しかし司はどこになにが置かれているかをすべて把握している。
 この部屋で暮らし始めて3年。最初は必要最低限のものしかなかった。それ以上の物は邪魔なだけだ。本人は判らずとも、殺風景な部屋だったに違いない。
 けれど今は違う。彼女が出入りするようになってから色々な物が増えた。壁掛け時計やカレンダー、テレビ、鏡。それらは司にとって意味を成さない。それでも置くことには意味がある。そう、彼女が現れてから、少なからず生活が変化したことは確かだ。
 両手を後ろについて天井を仰ぐ。脳からの指令どおり上を向いたと判るのは首の角度と三半規管。目から得る情報は物体を認識しない。当然、天井も見えない。目蓋を開けてもそれは変わらない。もはや確認するまでもない、脳が切り捨てた感覚器官。
 キッチンのテーブルの上には手紙が置いてある。1週間前に、それは速達で届いた。内容は知られたくないものだが、見られても構わない。何故ならその手紙は司宛に点字で書かれているからだ。健常者の読者はほとんどいない。この部屋へよく訪れる彼女もそれを読むことはできない。
 その手紙は、最近の司の悩みをまた一つ増やすものだった。

 司は携帯電話を手に取り、短縮ナンバー2桁を押した。この時間では彼女は寝ているだろう。連絡しようとしていることは大したことではない、でも彼女は怒らないはずだ。彼女の声を聴いて、沈みかけている自分の気持ちを少しでも励ましたかった。
「あ、僕だけど。やっぱり寝てた? うん、朝早くにごめん。今日の午前中、用事があって出掛けてくるから、そう、昼には事務所のほうへ行けると思う。史緒にもそう伝えておいて。うん、起こしてごめん、じゃあ」
 そこで会話を終わらせ電話を切ろうとした。そのとき、電話の向こうから呼び掛けられて、もう一度電話に耳を傾ける。
「誕生日おめでとう」
 まだ眠そうな声で、それだけ聞こえた。
 司は目を細めて微笑んだ。
「…ありがとう、三佳」
 通話を終えると司はベッドから立ち上がった。支度済みのバッグを持って歩き出す。キッチンのテーブルの上の手紙と白い杖を持ち、サングラスを掛け、靴を履いて外に出る。ドアの鍵を締める。
 馴染みではない場所へ電車で向かわなければならない。ラッシュが始まる前に目的地へ着きたかった。

 慣れない場所では司の行動は極端に遅くなる。一歩踏み出すのにも神経を集中させなければならない。目的の駅に着き、電車を降りてホームから改札まで、実に30分も掛かってしまった。晴眼者はあまり意識しないだろうが、駅という公共施設には障害者の為の点字や点字ブロック(地面がデコボコしているアレ)が多く配置されている。階段の手摺りや券売機のボタン、改札口にも。それらはとてもありがたいけれどラッシュ時には点字ブロックを追うのも一苦労だ。人波にはね除けられてしまう。
(このぶんだと着くのはいつになるかな)
 笑っている場合ではないがこの状況は司にとって耐え難いものだった。雑音が多すぎる。そして人が多すぎる。けれど仕方ない。マイノリティは去れ、世の大半はそういうものだから。
 司は改札を抜けたそばの壁に背を持たせた。人に酔ったのか嘔吐感がある。少し休みたかった。
「着いたなら連絡をくれればよかったのに」
 と、目の前から声がした。
 え? と咄嗟に聞き返したものの、司はそこに誰がいるのか判っている。
「迎えにきたよ、司くん」
「おはよう、和成さん」



 6年前、13歳の司もここに立った。
 アダチ本社ビル社長室。
≪20歳になるまでは私が後見人になる。これは事故の賠償ではないよ。優秀な人材を育てることへの投資だ≫
 阿達政徳。アダチの社長であり、史緒の父親。そして、司が失明するに至った事故の最終的な責任者。
≪20歳までに、自分の進むべき道を選ぶこと。どんな仕事に就き、どうやって生活していくのか考えろ≫
 香港から帰ったばかりの司は自分の能力に自信がついたばかりだった。今思えば、それは過剰な自信だ。
 政徳の言うとおり自分の進むべき道を選ばなければならない。食べて生きていくためにそれはごく当たり前のことだ。13歳の司もそれは認識していた。ただ、6年という猶予はあったし、どんな未来だろうがどうにかなるだろうと、目が見えなくても充分やっていけると思っていた。なにをやっていくにしても、このままの自分で、精神的に大きな変化もないだろうと。
 けれど往々にして未来への予測は足りないものだ。

 そして6年が経ち、司は20歳(ハタチ)になった。
 あの日と同じ場所で、同じ人物と向き合う。阿達政徳と。そしてあのときはまだアダチの社員ではなく、司の隣にいた和成と。
「まずは、20歳の誕生日おめでとう、と言っておこうか」
 低い声が空気を揺らした。その声の受けとめ方も、6年前とは違う。
「ありがとうございます」
 そして司自身も6年前とは違う。
 至らない能力、未熟すぎた決断、多くの人に支えられ、影響されて、間違いなく自分は変化した。
 本当に月日が経つのは早い。6年、そのあいだに阿達咲子が亡くなり、篤志と出会って、櫻の失踪事件、史緒が家を出て、それについて行って、仕事を始めて、三佳や他のメンバーと出会った。
 進むべき道を選べ、と政徳は言う。ここで司が、史緒が()つA.CO.を指さしたら、それは政徳の投資を裏切ることになるのだろう。
 それでも司は、篤志と史緒に賛同し、今の道を選ぶ。───しかし。
「本当に申し訳ないのですが、結論は先送りになりそうです」
「あぁ」
 政徳も低く了解を声にする。
「こちらにも蓮家から連絡がきた」
 司が受け取った手紙と同じ内容のものを、政徳も受けていたらしい。
「蓮大人が医者を捜し続けていることは知っていたが…。どうする? こんな機会は二度とない。行くのか?」
「───はい」
 この手紙を受けてから散々悩んだ結果だ。
「と言いたいところですが、もう少し待ってもらうつもりです。最近、気になることがあるので」
「気になること?」
「いえ、気のせいだとは思いますが放っておけないことなので。蓮家のほうへは…秋までには、たぶん」
「そうか。───私の庇護を離れるといっても、なにかあったときは力になろう。遠慮なく言いなさい」
 司は声を改める。
「僕を拾ってくださったこと、本当に感謝しています。僕の進む道がおじさんの期待に添わないことは心苦しく思いますが、僕自身は今に満足している。これから先もそうあるために、その努力ができるよう育ててくれたおじさんに感謝するでしょう。本当にありがとうございます」
「史緒と同じことを言う」
 政徳は微かに笑う。
「ひとつ言っておこう。若い者が“今に満足している”などとは口にしないことだ。己の世界が狭いと言っているようなものだからな」
 史緒にも同じことを? と訊こうとしたがやめた。身内に助言をする人ではない。

 和成に送られて部屋を出た。
 この廊下はあまり好きではない。このビルの中でこのフロアだけは絨毯敷き、足音が聞こえないのだ。
 エレベーターに乗り込んでから、和成が浮かない声で言った。
「最近、様子がおかしいというようなことは無い?」
 意図が判らず司は訊き返した。
「誰の? 史緒?」
「いや、そうじゃなくて」
 気まずそうに言い淀む。回答に迷っているわけではなく、言うか否かを迷っているようだった。
 エレベーターが1階に着き、ドアが開く前に和成は小さく声にした。
「…篤志くんです」








3.
「うーっす」
「こんにちはーっ」
 健太郎と蘭が事務所に入ってきたとき、メンバーのほとんどがすでに集まっていた。
 史緒と祥子は鼻をつき合わせて、机の上の書類についてなにやら言い合っている。祥子の小脇には、いつもは篤志が使っているサブパソコン。史緒がなにかを説明し、祥子が少し圧されているようだった。一方、いつからここにいるのか、司と三佳はソファでカードをしている。
「あっ、三佳、今度再戦な」
 カード勝負で負けが続いている健太郎。自信満々の宣誓を受けても三佳は涼しい顔だ。
「黒星稼ぎご苦労」
「うるせー、カウンター覚悟しな」
 蘭は祥子の背後にそそっと近づき声をかけた。
「祥子さん、なにやってるんですか?」
 答えたのは史緒のほうだった。
「事務作業を覚えてもらってるの」
「無理やり手伝わせてるくせに〜」
 祥子は書類に突っ伏したまま唸った。
「史緒さんのお仕事のお手伝いですか? 今まで篤志さんがやってたような?」
「そういや、篤志いねーじゃん。ていうか、最近、あんまり顔見ないな」
「そうね。ちょっと学校のほうが忙しいみたい」
 史緒は笑って答える。祥子はなにも言わなかった。
「なんだぁ、残念」
 と、言葉と同じ表情の蘭。
「へぇ、やっと卒業する気になったのか」
 カードをまとめていた三佳は冷やかし交じりに笑う。
「おんやー? そういう三佳こそ、小学校卒業できるのかよ」
 大げさな素振りで健太郎がからかう。
「そういえば、三佳は今、6年生だよね」
「最終学歴小学校中退とは衝撃的だな」
 堪えきれずに笑っている健太郎を黙って見ている趣味はない。三佳は大きな音でカードを置くと、ソファごしに振り返った。
「他人のことより自分の心配をしたらどうだ。相も変わらず遊び回っているようだが単位落としても知らないからな」
「三佳に心配されちゃおしまいだ。あいにく計算にぬかりはないよ」
「どうだか。受験に受かったものの、日数足りなくて卒業しそこないそうになったくせに」
「なんでおまえが知ってんだよっ!」
「センター試験の自己採点で私より低かったくせに」
「1科目の1分野だけだろーがっ! って、しかも今は関係ないだろ」
 けんけんごーごーの応酬が始まっても誰も止めなかった。いつものことなのだ。


「なにやってんだか…」
 毎度飽きもせずエネルギーを消費しあっている2人の言い合いが耳に届いて祥子は息を吐く。
 午前中、事務所に入ると同時に「これ、やって」と史緒から書類を突きつけられた。急な仕事の押し付けに祥子は反論したが、いつもどおり史緒の二言三言で撃沈させられてしまう。
 慣れない事務作業は分からないことも多く、ところどころを史緒に訊きながら作業を進める。(これって篤志の仕事じゃないのっ?)恨み言を吐きつつも作業に没頭していく。
 けれどそれは健太郎と三佳の口喧嘩に邪魔された。サブパソコンに集中しかけていた意識が途切れ、祥子は嘆息して疲れた頭を上げる。史緒も作業の手を休め、健太郎と三佳のやりあいを見て微笑っていた。目を細めて、歯を見せて。それは珍しく素直な笑い方で、つい祥子は見入ってしまった。
(…あれ?)
 額から後頭部に細い糸が抜けていくような感覚。なにかを思い出しかける。史緒の笑顔に、なにかを。
「わかったぁ!」
 思わず大声をあげてしまった。そのせいで健太郎と三佳の口喧嘩は中断、司と蘭、そして史緒も祥子に視線を集めた。そのことに慌てもしたが、今は自分が思い出したことを確認するほうが先決だった。こちらを向いているうちの一人、蘭に正解を求める。
「あの写真のもう一人の女の子って、史緒でしょっ!?」


 すぐそばで祥子が叫ぶと同時に蘭が瞠るのを史緒は見た。そしてそのまま、ぎこちなくこちらに顔を向けるのを。
(写真───?)
「あの…」
 蘭は気まずそうな表情でなにかを言い掛けた。しかしそれより早く祥子が補足する。
「ほら、前に見せてもらった…、パスケースに入ってるやつ」
「あ、俺も見たアレか。駅で落としたときに」
「そうそう。確か、子供4人で写ってて、蘭の他にもう一人女の子がいて」
 子供4人、と聞けば思い当たるものはある。
 祥子と健太郎が盛り上がる横で、史緒と蘭のあいだだけは空気が冷えていた。
「…なんの写真?」
「あの、史緒さん…」
 蘭は泣きそうな顔で、視線でなにかを訴えようとする。それだけで確定。写っている4人は史緒の想像どおりだろう。蘭は史緒の気持ちを汲んで、その話題を避けたいと思ってくれている。けれど今は写真を出さないわけにはいかない状況だ。史緒は苦笑して、蘭にやわらかく言った。
「いいわよ、見せて?」
「……はい」
 蘭はおずおずとバッグからパスケースを取り出した。すかさず祥子と健太郎のチェックが入る。
「ほら、やっぱりそうよ」
「あー、なるほど、そういえば」
 そしてパスケースは史緒に渡った。
「───」
 写真には4人の子供が写っている。女の子2人の後ろに、少年が2人。
 左の女の子は口を大きくあけて無邪気に笑っている。確かに今でも一目で判る。これは蘭だ。その隣りで、蘭より少し年上の、今の三佳よりいくつか年下に見える女の子がかしこまってやっぱり笑っている。後ろの少年もう少し年上で、この2人は双子だ。そう言い切れるほど、2人はよく似ていた。
「…ごめんなさい」
 蘭は申し訳なさそうに小さく声を震わせる。
「どうして? 懐かしいわね」
 そんなに気を遣う必要はない、と笑ってみせたが、それでも蘭は不安そうな面持ちをしていた。
 パスケースはそのまま三佳へ。
「ねぇ、やっぱ史緒なの?」
「ええ。私が7歳、蘭が5歳かしら」
「うわぁ、貴重なもの見ちゃった」
 祥子は熱っぽく拳を握った。
 三佳が司に写真の説明をしている。蘭はそれをハラハラと見守っていたが、史緒はそれほど心配はしてない。
「ついでに右の男の子は蘭の初恋の人」
「!」
 史緒の発言に蘭は飛び上がった。
「初恋!? 蘭の!?」
「爆弾発言!」
「し、史緒さん!」
「へぇ」
「篤志じゃなかったんだ?」
 それぞれの反応に蘭は頭を抱えた。
「うわーん、史緒さん、ひどいですー」
「ごめんごめん。そんなに怒らないで? 昔のことじゃない」
 そのとき、ドアが開いた。
「悪い、遅れた」
 最後の一人、篤志だ。どういう事情か、篤志は濃紺のスーツを着ていた。
 今日は篤志の仕事は入ってない。仕事に遅れる理由も聞いてない。さきほど健太郎に「学校のほうが忙しいみたい」と言ったのは嘘だ。いつもは篤志が担当している作業も史緒に残して(祥子に振ったけど)、篤志はどこかへ出掛けている。スーツを着るような場所へ。
「篤志! これ見ろよ。蘭の初恋の相手だって」
 健太郎がパスケースを篤志に見せる。が、
「だめぇーっ!!」
 蘭は必死の形相で健太郎からパスケースを奪い返した。篤志に見られる前に。
「びっくりした…、なんだよ」
 パスケースを固く握りしめている蘭は肩で息をしながら言った。
「ぇ…だ、だって、むむむ昔好きだった男の子の写真なんて、あ、篤志さんに見せられません!」
「いいじゃん、見せてくれよ」
「もぉー、篤志さんまでー」
 蘭は泣きそうだ。
「乙女心がわからない男性はもてませんよ!」
「はい、そこまで」
 史緒が場を沈める。
「全員揃ったことだし、予定通り、月曜館でミーティングよ」
 蘭を助けるかたちで史緒の号令がかかり、写真の話は中断された。それぞれがとくに異を唱えることもなく腰を上げる。
 史緒は書類をまとめて席を立ち、おろおろしている蘭の前を通り過ぎざまに笑いかける。「気にするな」とでも言うように。けれど視線を外したあとの史緒の表情は硬かった。



 蘭は篤志の袖を掴んだ。
「ん?」
 最後に事務所を出た史緒との距離を取る。史緒が1階の玄関を抜けたことを目と耳で確認して、蘭は篤志を廊下の端に引き寄せた。
「あの…っ」
 一大決心をしてパスケースを篤志に見せた。
「ええと、その…コレ、あたしの初恋の人の写真なんです」
 篤志は首を傾げながらもそれを受け取る。そして写真を見るとやわらかく笑った。
 笑ってくれた。蘭はそのことに心から安堵する。
「…なるほど。見せられないわけだ」
 写真には4人の子供が写っている。そのうち3人の名前を、関谷篤志は言うことができた。史緒、蘭、櫻。そしてもう一人。
 4人目の名前を、関谷篤志は(、、、、、)知らない。
 関谷篤志は阿達櫻に双子の兄弟がいるとは知らない。
 だから、史緒の前でこの写真を見せられたら、どう反応すればわからなかった。「櫻以外に兄がいたのか」という話題を篤志はしたくない。意図は違うが史緒だってそうだろう。さっき、蘭だけでなく史緒も、篤志に写真が渡るのを止めようとしていた。(司は写真に櫻が写っていることに気付かなかった。説明した三佳が櫻を知らないからだ)
「ごめんなさい」
「謝るのは俺のほうだよ」
「どうしてですか?」
「蘭を巻き込むつもりはなかった。嘘を吐かせて、ごめん」
 遅すぎるけどな、と篤志は苦笑する。蘭は力強く首を振る。
「そんなこと…」
「でもそろそろ潮時だ」
「…え?」
「たぶん、時機は今が一番いい」
 最近の篤志の行動に、史緒ももう勘づいているようだから。


 史緒に、家を出た頃の不安定さはもうない。
 仲間がいて、仕事があって、それ以外にも沢山の理解者がいて、支え支えられて、この先もやっていけるだろう。
 もう大丈夫。
 だから篤志も動き出す。
 本当にやりたいことの準備。そのために通らなければならない、告白。








4.
「お先に失礼します」
 三佳は峰倉に挨拶してバイト先を後にした。引き戸を開けて、それを両手で閉め───ようとしたところで止まる。
 軒先に意外な人物を見かけたからだ。三佳はびっくりして大声を出してしまった。
「司? え…っ、どうしてここに?」
 三佳の声に反応して顔を向ける。司はいつものようにやわらかく笑うと「おつかれさま」と言った。
 今日はとくに約束があったわけじゃない。三佳はこのまままっすぐ帰って、そのまま司の部屋へ遊びに行こうと思っていたところだ。思わぬ先回りに驚いてしまった。
 それに司は三佳のバイト先へ来たことはなかったはずだ。どうやってここまで来たのか、なにか急用があったのかと三佳は尋ねた。
「偶然、この近くに用事があって、その帰り道。聞いたことがあるバス停だったから降りてみたんだ。あとは人に道を訊いてここまで。迷惑じゃなかった?」
「いや、私も今から帰るところ」
「よかっ」
 た、という声は、店の奥からの大声に掻き消された。
「“ツカサ”だって!??」
 薄暗い店内、薬品棚の間から人影が立ち上がる。勢いよく首を回してこちらを向いた。三佳が世話になっているバイト先の店長・峰倉徳丸だ。
「おおっ!」
 2度目の意味不明な叫び。峰倉はサンダルをつっかけて走ってきた。
「あんたが噂の島田の男かっ」
 峰倉は勢いづいたまま司に向かってくる。
 いつもなら相手の肩を暴力的に叩くくらいはしそうなのに、峰倉は白い杖に目をやると司の前で止まった。手は出さなかった。三佳の制止より早い。
 そのかわり大きな動作で手を組んで、目を細めて司を観察する。
「島田と付き合えるなんてどんな男かと思ってたがなぁ。なんか似てるな、雰囲気あるよ。…おっと、俺は峰倉だ」
 一連の流れに面食らっていた三佳は、そこで我に返り、司に峰倉を紹介した。司は了解したようで表情を明るくして挨拶した。
「はじめまして。七瀬といいます」
「もしかして見えない?」
「はい」
「そっか。にしても、ようやくだな〜、ほんと。3年近く島田をこき使ってるのに、一度も会う機会無かったもんな」
 峰倉の声はいつも必要以上に大きい。司はその声量に一瞬驚いたようだが、他人には分からない程の短い時間で立ち直り、苦笑して返した。
「挨拶に伺ったほうがよかったですか」
「そりゃそうだ。なんつったって、島田はウチの3人目の子供みたいなもんだし、ムスメに(ムシ)がついてたら黙ってられんわけよ。阿達からあんたのこと聞いたときは、ヨメと2人で心配したもんだ」
「それじゃあ、お義母さんにも挨拶していかないと」
「あっはは。今は出掛けてる。また来てくれ」
 豪快に笑う様子に三佳は不満の声をあげた。
「峰倉さん!」
「なんだ、我がムスメ」
「悪ノリしすぎだ。それから、『島田の男』っていう表現も気に入らない。司は私の所有物じゃない」
「真面目だなぁ」
 肩をすくめてさらに笑い出す。峰倉は仕事中はふざけたりせず厳しい師匠だが、それ以外のときの他人をからかうような物言いはときどき本当に腹が立つ。
「峰…」
「まぁ、それが三佳のいいところですから」
 司に頭を撫でられてそれ以上は言えなくなった。
 その様子を見た峰倉がにやりと笑う。妙に癇に障る笑い方だった。


 バスから降りると駅前ということもあって人通りが多かった。三佳は司と手をつないで改札を抜けて歩く。
「峰倉さんって、お子さんが2人いるんだね」
「あぁ。姉と弟。弟は私と同じ。姉はひとつ上」
「へぇ。三佳と同世代か。仲良いの?」
「顔合わせたら挨拶くらいはするけど、仲が良いっていうのとは違うな」
「峰倉さんみたいなノリとか」
「それもちょっと違う。弟のほうはうるさいし、落ち着きないし、ガキだし」
 最後の一言に司は笑ってしまった。
「うーん。だって、12歳の子供でしょ?」
「…」
 しかも三佳と同い年、とはもちろん口にしない。
「お姉さんのほうは?」
「姉のほうもうるさい。遠慮が無いのは峰倉さんに似てるかも。私立の中学に通っていて、学校での愚痴をたまに聞かされる」
 三佳が知る同世代の人間というとこの2人しか思い浮かばない。それは三佳が学校へ通っていないせいだ。三佳は12歳、本来なら義務教育真っ最中の小学6年生。来年には中学生になるはずなのに。
 長いあいだ自主的にサボってきた学校について、三佳もこれでも自分なりに考えているのだ。将来のことを考えたら、学校へ行くほうが善いことは分かっている。進路の選び方や進み方、社会性を培うにはそれが一番効率が良い。
「ふぅん、学校か」
 少し遅れて司が相槌を打った。
「…三佳」
 握る手に力が入ったので、三佳は視線を上げる。
「どうした?」
「あのね、もし僕が…」
 意を決したような、少し硬い表情。司にしては珍しく、言い淀んで、言葉が出てこない。
「司?」
「…ううん。なんでもない」
 逸らした表情は少し憂えてるように見えた。でもすぐに戻って、
「さ。じゃあ、買い物して帰ろうか」
 と、司は笑った。
 そのときのことだった。
「…っ!」
 司は足を止め、鋭い動作で振り返った。そのまま、見えないはずの背後に目を向けている。普段では見せないほどの不安のある面持ちで。
 本当に前触れもない動作だったが、三佳は驚かなかった。
 初めてのことではないからだ。
 ここ1週間のあいだに、数回。同じようなことがあった。
 急に立ち止まり、振り返る。
 彼らしくない、驚愕を表にして。
 つないでいる手から動揺が伝わってくる。それを慰めたいと思う、でも握り返していいのか判らない。声を掛けてもいいのか、それともなんでもない振りで先を促したほうがいいのか判らない。
 やがて司は背後から視線を外し、いつも通りの言葉を三佳にかける。
「ごめん、なんでもないんだ」
 それは謝罪の言葉ではなく、追求を拒む科白だ。三佳は暗鬱になった。
「司…」
「大丈夫。本当に。気のせい…のはずだから」
 気のせいだと願いたい、と司の態度は言っている。その願いとは裏腹に確信してしまっているはずなのに。
 三佳にだってもう判ってる。
 司は「匂い」に反応して振り返っている。通り過ぎた匂いに肩を引かれるように。
 決まって、今みたいな人混みの中。

 この2分の間に「なんでもない」を2回聞いた。
 それは司の「最近気になること」と「蓮家からの手紙によって増えた悩み」を合わせた数だった。








5.
 篤志は駅からアパートへ続く夜道を歩いていた。夏至を越して折り返しに入ったといってもまだまだ日は長く、7時を過ぎてようやく暗くなったところだった。それでも温度と湿度は簡単には下がらない。湿った夜風がベタついて不快指数をも上げていた。スーツの上着は脱いでいるのに、それでも汗が噴き出てくる。毎日スーツを着て会社行っている人たちの苦労がしのばれた。
 篤志はこの春、4年生に進級した。その前に一度留年しているので、かつての同窓のほとんどはもう卒業している。もしかしたら彼らも今頃スーツを着て気候に文句を言っているのかもしれない。彼らを追うように、これから篤志も忙しくなるのだろう。
 母親曰く「両立できないなら、大学なんて早く辞めなさい」。篤志自身、卒業することが目的ではないから、親がそう言ってくれるのは正直ありがたい。けれど卒業しておくに越したことはないし、なにより史緒の婚約(、、、、、)者として見限られないため(、、、、、、、、、、、、)にはそれなりの学歴を残しておく必要があった。史緒にではなく、阿達政徳に見限られないために。

 篤志には史緒と結婚する気など欠片(かけら)もない。「君がはっきり断らないのも問題だと思う」と司に言われたことがあるが、そんなことをすれば政徳は別の婚約者を探してきてしまうだろう。第三者の介入は篤志にとって邪魔でしかなく、のちの状況をややこしくさせるだけだ。篤志が「史緒の婚約者」という立場を守っている理由はそこにある。史緒が自由に動けるように立ち回りながら、政徳には「使える人間」だと思わせておく。それはすべて、ふたつの約束を叶えるため───。


 大通りから横道へ入ろうとしたところで篤志は足を止めた。帰る前に事務所へ寄ろうかと迷う。でもこの時間では夕食時だろう、篤志は自分のアパートへ足を向けた。集合ポストの中身を確認して、蛍光灯が切れ掛かっている階段を上る。篤志の部屋は2階の一番奥だが、階段を上りきったところで篤志は足を止めた。通路の奥、篤志の部屋の前に誰かが立っていた。
 髪の長い細い影。───史緒だ。
 驚きより(いと)わしいという気持ちのほうが強い。
 史緒も篤志に気付いたようで、無言で視線を向けた。薄暗い通路の端と端でも判る、今、目が合った。その挑むような視線の意味を、篤志はもうわかっている。
 篤志は気づかれないようにそっと息を吐く。速度を意識して足を進め、史緒の前で止まる。史緒は一歩も動かず、表情も変えず、そしてなにも言わなかった。篤志はわざと軽い調子で声をかけた。
「ここで待たれると近所に印象悪いんだよ」
「父さんの仕事を手伝ってるでしょう?」
 疑問ではなく確認だった。史緒は篤志の科白を無視していきなり核心を突いた。
 篤志は驚かない。最近の自分の行動を鑑みれば不審に映るのは当然。史緒がどこから情報を得たかも容易に想像できる。
「一条さんが漏らしたか?」
 史緒はこれも無視して質問を重ねる。
「どうして?」
 強い瞳はまっすぐに篤志の視線を捉え、問う。何故、と。睨みつけるような史緒の目の奥に微かに不安が読みとれて、篤志は強引に顔を逸らした。その不安を与えているのは篤志自身だ。それなのに篤志はなにも答えることができない。
「…送るよ。歩きながら話そう」
 了承を待たずに史緒に背を向ける。少しの時間も待たずに篤志は今来た通路を戻った。遅れて、史緒がついてくる足音が聞こえた。
 アパートの通路に2人ぶんの足音が響いている。その足音はわざとらしいまでに大きく聞こえた。吹き抜けた湿った風は何故だか冷たかった。
 階段の上、降りるときいつも南の空に月を探してしまう。けれども今夜は見えない。



 もう3年半前になる。阿達政徳の長男・阿達櫻が失踪した(この場合の失踪とは、海難事故で行方不明という意味だ)。後継者を失った政徳は、急遽、長女・阿達史緒の婚約者を仕立て上げ、その婚約者であり血縁の関谷篤志を後継とすることを発表。社内幹部による後継狙いの派閥争いを大人しくさせたという。
 しかし当の本人・史緒はそれを強く拒み家を出て、自ら調査事務所を設立、仕事を始めた。篤志と七瀬司を引き連れて。
 父親の会社に関わるつもりはないという反抗の意思表示。
 けれど問題は少なくない。家を出て独立したといっても史緒と司は未だ政徳の扶養から抜け切れない。本意ではない婚約も解消できていない。政徳の言い分を諦めさせるために、なんらかの交渉を用いて決着を着けなければならなかった。いずれは後継問題から完全に手を切り、会社は別の人間が継いで丸く収まり、史緒たちは自分らの仕事に専念するため。


 3年と半年。それだけの時間を過ごしてきた2人は今、蒸し暑い夜道を歩いていた。篤志が先を行き、史緒がついてくる。不穏な空気とともに。
「父さんに言われたの?」
「それもある」
「ほかになにが?」
「俺の意志」
 声もないのに背後から史緒の動揺が伝わる。無理もない。ずっと結託していた篤志が、己の意志で政徳の仕事をしているというのだから。それは史緒が拒み続けていた政徳の要求に応じたことになる。裏切った、と取られても仕方のない行動だ。
「大丈夫だよ。史緒が不本意で迎合することにはならない。絶対に」
 篤志にとってはぎりぎりの、史緒を安心させる言い訳。けれど史緒は気に入らなかったようで声を強めた。
「そんなことを訊いてるんじゃない…」
 ──2人でおじさんを(たばか)ってやろう
 ──逆らえない振りして、期待させておいて。最後には拒否してやろう
 かつて篤志は史緒に言った。
 あのときから、それよりずっと前から、篤志の意志は変わってない。矛盾もしてない。たとえ史緒の目にそうは映らなかったとしても。
「どうして…?」
「心配するな。史緒は、俺とは結婚しないし、今の仕事を辞めることにもならない。今までみたいに、やりたいことを続けられる」
「突き放すような言い方はやめて!」
 後ろから腕を引かれて、しかたなく篤志は振り返った。足を止めた。薄暗闇でも判る、不安に震える目が見上げてくる。
 そんな顔をしないでほしい。
 この子を守ることが、ふたつめの約束だったから。
「私は、今の仕事を続ける。……篤志は、違うの?」
 語尾はほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。篤志は答えない。聞き取れなかったわけではないのに。
 史緒は篤志の腕を掴んだまま俯く。無言の篤志にもう一度質問した。
「…アダチの仕事がしたいの?」
 篤志は目蓋を落とした。
 嘘は言いたくない。でも自分の本音が、史緒の望むものではないこともわかっていた。
「あぁ」
「!」
「昔からずっと、そう思ってた」
「ちょっと待ってよ…」
 おかしいくらい史緒の声が震えた。信じたくない、という葛藤が伝わってくる。篤志はただ史緒の言葉を待った。
「どうしていきなり? 父さんになにか言われたんじゃないの?」
「最初に言ったとおり、俺の意志だよ」
「それならどうして、私と一緒にいてくれたの? 手伝ってくれていたの? もしかして嫌だったの? 我慢して付き合ってくれてたの?」
 史緒は平静を保とうとしているが、声が震え、目に涙が滲む。それを痛ましいと思う資格は篤志にはなかった。
「違う、史緒と一緒にいたのも、ちゃんと自分の意志だ」
「やめてよ! …わかってる? その言い分、“アダチに近づくために(わたし)を利用した”と思われてもおかしくないのよ?」
「そんなこと…」
「見損なわないで。…篤志が、ちゃんと私のこと思ってくれているのは解ってるの。見守っていてくれて、助けてくれて…。───私が言いたいのは、どうしてなにも言ってくれないのかっていうこと。ひとりでなにを考えてるの?」
 史緒は息を切らせていた。涙が滲む目で篤志を睨む。
 最近の篤志の行動が史緒を不安にさせていることは解っていた。でもそれは長くないはずだった。
「史緒」
 すべてを明るみにするときが近づいている。そのときこそが、本当の岐路だ。
「もう少しだけ待ってくれないか。史緒にも、言わなければならないことがある」
「言わなければならないこと?」
 そっと史緒の手をほどいた。
「俺自身、決着を付けなければならないことがあるんだ」
 夜風が2人のあいだを通り抜けていく。長い沈黙があった。
 そのあいだに史緒は落ち着きを取り戻し、顔を上げて篤志を見上げる。篤志はその視線を受けとめた。そのまましばらく見つめ合う。
 嘘を見抜くためじゃない。相手が自分に対して誠実であるかを問うためだ。
 どれくらい経っただろう。史緒は目を外し、篤志の横を小走りですり抜けていく。通り過ぎざま、「おやすみなさい」と小さく言った。篤志はひとり、残された。






 凪いでいたものが動き始める気配がする。
 止まっていた時計の針が最初の1秒を刻むときのように、重く。
 氷の解け始める瞬間が見届けられないように、いつのまにか。
 ゆっくりと。
 大きく動き始める。

 最初の一歩を踏み出すのに必要なのは勇気ではなく契機(きっかけ)
 長く留まりすぎていた篤志にはそれすら無く、重々しく、引きずるように足を出した。
 歩き出したいわけじゃなかった。
 留まり続けることが、辛くなっただけで。

 動き始めたら孤立することは分かっていた。
 (あざむ)き続けた自分を受け入れるのは容易ではないはずだから。───それを怖くないといえばもちろん嘘になる。
 そのままでいれば史緒と居られたのに。
 偽りの自分のままでも、大切な人たちと一緒に居られたのに。
 けれど篤志にはもう、止まるつもりも、戻るつもりもなかった。


(大丈夫だよな。まだ、生きてるよな)
 見上げた空は世界を覆う黒い布のようだった。「吸い込まれそうな青い空」というなら、これは「吸い上げられてしまいそうな黒い空」だ。同じものとはとても思えない。
 けれど同じこの空の下、この街でこの国でこの世界で。

 まだいる。

 どこかで生きていてくれるなら、いっそ逢えなくてもいいと思う。史緒のことを思うと出てきて欲しくない。
 それでも、伝えなければならないことがあるから。
(櫻───!)








6.
「ノエル・エヴァンズが来日ッ!?」
 健太郎がそのニュースを知ったのは自宅アパートの居間、テーブルの上にあった兄の職場の機関誌からだった。
 思わず叫んでしまった声の内訳は純粋な驚きが8割、野次馬的な歓喜が2割といったところ。本日の食事当番である兄がコンロの前で振り返った(うるさい、と叱ろうとしたのだろう)が、それに応える余裕もない、新聞紙の半分ほどの大きさの機関誌に顔を埋めて記事の詳細に目を走らせる。
 兄の職場の月イチの機関誌は健太郎も毎回目を通している。内容は職場の広報がメインで、ニュースやコラム、イベント情報などが書かれている。原稿当番がリレーされるコーナーでは、当番による微笑ましくも不器用な家族自慢が時折見られた。
 今月号の2面の上半分を占めるニュース、それがノエル・エヴァンズの来日だった。白黒なのが惜しいが写真も2枚並べられ、過去の実績、来日の目的などが続く。そのうち健太郎が驚いたのは写真だ。
「…って、この人、女? しかもすげー若い!」
 2枚の写真のうち片方は経歴書からとってきたような無表情な顔写真。彫りは深いが丸みのある輪郭、大きな目。柔らかそうなふわふわした長い髪が肩に落ちている。性別は見間違うことなく女、年齢は10代でもおかしくない相貌だった。
「おまえ、それ、外で言ったら恥かくぞ」
 今日の夕食である手抜きカレーをテーブルに並べながら兄は笑った。
「と言っても、一部の業界以外ではほとんど知られてないけどな」
 そうは言っても一介の学生である健太郎でもエヴァンズの名は知っている。
 ノエル・エヴァンズ。イギリス人で、暗号技術や短波通信の研究者だ。関係特許を数多く持ち、それらの技術は医療、軍事、航空宇宙の分野でも応用されている。特定の大学や研究機関には所属しておらず、学会や技術サポート、短気の研究プロジェクトに参加するなど世界中で活躍しているらしい。ネットでの噂話を健太郎はよく目にした。この写真では若く見えるが、エヴァンズは20代半ばのはずだ。
「男だと思ってたのか?」
「だって、ノエルって男の名前じゃん」
「どちらにもつける名前だよ」
「ネットでも写真は見たことなかった」
「まぁ、本人は頑固な取材嫌いらしいからほとんど顔出さないらしいからな」
「そうそう。あ、でも40くらいの眼鏡のおばさんがスポークスマンなのは知ってる」
 エヴァンズ本人は表に出るのが嫌いだからとインタビューや取材には滅多に応じない。けれどメディアをおざなりにして自由契約者(フリーランサー)が務まるはずもない。だからエヴァンズには優秀なマネージャー兼スポークスマンがいた。名前は確かマーサ・ハクスリー。こちらは学会での演説のときの写真などが出回っている。
「おい、見入ってないでメシ食えよ。そりゃ確かに美人だけど」
 冷やかすように笑う兄に、「違うって」健太郎は記事を指して見せた。
「こっちの写真」
 2枚目の写真は顔の判別ができないくらい遠目のものだ。なにかのパーティだろうか、エヴァンズは膝丈のドレスを着てシャンパングラスを持っている。目線が合ってないので本人に許可を得ないでの撮影なのかもしれない。隣のスーツの男に顔を近づけて話しかけているようだった。
「先月までイスラエルの企業でプロジェクトに参加していたらしい。写真はその祝賀会だってさ。あっちはTPOにはうるさいから正装のパーティも珍しくないよ」
「となりにいる男は?」
「さぁな」
 健太郎はもう一度紙面を目の前に広げる。印刷は粗く、近すぎるとドットにしか見えない。目との距離を調整してみる。どうも、なにかひっかかるものがあった。
「誰かに似てない?」
「そんな白黒ピンボケで、誰に似てるって?」
「いや、なんとなく」
 もう一度写真を見る。しかし今度はもうなにが気になっていたか判らなくなってしまった。
 写真の男は濃い色の髪で(モノクロなので正確な色は判らない)、背が高く(少なくともエヴァンズよりは頭ひとつ分)、痩せ型で、前髪は長く目が隠れていた。








−2−
1.
 A.CO.へ向かうための路線に乗り換えた駅で、蘭は見知った人影を見つけた。
「おーい、健さーん」
 ちょうど階段を降りようとしていた健太郎が振り返った。人込みを見渡して蘭を見つけると軽く手を振った。
「おっす」
 Tシャツにジーンズ姿、肩に掛けているバッグから学校帰りだとわかる。つい春先まで着ていた学生服が妙に懐かしい。
「事務所へ行くんでしょー? ご一緒していいですか?」
「おう。あ、でも、俺は月曜館に寄ってく」
「冷たいもの飲むなら、あたし、淹れますけど。事務所で」
「そうじゃなくて」健太郎は苦しそうに腹をさすった。「腹減ってんの。マジで倒れるくらい」
「お昼食べてないんですか?」
「朝も食ってない」
「えーっ」
「徹夜で兄貴の仕事手伝わされてさぁ。その兄貴は来日してる有名人の視察があるとかで、コキ使った弟の屍を踏みつけて仕事に出かけるし。今回ばかりは殺意が芽生えた。ほんと、イイ兄貴だよなぁ、ははは」
 後に続いた乾いた笑い声は低く、凄みが含まれている。その気持ちを汲んでか、それともまったく読めずか蘭はあっけらかんと笑った。
「でも楽しそうですよね、兄弟で一緒に暮らしてるのって」
「…俺の話聞いてた?」
「もちろんですよー。あたし一人暮らしだから、家に帰るとなんだか淋しくて」
 あぁ、と健太郎は声のトーンを落とした。
「蘭は兄姉多いんだよな」
「ええ。実家にいたときは一人になる時間もないくらい!」
 すぐそこに素晴らしい物があるかのように目を輝かせる。
「でも、あたしが小さい頃はそんなに仲良かったわけじゃないんです。おんなじ家に住んでるのにお話もしないし、ごはんを食べるのも別だったし、みんな優しくて立派な人たちなのに、どこか他人行儀で」
 蘭の家のこととその兄姉関係は聞いたことがあったので、健太郎は蘭から語られる状況に頷くことができた。むしろその環境にあって、蘭のように育つことのほうが特異に思える。
「大切なお式のときに…ふふふ、あたしが派手に転んでしまったことがあって、そのときみんなが駆け寄ってきてくれて、心配してくれて、助けてくれたの。今までいがみ合ってたみんなが、顔を付き合わせてばつが悪そうにしてるのが可笑しくて、あたしは嬉しいやら足が痛いやらで泣き笑いです。だけどお客様を迎えるお式の途中だったから父さまはカンカン! 後で揃って叩かれました。でも、そのときからです、みんなが仲良くなったのは。───それで、そのときいらっしゃったお客様というのが…」
 大切な想い出を大切そうに語る蘭。その口が突然止まる。音読の最中に読めない漢字に当たったときのような不自然さだった。
「そのときの客が、なんだって?」
 健太郎に促されて蘭は一瞬迷ったような素振りを見せたが、やはり大切そうに、それを口にした。
「あたしの、初恋の人です」
「例の写真の?」
「ええ」
 今度は迷わない。意志を持ってはっきりと頷いた。
「───ねぇ、健さんのお兄様ってどんな方なんですか? 健さんと似てます?」
「そうだなぁ。三佳が言うには全然似てないらしいけど。自分じゃわかんねーよ」
「一度お会いしたいな! そういえば祥子さんはお母様そっくりですよね。お母様も美人!」
「あー。あれは、若い頃同じ顔してたろってくらい似てたな」
「去年の末くらいにね、篤志さんのお母様にお会いできたんです。上品で落ち着いてて、緊張しちゃってうまく喋れませんでした」
「へーぇ」
 緊張したのは別の意味もあるだろ、と冷やかそうとしたがやめた。蘭が相手では冷やかし甲斐がない。
「そういや、A.CO.(うち)で、きょうだいがいるのは俺と蘭だけか。他は聞かないもんな」
「ぁ…。───…えーと」
 そのとき、前方の人混みが騒がしくなった。
「捕まえてくれ! ひったくりだ!」
 弱々しいながらも張り上げた、割れた声が遠くから聞こえた。その声に反応して多くの人が振り返る。けれど状況を把握するには至らず、ただ単に何事かと目を向けた人がほとんどだった。
 健太郎と蘭は喋るのをやめ、揃って足を止める。
 小さく短い悲鳴がいくつか上がった。その方向から、30代くらいの男性が飛び出してきた。
「捕まえてくれぇ!」
 人混みは協力する気は無いわけではないが、突然のことに驚き、激走してくる男に思わず道を開けてしまう。しょうがない、咄嗟のときにはなかなか動けないものだ。
 そして開けた道は、健太郎と蘭につながっていた。
「健さんやる?」
 飲み物なににします? と同じくらいの何気なさで蘭は訊いた。空腹の健太郎を気遣ってのことだろうが、ここでのらなければおいしいところを蘭に取られてしまう。
「足止めくらいなら」
「じゃあ、あたしは捕獲(ホカク)
 各自の飲み物(オーダー)を確認し合うと2人は左右に分かれた。周囲との間合いは充分にある。それを健太郎は目視で確認した。
 前方でそんな注文があったとは知る由もない男は脇目もふらずに2人の間を駆け抜けた。 いや、駆け抜ける前に、タイミングを計っていた健太郎がわずかに腰をかがめて男の足をひっかけた。反射的にバランスを取ろうとした逆の足を見切って蹴飛ばすことも忘れない。結果、転倒。受け身を知らなかったのか、男は容赦なく顔面からコンクリートに突っ込んだ。その際、宙を飛んだ男の手荷物を難なくキャッチする。もう少し上手くコケて欲しかった、と健太郎は同情するも、わざわざ階段から落ちない場所を選んでやったのだから許してもらおう。
 そのあいだに蘭は、倒れた男の背中に膝を落とし片腕を締め上げていた。聞き苦しい男の悲鳴が短く響いた。
(スカートでよくやるよ)
 と、健太郎は苦笑い。こうなる結果は見えていたとはいえ、細い手足がそれより一回り大きい体躯を押さえつけている姿は異様だ。力の差は歴然のはずなのに、男の抵抗は少女の技を外すことができなかった。技量の差が歴然なのだ。
「ひったくりなんて善くないですよ〜」
 と、(ことごと)く状況にそぐわない間延びした声で蘭。うるせー、と男は吠えたがそれは悲鳴に変わった。腕が絞まったらしい。
「ええと、捕まえましたけど……どうしましょう」
 と、大の男を締め上げているとは思えない余裕をもって、少女は真顔を上げる。
「そうだなぁ…」
 健太郎が蘭の荷物を拾い上げながら相槌を打ったときのことだった。
「嬢ちゃん、やるな」
「かっこいー!」
 いつのまにかできていた周囲の人垣から口笛と拍手が上がった。
 手を放すわけにはいかないので、蘭は少し照れたような笑顔で歓声に答えた。
 ───そのとき、蘭は歓声の中に聞いた。
「連家の末っ子は相変わらずか」

 耳の奥が冷えた。
「……え。わっ、きゃあ」
 一瞬の隙を見逃さなかった男は蘭の技を振り解いた。急に立ち上がったので背中に乗っていた蘭は放り出され、地面に腕を打つ。男は大きな舌打ちをして人波のあいだを縫って走り逃げていった。
「おい、大丈夫か」
 健太郎の手を借りて蘭は立ち上がり、お礼を言うのも忘れて周囲を見回す。一段落した事件を後にして人垣は散り始めていた。幾人かは犯人を逃がした蘭に慰めの言葉をかけている。散っていく人影の中に、背の高い男性の後姿があった。惹きつけられるように蘭は目を留めたが、それはまるで蜃気楼のように人波に消えた。
 何故だが、追う気にはなれなかった。
「蘭?」
 健太郎の呼びかけに引き戻された。
「あ…っと、ごめんなさいっ」
「モノは取り返してある。問題ないよ。どうかしたのか?」
 犯人を採り逃した隙。その一瞬、なにに気をとられたのかは判っている。
 知っている声だった。それに蘭を呼ぶときの呼称も…。
「健さん、今の…」
「なに?」
 健太郎は「彼」のことを知らない。言ってもこの気持ちは伝わらない。それでも蘭は嘔吐感に似た胸騒ぎを吐き出さずにはいられなくて、口を割った。
「さっきの人…っ」
「さっき?」
「……」
 大きな波のように押し寄せる感情がある。
 それは懐かしさだったか、喜びか、畏れか不安か───。
 季節は夏。ホームは蒸すように熱いのに、背筋を駆け上がるなにかに蘭は震えた。








2.
 篤志がアダチに出入りするようになって、そろそろ3週間が経つ。
 さすがにこれだけ経つと、篤志が提示する社員証を見て驚く者はいなくなった。最初の頃は受付の社員でさえ目を剥いていたので。
 篤志の社員証は仮で発行されたにもかかわらず社内通行権はランクB。これは「秘書課一般」と同じレベルで、臨時社員(ゲスト)としては破格の待遇だ。ちなみにランクAが「役職」で、各部署のトップや社長付秘書である梶正樹や一条和成がこれに該当する。それ以上のランクとして「役員」がある。ほとんどの社員はC以下。
 少し前までは見慣れない顔の者が高い通行権を与えられていることに驚かれていたがそれももうない。「社長令嬢の婚約者」という噂が広まったらしい。

 政徳から最初に言いつけられたことは、秘書課の仕事を覚えることだった。
 もちろん海千山千揃いの課内において、あまつさえ儀礼(プロトコル)の儀の字はおろか人偏さえ知らない篤志が役に立つことなどない。政徳もそれを分かっているから「手伝うこと」ではなく「覚えること」と言ったのだ。課内の人の流れや段取り、管理していること、動かしていることの観察。それから組織体系を学んだり、政徳や梶について外出することもあった。
 ひとつ注意されていることは、あまり下手(したて)に出ないこと。将来、上に立つ人間を甘く見せてしまうことは、下に就く人間の志気を損なう。そのことからも解るように、篤志は未熟ながらも後継候補として扱われていた。

 次の移動まで休んでいていいと梶から言われ、篤志はひとり社内のカフェに来ていた。カフェと言っても、大人数の社員を抱える職場の食堂も兼ねているのでとにかくだだっ広い。洒落っ気は無いが清潔感はある広いホールにテーブルと椅子が敷き詰められている。通常勤務時間帯の今は人も少なく閑散としていた。その中にちらほらと見受けられるいくつかのグループは、少人数の打ち合わせや篤志と同じように休憩している社員たちだった。
 テーブルのあいだを縫って近づいてくる人影がある。篤志はそれを視界に入れていたが、面倒なので気づかないふりをした。その人物が自分のところまで来てなにを言うかは大体想像できている。けれど、どう答えるかは考えていない。彼への言い訳などいちいち考えていられない。篤志には他に考えるべきことが多くあったので。
 一条和成は挨拶もなく篤志の向かいの席に腰をおろした。カフェのメニューではなく、自販機で買ってきたらしい紙コップのコーヒーを飲むと、やっと口を開いた。
「どういうつもりですか?」
 この3週間、同じ職場にいても和成と話す機会はほとんどなかった。なぜなら篤志は梶について行動していたし、そして同じ役職のはずの梶と和成は社内においては別行動が多かったからだ。移動のときは顔を合わせたが私語が許されるはずもなく、交わした言葉といえば挨拶程度。けれど言わずともいつも和成の目は訴えていた。
 どういうつもりでここにいるのか、と。
「想像しているとおりだと思いますよ」
「史緒さんを切るんですか?」
「その表現は誤解を招く」
「実質は同じことでしょう」
「…」
「君がアダチ(ここ)で仕事をするためには、解決すべき事柄が多くあるはずだ。それを片付けずにここへ来て欲しくない」
「助言?」
「嫌味です」
 和成の大人げない返答に篤志は小さく笑った。大きく息を吸って肩をほぐす。
 一緒にいても楽しくない人間だが和成のことは嫌いじゃない。おそらく相手も同じ評価だろう。
「一条さんが味方だとは思ってないけど、事情を知ってる人間が近くにいるのは心強いよ」
「知りません、そちらの事情など」
 不愉快さを隠さずに和成は顔を逸らした。それに倣って篤志も視線を外し、窓の外を眺める。ここは2階なので窓からは向かいのビルしか見えない。それでも秘書課が置かれている窓の少ないフロア(防犯の意味がある)と比べたら格段に開放感ある眺めだった。
(解決すべき事柄、か)
 和成がおもしろくないのも解る。政徳や史緒を騙したまま行動に出た篤志は不安定な情勢を作り上げている。政徳の秘書で、史緒とも懇意である和成から見れば危ういことこのうえないのだろう。この先の篤志の出方で一騒動あるのは目に見えている、そしてそれを避けられないということも。
 本当の意味で篤志の事情を知る者などいない。それでも和成は知っている部類に入る。
 和成はいくつかの、本当に少ない情報しか持っていなかった。しかし先入観と偏見のない部外者だからこそ気づくこともある。客観的な視点が冷静に判断した結果、篤志の正体を知るに至った。反対の立場に川口蘭もいるが、こちらは彼女の素質としか言いようがない。
(他の人たちにも、早く明かしてしまったほうがいいのは解ってるんだ)
 動き出してしまった今、この先の契機を待つ必要はない。今すぐ言ってしまっても構わない。和成が心配しているとおり騒動は避けられないだろうから、今だろうが後だろうがそれは同じことだ。
 篤志が迷っているのはそこではなかった。
「史緒、怒るかな」
 思わずもれてしまった苦笑。和成は眉をひそめた。それほど篤志が情けない顔していたからだろう。
「もう怒ってるんじゃないですか?」
「…そうだな」
「ひとつ、きつい物言いをさせていただきますと」
「どうぞ」
 和成は表情を落とした。
「手放しで喜ぶ人はいないと思います。それくらい“君”は過去の人だ。時機が良くないわけではありませんが、最良の時でもない」
 篤志は静かにそれを聴いた。
「そちらとしても、本当なら櫻がいるときにカタをつけたかったんでしょう?」
「知ってるじゃないか。事情」
「だから知りませんって」
 堂々巡りのやりとりに雰囲気が浮上しかかる。けれど和成はもう一度、言いにくそうに口を開いた。
彼女(、、)が最期まで気に掛けていたのは櫻でしたから。史緒さんでも、──…君でもなく」
「……」
 しばらくののち、次に空気を振るわせたのは和成の携帯電話の着信音だった。
 それを合図に、篤志と和成は同時に席を立つ。
 梶が集合を指示したとき、2人はすでに廊下を歩いていた。








3.
「あんたたちでも喧嘩するのね」
 しばらく続いていた沈黙を切って祥子は言った。
 A.CO.の事務所には今、祥子と史緒の2人しかいない。つまり「あんたたち」という二人称複数形が示すうちの一人は史緒だ。その他に誰が含まれているのか、それは当事者である史緒のほうがよく解っているだろう。
 すぐ隣に座る史緒は、祥子の科白が聞こえなかったかのようにキーボードを叩く指を止めない。表情も動かさず、反応を示さずに、黙々と仕事を続けていた。
(あらま)
 無視されたことには腹立つが、それ以上に祥子は驚いていた。ひとつ言えばもれなく針とパンチ付きで返してくる史緒が無視という幼稚な態度を取ることに。
(“聞こえなかったフリ”が通じるとは思ってないでしょうに)
 逆に、言い返してきたとしても、下手なごまかしは通じないけれど。
 祥子は今日も史緒の仕事を手伝わされている。今までその分の仕事をしていた篤志が不在だからだ。慣れない仕事を押し付けられた不満を篤志に言いたいけれど、今、目の前には史緒しかいない。その史緒は明かに気落ちしているし、祥子に対する取り繕いも弱い。思案に沈む時間が長く、仕事の効率も悪そうだ。別に史緒の仕事時間が増えても祥子に影響しないが、ひとこと言わせてもらおう。
「史緒と篤志はA.CO.(うち)のトップでしょ? その2人の不仲は下の人間を不安にさせるの、早めにどうにかしてよね」
 さすがになにか言ってくるだろうと身構えていると、期待どおり史緒は手を止めた。それからうつむき、目元をゆがめると、酷く重い声を出した。
「……そうね」
「え」
 調子が狂う史緒の消沈ぶりに、仕掛けた祥子のほうがうろたえてしまった。
「ちょっと、しっかりしてよ。…どうしたの? 相手は篤志でしょ? そんな深刻じゃないんでしょ?」
「どうかしら」
「史緒?」
 7人もいる集団だ。何年も一緒にいて争いがないわけがない。なかでも祥子と史緒はその代表。一番険悪な関係だったことは間違いなく、それは自他共に認めるところだ。三佳と健太郎もなにかにつけて言い争いを繰り広げているが、この2人は空気を読み自制することにも長けているので、退き際がよく、禍根を残さない(例外有り)。一種のコミュニケーションである。
 問題になっている史緒と篤志。彼らもたまには言い合いをしているが、それは仕事上の問題においてのみで、長引くことはない。史緒がワンマンになりすぎるのを抑える効果があるので健全な業務進行には悪くないことだ。この、史緒と篤志のバランスがA.CO.を支えてきたと言ってもいい。そんな2人だからこそ、業務に支障を来すような仲違いは今までなかったのに。
 祥子から見れば、篤志は史緒の、(良きパートナー…っていうのは少し違うな。相方(パートナー)という単語なら司と三佳のほうがしっくりくるし。篤志はそうじゃない。…ええと、ほら、そうだ、そう)
(保護者?)
 その対象である史緒は祥子の目の前でさらに低い声を吐いた。
「つまらない喧嘩のほうがよかったわ…」

 史緒は祥子に慰めさせている自分の落ち込みぶりに驚いていた。
 よりによって祥子に。今までのことを省みれば冗談でも考えられない。信じがたいことだが、自分はかなりのショックを受けているらしい。先日の篤志の科白に。
 アダチの仕事をしたい、と。
 3年前、A.CO.の仕事を始める際に協力を乞うた。篤志は快諾してくれた。それから後、学業との両立で苦労をかけさせたのは申し訳ないと思っている。このまま手伝わせていていいのかと何度も考えた。でも篤志がいなかったらここまでこれなかったし、なにより、篤志も彼自身の意思でここにいてくれてるのだと思っていた。
(違うの? 私の思い込みだったの?)
 いつから? という史緒の問いに、篤志は「昔からずっと」と答えた。
(昔ってどれくらい? A.CO.を立ち上げる前から? 私と婚約する前から? それとも私と出会う前から?)
 どうしてアダチの仕事をしたいの? それなのにどうしてA.CO.を手伝ってくれていたの? 我慢させていた? 本当はここにいたくなかった? それとも私を利用していたの? なにか狙いがあったの?
≪決着を付けなければならないことがあるんだ≫
 どうして今まで、なにも言ってくれなかったの?

 目覚まし時計のように電話が鳴り、史緒は我に返った。
 祥子の目が取ろうか?と訊く。史緒は軽く頭を振って、自分で受話器を取った。
「はい、A.CO.です」
「あの、あたしです」
 蘭だ。上擦った声に勢いがあった。
「すみません、篤志さん、来てます? ケータイが通じないので…」
「篤志は今日は来ないと思うわ」
「…えっと、司さんは?」
「外出中よ、どうしたの?」
「あのぉ…史緒さぁん」
「なぁに?」
「えっと、ごめんなさい、変なこと訊きますけど」
「うん?」
「もしかしたら史緒さん、気を悪くされるかもしれないんですけど」
「どうぞ」
「ばかばかしいことなの、笑い飛ばして欲しいんですけど…」
「内容によるわね」
「…」
「───蘭。なんなの?」
 あまりの遠回しぶりに呆れながら先を促した。それでも蘭は迷いがあるらしく、また少しの沈黙がある。
「…あの」
「はい」
「まだ、…見つかってないんですよね」
「なにが?」
「櫻さん」
 純粋な驚きがあった。
 それは顔にも表れてしまった。
 祥子が反応してこちらを向く。それでも表情を立て直せなかった。
 その名前を聞いても嫌悪感はない。ただ本当に、思い出そうとしなければ思考に現れないほど遠い記憶の中の存在に、驚いただけで。
「…本当に、変なこと訊くのね」
 その声に(とげ)はなかったのに蘭は慌てた様子で、
「ごめんなさい、…ホントに、なんでもないんですっ、それじゃ」
 ぶつ、と電話は切れた。
 にぎやかな蘭の声がなくなると急に静かになったような気がする。余韻が深く残って、史緒はしばらく受話器を耳から離せなかった。
 一連の会話を端で聞いていた祥子が問う。
「なんだったの?」
「…さあ」
 重量が増したかのように、史緒は落とすように受話器を置いた。
 その横顔は酷く青かった。








4.
 司が最近街中で振り返ってしまうのは煙草の匂いだ。
 薄く笑う声が印象的な、彼の。
 いくら司でも、まさか煙草の匂いなどという数えられる(カウンタブルな)もので個人の特定はできない。近づいてくる知人を言い当てることはできるが、その識別は足音によるものだ。
 同じ煙草を吸う人間は数多くいる。彼と同じ煙草を吸う人間だって街を歩けばいくらでも。だから匂いだけで思わず振り返ってしまうことなど絶対に無い。
 今回のコレは違う。
 煙草の匂いとともに鳥肌が立つような感覚がある。警戒心が(もた)げ、身構えるよう脳が命令する。接近する人物に注意するようにと。傷つけられないようにと。
 阿達家にいた頃はこの感覚も珍しくなかった。日常的にあったことだった。けれどつい最近まで、司はその感覚を忘れていた。
(どうして今になって…)
 今になって、同じものを司は感じている。街の喧騒に乗せて彼の存在を知覚する瞬間があった。
 彼はもういないのに。
「司っ!」
「!」
 突然、三佳に腕を引かれた。それと同時に街の騒音が司の耳を打つ。車の音、人の声。
「あ…」
 現在の居場所。状況。
 ようやく司は信号が赤だと気付いた。わずか目の前1メートルの距離を車が通り過ぎていく。やっと危険を察知した思考は驚いて小さく声をあげた。
「…しっかりしろ」
 三佳は深く息を吐く。腕から微かな震えが伝わってきて、司は小さく謝った。
 三佳が驚くのも無理はない。司が信号を聞き逃す(、、、、)ことなど今までなかった。晴眼者が信号を見落とすのと同じくらい、いやそれ以上に危険なことだ。
 振り切るように手を離して三佳は言う。
「そこのコンビニで買い物してくる。ここで待ってて」
 考え事があるなら足を止めてやれ、という三佳なりの気遣い。礼を言う隙も与えず三佳の足音が遠ざかった。
 道端に寄り、喧騒に浸かる。司は溜め息を吐いた。
(かなり参ってるな)
 三佳にまで心配させてしまっている。
 考え込んでいるのは初歩の初歩。自分の感覚を信じるべきか否かだ。
 疑うわけにはいかない。少しでも疑ってしまったらこれからすべての行動に迷いが生じる。なにをおいても許可できないことだ。
 しかし今の自分の感覚を信じるということは、もういないはずの彼の存在を肯定することになる。
(…櫻、か)
 もし彼が目の前に現れたら?
 司はそこで自嘲気味に笑った。こんなことまで想像してしまう自分はかなりおかしい。
 自分の想像力を抑えるために頭を振ると、司は街中のノイズに耳を済ませた。
「犬みたいなやつだなぁ」
 すぐそばで発せられた男の声。
「一匹狼になると思ってたが、子供の飼い犬(ペット)に成り下がったか。七瀬」



 急に緞帳が落ちたように「視界」が利かなくなった。
 空気が閉ざされ、現在の場所と時間の認識が薄れる。今はいつで、どこで、どうしてここにいるのか。
 目の前にいるのは誰なのか。
 思考が混乱状態に陥る。なにに焦点をあてて、なにを考えるべきか。通常の思考状態に戻るにはどうするべきか。
 取り乱すことをしなかったのは、ショックのほうが大きかったからだ。
「静かに動いているつもりだったがおまえの鼻はごまかせなかったようだ」
 微かな笑みを混ぜた声が囁く。息に乗せた囁きが聞こえるくらいの距離に、彼がいた。
「……櫻?」
 わかってる。わかってはいるが、確認せずにはいられない。
「あぁ」
 余計な情報を与えない短い返答。司に安定を与えないための、計算された科白回し。
 間違いなく、幽霊でもない。その存在を感じる。煙草の匂いとともに。
 司は無意識に、支えとなる三佳の手を探してしまった。けれど、近くにはいない。───そんな司の不安を見透かしたように彼は言った。
「しかし七瀬が幼女趣味だったとは知らなかったな。結局、ひとりで歩けずに、選んだ杖がアレか」
 司は乱れる呼吸を抑えることに意識を集中した。挑発に乗ることはない、今の状況を知ることが先だ。
「…生きてたのか」
「声を掛けなきゃ死んだままだったろ」
「今までどこに?」
「頭の悪い質問はやめろよ。おまえはもう少し利口だと思ってたのに」
「どうしてすぐに出てこなかったんだ」
「今度は少しマシか。まぁ、その必要性を感じなかった、という回答で満足か?」
「なんで今になって」
「やり残したことがある」
 この科白は櫻にしては珍しく情報過剰な気がした。
(やり残したこと?)
「安心しろよ。そう長くは居座らない、長くても2ヶ月くらいだ」
「……まさか報せないつもりか? おじさんにも?」
「面倒はごめんだ。名乗り出ることに意味もない」
「“阿達櫻”を死なせて構わないのか?」
 そこで彼は笑ったようだった。
「あのな。俺はとっくに、その名前は捨ててるんだよ」
「…」
 櫻は生きている。その真実を報せる必要があるのではないか。道徳的、倫理的───それには目を瞑っても、阿達家をとりまく数々の問題に進展があるかもしれない。いや、もしかしたら余計な問題を抱え込むことになるかもしれない。
 櫻の生存を知ったときの史緒の動揺は想像もできない。櫻が本当に、誰にも知られずこのまま去ってくれるというなら日常は今までとなにも変わらない。余計な波風は立てたくなければ、司はこのままずっと口を閉ざしていればいいのだ。
 打算しなければならない。この場で。司の思考は混乱し、信号待ちを強要されているように鈍くなっていた。
「櫻」
 ひとつだけ、確認しておきたいことがあった。
「なんだよ」
「…史緒は君を殺したと言ってる。実際はどうなの?」
「はぁ?」
「あのとき、みんなで行った別荘で、…君を、崖から突き落としたって」
 一月の寒い日、夕暮れ時だった。風に(さら)われそうな丘の上、司の腕のなかで史緒は言った。櫻を殺しちゃった、と。
 あの後、マキさんが迎えに来て、雨の中別荘に戻った。警察は櫻の捜索と同時に事情聴取をした。史緒は自棄になってひけらかすように言う。櫻を殺したのは、崖から落としたのは自分だ、逮捕しろと。けれど、警察はそれを信憑性ある証言だとしなかった。
 その証言を篤志がどう思ったかは知らない。司は半信半疑。もう過去のことだ、いまさら史緒の評価が変わるわけではないが白黒つけておきたい問題だった。
「ふーん」彼は面白そうに答える。ベタつくような笑いを漏らした。「そうそう、そのとおり。おもしろいな、七瀬の言うとおりだ」
 やや声を強めて、
「3年前、俺は史緒に殺されたんだ」
 わざとらしいまでにはっきりと言い、笑う。
「…?」
 その科白は誰に向けたものなのか、普段の司ならすぐに気づいたかもしれない。けれど今はそれだけの余裕を持っていなかった。
「そんなんで自己紹介になるかな。島田三佳サン」
「!」
 弾かれたように司は振り返った。
「───三佳っ!?」
 彼に気を取られすぎて気付かなかった。わずか3メートルの距離に。
 低い位置から、聞き慣れた声が細く言う。
「今の…なに? 史緒が…」
 聞かれたくなかったことを聞かれて司は歯ぎしりした。不用意な質問をした自分の失態だ。しかしフォローしている場合ではない。
 三佳の肩をとり、彼からかばうように立つ。
(どうして三佳の名前を…)
「…なにを調べてるんだ」
「島田サンに用があるわけじゃない。あいつの近辺を少し洗っただけだ」
 あいつ、という言葉が示すものはすぐにピンときた。
「──…史緒?」
 彼は否定しない。
「無駄骨だったけどな。蓮家の末っ子は相変わらず使えなさそうだし」
「まさか史緒になにか」
「よしてくれ。あいつに構ってる暇はない」
 煙たそうに吐くその科白は嘘ではないようだった。
(櫻の意図はなんだ?)
 やり残したことがあるという。阿達櫻の身分にももう興味がない。狙いは史緒ではない。でも史緒の近辺を調べている。それが、やり残したことだというのなら…。
「…なにを、捜してる?」
「おまえのそういう利口なところは買ってるよ。そうだな、一応、訊いておこう。───(とおる)、という名を知ってるか?」
「…? いや、聞いたことない」
(捜しているのは人? …トオル?)
「それなら、史緒はおまえにすべてを話しているわけではないということだ。残念だったな」
 その程度で疑念を植え付けられるとは思ってないだろうに、それでも科白の端々に揺さぶりを仕掛けてくるのは櫻の常套手段だ。昔からそう。他人を不安にさせないと気が済まないかのように。
「わざと訊かないでやってるんだ」
 と言ったのは司ではなく三佳だ。
「史緒に殺されただって? あんな小娘にやられたというなら、そっちも大したことないようだな」
 三佳の手は司の手を強く握って微かに震えている。櫻に突っかかる声も強い割に細かった。
「三佳…っ」
 その強がりは解るし、司のためを思って言ってくれたのもわかる。けれど三佳が櫻に目を付けられることを司は恐れた。
 櫻は悦に入ったように喉の奥で笑う。
「あいつにはもったいないくらいの同居人だな。まぁ、気が向いたときにでも訊いてみればいいさ。亨は誰だってな」
 答えられないはずだ、と彼は言った。

 櫻が去ると、知らず感じていた圧迫感(プレッシャー)が緩み、司は大きく息を吐いた。
「訊いていいか?」
 三佳の慎重な声がかかる。
「…いいよ」
「誰?」
「阿達、櫻。史緒の兄だ」








5.
 蘭と「彼」の、それは挨拶代わりだった。
 お互い、(くす)ぼって、苛ついて、ときには自嘲して、自棄気味のときもあって。
 期待しているわけでもないのに、それでも訊かないわけにはいかず。
≪捜し物は───≫


「見つかった?」
「…っ!?」
 すぐ近くからの問いかけに蘭は飛び上がった。見えない氷が肌を伝ってヒヤリとする。
 放課後の教室。人気(ひとけ)の無い空間に、この時間でも陰影が濃く落ちている。それを背景に仲の良いクラスメイトの顔が目の前にあった。
「───…」蘭は大きな目を(しばだた)いて、あたりを見回す。「…えと、なんだっけ?」
 笑顔を作ることも失念して、蘭はうまく回らない舌を動かした。友人は呆れたようにわざとらしい溜め息を吐いた。
「なんだっけじゃないでしょーが。定期忘れたって戻って、何分掛かってるの?」
「あ…、うん。そうだったよね」
「他のコ、先に帰ったよ」
「わ、ごめん。待たせちゃって」
「伝言。“定期は忘れても夏休みの遊ぶ約束は忘れるな”って」
「そっちこそ〜って、メール打っておかなきゃ」
「時間に遅れたら、課題のノート写させるとかね」
「あはは、そうそう」
「ところで定期は見つかったんだよね? じゃ、帰ろ。駅まで送るよ」
「え? 反対方向じゃない? 嬉しいけど、どうして」
「蘭、最近、ぼーっとしたから」
「……ありがとう」




 蘭は駅という場所が好きだった。
 これだけ多種多様な人間が集まる場所はめったにない。街中にもたくさんのヒトがいるけど、そこには少なからず「その街に集まる」という特色が表れるものだ。雑多で一辺倒ではなく、数多のカテゴリが交錯する空間、それが駅という場所。蘭はその空気にひたることが好きだった。
 たくさんの人がいる。そのなかで時折思う。
 これだけたくさんのヒトのなかで、大切な人を捜して、捜して、捜して、見つけられたヒトはそう多くないだろう。
 あたしは幸運だ。
 ──あたし、篤志さんに惚れました!!
 嬉しい、ちゃんと見つけられた。神様ありがとう。
 もしまだ見つけられてないなら、あたしはここにはいなかった。日本中、世界中を探し回ってた。おばあちゃんになっても、きっと捜し続けてた。
 だっていることは解っていたから。だいじょうぶ、まだ欠けていない。あたしの世界からなにも失われていないって。まだ、彼はいるって。
 蘭は夏の日射しに焼けるレールを見下ろしながら思う。
(同じように、櫻さんも感じてたんだ)
(同じように、櫻さんも捜して)
(同じように、櫻さんも追い続けてた)
(でも同じじゃない。櫻さんは見つけられなかった(、、、、、、、、、)
 ──見つけたら教えて。あたしも、そうしますから
 最初に言い出したのはあたしのほうだった。
 それなのに。
 ──探しものするの、やめます
≪どうやら、おまえのことを過大評価していたようだ≫
(あたしも)
(櫻さんに期待しすぎていたみたいです)
 ちくん、と胸が痛む。
 捜し続ける途方もなさはあたしが一番よくわかってる。あたしはひとりで楽になった。櫻さんを置き去りにして。嘘を吐いてまで。
 ごめんなさい───
 祈るような気持ち。
 同じ手がかりを持っていたのに、ね。
 史緒さんの近くにいれば捜しものはいつか帰ってくる。それはいつか史緒さんのもとへ戻ると。
 だから史緒さんを見張っていたんでしょう?
 あたしと同じように、史緒さんのそばでそれを待っていたんでしょう?
(あたしはズルい)
(史緒さんを利用した)
(櫻さんに嘘を吐いた)
(やっと見つけられた人がそれを望んだからじゃない。独り占めしたかったから、だから櫻さんに嘘を吐いたの)
 それを(ほど)けないまま、櫻さんは海に消えた。

 どうしてこの嘘を見抜いてくれなかったの?

 どうしてこの嘘を信じたまま、いなくなってしまったの?

 あたしに、この嘘を吐かせたまま…───

「…」
 駅のホームに強い風が抜けた。
 風は汗ばんだ額を掠めて、暗鬱と考え込んでいた蘭の頭に爽快感を与えた。
 顔を上げると駅の風景はいつもと変わらない。そこにいる大勢の人にいとおしさが込み上げて唇に笑みが浮かぶ。けれどその環境は過酷。日射しが線路を焼き、その熱がホームを蒸す。立ち上る熱気は光の屈折により目に見えるほどだ。人の行き交いは霞んで現実感を薄れさせている。
 こんな日は幻覚でも見てしまいそう。
 ───そして蘭は見た。

 耳の奥で雷が鳴る。
 その音は振動となり、寒気となって全身に伝わった。

 夏の太陽に灼かれた風景のなか、それは蘭の願望が見せた蜃気楼だったのかもしれない。
 向かいのホーム。5メートル離れた場所。
 背の高い人影があった。()(じし)の青年が立ったまま本を読んでいた。
 電車待ちの暇つぶしなのか、さしも面白く無さそうな表情でページをめくっている。
 この暑さのなか、青年は長袖の白いシャツを着ていた。服の上からでも見て判るほど手足が細く、けれどすっきり伸びた背筋がひ弱さを感じさせない。黒い髪は少し長めで、縁なしの眼鏡を掛けた顔を隠した。
 顔がよく見えない。
 でも本のページをめくる指使い、立ち姿、眼鏡を押し上げる仕草。
 蘭は彼を知っている。
 蘭は叫んでいた。

「───櫻さんッ!」

 青年は顔を上げた。
 眼鏡の奥の眼がこちらを向き、目が合うと唇が薄く笑った。皮肉を湛えた笑みも懐かしく、蘭は込み上げるものを我慢できなかった。
「ごめんなさい!」
 周囲の喧噪に負けないくらいの声で叫ぶ。
「あたし…! あたし、嘘吐いてたの!!」

 せつな。
 青年の笑みが()む。

「……ぇ」
 ぞくっ、と。背筋が粟立った。
 青年の目は蘭の目より大きくひらかれ、次に獲物を見つけたように火が灯る。
「…ぁ、ぇ───?」
 蘭は自分が取り返しのつかない失言をしたことにようやく気がついた。
 向かいホームの青年は鋭い動作で本を閉じ、視線を走らせる。そして階段に向かって走った。
(来る───)
 本能にも近い危険を察知し、頭の中で赤ランプが点滅する。
 けれど蘭は動けなかった。脳は走れと命令している。それなのに蘭の両足は震えて、命令を実行できない。金縛りに遭ったように、足が地面を離れなかった。
「あ…、うそ…、あたし、今」
 なにを驚いている。
 他でもない、あの占い師が言っていたではないか。「嘘吐きの罪を謝罪する日がくる」と。
 運命の人と再会するという卦体(けたい)は信じて、こちらは信じなかったのか。
(ど…どうしよう)
 無意味に惑うあいだにそれは来た。
「蘭っ!」
 阿達櫻に名前を呼ばれたのは2度目。
 向かいのホームにいた青年が階段を駆け上がってきた。本を片手に掴んだ肩が大きく上下し、息を切っている。その呼吸のあいだに発せられた低い声が矢のように突き刺さる。
「今のは───どういう意味だ」
「……ひ」
 そこで金縛りは解け、自由になった両足でコンクリートを蹴った。
 人波の間を抜け、逆側の階段を飛ぶように駆け下りる。人にぶつかっても謝っていられなかった。追いかけてくる声は小さくなり、やがて聞こえなくなったが安心できない。そのまま走って改札を抜けて、街中に出ても蘭は足を止めなかった。
 複雑に入り乱れる感情に押しやられ涙があふれ出る。
(篤志さん───!)








6.
「元気そうだったか?」
「え? …え、えぇ、…はい」
 見当違いな質問をした篤志に、電話口の向こうで蘭は呆れたようだった。
(それならよかった)
 昨日、夜になって携帯電話の着信履歴を確認したら14件あった。すべて蘭からだ。何事かと急いで掛け直すと、繋がった途端、
「ごめんなさい!」
 鼓膜を刺す謝罪。
 堰を切ったように要領を得ない喋り方をする蘭の訴えはなかなか話が見えてこない。けれどある名前が出たとき篤志は(みは)り、ようやく内容が見えてきた頃、無意識に微笑んでいた。もしかしたら声を出して笑っていたかもしれない。
「篤志さん?」
「ああ。───いいよ、気にしなくて」
「よくないです! あたし、もぉ、篤志さんに顔向けできません! …今までずっと隠してたのに、阿達のおじさまにも、史緒さんにも! なのに……あたしが口を滑らせたからッ」
 篤志の内心とは裏腹に、蘭は彼女らしくもなく取り乱し、涙声で大声を出した。それを宥めるでもなく、篤志は穏やかな声で言う。
「本当にいいんだ。───…隠してたわけじゃないから」
「は?」
「隠してたわけじゃない。俺の家族もそう」
「え…、だって」
 蘭から見れば、ずっと秘密を抱えているように見えただろう。結果的にはそのとおりだ。
「ただ俺は、明かすのが怖かっただけだ」


 篤志はアダチの仕事もA.CO.の仕事も休んで、朝から駅構内のベンチに座っていた。
 蘭が二度目撃したと言っても、この駅が彼の行動範囲であるとは限らない。今日、ここを通る保証はない。例え通ったとしても会えるとは限らない。
 それでも見つけられないはずない、という、他の人間が聞いたら乱暴で無謀な直感が篤志にはあった。
 目の前を数え切れないくらいの人が通り過ぎていく。そんな自分さえ埋もれてしまいそうな景色の中でも。
 自分の半身にも似た存在を。


 ───「彼女」が(のこ)したもの。
 それは物だったり、言葉だったり、いたずらだったりする。
 阿達政徳に、阿達史緒に。そして「彼女」が最期まで案じていた、阿達櫻に。
 それらを繋げるために関谷篤志がある。
 その役目を自覚していたので、いずれ阿達家に戻る(、、)こと、櫻とやりあうことになることは、ずっと前から解っていた。必然だった。
 渡すべき物、伝えるべき言葉、関谷篤志の役目について。それを明かすために阿達家へ戻った。───けれど櫻の失踪により目的の半分は意味がなくなってしまう。
 なにも伝えられず、なにも救えなかったのは残念。
 でも悲観はしてない。

 まだいる、という予感はあったから。

 篤志は人波のあいだを走って、その肩を掴んだ。
「櫻!」
 顔を確認する前に篤志は名指しする。間違うはずがない。振り返ったのはそのとおり阿達櫻。不機嫌な顔が篤志を睨む。視線はちょうど同じくらいの高さだった。
 険しい表情の櫻とは対照的に、篤志は肩で息をしながらも、懐かしい友達に会ったかのように笑う。
「ようやく出てきたな」
「………関谷か」
 うるさいやつに捕まった、と表情が語る。
「七瀬…は、喋らないな。蓮家の末っ子か」
「あぁ」
 肯定の意か感嘆詞なのか判別しかねる声調で篤志は息を吐く。切っていた息を区切るように深呼吸して、汗を掻いた顔で、篤志はおおらかに笑った。
「よかった。───元気そうで」
「…」
 嫌悪の対象を見て櫻の眼が大きく歪む。
 けれどそれはすぐに驚愕の色に変わった。
 篤志の表情に、別の人影が重なったからだった。
 けれどそれは一瞬で、すぐに視線を外す。眼鏡を外し、大きく広げた手のひらでおそるおそる両眼を覆う。その手は微かに震えていたが、顔に強く押し付けている。その下に見える口元は歯を食いしばっていた。
 少しのあと、櫻は空を仰ぐ。真夏の濃い青に、なにかを確認するように。
「櫻…?」
 篤志は訝しげに名を呼んだ。櫻の一連の動作の意味がわからない。
 3秒もしないで櫻は手のひらに視線を戻す。どこか安堵したような、嫌悪したような表情で軽く頭を振ると眼鏡を掛け直した。
「…櫻」
「なんでもねぇよ。気安く呼ぶな」
 篤志の手を払う。
「まさか、……今でも目がおかしいのか?」
「うるさい」
 心配するような問いかけが気に障ったのか櫻の声に苛立ちが混じった。
 篤志はさらに問いつめる。
「あの頃からずっと?」
「…───」
 糸で吊られたように櫻は顔をあげた。わずかな動作で眉をしかめて、掠れた声を押し出す。純粋な疑問をもって。
「───なんだって?」
「だから」
 目が、と言いかけて、声と口と、そして思考が停まる。縫い付けられるように櫻の視線に捕まったからだった。
 眼鏡の奥の目には珍しく表情が無い。彼がいつも自分以外のすべてに向ける厭悪も、見下すような薄笑いも、そのほかの色も無い。すべての感情を取り払った白い顔が篤志のほうに向いている。目を離せなかった。
 最初に危機感だけが訪れた。失言をした───篤志はそう直感する。
 自分はなにを言いかけた? 櫻はなにを気に止めた? その理由は?
「…!」
 危機感のあと、遅れてやってきた記憶に篤志の顔が歪む。
(しまった…ッ)
 それは表情に出てしまった。櫻は寸分の狂いもない正確さでそれを読み取った。
 読まれた、と篤志が解ったのと同じように。
 ──あの頃からずっと?
 それは10年以上前の記憶だ。
「…あぁ」
 息に乗せた微かな声は意外なほど明晰に篤志の耳に届く。
「───そういうことか」
 なにもなかった表情に色が浮かぶ。
 怖ろしいほどにゆっくりと、櫻は目を見開いた。







46話「リンケージ」  END
45話/46話/47話