46話/47話/48話
47話「青」


 Prologue
 01. 02. 03. 04. 05. 06.
 07. 08. 09. 10. 11. 12.







「きれいだね」
 幼い頃のぼやけた記憶のなか、母は空を仰ぐ。
 その母を仰ぐ。
 風が吹いていた。
「あたしはいつか、この空に溶けるの」
 胸のぬくもりにしがみつきながら、肩越しに、肌寒い大気が髪を浚うの見ていた。
「そうなったら、櫻くんのそばへも行けるかな」





 母はいつも笑っていた。子供のように、無邪気に。








01
 扉を開けると一面に青が広がった。
 空気が変わる。やわらかい風とあたたかい陽だまりに包まれる。眩しいくらい白い雲と、圧倒される蒼穹。
 屋上の手すりの向こう側まで一面の空、まるで高い塔の頂上にいるようだった。
 痛いほどの視線を感じて空を仰ぐとそこに太陽がある。手を(かざ)す。掴めないと分かっているのに、腕を伸ばす。地面に短い影が落ちる。
 汗ばんだ肌に、服の隙間から風が通り過ぎていく。
 短い髪が(いじ)られる。
 なにか大きなものに抱かれるよう。
 それはとても、心地よく。

「櫻!」
 背後から声がかかった。振り返る。赤日(せきじつ)に目が眩んでいたので、塔屋の影から出てきた顔がよく見えない。
 けれどもちろん、声だけで判る。
「咲子さん、見つかったって。今、婦長さんが叱りに行った」
「どこにいた?」
「東側の駐車場で捕まえたみたい」
「脱走!?」
「どうかなー。最近、無かったけどね」
「ったく、あの人は、病人だって自覚があるのかな」
「同感」
「目を離すと何するかわからないところは史緒と同じ、小さい子が2人いるみたいだ」
「それも同感。───それにしても、櫻が咲子さんを捕まえられないなんて珍しいね。いつもはすぐに見つけてきちゃうのに」
「う〜ん、てっきり屋上(ここ)だと思ったんだけどな。そっちこそ、史緒は?」
「婦長さんに預けてきた。僕らも行こう、そろそろマキさんが迎えに来るよ」
「今、行くよ。───亨」






 療養棟の阿達咲子の双子(こども)といえば院内では有名人だった。母親に似て明るく、快活に物言う様は周囲の目に気持ち良く映る。院内の老人や子供たちとも仲が良く、母親の見舞いに来た際にはあちこちに顔を出していた。
 2人は足早に廊下を進む。そのまま駆け出しそうな足取りだが、それをしないのはもちろん禁止されているからだ。それでも少しずつ速度が上がってしまうのは、2人が並んでいるせい。見知った顔に挨拶しながらでも自然とかけっこのようになり、2人は我先にと笑いながら廊下の先を急いだ。
 母の病室の前まで来たとき、目の前でドアが開いた。婦長さんが顔を出す。
「あら、2人とも、捜索ご苦労さま。咲ちゃん見つかったわ。本当に人騒がせなんだから」
「いつもすみません」
 共通の気苦労を持つ3人は顔を合わせてしみじみと息を吐く。
「ねぇ、史緒は?」
「咲ちゃんと一緒よ」
 お礼を言って入れ違いで病室に入る。その室内を見て、2人は目を丸くした。
「あれっ、お父さん!」
 日当たりのよい部屋の中には、ベッドの上で上体を起こしている母、その腕に抱かれている妹、それから窓際に立つ父がいた。
「だから咲子さん、いつものところにいなかったんだ」
「ごめんなさーい」咲子は肩をすくめて舌を出した。「政徳クンの車が見えたから」
 スーツ姿の政徳は2人の姿を眩しそうに見ると、仕事で硬くなった表情をほぐすように笑う。
「元気にしてたか? 2人とも」
 父に問われて櫻と亨は、それを証明するように手を上げて笑いながら答えた。
「咲子さんと史緒のおかげで風邪ひく暇もないよ!」
「ほんと!」
「ははは。史緒はどうだ?」
 咲子に抱かれている史緒は、政徳が顔を覗き込むと肩を震わせた。「元気だよ!」とぶっきらぼうに言うと、視線を外し、亨に手を伸ばす。構って欲しい合図。亨が咲子から史緒を預かると、史緒は亨の首に手を回して力を込めた。政徳は苦笑い。
「史緒はいつになっても懐いてくれないな」
「お父さん、あんまり家にいないから」
「史緒って、けっこう人見知りだよね」
 父を慰める子供たち。重ねるように咲子も。
「史緒の“お父さん”と”お母さん”は櫻くんと亨くんなのよね〜。とくに、亨くんにべったり」
「咲子さんは、櫻にべったりじゃない」
「そうそう、心配させてばっかり」
「あ、ヒドイ。政徳クンの前で」
 4人(、、)の子供を前にして、政徳はとうとう声を上げて笑った。
「亨が母親代わりだとしたら君はどうする。お役御免か」
「あら、いいのよ。あたしは史緒の友達でもあるんだから」
 胸を逸らして鼻を高くする咲子。そのベッドのもとに「僕も!」と群がる子供たち。その様子を政徳は目を細めて眺めていた。
「櫻」
「なぁに、お父さん」
「みんなのこと、頼むな」
 父からの意外な申し出に櫻はきょとんとする。けれどすぐに誇らしげに大きく頷いた。
「まかせて!」
「お父さん、僕は?」
「僕のほうがお兄ちゃんだもん」
 政徳は両手を広げて櫻と亨の頭を撫でた。
「2人がいるから、安心して出掛けられるよ」
 櫻と亨は顔を合わせて照れたように笑う。
 政徳は史緒にも手を伸ばす。「イイコでいるんだぞ」史緒は一瞬首をすくめたものの、顔を上げて笑って返した。
「政徳クン、あたしはっ?」
 と、咲子がねだるので、政徳は呆れたように咲子の頭にも手を置いた。
「将来的には、どちらかに父さんの仕事を手伝ってもらいたいな」
「お父さんの仕事!? このあいだ、連れて行ってくれたところ?」
「人がたくさんいたよね。また行っていいの!?」
「行きたーい!」
「行こー!」
 予想以上の双子の盛り上がりに政徳は慌てて付け加える。
「大きくなったらな」
 すると今度はブーイングが起こった。日頃、仕事柄、神経を擦り減らす交渉(化かし合い)ばかりしているので、こうも素直な反応を見ると新鮮な驚きがある。
「わかったわかった。じゃあ、年が明けたら一緒に香港へ行こう」
「え? 香港?」
「香港ってどこ?」
「え、蓮家のおじ様のトコ? 政徳クン、お呼ばれしたの? お仕事? まさか一人で? ずるい!」
「おとうさん、しおはっ?」
 抑えるつもりが、咲子と史緒まで参戦しての質問攻めに遭った。政徳はひとつひとつそれに答えていく。
「香港は外国、ずっと遠くだ。仕事も少しある。大老とはしばらくお会いしてなかったから、新年の挨拶も兼ねて。梶と行く予定だったが、櫻と亨も大きくなったし、あそこの兄姉と会っておくのもいいだろう」
「子供がいるの?」
「ああ、大勢な」
「行くー!」
「しおも!」
「咲子は許可が下りないだろう。史緒は今回は留守番」
「えーっ」
 そのとき、病室のドアが開いた。
「ずいぶん賑やかですね」
 両手に荷物を抱えて入ってきたのは阿達家の家政婦・真木敬子。そして櫻と亨がそうだったように、彼女もまた、室内を見て目を丸くした。
「あらまぁ! 珍しい、お揃いで」
 真木が大声を出してしまうくらい、阿達家の5人が揃うのは本当に珍しい。真木は荷物を下ろすと、ご無沙汰しております、と政徳に頭を下げた。
「久しぶりだな、真木君」
 咲子は大きく手を振って彼女を迎えた。
「マキちゃん、いらっしゃい! マキちゃんの好きな紅茶をいただいたの。ひとつ持っていって?」
「ええ、いただきます」
「あ、忘れてた。みんなには、お菓子あるよ〜」
「欲しー!」
「もらうー」
 咲子の采配で子供たちが気を取られている隙に、政徳は真木に耳打ちする。
「いつもすまないな。子供たちの様子はどう?」
「とくに大きな問題はありません。櫻くんと亨くんがしっかりしているので、私も楽をさせてもらってます。最近は2人のケンカも減りましたし。定期報告の内容は大袈裟なくらいだと思っていただいてよいと思います」
「…ケンカが減ったって、どうして?」
 なにか環境の変化が? と政徳が訊くと、真木はクスリと笑った。
「史緒ちゃんが一緒に遊ぶようになったからでしょうね。どちらも良いお兄ちゃんだから、ケンカどころじゃないって感じで」
「そうか。学校のほうは?」
「優秀ですよ、お友達も多いし。私も鼻が高いです」
「来春は史緒も学校だ、よろしく頼む」
「ええ。喜んで」
 目を向けると、子供たちは母の膝に群がり甘えている。父も母もめったに家に帰らないというのに、こうして笑顔を見せてくれることは本当に嬉しい。
 政徳は自他共に認める堅物の仕事人間であり、結婚するときに周囲から散々心配されたものだ。仕事の手を緩めるつもりはない、模範的な父親になれないことはわかっていた。それでもこうして、なかなか理想的な家族に囲まれているのは僥倖の至りではないだろうか。真木には本当に感謝していた。
 ピピッ
 室内の団欒を刺すように政徳の時計が短く鳴った。
「───」
 子供たちが振り返る。政徳は確認もしない。咲子は表情を曇らせない。ただ声は少し落ちた。
「梶くん、来てるの?」
「車で待ってる」
 咲子はしょうがないといった調子で苦く笑う。
「たまには顔見せてって伝えておいてね。───さぁ、みんな、もう時間みたい」
「えー」
「はい、準備する〜。婦長さんにまた叱られちゃうよ?」
「今日、叱られたのは咲子さんだけだよ」
「あぅ」
 史緒はまだ渋っていたが、櫻と亨は慣れた様子でバタバタと帰るしたくを始めた。
 もう面会時間が終わる。
 政徳も仕事に戻らなければならない。
「史緒、行くよ」
「また来るね、咲子さん」
 そうして咲子は笑顔で家族を送り出す。
「はい、行ってらっしゃい」
 ドアのところで全員が振り返る。いつもの言葉を口にした。
「行ってきます」



*  *  *



 阿達櫻が物心ついた頃から、父は家にいなかった。母もいなかった。
 同じ家にいた家族はひとりだけ。
 双子の弟、亨。
 僕らがお互いを「別の存在」だと理解するまでには時間がかかったという。
 一緒に産まれて、一緒に育って、一緒に遊んで、ごはんを食べて、寝て、学校に通って。外で友達と遊んでも、同じ部屋に帰る。
 目をつむっていてもわかる。隣にいる存在。それでも他のどの人間とも違う、近しい人間。
 だからこそ、同じなのにどうして伝わらないのか、他人なのにどうして解るのか、そのはざまのすれ違いがよくケンカになった。「櫻と亨のケンカは意味が解らない」と友達によく言われた。僕らからすれば、どうして解らないのか、そっちのほうが不思議だ。どうやら僕らは周囲から奇妙に思われるらしい。それは幼い頃から意識に染み付いていた。
 「家族」という概念を知ったのも、かなり遅れていた。
 「お父さん」はときどき会いに来てくれる人だ。優しい。おみやげをくれる。でも忙しいらしく、次の日にはもういない。「お母さん」という存在はいない。咲子は自分のことをそう呼ばせなかったから。なんでも、彼女は小さい頃から体が弱く、入院ばかりで、友達がいないのだという。「子供をたくさん産んで、友達になるのが夢だったの」。別のところで寝泊まりしている。僕らはそこに遊びに行く。いつも笑って迎えてくれる。
 他に家族といえば、マキ。家にいてごはんをつくってくれる。怒ると怖い。ケンカの仲裁役。イタズラをして叩かれたこともある。
 遅れて生まれた妹、史緒。一気に家がにぎやかになった。
 ───父と母がいないことが淋しくなかった訳じゃない。他の多くの友達の家と違うことで悩まなかったわけじゃない。それでも仲の良い弟と妹がいたし、病院へ行けば母とも会えたし、父もできるかぎり時間を取ってくれた。恵まれているという自覚はあったし、悲観することもない。家族に対して、声を大きくして言うほどの不満はなかった。


 夜。櫻と亨はベッドの中で宿題をしていた。並んで毛布をかぶり、胸の下に枕をおいて、教科書とノートを突き合わせる。灯りは枕元のスタンドだけ。マキに見つかると「ちゃんと机でやりなさい」と叱られるのだが、「この姿勢がいいんだよね」と2人は密かに笑い合う。
 宿題が一段落すると2人は毛布の中でお喋りを始めた。いつもそれで夜更かしして、やっぱりマキに叱られるのだ。
「今日、お父さん来たじゃん?」
「うん、びっくりした」
「僕らのどっちかに仕事を手伝って欲しいって言ってたけど」
「大きくなったら?」
「あれって、2人でやればいいよね」
「それイイ! お手伝いは多いほうがいいに決まってるもん」
「うん」
「2人でなら面白そう」
「じゃあ、約束」
「いいよ」
「一緒に、お父さんの仕事を手伝おう」
 わずかな明かりの元で、2人、頷き合う。
 こうして交わした約束は(たが)わない。
 今までそうしてきたように。
「…シッ」
 遠くで声がした。
 それが妹の史緒の声だとわかると、顔を見合わせて同時に布団を剥いだ。
 部屋を抜け出して、冷たい廊下を素足で走る。
 史緒は2階のマキの部屋にいる。もうとっくに寝ている時間なのに。
「マキさんっ」
 ノックをしてから2人でなだれ込むと、マキは眉を吊り上げた。「まだ起きてたの?」
 ぐずる史緒を腕に抱いてあやしていた。
「史緒、どうしたの?」
「怖い夢でも見た?」
 声と息を詰まらせていた史緒は、2人の姿を見ると火がついたように泣き出した。マキはその小さな体をやさしく抱いて頭を撫でる、それでも史緒は泣きやまない。
「…とーるくん、…さくらくん」
「ん?」
 顔を覗き込んでも、史緒の声は言葉にならなかった。マキが困ったように言う。
「今日、病院に行ったから、咲子さんが恋しいみたいで」
 櫻と亨は顔を見合わせる。頷く。
「史緒」
「僕らの部屋に来る?」
「…え?」
「一緒に寝ようよ」
「…、うん!」
「寒いから上着を着て」
「スリッパも」
 動き始める双子。それに手を引かれて史緒。
 仲の良い兄妹にマキは笑う。
「あまり夜更かししないで、早く寝るんですよ」
「はーい!」
 櫻と亨は眠気も吹っ飛ぶ元気の良さで答えて、史緒を連れてマキの部屋を出た。
 2人の部屋に戻ると寝床を整える。史緒を挟んで3人は並んで布団にもぐった。
「とーるくんとさくらくんは、おとうさんのところへ行っちゃうの?」
 ようやく泣きやんだ史緒が、暗闇の中で不安そうに尋ねる。
「は?」
「ほんこんへも連れて行ってくれないし。ひとりになっちゃう!」
「それを心配してたの?」
「お父さんの仕事を手伝うのは大きくなってからだよ」
「香港へ行っても、すぐに帰ってくるって」
「ほんとに?」
「ほんと」
「ほんとにほんと?」
「ほんとだってば。僕らはずっと、この家にいるよ。史緒もそうだろ?」
「うん。一緒にいようね」
 史緒は布団の中で2人の腕に触れた。
「とーるくんと、さくらくんと、しおで」








02
 人の気配を感じて窓の外を見ると、亨が庭先で夜空を見上げていた。
 夕食のあと、姿が見えないと思っていたら、そんな所にいたらしい。寒いのに。
 窓からの明かりが照らす、暗い庭に亨はひとり立つ。
 亨が、今、なにを考えているのか、櫻にはあたりまえのように分かった。
 「亨」が「今日」、「夜空」を見上げている。それだけで今の天気も判る。おそらく、雲が少なく、晴れて、月や星が出ている。亨は星を見ている。月や雲や外灯ではなく、星を。
 なぜ、分かるのか。
 答え。夕食前に2人でSF映画を見ていたから。それも、人類が他の星へ移住する話。
 このように、相手の今までの行動を知っていれば、その先の行動の意味を知るのは難しいことじゃない。亨以外の人───毎日、顔を合わせている家族や友達に対しても同じ。ときどき、彼らの言葉の先や行動の予測を口にして驚かれることがあったけど、「ツーと言えばカー」「以心伝心」という言葉もある、特別なことじゃないのに。
 驚かれることが面白くて、つい口にしてしまう。
 亨は驚かない。同じように解っているからだ。ただ、亨は解っていても言わないようにしているようだった。
 僕らは、他の人の言動を必要以上に注視してしまう癖があった。
「宇宙船の中でさ」
 庭に下りると、やはり星がよく見えた。白い小石を散りばめたような空が広がっている。
「うん?」
 亨は振り返らずに話の先を促す。
「トラブルがあって、地球(ホーム)と連絡が取れなくなって、数百万の移民はどうにか辿り着いた星で、その厳しい環境の中でもどうにか生き延びていて」
「うん」
「450年後に、地球の人間と再会する、と」
「そういう話だったね」
「そこで疑問に思ったんだけど」
「うん」
「そんなに長い間、完全に分かれていた人類が再会したとき、同じ言葉を喋ってるかな」
「……」
「450年っていったら、遡れば日本では織田信長あたりだよ。文字も違うし、言葉だって通じるかわからない。地球と移住星じゃ、文字も言葉もそれぞれ別の方向に変わってるかもしれない」
「同じ形態(からだ)をしているかも危ういよね。その星に見合った独自の進化をするかもしれない」
「あ。同じこと考えてたな」
「まぁね」
「もっと言えば、お互い分かり合えるだけの正しさやルールを持っていないかもしれない。別の歴史を持つわけだから、これはあると思う」
「喧嘩になるね」
「うん」
「映画のように、再会してメデタシというわけにはいかないかな」
 見上げている星空が急に不吉の象徴のように思えて、櫻は地面に目をやった。
「…離れてるっていうのは怖いね。僕と亨も、長い間離れていたら、それぞれ変わるのかな」
「今は見分けがつかない人もいるくらいなのにね」
「見て分からないほど変わっちゃうかも」
「でも」
 そこで振り返った亨は、思いの外、明るい表情で笑った。
「近くにいても、変わるものは変わる。僕も櫻も、これからどんどん違くなっていくと思うよ」
「淋しいこと言うなぁ」
「どうして? 一緒にいれば、変わっても分かり合える。例え離れても、僕は櫻を見つけられる。心配しなくていいよ」
「…けっこう、楽観的だな、亨は」
「櫻はいろいろ考えすぎなんだよ」
「そうかな」
 2人で笑い合う。
 背後で引き戸が開く音がした。
「2人とも、そろそろ中に入って。史緒ちゃんが2人のマネして、なかなか寝てくれないから」



*  *  *



 その日も晴れていた。
 いつものように、咲子のお見舞へ行く。真木が運転する車の中では3人の大合唱だった。櫻と亨が学校で習った歌を史緒に教えたためだ。暴れすぎて真木の拳が飛ぶ、それでも3人は悪びれもせず笑い合っていた。
 途中の花屋さんの店先で見つけた花を買った。咲子のお見舞いに。
 きれいな赤い花を、小さな花束にして。
「さきこさん、今日はちゃんとお部屋にいるかなぁ」
「あははっ。信用ないからねぇ、あの人は」
「普段の行いがアレだもんなぁ」
 病院について、真木が受け付けを済ませている。もう慣れているので、子供たちはロビーの椅子に座って大人しく待っていた。
「あっ、阿達さんのところの…」
 廊下の奥から慌ただしそうに看護婦がやってきた。真木に近づき、深刻そうな顔でなにやら耳打ちをする。
 真木は表情を変えた。一度、子供たちのほうに目をやってから、看護婦に深く頷いて返す。
「なにかあったのかな」
「看護婦さん、怖い顔してたね」
 櫻と亨が首を傾げていると、真木がこちらにやってきて、明るい声で言った。
「みんな、今日はお見舞いだめだって。このまま帰りましょう」
「えーっ!」
「どうして?」
「今日は難しい検査をしているらしいの。ほら、今までも何度かあったでしょ? 検査は夜までかかるから、今日は病室に入っちゃだめなの。今日は帰って、明日か明後日、また来ましょう?」
「顔を見るくらいいいじゃん!」
「そうだよ、ちょっとだけ!」
「───だめよっ」
 真木が厳しい声を出して、子供たちは肩をすくめる。史緒は亨の手にしがみついた。
 ひとつため息の後、真木は表情を和らげて言う。
「病院の先生たちに迷惑かけない、ちゃんと分かってるでしょ?」
「…はーい」
「ごめんなさい」
 しぶしぶと返事をする櫻と亨。
 受付のほうから看護婦が手を振ってきた。
「真木さん、ちょっといいですか? お話が」
「はい、ちょっと待っててください。…いい? ここにいてね」
 そう言い添えて、真木は受付のほうへ行ってしまった。
「さきこさん、会えないの?」
 史緒があきらかに不満そうな表情で言う。
「うん、今日はだめだってさ」
 亨は史緒の手をとって宥めた。
 櫻は手の中にある花束を見た。それからそっと真木のほうを伺う。
「───亨、史緒を見てて」
「え? おいっ、…櫻!」
「すぐ戻るから!」
 櫻は受付から見えないようにして走り出していた。
 お見舞いに買った赤い花束を手にして。


 病室の前まで来ると、ちょうど看護婦が一人、出てきた。櫻は慌てて椅子の影に隠れる。看護婦は怖い顔で、櫻と反対方向へ足早に駆けていった。
(あれ? いつもは走ってると叱られるのに)
 さっきの受付の人もそう。
 なんだか、いつもと様子が違う。
 そっとドアに近づき、音を立てないように、ゆっくりと開ける。
「…咲子さん?」
「がは…っ!」
 ベッドの上の人影が跳ね上がった。
「───」
 ベッドの周りには大きな機械がたくさん置かれている。それらは息苦しくなるような掠れた音と、奇妙な電子音が規則的に鳴っていた。その機械から細いケーブルが無数に伸び、咲子が眠るベッドへと伸びている。
 咲子はベッドの上にいた。聞いているほうが胸焼けを起こしそうな、耳が痛くなる、激しい咳を繰り返す。その合間の浅い呼吸が痛ましい。
 仰向けの姿勢が辛いのか、上体をあげ、毛布を握りしめ、呼吸器をむしり取る。壊れた操り人形のように肩が揺れて、姿勢が歪む。涙を滲ませて、まるでこの大気そのものが毒であるように苦しみ、藻掻いた。
 それは櫻が知る母とは異なる姿だった。
「咲子さん…っ!」
 その背中をさすってやりたくて、櫻はドアを開け放った。
「───櫻!?」
 咲子の声は音にならない。咲子の口から出たとは思えない奇妙な音を喉が鳴らした。櫻は赤い花束を捨てて、機械のあいだをすり抜けてベッドに駆け寄る。
「大丈夫っ?」
「櫻っ、来ちゃだめっ! ───…見ないで!」
 咲子は櫻の手から逃れるようにベッドの端へ寄る。
「ぃ…っ、───っ」
「咲子さんっ! 苦しいのっ?」
 いつも笑っていた顔が苦しみに歪む。喘ぎながら伸ばした手はなにかを求めているのに、櫻の手を拒む。
 櫻は強引にその手を取った。
「咲子さんッ!」
「さく…、…───ぐっ」
 声帯が破れるような音が鳴って、咲子は吐血した。

 視界が赤く染まる。

「───」
 視界が効かなくなった。
 顔に温かいものがかかった。そう、それは熱い。
 咲子の顔が見えなくなる。
 強く抱きしめられた。その腕と胸の温かさはよく知っている。
「さ…くら、…っ、がッ、…ふ」
 びしゃ、と液体が鳴る。正体がわからないのに、それはおぞましいものだった。
 強く抱きしめられたまま、頭に熱い液体がかかる。
「…、…さくら…っ、ごめ、なさい…っ」
 咲子の声───もう、それは声ではない───に悲鳴が混じる。


 母の手が震える。離れない。

 まるで秋風のように肺が鳴っている。

 耳のそばにある心臓は、不器用に強く動いていた。



 視界が赤く染まる。黒と見まごう赤。───熱い。
「───」

 目を閉じることができない。

 思考さえ、赤く染まった。









03
 その日。

 わかったこと。
 わからなくなったこと。


 脳を刺す鮮血。神経にまとわりつく鉄の匂い。冷たい温かさ(、、、、、、)
 母の笑顔の嘘。
 嘘。
 笑ってくれていたのは見せかけ。苦しかったのに。血を吐くような内蔵がどんな状態か。怖い。咲子さん。無理して笑っていた。病気だと知ってたのに。その苦しみを。理解していなかった。
 やさしいだけの世界に浸かっていた自分。
 それと知らず、欺かれ続けていた毎日。
 本当は辛いことなんてたくさんあるのに。悲しいことも苦しいこともそこかしこにあるのに。
 やさしいだけの世界の外側には、いつも現実があったのに。
 なにも見えてなかったんだ。




 目が覚めたとき、別の世界へ来ていた。
 やわらかい枕とシーツの上に寝ていて、毛布はあたたかかった。
 大きな窓があって、大きな空があった。
 空があった。
 ちゃんと、それが空だと分かった。
 目覚める前までの世界とは明らかに違う。
 赤いのに(、、、、)、それが空だと分かった。まるで赤色のセロファンに眼を覆われているよう。
 それを知覚した途端、どっと吐き気が込み上げた。脳が大暴れして、色覚の異常を訴えている。
(…だいじょうぶ)
 自分で自分の脳を宥める。
(だいじょうぶ。きっとこれが、この世界の色なんだ)
 頭の中で警報が鳴り響いている。
(こっちが本当の色なんだよ)
 頭の中で警報が鳴り響いている。
(やさしいだけの世界じゃない世界に来たんだよ)
(だからだいじょうぶ)
 脳は体に頭痛と目眩と耳鳴りを命じて、それを実行させている。
 この体の中で、思考だけが穏やかだった。
(だいじょうぶだよ…)
 涙が溢れ、流れた。それを拭う気にはならない。
 他に誰もいない病室は空気を揺るがすものが無い。喋り声も衣擦れもない。さわやかな風だけが音も無く流れる。ゆるやかにカーテンが揺れた。
 窓の外には大きな空が広がって、暖かい日差しが室内に差し込んでいた。
 真木がやってくるまで、櫻はその空を見ていた。



 真木の運転する車の後部席で、ひとり椅子に凭れる。
 体の力を抜いて、車の揺れに身を任す。エンジンの音と、真木の声がやたらと遠くに聞こえた。
 体調は最悪。意識の半分は眠っているような感覚。けれど、頭はいつも以上に冴えていた。
 これから帰り着く家、そこで待つ人。そこにあるやさしさ。嘘。騙し、騙すこと。今まで見逃していた笑顔の向こう側。
(───…)
 窓の外はもう暗い。
 黒い空は赤いセロファンをかぶせても、やっぱり黒かった。

「さくらくんっ」
 ぱたぱたと近づいてくる妹を見る気持ちが、今までと明らかに違う。
 無知で、愚かなものだ。
 まだやさしいだけの世界にいる妹はもちろんなにも変わっていない。変わったのは自分のほう。それは分かってる。ただ、その愚かさがとても汚らしいものに見えた。今までの自分も、そんな風に見られていたのだろう。
 まだ残る吐き気に口を抑えると、史緒が心配そうな声を出した。
「ねぇ、ぐあい悪いの? へいき?」
 まだやさしいだけの世界にいる妹へ。もしかして笑わなければいけないのだろうか。咲子のように。なにも知らない人間を騙すように。
「ああ、平気だよ。なんともない」
「……さくらくん…、どうしたの?」
「なにが?」
「こわいかおしてる」
「───」
 無防備に覗き込んでくる。その無垢な顔に腹が立つ。
 思わず自分の手のひらを見る。白い手のひらを見て色覚を確認する。異常警報が鳴っている。動悸が高まり耳鳴りが止まらない。
(大丈夫だって言ってるだろッ)
 歯を噛みしめて体を黙らせる。もちろんそれで収まるわけではない、一時の凌ぎになるだけだ。
「さくらくん?」
「───亨はどうした」
 強い声に機嫌の悪さを察知したのか、史緒は少し怯えた様子で一歩下がった。
「櫻!」
 同じ顔の少年が駆けてくる。心配そうな表情で、気遣うように櫻の手を取った。
「倒れたって、大丈夫なの? なにかあった?」
 すぐそこにあるのはやはり知っている顔で、知っている表情だった。
 本気で心配している。
 亨はまだ、あちらの世界にいた。
 まるで水の中にいるよう。亨の顔が赤い色の中に沈む。櫻は溺れかけて藁を掴むように衝動的に自分の手のひらを、次に窓の外を見た。夜なので空は見えない。櫻は舌打ちした。
(分かってる。変わったのは自分だ)
「…櫻?」
「なんでもない」
「そんな青い顔してなんでもないわけないだろ。目? どうかしたのか?」
「!」
 頭がカッとなった。
「なんでもないって言ってるだろ!」
 あれだけの動作で亨は見抜いてきた。そういう相手だということは解っていた。それくらい、本当に近い存在だったから。
 大声を出したことに史緒は縮こまり、亨にしがみつく。どこか不安を孕んだ瞳がこちらを伺う。
 亨はまだなにか言いたそうな目をしていたが口を閉ざしていた。これ以上、史緒の前で言い合う気は無いらしい。
「今日はもう休むよ。亨、僕の部屋(こっち)には来ないで」
 2人の横をすり抜けて歩き出す。亨の視線が追ってきたのは分かっていたけど無視した。
 廊下に足音が響く。ひとつだけ。自分の足音だけが。



*  *  *



 晴れた日に空を見上げるようになった。
 そこになにか感銘を受けるわけじゃない。色を確認するだけだ。
 冬の空は深さより広さを感じさせる。大気は冷たく澄んで、短い髪を梳いていく。広い空は吸い込まれそうに───赤い。
 あの日の残像。きっと、本当の世界の色。
 けれど、生まれたときから頭に染み込まれている色と、今この眼が見ている色の違いに相変わらず脳が騒いで、吐き気が込み上げる。見えているものは違う、それは違うと。
 本で調べてみると、赤く見せているのは眼ではなく脳の方だとわかった。
 眼は入力装置、ただのレンズにすぎない。入力された情報を処理するのは頭。形も、そして色も。
 太陽光に含まれる青は、大気中の塵やゆらぎにぶつかって散らばる。それがヒトの目には青く映る。朝夕は太陽の入射角が浅く、大気中の通過距離が長い。そのぶん衝突が重なり、青は散らばりすぎて地表まで届かない。赤が残り、ヒトの目に映る。
 それなら、この眼は塵が多すぎる空を見ているようなものだ。
 とりたてて不可思議なことが起こっているわけではない。
 それでも何度も、赤い空を見上げてしまう。
 自分が「やさしいだけの世界ではない世界」にいることを確認するために。



 咲子に会った。気持ちが落ち着くまでもう少し時間を置きたかったが、呼び出されたので行かないわけにはいかなかった。
 亨も史緒も、真木もいない。ひとりで病室へ入った。
 あの日、この部屋を埋めていた大きな機械はない。息苦しくなる電子音もない。暖かい日差しが差し込む室内はいつものとおりだ。そして咲子もいつもどおり、ベッドの上で上体を上げている。苦しそうな様子は無かった。そのことに心から安心した。
 けれど咲子の表情は違った。いつものような浮かれた様子は無く、落ち着いて、探るような目を向けてくる。
 櫻は咲子がそうしていたように笑った。
 そうやって騙し合うことが、この世界の流儀なら。
「こんにちは、咲子さん」
 いつものように笑ってくれると思った。
 いつものように、本当に病気かと疑うような明るい声を聞かせてくれると思った。
 子供のようなことを言って、婦長や真木を困らせて、叱られても悪びれず、笑ってくれると。
 そうやっていつものように、安心させてくれて、また、こちらからも安心させるのだと。そうやって騙し合うのだと。
 けれど。
「そんな顔で笑わないで」
 咲子の表情は、とても悲しいものを見たかのように歪む。そこに絶望さえ見えるほどに。咲子はベッドに伏した。
「櫻…、あたしのせいなの───?」
 ちゃんと、笑ったつもりだった。
 咲子と同じように笑って、安心させてあげられると思ってた。
 苦しみや悲しみ、見せかけの世界にいたこと、自分の無知を知ってしまったけど、見かけだけは「やさしいだけの世界」と同じになるよう、頑張って笑ったつもりだったのに。
 それが咲子を悲しませるのなら、そんな努力は無駄だということだ。

 それなら無理に笑う必要はない。騙し合う必要もない。
 この「やさしいだけの世界じゃない世界」に、本気で接しよう。








04
 約束通り、香港へ行った。史緒と咲子は同行してない。
 父の友人だという蓮家の当主はかなり高齢で、その子供は13人いる。一番上は20代半ば、一番下は4歳だった。
 それぞれ難物で、とくに長男は清廉潔白を絵に描いたような人柄に加え文武両道。しかも周囲の評価に差異は無い。口数は多くないが足りないわけでもなく、人好きのする口調と表情と日本語で櫻と亨に挨拶をした。けれど、彼はこの特殊な家の中で、12人のそれぞれクセのある弟妹たちをまとめ、実質的に従えている。そのことから、穏和なだけであるはずがないことが解る。仲が良いとは思えない弟妹たちも彼の言葉に逆らえなかった。畏れではなく、彼が持つ「蓮家の長男」という肩書きとそこにある人格に忠誠心を持っているかのようだった。
 一方、彼のすぐ下の妹はとにかくうるさくて、気に入らないことは口にせずにいられず、辛辣な言葉を吐くのに物怖じしない、手を上げることを厭わない性格だった。これで医者を目指しているというから呆れる。
 兄姉総じて末妹に甘いという特徴もあった。その末娘は亨のことを気に入ったらしく、滞在中、ずっと亨の後をついて行動していた。

 末娘が亨を振り回してくれているおかげで、櫻は亨と離れる時間ができた。亨といると、しつこく問い掛けてくるので櫻は極力避けるようにしていた。
 屋敷内をうろついていると何人かの兄姉が声を掛けてきたが、適当に流してその場を後にする。敷地内の一部を除いて自由に出歩く許可を得ていたので、櫻はできるだけ人気(ひとけ)の無いほうへ足を運んだ。
 蓮家の敷地はとにかく広い。建物だけでなく、公園や草原や小高い山までも。

 見晴らしの良い場所に出て櫻は足を止めた。季節は冬なので、緑が色濃いとか草花が繁っているということはない。寒々しい景色だ。
 けれど、その広さに、はるか遠くまで広がる自然に胸を打たれた。
 こんな眼でも、景色に感動する機能があることに気付く。
 ───この眼の赤いセロファンはときどき外れることがあった。元の、「やさいいだけの世界」に戻ったのかもしれない。安堵か嫌悪か、複雑な感情が胸に灯る。戻れて嬉しいのか、戻ってしまって気色悪いのか。それを悩んでいるうちに、視界は赤に戻る。そのときも安堵か嫌悪か、諦めに近い気持ちが過ぎった。
 けれどもう、それもどちらでもよかった。麻痺したのかもしれない。もう、なにが正常でなにが正常でないか区別できなくなっているから。
 意識しないとこの眼が何色を見ているのかも分からない。
 櫻は長い時間、その場所にいた。その間、晴れ渡った空が青く見えることはなかった。まるでこの眼が拒むように、空だけは青く見えなかった。
「……っ」
 冷たい風に吹かれて身震いした。
 他に誰もいない草原で独り。まるでこの世界に独りだ。
 思考が命じるより先に指が眼球に伸びる。目蓋の(きわ)に触れる。頭蓋骨と眼球の隙間がわかる。
 そのまま指を押せば、眼球は飛び出るだろう。櫻は指に力を込めた。本当に力を込めた。眼球が飛び出るより先に、眼球が潰れそうだった。
 櫻は日没までその場を離れなかった。



「櫻」
 部屋に戻ると亨がやってきた。あからさまに嫌な顔を見せても亨は気にしない。遠慮なく至近距離に入ってくる。こちらの意を汲んでやめてくれればいいのに。といっても、亨は気が利かないわけではない、分かっていて、強引に近づいてくるのだ。
「今日、どこにいたんだよ、蘭と探してたのに」
 蘭、というのは蓮家の末娘の愛称だ。
「なにか用があったのか?」
「一緒に遊びに行こうと思って」
「俺に構うな。勝手に行ってこい」
「───櫻」
 亨の呼び掛けが櫻の足を止める。
「眼鏡、似合ってないよ」
「そうかい」
「度が入ってないじゃないか」
「関係無いだろ」
「なにに苛立ってるんだ」
 亨が腕を握ってきて、逃がすまいとする。
「このあいだからおかしいよ。手のひらになにかあるの? 空になにかあるの? 眼鏡だって………、そうだよ、目に、なにか」
 櫻がまっすぐに見返したことで亨は言葉を閉じた。
 櫻は久しぶりに亨の顔をまともに見る。同じ顔だということはわかってる。以前は別の存在だと分からないほど同じだったのに今は違う。
 あの日までは、同じだったのに。
「櫻?」
「亨には、見えない?」
「なにが?」
 同じだったのに、もう違う。分かれていく。別れていく。離れていく。放れていく。もう戻れないことは、あの日、目覚めたときに解っていた。
 あんなに近くにいたのに。
「亨、青ってどんな色?」
「どんなって、空の色だね」
「───」
 笑えなかった。
 どうして亨はこの眼を持たない? 同じ顔が、なにも知らずに馬鹿みたいに笑っているのは無性に腹が立つ。いつまでもそっちの世界にいないで、ここに来ればいい。そうすればイチイチ苛つかなくて済む。
 亨も早くこの眼を持てばいい。
 そうでなければ目の前から消えて欲しい。
 目の前で笑わないで。
 あの晴れた冬の日は櫻を変えた。亨もなにかに因って変わればいいのに。
「へぇ。空の色って、青いのか」
 無意識に嗤っていた。
 吐き気と頭痛と眩暈はいつも一緒にやってくる。額の内側ががんがんするのが、吐き気なのか頭痛なのか眩暈なのか判らない。区別する必要もないかもしれない。
「櫻?」
「そろそろ離してよ」
 史緒を相手にしてもここまでは苛つかない。自分と似ているからこその苛立ちだ。
 目の前から消えてくれればいいのに。
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
「以前は言わなくても分かってたよ」
「それは」
「わかってるよ、亨のせいじゃない。俺が変わったんだ」
 見ていたくない。
 亨は声を張り上げた。
「櫻になにかあって、それで変わったって櫻は櫻だ。それより、話してくれないことが嫌なんだよ」
「話してどうなる?」
「少なくとも、僕が櫻を理解できる。櫻が悩んでることについて、一緒に考えるよ」
「そんなのいらない」
 失笑が込み上げる。言ったところで亨はこの眼を持たない。「やさしいだけの世界」から抜けることはなく、無知で愚かで、騙されているだけの世界にいる。
「俺は悩んでなんかないよ」
 それなら同じ世界にいる史緒の面倒を見ていればいい。自分のことは放っておけばいい。
「確かに以前からは変わったけど、今は頭が冴えてて、いい気分なんだ。放っておいてくれていいよ」
 変わってない自分を見たくない。変わった自分を見られたくない。この眼を持たない自分と比較したくない。
 疲れるから。嫌になるから。みじめになるから。



*  *  *



 香港から帰って数ヶ月。春。
 咲子が外出許可が取れたと騒ぐので、別荘に行くことになった。
 櫻は留守番を申し出たが、別荘へは真木も同行する、家に一人残していくわけにはいかない、と説得された。咲子が全員一緒じゃなきゃヤダと駄々をこねたせいもある。
 別荘は山の中にあって、季節柄、桜が満開だった。
 不快ではない程度の強い風があって、花が散り、舞っている。
 史緒は声をあげて庭に駆けていった。そのあとを亨が追う。櫻はその様子を部屋の中から見ていた。
 冬を越した芝は濃く色付き、それを埋めるように花びらが舞い降りていく。連翹と雪柳も列を作るように満開だった。その花々の中を、史緒と亨は走り回っていた。
「櫻くん」
 咲子が隣りに立った。その姿が赤いセロファンの向こう側にある。あの日のことを思い出して感情が暴れた。それを気付かれないよう、眼を逸らす。
 咲子に会うのも久しぶりだった。思い返してみれば、あの日の後、一度呼び出されて以来だ。気まずい状態で別れたのに、咲子はまるでそれを忘れたとでも言うように、また、微笑う。
 そうやって櫻を騙す。
「亨くんとケンカでもした?」
「そう見えるのならそうなのかも。でもよくあることだよ」
「そうだね。小さい頃は、元気な男のコ2人でケンカが始まると、あたしはもう手を出せなかったもん」
 それを思い出したのか、咲子は楽しそうに笑った。櫻は笑わない。もう無理して笑うことはやめている。
 咲子は声を改めて言った。
「…なにが、気になってるの?」
 さすがに、「なにかあったの?」とは訊いてこない。咲子は当事者だ。
 櫻が答えないでいると、咲子は軽く息を吐く。
「櫻くんは亨くんと違って、いつも一人で抱え込んじゃうから」
 気遣うような、心配するような声で櫻の本心を引きだそうとするのは亨とよく似ている。
「昔してた喧嘩って、ほとんどは亨くんのほうから仕掛けてたでしょ? それってお兄ちゃんに甘えてるのよ。悲しいことも気に入らないことも、櫻くんには遠慮無くぶつけられたの」
 櫻は鬱陶しそうな態度をあからさまに見せて、それをやめさせようとした。しかしその意を汲まずに話を続けるのも、亨と同じだった。
「櫻くんは、…なんて言えばいいかな、“自分はお兄ちゃんだから”って、責任感があるのよね。簡単には口にしてくれない、亨くんにも史緒にもマキちゃんにも、あたしにも見せない気持ちを持ってるんじゃないかなって、心配になるのよ」
「心配なんかいらない!」
 思わず声が荒れる。
 咲子の母親面が癇に障った。
「俺の心配なんかいらない!」
 あんなに苦しんでいた咲子、吐血するほどの病気を抱えているのに、どうして他人の心配なんかするんだろう。
「櫻くん…」
 咲子の病気は治らないのだろうか。ずっと苦しんできて、これからもその体を抱えて生きるの? 
 いつも笑ってる姿しか知らなかった。物心ついた頃からその笑顔があって、亨とケンカしても真木に叱られても学校で嫌なことがあっても、やさしく迎えてくれた。抱きしめてくれた。ときどき子供のような言動があって、自分たちがこの人から産まれたなんて想像できなくて。でもその存在に支えられていた。
 その体があんなに苦しみに歪むことがあるなんて。
 無知だった。知らなかった。知ろうとしなかった。馬鹿だ。やさしい笑顔だけ信じて、疑おうともしなかった。その体の苦しみを解ってあげられなかった。あんなに、苦しんでいたなんて。
「櫻くん、見て」
 咲子は窓の外を指す。
 文字通りの桜吹雪は見ていて飽きることがない。赤いセロファンかかっていても分かる。風が花を(さら)い、花が空に舞う。幻覚を見てしまいそうな、視界を埋め尽くす桜景色だった。
「櫻くんと同じ名前の花だよ」
「知ってるよ」
「その名前、イヤだった?」
「別に」
「咲子から生まれるのは“春の花”。ずっと前から決めてたの。子供が生まれたら、桜と名付けようって」
「…へぇ」
「櫻」
「なに」
「あのね、桜の花言葉にはこんなものもあるの」
「?」
「“あたしをわすれないで”」
「────」
 一陣の風が吹く。その風の向こうで、咲子は幸せそうに微笑った。
 その想いを形にできた満足感からか、それを本人に伝えられた達成感からか。咲子は曇り無く微笑った。

 喉元に刃物を突きつけられた気がした。
 咲子がとても遠くになる。赤に埋もれるように。

 咲子はそれを口にすることで櫻になにを伝えたかったのか。
 愛情? 笑わせる。押し付けだ。
 満足感? 達成感? 違うよ、そんなことを言われても嬉しくない。とても怖いのに。
≪あたしをわすれないで≫
 いなくなる(、、、、、)ことが前提?
 託されていた。生まれたときから、その名を以て。そんな重いものを。

「……ッ」
 胸でなにかが破れた。
 大声をあげたい。
 「櫻」を殴りたい。「櫻」をひき千切りたい。「櫻」を潰したい。
 部屋を飛び出す。
 背後で咲子が自分の名を呼ぶ。さっきまでとは違う、その名前はもう嫌いだ。もう、嫌いになった。
 そのまま玄関を出て、花の嵐の中へ、目的も無く駆けた。
(いやだ)
(そんなもの押し付けないで)
 花びらで視界が霞む。赤い空さえも覆う吹雪。その中を走った。錯乱していた。
 芝の上には冬の枯葉や枯れ枝がそのまま落ちていて走りにくかった。地面を蹴るたびにパキポキと小枝が折れる。
 桜吹雪の道を一心不乱に駆ける。このままどこかへ行ってしまいたかった。消えてしまえると思った。
「櫻?」
「!」
 吹雪の中から、自分と同じ顔が出てくる。その顔がくったくなく笑った。何度突き放しても、変わらず笑いかけてくる、同じ顔。
 以前は自分もそんな表情ができていたことが信じられない。
 もう、笑えないのに。どうして目の前にあるの?
「見ろよ。きれいだよ」
 手を広げて、吹雪の中に埋もれる。そのまま、消えてしまうように。
「……ッ」
 歯軋りが体内に響く。
 自分はもうそんな風には笑えない。笑えなくてもかまわない。だから、目の前で笑うのはやめろ!
 もう、見せないで。比べさせないで。
 惑わされそうな、酔ってしまいそうな桜の嵐。
 横で同じ顔の少年が笑っている。その横顔に見入る、笑えない自分。
 どこかで声がした。
 史緒だ。近くにいるらしい。同じ顔の少年は踵を返した。
(──…)
 櫻は腰を下ろし、両腕で握れるほどの尖った枯れ枝を手に取る。自分と同じ名前の花の中に消える背中に向けてそれを振り上げる。そして力任せに振り下ろした。
 確かな手ごたえがあった。
 あの日と同じような赤が視界に吹き上がる。あの日と同じように顔に温かいものが飛び、あの日と同じようにむせるような鉄の匂いがした。
 この日、阿達亨は死んだ。








05
 思わず嗤ってしまったのは、史緒が見ていたから。

 亨が倒れるのを。
 鮮血が芝を汚すのを。
 そこに花が散っていく様を。

 図らずも同じものを見た。
 ───さぁ。
 次に目覚めたとき、どちらの世界にいる?


 花の嵐の向こう側から、咲子の声を聞いた気がした。

 そのあとのことはよくおぼえていない。






 1週間のあいだに亨の葬式は意外なほどすんなりと終わった。
 たくさんの大人たちが目の前を行き交う中、櫻は気の利いた行動を取れなかった気がする。体に軽い痺れが残る、花の中に倒れた「自分」の幻影の、余韻がなかなか消えなくて。
 史緒はずっと寝込んでいた。
 こっちには来られなかったのだ。もしかしたら同じ眼を持つかもしれないと思ったのは期待外れで、史緒は櫻を見ては悲鳴をあげ、怯え、部屋に逃げ帰っていた。
 咲子は何故かほとんど家にいなかった。
 病院にもいない。彼女にしては珍しく、外出と外泊を続けていたという。葬儀の参列はしたものの、それ以外はほとんど見かけなかった。あの日、亨を乗せていく救急車に同乗した、そのときから。
 ようやく家の中が落ち着いたのは半月も経った頃。
 久しぶりに顔を合わせた咲子は、櫻に哀れみの表情を向けた。
「史緒も…、巻き込んじゃったね」
 言うことはそれだけ?
 どうして責めないの?
 咲子は、櫻が亨を殺したことを知っているはずなのに。



*  *  *



 深夜、2階から穏やかでない悲鳴が聞こえた。
 慌てて様子を見に行ったのは最初の1回だけで、今ではほぼ毎日続くそれを(わずら)わしいとしか思えなかった。
 櫻はうんざりとして、読んでいた本から目を離す。
(またか…)
 上の階。史緒だ。亨が死んだ日から、ずっと。
 夢でも見るのだろうか、とっくに寝ているはずの史緒の声が闇を切る。
 真木がいる時はまだいい。いない時は寝付くまでずっと泣き続けてるのでうるさくてしかたない。
「おいっ」
 我慢ができなくなって、史緒の部屋のドアを蹴破った。
 すると史緒はいっそう高い声をあげて、狂ったように、(もつ)れる足で部屋の隅に逃げる。全身で櫻を拒否する。まともに言い返すこともできない。無知な人間がさらに無能になったということだ。
「うるさいんだよ、静かに寝ろ」
 櫻と史緒の変化のきっかけは同じものだった。
 櫻は外を向いて、史緒は内を向いた。
 その違いは大きすぎて比べる気にもならない。

 階段を下りたところで階段の照明を落とすと、史緒のせいで妨げられていた夜の気配が幕が下りるように戻ってきた。
 櫻はふと、そこで足を止めた。
 薄暗闇の廊下に月明かりが落ちて、視界をモノトーンにさせる。櫻の目には赤く映るが本当はグレースケールに近いのだろう。
 廊下は身動きを許さないほど静かで、冷えた空気が満ちている。
 それは不快ではない。
(……)
 しん、と音が聞こえそうな静寂に浸かる。見慣れたはずの家が闇に支配されている。闇が支配する家の中でそっと息をすると、それすらもいけないことだと、家に責められているようだった。
 見慣れた廊下。玄関。階段。その下の物置。柱の低いところに傷を付けてしまったことは真木には秘密にしていた。居間につながる扉があって、その奥にキッチンとダイニング。そこから庭に降りられて、遊んで。泥だらけの足のまま家に上がってよく叱られていた。
 よく、ふたりで。
「……?」
 ひとり、月明かりの廊下、自分の影が落ちる。そっと手を動かせば思い通りに動く自らの影。あまりにもくっきりと浮かび上がる陰影。
 奇妙な違和感があった。
 まるでもうひとり、そこに存在するかのように。
(亨)
 この家にはもう亨がいない。この世界にいない。もう二度と会わない。会えない。会わなくて済む。二度と会えない。
 それなのに。
(どうして?)
 なんで、喪失感がないのだろう。
 この手で殺したはずなのに。
 あの日、血が飛んだのに。
 死んだのに。
 どうして、半身を失った気がしないのだろう。
 どうして。
(どうして?)
 どこの窓も開いていないのに、冷たい空気が一筋、横を通っていった気がした。
 思考がなにかに突き当たる予感がある。けれどその「なにか」は、まだ遠い。ずっと遠い。けれど。
 ぞわりと背筋が粟立つ。
 「なにか」に書いてある文字が解った。

 ───亨はいる?




*  *  *




 馬鹿みたいなことだ。
 けれど一度気になると、それがさも事実であるかのように、まるで強迫されているように胸に残る。いくら打ち消そうとしても、その意志に逆らってつきまとう不安。その不安に従って、何度も隣りを確認した。
 そこに、亨がいないことを確認せずにはいられなかった。
 もし亨がいなくなったら、片腕を落としたような喪失感があると思っていた。極端に軽くなった体に、うまく歩けなくなるほど、体の半分が()がれたような虚脱感があると思っていた。
 いや、あるはずだ。
 それなのに、実際には喪失感の欠片もない。亨は死んだのに。どうして。まだいる? まさか本当に? いるの?
 あまりにも突飛な考えに、誰かに言うこともできない。

 あの日、亨は救急車で運ばれた。同乗したのは咲子。残されたのは真木と半狂乱の史緒と、芝の上の赤。失血の致死量なんて知らない。けれど色濃い芝の上には赤い血が池になっていた。赤い景色の中に、赤い池ができていた。
 搬送先の病院で亨が死んで、葬式があって、焼いて、納骨をして。───それでも亨はいなくなってないと? 酷い矛盾だということは分かってる。それでも完全に否定できなかった。自分はどうかしてしまったのだろうか。

 あの日、消したはずの、自分ではない「自分」。
 変わらずに青い空を見ていた「自分」。
 同じ風景を見ない「自分」。
 その存在がまだいる? そう思ったら寒気が背筋を逆撫でした。


 一月と少し経ったとき、蓮家の一行が来日した。わざわざ足を運んできたのは4人。蓮家の爺さん、長男、2番目、そして末娘だ。
 名目は、蓮家当主の友人・阿達政徳の息子の追悼。すでに葬儀から日は経ち、納骨も済ませていたので、櫻が一行を墓所へ案内した。
 普段はうるさい2番目も視線を落として櫻にお悔やみを口にした。2番目とは違う意味で口を閉じることが無い末娘も、この日は顔を強ばらせて、周囲と目を合わせようとしない。
 彼らも含めて、阿達家とその周辺を取り巻く喪中の雰囲気はまだ長く続きそうだった。
 櫻はそれらすべてを空々しく感じていた。どこか嘘くさく、芝居がかって、周囲の人間が自分を騙しているような気さえする。
 亨の墓原の前に立ってもそう。半月前、納骨に来たときとはあきらかに気持ちが違う。この下に亨がいるとは到底思えなかった。
 思い込みが激し過ぎるのだろうか。もう疑念しか湧かない。
 片割れを失った悲しみも淋しさもない。亨がまだ生きていながらここにいない理由も、亨という存在を捨てた理由もどうでもよかった。この赤い空の下、どこかでまだ生きているという確信しか、胸には残っていない。

 蓮家一行の墓参り姿を後ろから見ていると、一人、挙動がおかしな人物がいることに気付いた。
 末娘だ。
 小さな体は大きな目で墓石を睨み付けていた。普段の彼女からは想像もつかない厳しい表情で。兄姉が黙祷しているのを拒絶するように、小さな手のひらを握り、顔を上げて、瞬きさえ許さないというように。
 末娘は亨を慕っていた。それなのにその表情は少しの悼みも浮かべていない。
(───…まさか)
 末娘の横顔にはあきらかな意志があった。視線を感じたのか、末娘は釣られるように顔を上げ、そして目が合った。
 固定された視線に目に見えない情報が行き交う。
 読んで、読まれた。櫻は叫んでいた。
「おまえもか…ッ、蘭!」



 同じことを考えていたのは自分だけじゃない。それが解ると迷いは薄れ、確信が強まった。
 亨はいる。まだ、いる。
「じゃあ、櫻さん。約束しましょう?」
「約束?」
「亨さんを見つけたら教えて。あたしもそうしますから」
 「ある」ことより「ない」ことを証明するほうが極めて難しい。なぜなら、「ある」ことを証明するには一例でもそれを提示すれば済むが、「ない」ことを証明するにはすべて「ない」ことを示さなければならない、悪魔の証明。
 今、直面している問題も似たようなものだ。亨が生きているなら必ずここに戻る。自分の傍らに。史緒の隣りに。咲子の下に。
 世界中、すべての人間を確認するよりずっと容易い道だ。
「いいだろう。亨を見つけたら必ず報告しろ」
 末娘は大きく頷いた。







06
 咲子から電話があった。
「あー、櫻くん? お久しぶりだね〜」
 脱力してしまうほど能天気な声が受話器から聞こえる。そのまま通話を切ってしまいたかったがそれを思い直した。
「ちょうどよかった、訊きたいことが」
「ストップ! あたしのほうが先。あのね、その家に住まわせたい男の子がいるの。政徳クンの許可はとってあるから、仲良くしてやってね」
 と、唐突にとんでもないことを言った。
「はぁ? 同居なんて冗談じゃない! どうして」
「大学生なんだけどね、史緒の先生をやってもらうの。マキちゃんは家のことで手一杯でしょ? 櫻くんは史緒のこと構ってくれないし。だからあたしの友達に頼んでみたの」
「だからって」
「あっ、櫻くん、あたしにお話があるんだっけ? それなら会いに来てくれると嬉しいな。そのほうがゆっくりお話できるし。ね、そうしよ? 放課後がいい! 中学校の制服を見せてよ。絶対、来てね! ねっ!? じゃ、和くんのこと、あんまりいじめちゃだめだよ〜?」
 ガチャ

 という、突風のような咲子の予告どおり、一条和成(いちじょうかずなり)がやってきた。
 この家から大学に通うつもりらしい。居候という身分をわきまえているのか、それとも根がそうなのか、学生らしい派手さや煩さはなく、同居するという割に逼迫もしてなければ特別裕福でもない、どこにでもいるような学生だった。
 さらにしばらく観察していたが、咲子の紹介という割には普通の男だ。とくに切れるわけでも、裏があるわけでも無い。咲子が何らかの陰謀を託して一条を送り込んできたのかと警戒していたがそれも無い。純粋に、学校へも行けない状態の史緒の面倒を見ることが目的のようだった。
 必要以上に世話焼きでもおせっかいでもないのは長所だ。櫻に対して変に子供扱いもしないし、干渉もしてこない。目障りでは無かった。
 ただ、肝心の史緒には避けられているようで、一条自身、手を焼いていた。
 その様子を見て安心する。長くはいない、すぐに出て行くだろう。

 深夜。2階からいつもの史緒の声が聞こえた。少し遅れて、すぐ隣りの一条の部屋のドアが開く音。
(さて、どう動く)
 櫻は読んでいた本から意識を放し、耳を澄ます。けれど、ドアが開く音を最後に足音は聞こえてこない。事情を知らないせいもあるだろうがフットワークは鈍いようだ。
「あんたの仕事は、まずコレをどうにかすることだよ」
 なにが起こっているか分かっていない様子の一条に、やるべきことを教えてやる。
 この家からすぐに出て行くにしても、せめてこの安眠妨害はどうにかしてもらいたいものだ。




*  *  *




 放課後に咲子のところへ行くと先客がいた。
 咲子と同世代の女性。初めて見る顔だった。窓際の椅子に、きれいな姿勢で腰掛けている。院内の入院患者でない。スーツを着ていた。ストレートの黒髪は肩先で揃えられ、季節の割には厚着。眼鏡を掛けた顔は、櫻を見ると目を細めて微笑んだ。
「櫻くんね?」
 と、湿り気のある声が言う。ベッドの上の咲子が続けて声をあげた。
「よくわかったね!」
「似てるから」
「…え?」
 櫻が問い返すと、
「咲子に」
 笑みを深くして答えた。
 来客中なら外そうかと入り口から離れずにいたら、咲子に手招きされた。
「櫻くんは覚えてないかもしれないけど、初めてじゃないんだよ? すごくちっちゃい頃に一度会ってるから。あらためて、2人とも紹介するね」
 咲子は櫻の手を取って引き寄せる。
「あたしの最愛の子供たちの一番上のコ、櫻くん。…で、こちらはあたしの10年来の親友、和代ちゃん」
関谷和代(せきやかずよ)です」
 と、丁寧に頭を下げるので倣わないわけにはいかない。櫻はおとなしく頭を下げた。
「和代ちゃんは政徳クンとも友達なんだよ」
「友達…っていうのは、ちょっと。阿達くんは否定すると思うわ」
「でも、和代ちゃんがここに入院してたとき、政徳クンがよくお見舞いに来てたじゃない」
「そのとき、私が咲子と阿達くんを引きあわせたんだっけ」
「紹介してーって、しつこく頼んだよね。その頃のあたしは通院生活だったけど、政徳クンに会いたくて和代ちゃんの病室に入り浸ってたし」
「友情より恋愛だった、と?」
「え、違うよ、そうじゃなくて〜」

 櫻はそれらの会話を、雰囲気を壊さない程度に聞き流していた。女2人で盛り上がっている中、櫻が置いてきぼりにならないよう、関谷和代は細かく気を配ってくれた。
 幼い頃会っているというなら亨のことを知らないはずない。それから、亨が死んだことを知らないはずもない。今、ここで話題に出さずに明るく笑っているのは気を遣っているからだろうが、先程の「似てるから」には一瞬どきっとした。
 亨のことかと思った。
「そろそろ行くわ。帰って夕飯を作らなきゃ」
 そう言って椅子から立った関谷和代に、咲子は名残惜しそうに声をかけた。
高雄(たかお)くんは? お留守番してるの?」
「ええ。普段は主夫してもらってるけど、今日は私が当番だから」
「たまには会いたいって伝えてね」
「今度は2人で来るわ」
 関谷和代は最後に櫻に笑顔を見せた。
「じゃあ、櫻くん。またね」
 軽く手を振って、病室を出て行った。
 ドアが閉まると同時に咲子が騒ぎ出す。
「和代ちゃんって、かっこいいと思わない? 彼女、おっきな会社で働いててね、一家の大黒柱なの。自慢の友達なんだ」
「あの人、結婚してるの?」
「してるよー。旦那様は高雄くんっていってね、おもしろい人なの」
「子供は?」
「───いるよ」
「へぇ」
 櫻は和代の消えたドアを見た。もう少し観察しておけば良かったと少し思う。
「ん? どうして?」
「咲子さんとは全然雰囲気違うから」
「ぐはぁ。それを言われるとツラいよ、比べないで〜」
「あんまり母親っていう感じもしないし」
「そんなこと、ないよ?」
 咲子は複雑な表情で声を落とした。わざとらしいハイテンションはいつものことだが、それを落としたところを櫻の前で見せるのは珍しい。
 咲子は苦笑する。櫻の目を覗き込んできた。
「なんかね、たまに思うんだけど」
「うん?」
「櫻くんの目に、あたしはどう映ってるのかな、って」
 どきり。
 眼の異常は誰にも言ってない。気付かれてないはずだ。
「鋭いっていうか、見透かされてるような気がするの。もしかしたら、あたしに見えないものも見てるのかなって思っちゃう」
(なんだ)
 吹き出した汗が一瞬で退いていった。
 咲子に言われたことは昔からよく言われていたことだ。今に始まったことじゃない。
「心は見透かそうとするんじゃなくて、開いてもらわなきゃね。あ、でも櫻くんだけじゃないか。亨くんも同じような───」
 そこではっとして、咲子は言葉を閉じた。
 櫻は聞き逃さなかった。あの桜の日以来、咲子が亨の名を口にしたのを初めて耳にした。亨が死んで悲しみを表さず、わざとらしく明るく振る舞っていた咲子が今亨の名を口にして青ざめる。やはりわざと口にしないようにしていたのだろう。
 咲子は滞った雰囲気を振り切るように笑った。
「ところで、櫻くんのお話ってなぁに? 学校のこと?」
「咲子さん」
「ん?」
「亨って、本当に死んだの?」

 死んだのに今もどこかにいるなら、そこに誰かの思惑があるはずだった。
 この謎を作った犯人とまでは言わない。けれど亨がひとりで大がかりに存在を消せるはずはない。少なくとも誰かの協力があるはずだ。
 それは咲子以外考えられない。
 他には誰もいない。糸口は彼女しかいない。足がかりになるのも、彼女しか思い当たらない。亨の葬儀の前後、咲子が外出ばかりしていたのも怪しい。
 本当にさりげなく切り出したので、咲子は驚きを隠せなかったようだ。笑いを収め、櫻の目を覗く。真意を探りにくる。
 ──亨って、本当に死んだの?
 櫻がその問いの答えをすでに見つけていることは、咲子には伝わったはずだ。咲子の強ばった顔が小刻みに揺れる。櫻の暴言を悲しんでいるのか、それとも図星を突かれて動揺しているのかは分からない。
 咲子が黒か白かはまだ判断できない。簡単に尻尾を掴ませるようなこともないだろう。なにしろ、子供の前では笑い続け、自分の体調を隠してきた人だから。
「…さ」
「ごめん。なんでもないよ、言ってみただけ」
 緊張を解くふりをして、探りを入れる方法を考える。
「…櫻くん?」
「咲子さん。実は僕、あるものを無くしちゃって」
「え? …うん?」
 突然の話題変換に咲子はきょとんとした。
「ずっと、本当に長いあいだ、手元にあったけど。それが無くなった。無くしたこと自体は構わないんだ、持ってても腹が立つだけだから、自分で壊そうとしたし」
「?」
「実際、今、それは僕の目の届く場所には無いんだけど」
「…」
「でも、実は、まだどこか、近くにある気がする」
「───」
「心当たりはない?」
 咲子は笑って返した。
「───ないよ」
 少しはボロが出すかと思ったがそう簡単にはいかないらしい。
「どこかにあるなら見つけて、壊したいって思ってるんだけど」
「どうして?」
「まだあると思うと気味悪いから」
「…取り戻したいって思ってるわけじゃないんだ?」
「違う。傍にあっても苛立つだけだし」
「それって無駄じゃない? 本当に近くにあるかも判らないんでしょう?」
「うん」
「傍にあったら苛立つから壊す、無くしたから構わない、でも近くにある気がする? …そんなの、無くしたんだから気にしなければいいじゃない。捜さなければいいじゃない」
「でも捜せばありそうだよ」
 喋りすぎだ。これは当たりかな、と思う。
「そうかぁ。───で? 櫻くんが無くしたものってなに? 教えて?」
「…」
 櫻の意図がちゃんと伝わっているならそんな風に訊いてこないはずだ。でもそれを見越してわざと訊いてるのかも。咲子の表情からは読めない。
 咲子はどこまで櫻を操っているか、そして櫻はどこまで咲子を操れているか。いつも笑っているだけの咲子をもしかしたら侮っていたのかもしれない。こんな駆け引きを展開する羽目になるとは思ってなかった。
「うん。咲子さんには秘密」
 今、交錯する視線に意味があると思っているのは自分だけ? 咲子はしらばっくれているのか? 亨を隠してるのか? それとも本当に知らないのか?
「あら。残念」
 咲子は眉を寄せて、ゆるく笑った。







07
 高校生になって煙草を吸い始めた。深く考え込むときのちょうど良い手慰みだ。
 そしてあれから長い時間経ったというのに、2階の住人の夜の煩さは相変わらずだった。昔のように毎日ではないし、一条がすぐに止めに行くので気に障ることはない。けれど、その成長の無さには嫌悪を通り越して賞賛さえ感じる。
 ところが、先週からそれがぴたりとやんだ。夜だけでなく、櫻とのニアミスにも史緒は無駄に騒がなくなった。
 やっと成長したとか、時間による記憶の風化とか、一条が役に立ったとか、そういうわけではない。
 まず、当人は明らかに寝不足。よく居間のソファで落ちているのを見かけた。ずっと前に拾ってきた黒猫が、まるで周囲を見張るように史緒の傍らに座っているのが構図的におもしろかった。
 史緒は夜、寝ていない。いつかの夢に(うな)され(おど)されて、騒ぐことがないように。無駄に騒がしくしないように。
 なぜか。
 意図は見えてる。果たしてその意地がいつまで保つかは見物だ。

 少し前にまたひとり増えた同居人。今度は父の都合で回されてきた七瀬司(ななせつかさ)
 全盲なのだというが、頭に巻かれた包帯に目も隠れているので、見えないことには変わりない。カテゴリ分けは意味が無いように思えた。
 見えなくなったばかりということで、行動の大部分に迷いや怯えがある。思い通りにいかない苛立ちに、精神的に荒んでいくのが端から見ていても分かった。いっそ清々しいほどだ。
 ある機会に七瀬が包帯を外しているところを見かけた。目の回りに細かいひっかき傷。その傷には覚えがある。一時期は櫻の顔にもあった。掴めない赤いセロファンを取ろうと、何度も爪を立てた。七瀬も同じ。つかめない目隠しを取ろうとしたのだろう。
 まったく見えないということがどういうことなのか、観察していると気付くことがある。どこが弱く、なにが欲しいのか。それを試すためにちょっかいを出してみたりした。
 とくに突発的な音に弱い。家鳴りにさえ酷く動揺している。玄関のチャイムや電話のベルは言うまでもない。
 史緒が寝不足になってまで夜中の悲鳴を自制しているのは、気を遣うポイントとしては正しい。

 その史緒と廊下で鉢合わせした。
 史緒は体を小さくして胸元の猫にすがりつく。そんなものにしか頼れない、頼るしかない姿が愚かで、哀れでさえある。
 足が動かないのかその場から逃げもしない。櫻が去るのを待っている。自分からはなにもしない。他力本願な被害者面は本当に腹が立つ。
 その顔に煙草の煙を吹きかけると、史緒は煙たそうに顔を背けた。
「なにか言えよ」
 唇を閉じ、櫻からのプレッシャーに絶えている。
「意地でも喋らないつもりか?」
 どうしても喋らせたくて、興に乗って煙草の先を猫に向けた。すると史緒は櫻の意図に気付き、猫を守るように慌てて抱きかかえる。
(───…)
 別に気にならなかった。
 櫻は構わず腕を伸ばし、煙草の先を史緒の首に押し当てた。
 史緒の悲鳴は音にならなかった。腕から猫が飛び降り床に着地する。
 我慢しきれない声をがくがくと震える顎で噛み殺していた。史緒は壁伝いに倒れ込み、熱いのか痛いのか、汗を滲ませた顔が歪む。
「これでも声を出さないとはご立派」
 本当に心からそう思う。他人のためにそこまでできるならいい根性だ。少しは見直した。
 その後、一条が飛んできて煩く言ってきたが、そんなのはどうでもいいことだ。
「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」
 史緒と懇意の一条でさえ、史緒が夜に寝ない意図に気付いていない。
 もし一条ではなく亨だったら、もちろん解ったはずだ。
 亨ならそれを踏まえて、史緒に傷をつけた櫻に、なにを言うだろう。





 香港へ行く、と七瀬が言った。
 戸惑っているような、そして安心したような様子で。
 やっかいな兄妹がいるこの家にとうとう我慢できなくなったか。
 逃げ出す場所がある人間は幸いだ。現状に不満があり逃げ出す場所もないなら、耐えるという選択肢しか残らないので。
(香港───、…蓮家か)
 七瀬の逃げ場としては妥当、おそらく最も待遇が良い場所だろう。
 さて、誰の口利きか。
 父が家のことに気が回るはずない。咲子もこの家の現状は分からないはずだ。真木と一条にそこまで手を回せる力はない。とすると答えはひとつ。
「史緒か」
 少しは頭が使えているようだ。いや、閉じこもっていながら意外と状況が見えていることを褒めるべきかもしれない。
 いっそのこと史緒も逃げればいいのに。
 七瀬と一緒に香港へ行ってしまえばいい。香港なら許す、別に留めはしない。
 香港には蓮家の末娘がいる。亨を見つけるための餌が櫻から逃げても、香港にも眼はあるから。
「蓮家の末娘に伝えろ。───捜し物は見つかったか、ってな」
 答えはノー。
 これはお互いを監視するための挨拶代わり。
 ちゃんと目を光らせているか。見過ごす隙を作っていないか。既に見つけていながら抜け駆けしていないか。
 亨を捜し出すためにお互いの眼を利用し合っている、そのことを確認するための牽制。







08
 この色に、ときどき悶えることはあった。
 飽きる、という感覚が酷く折り重なった状態。なにを見ても赤・赤・赤・赤。色に脅迫されている。夢まで赤くなったときは目覚めてから吐いた。
 ただ、それらはやはり精神的なもので、日常生活を脅かす身体的な不具合にはならなかった。
 生活の中で最初に不便を感じたのは交通信号だったが、左か右かで覚えるのはそう難しいことではない。他人との会話のずれはうまくごまかし、ジョークにして切り抜けたこともある。
 ただ、今もひとつだけ。晴れ渡った空を見るのは苦しい。

 窓の外を見下ろす。
 眼下には、(へい)を境にして毛色の違うふたつの景色があった。
 木陰が多い病院の敷地内と、その外側を取り巻くアスファルトの道。それらは時間の流れ方も違う。忙しなく動く塀の外に比べて、内はのんびりとしていた。
 皆、何かしらの病を抱えているのは内も外も同じだ。その病のせいで外側で暮らすことが困難になった者が内側へやってくる。その両側が交わることは稀。
 己の世界しか見えてない人間のなんと多いことか。
 自身が浸る都合の良い世界に騙されたい人間がほとんど。
 騙し騙されて笑っていることがそんなに幸せだろうか。
 目の前の人が本当に笑っているか、それすら疑わしいのに。
 自身がいる世界の脆さにどれだけの人が気付いているだろう。いつも意識しているだろう。危機感を持っていられるだろう。
 胸が潰されそうなニュースが毎日のように流れてくる、この世界で。
 己の身に起きて初めて、騙されていることに気付く愚かしさに。

「櫻くん」
 病室の中から名を呼ばれて振り返る。返事をするのが億劫なので黙っていた。
「なにか面白いものでも見えるの?」
 ベッドの上で上体を起こしている母が笑いかける。同じ空間にいながら沈黙が絶えられなくなったのか、単に振り返って欲しかったのか、純粋に櫻の視線の先に興味があったのか。いくつか浮かんだ項目は後ろにいくほど可能性が高い。
「面白くはないけど、興味深いよ」
 櫻は放課後によく咲子に会いに行った。もちろん、腹を探りに。
 あれから何度も、櫻は咲子を問いつめた。直接的にも間接的にも、何度も何度も、亨について。そのたびに咲子はさりげなく、ときにはわざとらしく話題を逸らした。否定も肯定もしない。そこに意図があることは明らかなのに、咲子は明言せず、あいまいにしていた。
「なぁに? 興味深いものって」
 人間。とても興味深い観察対象。
 とは答えずに、手を振って回答を拒否すると、咲子はそれ以上訊いてこなかった。別のことを口にした。
「そういえばニュースがあるの」
「?」
「七瀬くんが戻るらしいよ。政徳クンが言ってた」
「ななせ…?」
 一瞬、誰のことだか解らなかった。でもすぐに思い当たる。
「懲りずにまた来るか!」
「七瀬くんが戻ってきたら、ここに連れてきてよ。前のとき、会うタイミング逃しちゃったの」
「…めんどうくさい」
「ぶー。いいよぉ、じゃあ和くんに連れてきてもらうから」
 どうして蓮家でおとなしくしていないのだろう。
 家に出入りする人間が増えることは好ましくなかったが、一方で七瀬司はおもしろい観察対象でもある。父親に直訴してまで拒絶したい人間ではなかった。



*  *  *



 学校では真面目だった。学業もクラブ活動も友達付き合いも。
 将来を考えれば人脈作りは重要。同じように考える同級生は少なからずいて、櫻の言動の端々に棘を見ても話しかけてくる人間はいた。櫻の言葉に傷付いて二度と近寄らなかった人間も。肩書きは社長令息、わざとらしく近寄ってくる人間には慎重に接したが、「友人」という関係で紹介できるで同級生は少なくなかった。
 高校生になってからは父親の会社にも顔を出していたし、大きな催しに同行したりと、わりと忙しい毎日を送った。
「咲子の様子はどうだ。よく見舞いに行ってるんだろう?」
 と、父によく訊かれる。仲が良いと思われても困る。
 父のことは割と嫌いではなかった。他人から見たとき父親としての評価が下がるのはしかたないとして、会社での仕事ぶりは素直に尊敬する。
 けど、昔からときおり父が櫻に向ける視線は気になっていた。
 同情したような、憐れむような目。
 仲の良い弟を失って可哀想と思われてるのかと思った。けれどそうじゃないことが解ってくる。亨をなくして、酷く変わってしまった櫻を憐れんでいるのだ。
 そんな目を向けないで欲しい。気分が悪い。
 どうしてそんな目で見るの?
 自分は「加害者」なんだから、憐れまれる謂われはないのに。




*  *  *




 その日、いつものように病院へ訪れると、受付で呼び止められた。
「櫻くんっ!」
 顔見知りの看護士が早足で近づいてくる。
「はい?」
「これから咲子さんのところ? ちょっと待って」
 なにか良くないことを言うときの顔だ。
「…母に、なにか?」
「それが、今朝、散歩中に発作がおきて。最近はなかった酷い症状だったから───…あ、待って! 櫻くん!」
 櫻は看護婦の話を最後まで聞かずに背を向けていた。心臓が凍ったかと思った。
 禁止されている廊下を走り、階段を駆け上る。
 頭痛があった。
 幼い日のことを思い出して。
 あの日も、こうだった。一人で、真木の言葉を聞かないで。
 咲子は? 咲子の容態は?



「あー、こんにちは。櫻くん」
 息を切って肩を上下させて病室に駆け込んだ櫻に、咲子は脳天気な声をかけた。
「───」
 どっと脱力感があって、息を整えるのに時間がかかった。
 深呼吸してやっと顔を上げると、咲子は微笑っていた。数時間前、あの日と同じように苦しんでいたとは思えないやわらかさで。
 だけど顔色は良くない。やつれているようにも見えた。発作の苦しみと闘ったあとの疲労は隠しようがない。
「来てくれて嬉しいよ」
 櫻は大股でベッドに近づき、脇の椅子に腰掛ける。
「…具合は?」
「大丈夫。ありがとう」
 咲子は笑って、窓の外に視線を移した。櫻は掛ける言葉が見つからず、咲子の横顔を見ていた。大きな安堵の溜め息を、気付かれないように静かに吐き出した。
 窓は3センチほど開いていて、カーテンが揺れている。外は天気は良く晴れているけれど強い風が吹いていた。木々が揺れ、葉擦の音が室内まで聞こえてくる。春の嵐を、咲子はずっと眺めていた。
 長い時間があって、そのあいだに何を思ったのか。
 突然、咲子の表情が歪んだ。
「咲…?」
 複雑な表情に変わる。痛いのか苦しいのか悲しいのか辛いのか、なにかに絶望したような。
 ───諦めたような。
「あるよ」
 ぽつりと、短い言葉を唇が紡ぐ。
 窓の外を見る咲子の横顔はずっと遠くを見ている。
 櫻はその言葉の意味を知るより先に、奇妙な予感に捕らわれた。
「……なに?」
「櫻が捜しているもの、あるよ」
 今度ははっきりと。
 咲子はまだ横顔を向けている。けれどそれは、間違いなく櫻に向けられた、重大な意味を持つ「自白」だった。
 櫻は一瞬、意味を捉えかねる。
 あまりにも突然すぎて。
 何年も抱いていた疑問。咲子に問い詰めてきたこと。蓮家の末娘と確認し合ってきたこと。
 櫻は思わず椅子から立ち上がっていた。椅子が音を立てた。
 咲子は意志をもった表情を櫻に向けてくる。
「なんだって?」
 凄んでみせても、咲子の表情は動かず、櫻の目をまっすぐに見て逸らさない。
「でもあきらめて。あなたの半身は、あたしの分身になったから」
「───…ッ!」
 激情のあまり声にならなかった。
 今、はじめて咲子は肯定した。
 亨の存在を。
(亨はいる)
(それを仕組んだのは咲子)
 何度も疑ってはまた戻る。繰り返し繰り返し、同じところへたどり着く疑問。
 咲子はずっとずっと隠していた。
 なぜ?
 なぜ、今になって?
「自分の半身を捜すのはあきらめて。半分でいることに不安にならないで。半分じゃないの、櫻は櫻でひとり、ほかの誰と比べても意味ないの。ちゃんと自分のこと考えて。誰の姿も通さずに自分を見てあげて」
 咲子の言葉は耳に入らなかった。
「……うるさいッ」
 怒りに任せて咲子の胸ぐらを掴む。水色のカーディガンが背後に落ちた。
「!」
 櫻は愕然とする。
 驚くほど簡単に、その上体を引き寄せることができた。その肩の細さ、体の軽さ、力の無さにはっとする。
 咲子は動じない。
「大きくなったね。もう男のコじゃないんだ」
 小さく笑う。
「一生に一度くらい息子に殴られておくのも悪くないかな。でね? 政徳クンに言いつけるの。そのあと櫻は、政徳クンからゲンコツもらうのよ?」
「……ッ」
 怒りのせいで腕が震える。でももちろん、咲子を殴れるはずもない。
 その心情を知ってか知らずか、咲子は笑っている。いつもとは違う、含みのある影を落とした笑みだった。
「…帰るっ」
 櫻は踵を返して病室を飛び出した。
「櫻くん! また来てね!」
(ふざけるなっ)
 廊下に出て後ろ手でドアを閉める。力を加減できず、破壊的な音が響いた。
(やっぱり咲子が…っ)
 わかっていたはずなのに、改めて認められるとショックが大きい。
 生きてる。生きてる!
 咲子が隠していた。どうして? どこに? 今、どこにいる?
 泣きそうになった。
(どこにいる? 亨───!)

「…櫻?」
「!」
 名前を呼ばれて顔を上げると、廊下の先に一条が立っていた。
 ここにも一人、咲子の真相を知らない人間。笑顔に騙されて、騙されることに浸かり、それに疑問すら抱かない。
 嫌みを言ってる余裕はなかった。無視して横を通り過ぎた。
「おい、具合悪いのか?」
 苛々する。その温さに鳥肌が立つほどに。
「…っ」
 一条が持っていた花束を払い落とした。床に散った花弁を踏みつける。
 自分だったらこんなものいらない。なんの気休めになるというのか。
 それでも咲子は喜ぶだろう。いつもの笑顔で。
「───…ぁの、狸が…ッ」








09
 持っていた雑誌をそっと構えて様子を見ていると、驚いたことに七瀬は直前で足を止めた。
 あと一歩進んでいたら、顔面から雑誌の表紙に突っ込んでいたのに。どの知覚をもって察知したのだろう。
「櫻?」
 さらに名指ししてきた。随分、眼が良くなったものだ。
「惜しい。あと一歩進んでたら、目蓋に刺さってたのに」
 と揺さぶりをかけるとと、七瀬は凍りついた。
「え」
 その様子が可笑しくて笑う。
「冗談だよ」
 会ってみれば、2年前のような、突けば壊れそうな危うさはない。ひとつひとつの行動に迷いがないし、櫻に対しても、不満や不服はありそうだが怯えはない。自負と自信がかいま見え、計算された物言いをするようになった。
 己に迫る危機を(半ば無意識に)予測・計算しながらのその行動は、櫻が理想とし周囲の人間に要求しているものに近い。
 おそらく七瀬はもう、掴めない目隠しを取ろうと顔に爪を立てることはないのだろう。蓮家の爺さんと2番目になにを仕込まれたか知らないがその成長ぶりは目を瞠るものがあった。
 しかしそうなってくると、相変わらずの史緒の無能さが際だつ。さすがに深夜に騒ぐことはもう無いが、部屋に閉じ篭もって滅多に家から出ない。勉強は一条に教えられていても、社会復帰は絶望的と思われる。

 七瀬に訊かれた。
「櫻は見えてるのに、どうして僕が()ているものが解るの?」
 おもしろい質問だった。
 お互い持っている機能が違うのに、どうして有効な嫌がらせができるのか。どうして七瀬が()ているものを脅かすことができるのか。
 視力があるだけの人間からは、こういう質問は出てこない。
 けれど七瀬は勘違いしている。櫻にとっては、相手の目が見えようが見えまいがやることは同じだ。
 子供の頃から言われていた、少しばかり相手の言動の先を読むことが得意だということ。それをどう利用するか。
 相手のボーダーラインを知り、どこで崩れどこで立てるのか。次に同じことをされたとき、そのラインの位置はどう変わるのか。経験から危機感を持っていられるか、身近な平安が泡沫だと忘れずにいられるか。
 目の前に立つ人の笑顔も、ちゃんと疑えるか。
 それが櫻の観察。
 どうして解るのか? 答えは簡単。けれど皮肉にも、その答えこそ七瀬にはできないことだ。
「見えないおまえには解らない。教えても無駄」
 見えている人間にだって解ってもらえない。
 そう、幼い頃から、───亨以外には。




*  *  *




 色付き始める芝生の上に薄紅の花が咲く。満開にはまだ遠い五分咲きの枝が春の嵐に揺れる。
 それを近くに見たいと咲子が駄々をこねて、それがあまりにもうるさかったので、しょうがなく櫻は車椅子を押した。病院のすぐそばの公園。車椅子で、というのが、医者からの外出許可条件だった。
 外に出た咲子は歓声をあげた。
 椅子から乗り出すように、花が咲く枝を見上げる。伸ばした細い指は花には届かない。けれど咲子はそれを嘆きはしない。まるで、届かないことが楽しくてしかたないというように。
 指を膝の上に戻して、なにかに満足したように微笑う。暖かい日差しの中で。
「櫻」
 儚く、深い声が大気に溶けた。
「ありがとう」

「あたしから生まれてきてくれてありがとう」

「なんども会いに来てくれてありがとう」

「あたしは幸せだったよ」

「この世界に生まれてよかった。政徳クンに会えてよかった。櫻と亨と史緒に会えて、本当によかった。だからたくさん笑えたの」

「櫻…」
 血が(かよ)っているのか疑わしいほど冷たい指先が、櫻の頬に触れる。
「ごめんね」
 ぎくりとした。
 何に対しての謝罪なのか判らない。眼のことを見抜かれていたのかと思ったがそうではなかった。
「櫻がいろんなものを嫌うようになったのはあたしのせいだね」
「…いつの話だよ。関係ないだろ」
「ちゃんと返すから。探さないで。誰とも比べないで、幸せでいて」
 咲子は空を仰ぐ。喉が詰まったのか、かすれた声で言った。
「この告白を聞いてくれてありがとう。櫻。愛してるわ」
 櫻は空を仰がなかった。足下の芝を見ていた。
 今度こそ別の色を見ていると見抜かれそうな気がして。
 それを恐れたから。





 そして夜中に電話が鳴り、咲子が死んだことを告げた。
 咲子は最期まで痛みを口にしなかった。子供たちに苦しむ姿を見せず、ずっと笑っていた。
 彼女は幸せだったと言った。本当に?
 櫻の前で血を吐いたのは何年も前。あの頃すでに、咲子の体はぼろぼろだったのに。
 何年も独りで苦しんでいたはずなのに。
 それでも彼女は幸せだっただろうか。
(最期まで口を割らなかったな…)
 そこまでして何を守りたかったのか。亨か。史緒か。それとも。
「すぐに病院へ行きましょう」
 真木は車のキーを手に取ったが、櫻はそれを止めた。
「タクシーを呼ぶから、ゆっくり支度して」
 咲子の死に動揺していた真木に運転させるわけにはいかなかった。
「七瀬も、行くだろ?」
 同じくショックを隠せないでいる七瀬はぎこちない仕草で頷く。
「史緒はどうした。一条?」
「部屋から出てこない。僕も残るよ」
「勝手にしろ」
 咲子は数多くの人間を騙していた。その筆頭は史緒だ。
 咲子の明るい声や仕草。やさしい慰めや励まし、どんなときも笑顔で迎えてくれる。そんな都合の良い母親を疑わない妹は本当にどこか足りないのではないかと思う。
 きっともう、史緒は咲子の苦しみを知ることはない。
 咲子の願いどおりに。


 タクシーの車窓に月が浮かぶ。
 亨のことを思い出した。
 幼い日、夜、庭に出て月を見上げていた、その後ろ姿。
 振り返る同じ顔。
(…いるよな)
 未だ、確かな予感が胸にある。
 咲子の訃報を聞いて、どこかで、この空を見上げているだろうか。
 きっとこの月を見て、咲子のことを悼んでいるだろう。








10
 その日、桜が散っていた。
 集まる人々が皆黒い服を着ているなか、花だけが鮮やかに映る。櫻の目でもそうなのだから、他の人はもっと顕著に見えているはずだ。
 櫻はついさっきまで参列者たちの相手をしていたが、一段落したところで抜け出してきていた。人の中にいることに少々疲れたようだ。
 桜の花が舞っている。
 五分咲きの花に伸ばした咲子の手は、満開の桜に触れることができなかった。本人もそれが判っていて、それでもあんな風に笑っていた。覚悟という言葉の重さをしばらく考えた。
 背後から名前を呼ばれた。
「櫻」
 ずいぶんと馴れ馴れしい、人懐こい声。
(この声…)
 振り返ると、花が降る景色の中に男が立っていた。
 歳は櫻と同じくらい。長い髪を束ねている。聞き覚えがあると思ったのは間違いで、知らない男だった。
 その男は櫻と目が合うと、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「…?」
 ややあって、男の背後から意外な人物が現れた。
「お久しぶりです。櫻くん」
 と、控えめに笑ったのは関谷和代。
 過去に会ったのは咲子の病室で一度だけ。咲子の親友だという。
 その彼女が表情を改めて頭を下げた。
「このたびはご愁傷さまです。…お悔やみ、申し上げます」
「お忙しいところありがとうございます」
 本当なら故人の親友であったという和代に対してもう少し言葉続けなければいけないところだ。けれど櫻はさっきまで父親の会社の人ばかり相手にしていたので咄嗟に言葉が出てこない。それ以上に意外な人物の登場に驚いていた。
「私のこと、覚えていてくれてありがとう」
「こちらこそ。…あの」
 櫻は和代の後ろにいる男が気になっていた。視線でそれを伝えると、
「あぁ、会うのは初めてだったわね」
 和代は男を自分の隣りに立たせた。
「私の息子なの」
 男は不敵とも思える表情で笑う。
関谷篤志(せきやあつし)です」



 関谷篤志の性格は鬱陶しいの一言に尽きる。
 咲子の葬儀の日を境に、関谷は家に出入りするようになった。
 しかも、はとこだと言う。父親同士が従兄弟に当たるらしい。咲子はそんなこと言ってなかったのに。
 扱いにくい人間だとかそういう問題じゃない。とにかく馴れ馴れしいのだ。
 家に訪れるたびに櫻の部屋のドアを叩いてうるさく話しかけてくる。嫌味を言っても気にしない。言葉を選んで揺さぶりをかけてもけろりとしている。
 無神経なわけじゃない。それは見ていればわかる。馴れ馴れしいのはわざとなのだ。
「どういうつもりだ」
「挨拶くらいさせろよ」
「おまえ、もう来ンな。邪魔」
 癇に触る人間だった。一度、はっきりと迷惑だと言ったところ、それでも大人しくならない。
 このうるさいほどの馴れ馴れしさは誰かに似ていた。
「おまえに似た人間を知ってるよ。俺が殺したけど」
「あ、大丈夫。俺は殺されないから。鍛えてるし、櫻よりは強いと思うよ」


 関谷が出入りするようになった頃、入れ替わるように一条が家を出ることになった。アダチに入社するのだという。
 そうなると一番影響が出てくるのはやはり史緒だった。
 2人のあいだに一揉め二揉めあった後、驚いたことに史緒も家を出て海外留学をしてしまった。それだけの行動力を培うのに関谷が関わっていたかは判らない。
 たった一年で史緒は戻ってきた。もちろん多少の成長はあったのだろうが、櫻の眼にはそれが大きなものとは思えなかった。




*  *  *




 ぴんぽーん
 来客を告げるチャイムが鳴ったとき、櫻は自室で本を読んでいたところだった。
「……」
 真木は買い物に出掛けている。七瀬は2階だ。
 仕方なく部屋を出て、玄関を開けに行く。
「どちらさん?」
「関谷だよ」
「───」
 櫻は大きく溜め息をもらした。
 歓迎したい人物ではないが、閉め出すわけにもいかない。嫌々鍵を開けると、もう見慣れてしまった長髪の男が立っていた。
「おす。マキさん、いないのか?」
「ああ」
 関谷の馴れ馴れしさは、どれだけ突き放しても止まない。櫻は煙たそうに手を払った。
「七瀬に用があるんだろ、さっさと行けよ」
「あ、櫻、今度宿題教えてくれ。櫻が行ってた高校(トコ)と同じ教科書なんだ」
「…おい」
「課題も多くてさ。手伝う気ない? 一食くらいなら奢るから」
「さっさと行けって!」
 櫻が声を荒げても悪びれもしない。関谷は軽い捨て台詞を残して、ようやく2階へと上がっていった。
 疲労だけが残る。櫻はもう一度溜め息を吐いた。
 本当に関谷篤志の相手をするのは疲れる。以前、この家に住んでいた一条や、今もいる七瀬は必要以上に干渉してこない。だから同じ家にいることも許せる。それなのに。
 気を取り直して櫻は自分用にコーヒーを淹れ、そのままリビングで読書を続行した。
 ぴんぽーん
 再び本に集中し始めたところで2度目の来客。
「……」
 真木が早く戻ってくれることを祈りつつ、櫻はもう一度玄関へ足を向けた。
「どちらさん?」
 来客相手にも声が険しくなってしまうのは致し方ない。
「あ、あの…」
 妙に高い声が低い位置から返る。見ると、髪をふたつに結んだ子供が立っていた。確か今は12歳のはずだ。
「なんだ、蓮家の末っ子か。しばらくぶりだな」
 香港在住、フットワークが軽いのは血筋。バッグひとつという軽装で現れても驚きはしない。
「爺さんは元気か?」
「ええ、おかげさまで」
 まずは社交辞令。そしていつもの挨拶。
「“捜しもの”は見つかったか?」
「櫻さんは?」
「まだだよ」
「あたしも、同じです」
 本当に、呆れるほど繰り返されたやりとり。2人とも子供だった頃の約束をよく覚えているものだ。
 あれからもう、7年。
 七瀬に会いに来たというので2階へ通す。櫻はふたたびリビングへ戻った。
 そして本を手にとり、ソファに身を沈めたとき、2階から、末娘の大声が響いてきた。
「あたしっ、篤志さんに惚れましたっ!」
 思わず馬鹿笑いしてしまった。
 さすがの関谷も言葉をなくしたことだろう(おそらく七瀬も)。その顔を見られないのは残念だ。
 蓮家の末娘の直情的なところは嫌いじゃない。これで頭が無いなら近寄る気にもならないが、あの末娘には人と状況を見る目があった。その目に射止められるとは関谷も只者ではないかも。
 けれど面白がってばかりもいられなかった。
「あたし、捜しものするの、やめます」
 末娘はどこか影をおびた目で言う。
「関谷に鞍替えしたからか?」
「そうです」
「どうやら、おまえのことを過大評価していたようだ」
 蓮家の末娘は手を引いた。捜し物をすることから。
 亨を諦めた。
 失望を隠せない。櫻はそれを自覚する。その目に期待していた、それは否定しない。あわよくば自分より先に彼女の目が見つけるかもしれないと思っていた。
 でもその目はもう、亨を諦めたと言う。
 これで亨を捜しているのは自分ひとりになった。




*  *  *




 風は陸から吹いていた。
 櫻は小高い丘の上から海を見下ろす。そこはある意味で絶景だった。
 冬とはいえ夕方の4時とは思えないほど辺りは暗い。強い風が吹き荒れて、どす黒い空に雲が轟いている。眼下から聞こえる水飛沫の音は耳で温度がわかるほど痛い。
 絶えず風に奪われるコートの裾も気にせず、櫻はその狂ったような、暗い、赤い景色を眺めていた。
 悪天候に気を落としたりはしない。逆に、もし天気が良ければこんなところにはこない。こんな、青空が似合いそうな場所には。

 冷たい風に包まれている。自分が小さな個体だと気づかされる。小さな存在だ。この広い自然に比べたら。いや、比べるまでもなく。
 広がる景色は雄大すぎて、この小さな体ではあっけなく飲み込まれてしまう。そしてこの景色と比べたら、自分が住む世界でさえあまりにも小さい。狭い。
 それなのにどうして見つけられない?
 こんな狭い世界のなかでどうして出会えない?
 なにをしている。亨。ここにくるんじゃないのか。
≪捜しものは見つかった?≫
 亨。
 もし亨に会えたら、今も壊したいと思うだろうか。自分とは違い、素直に笑い、この赤を見ない亨を。
 判らない。もう、亨は自分とは似ても似つかないくらい、変わっているかもしれない。
≪あたしはいつかこの空に溶けるの。そうしたら、櫻くんのそばにいけるかな≫
 咲子。
 おそらく本気で願っていた。どこまで本気か判らない空想めいたことを言いながら、その裏では現実の痛みや苦しみを隠し続けて。そして、最期まで亨の居場所を吐かなかった。
≪ちゃんと自分のこと考えて。誰の姿も通さずに自分を見てあげて≫
≪櫻は櫻でひとり、ほかの誰と比べても意味ないの≫
 比べざるを得ないんだ。
 子供の頃はいつも一緒だった。遊ぶのも学校も叱られるのも。周囲から間違われるくらい似ていた。「他人」とはあきらかに違う存在。それをどうやったら比べずにいられるというのか。
 櫻のほうが変わった。それは解っている。
 亨を見れば、自分が以前どこにいたか判る。
 素直に笑っていられて、青い空を見ていた頃の自分がどこにいたのか。
 それが亨だから。

 背後の茂みから黒猫が現れた。
 史緒の猫だ。丘の上の強い風に髭が揺れる。普段は史緒が抱いているので気づきにくいが、その足取りはかなり怪しかった。
 櫻が腰を下ろし手を伸ばすと、それに擦り寄ることも逃げることもせず、よたよたと歩いてくる。
 死期。
 簡単に思い至った言葉。抱き上げると黒猫はされるがままに腕に収まった。
 この猫も咲子と同じか。やがて弱り果て、動かなくなる。
 足音がしたので振り返ると、今度は史緒だった。
 史緒。
 亨とは違って、すごく遠い存在。怖がっているだけの、なにもしない、弱い人間。
 猫を返してやると、縋るようにそれを抱きしめた。そんなものに頼らなければ不安でしょうがないらしい。
 なにもできない。
 仮にほら、これを教えたら、おまえに何ができる?
「亨は生きてる」
 蓮家の末娘が放棄した可能性。おまえは今、それを知った。───さぁ、何ができる。
 史緒は瞠り、震えるだけの唇は何も返さない。櫻は失望の息を吐いた。
「2度は言わない」
 少しは期待していたのだろうか。頭が冷えていくのを櫻は自覚した。
「ふざけないで…ッ!!」
 珍しく気概のある声。でもそれだけ。
「櫻が殺したくせに!」
 実のある言葉にはならない。あの母にしてこの娘だ。いや、違う。あの母が騙しきったからこそ、か。
 史緒は咲子のことをまったく解っていない。長年、病に苦しんでいたこと。それを隠し続けていたこと。笑い続けていた、その気遣いを。
 そういう無知が一番苛つく。
 櫻は声を荒げた。
「ほんっとうに、おまえの馬鹿さ加減には呆れるよ」
 そのとき、突風が吹いた。

「───ッ」
 櫻のコートがなびく。風にさらわれ、足を掬われた。
 平衡感覚を失い耳の奥に激痛が走った。同時に、脳に警告が走る。視界の端に崖の淵が映った。
(落ちる)
 このまま倒れても、手をつく場所に地面はない。咄嗟に伸ばした腕は傾いた体を直すことはできない。
「櫻っ!」
 史緒が手を伸ばし、動く。おそらく何も考えてないのだろう、櫻の腕を掴もうとする。櫻はそれを視界に入れていた。
(この、馬鹿が)
 バシッ
 駆け寄る史緒の手を払った。
 ぐらりと視界が回り、大きな空が視界を満たす。青くはない。赤くもない。───この禍々しい天空に、咲子は絶対にいない。
 体が(くう)に埋もれていくのを、地と空の境目が上空に上がっていくのを見た。
 頭から落ちていく。
 頭皮が凍っていくのを、最後まで感じていた。






≪咲子から生まれるのは“春の花”≫

≪花言葉にはこんなものもあるの≫
 やめろ。
 そんな想いを背負いたくない。


≪“あたしをわすれないで”≫
 忘れるよ。忘れるに決まってる。忘れないわけない。
 いなくなってしまった人を想うのは辛い。
 ずっと心に置いておけるわけない。

 でも、思い出すから。
 いつも微笑っていたことを思い出すから。
 家族の顔を見るたびに。桜を見るたびに。空を見るたびに。

 例えこの空が、青く見えなくても。














+ + + +





+ +













+











11


 瞼を開けると一面に青が広がった。

「────ッ」
 青い。
 吸い込まれるかと思った。
 暖かいベッドの中。ゆっくり意識を戻す余裕は無かった。その深い青に、意識ごと奪われて。
『あ。目、開けた』
 空が喋った。わけではもちろん無い。
 その空の色が瞳の色だと気づくのには少し時間が掛かった。
 青い眼の女が顔を覗き込んでいる。その瞳から目を逸らせなかった。
『へいき? どこか痛いところある?』
 その青さに惹かれて、まばたきさえできない。
 遙か幼い日、屋上で見た空。彼女が溶けると言った空。
 その青をこの眼で知覚したのは、いつ以来だろうか。
『ひどい怪我は無いらしいの。でも体が弱ってるんだって。見つけたときはホントに冷たくって、もうダメかと思ったんだよ。あのね、もう4日も経ってるの。船の上から見つけてね、“人魚姫(プリンセス・マーメイド)”の王子様かと思った…なんて、不謹慎だよね、ごめんなさい。ええと』
 ひとりで盛り上がっていることを恥じたのか声のトーンが落ちる。
『…英語、わかる? ───あの、あたし、ノエルよ。ノエル』
 女は身振りで示す。
『あなたは?』
「…」
『ん?』
 ノエル。聖夜、冬の歌。それなら。
「……春」
『ハル? HAL9000のハル? それが名前? よかったぁ、ちょっと待ってて、なにか食べられるもの持ってくるね。あと、通訳さんも手配しなきゃ』
『───その目』
『え?』
『その目には、空が青く見える?』
 言葉が通じることに安心したようだった。
『ハルは、青くないの?』
『ああ』
 はじめて。
 はじめてこの眼のことを他人に話した。
 静かな衝撃がある。
 女は大きな青い眼を丸くする。それは宇宙から見た地球の写真に似ていた。
 眩しい青に胸が苦しくなって眼を逸らす。全身が痛くて重い。身体を横にするのが精一杯だった。すると、女は病人相手に容赦なく毛布の上に乗り上がり、体重を掛けて顔を覗き込んでくる。薄茶のやわらかい髪が降って、青い眼に捕らわれた。
『もしかして黒いの?』
 眼の色から判断したのだろう。答えないでいるとそれを肯定と()ったらしく慌てて振り返り、
『マーサ、大変! レイリー卿の散乱係数は瞳の色によって違うみたいなの!』
 と、かなり間の抜けていることを言った。









12
 3年ぶりの東京は真夏、皮膚が焼ける暑さだった。
 暑い土地なら世界中いくらでもあるが、どこか人工的な暑さ。土の匂いがしない。アスファルトの匂いと、ひといきれ。昔は感じなかったそんなことが、妙に新鮮に感じる。
 東京での予定はなかったが、やはりひとつだけ。亨が現れていないかを確認するために家族の周辺を洗う。
 住んでいた家に、今は誰もいないらしい。父は相変わらず。そして驚いたことに史緒はよく判らない職種で働いているらしい。七瀬と関谷を引き連れて。
 でも、亨はいない。
 誰にも会うつもりはなかったのに、七瀬の鼻に気付かれた。懐かしい自分の名前を呼ばれる。奇妙な違和感があった。
 そしてもう一人。
 その懐かしい名を大声で呼んだ人間がいた。ホームの向かい側から。
「あたし、嘘ついてました!」
 と、叫んだのは、無意識のうちに「嘘を吐かない」と信じていた人間だった。

 嘘を吐かれるような約束事は、ひとつしかなかった。



*  *  *



 変わってしまうのが怖いと言った櫻に、亨は笑った。
 ──どうして? 一緒にいれば、変わっても分かり合える。例え離れても、僕は櫻を見つけられる。心配しなくていいよ
「……」
 亨を見つけられると思っていた。
 疑いもしなかったと言えば嘘になる。
 けれど、見つけられないはず無い、見逃すはずが無いと思っていた。
 同じように、亨が櫻を見つける可能性も、当然、無いわけ無い。
(蓮家の末娘…)
(“嘘を吐いていた”?)(どういう意味?)
(あいつの眼は信用していた。だからあんな約束を)(まさか)
(亨を捜すのはあきらめる───いや、やめる(、、、)と言った)
(まさか)
(蘭)
(まさか───)


「櫻!」
 急に背後から肩を掴まれて歩行を妨げられた。過去の名を呼ばれるのはやはり違和感があった。
 振り返ると、息を切っている長身の男。肩で息をしながらも、込み上げてくる感情を隠せないというように笑って、
「ようやく出てきたな」
 と、妙な言い回しをした。
 櫻のほうも顔が歪むのを隠せなかった。
「───」
 うるさい奴に捕まってしまった。
 関谷篤志だ。
 櫻が東京にいることを漏らしたのは誰か、答えは消去法で蓮家の末娘。七瀬はできれば面倒を持ち帰りたくないと考えたはずなので。
 関谷は息を整えるために深呼吸して、汗を掻いた顔で破顔する。
「よかった。───元気そうで」
「…」
 鬱陶しい、と思う。こういう奴だということは知っていたが、改めてそう思う。
 そのとき、
「───」
 ぐらり、と眩暈がした。
 関谷の鬱陶しさに、なにかを思い出した気がして。
「…ッ」
 眼鏡を外して手のひらで両眼を覆う。
 櫻の場合、頭痛や眩暈を引き起こす原因の大半は眼からの色情報による。だから一度それを抑えるために目隠しをした。
 そしてそっと眼を開けて空を仰ぐ。
 幼い頃からずっと、そうやって確認してきたように。
 この眼に映る、空と空の色を確認するために。
「櫻…?」
 近くから発せられた声に現状を思い出してはっとする。
 櫻は眼鏡を掛け直す前に手のひらを見た。色を確認するためだ。もちろん、長年そうだった通り、赤い。
「なんでもねぇよ。気安く呼ぶな」
「まさか、……今でも目がおかしいのか?」
「うるさい」
 心配するような問いかけが気に障る。おざなりではなく本心だからこそ余計に。
 どんなに突き放しても馴れ馴れしく声を掛けてくる。
「あの頃からずっと?」
 そうだ、あの頃から。
 …あの頃から?
「───」
 顔を上げると関谷の心配そうな表情があった。
 今、なんと言った?
 ───あの頃から?
「…なんだって?」
「だから目が」
 と、そこまで口にして関谷の言葉が止まる。
 表情も視線も体の動きまで、止まった。


 今。
 おかしなことを言った。
 ──今でも目がおかしいのか? あの頃からずっと?
 この眼のことを自分から話した相手は一人。でも関谷じゃない。
 ──あの頃からずっと?
 話してはいないけど、目ざとく気付いた人間はいた。櫻が空ばかり見ることを指摘した人間が。
 ずっと。ずっと昔。あれは───。
「…!」
 関谷が瞠った。一歩退いて、その顔が歪む。その表情は言う。
 しまった、と。

 脳裏に閃くものを疑うことはできなかった。
「…あぁ」
 完全には掴めていない。でもやがてはこの手に収まる予感。
(この眼に気付いたのは一人)
(一人だけ)(目ざとい)
(もう一人の自分)
(ずっと昔)(殺した)(でもどこかにいる)
(捜しもの)(見つかった?)
(───蓮家の末娘!)(そうだ)(侮っていた)(あいつは…!)
 さっきの眩暈とは別の原因で頭痛が始まる。でも不快ではない。頭が働きすぎたときの疲労だ。
「…───そういうことか」
 すべてが繋がり始める。
 でも、まだだ。組み合わさるまでにはもう少し時間がいる。
(咲子)(親友)(関谷和代)
(関谷篤志)
(鬱陶しい)(馴れ馴れしくて───)
(史緒のところへ戻った?)
(咲子が、遺したもの)

「櫻…」
 関谷が言葉に迷い、言いにくそうに呼びかけてくる。
 その顔を見る。知ってる。解っている。関谷篤志だ。
 どうして。
「言うな。自分の思考が及ばなかったものを、結果だけ知らされるのは面白くない」
 頭が動き始めている。喋るのも億劫なほど。
「櫻、話があるんだ」
「喋るなよ。調べる時間くらい、くれてもいいだろ」
 関谷に背を向ける。居場所は分かっている。ここで捕まえなくても、見つけなくてもいい。
「その話とやらは次のときに聞いてやるよ。───じゃあな」
「櫻…っ!」
 人混みを利用して駆け出す。
 関谷は追いかけてこない。
 きっと関谷自身、どう話すべきか、迷いがあるからだ。







47話「青」  END
46話/47話/48話

ふたごの話、五つ子の秘密/武 弘道
レイリー散乱 - Wikipedia(空が青く見える現象)
HAL 9000 - Wikipedia