47話/48話/49話 |
48話「いたずらの行方 前編」 |
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「本当に、いいの?」 どこかから緑の匂いがする。 窓の外を見ることはできなかった。まだ、体を動かせなかった。 喋ることも辛い。 でも、カーテンを揺らして香る、外からの空気を楽しむことができた。 「…そう、戻ってくるのね」 初夏の風が、病室の中を通りすぎていく。 「おねがい」 シーツに沈む指に水滴が落ちる。 「櫻がちゃんと自分のために生きているか。史緒が幸せになってくれているか。そしてもちろんあなたも、あなたの思うとおりに生きられますように」 この指を伸ばして、その頬に触れられたらいいのに。 あたしの代わりに未来で見てきてね 母はそう言って微笑う。後悔と |
■01 関谷篤志は重い足取りで暑い日差しの下を歩いていた。 熱は空気まで歪める。音がぼやけ、周囲の喧噪はどこか遠く、はっきりしない、現実感を薄れさせている。道路に立ちこめる陽炎に消える気配はなく、この熱を冷ますための夜が本当に訪れるのか疑わしくさえあった。 櫻を追えなかった。 やっと出てきてくれたのに。 咲子のいたずらを、櫻はもう知った。裏付けを取って、周囲に公開する気かもしれない。櫻は彼の父や妹に接触するかもしれない。 (史緒…) 櫻の口から明かされるくらいなら、その前に、自分で言ってしまえばいいのに。 そうするべきだということも解っているのに。 (───でもなんて言えばいいんだ) 関谷篤志などこの世にいないと!? 名前だけを借りた、偽りの存在だと!? 咲子の葬儀のあと どちらとして生きるのか。篤志か、亨か。 どちらが史緒のため? 周囲はどちらを選ぶ? 史緒はどちらを選ぶ? その前に、この事実を受け入れてもらえるのか? どちらでも。 どちらでもよいと思ってた。 どちらでも、櫻と史緒のそばにいられるなら。 「もしもし? 篤志さん!?」 電話に出ると慌てている声が飛び込んできた。 「蘭か。どうした?」 「櫻さんと…会いました?」 「あぁ、会えたよ」 「なにか、…言ってました?」 「俺の正体を知って驚いてた」 「えっ! ご、ごめんなさい。あたしが、口を滑らせたから」 今にも泣き出しそうな蘭を宥めるために、篤志は笑って返した。 「違うよ。俺がヘマしたんだ」 「でも」 「本当に、蘭のせいじゃない」 強い声で言うと蘭は黙った。納得していない様子だが、蘭はそれ以上は食い下がらなかった。 ややあって、抑えた声が聞こえてきた。 「今、大変なことになってる篤志さんに泣き言を言うのは心苦しいんですけど…あたし、次に櫻さんに会うの…怖いです。だって、問いつめられたらどう答えればいいか、ほんとに分からなくて…」 櫻が欲しい答えを蘭は持っている。でも、それを蘭の口から言うわけにはいかない。事情を知る第三者。蘭の心痛が伝わって、篤志は申し訳ない気持ちで目を閉じる。 「すまない。ちゃんと数日のうちに決着させるから」 「ちが、違うの、謝らないでください。あの、あたしは大丈夫です。あのね、昨日から祥子さんのところに泊めていただいてるんです。あたしの部屋には戻ってないし、どこへ行くにしてもあの駅は通りませんから。…祥子さんはずっと居てもいいって言ってくれて。夜、お話もできるし、楽しいの。…だから、あたしは平気。篤志さんが一段落させるまで、櫻さんには見つからないと思います」 一生懸命に言葉を並べる蘭の声に耳を傾けているあいだに、自然と笑いが込み上げてきた。 「蘭。ありがとう」 「…え? えぇ? あの、どういたしましてって言いたいですけど、でも、あたし、…何かしましたっけ?」 「俺の正体を見抜いてくれて」 「そんなの…」 「本当に感謝してる。独りで抱えていたら、きっともっと辛かった」 蘭に見抜かれなかったら。 和成に気付かれなかったら。 孤立無援。周囲を欺き続けている苦しさを、なんの救いも助けもないまま、独り、抱えていなければならなかった。 「……」 電話の向こうの声が途切れた。しばらく待っていると嗚咽が聞こえ始める。 「蘭?」 「すみません。…嬉しいです」 「泣くなよ」 「嬉しいんです。ほんとに」 もし独りだったら今日まで耐えていなかっただろう。 彼女との約束を、最後まで果たせないままで。 * * * 熱くて痛くて、うるさくて、痛くて、痛くて声すら出せなくて。 もうだめかもしれない、なんて考えた。 壊れすぎてもう直せなくなった、おもちゃの車のように。そっと拾い上げたときの直感、悲しみと失望にも似て。 体は痛みに耐えることに必死で、全身をこわばらせ汗を出す。手のひらの肉を けど、今はそれも終わり。 意識は痛みを手放したよう。 うつぶせに寝かせられているベッドに体を預け、だらしなく手足を伸ばす。 手放した痛みは余韻を残して、背中に残り火を置いていったようだった。 それから、指ひとつ動かせないほどの、絶望的な疲労も。 鼓膜を震わせるサイレンはまだ続いていた。 いつもなら、通り過ぎると同時に音が変わり、遠ざかっていくのに。 今はそれが背中の上にあって、離れない。 ねぇ、いいかげん、その音を止められない? うるさくて、咲子さんの声が聞こえないんだ。 「…っ! ───…る!」 すぐそばにいる。 手を握ってくれている。 わかるのに。サイレンがうるさくて聞こえない。 霞んでいるのは視覚か意識か。ぼんやりとした白い光しか見えない。 「…亨!」 うん 「しっかりして! おねがいっ、目を開けて!」 だいじょうぶだよ 「…ごめんなさい…ッ、ごめんなさい!」 櫻は? 最近、変だった なにがあったの? 「ごめんなさいっ」 どうして、咲子さんが謝るの? * * * ──もう少しだけ待ってくれないか。史緒にも、言わなければならないことがある ──俺自身、決着を付けなければならないことがあるんだ 篤志はそう言っていた。 (もう少しだけって、いつまで待てばいいのよ) 史緒は胸のなかにある不満を否定することができなかった。 本当は余計なことを考えないほうがいいことは解っている。篤志が待てと言っているのだから、今は大人しく待てばいい。 何度も他のことに意識を向けるけど、いつのまにか思考は戻ってしまう。史緒は頭が痛かった。 篤志はひとつだけ、はっきりと口にした。 アダチに入ること。それは篤志自身の意志だということ。 それに関しては未だ問題が残っていること、篤志だって解っているはずだ。父が篤志を身内へ引き込むのは、史緒との結婚が前提にある。それは拒否し続けているし、篤志の気が変わるとも思えない。それとも篤志は単身、あの父を説得したとでも言うのだろうか? もしそうだとして、篤志がアダチに入ったら、当然、もう一緒に仕事はできない。史緒のそばから離れていってしまう。 それを引き留めることはしたくない。篤志は篤志の意志に従って欲しい。 でも、どうして突然? 今までなにも言わなかった。 どうして? (なにを隠してるの?) 「史緒、聞いてる?」 頭上から降ってきた声に顔を上げると、祥子が訝る表情で覗き込んでいた。 「ごめん、なに?」 仕事中だった。 事務所には史緒と祥子の他に、健太郎と三佳も来ている。外は明るく、室内には冷房が入っている。真っ昼間から意識を飛ばしてしまっていたことに史緒は反省した。 祥子には、篤志がやっていた仕事の大半を回している。事務仕事から外に出ての調査、それぞれのスケジューラまで。仕事面だけを考えても、篤志が抜けるのは結構痛い。けれど、祥子も手一杯の仕事にどうにか食いつこうと努力していて、その姿勢は頼もしい。もちろん、口にはしないが。 「新居さんから呼び出しがあったの。この後、出掛けるから」 「そう、わかったわ」 「それから、篤志は、次、いつ来るの? 教えてもらいたいところがあるんだけど」 と、片手に抱えているファイルを示す。 「なぁに? 私に訊けばいいじゃない」 「できる限りそれは避けたいから」 「…はっきり言うわね」 「今更」 仕方ないから明日も来なかったら史緒に訊くか、と祥子はわざとらしく溜め息を吐く。当初に比べたら本当に図太くなったと思う。 史緒が言い返すより先に祥子は振り返って、 「三佳、司は明日来るんでしょ?」 仕事振り分けのために確認すると、三佳は短く肯定を返した。 「蘭は?」 と、誰にともなく訊いたのは健太郎だ。 「学校だって」 祥子が答えた。 「夏休みだろ?」 「共同研究があるって言ってた」 「よく知ってるな」 「蘭は昨日から私の部屋に泊まってるの。今日のことも言ってたから」 相変わらず仲が良いらしい。 「蘭といえば」 健太郎がぽんと手を叩く。 「ほら例の写真! 蘭の初恋の男って、史緒たちとどういう関係? 今は何してんの?」 「あ、私も知りたい」 2人から質問を投げつけられ、史緒は手を止めて、顔を上げて、息を吸って答えた。 「あの2人は、私の兄なの」 一年前だったら、絶対に答えられなかった。 どの程度、自分が変わったのか。それを試す意味であっさりと答えてみる。 この一年、いや、この半年で、過去と向き合い、自分自身を縛っていたものが 祥子と健太郎はそれぞれ目と口を開け驚きを表した。ソファに座って雑誌をめくり、会話に参加していなかった三佳のほうからもなにやら物がぶつかる音。 蘭にみんなの前で写真を出させたのは史緒自身だ。突っ込まれることを予測していなかったとしたら、浅はかと言われても仕方ない。史緒は答える義務があることを承知していた。 その結果、健太郎たちにとって面白くない話になることも解っていたが、隠しておくと余計に気になるだろうし、構わないと思う。 もう、昔のことだから。 「ええぇぇっ!?」 と、悲鳴をあげたのは祥子で、 「史緒、兄弟いたのか? …兄? あ、でもなんかわかる気がする」 と、妙な納得の仕方をしたのは健太郎のほうだった。 「もしかして、すごく甘やかされて育った?」 以前、誰かにも同じようなことを言われた気がする。──絶対、末っ子でしょ? 我が侭だし、偏食あるし、面倒見悪そうだし──とかなんとか。 (私って、そう見えるのかしら) 史緒は真剣に考え込んでしまった。 兄、という呼称を使ったことがないので、兄弟がいたという認識は薄い。あの頃は、年上の友達がいるような感覚だった気がする。でも年の離れた年長の2人には、よく面倒をかけさせていたような。本当に、幼いときのこと。 「確かに…、小さい頃はそう、だったかな」 「あっはは、で? 今は何してんの?」 「2人とも、今はもういないの。写真の左の男の子はずっと昔に…事故でね。右の男の子も、やっぱり事故で、今は失踪中ということになってるの」 と言うと、やはりこうなるとは予測していたものの、場の空気が白けしんとしてしまった。史緒はできるだけなんでもない表情で、軽く肩をすくめてみせた。 「あー…、言いにくいこと言わせてごめん」 健太郎の率直さは本当に長所だと思う。祥子と三佳は気まずそうに、申し訳ない、という表情をした。 「いいのよ、気にしないで。久しぶりに昔の写真が見られて、私も嬉しかったし。蘭には感謝しなきゃ」 あの写真を撮った日のことは漠然と憶えている。 季節は、…そう、まだ寒い春だった。 亨がいた、最後の春だった。 * * * 三佳は混乱していた。 「史緒は君を殺したと言ってる」 そう言った司に、 「そのとおり、俺は史緒に殺されたんだ」 と、櫻は嗤った。 殺したって? 史緒が?? 櫻は生きているのだから、当然、未遂なんだろうけど。───史緒が? どういうこと? その史緒は穏やかな表情で、遠い目をした。 「2人とも、今はもういないの。左の男の子はずっと昔に…事故でね。右の男の子も、やっぱり事故で、今は失踪中ということになってるの」 断片的な情報からでも、見えてくることはある。 写真の双子は史緒の「兄」達。 司は、櫻は史緒の「兄」だと言った。 つまり、写真の双子の片方は櫻。顔は似ていても、どちらが櫻かは明白だった。右が櫻だ。 右───失踪中? 殺されたって、どういうこと? 櫻に双子のきょうだい。左が、蘭の初恋の男。 左───事故で亡くなった? 三佳の知らない史緒たちの過去。櫻との遭遇。 なにか、起きている気がする。 「手を退いてって、僕は言わなかったっけ?」 三佳の話をひととおり聞いたあとに、司は軽く嫌味を言った。 司の部屋、キッチンのテーブルの向かいに腰を下ろす彼は、話の途中からずっと壁に顔を向けている。ぎこちない空気にいたたまれなくなって、三佳は素直に謝った。 「…ごめん」 櫻と遭遇した日、司は三佳に口止めした。櫻のことを史緒に言わないよう、そしてこれ以上追求しないようにと。 「らしくないね。どうしたの? そんなに史緒のことが心配?」 顔を背けたまま、司の口調はいつもより厳しい。三佳を責めているようでもあったし、なにかを考え込んでいるようでもあった。 「心配、というか」 心配なんかしてない、という口調で答える。 「ただ…、司の言ったとおり、史緒が櫻を……殺した、と思いこんでいるなら、実は生きてることを教えたほうがいいんじゃないかと思って」 故意でも過失でも、史緒は、櫻が失踪するに至った過程を後悔し、苦しんでいるかもしれない。史緒の過去を知らない三佳は、憶測することしかできないのだけど。 「それはないよ」 重く喋った三佳に対し、軽すぎるほどすっぱりと司は返す。 「三佳がなにを考えているかは大体判るけど、櫻が生きていると知ったって、史緒は絶対に喜ばない」 厳しく言い切った言葉に、三佳は探ることもできない事情があることを察する。 ──俺は史緒に殺されたんだ そう言って嗤った櫻の声が、思考から離れてくれなかった。 司でさえ、櫻と史緒のあいだになにがあったかは知らない。それでも、櫻が生きていると知って史緒が安堵するはずがないことは判る。もしかしたら、「櫻を殺した」ことについて後悔はしてるかもしれない。でも、再会して喜ぶことはない。これは絶対だ。 それより、司が気になっているのは、櫻の双子のきょうだいのほうだった。 櫻が双子? それを知らなかったから、例の写真に写っている男の子が櫻だという可能性を、早いうちに除外していた。何年もあの家に住んでいたのに、聞いたこともなかった。 (…いや、そういえば一度だけ) 司は過去を思い返す。 咲子の葬儀の日、咲子の父親である新居誠志郎が言った。 「咲子は成人まで生きられないと言われていた。それが結婚までして、3人も子供を産んだ」と。 3人、と。 あのときは、新居の言い間違いかと思っていたが(聞き間違いは絶対にない)、それは司が知らないだけで、事実だったというわけだ。 それにしても。 櫻の双子のきょうだい。史緒のもう一人の兄。 司が阿達家に出入りし始めた頃にはすでに、あの兄妹の間には迂闊に訊くこともできない緊張感と、尋常でない不和があった。 それより以前に、無邪気に笑う史緒が櫻と同じ写真に写っている時期があったというなら、その時期に2人の間になにかあったことは容易に推測できる。そして同じ時期に、3人目のきょうだいが亡くなっている。 (蘭の初恋の相手…、か) 引っかかるのはそこだ。 先日、写真が話題になったときも思ったことだが、篤志に一目惚れし、心酔していると表現してもよい蘭が、それ以前に好意を寄せていた人間など想像できない。 「……」 さらに記憶を探る。 篤志と初めて会って間もない頃、司は和成にある質問をした。和成は声をあげて驚いて、それを否定した。 ──あの2人? 全然似てない…と思う うん、そう返されるだろうなとは思った ──どういうところがそう思うわけ? 不気味なくらい他人のことをよく見てる。 そしてそれは。 多分、同じものだ。 ──篤志さんは史緒さんを裏切りません。それだけはわかります 蘭は司を安心させるように笑って、言い切った。 「司?」 「!」 三佳からの呼びかけに思考の海から引き戻される。司は簡単に現状把握と話題の進行を思い出す作業をした。 「…うん?」 「余計なことだった? 写真のこと」 「いや、貴重な情報だったよ。教えてくれて良かった」 司の頭にはひとつの可能性が浮かんでいる。いや、可能性という言葉さえ似つかわしくない、あやふやな想像。 「なんか、……このままじゃ済まない気がしてきたよ」 そして想像というものは大概、材料があって生み出されるものだ。 * * * 夜中に目が覚めたとき、そこが病室だと納得するまでの思考作業に、やっと慣れてきた。 無意識に息を整え、意識から遅れてじんじんと起きあがる背中の痛みを待つ。ここで慌てて動いてしまうと、脳天を突く激痛に数分間は悶えなければならない。学習能力と呼ぶべきか、体は覚えていた。意識が定まらない寝起きにおいても息を潜めるべきことを。 日常の鈍痛を取り戻す。深い溜め息を吐く。そうして初めて、外界の状況に目をやる。辺りは暗かった。夜。時計は見えない。でもひんやりとした空気が、朝が遠いことを教えた。けれど。 (明るい───) 白い壁に鮮やかな影ができている。昼間の明るさとはまったく別の、白い光。 (月がでているんだ) 窓のほうに目をやる。しかし、この角度からでは月は見えなかった。 こんなに明るいのに。 そこにあると判っているのに届かない、まるで焦がれるような気持ち。 届かない、過ぎ去った日常。 こんな夜は、隣りで寝ている櫻を揺すって起こした。ベッドから抜け出して、2人で、窓辺で話をした。マキさんと史緒は寝ているし、見つかると叱られるので、声を潜めて足音を抑えて、2人で小さく笑い合っていた。 それはほんの、3ヶ月前のこと。 櫻が変わったことには気付いていた。 ちゃんと話を聞いてやればよかった。無理にでも、向き合って、聞き出していればよかった。 櫻。 なにに、苦しんでいたの? こんな夜にひとりでいるのは本当に淋しい。悲しい。 あの頃に戻れたらいいのに。 でも戻れない。進むしかない。 咲子の「いたずら」はもう動き始めている。それに加担したのは自分の意志だ。 (会いにいくよ) いつか。 今は動かせないこの体で。 また2人で、たくさん話せたらいい。以前、月夜の庭で、一緒に夜空を見上げたように。 「……」 無性に月を見たくなった。 ベッドの上で体をずらしてみても、背中に痛みが刺さるだけで、窓枠の中に月は入らない。そうなると余計に見たくなる。 意を決して、ベッドのすぐそばにある車椅子に手を伸ばした。 ただでさえ体力が落ちている。背中には激痛があるし、軋むし、痛さと疲労で涙が滲む。 それでもどうにか、10分以上かかって車椅子に身を沈めることができた。 息を切らすほどの苦しさのなかでも、思わず笑いが込み上げる達成感があった。 はじめて、ひとりで車椅子に乗れた。 車椅子に乗れればこっちのもの。部屋を出て、廊下を進む。月が見える場所へ。 夜間徘徊は禁止されているけど、マキさんに叱られることに比べたら、見つかったときのお咎めなど恐るるに足りない。深夜の病棟へ車椅子を走らせた。 そして月を発見。 満月だった。 とてもとても明るい。雲さえ、白く見えるほど。 陽光は肌を刺すのに、月光は全身を包まれている感じがする。不思議な感覚。目を瞑っていても、光が当たっていることがわかる。 「…だれ?」 背後から呼びかけられた。一人だった世界で、他人と遭遇。 振りかえると年下の少年が立っていた。徘徊仲間に挨拶をして、少し話をした。 会話の合間に少年は訊いてきた。 「おにいちゃん、なまえ、なんていうの?」 「僕は今、名前が無いんだ」 「なまえが無い人なんているの!?」 実はおばけなんだ、というと少年は目を丸くする。 「じゃあ、生きてるときはなんて名前だったの?」 しつこく名前を訊いてくる少年に、その素直さに苦笑する。 おそらくこの名を名乗るのは最後だ。噛みしめるように、口にした。 「──…亨」 * * * 「見習い風情がバイト気分で来られても困ります」 と、いつになく直球で、一条和成は言い返してきた。 電話で、しばらく休みたいと言った篤志に。 「篤志くんを今のポストに入れたのは社長の指示だ。それを面白く思ってない人たちも多い。甘ったれた行動は君自身の評価を下げるだけでなく、社長にも矛先は向かう、それを」 「解ってるよ! こっちだってハンパな覚悟でアダチに入ったわけじゃないんだ!」 篤志は怒鳴り返していた。夜も更けたアパートにその声が響いても気にしていられなかった。 和成に言われたことくらい解りきっている。それでもこういう行動を取らざるを得ない状況に腹を立てているのだ。そのうえ和成に説教されては堪らない。 「……ところで、どうして私に掛けてくるんですか? 君の上司は梶さんでしょう? ───まさか、また、君が抱えてる問題に巻き込ませようとしてないでしょうね」 和成にとっては皮肉だったのだろう。気の毒だが、篤志にとって精神的に余裕がないときに、話が早いのは助かる。 「すごいな、あたりです」 「ちょっと…、本当にいい加減にしてください。史緒さんに知れたとき、余計な恨みを買いそうだ」 和成と史緒の仲など、口出しこそすれ、険悪になろうとも篤志は心配などしない。それを恐れる和成を逃がさないように、篤志は結論を口にした。 「櫻だ」 電話の向こうから、息を飲む音と物音が聞こえた。声は返らない。 しばらくガタガタと何をしているのか判らない音がある。バタン、とドアの閉まる音があって、やっと和成の声が返った。 「───なんだって?」 仕事中だったのだろうか、場所を移動したようだ。 「櫻に会った。確認はしてないけど、司と蘭も目撃してるはずだ」 「待ってください。…櫻? 急に、何を」 生きていたのか、と呟く和成の声から動揺が読みとれたが、篤志は気遣わずに言葉を並べた。 「ついでに俺のこともバレた。調べると言っていたから、社長にも接触するはずだ。そういう意味でも、一条さんに言っておいたほうがいいと思って」 「どうしてそういう面倒な話ばかり私に持ってくるんですか」 「ごめん」 「言葉だけで謝られても腹立つだけですから。…私から社長に言えっていうんですか? 櫻のことを? そうやって利用するのはやめてもらえませんか」 心底苛立っている様子で和成は溜め息を吐く。それでも篤志が返事をしないでいると、沈黙のあと、和成のほうから声を掛けてくる。結局、それが彼の良心、というより、お人好しなんだと思う。 「…櫻は、今までどこにいたと?」 「そういうことは全然聞いてない。少し話した感じでは相変わらずだった」 「相変わらず、ですか」 と、和成は失笑した。気持ちは分かる。 櫻は相変わらず。良くも悪くも。 「史緒さんには?」 「言えると思うか?」 「でしょうね」 「俺も悠長なことやってられないんだ。自分のことを晒すにしたって、信じてもらう証拠を用意するのに時間が必要だ。だから、そっちには行けない」 「……ようやく種明かし、というわけですね。咲子さんの」 和成は慎重な声で言った。当事者ではないのに、心配していることがわかる。 「史緒さんは驚くだろうな。君のことも、櫻のことも」 「驚くだけならいいけど」 「そう簡単に済まないでしょうね」 「あぁ。…覚悟はしてるよ」 本当なら、篤志の件だけだったはずだ。それが櫻が現れたことで状況は複雑になった。 どちらも軽い問題ではない。 史緒は櫻を前にして正気でいられるだろうか。 そして咲子のいたずらを───篤志が隠し続けてきたことを、史緒は受け入れてくれるだろうか。それとも…。 手のひらに汗をかいている。篤志はゆっくりと指を開いて、軽く振った。 「…ともかく、一条さんに話せてよかった。ありがとう」 「無理矢理聞かされたんですけどね」 「それはそうだ」 「本当に君らは2人して…」 和成はそこで息を吐いて、少しだけ笑いを含んだ声で、はた迷惑な兄どもだ、と呟いた。 煙草と灰皿を持って玄関を出る。アパートの廊下は夜は足音が響くので、それに注意して、手摺りに寄り、深呼吸。夏夏の夜の湿った空気を吸い込む。そして煙草に火を点けた。 吐いた煙が夜に紛れるのを見て、最後に史緒に会った夜を思い出す。 ──どうしてなにも言ってくれないの? ごめん。不安にさせたいわけじゃないんだ。 本当に、ただ、いつも、恐れていただけで。 真実を知ったときの、史緒の反応を。 ずっと今のままでもいいかと、思い始めていたけど。 史緒が嫌悪しているアダチに入りたかった。それは幼い頃から決めていたことだから。当然、史緒と結婚はしない。でも史緒の顔を見られる場所にはいたい。櫻と話せる場所にいたい。 ──あなたも、あなたの思うとおりに生きられますように (うん…) (願っているのは自分のことばかりだ) 白い煙が夜に消えていく。電灯に群がるユスリカ、湿った空気。意識を茹でる熱、夏の匂いがする。 ───いつも、強くなにかを思っていたのは夜だったような気がする。 天気が良ければここから月が見えるのに。 今夜は見えなかった。 * * * いつもと同じ、静かな夜だった。 家族が寝室へ入り、家の中に人の気配が薄れた頃、それはきた。 静寂を打ち消す電話のベルが鳴る。 長いあいだ鳴り続け、眠りについた空気を掻き乱すには十分なものだった。まるで異常を報せるサイレンのように、容赦なく無機質に、家の中に響き渡った。 篤志がその音に起こされ意識がはっきりしてきたとき、その音が不自然にやむ。父か母が、受話器を上げたのだろう。 ドアの向こうから母の悲鳴が聞こえた。 「!」 一気に眠気が醒め、何事かとベッドから抜け出す。同時にドアが外から開き、暗闇の中から母が現れた。 「篤志っ! 咲子が…っ!」 電話は訃報を報せてきた。 いつも落ち着いていて頼もしくさえある母が、取り乱し、声を震わせている。近寄り、声をかけ、慰めたかったけれど、篤志は足を動かすことができなかった。 ショックを受けていた。 部屋の中は暗く、篤志の背後の窓から、カーテン越しのやわらかい月の光が差している。自分の影が、ドアのところに立つ母まで伸びていた。 「篤志」 動けないでいるうちに父もやってきて、母の手を取り、体を支える。そして篤志のほうを見た。暗闇の中で、お互いの表情はよく見えないはずだ。 「大丈夫か?」 「…うん」 「そうか」 父の気遣うような深い声に、胸の中が揺れる。 「母さんは部屋に戻ろう。朝になって、あちらが落ち着いた頃にまた連絡しよう」 「あなた、でも…っ」 「一人にしてやるんだ」 「…っ」 「───お父さん」 「ん?」 「お母さんをよろしく」 「生意気言うな」 父はわざといつもと同じ声を残して、そのままそっとドアを閉めた。 篤志は部屋の中でひとりになった。 家は静寂を取り戻し、人の気配に薄められた薄闇を、また満たしていく。今あった会話が夢の中の出来事と思わせるような、非現実感。 自分の影が鮮やかに床に映る。振り返り、カーテンを開けると月が燦としていた。 寝静まった街を照らす月光に包まれる。静かなのに、熱い。 ようやく涙が出てきた。 一人じゃないと判ったから。 同じ悲しみを持つ存在が、同じ月を見ていると、理由もなく判ったから。 * * * 篤志は意外な人物の訪問を受けた。 チャイムが鳴ってドアを開けると、七瀬司が立っていた。杖を突いている。三佳はいない。一人だ。時間は22時を回った。こんな時間に彼が出歩くのは珍しいことだった。 それだけではない。近所に住んでいるとはいえ、篤志と司はお互いの部屋に出入りすることなど滅多にない。2人で話をするときも大抵は外で会う。自分のテリトリーを 「やぁ、久しぶり」 と、わざとらしいまでに含んだ司の調子に、篤志は少しの自嘲も込めて苦笑した。確かに会うのは久しぶりだ。篤志はずっとA.CO.に顔を出していなかったので。 「いきなり嫌みかよ」 「それも言いたいけど、訊きたいことがあるんだ。今、大丈夫?」 電話の一本もよこさず押しかけておいて、大丈夫もないもんだ。篤志に言い逃れをさせないために、わざとそうしたくせに。 「取り込んでる。手短に頼む」 「亨って誰?」 「本当に短いな!」 司は愛想笑いもしない。馴れ合いを拒む調子で言った。 「蘭のところに行こうと思ったけど、篤志のほうが適任かと思って」 「…櫻に訊いたのか」 「篤志も? 櫻に会ったの?」 これには驚いたようで声を高くした。 「入れよ」 篤志は司の手を引いて部屋に入れ、ロゥテーブルの位置を教えた。司はぎこちない所作でも何かにぶつかることはなく腰を下ろした。 「なんか飲むか?」 「いらない。それより、取り込んでるんでしょ? 手短に回答を頼むよ」 手厳しい司の声を受けて、篤志はふぅと息を吐く。司と真正面から向き合う気にはなれず、机の椅子に腰掛けて足を組んだ。 (さて) 司がどこまで見抜いているのかなんて知りようがない。櫻からなにを聞いたのか、過去に阿達家に居てなにを掴んでいたかは推測もできない。 今まで、こんな風に表立って、司から疑惑を向けられたことはなかった。なのにこうしてやってきたということは、司なりのカードを入手したからだろう。 潮時というやつかもしれない。 「蘭の写真、見たんだろう?」 「うん、三佳から聞いた」 前触れもなく写真の話題を出しても司は訝りもしない。話の方向はやはり解っているらしい、篤志はできるだけ感情を表さないように言った。 「写真に写っているのは、幼い頃の史緒と蘭と、年長の双子。その双子が櫻と───亨だ」 亨、と口にして少しの衝撃があった。その名を音にするのは何年ぶりだろう。その名を耳にすることも、長い間なかった。 一方、そんなことは判っている、と言わんばかりに司は次の質問を口にした。 「阿達家の子供は3人いたってことで間違いない?」 「あぁ」 「何年もあの家にいて、一度も聞いたことなかったよ?」 「櫻の双子の弟で史緒のもう一人の兄、…亨はもう死んでるんだ。司や一条さんがあの家に行くより少し前に」 「どうして…」 「事故、かな」 実際、表向きはそういうことになっているはずだ。 「本当に亡くなってるの?」 「───」 篤志は顔を上げて司を見る。確信があるわけではなさそう、その表情からも戸惑いが読みとれる。でも、司は確かにそう言った。 「…なにが言いたい」 「篤志は、どうして亨のことを知ってるの?」 矛先が少し変わった。質問に一貫性がないのは迷いがある証拠だ。 「俺が知ってると踏んだから、今、ここに来たんだろうが」 「そうだけど…いや、違うな。それを訊きたいわけじゃない。篤志は、亨に会ったことある?」 「それは…難しいな」 質問の捉え方が難しいのか、答え方が難しいのか、司は追求しなかった。 「───僕は自分で思っていたより、蘭の感性を信頼しているらしい」 「?」 「蘭の初恋が亨だって聞いて」 「…あぁ」 「多分、僕は、奇妙なことを考えてるんだと思う」 司は独白のように呟き、そこで喋るのをやめた。篤志も言葉が見つからず、沈黙が続いた。 先入観が無いというのは恐ろしい。想定するのも馬鹿らしいが、櫻と篤志をもし司が見たら、果たして気付いただろうか? いや、司は最初から、篤志を警戒していた。櫻に似ているという理由で。 「───ここまでだ」 「篤志」 「今日は見逃してくれ。近いうちに、ちゃんと話すから」 「史緒にも?」 「あぁ。それが一番、気が重い」 「……」 「史緒のこと頼む。一番恐れているのは、櫻が史緒のところに行くことだ」 * * * 櫻は駅からの夜道を歩く。滞在しているホテルは駅のすぐそばだった。 今日、篤志と別れた後、いくつかの場所へ顔を出してきた。首尾は上々だが、蓮蘭々(川口蘭)を捕まえられてないのは痛い。問いつめるには最適な人間なのに、どうやら逃げ回っているようだ。その他にもいくつか手間取ったことがあり、今日は思っていたより遅くなってしまった。ホテルへ戻る足取りは自然と早くなる。緩い坂道の人混みの中を、櫻は煙草を吸いながら縫っていった。 ホテルの格式は上の下といったところ。自動ドアを抜け、無駄に眩しい照明が照らすロビーを横切りフロントへ向かう。すでに櫻の顔を憶えているフロントマンは軽く頭を下げると『おかえりなさいませ』と英語で言った。軽く挨拶をして部屋のキーを受け取る。踵を返し、エレベーターホールへ向かおうとしたところで、櫻の進行を妨げる人影が現れた。 スーツ姿の女だ。ダークヘアをきっちりまとめ、ブランド物のショルダーバッグと銀色のアタッシュケースを持っている。険しい表情を隠そうとせず、眼鏡の奥から櫻を睨み付けた。 『今、帰り?』 『見りゃ判るだろ』 櫻は足を止めず、ほとんど無視して横を通り過ぎた。 『待ちなさいよ』 腕を掴まれ、櫻は面倒くさそうに振り返る。 『なにか用か』 『どこで何しようが勝手だけど、あの子の面倒を見る役目があることは忘れないでよね。さっき、仕事から帰ってきたらあんたがいなくて大騒ぎよ。きゃんきゃん煩くて、宥めるのが大変だったんだから』 女の恨み言ほど聞くに堪えないものはない。櫻はうんざりして腕を振り払った。 『わかったから、さっさと自分のホテルへ帰れ』 『本当に、頼むわよ? あの子のこと』 『言われなくても』 さらになにか言いかける女をいなして、櫻はエレベーターに乗った。 宿泊している部屋の前。チャイムを鳴らしてから鍵を開ける。ドアを開け部屋に入ったところで名前を呼ばれた。同時に、同居人が飛び出してきて、櫻の胸に抱きついた。顔を埋め、両腕を回し、強く、力を込める。 腕の中に収まる薄茶の髪を、櫻は愛おしそうに撫でた。 『ただいま』 胸の位置にある頭に声をかけると同居人はようやく顔をあげて、潤んだ青い眼を櫻に向けて、嬉しくてしかたないというように微笑った。 『おかえりなさい』 |
■02 「嘘は吐かないでいましょう」 そう言い出したのは母・和代だ。 そのとき、篤志は車椅子での生活を強いられていた。背中に傷を負い、立ち上がることさえできなかった。やっとリハビリを始められるかというときのことだ、入院していた病院の中庭に、父と母そして篤志の3人はいた。父が篤志の車椅子を押し、先を歩く母がゆっくりと振り返る。 「そういうことにしておいたほうが、篤志も気が楽でしょう?」 青空を背景に母は穏やかに笑った。 「誰かに訊かれたら、正直に言いましょう。嘘は吐かないでいましょう。私たち家族、3人の約束」 父・高雄と篤志は視線を合わせる。和代の意図が判らなかった。 「私はね、嘘を気づかれてしまうことに怯える生活なんてごめんなの。嘘を拠り所にするのも嫌」 和代は篤志の車椅子の前で膝を付き、その手を取った。 「嘘なんか吐かなくても、あなたを愛せるわ。本当よ」 篤志はその手を握り返して微笑う。 「ありがとう、お母さん」 その背後で高雄が息にのせて笑う。 「俺らも、咲ちゃんのイタズラ好きが伝染したのかな」 「ふふ、そうね」 「誰が、俺ら3人のイタズラに最初に気付くだろう」 「それは決まってる」 と、篤志が即答する。和代と高雄は興味深そうに篤志の顔を覗き込んだ。篤志はふたりに笑ってみせる。 「櫻だ。間違いないよ」 * * * その日の朝、関谷 夫は昨夜から、同業仲間との集まりで出掛けていて、帰るのは今日の昼前だという。 どうせ誰もいないしと、朝食はごく簡単なもの。普段だって、夫と2人きりだけど、やっぱり1人と1人以上の差は大きい。作ることが楽しくないし、同じものを食べても味が違う。食卓に1人の空気が重い。食欲も無い。和代は溜め息を吐いて箸を置いた。 そういえば、ずいぶん前に家を出た息子は、ちゃんと食べているだろうか。学校へ行ったり働いたりと中途半端な1人暮らしをしているらしい。忙しさに負けて食事を疎かにしていないだろうか、そのせいで体を壊したりしていないだろうか。自己管理はできる子だから、心配いらないとは思うけど。 和代はそこで思い出し笑いをした。 息子には最低限の料理を教えたけれど、あまりうまくならなかった。大抵のことは小器用にこなしていた息子だが、妙なところで苦手なものが見つかる。 ちなみに夫は、一時期、主夫をしていたので料理はできる。そのことを、よく、息子にひけらかしていた。 (まったく…、うちの男たちは大人げないんだから) もう一度笑った。この家でにぎやかに喧嘩していた頃が懐かしい。 和代は食事の後片づけを済ませて、日課の掃除を始めた。いつもよりはりきって、ローラー作戦で各部屋を片づけていく。もしかしたら夫が二日酔いで帰ってきて、寝室に籠もってしまうかもしれない。そうなる前に布団を干し、部屋に風を通した。 掃除が一段落したとき、電話がかかってきた。夫かと思ったが違う。習い事の連絡網だった。相手は話し好きの人で、つい長話になる。ちょうど、和代も誰かと話したかったところだ。話題は近所の噂話から折り込みチラシ、家の中の苦労話で盛り上がる。そういえば昨夜から声を出していなかった。 会話を中断するように玄関のチャイムが鳴った。 電話の向こうではない。こちら側の音だ。 夫ならチャイムを鳴らしてもすぐに鍵を開けて入ってくる。 「ごめんなさい。誰か来たみたい」 うん、いーよー、またねー、と相手は快く応じてくれて、電話を切った。 2度目のチャイムが鳴った。 「はーい」 和代は声を返して、ぱたぱたと廊下を走り、玄関へ向かう。 鍵を回し、ドアを開けた。 長身の痩せた男性が一人立っていた。 「……」 なにかを思い出し掛けたような気がする。水の底で生まれた空気が水面を目指す泡となるように。でもそれはすぐに割れて消えた。 セールスではなさそうだった。手荷物は無い。真夏だというのに長袖のシャツ。年代的に見て息子の友人かと思ったが見覚えはない。顔を見ると、男は和代のほうをじっと見ていた。名乗りもしないのでこちらから促す。 「あの、……どちらさま…───」 最後まで発音できなかった。和代は凍り付いた。 (……まさか) あり得ない。 でも否定できない。 「お久しぶりです」 と、長い前髪の下の両眼が細く笑う。 「───…」 和代はわずかに遅れて男の名前を思い出し、それをそのまま口にしていた。 「……櫻くん?」 * * * 関谷高雄は同業仲間と集まって飲んで、一晩泊まって、家に帰る途中だった。 朝になってみても体にアルコールが残っていた。高雄は普段でも、家ではあまり飲まない。妻も飲まないからだ。息子は酒が飲める年齢になる前に家を出てしまった(煙草は吸える年齢になる前に吸っていたようだが。 その息子は最近、別の仕事を始めたと近況を報告してきた。はっきり聞いたことはなかったが、どうやらそれも、目指していたもののうちのひとつらしい。ハタチを越した息子のやることに口出しするつもりはない。しかし、その前にやっていた仕事の仲間たちにうまく説明できているかが気になるところだった。 そしてちょうど、息子から電話がかかってきた。 「やぁ。アダチの仕事は順調かい?」 高雄がからかうように言うと、 「お父さん!」 と、穏やかでない呼びかけがあった。 「今、どこ? 家にかけたんだけど、つながらないから…」 「俺は外、都内だ。家には母さんがいるはずだよ」 「ずっと話し中で…」 「友達と長電話でもしてるんだろう。───それより、どうした? なにかあったのか?」 「櫻がそっちに行くかもしれない」 「………誰だって?」 「櫻だ! 俺のこともバレた」 ほろ酔い気分だった体に鞭を打たれたようだった。 「おそらく、櫻は俺のことを調べて回ってる。もし家に行くとしたら…」 「わかった」 息子がなにに気を掛けているか理解し、高雄は声を厳しくした。 「俺はすぐに帰る。おまえはおまえのやることをやってから戻れ」 「今夜、一旦、帰る」 「待ってるよ、じゃあな」 一気に頭が働き出す。高雄は早足で駅のホームへ向かった。 * * * 「お久しぶりです。関谷和代さん」 阿達櫻がそこに立っていた。 和代は声も出せない。 過去、彼と顔を合わせたのは、たった2回。最初は、彼の母親で和代の親友である咲子の病室で。そのとき、櫻はまだ中学生だった。次は、咲子の葬儀の日。春の晴れた日だった。櫻に、息子を紹介したことを覚えている。 ドアを開けたとき、どうして判らなかったんだろう。初めて会ったときは、似ていると、思わず口にしてしまったくらいなのに。 櫻は海難事故で行方不明になったと息子から聞いた。あれからもう3年。櫻の父親であり和代の同窓生である阿達政徳はもう諦めているようだった。 それなのに。 「…生きてたのね」 ようやく和代が言葉を発すると、櫻は嗤った。 「やっぱり、それが普通の反応だよな」 「え?」 「ここ数日のうちに何人かと再会したけど、見せる反応はほぼ一様。だけど関谷…あぁ、和代サンの息子だ。関谷篤志だけは、違う反応だったから」 「───」 含むような科白。話の方向に気付いて和代は鈍い衝撃を覚えた。 「ヤツのことを尋ねたい」 (待って) (…なにを言う気なの?) 和代は心細さに負けて、家の中を振り返った。でも誰もいない。夫は出掛けている。今、自分は一人だ。 (…言わないで) 不敵に嗤う櫻を前にして恐怖が擡げる。気持ちが渦巻き始める。 (言わないで) (お願い。訊かないで。それを問わないで) (そうしたら私は、───答えなきゃいけない。約束を守らなきゃいけない) 「確認したいことはひとつだ」 ドアを閉めてしまいたかった。でも櫻の視線から逃れられなかった。 「関谷篤志は、本当にあんたらの息子なのか?」 いっそ気を失えたらいいのに。 こんな突然に。 やってくるなんて。 唇が乾いているのにそれを舐める余裕もない。ドアを押さえたままの腕は静かに痙攣を起こし、足は少しでも気を緩めれば崩れてしまいそうだった。 櫻は返答を待っている。口元は薄い笑いを浮かべているのに、視線だけは鋭く、和代を見下ろしていた。拒否は許さないとその瞳は語っている。 「……どうして、そんな訊き方するの? もう、…わかってるくせに」 「当事者の口から訊きたい」 櫻が訊いたのは、息子の本当の名前じゃない。 ──本当にあんたらの息子なのか? 余計に酷い。酷い問いかけだった。 「和代サンのことも調べたよ」 「───ッ」 「咲子はあんたを紹介するとき、“同じ病院に入院していた”と言った」 「だからって!」声が空回ってしまう。「……医者から聞き出すことは、できないでしょう?」 「別に医者じゃなくても過去を知る他人はいるさ。看護婦や入院患者。あの病院は長期入院の患者が多いし、年寄りの集まりにもなってる。俺のことを覚えている人もいた、あとは口八丁でどうとでも。───あんたのことを知る人もいたよ。入院していたこと、それから、結婚直後に通院していたことも」 「……」 和代は泣いていた。 両眼から溢れてくる涙は止まりそうになかった。 「で、最初の質問に戻るけど」 櫻の声は少しも変わらずに同じ問いかけを繰り返した。 「関谷篤志は、本当にあんたらの息子なのか?」 * * * 父は前を見据えている。 その父を仰ぐ。 「欲しいものを口にすることは決して悪いことじゃない。でも気をつけなさい。それはときに、人を悲しませる。それが得難いものならなおさら」 「どうして悲しむの?」 「それをおまえに与えてあげられない不甲斐なさが、とても辛いんだ」 中学生の篤志にはよくわからなかった。 「お父さんは、なにが欲しかった?」 父は大きなてのひらで篤志の頭を撫でる。 「そうだな、俺はもう手に入れたから、篤志になら言ってもいいかな。父さんは昔から───好きになった女性と恋愛して、結婚して、子供を育てたいと思っていたよ」 篤志は後になってから知った。 かつて父はその願いを口にして、母を悲しませたことがあるのだろう。 * * * 「ごめんなさい! ごめんなさい…っ」 関谷高雄は、結婚したばかりの妻の謝罪を唖然として聞いていた。 立ちつくし、声を出すこともできない。それを告げられたとき、全身の力が抜けてしまって、視点さえ定まらない。 目の前で崩れ落ちる妻を前に手を差し伸べることもできなかった。 「高雄さんッ、ごめんなさい!」 涙混じりに謝り続ける痛々しい姿に狂気さえ見えた。 ───どうしてこのとき、声を掛けてあげられなかったのだろう。 傷ついていたのは、彼女のほうだったのに。 妻が哀れだった。追い込んでしまったのは高雄自身だ。それなのに、まるで他に言葉を知らないようにひとつの言葉を繰り返す妻に、こちらから謝ることもできなかった。 妻は何度も謝罪を口にする。何日も。何ヶ月も。 ぎこちない関係が続いた。 なにも知らない阿達咲子が、この家を訪れるまで。 * * * 「和代っ!!」 高雄は自宅の玄関に駆け込んだ。 何回かけても電話は繋がらなかった。篤志がかけたときの「話し中」とは違う。何度コールしても呼び出し音が途切れることはなく、また、留守番電話にも切り替わらなかった。和代が出掛けているならそれでいい。けれど高雄は妙な胸騒ぎを感じていた。 普段は歩く駅からの道のりにタクシーを乗り付ける。マンションのエレベーター中でも、一度電話をかけた。高雄は気が急いて、携帯電話を握りしめたまま、自宅へたどり着いた。 玄関の鍵は開いていた。 そして、 「…和代?」 まるで眠っているように頭を垂れて、ぐったりと壁に肩を預けている。家の中はしんとして、他に人の気配は感じられない。 「おいっ、大丈夫か」 肩を支え、起こすと、和代は弱々しく頭を上げた。 「……あなた」 ひび割れた声が返る。 青ざめた顔に、泣いた跡。 「なにがあった!?」 和代は震える指で高雄の袖を掴む。 「…ごめんなさい」 「───」 過去に何度も耳にした嫌な響き。もうそれは禁じたはずなのに。 「櫻よ。ここに来たの。…私のことも、知ってた」 「!」 「訊かれたの。だから…私、…違う、って。…違うって!! ───だって、約束だったから。3人の。あなたと、篤志と。約束だったから」 「和代…」 「私から言い出したことだもの、だからちゃんと本当のことを言った。嘘を吐かなかった、でも」 言葉が割れ、喉が鳴った。和代は顔を歪ませる。泣いているのか、笑っているのか。 「不思議ね…。その一言を口にするのが、…すごく辛くて。初めから決めていたのに。私が言い出した約束なのに。自分の息子との関係を否定する一言が、こんなにも重いなんて、思わなかった。───あの約束を言い出したときの私は、そんなことも想像できないほど、…っ、解ってなかったんだわ! なんにも解ってなかった。3人で暮らすことが、どういうこと、なの、か…」 声を殺して泣く和代を抱き寄せる。それしかできなかった。 「辛いことを言わせて悪かった」 「───…ごめんなさい…」 「謝るなッ」 高雄と、和代と、咲子と。何年も前にこの家で交わされたやりとりが、仕掛けられたイタズラが、急速に収束しようとしている。 不安が無いわけじゃない。 ただ、当事者の一人であるのに、手出しすることはなにも無いことは解っていた。 「あとは篤志が決める。俺たちは息子が選ぶ未来を、ただ待っていればいいんだ」 未来を決めるのは自分たちではない。 篤志だけでもない。史緒や司、他の、息子を取り巻く仲間たち。そして櫻も。 あの若い連中が、そうと知らぬまま、未来を示していくだろう。 * * * 春も終わりの頃。 日中の日差しは日に日に眩しさを増し、街を蒸す気温は体に暑い季節を思い出させる。新緑の鮮やかさが目に付き、もう、初夏と言っても良い季節だった。 その日の夜は小雨が降っていた。夏が来る前に梅雨があることを思い出させた。 関谷和代は夕食の後始末を終えて、一人、リビングにいた。ソファに腰掛け、なにをするでもなく、雨樋を叩く雨の音を聞いている。膝の上にある本をめくってみても、目はページを滑っていくばかり。内容が頭に入らないどころか、文字さえ追えなかった。テレビを見る気にもならない。ただ一人、照明の灯っている閑散としたリビングの空気を吸っているだけ。 夫は夕食の後、自室へ戻っていった。最近はいつもそう。そのことを責める気はないし、責める事でもない。無気力で目を合わせようともしない妻を見ているのが辛いのだと思う。本当に、申し訳がなかった。 時計の針が9時を回ったとき、玄関のチャイムが鳴った。 来客がある時間ではないし、また、その予定もない。 (…誰?) 和代は腰を上げて、訝りながらも玄関へと向かう。 「どちら様でしょうか?」 鍵をあける前に問う。夫の友人かもしれないし、近所の人かもしれない。和代は何人かの顔を思い浮かべる。 玄関の向こうから、戸惑うような声が聞こえてきた。 「あの、…和代ちゃん? …あたし、咲子です」 寒さに震えるような、細い声だった |
■03 櫻が怖かったわけじゃない。 と、言えばやっぱり嘘になるけれど。 傷つけられても構わなかった。 腕の中のネコの温かさで楽になれた。櫻の言葉は刃物のように周囲に振り回されていて、それに切られることもあったけど、ちゃんと治せていた。 和成は今も気にしているけど、この火傷だって大したことじゃない。 過去に 傷つけられてもいい。 だから思い出させないで。 櫻が怖かったわけじゃない。 櫻を見て、櫻以外の人を思い出したくなかっただけ。 最後はもう呼び違えることもないくらい2人は似ていなかったけど、でも確かに同じ顔で。 もう一人、別の存在が確かにいたのだと。 その顔で。 あの日の桜の色を思い出させないで。 嵐の日、櫻がいなくなった。もう顔を見ることもない。思い出すこともない。 何年も経って、別の死に遭うことで思い出してしまったけど。 でももう大丈夫。 ネコもいない、和成もあの頃ほど近くにはいないけれど。 幼い頃とは違う。自分も。自分を取り巻く環境も。 だからもし、あり得ないだろうけど、「失踪」という扱いになっている櫻がまた目の前に現れることがあっても平気。 そう、思っていた。 「はーい、はいはい! 祥子さんっ、今日の帰り、祥子さんのお母様のところへお邪魔しちゃだめですか? ご無沙汰しちゃってるもの、お会いしたいでーす」 蘭はソファの周りを飛び回りながらいつも以上の陽気さで言った。祥子は苦笑して答える。 「うん、いいよ。そうしよっか」 「あと、今日はあたしがごはん作るって約束ですよね! 帰りにスーパーに寄ってくださいね! やったぁ、誰かに食べていただける機会なんて滅多に無いし」 「それはお互い様」 「連日泊まらせていただいて、ご迷惑じゃないですか?」 「ううん、そんなことない、楽しいよ? 蘭の学校の話とか聞けるし、一緒に出掛けられるし。都合がつくあいだは居て欲しいな」 「ほんとに? ありがとうございますっ」 ソファの背後から祥子の首に両腕を回す。祥子は驚いて声をあげるも、それを甘受して歯を見せて笑った。 「友情ごっこをやってるところ悪いんだけどさぁ」 と、蘭と祥子の会話を中断させたのは健太郎だ。向かいのソファから呆れたような視線を向けている。その隣りで史緒もくすくすと小さく笑っていた。 「先にこっち、終わらせちゃわない?」 と、テーブルの上に配られた書類を指差し、何の為に集まっているかを示した。 その日───後にその 篤志は最近、顔を出していない。司と三佳はこちらへ向かっている途中だという。 「蘭はまだ祥子のところにいるの?」 数日前もそんな話を聞いた気がして史緒が訊くと、蘭は大きく頷いた。 「はい。おじゃましてます」 「相変わらず仲良いのね。夏休みだし、2人でどこか出掛ける予定でもあるの?」 「…いえ、今のところは。あたしが勝手に押しかけてるだけです」 蘭の声と表情に影ができた。 「そう?」 「あっ、あの、あたし、お茶入れてきますっ。ケンさん、ごめんなさい、もう少し待っててね!」 史緒の問いかけは少しも含んだものは無かったのに蘭に逃げられてしまった。 首をひねる史緒に、書類に目を通していた祥子が小さく言った。 「帰りたくない事情があるみたい。訊かないであげて」 「そう…」 祥子のところに逃げられているならそう心配することはないだろう。らしくない蘭の動揺を見てそれをを気に留めながらも、史緒は仕事に思考を切り替えた。 ───最初に反応したのは祥子だった。 ぴくりと目を上げ、顔を上げる。少しの時間、空を見据えた。 戸惑うような表情。眉にしわが寄り、さらにそれが一層濃くなって、祥子は音を立てて立ち上がった。 その険しい表情に史緒が気付いて、声をかけるより先に祥子はドアに目をやり、声を上げる。 「史緒…っ」 「───え?」 ばんっ。 事務所の扉が蹴破られる勢いで開かれた。 突然だった。ノックもない。そんな不躾な来訪者は長身の男性だった。 長い前髪で顔がよく見えないので年齢は読めない。夏だというのに長袖の白いシャツを着ている。そのシャツの上からでも、男性がかなり痩せた体型であることがわかる。 事務所に入ってきた男性は所員ではないのだから、客である可能性が一番高い。それなのに誰も動けず、声を掛けられなかった。男は簡単に挨拶すらさせない異様な雰囲気を放っていた。 男は事務所の中を僅かな動作で見渡したあと、横柄な態度で面倒くさそうに吐き捨てる。 「蓮家の末娘はいるか?」 誰かが悲鳴をあげた。 悲鳴をあげたのは、ちょうど奥の部屋から戻ってきた蘭だった。トレイを落とし、緑茶が入って水滴をつけていたグラスが、ひとつ割れた。 蘭は青ざめて、唇が震えている。 突然の闖入者に反応らしい反応をしたのは蘭だけで、健太郎と祥子は男に目をやっただけだった。 蘭が震える声を出す。 「…櫻さん」 突然、すぐ後ろで小さな台風が起きたのかと思った。 祥子は声が出るほど驚いて振り返り、そこに立つ史緒を見た。 史緒はこれ以上ないというくらい瞠って、瞬きすらなく、突然の来客に目を向けて離せない。意識がないのかと思った。生気の無い青白い肌。 その見開いた目以外に表情らしい表情はない。 けれど、祥子にとっては、史緒がこれほどまでに動揺を表したのは初めてだった。いや、動揺というような生温いものではなく、何もかも吹き飛ぶくらい、痛いほど激しい悲鳴。洪水のように溢れ湧き出してくる戸惑い、驚き、混乱? これ以上近づいたら、その感情に飲み込まれてしまいそうだった。 「史緒? どうしたのっ?」 という祥子の声が聞こえたのか、男がこちらを───史緒を見た。 「…っ!!」 スイッチが入ったように史緒の顔が歪む。まるで熱いものに触れたかのように体が跳ねた。 ドアの前に立つ男は無表情で史緒を見据えたあと2秒後に視線を逸らし、蘭のほうを見た。そしてずかずかと事務所へ足を踏み入れる。蘭は逃げることもできず、震え、壁に背中をつけた。 「さ、櫻さん…」 「最初から、見抜いてたんだな」 蘭を追いつめた男は低い声を出した。 「その上で、俺を 「…ごめ、ごめんなさい。ごめんなさいっ」 「謝罪が聞きたいんじゃない」 「…っ」 威圧的な声に蘭は唇を噛んで視線を落とした。 「そう、謝ることない。俺の眼がふしあなだったってことだ。らしくなく他人を信用しすぎていた、俺の落ち度だよ」 「…ごめんなさい」 男は目を細めて笑う。 「こっちこそ悪かったな。見くびっていたんだ。おまえが“捜し物”を諦めた、関谷に鞍替えした日にさ。本当に自分でも笑えるよ。まさか亨が」 「やめてっ、櫻さん!」 蘭は鋭い声で男の発言を止めた。それだけは許さない、というように。 「───」 男───櫻は煙たそうに眉を顰めた。しかしその僅かな間に蘭の意図を察する。 そして振り返り、史緒を見た。 史緒は射られたように体を引きつらせ、震える足が折れてそのままソファの影に膝を落とす。櫻は苛立ちを隠せず舌打ちした。 蘭に背を向けて歩み寄る。史緒は短い悲鳴をあげた。カツカツと足音が響いて、それが史緒の前で止まる。そのまま蹴飛ばされるのを恐れて咄嗟に頭を抱えた。 「なに、幽霊に会ったような顔してんだよ」 目の前に立ち、見下ろしてくる人物が誰なのか。史緒はまだ信じられない。 ドアが開かれてから、蘭が彼の名前を口にするまで。その名前が記憶の底から浮上するのを必死で否定し続けていた。けれど目の前に立つのは、紛れもなく、3年前、史緒の目の前で嵐の海に落ちた、阿達櫻だった。 「……っ」 なにがそうさせるのか、体の震えが 思考が働かない。視線を逸らしたいのに、体は言うことを聞かず、数年ぶりに見る顔を見上げ、目を離せなかった。 そんな史緒を見下ろして、櫻は苛立ちを込めた溜め息を落とした。 「まだまともに喋れないのか?」 「…ゃ」 細い割に力強い指が伸びて史緒の腕を掴んだ。強引に立たせられる。近い視線に泣きそうになって逃げようとするが櫻は許さない。怒りを露わにして史緒を睨み付けた。それと向き合うことができなくて史緒は目を瞑った。 「おまえの馬鹿さ加減には心底呆れるよ」 大声ではないのに、強い声。 「確かに、期待はしてなかった。蘭もそうしたように、あいつを見つけるための餌として利用しただけだ。俺が知り得ない所で餌に掛かる可能性ももちろん考えた、それを…」 史緒は櫻の腕から逃れようと必死でその言葉は耳に入らない。構わず櫻は史緒の手を引いた。 「おまえは昔から、都合の悪いことからは眼を逸らしてばかりだ。…ああ、解ってるよ、これに関しては俺だって他人のことは言えない。だけど、───おまえは何年も一緒にいる人間の顔もまともに見られないのか? それとも元のほうを忘れたか。関谷は」 「櫻さんっ!」 「おまえは黙ってろ!」 「…ッ」 蘭の静止に櫻は振り返りもしない。その厳しい声には蘭に対する怒りが込められていた。なにに怒っているのか、蘭はよくわかっていたから、自責し、唇を噛んだ。 櫻は史緒の腕を捻り上げる。視線を合わせようとしない怯えるだけの横顔に、幾分声のトーンを落とした。 「俺が最後に言ったことを忘れたのか?」 その言葉に史緒の抵抗が止む。 「───…?」 史緒ははじめてまともに櫻を見た。 微かに見開いたあと、視線が外れ、ゆっくりと泳ぐ。記憶を探るように。 櫻に捕らえられていることも忘れて。視力では見られない、遠く。遙か過去を。 「……さいご…?」 (最後。嵐の日。崖の上。海の音。ネコ? 違う。櫻は嗤った。唇が動く。なにを?) ようやく動き始めた思考は記憶を探ろうとするが、視界を遮る人影に現実に戻された。 「込み入ってる話の最中に悪いんだけど」 健太郎の背中が史緒の目の前にある。その向う側からいつもの飄々とした声が聞こえた。 「とりあえず、その手を離せよ」 「…っ、ケン?」 史緒を庇うように立つ健太郎は、その場の空気など気にしないといった様子で、史緒の腕を掴んだまま櫻の手首を軽く叩いた。 「なにか用か」 櫻の見下すような視線をものともせず、健太郎は芝居がかった調子で額を掻いて、櫻の顔を覗き込むように言った。 「サクラさんとやら。ノエル・エヴァンズの連れってあんただろ?」 「───」 櫻の表情が微かに揺れた。 さっき、突然の乱入者に驚いたのは健太郎も同じだった。けれどもちろん、史緒や蘭の驚きとは違う。そして、祥子のように事情を知らず不可解であることとも、また違った。別の意味で驚いていた。最近、見た顔だったのだ。 「…だからどうした」 不機嫌を隠さない返答もさくっと無視して、健太郎は不敵な笑みを作り自分の優位性をアピールする。 「身元がバレてるのに、不法侵入に乱暴狼藉はまずいんじゃねぇの? 警察沙汰にして困るのはそっちのはずだ」 「身元?」 櫻は鼻で笑って、史緒を乱暴に放した。史緒はふらついて、また座り込んでしまうところを祥子に支えられた。 「身元、ね」 その史緒を指さして櫻は言う。 「俺の身元なんて、こいつがよく知ってるよ」 立ち位置が重なっているので、祥子もその指先を受けた。史緒はぐったりとして大人しく腕の中に収まっている。そんな姿を 顔を上げると、櫻はこちらを見ていた。 「史緒」 びくっ、と史緒の肩が跳ねた。 「俺はこれから親父のところへ行く。後でおまえも呼び出すよ。首を揃えたところで種明かししてやるさ。親しい人間に騙され続けていることに気づかず、俺が教えてやったことを考えもせず忘れて、そうやって目を逸らし続けていた自分の愚かさを思い知ればいい」 櫻は軽蔑のまなざしを向けて言い捨てた。 史緒の反応が無いと見ると気が済んだのか踵を返す。 「警察沙汰にして困るのは、史緒のほうだよ」 と、皮肉げな笑いを健太郎に残した。 そのまま去ろうとする櫻の背に、祥子は叫んでいた。 「ちょっと待ちなさいよっ!」 突然現れた男に好き勝手言われ放題で祥子は腹が立っていた。事務所内を掻き回すだけ掻き回してあっさり帰るのも許せなかった。 気にくわない対象は櫻だけじゃない。蘭や、そして史緒の様子も面白くない。 祥子は彼らの事情など知らない。だからこそ、余計に苛立ちが募る。それからひとつだけ、櫻という人物について思い当たることがあった。 支えていた史緒をソファに座らせると、祥子はそのまま櫻に詰め寄った。 「あなた、煙草吸うでしょう?」 近づいてみれば問うまでもない。咽せるような煙の匂いに祥子は顔をしかめた。 「だからどうした」 櫻は怪訝そうな表情で祥子に目を向ける。改めて、その眼鏡の奥の瞳と至近距離で向き合う。 怖い、と思った。その瞳だけでなく、祥子の能力が無意識のうちに視る、気配も。 すべてのものに苛立っているような。───許せないでいるような。 櫻はふとなにか思いついたように、史緒のほうを見た。 「あぁ、残ってるのか」 「!」 祥子は薄寒くなった。まるで透視でもしたかのように、櫻は一瞬で祥子の問いかけを理解した。視線を戻して嗤う。 「別にあいつにとっては屈辱の傷じゃないだろ。猫と七瀬を守ったつもりなのさ」 「え…?」 「そういう盲目的な自己満足が、さらに周りを見えなくさせる。与えることに必死で受け取ろうとしない。教えてやれよ、その独善的な思考が騙され続けている原因だって。あいつに比べたら七瀬のほうがよほど眼が利くよ」 冷たく笑って、もう用はないというように、ドアの向こうへ消えた。 嵐のような来訪者は去っていった。 * * * そうだ。 嵐の日。 あの崖の上で。荒れ狂う風の中で。 櫻は言った。 唇が動くのを見た。 「………え?」 訊き返したのは、聞き取れなかったからじゃない。 「2度は言わない」 「ふざけないで…ッ!!」 全身を震わせる、怒りが込み上げる。 「櫻が殺したくせに!」 それなのに。 どうして今更、そんなことを言うの? * * * 醜悪な余韻を残して男が消えた扉を、祥子はしばらく睨んでいた。 (…あの人だ) ──祥子は、誰かを憎んだことがある? かつて史緒が言った。 ──本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感 ──それから、少しの殺意 (あの人だ) (あの人が、史緒の) (憎しみの対象だった人) (首の火傷も) 祥子の知らない過去が史緒にはある。 でもそれがどんなものであろうと、祥子にとっての史緒は、初めて会ったときから小憎たらしく、生意気で、皮肉屋で、祥子を挑発し怒らせることばかり言う嫌なやつだった。祥子の能力を手元に置くために蘭も利用して、そのことを悪びれもしない。弱いところを見せず、仕切屋でワンマンで、A.CO.を引っ張っていく。 その史緒が、一言も言い返さなかった。 言い返せなかった。 「史緒さん…っ!」 ソファに倒れ込むように座る史緒に蘭が駆け寄る。 史緒は顔すら上げず、青ざめた顔でぶつぶつと何かを呟いている。 「……ネコ、どこ?」 息を吐くような頼りない声はそう言った。蘭は 「史緒さん、しっかりして!」 正気で無いのは見れば判る。あの男はその存在だけで、ここまで史緒にダメージを与えることができる。 祥子はこぶしを握り歯ぎしりした。 「史緒っ!」 力任せに腕を引いても、史緒は祥子と目を合わせようともしない。 不安と怯えを隠そうともしない表情はさらに祥子を苛立たせる。 祥子はカッとなり、手を振り上げて史緒の頬を叩いた。 「しっかりしなさい! あんたのそんな姿、見たくもないのよ!」 蘭は肩をすくめ、健太郎も身を縮めたが、気持ちはわかる、と目が言っていた。 怒っているはずなのに、目に涙が滲んだ。 「あんたはいつもみたいに、強気で偉そうに、威張ってればいいの!」 (くやしい) (どうして、史緒があんなのにやられるわけ?) 祥子は肩で息をしながら涙をこらえていた。 しばらく経って史緒は叩かれた頬に指で触れる。痛かったのか指が跳ねて、あらためてそっと撫でた。その動作は日頃の史緒からは考えられないほど 「……」 史緒は唖然とした表情でようやく顔を上げた。見開いた目がまともに向けられる。それを確認して祥子は涙目で睨み付けた。怒りさえ覚えているというのに、史緒は呆気に取られた様子で、 「……ごめん」 と、間の抜けた声を返した。口端がどこか笑っているように見えた。 * * * 司は三佳と一緒に事務所へ向かう途中で櫻と遭遇した。 先に気づいたのは三佳のほうだった。司、と手を引いて有事を報せてくる。その1秒後、司の知覚範囲内にも入った。そして櫻のほうも気付いたのだろう。明かな意志を持って、足音が近づいてくる。 「やぁ、島田サン。七瀬も」 (なんで…) 櫻は事務所のほうから来た。 篤志と、そして司自身も恐れていたこと。 櫻は史緒に会ったのだろうか。 「史緒には構わないんじゃなかったのか?」 責めるような余裕の無い声になってしまったことは発した後に気付いた。それを冷やかす声で櫻は短く返した。 「事情が変わったんだ」 「事情って…」 「ひとつ忠告してやるよ。関谷篤志に気をつけろ。あいつが現れたばかりの頃、おまえは警戒していただろう?」 忠告といいながら、からかうような、いつもどおりの揺さぶり。不安を与え、その反応を見る、いつも通りの櫻のやり方。 けれど、前に会ったときならともかく、今の司にその言葉はもう効かない。 「その疑心はもう解けたよ」 笑みを乗せて答えると意外そうな声が返ってきた。 「亨のことは知らないんじゃなかったのか?」 「昨日、知った」 「誰から?」 「本人」 「史緒には?」 「言ってない」 「じゃあ、もう少し大人しくしててくれ」 「そのつもりだよ。僕は部外者だ」 相変わらず櫻との会話は妙な緊張感がある。内心の疲労を完璧に隠しているはずなのに、すべて見抜かれているような気さえしてくる。 「さすが。よく解ってるじゃないか。どうせ決着がつくまでは数日だ。すぐ済むよ」 じゃあな、と言って櫻は司の横を通り抜けようとする。しかしすぐに何か思い当たったように踵を返した。 「───あぁ。今のうちに史緒と手を切っておいたほうがいいんじゃないか? あいつの正体を知ったあと、史緒が使い物になるとは限らないだろ?」 そう残して、今度は本当に櫻は去っていった。 「……」 それも、いつも通りの揺さぶり。司に不安を与えるための言葉だ。 けれど今の最後の一言は、ずいぶんな重みを残した。 もちろん、そんなことにはならないと否定する根拠はいくつかある。 でも史緒にとってその正体を知ることは、櫻が生きていたという事実以上に、衝撃的なのではないだろうか。 史緒は櫻の生存を受け入れられただろうか。 そして、数日のうちに明かされるというもうひとつの真実を、史緒は受け入れられるだろうか。 まだ折り返しにも達していない今回の騒動に、司は大きな溜め息を吐いた。 * * * 司と三佳が合流し、A.CO.7人のうち篤志以外の全員が事務所に揃った。 ずいぶん気落ちしている蘭が「お茶いれます」と席を立ったので、三佳は自分がやると申し出たが蘭は首を横に振った。「やらせてください」と覇気のない様子で奥のドアへ消えた。 そのあいだに祥子が司と三佳に事務所であったことを伝えた。史緒はまだ完全に調子を取り戻せていないようで、ソファに身を沈めて、祥子の説明に口も出さず耳を傾けている。健太郎はさきほどからノートパソコンに向かっていた。 祥子の説明が一段落すると、今度は司が櫻と会ったことを史緒に報告した。その際、数日前にも会っていること、櫻が亨を捜していること、篤志に気を付けろと忠告したことは言わなかった。それがわざとだと判ったので三佳は口出ししなかった。 一通りの情報共有が終わり、カップがテーブルに並べられて全員が座ったあと、史緒は改まった様子で言った。 「醜態を見せてごめんなさい」 と、軽く頭を下げた史緒はいつもの調子に戻っていた。 「あの人は、阿達櫻。…この中で面識があったのは、蘭と司ね。───私の、兄なの」 「兄って、例の写真の?」 「ああ、…そっか。そういう意味では、みんな知ってるのね。そう、あの写真では右に写っていた男の子よ。失踪中ということになっているけど、3年前に死んだと思われていたの。私が───…」 そこで突然、史緒は言葉に詰まった。 三佳はその理由が分かってしまった。 ──そのとおり、3年前、俺は史緒に殺されたんだ 櫻が笑いながら言った。まさか史緒はそれを口にするつもりなのだろうか。 「3年前、私が……」 それを聞きたくなくて三佳は思わず隣りの司の袖を掴む。 「史緒」 言いよどむ史緒の言葉を切ったのは司だ。同時に、三佳の手がぽんぽんと叩かれる。安心させるように。 その動作とは対照的に、司は突き放すような言い方をした。 「話が進まなくなるから、 「でも…」 「愉快な話題じゃない。それでも言わなきゃ気が済まないなら後にしてよ。それより、この先、なにをどうするかのほうがよほど重要だと思うけど?」 史緒は口を閉じ、うつむく。 「………。…ともかく、櫻のことは私の家のことだし、当然だけど仕事は通常営業でいきます。櫻がどういうつもりなのか私は解らないから、なにがどうなるっていうのは今は言えないけど、今日、騒がせてしまった責任をとって、みんなにも、後からちゃんと説明するから」 言葉に迷いながら、まるで吐き出すように史緒は言葉を紡いだ。そのあと少しの沈黙が続いた。健太郎は話を聞きながらもパソコンに向かっているし、三佳もそうだが祥子も事情をまったく知らないせいか言葉を挟めない。蘭はうつむいて顔を上げないし、司もなにか考え込んでいるようだった。 その司が顔を上げて言う。 「そういえば史緒、喋りづらそうだけど、口、どうかしたの?」 この発言には三佳も驚いた。司には見えないはずだが、史緒はずっと、濡らしたハンカチを頬に当てていた。三佳もいつ訊こうかと思っていたけどまさか司に先を越されるとは思わなかった。 健太郎がぷっと吹き出した。 三佳は、まさか櫻に手を上げられたのかと心配していたのに。 「あぁ、これ? 祥子に殴られたの」 史緒は事も無げに答える。 「祥子ぉ?」 意外な加害者の名前に三佳と司は声をハモらせる。祥子は慌てて割って入った。 「なぐ…って、嘘よっ、ちょっと叩いただけじゃない!」 「“ちょっと”? その割には効いたわ」 「上司に手を上げるとは、祥子もやるな〜」 「健太郎までなに言ってんの? あんただって、やって当然って顔してたじゃない」 「いや〜ぁ、俺だったら実際はやらないよ。たとえ男でも上司に手は上げない」 「どーだかっ! 気に入らない状況で健太郎が黙ってるとは思えないけど!」 「よく解ってるじゃん。だから、黙ってないで口は出すよ。誰かさんみたいに手は出さないけどな〜」 余裕の切り返しに祥子は口を金魚のようにさせる。健太郎に反撃するのは諦めて、史緒へ言葉を投げた。 「わ、私は謝らないからねっ」 「え? うん、もちろん。ありがとう」 「………は?」 どこか穏やかな史緒の反応に、気持ち悪いものを見たように祥子の顔が歪んだ。 「それにしても」 史緒は溜め息を吐く。 「生きてたのね…」 できるだけ湿っぽくならないように声を出したつもりだったのに、失敗したようだ。周りからいくつもの心配そうな目を向けられてしまう。 「平気よ。ごめんなさい」 「声も出せなかったくせに」 むくれた祥子の横槍に史緒は苦笑して返した。 「突然で驚いてたのよ。許して?」 (大丈夫) 頭は動き始めている。ここで崩れたりなんかしない。これは強がりじゃない。 史緒は目の前にいる人たちの顔を見回してそれを再確認する。 櫻は生きてた。海に落ちたあとも死んではいなかった。それをすぐに受け入れることは難しい、でも切り離して考えることはできる。 あの後、助かって、すぐに出てこなかったのは戻れない事情があったのか、それとも戻りたくない理由があったのか。 そして3年も経った今になって出てきたのは、戻れない事情が解消したからなのか、別の目的があるのか。 (どちらも後者だわ) さっきの態度を見れば考えるまでもない。 自発的に帰らなかった。連絡もしなかったということは、阿達櫻は死んだと思われても構わないということだ。事実、こちらではそうなっていた。櫻の生存を誰が信じていただろう。 それにもし、3年間戻れない事情があって、今になってそれが解消したのだとしても、櫻が阿達家に帰りたくなる理由を史緒は想像できない。櫻を引きつけるものがここにあるとは思えない。あえて挙げるとすれば、アダチの地位とか(当時、彼は跡継ぎとして育てられていたわけだし)。でも父親には「これから会いに行く」とまるでついでのように言った。「種明かし」とやらのお膳立てのため。そう、櫻がやりたいのは「種明かし」だ。 ──首を揃えたところで種明かししてやるさ (なにを?) さっき、蘭に対して怒りをぶつけていた櫻は史緒の記憶の中の彼とは少し違っていた。 他人に危機感を与えないと気が済まないような語りかけ、薄い笑みを含んだからかい、傷つけることを意識した物言い。悪く言えば、他人にたたきのめしそれで満足する人かと思っていた。 でもさっきのは、自嘲するような中に余裕のない怒りを蘭にぶつけ、史緒に、そして櫻自身に苛立っているように見えた。 あんな人だったろうか。 史緒の目が肥えたのか。櫻が変わったのか。いつもの態度を保っていられない何かがあったのか。 「…蘭」 「は、はい…っ!」 視線を落とし史緒の隣に座っていた蘭が泣きそうな表情で反応する。突然の名指しに驚いたわけではなさそうだ。いつ声を掛けられるか、気を張っていたのだろう。史緒は安心させるように笑いかける。 「訊いちゃだめなのね」 「…っ」 「いいのよ。無理には訊かない。近いうち、種明かしはしてくれるみたいだし」 「…」 蘭の視線が泳ぐ。幾度か唇が空回り。歯を噛み、きつく目を閉じた。 「…ごめんなさい、史緒さん。やっぱり、あたしの口からは、言えません」 「うん」 「でもね」 「ん?」 「櫻さんが考えていることは…わかりません。でも、櫻さんが何年も、子供の頃からずっとずっと、捜し続けていたもの、あたし知ってます。どんな理由があったかは知りません、でもどれだけ長い年月をかけてそれを捜し続けていたかは、本当に、よく知ってるんです。これだけは自惚れてもいい、櫻さんの次に、あたしが解ってた。それなのにあたしが…その気持ちを裏切るような嘘を吐いたから、だから櫻さん…あんなに、怒って…」 嘘を吐いたことの自責か、櫻を怒らせたことの悲しみからか、涙を堪えるために蘭の声は途切れた。手を伸ばしてその頭を抱えるように撫でると震えた声が返る。 「ごめんなさい…、ちゃんと話せないのに、自分のことばかり言って」 「いいよ」 蘭と櫻のあいだに何があったのか、史緒は知らない。いや、「知らない」というのは言い訳がましい気がする。きっと、ちゃんと、2人を見ていれば気づくことはあったはずだ。けれど櫻から逃げ回ってばかりだった幼い頃の史緒にそれは無理な話で後の祭り。今更ながら蘭と櫻のあいだにある因縁を目の当たりにして、軽いショックすらあった。 (見逃していることがあるんだ) 幼い頃は見過ごしてばかりだった。なにも見えていなかった。見ようとすらしなかった。 櫻の苛立ちの理由。他人にあたる理由。(どうして亨くんを?)目的。 当時は逃げてばかりだったこと、今は少しだけ冷静に考えることができる気がする。 「その嘘って、───蘭が先に見つけたことだね」 「!」 司の発言に蘭が飛び跳ねた 「どうして…っ」 「司もなにか知ってるの?」 「いや、知らないよ。最近になっていろいろ入ってきた情報による推測」 「司さん」 「わかってる。史緒はやっぱり 蘭からの呼びかけを正確に読みとった司は肩をすくめて、推測を明かす意志は無いことを示した。史緒は息を吐く。 「そうね…。どうせすぐに、呼び出されるみたいだし」 司が口にした「本人」が指すのは櫻ではないことを、このとき司と蘭だけが知っていた。 「…やっぱ写真は出ないかぁ」 と、健太郎が呟き、全員が注目した。 健太郎は不本意極まりないといった表情でノートパソコンを睨み付ける。それからキーボード部分を軽く叩いた(相手は精密機械なので手加減したのだろう)。 「櫻氏が失踪中のあいだ、誰と行動していたかは解るよ。さっきの様子からして人違いってことはなさそうだ」 と、パソコンをテーブルの上に乗せ、モニタをこちらに向けた。司以外が覗き込む。 モニタには、カタカナで記された人名と、その下に簡単な略歴が連ねてあった。簡単な、というのは、表示されている行数が少ないという意味であって、その内容を指すものではない。「簡単な略歴」の中にはそれが物なのか理論なのか法則なのか汲むことができない専門用語も多く、日本語で書かれているにも関わらず酷く難解な略歴だった。かろうじて何かしらの分野の研究者だということは読みとれた。史緒は知らない人物だった。 「写真嫌いな人らしくて、ネットからじゃ経歴くらいしか出せなかった。兄貴のとこの社内報にこの人の写真が出てて、遠目だけど櫻氏が一緒に写ってたんだ。今度、持ってくるよ」 「どこの国の人?」 「イギリスだったかな? でも一年中仕事で飛び回ってるって。ちなみにこの人、今、来日中。さらに前に来たのが3年前。間違い無いだろ」 「そうね…」 櫻はこの世にいないと思いこんでいた3年間、世界のどこかで、誰かと、櫻は確かに生きていたことを実感させられ複雑な気分になる。 とうに頭では理解しているはずなのに、なかなか心が付いていかない。 櫻が生きていたこと。 「───ねぇ」 不満げな声をあげたのは祥子だった。 「どうしてこんなときに篤志がいないの?」 「……」 史緒は答えられなかった。 それから史緒のそれとはまったく別の思いで、蘭は視線を落とし、司も口を閉ざした。 |
■04 篤志が実家へ着いたとき、時間は夜の8時を回っていた。チャイムを鳴らしたあと自分で玄関を開けると、いつもどおり父がリビングから顔を出した。 「やぁ、おかえり。お、なんだ、みやげはないのかい。気が利かないなぁ」 昼間に電話したときの緊迫感は欠片もない。今が非常時だということが伝わっているのか疑わしいくらい、いつもの鷹揚な態度だった。 かなり気を張って帰ってきた篤志は毒気を抜かれた思いで大きく息を吐く。父はそんな篤志をからかうように歯を見せて笑った。篤志も、笑い返した。 家に上がって父のあとを歩きリビングに入ったとき、いつもの姿見えないことに気付いた。 「お母さんは?」 「んー、今は休んでる」 「具合でも悪いの?」 「いや」 「昼間、櫻が来たんでしょう?」 「らしいな。訊かれたことには答えたって言ってたよ」 「…そう」 嘘を吐かないでいようと、最初に言い出したのは母だった。 そして ただ、櫻が安穏な訊き方をしてくるとは思えなかったので、櫻と相対することになるのは篤志の役目であって欲しいとどこかで願っていたが、結局、クジを引いたのは母だったというわけだ。 「起きてるなら、顔見てきたいんだけど」 「寝てるよ」 「お父さん」 「放っておいてやれ」 「…」 父は振り返って笑った。 「それより、帰ってきたばかりで悪いけど、お茶淹れてくれないか?」 リビングテーブルの上に書類が並べられる。戸籍と、養子縁組した際の書類。それから篤志が昼間取ってきた、亨の死亡に協力した医者の念書と証書など。「関谷篤志」を調べられたときにすぐにはバレないよう、作成時の小細工はあるが、咲子のいたずらを社会的に表し、法的に納得させられるものだ。 「これで俺の仕事は終わったかな。君のほうはまだまだこれからがヤマだろうけど」 「ありがとうございます」 書類はすべて封筒に収められ、篤志が持つ。この先、これをどう使うかは篤志に一任されている。 「言っておくけど」 「はい?」 「ハタチ過ぎた息子のやることに口出しする気はないよ」 「10代のときも、口出しされた憶えはあまり無いんですけどね」 「うん、まぁ、…そうだね」 高雄がおどけて言ったので、それに倣い篤志も返したら、一本取られたというように高雄は頭を掻いた。 「でも今回はひとつだけ」 「はい」 「この先どうするかは、ちゃんと篤志の意思で決めて欲しい。何にも囚われず流されず、望んだ未来を選択して欲しいと思ってるよ。───おっと、突き放してるわけじゃないんだ。責任を押し付けてるわけでもない。むしろ、責任は俺や和代にある。…ただ、今回決めなきゃいけないのは、君自身の未来のことだから。他に気を遣うようなことはせず、望むとおりに、決めて欲しいんだ」 「お父さん」 「俺らは家族であり、咲ちゃんのいたずらに加担した共犯という仲間でもある。最後まで味方でいるし、篤志がどんな未来を選択しても受け入れるよ。もし誰かから責められても、君だけのせいじゃない。もし拒絶されることがあったら、ここに戻ってくればいい。そういう意味で不安になる必要はない」 「……」 「俺は今でも、12年前に咲ちゃんがしでかしたことに疑問がある。きっと他にできることはあった。別のやり方があったはずだ。でも今それを責めることはできないし、あのとき一番悩んだのは咲ちゃんで、彼女も、考えうる最良の選択をしたはずだから。───あのときの咲ちゃんのいたずらに多くの人が巻き込まれた。そのうちの一人である篤志が、今度は自分のために選択しなきゃいけない。最良でなくてもいいんだ、君が望むものを。…それが、俺が口出ししたいことだよ」 そう締めくくって高雄は口を閉ざす。表情は深く、言いたいことは伝えきったという達成感と、これから篤志が直面する問題への同情が読みとれた。篤志は視線を落とした。 「…後悔してますか? 俺らに関わったこと」 「してないよ。感謝はしてるけど」 「え?」 顔を上げて目が合うと、高雄は大きく口端を引いて笑う。 「君と暮らすのは楽しかった」 「───」 12年間、家族として暮らしていた。 それは篤志が生まれてから現在までの、約半分の時間。 「良い子でいなければいけない」と意識していた時期もあったが、喧嘩もしたし、心配もさせたし、迷惑もかけたし、怒られることも恨むこともあった。それでも両親は信頼してくれていた。自分の境遇に不安になったときも、慰め励ましてくれた。愛されていると気付くことができた。 自然と笑みが浮かぶ。 「その割には、高校卒業後は出ていけってしつこく言ってたよね」 「それはアレだ。千尋の谷底に落とすというやつだ。実際、こっちも、子離れしなきゃならなかったんだよ」 そっぽを向いて言い訳のようにぼやく様が可笑しくて篤志は吹き出した。けれどすぐに表情を改める。 「俺も、感謝しています。ありがとうございました」 「ひとつ、訊いてもいいかい?」 「はい」 「欲しいものをひとつ選ぶとしたらなんだ?」 「ひとつには絞れません」 高雄の質問の意図は、息子が父親にねだるようなものでない。篤志も解っている。自分の未来を他人にねだることはできないから。 篤志の即答に高雄は面食らったようだ。貪欲だな、と笑う。 「じゃあ、いくつならいいんだよ」 「そうですね…。3つかな」 篤志の願いは単純で、でも少なくはない。そしてきっと、簡単でもない。 史緒のそばにいたい。 櫻と話せる場所にいたい。 アダチに入りたい。 「どちらの名前で?」 高雄は相槌のように軽く質問してきたが、今まで篤志を育ててくれた関谷夫妻にとって、その答えが重要なものだと知っている。 そう、篤志が選ばなければならないもののうちのひとつは名前だ。 どちらを選ぶこともできるだろう。元の名を名乗ることも。今のままでいることも。 その けれど今も、どちらかを選ぶことはできていない。 どちらでも構わない。 元の名を名乗りたいわけでも、今の名を守りたいわけでもない、それ以上に欲しいものがある。 史緒や櫻のそばにいるにはどうすればいいか。どちらの名であることを要求されるのか。今まで騙し続けていた自分を、どちらの名であれば受け入れてもらえるのか。 高雄の質問には答えられなかった。 電話が鳴った。番号は非通知。篤志は少しだけ迷う。非通知で掛けてくる相手に心当たりはない。もし史緒なら今は話したくない。そして今の状況で蘭や司が非通知で掛けてくるとは思えない。 (誰だ?) さらに5秒迷って、篤志は通話ボタンを押した。 「おせーよ」 と、聞こえてきた声は櫻だった。 「櫻? この番号、誰から聞いたんだ」 「親父のところに行ってきた。根回しご苦労さん、あまり驚かれなかったよ」 篤志の質問は無視されたのだろうが、櫻の科白から答えは読みとれた。 「一条はどこまで知ってるんだ? 少なくとも、史緒よりはずっと解ってるようだな」 「史緒に会ったのか!?」 「蓮家の末娘を問い詰めに行ったついでだ。あいつに用なんか無い」 「…っ」 篤志は今すぐ事務所へ駆け込みたい衝動に駆られた。 櫻と再会して史緒は平静でいられただろうか。取り乱さないでいられただろうか。以前のように一人閉じこもっていないだろうか。最後に会ってから何日も経ってない。篤志の件で不安にさせているところにさらに心理的負荷が掛かっているはずだ。 蘭からは連絡は入ってない。おそらく気を遣ってのことだろうが、史緒は大丈夫だろうか。 会いに行って励ましてやりたいとは思う。けれど自分にその資格があるかは疑問だ。今、史緒を不安定にさせている原因の一旦は間違いなく篤志自身で、かといって、篤志が隠していることを告白したとしても余計に困惑させるだけなのは目に見えている。 (…いや) 篤志はすぐに思い返す。 史緒を慰め励ますことができるのは、今は篤志だけじゃない。いつのまにか自惚れていたのだろうか。 三佳や祥子、その他の仲間たちの存在に期待してもいいはずだ。 心配する必要はない。 「おい」 反応のない篤志に気を悪くしたのか苛ついた声が聞こえてきた。 「どうせ、どのタイミングでバラすか迷ってたんだろ? 明日、親父のところに来いよ。史緒にも連絡が行ってるはずだ」 顔を合わせる席は設けてやった、と櫻は言う。 実際、篤志はどう切り出すか悩んでいた。 効率の良い手順を考えれば、政徳に証拠を出したあと、史緒に話して納得してもらい、集まって社会的な後始末について相談したかった。けれどやはり、どう考えても、史緒に納得させるのが一番難しい。 全員が集まって話ができるなら、史緒も自分も感情的にならずに話ができるだろう。そういう意味で、櫻の申し出は都合が良かった。───担がれている気がしなくもないが。 「……わかったよ」 電話の向こうで櫻が小さく笑った気がする。 「じゃあ明日、親父のところで。時間は───」 * * * 櫻は宿泊しているホテルのレストランにいた。食欲は無かったのでここに足を運ぶ必要はなかったが、同居人にはちゃんと食べさせないともう一人の同行者がうるさい。ひとりで食事をさせるわけにもいかないので、結局、櫻も同じものを注文した。ほとんど手を付けてないが。 レストランは2階にある。特別、景色が良いわけじゃない。周りはビルに囲まれて、もう日は暮れているし視界も悪い。夜景といえば、無秩序なビルの灯りと、眼下に人の流れが見えるくらい。それなのに、向かいに座る同居人───ノエル・エヴァンズは、食事の手を休めて、興味深そうに窓の外を眺めていた。 『もう8時になるのに、人が多いね』 『そうだな』 『お店もにぎやか…何時まで営業してるのかな。もう、おうちに帰る時間じゃないの?』 『この時間に家にいる気が無い人間がここにいるんだろ』 『ふーん…』 分かったのか分かってないのか曖昧な相づちが返った。 『あたし、この国って、電柱がたくさんあって空に電線が走ってるイメージがあったんだけど、全然ないね』 PLCの漏洩電磁波の問題が盛り上がってるって聞いてたから、とノエルは付け加えた。 『電柱くらいどこの国だって、…ノエルの町だってあるだろ』 『でもロンドンにはないよ。あとパリにも』 『ここも同じ、都会から地中化が進んでるだけだ。ひとつ外れればいくらでもある』 『ふーん、この辺には無いんだ。ざんねん。───子供の頃ね、電線がどこに続くのかなって、辿っていって、よく迷子になったんだ。でね、日が暮れたあとに迎えに来てもらうの』 と、ノエルは楽しそうに話す。 『…それはおもしろいのか?』 『おもしろいよ! 行く先々でいろんな人に会えるんだよ?』 今ここにはいないがもう一人の同行者曰く、───あの子から目を離さないでよ? 誰にでもついて行っちゃうんだから。 警戒心の無さと人なつこさは、その子供時代が原因なのかもしれない。 『それにね、やっぱり気になるな、仕事柄かな。電線のφとか電圧とか碍子とか、設備を見てるだけで楽しいよ。…そうそう! ここって確か、地方によって商用電源の周波数が違うんだよね。それって、世界的に見てかなり珍しいんだよ。どっちでも動く電化製品を作らなきゃいけなかったおかげで、この国の電工技術が発展したんだって』 盛り上がって喋るノエルはまだ窓の外を眺めている。もしかしたらまだ電柱を捜しているのかもしれない。 その一生懸命な横顔を見て、櫻は小さく笑った。 『ねぇ。この街、好き?』 と、ノエルが訊いてきた。 『考えたこともない。どうでもいい』 『でも、…ここが生まれた街なんでしょ?』 『さぁ』 いつも通りの言葉で濁すと、その答えが気に入らなかったのか、ノエルは表情を曇らせた。 『自分の生まれた土地を嫌いなんて言う人は、あたしは、…嫌いだよ』 『ノエルの理想は関係ないよ。俺にとっては、どうでもいいことだ』 そうとしか答えようがない。ノエルのために嘘を吐いてやるには内容がくだらなすぎる。 少しの沈黙のあと、ノエルはまったく別の質問をした。 『…さっき、誰に電話してたの?』 『知り合い』 『こっちに来てからの?』 『そうだよ』 『…ねぇ、約束したよね? 次の仕事先にも、一緒に行ってくれるって』 「───…」 櫻は改めてノエルのほうを見る。不安そうな表情でこちらを見ていた。 『…ノエル、それ、いい加減しつこい』 『っ』 『俺は何度も答えてる。なにが不満なんだ』 『あたしだってわかんないよ! …だって!』 ノエルは意を決したように声を出す。 『ここに、家族がいるんじゃないの?』 『───。…さぁ』 『せっかくここに来たんだから、会えるなら会って欲しいの。家族じゃなくても、会いたい人がいるなら、やっぱり…会えたほうがいいと思う』 胸が詰まったのか泣き出す一歩手前で、そしてなにやらいつもの癇癪のようにもなってきていた。 『だから?』 『そうなったら、ずっとここにいたいって思うかもしれないじゃん』 『…俺が?』 『そうだよっ。でもあたしは、これからもずっと一緒にいたいって思ってるんだよ! だから不安なんじゃんっ』 言うことは言った、と、ノエルは上目遣いで唸るように視線を向けてくる。 櫻は額を抑えた。思考回路が違いすぎるというのは、時折本当に疲れる。その一方で、ノエルが不機嫌になっていたのはそんな理由かと安堵した。 『まず』 『…なに?』 『約束した通り、俺はこの先もノエルについていくよ。ノエルから拒否されない限りそうするつもりだ』 『……うん』 『それから、家族云々はさておき、ある意味会いたいと思っていた人間は確かにいた。でもそれを見つけたからといって、ここから離れたくないとは絶対に思わない』 気持ち悪い、と櫻は呟いたのだが言語が違ったためにノエルには通じない。 『…ほんとに?』 『また、しつこいと言わせたいのか』 まだ不安そうなノエルに返すと、ノエルは大きく首を振った。 懐かしい人に会ってしまったら離れられなくなる、とノエルは言いたいらしい。 そんなわけあるか、と思う。家族も、ずっと捜していた人間もそう。一緒に居たいなどと思わない。 きっと、ノエルと櫻では、家族というものの定義が違うのだ。 * * * 史緒は夕食のあと早々に自室へ引き上げていた。考えることがありすぎて三佳との会話も、食事さえままならなかったからだ。 携帯電話を手に取る。しばらく睨み付けて、結局なにもせずに ベッドに投げ捨てる。それを2回繰り返した。 なにが言いたいかも定まっていないのに誰かに助けを求めるなど、自分らしくない行為だ。 史緒はベッドの上に寝転がった。 (…私って、最低な人間なのかもしれない) こうして落ち着いてみても、櫻が生きていてくれて良かったとは思えないでいる。実の兄なのに。 死んでなくて良かったとは思う。でもやっぱり、再会できて嬉しいという気持ちは無かった。 (だって、櫻は亨くんを) 「…っ」 思い出したくなくて、思考を遮るために目を瞑り、シーツに顔を埋める。 (───どうして亨くんを?) 史緒の記憶の中の2人は、仲の良い兄弟だった。 いつも一緒にいた。2人で笑っていた。見分けがつかないくらい、同じ笑顔だった。 (そうだ。あの写真よりずっと前は、櫻だって) それはいつ頃のことか。 母がいた。マキさんと4人で母のお見舞いに行っていた頃。その頃はたしかに、櫻は笑っていた。 史緒の手を引いてくれていたのは亨だ。亨に連れられて、櫻を見つけると、櫻の隣りには母がいた。 両親がいない家で、夜、2人と同じ布団で寝付くときもあった。本を読んでくれたり、子守歌を唄ってくれたり。 とても自分のものとは思えない記憶にくらくらする。祥子あたりに話しても信じてもらえないだろう。自分でさえ、信じられないのだから。 (記憶でなかったら、想像すらできない…) 思わず笑いが込み上げる。 次に泣きたくなった。切ない温かさが胸に灯る。 (…懐かしいんだ) あの頃は独りでいることなんてなかった。 マキがいて、2人の兄がいた。みんな、笑っていてくれた。 (櫻は、どうして……。───いつから?) 亨が死んだ日?(違う、亨くんを殺したのは櫻。もっと前、あの写真を撮る前のはず) 写真には蘭も写っている。あれはまだ蘭と出会って間もない頃だった気がする。 蘭を紹介してくれたのは亨。その場に櫻はいなかった。 (もっと前) いつから? なにがあった? 亨は知っていた? 史緒は気付かなかった。 知らないうちに、始まっていた。 ベッドの上に放り出してあった電話が鳴った。寝床に埋もれている電話をすくい上げ、液晶表示を目にすると史緒は眉を顰めた。 「え」 驚いたことに父親から。 用があるときはいつも、和成を経由して連絡が来ていたのに。 ──俺はこれから親父のところへ行く 櫻はそう言った。それを実行したのなら、この電話の内容は決まる。そうでないとしても、今、父親と喋るのは気が重い。史緒は何度か意識して呼吸を繰り返し、最後に手を胸に当てて長く息を吐いて、ようやく電話に応じた。 「櫻に会ったか?」 簡単な挨拶のあと、政徳は言う。史緒は頷くしかなかった。 「…はい」 「事前に聞いてはいたものの、やはり驚いたな。櫻が」 「ちょっと待ってください」 そこで父親の言葉を中断させることができるくらいには、史緒の頭は働いていた。 「…なんだ」 「“事前に聞いてはいた”って、誰から聞いたんですか?」 「和成だ」 「一条さん? どうして? 今日より前に、櫻に会ったの?」 「和成は篤志から聞いたらしい」 「───篤志?」 めまぐるしく展開していく状況に頭と胃が痛くなってくる。 時系列を整理することができない。 櫻と最初に再会したのは誰か。蘭? 司? 篤志? 少なくとも、史緒はかなり遅れて櫻と顔を合わせたようだ。 どうして櫻は、史緒を含め彼らに接触したのだろう。蘭はなにか知ってる。司も勘付いている様子はあった。篤志は? 一体、なにが? 「櫻がなにか話があると言ってる。私としても、これからのことについて櫻の言い分ははっきり聞いておきたい。明日、こちらに来られるか?」 ──首を揃えたところで種明かししてやる (種明かし?) (なにを?) ──親しい人間に騙され続けていることに気づかず、俺が教えてやったことも忘れて (私が?) (親しい人間って?) ──あいつを見つけるための餌として利用しただけだ (あいつって誰のこと?) 「史緒?」 意識が飛んでいた。史緒は慌てて電話に耳を傾ける。 「は、はい」 「明日、大丈夫か?」 「ええ。伺います。…あ、あの」 「なんだ」 「…篤志は? そちらにいるんですか?」 「ここ数日は来てないが」 「え?」 じゃあ、どこに行ってるというのだ。 ──俺が最後に言ったことを忘れたのか? (最後……?) 目を閉じて記憶を辿る。櫻を見た最後。最後の日。 それは嵐の日。崖の上。櫻は荒れ狂う空を背にして。強い風の中で。 そう、痛いほどの風と音の中で。 胸の中にネコがいて、数歩先に櫻がいて。 櫻の、唇が動く。 ──黒幕は咲子だな 「…咲子さん?」 史緒は思わず声にして呟いていた。目を開けると自分の部屋、記憶の中の光景との違和感に軽い眩暈があった。 もう一度目を閉じる。 実際、あの崖の上でも、史緒は聞き返したと思う。 ──2度は言わない (なにを?) ふざけないで、と怒鳴り返した。 (どうして?) 許せなかったから。 櫻が殺したくせに! 掠れて、声にならなかったけど。 許せなかったから。たとえ冗談でも、 それを。 「…」 記憶の あの荒れ狂う風の中で。嵐の空の中で。黒い海を見下ろす崖の上で。 櫻のコートも史緒の髪も掻き乱された。櫻の唇が動く。史緒は確かにそれを見た。うるさいほどの風の中で。史緒はそれを聞いた。 ──亨は生きてる 櫻は、そう言ったのだ。 「───…」 史緒はひとり部屋の中で、目を、見開いた。 * * * 関谷高雄はそっとドアを開けて寝室を覗いた。 廊下からの光が室内に差し込み、ベッドの上に光の筋が伸びる。薄暗い部屋の中、ベッドの端に和代は座っていた。肩を強ばらせて。 「篤志はアパートへ戻ったよ。会わなくてよかったのか?」 返事は待たなかった。高雄は歩み寄り、同じくベッドに腰を下ろす。 「どういう結果になろうと、会えないわけじゃないんだし。なぁ?」 背中の向こうから声が返った。 「……でも、…もう、この家には帰ってきてくれないかもしれない」 「じゃあ、引き留めるかい?」 「…いじわるだわ」 むくれるような声に高雄は笑って返して、天井を仰いだ。 「もう12年だよ。あの日から」 「…そうね」 「ちゃんと終わらせよう。曖昧にしないで、中途半端にしないで、最後まで見届けて、咲ちゃんのいたずらを終わらせよう。───篤志が決めたことを受け入れるために、ここで待っていよう?」 * * * 雨の日の夜に、チャイムが鳴った。 「あの、…和代ちゃん? …あたし、咲子です」 和代は驚いて、急いでドアを開けた。 「咲子っ?」 実際、そこに立つ人物を見ても、和代は自分の目を疑わずにはいられなかった。 阿達咲子は、足首が隠れるくらい長いワンピースに肩からショールを巻き込んでいるだけの薄着で、足下は外出用のヒールサンダル、長い髪はかすかに湿っていた。外は雨だった。和代は悲鳴のような声をあげる。 「一体どうしたの!?」 咲子がこの家に来るのは初めてだった。というより、咲子はほとんど病院から外へ出ることがない。過去に何度か病院の周辺を一緒に散歩したことはある、けれどこんな風に軽装でしかも一人でなど考えられないことだった。 それに、咲子はつい先日、男の子を一人、亡くしたばかりだった。弔問に訪れた際、咲子は青い顔でうつむき、誰とも目を合わせようとしなかった。 今は気軽に出掛けられる心情でも状況でも無いだろうに。 「どうやってここまできたの?」 「タクシーで」 それを聞いて、和代は少なからず安心した。電車で人混みに揉まれたり雨に濡れたりはしてないということだ。想像しただけで恐ろしい。 「突然に、ごめんなさい」 「まさか抜け出して来たんじゃないでしょうね。あぁ、それより早く、とにかく中へ…お茶を淹れるから。それに病院へ連絡したほうが…」 「和代ちゃん!」 招き入れようとした手を拒んで咲子は強い声を出す。強い意志を持った目を和代に向けていた。 「お話が、あるの」 いつものやわらかい笑顔とは違う。思い詰めた表情に和代は一瞬言葉を失う。 「…わかったわ。ちゃんと聞くから。お願い、中へ入って」 そこでようやく張りつめていた気配が消え、咲子は和代が差し出した手に応じた。 咲子の指先は酷く冷たかった。 「咲ちゃん!?」 自室へ戻っていた高雄が驚いた様子で顔を出した。 「こんばんは、高雄くん。夜分に、ごめんなさい」 「あなた、お願い、タオルと、なにか羽織れるものを」 「わかった。お茶も淹れるから、君は咲ちゃんについてて」 視線と、言葉を交わす。咲子は知り得ないことだが、ここのところぎこちない関係が続いていた高雄と和代にとって、それは久しぶりのことだった。 はじめての場所で慣れない様子の咲子をリビングに座らせ、和代もその隣りに腰を下ろした。咲子はタオルで髪を拭く。その手は、小さく震えていた。 「寒いの? 着替えたほうがいいかしら」 「…ううんっ、違うの、大丈夫。……だいじょうぶ。寒いんじゃないの」 咲子は視線を逸らしたまま首を振る。なにか言いかけて、やめた。 高雄がお茶を淹れてきて、咲子と和代の前に置いた。 「俺は外そうか?」 「高雄くんも聞いて!」 いつになく余裕のない咲子に和代と高雄は視線を合わせた。けれど2人とも、咲子の心情を計ることはできない。 「お願いが、あるの」 関谷家のリビングで旧知の3人はテーブルを囲んだ。咲子の隣りに和代、そして向かいに高雄が座る。 咲子の声はまだ硬い。室内は充分に暖かいはずなのに、咲子の体は震えが収まらないようだった。 「うん。言ってみて?」 安心させるように和代は咲子の肩を撫でる。咲子は顔を歪め、頭を抱えた。 「あたしはばかだから、他に思いつかなくて。きっと他に、もっといい方法があるんだろうけど、でも、わからなかった。あたしは、酷いことをしたし、酷いことをしようとしている、和代ちゃんたちまで、それに巻き込もうとしてるの」 「咲子…?」 「亨くんが死んだのは、うそ」 「…え?」 「おしばい。あたしがし向けたの」 「ちょっと、咲子?」 どこか壊れたように声を震わせる咲子の肩を掴む。目を合わせさせると、咲子の目からどっと涙が溢れた。 「…酷い、怪我をして」 息をとぎれとぎれに、子供のように泣き始めた。 「昨日、やっと意識が戻って。……よかった、目を開けてくれてよかった。生きていてくれて、本当によかった。よかった。よかったよぉおぉ」 「咲子? どうしてそんなこと」 「亨くんに怪我させたのは櫻くん。だけど、櫻くんに取り返しがつかないことをしたのはあたしなの。だから、亨くんの怪我もあたしのせいなの!」 咲子は和代の腕にすがり、泣いて、でも言葉を止めない。 「櫻くんを変えてしまったのはあたし。そして櫻くんは、自分と違う亨くんを見るのが辛いの。だからあたしは…っ、ひどい…、あたしはひどい、あたしは! その後、意味のない言葉をあげて咲子は泣いた。 高雄と和代はかける声もない。咲子の告白に驚いて、整理することもできなかった。 「…っ、お願いが、あるの。───亨くんのこと」 2人ははっとする。ようやく話が見えた。 咲子は和代から体を離し、床に正座して手をつく。 「咲子っ」 「亨くんのこと、お願いできませんか」 頭を下げる。和代と高雄は慌てて腰を浮かせる。 「ちょっと…」 「お願い、お願いします」 「咲子、顔を上げて。ちょっと待って! 話が早すぎて、……ねぇ、落ち着きましょう? …それに、亨くんの気持ちはどうなるの?」 「あの子はもう12歳。自分のことは自分で決められる。そうしようって言ってくれた」 「だからって…」 「お願い、おねがい! おねがいします!」 咲子の必死な声に、高雄と和代は声もだせなかった。 関谷夫妻が長い話し合いの末にそれを受け入れたのは、それから一週間後のことだった。 |
48話「いたずらの行方 前編」 END |
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