48話/49話[1]/49話[2]
49話「いたずらの行方 後編」[1]


[史緒,篤志,櫻]
それぞれが体験したそれぞれの過去。やがてそれらは、すべて繋がっていく。
 



 Prologue
 [1] 01. 02. 03.
 [2] Stratosphere 01. 02. 03. 04. 05.





 ねぇ、政徳クン。
 いいんだよ、そんなの、気にしなくて。
 お仕事に一生懸命でいいんだよ? がんばってる政徳クン、かっこいいと思うよ。昔から言っていたことを本当にやって、お仕事として続けていること、尊敬してるの。あたしのために無理に時間作ってくれなくていいの、ジャマするために結婚したんじゃないよ?
 え? …んー、他のヒトと結婚させないため、かな?
 や、ちがう、そうじゃないの。だって! 政徳クンが他のヒトと結婚しちゃったら、なんか…会うのがむずかしくなる、気がして。
 あの、ごめんなさい、あたしからはなにもしてあげられないのに。
 今までみたいに、こうやって顔を合わせて、お話してくれるだけで、あたしは幸せだよ。
 こんなあたしが、あなたの支えになっているなら、本当に、これ以上のことはないです。


   *


 双子が産まれて咲子は本当に嬉しそうだった。
 出産による体への負担がこれまで以上に入院生活を強いることになる。それを解っていて、周囲からの説得も頑なに拒否して、子供たちが生まれた。
 子供たちの成長は目を瞠るほど速く鮮やかで、いつも、何度も驚かされる。顔を見せれば賑やかに駆け寄ってくる元気な男の子たち。咲子に似たのか、いつも明るく笑っていた。
 養育を頼んだ真木からの報告書をいつも楽しみにしていた。
 いたずらが高じて真木を怒らせたり、喧嘩ばかりして咲子が手を焼いているらしい、それでも仲が良く、健康で、友達がいて、笑っていてくれて。
 妹が生まれると喧嘩は()んで、2人して赤ん坊を可愛がっているのだという。
 ときどき写真や子供たちからの手紙もあって、仕事中でもつい弛んでしまう表情を梶に注意されたこともあった。笑顔は伝染するものらしい。
 子供の成長がこんなにも眩しいものだと初めて知った。



 ある春の日。亨が病院に運ばれたという。現場に駆けつけることができたのは夜になってからだった。
「櫻が…?」
 あらましを説明してくれたのは真木。咲子はいない。亨に付き添っているらしい。重症、だという。
 ベッドの中で丸くなっていた史緒を抱き上げると、体温に縋るように手を伸ばしてきた。泣いているかと思ったがそうではない。引き攣った顔で、酷く震えていた。
 事故、なのだろうか。
 櫻はもう日が暮れている外にいた。別荘の窓からの明かりを背に、闇の中に散る桜を眺めている。
 櫻、と声を掛けるとゆっくりと振り返った。
 その目に色は無く、冷めた表情をしていた。政徳の姿を見つけると、すまなそうにそっと笑いかける、口元を作った。

 亨が死んだことを、咲子が青い顔で告げる。そして一言、謝罪を口にした。


   *


 ゆっくりと時間は流れる。

「───最後のおねがい」
「指輪をちょうだい」
「政徳クンがつけていたやつ。土の下まで持っていきたいの」
「おねがい」
 時々、咲子の横顔は沈鬱な色を浮かべるようになった。悲しくなるほど細い手を握ると、こちらを向いて笑いかけてくれる。政徳は目を閉じた。
「…酷いな。僕には何を残してくれるんだい?」
「子供達がいるわ、3人も」
「咲子…?」
「政徳クンの指輪はあたしと一緒に眠るけど」
「あたしの指輪、隠したわ」
「タイムカプセルみたいに、ずっと後になって政徳クンのところへ届くから」
「忘れないで。楽しみにしててね」




 咲子が他界し、
 櫻が海で事故に遭った。








*  *  *


 事前に聞いていたにもかかわらず、その人物を見て、政徳は大きな驚きを隠せなかった。
「やぁ、お久しぶりです。お父さん。忙しいのに時間をくれてありがとう」
 己の秘書である一条和成のあとから入室してきた男は流れるような口調で言った。
 約3年ぶりに顔を合わせる。
 嵐の日、崖から海に落ち、長期にわたる捜索活動でも発見に至らず行方不明、失踪となっていた。阿達櫻。政徳の実の子供だ。
 背が伸びた、と思う。そして、それと判るほど痩せた。けれど背筋を伸ばし立つ姿に危うさや癖は無い。こうして見る限り、体を悪くしているようには見えなかった。そのことに安堵の息を吐くことができた。
「生きてたのか…」
 と、思わず呟いてから政徳は後悔する。息子に、そんな言葉を使いたくはない。櫻はとくに気に障った様子は見せず、政徳の言葉に頷く。
「そういうことです。心配お掛けました、申し訳ありません」
 その口調は内容の割に軽く淡々としている。長い前髪に隠れがちな目は隙の無い静かさで、口元はゆるく笑んでいる。こちらは最後に見たときと同じだ。目上の者に対して必要最低限の愛想を振りまきながらも排他的、すべてを見透かそうとするような眼。
 失踪する前、後継者としてこの場に出入りさせていたときから。もっと昔、夜桜の中、政徳の呼びかけに振り返ったときから変わらない、同じ眼をしていた。
「…ともかく、無事で良かった」
「おかげさまで」
「今までどこにいた? 何故すぐに出て来なかった」
「あの後、知り合った人に同行していました。連絡しなかった理由を説明するつもりはありません、表向きな理由が必要なら、記憶喪失だったとでも言ってください」
「……?」
 後継者として育てていた頃、櫻が不満を表すことはなかった。与えた仕事はこなしていたし、いずれその地位につくという自覚は持っていたように思う。実際、あったのだろう。
 けれど今の櫻の科白からは、当時には無かった意思が読み取れた。
「こちらの生活に戻るつもりは無さそうだな」
「はい」
 と、殊勝な顔を見せた。
「跡取りとして育ててもらっていたのに申し訳ないとは思ってます」
「気にするな」
「血縁の跡取りが必要なら、史緒に適当な男をつけてください」
「今、その立場に関谷篤志がいるんだ」
 一転、櫻は飛び上がり大声を出した。
「───はっ!?」
 その感情的な反応に政徳のほうも驚く。
「縁戚にあたる関谷篤志だ。昔、家に出入りしていただろう?」
「関谷? なんであいつが…っ」
「史緒と婚約はさせている。この先、どうなるかはわからないが」
「いや…どうしてそこで関谷が…、…え?」
 櫻は少し迷った末に、背後に立つ和成を振り返った。和成は顔を強張らせながらも首を横に振る。
「…あぁ、───そう」
 視線を戻した櫻は複雑な表情をしていた。
「まさかあいつ…。いや、収まるところに収まったというべきか…」
 と、なにやら小声で呟く。けれどすぐに姿勢を正し、櫻は息を吐いた。
「…選ばれたのか、選ばせたのか」
 慎重な声で呟き、そして可笑しそうに笑う。
「あいつも意外と腹が黒いな」
 櫻の呟きの意味も、和成との無言のやり取りの意味も、政徳には解らなかった。
「お父さん」
「なんだ」
「今日は挨拶だけで失礼します。でも、大事な話がある。近いうちに時間をください。史緒も、それから関谷もふまえて」


 明日の午前中、スケジュールの調整が取れた。それを確認するとすぐに帰ろうとする櫻を引き止める。今どこで暮らしているのか、誰といるのかを問うと、それも明日説明すると答えた。
 そしてもうひとつ。
「櫻」
「はい?」
 背を向けた櫻の足を止めさせる。
 もうひとつ、訊きたいことがあった。
「咲子から、なにか預かってないか」
 櫻より先に扉の横で控えていた和成が反応した。過去、同じ質問を和成にしたことがある。そしてつい最近、史緒にも訊いた。櫻に訊いたのはこれが初めてだった。
「いいえ?」
 母親の名を耳にして意外そうな反応を示した。けれどその返事は和成や史緒と同じもの。政徳は落胆が表情に出ないよう意識した。
「そうか、なんでもない、じゃあ、明日」
「はい」
 櫻は踵を返す。
 が。またすぐにこちらを振り返った。
「あぁ───」
 その表情は笑みが浮かぶ一歩手前、少しの驚きが含まれている。
「それが何だかは知りませんが、そう、おそらく、明日、手に入りますよ」









−1−
01

   □

(頭痛い…)
 足下がふらふらして、気を抜くと視界がぶれてしまう。朝、家を出るとき、あまりの体調の悪さに回れ右して自分の部屋へ戻ってしまいたかった。
 寝不足なのは自分が一番よく分かっている。一時間も眠れなかった気がする。眠ろうとしても、頭の中を目まぐるしく飛び交う疑問や不安、不明なことにも自分なりの解釈を出そうと止まらない思考が、睡眠を許してくれなかった。
 大半は櫻のこと。
 そして亨のことだ。
 昨夜、政徳から連絡があり呼び出された。櫻が、話をしたいのだという。
 櫻に会いたくなんか無い。でも櫻が残したいくつもの謎ははっきりさせておきたい。種明かしと言った。史緒が見えていないこと、解ろうとしていないこと。それを知りたくて、こうして不調を押して出てきたのだから。
 集合場所はいつもと同じ、アダチ本社ビル。もう目の前まで来ている。
 足を引きずるようにエントランスをくぐると、空気が変わった。たくさんの人々が入り混じり、それぞれの仕事のために動き、それぞれがこの会社を動かしていることを実感する。おおきな流れを感じる。
 その、いつも通りの人の流れが、今日が特別な日ではないことを教えていた。こんなにも身体と気持ちが重い日でも。
(行こう)
 史緒は気を取り直し、姿勢を正し、気合いを入れ直した。
 受付で所定の手続きを済ませ、エレベータホールへと足を進めた。


 櫻はあのとき、嵐の崖の上で、亨が生きている、と言った。
 咲子が黒幕だと。
(…なんで)
 なんでそんなことを言うんだろう。冗談でも(たち)が悪すぎる。
 ──俺が最後に言ったことを忘れたのか?
 確かに忘れていた。でも思い出した。
(どういうこと? 櫻は今でも、亨くんが生きてると主張するの?)
 あの桜が散っていた春の日から、もう10年以上経つ。史緒は7歳で、櫻と亨は12歳だった。
(馬鹿なこと言わないで)
 ただでさえ、今、櫻のことで現実を受け止めるのが精一杯なのに、その上、亨のこと。
 失踪扱いだった櫻とは違う。亨は死亡している。他でもない、櫻が殺した。
 あの、桜の日に。
(亨くんが生きてると言うことでどうしたいの? 私になにをさせたいの? 昔のことを掘り起こして、あの頃のことを思い出させて、一段落させたはずの気持ちを揺さぶろうとしてるの? いつもの嫌がらせ?)
 そうだとしたら胸がささくれる。
(そうでなくても、痛いのに)
「…っ」
 胸を押さえたけどもう遅い。
 込み上げるものがある。ぶり返す。おおきな波が心を揺さぶりにくる。
 その波は涙が滲むほど激しい。
 10年経っても、まだ崩れてしまう。息ができずに、苦しくて、胸が潰されてしまう。一体いつになったら、呼吸を乱さずに済むくらい、この記憶は風化するのだろう。
 誰だって、息ができなくなる過去がある。自分だけではないことくらい知ってる。それでもこの社会が、この景色があるというのなら。
(誰もがこんな気持ちを持っていてそれでも笑っているなら、私は、弱いんだわ)
 壁に手を付いて深呼吸。ここは父親の会社の中だ。崩れるわけにはいかなかった。
(櫻……、亨くんが、なんだって言うの?)

 初めて失った。好きな人。大切なもの。
 櫻が奪った。言葉にできない重い気持ちを知った。なにもできなかった。
 それがきっかけで。
 ───いつのまにかずっと願っていた。
 もう失わないように。大切なものを無くさないように。
 そばにいてくれる人たちを手放さないで済むように。
 強くなって、それらを守れるように。
 あのときの気持ちを、二度と味わわないように。
 最初は、胸の中に収まるくらい小さな子猫。
 守れることを教えてくれた人。
 遠い国の友達。
 母。
 母代わりだった人。
 雷を怖がっていた同居人。
 親戚(はとこ)
 友達。
 同業人。
 そして仲間達。
 それでも失ってしまった人がいる。だけど。
 願うことをやめられなかった。
 ───もうなにも失いたくないの。
 亨を失ったときの言葉にできない悲しみ。淋しさ。なにもできずにいた自分への無力感。それらを、もう二度と。
(櫻……)
 根幹を揺るがさないで。
(亨くんが、なに?)



 櫻はあのとき、なんて言ったのか。
「亨は生きてるよ」
 そして、
「黒幕は咲子だな」
 と。
(……?)
 「生きてる」ことの「黒幕」とはなに?
 咲子がなにか、櫻にとって都合が悪いことをした?
(咲子さん…?)
 史緒の前で、咲子は最後まで笑っていた。亨のことで史緒が閉じこもるようになってからも、変わらずに笑っていてくれた。病身で、本当は痛く苦しかったはずだ。子供の頃の史緒はそのことに気付かないままだったけれど。
(咲子さん……、と、櫻…?)
 そういえば、変わってしまった後の櫻と咲子が顔を合わせているところはほとんど記憶に無い。亨と同じ顔で笑っていた頃の櫻は咲子と仲が良かった気がするけれど。
(咲子さんに対しても、酷い言葉で傷つけたりしていたのかしら)
(櫻は咲子さんのお見舞いに行ってた? あ…、私、全然知らないんだ)
 史緒自身は和成に連れられて咲子のお見舞いに行っていた。
 日の当たる病室、ベッドの上で上体を起こし、水色のカーディガンを肩にかけて、窓の外を見ていた。史緒と和成が訪れると、こちらを向いて、逆光になった顔が、やさしく微笑む。
 ──史緒
(……?)
 なにか、言っていた。
 ──櫻を恨まないで
 ──大丈夫、あなたを守ってくれる人が現われるわ。…そういう約束なの
「…───」
 そうだ。もう忘れかけていたけど、そう言われたことがあった。
 和成のこと? 確か、彼が阿達の家に住み始めたのは、咲子の紹介だったと聞いたことがある。けれど、咲子にそれを言われたとき、和成はすでにいた。未来形で語られたということは、和成ではない気がする。
 ──櫻を恨まないで
 咲子は、櫻のこと、なにか知っていたのだろうか。
 ──あなたを守ってくれる人が現われるわ
 これはおそらく、史緒を安心させるための、未来を夢見させるための方便だったのだろう。…でも。
 ──約束なの
 どうも引っかかる。
 守ってくれる人?
 史緒ははネコを守っていた(それが驕りだとしても)。同じように、誰かに守られていた?
「……?」
 守ってくれるって、何から? 咲子が言ったのは、もちろん───櫻から、だ。
 和成やマキさん、2人はすでにいた。司と蘭、司が家に来たのはまったくの不可抗力だし(咲子と約束があったとは思い難い)、蘭とは離れていた。あぁ、でも、蘭は櫻のことをなにか知っているようだった。
 そしてあの頃はもう一人、櫻と臆することなく話し、向かい合い、閉じこもっていた史緒の手を引いて、外に連れ出して、色々な景色を見せてくれたのは、篤志だった。
 篤志に初めて会ったのは咲子が他界した後。はとこがいるなんて知らなくて、血縁と聞かされて驚いた覚えがある(櫻も訝しんでいた)。家に出入りするようになって、司と仲が良くて、史緒が家を出るときも一緒に来てくれた。
(でも確か篤志は咲子さんと面識が無いはずだし…)

 ちん。
 軽い音がして、現実に戻される。
 史緒の目の前でエレベータの扉が開いた。




 これから櫻と会わなきゃいけないと思うと一気に足が重くなる。
 13階。エレベータが開くと、いつもどおり和成が待っていた。櫻の生存が知れてから、顔を合わせるのは初めてだった。
 型どおりの挨拶を済ませて並んで歩き出す。このフロアの床は絨毯が敷いてあり足音を吸収するため、沈黙が一層際だつ。そっと覗き込むと和成の表情は硬い。目が合うと、彼はごまかすように笑った。言葉が出ることはなく視線を戻す。やはり、硬い表情で。
 和成は阿達家の事情をよく知っている。史緒と櫻が顔を合わせることに気を揉んでいるのかもしれない。
受付(した)で聞きました。もう来てるんでしょう?」
「───史緒さん」
 できるだけ気丈に言ったあと、それ以上に慎重な声で返された。
「はい?」
 顔を上げると、和成はこちらを見ていた。
「最近、篤志くんに会いましたか?」
 顔を強ばらせてなにを言うかと思えば。
(篤志? なんでここで?)
「…最後に顔を見たのは先週ですけど。どうして? 最近、篤志はここに来てるんでしょ? 一条さんのほうが詳しいんじゃないの?」
「いえ、すみません。…なんでもありません」
 和成はそう言って、また視線を戻す。
「…?」
 そして扉の前に着いた。
 足を止め、姿勢を整える。
 ここにはもう何十回と来てるはずなのに、緊張し、足が震えていた。
 扉の向こうに櫻がいると思うと一気に体が熱くなる。手のひらに汗。
 櫻に会う、ただそれだけのことで。
「史緒さん」
 和成が気遣うように声を掛ける。
 深呼吸をひとつ。
「…大丈夫です」
 昨日はみんなの前で醜態をさらしてしまったけど。
 大丈夫。あの頃とは違うのだ。




 阿達本社ビル社長室。
 政徳はいつもどおり自分の机に座っていた。そしてこちらに背を向けたソファに座る、櫻。
「……」
 足が止まってしまう。でも奮い立たせて、前へ。
 ソファに座っている、その頭しか見えないのに圧迫感がある。たぶん、これは史緒の意識のせいで、実際はそんなことないはずなのに。
「おは、ようございます」
 父親に挨拶をする。情けないことに声が震えてしまった。櫻は動かない。
「なにをしている。座りなさい」
 と、政徳が言う。
 けれど、とてもじゃないけど、櫻と同席なんてできない。
「いえ、私はここで」
 と、言いかけたところで、櫻がソファから立ち上がった。
「…っ」
 思わず身構えたとき、
「いいから座れよ」
 櫻が面倒くさそうに言った。
 史緒のほうを見ようともしない。ソファから離れて窓際へ移り、書棚に寄り添い、そこに落ち着いた。史緒はおそるおそるソファに近づき、櫻がさっきまで座っていた長椅子ソファの向かい、扉のほうを向くかたちで腰を降ろした。扉の横では和成が控えている。
「篤志も呼んだんじゃないのか?」
 と、政徳が櫻に言った。
(篤志?)
「後から来ますよ」
(篤志も来るの? どうして?)
 それを問える空気ではなかった。

「最初に言っておきますが」
 この部屋にいる全員に聞かせるように、櫻はよく通る声で言った。
「今回、本当なら俺は名乗り出るつもりはなかった。死んだと思われているならそれで構わなかった。それなのにこうしてお父さん達の前にいるのは、明らかにしておきたいことがあったからです」
 きわめて事務的な物言いのあと、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
(明らかに、しておきたいこと?)
(それが、櫻の言う種明かし?)
「……それで?」
 政徳の促しを受けて櫻は頷く。
「その前に俺にとって不名誉な噂があるらしいので訂正させてください。───史緒」
「!」
 刺すような視線を感じて思わず声をあげそうになったがどうにか抑えることができた。
「俺はおまえに殺された覚えはない」
「……っ」
 政徳と和成の安堵の吐息が聞こえた気がした。
 ───あの瞬間の記憶は曖昧だった。
 櫻のコートが風に煽られ、傾き、史緒は反射的に手を伸ばし、触れた。
 突き落とそうとした? それを実行しても不思議ではなかった。
 助けようとした? そんなこと絶対にあり得ない。
 やり直しも引き延ばしも利かない瞬間、理性も間に合わない刹那、反射的に、どちらを選んでいたかなんて。
「で、本題」
 苛立ちのこもった声が室内に響く。
「おまえはまた忘れてたみたいだけど、あの時、俺は言ったよな。亨は生きてるって」
 目に見えて驚いたのは政徳ひとりだけ。声は出さなかったものの、表情が揺れ、椅子から乗り出し、机が音を立てた。
 扉の横にいる和成は口を引き締め、表情を隠すようにうつむいた。
 史緒は息を詰め、膝の上で拳を作る。その仕草だけで櫻は見抜いたらしい。
「なんだ。思い出してたのか」
「……」
「櫻、ばかを言うな、なにを…」
 政徳は不快を表し、冗談にしては悪質で不謹慎な内容を窘めようとした。
 史緒も同じ思いだ。けれど、政徳より考える時間を与えられていた史緒は、櫻の言うことをすぐに斬ることはできなかった。
 冗談、ではないと思う。それから、そう、そんな嘘を吐くことで櫻がなにか得をするとも思えない。史緒に過去のことを思い出させ不安にさせるための揺さぶりだとしても、それは櫻にとってさして重要なことではないはずだ。
 嘘、ではない?
 そうだ、少なくとも、櫻は揺動で言ってるんじゃない。嘘は言ってないのだ。
 史緒は唾を飲む。
「櫻がそんなことを言うのは、亨くんを見たから?」
 思いの外しっかりした声が出た。たぶん同じことを思ったのだろう、櫻が意外そうな表情で振りかえる。反射的にうつむきそうになったが(こら)えた。視線がぶつかる。目蓋がひきつるのが分かる。でも、目を逸らさなかった。
 櫻、薄く笑い、首を傾げて、
「いいや」
(じゃあ、思いこみ?)
 安堵したような、残念なような、緊張が解けて疲労を感じた。
 では、櫻はなにを根拠にしているのか。
 己の目で確かめず、けれど長い間そのことを疑わなかったなら、それなりの理由があるはずだ。
「亨を殺したのは俺じゃなくて、咲子だよ」
 と、可笑しそうに口にする。
 カッとした。やっぱり馬鹿にされているのか?
 亨を殺したのは櫻だ。その口が亨は生きてると言った。おまけに殺したのは咲子?
「……なにを言って」
 ソファから腰を上げる。落ち着いて座ってなどいられなかった。
「史緒は現場を見たし、お父さんも一応は聞いているとおり、亨を殺そうとしたのは俺。動機は言わない。でも」
 まっすぐに目が合った。
咲子は知ってた(、、、、、、、)だから(、、、)亨を殺したんだ(、、、、、、、)
「……?」
 今度こそ史緒は絶句してしまった。文字通り言葉を返せず、立ちつくす。
「櫻」
 政徳は机に拳を置き、もう一方の手で額を抑えている。
「まずは、殺す、殺さないと言うのはやめてくれ。気分が悪くなる」
「それは失礼」
「…待って、そんな説明じゃ分からないわ! 結局、亨くんは」
「死んだよ。墓だってあるだろ」
「なにそれ…、じゃあ、櫻が言った生きてるってどういうことなの?」
「墓はある。でもその下に骨があるかは別問題だ」
「……っ!」
「そういう話だよ。黒幕は咲子だって言ったろ」
「……え?」
 史緒はまだ話についていけない。
 どういう話だって?
 墓はある。骨はない。
 寒気がした。
(まさか本当に?)
(本当に亨くんがいる?)
(法的には死んでる。でも骨はない? ───生きてるの? 咲子さんが、なにか……?)
「最期まで口を割らなかったけどな」
 と、櫻は窓の外を見て、遠い目をした。






 政徳は目の前で展開される、櫻と史緒の対峙というシチュエーションに驚き、さらにそこで交わされる話の内容にも驚かされている。
 「母親を呼びつけにするのはやめろ」と櫻に言いたかったけれど、そんな口を挟む余裕がないほど、動揺していた。
 一体、なんの話だ、と思う。
 亨だって? 
 政徳には3人の子供がいた。目の前の2人と、さらにもう一人。
 もう何年もその名を耳にせず、口にすることもなかったが。
 けれど今日、今になって、その名前を持つものが生きていると櫻は言う。
 咲子が、亨を死んだように見せかけたと。
 咲子はそんな画策をみじんも感じさせていなかった。亨の名がでると哀しみを見せ、口を閉ざしていた。あれは亨を悼んでいたのではないのか?
 いや違う。政徳はなにかを感じ取っていた。核心には程遠い、予感だったけれど
 何か企んでるだろ、と咲子に訊いたのは他でもない政徳だった。
 白い、病室の中で。
 ──どうしてわかったの? 政徳クン
 ──あたしね、陰謀してるの。それを抱えたまま死ぬわ
 ──あたしは見届けることができないけど、あたしの分身がちゃんと、それを収めてくれる
 あの陰謀というのはこのことだったのか?
 分身とは誰か。咲子の親友の和代か、と訊いたら咲子は否定した。
 じゃあ、誰が?
 誰が咲子の意志を継いでいるというのか。
 和代はなにか知っているのか? 関谷高雄は?
 咲子のいたずらを収めるという「分身」とは。
 まさかそれが、亨?






 櫻には、亨に手をかける動機があった。
 櫻は実行した。
 でも亨は生きてた?
 咲子は櫻の動機を知っていた。だから、亨を本当に殺した。───いや、死んだことにさせた。
「どうして…」
「それくらいは解れよ。俺に再び同じことをさせないためだろ」
 櫻に、亨に対して危害を加えさせないため? 亨を守るため。…そして櫻を守るため?
「もちろん、咲子が単独で人間一人の存在を隠すことは難しい。だから協力者はいたはずだ。まず、亨の法的な死亡に医者。咲子なら病院関係者に知人は多くいる。頼み込めば無理を聞いてくれる医者がいたかもしれない。そして、一条」
(───え?)
 完全に虚をつかれて史緒は反応が遅れた。
「おまえもグルだったんだろう?」
(一条さん? なんで?)
 和成のほうに目をやる。すると和成は顔をゆがめて、視線をそらした。
「和成、本当なのか?」
 という政徳からの声にも和成は答えられない。強く歯を噛んでいる。
(なに…?)
 和成が阿達家に来たのは、亨が死んだすぐ後だ。それはそうだろう、閉じこもるようになった史緒の家庭教師という名目だったのだから。
「一条がうちに来たのは咲子の紹介だった。史緒の面倒を見るだけじゃない、俺から守れとでも言われてたんじゃないのか。あまり役には立たなかったみたいだけどな」
「…っ」
 古傷を抉られたように和成は顔を歪め、櫻を睨み付けた。なにか言葉にしかけたが、それは飲み込み、苦しそうに呟く。
「…咲子さんからはなにも聞いていませんでした」
「どうかな。少なくとも、おまえは亨が誰なのか、とっくに判っているだろう?」
(“誰なのか、判っている”……?)
(なに、それ)
(亨くんが生きてる? それが本当だとしたら)
(彼は今、どこにいるの?)
「協力者とは違うけど、亨がまだいると気付いたのはなにも俺だけじゃない。蓮家の末娘もそうだ」
「蘭っ?」
「あいつは俺と同じように、亨が死んでないことに勘付いていた。そして数年の後、亨と再会したとき、一目で判ったんだ。それを誰にも言わなかったから、今、こういうことになってるんだけどな」
「……蘭?」
 ──櫻さんが何年も、子供の頃からずっとずっと、捜し続けていたもの、あたし知ってます。
 ──どれだけ長い年月をかけてそれを捜し続けていたかは、本当に、よく知ってるんです。
 櫻が捜し続けていたもの。
 亨?
 ──それなのにあたしが、その気持ちを裏切るような嘘を吐いたから
 蘭だけじゃない。司もなにか知っているようだった。
 ──その嘘って、蘭が先に見つけたことだね
 蘭が、先に亨を見つけて。
 でも、黙ってた?
 どくん、と胸が鳴る。
(亨くんが生きてる? 蘭は会ってる? どうして黙ってた? ほんとに会ったの?)
(私はなにも、今日までそんなこと微塵も考えないで生きてた。あの桜の日に、死んだとばかり思ってた…っ)
(───)
 体の中を渦巻く驚きの波の隙間に、なにか(、、、)が見えた気がする。
 けれど、まだ、はっきりと見えない。
 胸が大きく鳴った。驚きだけじゃない。なにか、予感めいたものが。
(なに…?)
(いま、なにか……)
 なんのトリガも無く、ゆっくりと顔を上げると、櫻と目が合った。
 笑ってはいない。ただ、憐れむような。
「ここまで言っても解らないか?」
「……え?」
「蓮家の末娘は、亨と再会した。別の名前を名乗っていたけど、ヤツだと気付いた。だから子供の頃と同じように、恋愛ごっこをしてるんだろ?」
 ぞくり。
 背筋が寒くなる。まさか、とはまだ思えない。まだ遠い。本当におぼろげな、影しか見えなくて。
(なに……?)
 足がよろけて、足がソファの背に当たる。手を掛け、体重を預けた。震える腕の、爪がソファに食い込んでいる。
(……どういうこと?)
 さっき、和成に会ったとき、
 ──最近、……くんに会いました?
 さっき、政徳が櫻に、
 ──……も呼んだんじゃないのか?
 どうしてその名前が出てくるの(、、、、、、、、、、、、、、)!?
 顔の筋肉がひきつって表情を保つことができない。
 バンッ
「…ッ」
 室内に大きな音が響いた。史緒はその音を背中に聞いた。
 ノックもなく扉を開け、誰かが飛び込んできた。
「失礼します!」
「───」
 史緒は目を見開く。振り返れなかった。
 聞き慣れた、よく知っている声だ。
 その声は懐かしいわけじゃない。だっていつもそばにいたし、普通に顔を合わせ、言葉を交わしていた。
 懐かしくない。何年も一緒に()った声だ。
「よぉ、ずいぶん早かったな」
 と、史緒の正面にいる櫻が、史緒の背後に向かって声をかける。
「櫻っ、おまえっ」
 息を切った声。
 史緒は振り返れなかった。うつむいたまま、顔を上げられなかった。
 眉間が激しく震えるのを、止めることができなかった。










   ▲

(ど…どうしよぉ……)
 彼女は駅構内で路線図を見上げて途方に暮れていた。
 知らない街。知らない駅。知ってる人なんか当然いない。広い駅の中、人々は目的を持った早足で通り過ぎていく、立ち止まっていると置いてけぼりにされそうな、おおきな人の流れ。
 だけど動き出すことができない、彼女には明確な行き場所が無かった。
(えぇと、一旦、ホテルに戻ったほうがいいかな…。え、うそ、携帯電話(モバイル)、忘れてきてる! 公衆電話!? …は、たぶん、掛けられる、よね。でも今ホテルに帰ったら捕まっちゃうし…)
 本当なら今日は仕事の日。スーツに着替えてホテルで迎えを待ってなきゃいけなかった。その予定を無視して飛び出してきたものの、ここで立ち往生。行き場所も判らなければ、ホテルへの戻り方も記憶が怪しい。親切に駅までの道順を教えてくれたホテルのフロントマンはここにはいないのだ。
 こうやってただ立っていても誰かが助けてくれるはずもないのに。でも、下手に動いたらもっと迷ってしまうかもしれない。
(うぅ〜……どうしよぉ)
 見知らぬ街で一人でいることなんてなかった。
 いつも彼がいたから。
(どこ行っちゃったの…? どこにいるの?)
 心細さに涙が滲んでくる。
『…ハルうぅ〜…』





 そのとき、祥子は仕事で外出先での打ち合わせの帰りで、健太郎は某企業の統合環境ソフトの講習会(セミナー)の帰り道だった。2人とも普段は通過するだけの駅で、2人はばったりと顔を合わせた。
 この後の行き先は同じ、自然と隣りを歩くことになる。
「仕事帰り? 珍しいじゃん、最近は史緒のサポートばっかやってたのに」
「もともと私の仕事はこっちよ。史緒の手伝いは篤志がいないからやってるだけ」
 史緒の隣りにいるのが普通だと思われては困る。
「そうだ、篤志。あいつ、なにしてんの? オレ、しばらく顔見てないよ」
 それは祥子のほうが聞きたい。
 健太郎の言うとおり、篤志は数週間、事務所に顔を出していない。史緒は機嫌を悪くしている。(「つまらない喧嘩のほうがよかった」と言った)篤志はなにを考えているのだろう。史緒はちゃんと把握しているだろうか。実際、あの2人の不仲がさらに続くようなら、そろそろ業務に影響が出始めるだろうに。
(───ぁ)
 顔を上げ、祥子は足を止めた。
「健太郎、ちょっと待って」
「あ?」
 こんな人の多い場所では必ずいる。いやでも見つけてしまう。
 平常時より突出した喜怒哀楽を持つ人。でも喜怒哀楽では祥子に出番はない。その人にどんなことがあったのか想像するのが関の山。問題は、この場にあって、強い不安を持つ人。今、問題が起きていて、他人がなにかできる余地がある人だ。
 祥子はぐるりと見回して、すぐにそれを見つけた。券売機から少し離れ、路線表を見上げ、ひとり、途方に暮れている、女の子。
「…あ」
 自然と向かおうとして祥子の足が止まる。
 その女の子は薄茶のやわらかそうな髪が腰まで流れていて、グレーのワンピースから覗く肌は白く、顔の造詣が日本人のそれとは違う。
(外国人かぁ)
 それなら困っているのは言語だろうか。日本語以外できない祥子では役に立てない。
「どした?」
「うん、あれ…」
 指をさしその存在を教えると、健太郎はすぐに理解した。
「あぁ。…祥子のお節介は長所だと思うけど、こういうときは本人ももどかしいな」
 お節介? 健太郎には言われたくない。
「って、あれ…」
「え?」
 健太郎は乗り出すようにその姿を凝視する。
「うわ、まじで? あれ! ノエル・エヴァンズだよ」
 と、らしくなく慌てた声を出した。
「知ってる人? …って、あっ! エヴァンズって昨日言ってた」
 確か、史緒の兄だという櫻が行方不明だった3年間、同行していたという人物の名前だ。
「えっ? あれがっ?」
「そう、昨日さらに調べてたんだけどさ、なかなかすごい経歴だった。地味にすごい」
「地味に…って」
「派手じゃないってこと」
「単語の意味は訊いてない…」
「だから! 分野そのものが地味なの。地味だけど応用は利く。それこそ軍事医療宇宙まで。それらの業界の現場の立ち会いに呼ばれるような研究者なんだぜ? あの若さで!」
「へ〜」
「と言っても、よく解ってねぇんだけど」
「あっそ」
 祥子は改めてその姿を見た。
 端から見れば外国人の可愛い女の子。見知らぬ土地で不安なせいもあるんだろうけど、おどおどと落ち着かない仕草。視線が泳いで止まらない、挙動不審、今にも泣き出しそう。
(世界を飛び回る研究者?)
「───…アレが?」
 思いっきり不審げな声が出てしまった。
 祥子の隣りで同じくノエルのほうを見ていた健太郎も珍しく弱気な声で。
「わりぃ…、ちょっと自信なくなってきたわ」
 勘違いで人違いの可能性はもちろんある。
「写真で見るよりさらに若く見えるな。仕草のせいかな〜」
「…………どうする?」
「声かけてみっか? 祥子のおせっかいも片づくだろうし」
「って、ちょっと、健太郎!」
 祥子が答えるより先に健太郎はノエルのほうに向かっている。
「別に急いでないだろ? 電車の乗り方わからないんだったら教えてやりゃいいし」ずいぶん楽しそうだ。「もしかしたら櫻氏のこともなんか聞けるかもな」
 それは確かに本心かもしれないけど、それ以上に単にノエル・エヴァンズに興味があるだけではないだろうか。
「人違いだったらどうするの?」
「やることは同じだろ。困ってる人におせっかいするだけだよ」
「言葉、通じるわけ?」
「向こうが日本語できるかは知らないけど、俺は英語できないよ?」
「日本語できなかったら?」
「ま、なんとかなるだろ」
「なんとかって…」
 その前向きすぎる行動に引きずられて、祥子は健太郎の後をついていった。

「はろー」
 健太郎が声をかけると、やわらかそうな髪が揺れてぱっと不安げな顔がこちらを向いた。
 間近で見てもずいぶん若く見える。身長は祥子と同じくらい。はっとさせられるほど深い青色の瞳だった。相変わらず表情は不安を表しているけど、大きな眼はまっすぐにこちらを向いてくる。
 健太郎はとくに躊躇することもなく口を開いた。
『すみません、えーと、あなたはノエル・エヴァンズさんですか?』
『は…はい!』
「お、すげ、やっぱ本人か」
『…っと、いけない。名乗っちゃいけないって言われてるのに』
「え?」
『あのね、マーサに。危ないからって』
「……えーと」
 速すぎて単語が拾えない。なにを言っているのか、その文脈を推定することさえ難しい。健太郎は少し考えてから言葉を並べた。
『今、なにか困ってる?』「独りでどうしたの?」『電車? どこへ?』「メモとかある?」
 単語ばかりの日本語混じり(英語混じり、と言うほうが正解かも)。路線表を指したり、電光掲示板を指したりの手振り身振りでノエルに話しかける。
 健太郎は怖じ気づいたり慌てたりしていなかった。落ち着いて、どうにか伝えようとしてる。祥子は素直に感心した。
『えと…っ、あたしね、ハルを捜してるの!』
 うわずった声で青い眼が訴える。その勢いに呑まれて健太郎の言葉が止まった。祥子は少しだけ聞き取れた単語を反芻する。
「今、捜してるって言った?」
「だよな。…はる? なんだそれ。駅とか地名とか、観光地? 名物とか名産?」
「この娘、仕事で来てるんじゃなかった? 観光くらいはするかもしれないけど…、でも一人で?」
「あ、そか。じゃあ、社名とか? …どうかなぁ。───ハル?」
 はっきり発音し首を傾げてみせると通じたらしい。
『あたしの家族!』
「ファミリー? あ、ハルって名前か。はぐれたの?」
『…あの、あたし、日本語、わかんないの』
 早口だけど(本人は早口とは思ってないだろうけど)これは解る。
 まぁ、大方の予想通りだ。
 健太郎は安心させるようにノエルに笑いかけて「ちょっと待ってて」という仕草を見せた。そして声を潜めて(潜めなくてもノエルには解らないだろうに)祥子に問う。
「どうする?」
「どうする、って?」
「ここで英語できる人を捕まえるのは簡単だけど、それじゃつまらないし」
「え? なに? 簡単って」
「こんだけ人がいるんだし、呼び掛けりゃいくらでもいるだろ」
 さすが、というかなんというか。祥子にはできない発想だ。それに今、つまらないと聞こえたけど?
「せっかく櫻氏と関係あるエヴァンズをオレらが捕まえたんだぜ? 他の人間にでしゃばられたら、あの兄妹の突っ込んだ話ができなくなるだろ。やっぱりここは身内だけで話を進めるべき! 今日、蘭は? どうしてる? あいつなら喋れるだろ、近くにいるなら来れないかな」
 あの兄妹、というのは櫻と史緒のことだろう。好奇心というか打算的というか、見方を変えれば嫌な考え方だが、その熱心さに祥子は頷くしかなかった。携帯電話を取り出し、リダイヤルから蘭の名前を探す。
 一方、健太郎は何気ない仕草でポケットから飴を取り出し、ひとつ、ノエルに差し出した。「飴、舐める?」(日本語)ノエルは首を傾げながらもそれを受け取る。健太郎は自分もひとつ口に入れて、さらにひとつを祥子に渡した。
 じわり。ノエルの緊張が解けていくのが伝わる。
『ありがとー』
「どーいたしまして」
 ノエルも飴を口に入れて、笑顔を見せる。なんか通じてるらしい。さっきまでの不安が和らいだのなら、良かった。それにしても。
(…危機感ないのかな、この子)
 いつからこの駅で迷っていたのか知らないけど、よく変なのに引っかからなかったものだ。祥子と健太郎だって、ノエルから見れば初対面の赤の他人、もう少し警戒するべきだと思うけど。他人事ながら心配になってしまう。

 蘭は事務所に向かっている途中だった。今から電車に乗るところだから電話はできないとのこと。軽く事情説明をしたら「わぁ、すぐ行きますねっ、えっと、あと15分くらい!」だという。蘭の好奇心も健太郎に劣らない。
 祥子は携帯電話を折って健太郎に説明した。
「おっけー」
「…で、どうするの?」
「なにが」
「蘭が来たら会話はできるだろうけど、そのあと」
「なに言ってんだ、一緒にハルとやらを捜せばいいじゃん」
 と、事も無げに言う。
 あー、そう。祥子は苦笑する。
 大物、なのだろうか。それとも単に楽天家なのか、なにも考えてないだけか。
 だって、ノエルは櫻とつながりがある。祥子たちはそれに踏み込もうとしている。史緒は後で報告すると言ったけど、それを待たずにノエルに深追いしてもよいのだろうか。
(そりゃあ、今更、後には退けないけど)
 この状況でノエルを置き去りにするわけにもいかない、最後まで面倒を見るべきだろう。
「まぁ、でも、あと15分も待たせるのは厳しいか。ちょっとは説明しておきたいよな」
「え?」
 訊く間もなく、健太郎は口の中にあった飴を強引に飲み込み、電話をかけはじめた。
「あー、もしもし、オレ。三佳? 三佳って英語できる? ……うぉい、そういう意味じゃねーって! …じゃあ、史緒は? え、いないの? …あぁ! 昨日の今日でさっそく櫻氏に呼び出されたんだ? 親父さんの会社? へーえ」
 どうやら事務所にかけたらしい。健太郎のよく動く表情がおもしろいのか、ノエルはその様子を見ていた。ふと、祥子と目が合う。間がもたない、話し掛けようにも単語が思いつかない。なんとなく笑いかけると、ノエルのほうも笑い返してきた。
 健太郎がどこまで計算していたか判らないけど、飴を出したのは正解だった。口の中にものを入れてるので、無理に会話をする必要性は少なくなる。
「事務所に誰がいるの? 司? 代わってくれ。……・司? オレ、健太郎。あのさ、英語喋れる? うん、ちょっと通訳して欲しいんだけど。説明は長くなるからあまり突っ込まないでよろしく」
 その後に健太郎はノエル・エヴァンズに会ったことを言い、伝えて欲しい項目として、通訳がこちらに向かってること、自分らは怪しい人間じゃない、一緒にハルとやらを捜そうってこと、を挙げた。
「頼むな。じゃあ、代わるから」
 と、健太郎は会話を一段落させ、携帯電話をノエルに差し出す。
『え? あたし?』
「そうそう」
 ノエルは戸惑いながらも電話を受け取った。窺うように健太郎の顔を見て、少し迷ったあと、ようやく電話に耳を傾けた。
『えっと、もしもし? …ぁ』
 そのあと、まるで水を得た魚のようにノエルは喋り出した。明るい顔になって、声のトーンも上がる。ようやく話の通じる相手に(電話ごしでも)出会えたからか嬉しくて仕方ないという様子。
 早口の英語。声は聞こえないけど相手は司だ。
(…もっと英語やっておけばよかったな)
 ノエルと直接話ができること、素直に羨ましいと思う。
「祥子の能力もこういうときは役に立たないな」
 と、健太郎が言った。むかっとするけど、この能力に対して言い返せるだけの自信はない。
「あんただって、大学で英語やってるんでしょ?」
「う」
 有効な言い訳が思いつかなかったのか健太郎は言葉を飲んだ。
 だけど健太郎の場合は相手が誰であっても、たとえ会話はできなくても、意思疎通はやってのけるだろう。祥子にとってはこちらもある意味羨ましいことだ。
『あの、これ』
 ノエルが遠慮がちに携帯電話を差し出し、もう一方の手でそれを指差している。
「あ、まだつながってる?」
『うん!』
 健太郎の言葉の意味が解ったわけではないだろうけど、ノエルは大きく頷いた。健太郎は電話を受け取り、
「よー、司。ありがとな。……わーった。……ん? え、なにそれ。なんか知ってんのか? って、おい…ぁ」
 少しの会話のあと、耳から離し、訝しげにそれを見る。司になにか言われたのだろうか。
「どうしたの?」
「いや……。まぁ、蘭を待てばいっか」
 気を取り直して電話をしまう。
「じゃ、ここにいても暑いしさ、そこの店で蘭を待ってよーぜ。ちょうどなんか飲みたかったし」
 すぐそこの店を指さす。ノエルはなんとなく解ったっぽいけど、一瞬躊躇、健太郎、祥子の顔をそれぞれ見て、ちょっとの後、大きく頷く。
 微笑って、並んで歩き始めた。






   △

 司に電話を替わったあと、三佳は椅子に座ってその会話を聞いていた。
 と言っても、その内容はまったく理解できない。日本人訛はあるのだろうけど(よど)みない発音。司が英語で喋っているのを聞いたのは、知り合って間もない頃、一緒に蘭の家に行ったとき以来かもしれない。
 電話を終えた司が振り返って笑った。
「僕らは貧乏くじ引いたね。なかなか面白いことになってるのに蚊帳の外だ」
 三佳の正面に座り足を組む。飲みかけだったコーヒーを口にした。
「さっき、ノエル・エヴァンズって言ってた?」
「うん」
「それって、昨日、健太郎が言ってた、櫻と一緒にいるって人間?」
「そう、そのノエル。健太郎と祥子が駅で会って 蘭も合流するらしい」
「なんでまた」
「駅で迷ってたから声をかけたって言ってた」
「…健太郎らしいな」
 思わず苦笑してしまう。ノエル・エヴァンズがどういう人柄かは知らないが、たとえ言葉が通じなくても、健太郎の好奇心に振り回されているかもしれない。さらに蘭が加わるなら最強、祥子がうまくフォローしてればいいけど。
「まぁ、都合はいいかな。もう少し時間稼ぎをしていて欲しいし」
 と、言った司の表情から笑みは消えていた。
「…? なに? 時間稼ぎって」
「史緒たちのほうの話が一段落するまでは、邪魔しないでもらいたいからね」
「?」
「───そもそも」
 司はわざとらしく溜め息を吐いて言った。
「阿達家の問題がここまでややこしくなったのは、篤志の責任だな」
「篤志?」
 突然、別の名前が出て三佳は目を丸くした。
「どうして? 今回の件には関係ないんじゃないのか?」
「いいや、関係ないどころか、むしろ元凶だよ」
 元凶とは、またずいぶん物騒な単語だ。
「篤志が?」
「そう。篤志は長いあいだずっと、史緒に言わなかったことがある。それを史緒が知ったとき、史緒は篤志を許せるかな」
 そこでまた司は小さく息を吐いた。三佳の相づちを期待した科白ではなかった。
「笑って許せるとは、僕は思えないんだよね」
 と、司にしては頼りない声で言った。
 どうも三佳は納得いかない。篤志が史緒に言わなかったことがある、それはいいとして、それが今回の、阿達家の集まりに関係があるというのだろうか。
「実は僕もね、三佳に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なに? 改まって」
 そういえば最近、なにか言いかけていた。櫻の騒動でかき消されていたけれど。
 司は静かに笑った。
「うん、でも、今はいい。史緒たちのほうが片づいてからにするよ」










02

   □

「失礼しますっ」
 篤志はドアノブを力任せに押して叫んだ。
 本来なら、こんな乱暴に入れる部屋ではない。今日は仕事ではないのだから本来なら正式な手続きを踏んで、秘書課の誰かに中継ぎしてもらうべきなのだが、篤志にそんな余裕は無かった。直接このフロアに入れたのは、社員証を持っていたからだ。
「よぉ、ずいぶん早かったな」
 眩しいわけではないのに、室内の光景に一瞬目が眩む。
 ブラインドが閉じた窓際、書棚の影に櫻。そして櫻の正面に立つ史緒がこちらに背を向けている。奥の机に座る政徳。そして篤志から一番近い、扉のすぐそばに和成がいた。
「……っ」
 篤志の右手には携帯電話が握られている。数十分前、こちらに向かう電車に乗っているとき和成からメールが来た。そのメールで篤志は櫻に嵌められたことに気付く。駅から暑い中を走ってきた。汗を掻いて、息がまだ整わなかった。
「櫻っ、おまえっ」
 昨夜、櫻から指定された時間にはまだ余裕がある。わざと時間指定をずらされたらしい。おそらく、自分だけ。
 室内に足を踏み出すと、その足音に反応して史緒の背中が揺れた。それは微かな反応だったけれど、篤志は大きく動揺する。
(くそ…っ)
「櫻」
「うるせぇ、気安く呼ぶな」
 櫻の正面に立つ史緒のすぐそばまで寄っても、史緒はこちらを見ようとしない。うつむいてその顔は見えない。ゆっくりと肩で息をしていた。
「史緒…」
 声をかけるも応えようとしない。篤志が手を伸ばすとそれを拒否するように史緒は背中を見せた。
「!」
 歩き、膝の力が抜けたようにソファに腰掛ける。やはり篤志のほうに目を向けることはなく、膝の上の両手に視線を落としていた。
「…っ」
 篤志は歯を噛み締める。和成を見る。けれど彼の表情はなにも教えてくれなかった。彼にフォローを期待しすぎるのは過ぎた要求なのだろう。次に政徳を見た。目が合う。普段から感情を見せる人ではないし、また、容易に読ませる人ではないがその表情には戸惑いが感じられた。そしてもう一度、史緒、相変わらずうつむいている。
 櫻。目が合うと薄く笑った。篤志は睨み返して、
「…勝手なことするなよ」
 史緒と政徳が櫻から何を聞いたのかは確認するまでもない。事が起こってからでは考えても意味がないが避けたい展開だった。
「非難されるいわれはないな。おまえだって、俺が言うのを期待していたんだろう?」
「馬鹿言うなっ」
「違うのか? 10年以上、口を割らなかったおまえが、今更、どのツラ下げてなにを語るっていうんだ」
「10年以上気付かずにいた櫻に代弁してもらうことじゃない」
「言葉に気を付けろ。見抜けなかったことを責めるのか? ここで?」
「話を逸らすな、責めてるわけじゃないっ」
「じゃあ、訊くけど。今回、ここで俺が言わなかったら、いつまで黙っているつもりだったんだ?」
「…っ、それは」
 カツン、と硬い音がして言い合いが止まった。
「!」
 政徳が万年筆で机を叩く音だった。
 口を閉じた篤志と櫻がそろって顔を向けると、政徳は眩しそうに目元を歪めた。そのまま何かを口にすることは無かったけれど、その意志は明白。気まずい沈黙があった。
 櫻はつまらなそうに顎をしゃくって、篤志に発言を促した。他に喋る者はいない。篤志が喋るのをそれぞれが待っている。

(……)
 ここには櫻がいて、史緒がいて、政徳がいる。
 感動するくらいそれは望んだ場所だったけど、今、味方はいない。長い間、隠してきたことが中途半端に明かされて、不審を抱かれている。
 こうなることは覚悟していたはずなのに、この場に来ても口が動かない。これから話すことを受け入れてもらえるのか、非難されはしないか。それを恐れているのだと、頭で理解することができた。
(俺は櫻が言ってくれることを望んでいたのか?)
 櫻の言うとおり、10年以上、口を閉ざしていた。
 咲子はいたずらを明かす時期を定めなかった。咲子が望んだのは、
 ──櫻がちゃんと自分のために生きているか
 ──史緒が幸せになってくれているか
 ──そしてもちろんあなたも…
 いつでも良かったはずだ。咲子の葬儀の日、櫻と再会したときだって構わなかった。あのときはもう、篤志と、そして櫻は、殺したり殺されたりするような、弱い子供じゃなかった。
(どうして言わなかった?)
 いつ言っても良かった。不都合なんてひとつも無かった。
 あの時でなくてもいくらでも時間はあった。それこそ、何年も。
(どうして?)
 思いの外、関谷篤志というポジションは居心地が良かった。
 なんの因縁もなく櫻に接して、史緒の手を取って。
 2人から見たら、家族ほど近くではなく、他人ほど遠くはない。とても居心地の良い距離で。
 時間が経つとそこに「関谷篤志」という居場所ができて、彼らのなかに「関谷篤志」という存在が形成されていく。言葉を交わし、時間を共有して、少しずつ関係が作られていく。お互いの過去を知らず(隠し、知らないふりをして)、新しい関係を築いていくのは楽しかった。
 気が付くと長い時間が過ぎていた。
 そして、櫻がいなくなったとき、初めて後悔する。真実を隠していた罪悪感と漠然とした焦燥が生まれた。次に会えたら、言おうと決めた。
 それが、今、この瞬間だというのに。
「関谷って、何歳?」
 痺れを切らしたのか、室内の沈黙を破って櫻が言った。
「…? 22だけど」
「俺は24」
「!」
 篤志はそこでようやく櫻の言いたいことに気付く。政徳も意外そうに顔を上げ、こちらを見た。
「18で高校を卒業したよな」
「…ああ」
「“関谷篤志”は中学生の頃、一年以上入院している記録がある。普通は留年するだろ。年齢を偽っているのか、生まれ年を偽っているのか。どっちなんだ?」
 答えは解っている、櫻の眼はそう言っている。
「それに、関谷家には子供がいないはずだ」
「…おいッ」
 今のは聞き逃せない。篤志は櫻の腕を掴んだ。
「まさかウチに来てそれ言ったんじゃないだろうなっ」
「離せっ。説明するのはおまえだ、話が進まないだろ」
 不愉快を露わにして腕を引く。政徳も櫻の言葉に同意するように息を吐き、篤志に発言を促した。
「…どういうことだ?」
「俺、は……」
 史緒に目を向ける。変わらずうつむいたままで、こちらを見ようとはしない。櫻は熱のない目を向けて篤志が喋るのを待っている。そして政徳も。
「…関谷夫妻に子供はいません。俺は、養子です」
 目をきつく閉じる。深呼吸はうまくいかなかった。
 一度だけ、息を飲んで。
「櫻が言ったとおり、俺は中学生の頃、怪我をして入院していました。───そしてその少し前、同じ病院に、阿達亨が運ばれています」



 ──目が覚めたとき、自分は死んでいた

 病院に運ばれた亨の意識が戻ったのは、亨の葬儀が終わった後だ。亨が目覚める前から、目覚めるかも判らないときから、咲子は動き始めていた。
 救急車の中、サイレンがうるさかった最後の記憶も、白い病室でやわらかい日差しを感じた最初の記憶も、手を握ってくれていた咲子が泣いていた。
 目が覚めた後も一週間は喋ることができなかった。痛みに意識が遠ざかり、痛みに叩き起こされる繰り返し。その間、ずっと考えていた。
 櫻のこと。
 異変があったのは気付いていた。原因は解らない。櫻はなにも言ってくれなかった。
 ちゃんと、もっと、話をすればよかった。強引にでも、櫻が苦しんでいることを聞き出せばよかった。
 咲子は櫻がああなった原因は知っているという。教えてとせがむと首を横に振った。ただ一言、ごめんなさいと謝罪を口にする。それは櫻に対してのものか、自分に対してのものかは判らなかった。
 亨が家に戻っても同じことの繰り返しになる。櫻にとって亨は感情をかき乱す存在になった。
「謝っても許されることじゃないね…。だけど、───だからあたしは、亨くんの存在を隠してしまったの」
 あなたはどうする?
 今ならまだ、笑えないいたずらを明かして阿達家に帰ることもできる。
 そして、別の名を名乗ることも。
 咲子は亨に選択の余地を与えた。もしかしたら、自身の早まった行動を悔いていたのかもしれない。
 櫻がどんな思いだったか、咲子にどんな事情があるか。どちらも亨は知らない。
 知らない。けれど。
「別の名を名乗っても、また、櫻に会える?」
 そう訊くと咲子ははっとした。
「きっと、近すぎたせいもあるんだ」
 なんでも解っているつもりだった。
 同じものを見て、同じことを感じているのだと思っていた。
 それがブレただけで冷静でいられなくなるほど。
 普通の分かり方(、、、、、、、)を、2人は知らなかった
「だから、今度は友達に、なるよ。櫻や史緒と、また、会えるかな」
 咲子は泣いていた。亨はただベッドに寝ていることしかできなかった。
 指さえ、動かせないまま。
 そして半月も経った頃、咲子は関谷夫妻を連れてきた。

「亨は関谷夫妻の養子になり、新しい名前をもらった。それが、関谷篤志です」
 ──ごめんなさい
「咲子さんはそう言い残しています。もちろん俺からも謝罪を。…いまさら、簡単に受け入れてもらえるとは、思っていないけど」




 しんとした室内には、いつもはあまり意識しないエアコンの音が満たされている。誰も口を開こうとせず、篤志が最後に言った言葉の余韻が長くその場に残った。
 史緒は変わらずソファに座り顔を上げていない。政徳も机の上に視線を置き、篤志の発言を咀嚼しているようだった。ただ一人、櫻がこちらを見ていた。
「言わなくてもいいかと思い始めていた?」
 過去を見透かすように櫻は言う。
「…ああ」
「だが、名乗らざるを得ない状況になった。それが史緒と婚約させられたこと。まさか結婚するわけにはいかないし、その気もない。婚約破棄させるためには名乗る必要があった」
「…それなら」
 と、政徳が口を挟む。
「跡継ぎになるのを断れば良かったんじゃないのか? 選択の余地は与えたつもりだが」
「そうすると別の男を連れてこられてしまう。それでは関谷にとって都合が悪かった」
「都合?」
「関谷の目的は、アダチの仕事をすること、かつ、史緒との婚約は解消。普通ならこれは矛盾しているように見える。しかし関谷は、それをどちらも思い通りにするカードを持っていた。そしてそのカードを出す時期はギリギリでも充分有効。おまえはそこまで考えたはずだ。あとは大人しく婚約者としていられるよう史緒を手なずけておく、そうすれば自分の立場を守っていられるからな」
「それは違うっ。いちいち誤解されるような言い方をするなっ」
 我慢ならずに篤志は史緒に駆け寄る。
「前も言っただろ、俺が史緒といたのは」
 ぱん、と伸ばした手を払われた。
「やめて」
「!」
 本当に史緒のものかと疑うほどの低い声が返る。史緒の上体が沈み、膝に付いた手に顔を埋めた。それを隠すように背中から髪が流れていく。
「私、は、櫻の言うことなんか気にしてない。…そうじゃない。どうして」
 指を髪に通し両手で頭を抱えて。
「どうしてあなたが、亨くんの名前を口にするの?」
 語尾が震える、湿った声。わずかに見えた顔は正面からこちらを見ることはなく、眉間に皺の寄った目が睨んでいた。
「史緒、俺は…、───っ」
 史緒は勢いよく立ちあがり、政徳に顔を向ける。
「頭を冷やしてきます」
 それだけ言うと篤志の横をすり抜けて、早足で部屋を出て行こうとする。
「史緒っ」
「待て」
 追いかけようとした篤志の足を政徳が引き留める。
「和成が行け。…おまえは残るんだ」
「…っ」
 和成は頷いて、ドアの向こう側へ消えた史緒の後を追う。篤志は歯を食いしばり、一瞬悩んだけれど、言う通りにするしかなかった。





 こうなると予測できていたとはいえ、実際に起きてみると対処方法が思いつかない。
 和成は後ろ手で扉を閉め、先に退室した史緒を追った。
 史緒は肩をいからせて早足でエレベーターホールに向かっていた。
「史緒さん!」
 呼びかけてもその足は止まらない。和成は走って、廊下の途中で史緒の手を捕まえた。が、すぐに払われる。
「あなたも知ってたんでしょ!!?」
 千切れそうな声と同時に振り返る。乱れた長い髪のあいだから怒りに満ちた表情が見上げてきた。少しだけ、涙を滲ませて。
(だから早く解決しろって言ったのに)
 篤志への恨み言とともに和成は舌打ちした。
 史緒が大声を出したせいで、同じフロアにある秘書室から数人が顔を出した。和成はそれを手で制してとくに問題無いことを伝える。今日の来客については告知されているのだから騒ぎになることはないだろう。
 史緒は震えるこぶしを握り、目を伏せて立つ。肩で大きく呼吸を繰り返し、激情を抑えているようだった。
「……篤志くんは、史緒さんを騙していたわけじゃないと思うよ」
「そんなの…っ、………ッ!」
 込み上げるものが大きすぎて声にならない。唇が空振りして歯を噛む音が聞こえる。呼吸が荒くなり、鼻先が冷たくなったのか大きく頭を振った。
「私は…っ」
 聞いているほうが喉が痛くなる絞り出すような声。けれど必死に抑えた声で史緒は言う。
「私は、…たぶん、櫻が生きてればいいって、そう思ったことが、あった、と思う」
 鋭く息を吸う音が聞こえた。
「だけど今日まで! 一度だって! 亨くんが生きてるなんて、私は、願いさえしなかった(、、、、、、、、、)!! だって櫻が、私の目の前で殺したから…、だから疑いも願いも、する余地なんて無かった。私の中で、亨くんはもう死んでるの! ───それが生きて………篤志?」
 皮肉げに笑う。
「じゃあ、あの日、桜の下で傷付いたのは誰? いなくなったのは…倒れて、動かなくなったのは…血を流したのは、蘭と私が好きだった人は誰? そして、私のはとこで、高雄さんと和代さんの息子で、一番近くにいた、何年も一緒にいた仲間は誰? …誰なのっ?」
 史緒の中の熱は収まらない。今にも泣き出しそう。こんな風に手のつけようがない史緒を見るのは久しぶりだった。
 その怒りの理由は、篤志がずっと黙っていたことか、和成や蘭がそれを知り黙っていたことか、亨が生きていたこと、亨と篤志が同一人物だと受け入れられないのか、それとも…。
 いずれにしろ今の史緒には、何が自分をかき乱しているか、それすら考える余裕が無いだろうけど。
「……和成さんは、いつから知ってたの?」
 と、幾分落ち着いた声が返った。
「篤志くんと会ってから、…少しずつ、なんとなく」
「蘭は…───、櫻が言ってたわね。一目で判ったんだ…。だから、篤志のこと、好きって…」
「史緒さん」
 呼びかけると、史緒は弱々しい顔を上げた。怒りは収まり、代わりに自嘲の色が浮かぶ。
「ごめんなさい。落ち着いて、一人で考えたいの。…一人に、してください」
 そう言うと史緒は、和成の反応を待たず顔を背けて、エレベータホールに向かっていった。


 史緒はエレベータを降りると、そのまま早足でフロントの前を通り過ぎ、エントランスをくぐって外へ出た。
(うわ…)
 痛いほどの日差しを感じて反射的に仰ぎ、手を翳す。
 ビルの間にいるので空は狭い。でも見上げれば青い空が見えた。







   ▲

 空が青い。
 ノエルは店の外を見て泣きそうになる。ざわつく胸を押さえた。
(ハル…)
 どうしよう。ハルに会わなきゃいけない。早く。もし外にいたら、たぶんまた悲しんでいる。空を見上げて、なにかを捜すように。
(どこに行っちゃったの?)
 今朝、起きるとハルがいなかった。ノエルは慌てて部屋中を捜して、ホテル中を捜して、フロントに駆け込んで、ハルが早くに出掛けたことを聞いた。
(もしかして誰かに、会いに行った、のかな)
 せっかく日本に来たのだから、会いたい人がいるなら会えたほうがいい。それはやっぱりそう思うけど。
(突然いなくなるなんてヤだよ〜)
 離れていくことは無いと約束してくれた。だけどやっぱり不安で、ノエルは仕事をすっぽかしてホテルから飛び出した。





『それって、櫻さんのことじゃないですか?』
 アイスティーのストローから唇を離したあと、蘭は首を傾げた。
 暑い中を急いでやってきて、店内の涼しさでクールダウン。そして、状況説明を聞いているあいだに運ばれてきた、氷が浮かぶグラスの冷たさで、生き返る心地を味わったあとのことだ。
 その声量は大きくも小さくもない、反射的に返した何気ない問いかけだったけれど。
『ハルのこと知ってるの!?』
 テーブルの正面からノエルが乗り出してきた。
「は? なに? 今、櫻って言った?」
 すぐ隣りから健太郎。
「え、…まさか、櫻ぁっ!?」
 斜め前、ノエルの隣りから祥子。
 それぞれあまりの迫力に、蘭はびっくりして首を縮めた。
「え、あの、だって…」
 なにか間違ったことを言ったのかと、自分の発言を振り返る。
『ノエルさんが捜しているのは、ノエルさんと一緒に日本に来たご家族の方で、男の人、髪と瞳は黒で、眼鏡を掛けてて顔立ちは東洋系、20代前半、日本語は喋れる、ですよね』
『うん!』
「で、ケンさんのほうの情報によると、櫻さんはノエルさんに同行していて、3年ぶりに日本に来てるってことでしたよねぇ」
「確証は無いけどな」
 むー、と蘭はグラスを持ってストローをくわえ、今一度考え直す。
 ノエルはハルという人物を捜しているという。一方、健太郎と祥子は、櫻の連れであるノエルを偶然見かけて、意気投合して、ついでだから人捜しを手伝うつもりらしい。健太郎らしい、と蘭は笑った。
『ねぇ、ノエルさん。ハルさんって、いじわるですよね』
『うん!』
「決まりですねっ」
 即答したノエルのあと蘭も真顔で頷く。
「…おい、今のは解ったぞ」
「じゃあ、捜してるハルっていうのは、櫻のことなの?」
「はい」
 健太郎と祥子も言葉が通じればすぐに判ったのだろうが、曖昧な意思疎通ではそこまで伝わらなかったらしい。
『え? なに? サクラ? ハル?』
『あたしたち、ハルさんのこと知ってるみたいです』
『んん? …え? ええぇっ? なんだぁ! そうなのぉ?』
 ノエルは目を丸くしてそれぞれの顔を見回した。安心しきった様子で声を高くする。
『サクラって知ってるよ、お花の名前だよね。あ、もしかしてそれがハルの本当の名前?』
『ええ』
『わぁ、すごーい、なんか羨ましい。ハルがここでどんな風に過ごしてたかも知ってるんでしょ? ショウコとケンも?』
「え、ううん、私は、知り合いって言っても一度会っただけだし。しかもつい先日」
「俺も。蘭は? 付き合い長いんだろ?」
『ラン?』
『はい。子供の頃からお世話になってました』
『わぁ、いいな!』
 と、歓声をあげた後で、ノエルは頬をふくらませた。
『ハルはほんとに、自分のことをなにも話してくれないから』
 笑ってはいたけど淋しさも見えて、蘭は励ますように強い声で言う。
『じゃあ、ハルさんを捜しに! ……って言っても、そういえば手がかりは無いんですよね』
 しかし、この時期に櫻が顔を出すところなど限られているはずだ。篤志と史緒の前にも姿を現している。次に櫻が取る行動は…。
「あ、ごめん、言い忘れてた。櫻氏なら今日は親父さんの会社にいるらしいよ」
「…え?」
「事務所に連絡したときに司が言ってた。史緒もそっちに行ってるって」
 どん、とノエルがテーブルを叩く。
『どこ? 行きたい!』





 店を出るとむっとした空気に息が詰まる。蘭はわぁと短い悲鳴をあげた。
(今日も熱いなぁ…)
 数日前、櫻と再会したのはこんな熱気の中だった。
 線路越し、陽炎の向こう側。死んだと思われていた櫻を見つけて、蘭は叫んでいた。
 ───櫻はずっと亨を捜していた。
 蘭が離脱したあとも、何年も。
 確信だけはあったのに、櫻の眼は最後まで見破れなかった。
 期待外れだったし、一緒に喜べないことが残念でもあった。でも逆に、安心と、もしかしたらどこかで優越感を持っていたかもしれない。ちゃんとたどり着けたのは自分だけだと、誇らしかったのかもしれない。
(あたしはずるい)
 胸が痛くなる。
(ごめんなさい、櫻さん)
 櫻はいつも、なにを感じていたんだろう。
 いつだって櫻は楽しそうじゃなかった。その中で、どこか辛そうに、亨の存在を追いかけていた。
(もしあたしがすべて話していたら、なにか変わっていた?)
 誰彼構わず傷つける櫻は、幸せになろうとしない人だ。
 ずっとそうやって生きていくのは、悲しい。
 だけどそんな櫻が、この、ノエルと出会った。
『ね、ノエルさん。ハルさんってどんな人?』
『ハル? やさしいよね』
『そう…ですか?』
『あはは。誤解されやすいんだよね。きっついしさ』
『きびしい人ですよね』
『そうそう! ハルは自分や周囲にきびしい。ん〜、…でもやっぱりそれは、やさしいっていうことだと思う』
 ノエルはまっすぐ前を見ながら、くすぐったそうに笑う。
『ハルはね、見捨てられないの。勝手に期待しすぎて、思い通りにならないと怒って、八つ当たりして。期待を裏切られても、でも、捨てられないの。…なんていうのかなー、ハルって無駄に眼がいいから、本音と建前の違いにすっごく神経質なの。───知ってる? ハルが一番嫌いなのは、善意の嘘』
『善意の、嘘?』
『ちょっと違うかな? 本心を隠して笑顔を向けられることが嫌い、なのかな。ハル自身を傷つけることでも、本音で接して欲しいと思ってる。その本心が、強く優しく正しくあって欲しいと思ってる。───だけど、そんなの贅沢だよね。ハルは理想が高すぎるんだ』
『…』
『だからあたしはできるだけ口にするようにしてるんだ。嬉しいことは嬉しい。楽しいことは楽しい。不満も悲しいことも怒りたいことも。…それでハルを困らせることも多いけど、笑ってくれるからいいかなって。でも難しいよね。だって好きな人にはやっぱり心配かけたくないし。悩みとか不調とか、言いたくないんだけど、でも結局見抜かれちゃうのがハルのヤなところ』
 ノエルは無邪気に笑う。
『なんか、嬉しい! ハルのこと、こんな風に喋れる人、今までいなかったもん。マーサは、ハルのことなんか聞きたくない〜って言うし。ホーキンズは無口な上にハルと結託してるようなとこあるから、下手に話題をふれないの』
 蘭は相槌すら忘れて聞き入っていた。
(櫻さん)
 胸があたたかくなって、呼吸がむずかしくなる。
(よかった)
 気に掛けていたことは、願った以上に良いほうへ進んでいた。
 一体、今まで誰が、櫻のことをそんな風に評しただろう。蘭が知る限り、櫻は幼い頃から周囲に敵ばかり作っていたし、その結果が招いた己への評価を正そうとしなかった。櫻は周囲なんか見ていなかった。もっとずっと、遠くを見ていた。だけど今はすぐそばにノエルがいる。
『ハルは、なにを捜してるのかなぁ』
『えっ?』
 ギクッとした。
 そのキーワードはとても重要なものだったので。
『この3年間、あたしと一緒にいてくれたけど、でもずっとなにかを捜してた。たぶん、なにかを待ってた。ときどきね、遠い目をするの。空を見上げたり、人混みを見つめたり。そういうときのハルはなんだか辛そうで、あたしはそれがすごくヤだったんだけど、でも、ハルにとってはとても大切なことみたいだったから』
『…捜して、ました?』
『うん』
 蘭が亨を捜していたのは、また会いたいからだ。笑い合って、できるだけ同じ時間を共有したかったから。
 では、櫻は? 己の直感の正しさを証明したいから? それだけで何年も追い続けていられるだろうか。それとももっと他の、櫻にとって重要な動機があるのだろうか。
 蘭が嘘を吐いた日から長い時間が過ぎた。その間も櫻は一人でずっと捜し続けていた。
 ノエルと出会った後でさえ。
『だからね、それ以外の時間は、あたしが幸せにしてあげるんだ』
「……っ」
 鼻先が熱くなった。泣きそうになるのを抑えるために首を振る。
 長い間、櫻を彷徨わせてしまった罪悪感と、それ以上に、櫻と出会ってくれたノエルへの感謝で。
(よかった…)
 すぅっと鼻から息を吸って、
『大丈夫ですっ!』
 ノエルの両手を取って握りしめた。
『ラン?』
『櫻…ハルさんは、今回日本に来たことで、それを見つけましたから!』
 ぽかんとしていたノエルは蘭の力強い言葉に目を輝かせる。
『…ほんとにぃ!?』
『ええ!』
『ハル…、よかった…っ』
『さぁ! 早くハルさんに会いに行きましょう』
『うん!』
 ノエルと蘭はどちらも少し涙混じりの目で笑い合った。
「おーい、2人とも、おせーぞー。ノエルは切符の買い方わかるかー?」
『え、切符? あの、カードでいい?』
「切符買うのにカード!?」
『えぇっ、ダメなの?』
「いや、買えないことはないだろうけど、…160円だぞ」
「窓口なら、買えるんじゃない? でも、小銭持ってないと不便だよ? いつもはどうしてるの?」
『あのね…っ、いつもはハルかマーサが一緒にて、買ってくれるの。…日本はチップ払っちゃいけないって言うし、なんか、あたしがお金持つとあぶないって』
「あー、いーいー。俺が出すから」
『ごめんなさい、あとできちんと返すから』
「いいって。櫻氏に請求しておく」
『ありがと。……みんな、親切で良かった』
『ノエルさん?』
『前にもね、ハルの知り合いの人に会ったんだけど、すごくヤな人だったから』
『櫻さ…じゃなくて、ハルさんのお知り合い? 日本の方ですか?』
『んー、どこの人かはわかんない。でも東洋系、ジンっていう男の人』
『え』







   △

「蘭の写真のことだけど」
 茶色のポーンを指先でいじりながら、司はゲームの戦況以外のことを口にした。
「うん?」
 盤上の戦局は今のところ三佳のほうが優勢。本当に珍しいことに司は対戦中に別の考え事をしているようだった。集中していない。
「櫻と亨って似てた?」
「…?」
 不可解な質問だった。
 先日のことから櫻のことを話題にするのは解る。それが写真のことなら、櫻についてほとんど何も知らない三佳に訊いてくるのも頷ける。でも、櫻が亨と似ているか? 追求するような話題とは思えないけど。
「あの写真を見る限りでは、双子と判るくらいには似ていたな」
「見分けがつかないくらい?」
「いや、そうでもない。気性が違うのは表情で判った」
「もし、三佳が亨に会ったら解ると思う?」
「それは…無理があるんじゃないか? 写真の子供は大人になってる、いくら面影が残っていたってどんな風に育っているか……、いや、遺伝子だけを当てにするなら櫻に似ているはずだな。でも───…、亨は子供の頃に亡くなっているんだろう?」
「どうかな」
「…司?」
 見ると、司は思索に深く沈んでいるようだった。これではおそらくチェス盤の駒の位置は彼の頭から抜けているだろう。普段はゲーム中に意識が飛ぶことなんて無いのに、なにがそんなに気になっているのだろう。
 三佳はやれやれと息を吐いて、試合を放棄した。対戦中の心地よい緊張感を解いてソファに寄っ掛かり、司の話を聞くことにした。
「例えばね」
「うん?」
「もし三佳が、身近な人たちから一時的に離れて、接触を断って、…例えば4年後に初対面を装いたいとするじゃない? その場合どう行動するべきだと思う? 必要な準備とか」
 ずいぶん話がずれた気がする。櫻と亨の話ではないのか?
「身近な人って、例えば司とか?」
「そうだね」
「嫌な例えだな」
「ごめん」
 司は苦笑する。
「思考実験…とは違うか。シミュレーションごっこだとでも思って、考えてみてくれない?」
「…」
 三佳からすれば、司や他の仲間たちと、今更、何年も離れるなどあり得ないと思う。ましてや自分から離れるなど。
「わざわざそんな面倒くさいことをする理由は?」
「その辺りは任意で」
「…まず、別れるのに理由がいるな」
「そうだね」
「適当な理由を付けるしかないか。今生の別れにするか期限を設けるか、どこまでシナリオを用意するかにも寄るけど、後者のほうが周囲を納得させやすいだろうな。他に、失踪するという手もあるか。それなら別れる理由を考える必要もなくなるし」
「うん、それから?」
「離れている間の居場所の確保。私の場合は難しいな、大人の協力者が必要になる」
「なるほど」
「それと名前。初対面を装いたいというのは、別の人間として会うということだろ? まさか4年の間に周囲の人間全員が自分の名前を忘れるということは無いだろうし、新しい名前は必要だ。すぐにバレても構わないならその場限りの偽名を名乗ればいいけど、それで済むなら4年も時間を使ってそんな大掛かりなことはしない。あとは容姿は適当に変えて、しらを切り続けられる図太さ。…といっても、何にせよあまり現実的な前提(ケース)ではないな」
「まぁ、そうだね」
 三佳はそれ以上考えるつもりはなかった。それでも司は満足したようで、笑って頷いている。そして笑みを浮かべたまま、
「たぶん篤志も、そういうことをしたんだろうな」
 と、言った。
 三佳は目を丸くする。
 一瞬で頭が熱くなった。
 司は面白そうに三佳の頭が働くのを見守っている。
(なんの、話をしていた?)
 篤志が元凶って?
 櫻はなんて言った?
 何故、写真の話から篤志の話になった?
「…篤志が……、…誰だって?」
 呟いた声が冷房で冷えている部屋に響いた。









03

   □

 史緒はビルに挟まれた歩道をふらふらと歩いていた。行く当てがあるわけじゃない。この炎天下、日陰の中では熱が和らいでも湿度が下がるわけじゃない。ただでさえ過剰運転気味の頭が茹だりそう。
 それでも、家族が集まったあの部屋にいたくなかった。
(家族…?)
 思わず失笑する。あまり使う機会の無かった言葉だ。
 史緒がいる場所は大通りからはひとつ入っているので、路上駐車を除外すれば車は少ないほうだ。両端を高いビルに挟まれた通りは人通りが少ないわけではないが、多いわけでもない。スーツを来て颯爽と歩く人たちと通り過ぎながら、史緒は当て所無く歩いていく。
 ──もう少しだけ待ってくれないか
 ──史緒にも、言わなければならないことがある
 最後に会ったとき、そう言ってた。
 ──俺自身、決着を付けなければならないことがあるんだ
(それが、こういうことだったの?)
 動揺が収まらない。思考が冷静に働いていないことを自覚できても、気持ちを落ち着けられない。そんな状態で考えを進めるのは危険だ、冷静な判断ができるわけない、でも止まらなかった。
(亨くんは生きていた。あの桜の日に終わったわけじゃなかった)
(咲子さんが手を回して、亨くんは別の場所で生きていた。それが関谷家?)
(それが篤志!?)
 それを事実だと理解できているのに混乱から立ち直れない。
 亨の記憶を辿ろうとしても、鮮明なものは何ひとつ無い。それくらい過去のことだ。史緒は7歳だった。双子の兄がいて、2人とも笑っていた。櫻も笑っていた。2人に囲まれて史緒も笑う。そういう時期があったことを疑ってしまうくらい、眩暈がするくらい、今とは違う日常。
 櫻のことが怖くて仕方なかったのは、亨のことを思い出してしまうから。桜の下で亨が倒れた風景を思い出してしまうから。
 和成が同じ家に住むようになった。ネコを拾った。司が来て、すぐに蓮家へ渡って。
 司が帰国して、少しして咲子が他界。そして。
(……篤志と初めて会った日っていつだった?)
(確か、家に来て)
 廊下から司に呼びかけられてドアを開けると、そこに篤志がいた。それが始まりだった。
 ──はじめまして。関谷、篤志です。
 人懐っこい笑顔がそこにあった。
 もうずっと前だ。そんな昔から、篤志とは出会っていた。
 その後、史緒は留学して、一年で帰国して、年が明けてすぐのこと、櫻が嵐の海に消えた。
 同じ頃、桐生院由眞と出会う。仕事を始めることになった。一人では不安だったから、頭を下げた。篤志は一緒に来てくれた。
 三佳、そして祥子と出会う。それで仕事を始めて1年が過ぎた。蘭を呼んでまた1年。健太郎が加わって、さらに1年と半分が過ぎた。
 それだけの時間が流れた。それだけの時間を一緒に過ごしていたのに。
(どうして言ってくれなかったの?)

 櫻が海に落ちた後、篤志も捜索に参加していたことを後になってから聞いた。「私が殺した」と言ったときも、史緒を責めなかったけれど悲しそうな顔をしていた。
 篤志は最初から櫻を気に掛けていた。櫻から手酷く突き放されても、ことある毎に声を掛けていた。あの頃は、まだ知り合って間もないから、櫻の本性をよく知らないせいだと思ってた。
 でも違う。篤志は櫻のことをよく知ってた。知っていて櫻を気に掛けていた。
 だから櫻が行方不明になったときあんなに心配して、悲しんで。
 ──おまえと結婚するってのはないな
 ──それは絶対ない
 あのときも。
 ──おじさんに逆らえない振りして、不承不承で従うような素振りで、期待させておいて。最後には拒否してやろう
 ──心配すんな。最後は丸く収まるから。絶対
 ──おまえは好きにやればいい
 根拠の無い自信なんかじゃなかった。ちゃんと政徳を納得させる切り札を篤志は持っていた。
 アダチを継ぎ、史緒と結婚しない、両方の切り札を。
 だから篤志はあんな自信ありげに、大丈夫だよって。
 アダチの仕事がしたいの? そう訊いた史緒に、篤志は頷いた。
 ──昔からずっと、そう思ってた
 と。
 昔っていつから? 私と会った頃? それとも、亨でいたときから?
 どうして私の仕事を手伝ってくれていたの?
 亨の名を捨てた関谷篤志が、アダチに近づくため? 私を利用した?
 違う、篤志は私のことをちゃんと思ってくれていた。見守ってくれていて、助けてくれて。
 信頼していたし、信頼してくれてると思ってた。
(だめだ)
(それだけは疑いたくないのに…っ)

 はじめて失ったのは亨だった。
 そのとき、誰も失いたくないと願ったのに。
(でも亨くんは生きてた)
(…馬鹿みたい)
 亨が死んだことで得た誓いも、ずっと一緒にいてくれた仲間も、両方失ったような気分だった。







 双子は別の部屋を与えられていたけど、よく同じベッドで眠る。
 夜更かしをして、たくさんのことを話す。
 家族のこと。学校のこと。友達のこと。
 そして未来のことを。



 社長室室内は冷房がしっかり効いている。ブラインドも閉じている。それでも、窓際にいると外の熱気が伝わってきた。不快になるほどではないが、外の異常と思えるほどの気温の高さが判る。いや、自然に逆らっているという意味で、室内のほうが異常なのだけど。
 今日は快晴。窓際にいる櫻は気まぐれでもブラインドの隙間から外を見ようとは思わない。空なんか見たくもない。こんな日はとくに。
 櫻が見る世界の色は咲子の血の色だ。
 空は、それが、より一層際立つから。
 同じものを見ない亨を憎らしく思ったのは遥か昔のこと。衝動的とはいえ、その存在がなくなればいいと思い、それを実行したのは本当。その余韻が冷めやらぬうちにまだ生きてると気付いた直後も同じことを考えていたけど、時間が経ってみればただ見つけたいだけ。
 咲子が残したものを確認したかっただけだ。

「───証拠はあるのか」
 史緒を追い掛けようとした篤志を呼び止め、政徳が訊いた。
 未だ信じてないわけじゃない。他に切り出しようがないのだ。もしかしたら、そういう証拠(もの)で納得し、混乱を収めたいのかもしれない。
「書類ならいくらでも。それから、こういう物もあります」
 ことり。
 篤志はポケットから小箱を取り出し、政徳の前に丁寧に置いた。
「───」
 政徳は大きく息を吸って、きつく目を閉じる。
 櫻はそれが、昨日、政徳が言っていた「咲子から預かった」ものだとは解っても中身までは判らない。
「咲子さんが残したものです」
 篤志がゆっくりと手を引いて、その小箱は政徳に託される。
 政徳は手を出そうとしなかった。中身を確認しようとしない。見なくても、判ったようだ。
(…指輪?)
 それを見ていると、突然、篤志がこちらを向いた。
「櫻には伝言」
「なんだよ」
「“ちゃんと返したから”」
「!」
「これってどういう意味なんだ?」
 意味がわからないまま伝言を頼まれていたようだ。すべてを明かさずに託した咲子も咲子だが、すべてを知らなくてもそれを受けた篤志も篤志だ。
「いらねーよ、今更」
 ──櫻の半身はあたしの分身になったから
 ──ちゃんと返すから。探さないで。誰とも比べないで、幸せでいて

 今でも、青くない空にうんざりする。
 幼い頃は同じものを見ない亨に腹を立てていたけど、今になって解ることがある。
 たとえこの眼が空を青く映したとしても、自分ではない(、、、、、、)亨が、同じものを見ているとは限らない。色を見ているのか、物を見ているのか、天頂か地平線か、そこに何を見ているのか。同じであるとは限らない。そんなの誰でもそうだ。
 我ながら馬鹿だとは思う。この3年間、いろいろな場所で、たくさんの人間と会って、やっとそれを納得できるようになったのだから。
 この色が戻るときがくるのか? 期待はしない。
 今でもたまに、本当にどうしようもなく、幼い頃に見ていた空を見たくなるときがある。だけど。
 今は別の青があるから、強く望みはしない。
「関谷」
「なに?」
「背中に傷あんのか?」
「傷?」
 訊き返してきたがすぐに解ったようで、
「あぁ、あんなのほとんど消えてるよ」
 と、頓着無く笑う。
「俺が生きてるって判ってたのか?」
「当然。櫻が気付いて俺が気付かないはずないだろ」
 不愉快なほど自信ありそうな表情に腹が立つ。
 確かに、目の前の男は亨なのだと認識させられる。
「おい、おまえがアダチ(ここ)を継ぎたい理由はまさか───」
 思いついて口にしたものの、最後まで言うのは躊躇(ためら)われた。それを口にすることで、櫻がそれを覚えていたことを、篤志が喜びそうな気がして。
 案の定、篤志は歯を見せて笑う。
「ああ、そうだよ」
「…俺は、とっくに忘れたぞ」
「いいって。───でも、いつまで覚えてた?」
「ノエルに会うまで」
「ノエルって?」
 答えるつもりはない。無視しようとしたところで、───胸元の携帯電話が鳴った。

 電子音が室内に響く。
 篤志と政徳の視線を受けた後、櫻は「失礼」と短く言って、迷い無く電話を取り出す。
 表示されているのは櫻が予測したナンバーでは無かった。
 そのことに櫻は表情を険しくして、
『おいっ、ノエルはどうしたっ?』
 通話ボタンを押すと同時に声を荒げた。
『それはこっちの台詞よーッ!!!』
「……ッ」
 倍返し、と言わんばかりの声量に櫻は耳を塞ぐ。その声は篤志と政徳にも届き、2人を驚かせた。
 櫻が電話の大音量から立ち直るより先に、さらに急くようながなり声が続く。
『ノエルはっ? いないの? どうなの? 聞いてるの!? 答えなさいよッ』
『今日は仕事だろ、そっちに…』
 櫻が答えると、それを最後まで聞かないうちに次の声が耳を貫通しにきた。
『一緒じゃないのね!? 一体、どういうつもり? 迎えに来てみたら、ノエルもあんたもいないじゃない! 聞けばあんたは朝早く出て行ったっていうし、ノエルもその後外出したって』
『どこに?』
『馬鹿じゃないの? あの子が一人で観光に行くとでも思うわけ? あんたを捜してるに決まってるでしょ?』
『俺を捜す…って、ノエル一人じゃ無茶だろ、日本語も喋れない。それに俺は書き置きを残し』
『はぁあぁああ? なにそれ、言い訳のつもり? ただでさえ日本に来てからあの子、ナーバスになってるのよ。あんたのホームグラウンドだから、いなくなるかもって不安なの』
『そんなことにはならないって、何度も言ってる』
『あらそう! じゃあ、あんたの言うことなんて信じてないのね。いいから、さっさとノエルを捜して! 先方になんて言えばいいの? 万が一、ノエルになにかあったら、あんたなんか大西洋に沈めてやるから!』
『言われなくてもノエルは捜す! そっちはどうにかするのがおまえの仕事だっ』
 次の言葉を聞く前に櫻は電話を切る。間を置かず振り返って、
「すみません、急用ができたので失礼します」
 儀礼的に政徳に言うと、櫻はすぐに踵を返す。政徳は慌てて引き留めた。
「櫻」
「俺からの用はだいたい済みました」
「こちらはまだ残っている」
「また連絡します。では」
 ほとんど耳を貸さずに櫻は背を向けて部屋から出て行った。


 慌ただしく櫻が去った扉を、篤志と政徳はしばらく眺めていた。
 電話の内容は英語、早口すぎて篤志には端々しか聞き取れなかった。政徳は解ったようだが。
「まったくあいつは連絡先も言わずに」
 怒っているのか呆れているのか。政徳はそう言うけど、篤志は笑ってしまうのを抑えられなかった。
「篤志?」
「ああ、すみません。櫻と怒鳴り合う人なんて、今までいなかったから」
「…そうだな」
 と、政徳も妙に納得したように緩く笑う。
「今、そういう人と一緒にいるなら、安心していいと思います。───俺も行ってきます。史緒と話がしたい」
 軽く頭を下げて篤志も部屋を出る。今度は政徳は止めなかった。
 政徳は一人残された室内の余韻を味わう。場所はオフィス、部下達と怒鳴り合うこともある部屋だが、プライベートで身辺がこんなに賑やかなのは本当に珍しい。
 櫻、亨(篤志)、史緒。
 ──僕にはなにを残してくれるんだい?
 ──子供達がいるわ。3人も
「……咲子め、やってくれたな」
 机の上には指輪が光っている。
 やっと、戻ってきた。







   ▲

『ねぇねぇ、ここにハルがいるのー?』
 駅からの道を跳ねるように進んでいくノエルに並んで蘭、少し遅れて健太郎と祥子がビルに挟まれた歩道を歩いている。
 アダチのビルはもう近くだった。
「っていう話だけどな」
 三佳が言うには、今日、史緒は櫻に呼び出されてここに来ているはずだ。櫻に会うのにここへ来るのは間違っていない。と言っても、健太郎達が入れる場所ではないが。
「史緒とも連絡つかないし、外で待ってるしかないけどな」
 ビジネス街にこの集団はえらく場違いだった。どう見ても全員10代だし(ノエルは20代半ばのはずだがとてもそうは見えない)、その上、蘭は制服、健太郎と祥子だって仕事に行くような服装ではない。ノエルがいるから、観光に来たお上りさんとでも周囲からは思われているかもしれない。こんなビルばかりの所に観光に来るかはさておき。
『すごーい、たかーい、おおきー』
 上を向いて歩くのが危なっかしい。ノエルは軽快な足取りで、機嫌良くあちこちを見て回る。
「ノエルは仕事でこういうとこよく来るんじゃねーの?」
『ん〜、無いことも無いけど、場所によってやっぱり全然違うもん。それに、あたしが呼ばれるのは大抵山とか海とかの現場なの。あとは都会から離れた研究所(ラボ)とか。前に日本(こっち)に来たときも海沿いで、ていうか海上の実験で。あのときは船酔いが酷かった〜。冬だったから寒いしさぁ』
「街を歩いたりっていうのは、あんまり無いの?」
『うん。こういうトコほとんど車で移動。こんな風に楽しくお喋りしながら歩くなんてはじめてかも!』
『櫻さ…じゃなくて、ハルさんとは?』
『デートはよくするけど、楽しくお喋りはなんか違う気がする。ハルの場合』
『あはは』








   □▲

 アダチ本社ビルを出て、早足で駅に向かっていた櫻は前方に史緒の後ろ姿を見つけた。
「頭冷やすのに何時間かかってるんだ」
 声を掛けると肩が揺れ、振り返る。櫻の顔を見るとあからさまに顔を強張らせた。それでも逃げ出さないのは大した進歩だと思う。櫻の背後を気にしたのは篤志もいるのかと気にしたらしい。いないことに安心したのか失望したのか、口元が微妙に動いた。
「無駄に考えてないで、さっさと関谷に引導渡してやれよ」
「誰のせいだと…」
「咲子と関谷だろ」
「…っ」
 一言で黙ってしまった。元々、史緒に張り合いなど求めていない。
 櫻は史緒の横をすり抜けた。
「どこ行くのっ?」
「おまえに構ってる暇は無い」
「待って…っ!」
 意外なほど必死な声に呼び止められる。
「なに」
「…亨くんを捜してたの? ずっと? なんの根拠も、手掛かりもないまま?」
「その可能性を疑いもしなかったおまえが、今更、訊いてどうする」
「───…っ、悪かったわねッ!」
「!」
 噛み付かれ、睨まれる。
「どうせ私は…、亨くんのことはほとんど憶えてないし、何年も一緒にいた篤志と重ねもしなかった。今日まで、一度だって。…私は櫻や蘭とは違う、気付くことができなかった、でも、じゃあ、なにを知っていれば、亨くんと咲子さんのことを見抜くことができたのっ?」
 史緒の視線と言葉を受け、櫻は少しだけ反応が遅れた。それでもいつもと同じ、突き放すような声で答える。
「根拠は無いけど、手掛かりはあったろ。蓮家の末娘もそれに気付いてた」
「…どんな?」
「おまえだよ」
「私?」
「まだあの家にいた頃、俺がこう(、、)なった後も、亨はうるさく近寄ってきてたな。嫌がらせかと思うほどしつこく。まぁ、その結果、ああいう目に遭ったんだけど」
「……っ」
「亨は俺のことを心配してたよ。でも、それ以上に亨が恐れていたのは、俺がおまえに危害を加えることだ」
「ぇ?」
「もし亨が生きているなら、俺の前に現れてうるさく付きまとって、俺からおまえを守るだろ。あいつはそういう奴だよ。俺も蓮家の末娘も、おまえを見張っていれば亨が釣れるのは分かっていたんだ。───予想以上に遅かったけどな」


 ──あなたを守ってくれる人が現れるわ
 そう言ったのは咲子。
 ──俺からおまえを守るだろ
 そう言ったのは櫻。
(篤志……?)
 史緒は、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
 ついさっきまで理解することを必死に拒んでいたものが、すとん、と頭の隅に丁寧に置かれた気がして。
「……篤志が、父さんの仕事を継ぎたい、って言ってることについては、なにか知ってる?」
「あぁ、それは俺との約束があったからな」
「…約束?」
 オウム返しに聞き返すと櫻は失笑した。
「ガキの頃の話だ。2人で親父の仕事をやろうって、言ったな、確かに。律儀なやつだよ」
(あぁ…)
 なんだか妙に納得してしまう。
(───そうなんだ)
 亨は関谷篤志として再び阿達家に現れた。
 咲子との約束も、櫻との約束も忘れてなかった。史緒を守っていた。助けてくれた。亨の名を隠して。
 らしい、と思う。
 史緒がよく知っている篤志だ。
 なにも、偽りのない。
『あ! ハル!!』
 前触れもなくビルの谷間に高い声が響いた。
 それはまるでまっすぐな槍でも投げられたように綺麗に鳴った。その声を背中から受け、史緒は前につんのめりそうになった。
「…なに?」
 驚いて振り返ると、1ブロック先の反対側の歩道、こちらに向かってくる4人の人影が見えた。
 そのうちの一人、髪色が薄い女がこちらに向かって走り出す。その顔に見覚えはない。けれど、後ろの3人に気付き史緒は目を丸くした。
「なんでここに…」
『───ノエル』
「え?」
 呟きを耳にして見上げると、少し呆けた表情で、櫻は駆け寄ってくる女───ノエルを見ていた。
『ハルー』
 ノエルはまるで弾丸のようにこちらに走ってくる。
 史緒たちがいる場所とは車道を挟んでいる。その車道は車通りが少ないとは言えゼロではない。反対側の歩道を駆けてくるノエルを追い越すように、車が向かってきていた。
「───っ」
 櫻と史緒はほぼ同時に危機感を覚える。
「え…ちょっと」
『ノエルっ! 飛び出すなっ』
 ほとんど同時に走り出した。

 櫻は史緒も動いていることを横目に入れていた。
 けれど気に掛けたのは一瞬。
 後ろから来る人物が、史緒を止めるから。

 車が接近する。
 ノエルはまだそれに気付いてない。
 ドライバーも歩行者に気付いていない。
 櫻はもう声を出す余裕はない。考える余裕も、躊躇する余裕もない。
 ノエルが車道に飛び出した。
 櫻は街路樹を利用して方向転換。
 アスファルトを蹴る。
 耳と脳天を貫く車のブレーキ音が響いた。




*  *  *




 史緒は伸ばした指の先に車が風を切るのを見た。
 その直前に腹が締め付けられ、息が詰まり、後ろに引っぱられる強い力を感じた。背中が何かにぶつかる衝撃の後、膝に力が入らず崩れ落ちそうになる。すると、その、ウエストに回っている誰かの腕(、、、、)は、史緒をその場にゆっくりと座らせてくれた。腕の主は一緒に腰を下ろしたらしい。背中に体温を感じた。腕の力は弱まっていない。
 体が熱い。頭に痛みの余韻が残っている。鼓動が響く。危険回避後の体の当然の反応とは解っていても、史緒は耳を塞ぎたくなるほどの鼓動のうるささに圧倒されていた。
 座り込んでいる地面も、夏の太陽の光を吸収して熱い。でもそれ以上に体が───背中が熱かった。
 体に絡まる腕がある。確かな力に支えられている。その腕に鼓動が伝わってるのがわかる。相手の体温が伝わってくる。
 背中から腕を回されてるので顔は見えない。
 でもわかる。自分を助けたのが誰なのか、見なくても解ってしまった。
 すっと息を吸う音が聞こえて、
「櫻っ!!」
 すぐ近く、耳元で怒鳴り声。びりびりと腕から声の振動が伝わった。
 その声は焦ってはいない。呼び掛けであり確認。判りきっていることを確認するような、どっしりと構えた声だ。ビルに挟まれた通りによく響いた。
「うるせーな! 生きてるよ!」
 道の向こう側から苛立つような櫻の声が返った。どうやらあちらも地面に座り込んでいるらしい。おそらくノエルも無事だろう。良かった、と史緒は溜め息を吐く。
 それが伝わったのか、支えられている腕の力が緩んだ。
 そして怒鳴られた。
「おまえが飛び出すのは無謀だろ!」
「…ッ」
 史緒は首を縮める。そっと目を上げて顔を上げると篤志が鋭い目を向けていた。
 よく知ってる。何年も、毎日顔を合わせてた顔だ。
 しばらく目を合わせたあと、篤志が視線を外して深々と息を吐く。少しだけ不機嫌そうに頭を掻いた。
「あんまり無茶すんなよ」
「……」
 ふと、思い出す。櫻が海に落ちて、崖の上で茫然と立ちつくしていた史緒を、陸側に引き寄せてくれたのは篤志だった。あのときも、この腕に助けられたんだった。
(あのときだけじゃない。いつも、家にいたときも、出てからも。仕事でも、そうじゃないときだって)
(私はみんなを守ってる気でいた。一人で勝手に、相手の気持ちも見ないで勝手に、守ってるつもりでいた)
(でも私だって……っ)
 史緒の様子を変に思ったのか篤志が顔を向ける。
「…おい、どこか怪我でも」
 首を横に振って返すと安心したように口元が弛んだ。
「あなたは誰?」
「!」
 叩かれたようにその顔が歪む。そこにじわりと迷いと自嘲が混じる。
「さぁ…、誰なんだろうな。自分でも、よく分からない」
「私は」
 喋るためには体を支える力が必要だった。地面に手を付くとアスファルトから熱が伝わってくる。
「わがままで…、何も失いたくない、なんて思ってた。亨くんが死んだとき、すごく、怖かったから。もう何もなくさないように、って、努力してるつもりだった。それがうまくいかなかったこともあるけど、二度とあんな思いはしたくないから。───だから」
(決めるのは私じゃない)
(困らせるだけかもしれない)
(でも)
 ───思い通りに事を運ぶのに、努力するのは当然だと思ってた。
 自分ができること、他の人に動いてもらうこと。段取りして、手配して、実行する。祥子を入れたときも、蘭を入れたときも、史緒はそうして思い通りの結果を手に入れてきた。
 ──裏で動くだけでなく、その要望を素直に直接相手に言うほうがずっと簡単じゃない?
 そう言ったのは祥子の母親だった。
 それをできないのが私の性格なんです、なんて、笑わせる。努力もしなかったくせに。
 言えずに後悔したのは藤子。
 ちゃんと好きだと、いなくならないでと言っておけば、彼女は仕事や生活を改めてくれただろうか。いや、そんな軟らかい頭じゃなかった。でも、そうはならずとも、もしかしたら、少しは結果が変わっていたかもしれないのに。
(願うことは、篤志の意志と反しているかもしれない)
(困らせるだけかもしれない)
(でも)
 口にすることで、言葉以上に伝わるものがあるなら。
「私は、関谷篤志を失いたくない」
「───」
 見開いた篤志と目が合う。
「…今までみたいに、一緒に仕事ができなくても、い」
 そこまでしか声にならなかった。史緒はまたうつむいて、歯を噛みしめる。
(篤志が変わったんじゃない)
(私が勝手に裏切られたような気になってただけだ)
(今まで一緒にいたことが、嘘になるわけじゃないのに)
「あぁ」
 揺れる声が返る。
 篤志は後ろに両手をついて空を仰ぐ。体の力を抜いて、長い息を吐いた。
「……じゃあ、そうするか」
 少しだけ笑いを含んで、篤志は言った。
 史緒も倣って空を仰ぐ。ビルの隙間に、夏の青い空が見えた。





「健太郎、大丈夫っ?」
 祥子と蘭が駆け寄ると、櫻とノエルに巻き込まれて地面に転がっていた健太郎は手だけを持ち上げ、それを弱々しく振って応えた。
 咄嗟とはいえよくやる。櫻が飛び出したのを見て健太郎は地面を蹴り、歩道に頭から突っ込んでくる2人を庇った。櫻はノエルの頭を庇っていたので、健太郎は櫻の頭を腹に受けたらしい。結果、3人とも地面に伏しているが衝撃は抑えられたようだ。健太郎が起き上がり、櫻も上体を起こす。櫻はとくに行動を示さず、健太郎のほうを気に掛けることはなくノエルを離さない。
「怪我は無いのね?」
「俺はなー。…はぁ、心臓に悪い」
 祥子の問いかけに健太郎はおどけて返す。櫻も篤志の呼びかけに答えていたし、心配はいらないのかもしれない。それでも念のため、祥子は感覚を澄ませ3人の状態を視る。それぞれショックはあっても大きな怪我はなさそうだ。
「蘭はノエルたちの様子を確認して」
「は、はい!」
 後を蘭に頼んで踵を返し、通りを横切って反対側の歩道へ向う。
 ノエルが駆け出す前、櫻の隣りに史緒がいたのが遠目にも判った。一体、どういう状況だろう。まさかまた一方的に言葉をぶつけられていたりしないだろうか。それに、さっき、櫻だけでなく史緒も駆けだしていたように見えたけど。
(まったく世話かけさせて…! 怪我なんかしてないでしょうねっ?)
 反対側の歩道、ノエルのほうと同じく道に座り込んでいる史緒を見つけて祥子はひやりとする。
「史緒っ」
 そしてさらにその隣りに意外な人物を見つけた。
「って、えっ? なんで篤志もいるのっ?」





 どんどん、と鼓動が鳴り響いていた。
 櫻は街路樹の縁に背を預け、ノエルの頭を胸に抱え込む。体の内側が熱い。そのせいで背中と額に汗を掻いていた。比較的長期的な予測をもって行動する櫻はこんな瞬発的に足を動かすことなんてあまりない。咄嗟の判断に従ってくれた筋肉は痺れを伴って疲労を訴えていた。
「……ッ」
 何度も呼吸を繰り返すあいだに、何度も確認した。腕の中にある体温を。
 これを失くしたらどうなるんだっけ。
 普段の自分からでは考えられないほど頭が働かない。
『ハル、苦しい』
 胸元から状況をまったく解っていない声が聞こえてくる。
 櫻は歯を食いしばったあと、ノエルを引き剥がして、
『俺を殺す気かっ!?』
 記憶に無いほど怒鳴りつけるとノエルは縮み上がって、次に抗議した。
『え。なんで? どーして? あたし、そんなのしない』
 目が合う。青い眼と。
 櫻は深く息を吐いて、さっきより少し余裕をもってノエルを抱きしめた。
『ハル? 瞳、見なくていいの?』
 ──あたしの目が転がり落ちたら、眼球のほうについていくくせに!
 と、言われたことがある。
 櫻がよくノエルの顔を覗き込むのはその青い眼を見るためだとノエルは知っている。櫻もそれは否定しない。
 でも今は この熱を失わなかったことに、体中が、頭の芯までが、安堵で震えていた。
『…ハル?』
 体が震えていることに気付かれた。ノエルの手が背中に回り、ぽんぽんと軽く叩かれ、それが繰り返される。なんだか気持ちが良くて櫻は目を閉じた。
『そうだ。ハル、ずっと捜してたもの見つけたんでしょ?』
『…誰に聞いたんだ』
『ラン』
 なに、と眉を顰めて顔を上げるとすぐそこに、心配そうな表情でこちらに声を掛けようか迷っている蘭の姿があった。なんでおまえがここに、と口を開き掛けるが声にはならない。目が合うと、蘭は一体なにを読みとったのか、目尻に涙を浮かべ、込み上げる感情を我慢できないというように微笑った。
『あとね、ハルのほんとの名前も知っちゃった。サクラっていうんでしょ? お花の名前。見てみたい。どこに行ったら見れるの?』
 ──咲子から生まれるのは“春の花”
 ──ずっと前から決めてたの。子供が生まれたら、桜と名付けようって
 その名前は捨ててもいいと思っていた。
 名乗り出るつもりなんてなかった。その名を死なせても構わなかった。
 でも意外なほど近くにいた「亨」を見つけて、「櫻」を振り返らなければならなくなって。
 亨の約束を守っていた篤志。まっすぐに目を向けるようになった史緒。長い年月を越えた咲子からの伝言。咲子が、櫻に遺したもの。
 「阿達櫻」と無関係ではいられない。
 気安く捨てられるものじゃない。
 簡単に逃げられるものじゃなかった。
 自分では把握しきれないほど多くの人間に関わってしまっていた。そのことに今まで気付かなかったくらい、大きな流れの中に。
(…面倒だな、すごく)
 今までと何かが変わるわけじゃない。でも、自分自身と、それが通ってきた環境と関わりを絶つことなどできないのだと、解った。
(そういうもんか)
 地面に座り、ノエルに触れたまま上を向く。いつのまにか眼鏡は落としたらしい、裸眼で。
 雲ひとつ無い空は相変わらず。
 でも、気分は楽だった。
『そうだっ、ハル、さっき道の向こうで話してた女の子だれっ?』
 いつものことながら、どうでもいいことにノエルは不機嫌になる。
『だれっ?』
『妹』
『…え? ───ええぇえっ!?』
『あと弟がいる』
『うわぁ! すごい。ね、会いたい会いたい、紹介して紹介して!』
 本当に面倒くさい。
 でも、そういうものなのかもしれない。
 ノエルのはしゃぎ様を視て、呆れか諦めか、もしくは体を軽くする開放感からか、櫻は息を吐いた。








   △

「ああ、そう。……うん、わかったよ。落ち着いたらこっちに来てよ。それともどっかで待ち合わせる?」
 受話器に耳を傾ける司はずいぶん楽しそうだ。相手は祥子。向こうの声は聞こえないので、三佳に話の内容は解らない。
「じゃあ、近くまで来たら電話して。…わかった」
 通話を終わらせると司は三佳に向かって言った。
「あっちは一段落したみたいだね。全員揃って、こっちに向かってるって」
「全員って、史緒も?」
「篤志も」
「篤志っ?」
「そう」
 ついさっき、中途半端に知らされたことが頭をよぎる。
「……私はさっぱり解らないんだが」
「祥子も同じこと言ってたよ。僕だってすべてを知ってるわけじゃない。これから説明がある。その時しつこく問い詰めてやればいい」
「主に篤志を」
「そういうこと」
 解ってるじゃないか、と司は肩をすくめる。
「要は、とてつもなく大掛かりないたずらに、大勢が巻き込まれていたという話だね」
 そう言って笑う。巻き込まれていたと言う割には清々しく、どこかほっとしたように。
(巻き込まれていたって、私も?)

 人と人との繋がり。関係の連鎖。
 咲子が想像しなかったくらい、多くの人間を繋げながら。







49話[2]へつづく
49話「いたずらの行方 後編」[1]
48話/49話[1]/49話[2]