49話[1]/49話[2]/50話
49話「いたずらの行方 後編」[2]


[司,三佳]
阿達家の騒動からひと月。司はひとり抱えていたことを三佳に打ち明けた。2人の関係に変化が訪れる。



 Prologue
 [1] 01. 02. 03.
 [2] Stratosphere 01. 02. 03. 04. 05.



−2−
Stratosphere



 あのときも。
 ───あのときも。


 ひどく、疲れていたんだと思う。

 自覚さえできない、そっと肩を抱く重いものに倒れ、
 ひとりでいるとき、ふいに、涙がこぼれるような、空虚な疲労。


 だからあのとき、あんなに。




*  *  *

 七瀬司が事務所に戻ったのは予定していたよりずっと遅い時間になってからだった。
 朝の天気予報で夕方から雨が降ると聞き、杖の他に合羽も携帯していたのだがどうやら杞憂だったらしい。肌に感じる風の湿度はこの季節にしては低い。雨の匂いもしない。心地よい空気だ。春は過ぎ、梅雨も夏もまだ先にある6月の大気。
 司はいつも通りの足取りで階段を上り、廊下を歩き、2回のノックの後に返事を待たずに事務所のドアを開けた。
「ただいま」
 事務的に口にして、杖と(ついでに合羽を)定位置に置いた後、椅子に座る現在この部屋唯一の人間へ、司は近づいた。
「おかえりなさい」
 史緒の声が返る。
「ごめんなさい、急におつかいなんて頼んじゃって」
「いいよ。どうせ帰り道だったし」
 小脇に抱えていた封筒を差し出すと、ありがとうと言って史緒はそれを受け取る。封筒の中身を検める音がして少しの間待つ。
 その後、司は仕事の報告を手短かに済ませ、最後にここにいない人物について訊ねた。
「篤志は?」
「そろそろ帰ってくるかしら。一度、集まりたいんだけど、時間ある?」
「うん」
 仕事は終わり報告は済ませた。時間は定時を回っている。司は踵を返し、部屋の隅のロッカーを開け、ヴァイオリンケースを取り出す。そのままドアに向かおうとしたところで史緒に呼ばれた。
「司?」
「屋上にいる。篤志が帰ってきたら呼んで」
 足を止めるつもりはなかった。ドアのノブに手を掛け、回す。
「待って! あの子のことだけど」
「裏事情には興味無いよ。別に聞きたくない」
「……」
 そこで史緒は黙ったので司はドアを開け、事務所を後にした。



 屋上へ続く扉を開けると気持ちのよい風に包まれた。少しのうねりを持って空へ吸い上げられていく、寒くも暑くもない、人工的では無い自然の空気の流れ。時間的に日没時。司は西を向く。たぶん、まだ、太陽は出ているはずだ。
 ケースを足元に置き、中からヴァイオリンと弓と松ヤニを取り出す。ヴァイオリンを顎で持ち、弓を締め、松ヤニで丁寧に整える。慣れた作業を手早く進めていく。
 阿達家を出てからはアパート暮らし。自分の部屋で楽器など鳴らせるはずもない。だから楽器は事務所に置いて、たまに屋上(ここ)で弾いていた。
 ことん。松ヤニを足元のケースの中に落とす。ちゃんと収まったことを音で確認した。指で弦を弾くと、音はすぐに飛んで行ってしまう。屋上(ここ)では反射する壁も無く、響かない。それを別段気にすることもなく、司は各弦の調律を始めた。

 ヴァイオリンを教えてくれたのは蓮家の兄の一人だった。
 まだ香港に着いて間もない頃。
「思い通りになることがあると自信が持てるだろ」と。
 楽器をやらせる理由としてはどうかと思ったけど、あの頃は「学べ」と与えられ「吸収しろ」と要求されているものが多すぎて形振り構っていられなかった。
 そして結局は、思い通りと言ったって楽譜の音を出せるというレベル。それも簡単な曲だけ。自己満足には十分だが、他人に聴かせる代物では到底ない。元々、蓮家の兄には、司に音楽的素養を身につけさせようという意図は無かったようだ。これも耳の訓練のひとつだったと気付いたのは結構後になってからだった。
 ある日、蓮家の兄は司にヴァイオリンを教えるのを止めた。司としてはちょうど面白くなってきていた頃だったので不満があったが、「そのへんでやめておけ」という。
 その理由はもっとずっと後になってから気付いた。
 もう少しこの楽器に踏み込んでいたら、今頃、自分の技術の無さを嘆いていただろう。そして高みを目指し努力するかそれとも諦めるかの選択という悩みを抱えていたはずだ。そういう領域に辿り着く前だった。
 音楽にハマり込むつもりは毛頭無いし、今の状態───丁度良い手慰み、手軽に遊べる玩具───は気に入っている。兄には感謝していた。

「よっ、と」
 ヴァイオリンを持ったまま手摺りに腰掛ける。
 とくに弾きたい曲があったわけではないので、基礎を鳴らしてみる。司の指の中で生まれた音は、やはり、すぐに空へ抜けてしまうけど、それで満足だった。
 一人で弾くのは楽だ。丁寧に弾いても粗雑に弾いても聴くのは自分だけ。生まれた音もすぐに消え、そして残らないから。
 座る手摺りには十分な幅があり、気をつけていればバランスを崩すこともない。けれど先月だったか史緒に見つかって、危ないと叱られた。
(いつから他人に世話焼く性格になったんだか)
 そのときの様子を思い出して息を吐く。
 この半年で、史緒はずいぶん変わった。ずっと籠もっていた反動か、仕事への責任感がそうさせるのか。他人と関わろうとする努力が見られる。それは、過去数年間を同じ家で暮らしていながらほとんど話をしなかった司からすれば奇異な変化だった。
 でもその変化は史緒にとって良いことだろうし、篤志はその史緒をうまく支えるだろう。
 司自身はいつまでここで史緒や篤志とともに行動していくかは判らない。切りの良い時期に抜けたいと思っていた。他にやれることを捜して、適当に言い訳して。
 彼らとうまくやれる自信が無いわけじゃない。付き合いが長いぶん(きらい)もあるが、腹を探り合った結果の信用はある。
 ただ、この先もあの2人とやっていくことを想像できないだけだ。
 20歳までに道を選べという阿達政徳との約束もある。
 ここにいる時間はそんなに長くはないだろう。
 ───そう、思っていた。


 人の気配を感じて司は指を()めた。同時に音も()む。
 考え事をしていたせいだろう、ドアが開いたことに気付かなかったのは迂闊だった。
「史緒?」
 返事が無い。すぐそこに、確かにいるのに。
「篤志? ───誰?」
 ここに来るのはその2人しかありえない。史緒や篤志ならすぐに声を返すはず、と警戒心を出してしまった後に、遅れて気付いた。
「…もしかして史緒が言ってた女の子?」
 低い位置から微かに息を飲む音がする。肯定の沈黙。
 数日前から、史緒は女の子を預かっている。その子は体を悪くしているらしく、毎日、医者が通ってきていた。司は会ったことがない。
 その子を預かることになった事件について史緒は警察に呼び出されることもあったし、さらにその件の後始末で篤志も走り回っているらしい。
 でも司だけは他人事だった。その仕事については司は留守番だったし、直接の経緯は聞いていない。聞く気もない。どうせすぐに別れる他人、しかも子供。話を聞いて同情してしまうのは嫌だった。

 その女の子が目の前にいる。
 歩けるようになったとは聞いてなかった。いつまでここにいるつもりかは知らない。けれど少しでも出歩けるようになったのなら、今後の判別のために声と足音を聴いておく必要があった。
 手摺りから降り、向き直る。微かな呼吸は聞こえるが相手は一度も声を出してない。人見知りなのだろうか。
 一般的に子供の挙動は予測が難しい。突然大声を出したり突進してきたりするかもしれない。一応、構えながらも安心させるように笑いかけ、手を差し伸べる。すると、目の前の子供はゆっくりと歩み寄った。ずいぶん危うげな足音が近づく。
(そういえば病み上がりか)
 時間を掛けてもちゃんと辿り着き、小さな手が司の手に収まる。ほんとうに小さな手だ。
 それから、おそらく衣服に染み付いているのだろう消毒液の匂い。昔、自分が入院していた頃を思い出して心が翳る(顔には出してない)。この子に対する憐れみもあったかもしれない。
 名前を訊ねると、喉が貼りついたような声で答えた後、───子供は、火がついたように泣き出した。

 ぐずるような泣き方ではない。天に届く大声。まるでそうしないと呼吸ができないように。今まで塞き止めていたものを開放するように。
「え…、どうしたのっ」
 司は慌てた。でも。
 耳を塞ぐほどの大声、言語的な意味を成さない音を必死に吐き出して、泣いて、全身を使って。
 小さな体の、その体いっぱいの主張。
 揺さぶられた。激しく真っ直ぐな意志表示に。



 蘭と初めて会ったときの気持ちをたまに思い出す。
 今日まで良い語彙を見つけられなかったけど、単純に、感動、と表すので合っていると思う。
 とりたてて特異なシチュエーションではなかった。香港へ渡る日。日本(こちら)の空港で、和成が紹介してくれた。
 息を吸う音が聞こえて、小さく風が吹いたのかと思った。
「はじめましてっ。蓮蘭々です」
 たったそれだけのこと。
 だけど今も鮮明に思い出せる、あの瞬間の、逸るような気持ち。
 それを今、思い出した。


 体の中からすべてを吐き出すような大声は嗚咽に変わっていた。
 司も、もう、宥めようという気はなかった。この子が泣いているのは身体的な痛みや恐れでないことは明らか。内面に溜めていたものを吐き出す作業に思えて、そっと頭を撫でるに留める。
 泣く子を問いただすのは大人げない気もしたが、少し落ち着いた後に司は訊いた。
「ねぇ。どうして泣くの?」
 女の子は泣きじゃくる合間に律儀に答えてくれた。
 きれいだから
「…きれい、って、なにが?」

「…、……、……」

「───」
 胸を打たれ言葉を失った。知らず呼吸も止めていた。
 伝染したかのように、司も泣きたくなった。

 理由は、全く違ったけれど。








*  *  *

 残暑が残る9月、けれど明らかに8月とは違う色の空が広がっている。秋の空の中に冬の空気を感じるような気候の日だった。
 その日の夕暮れ、七瀬司は月曜館のいつもの席でいつもの紅茶を飲んでいた。杖を窓際に立てかけ、テーブルの端に組んだ手を置き、わずかに視線を落とす。いつもなら、思索にふけるとしても周囲から変に思われぬよう本でも開いているのだが今日はそんなところにも気を回せなかった。気分が上がるはずもない状況だということは自覚していた。緊張、もあるかもしれない。
 それでも、テーブルに近づく足音が聞こえると、自然と本心から口端に笑みが浮かんだ。
 やってきたのは、3年前、初対面で泣かれた女の子だ。
「遅くなった」
 微かに上がった息で島田三佳は向かいの席に腰を下ろした。
 遅れると連絡は受けていたんだから、わざわざ走ってくることはなかったのに。
「僕も今来たところだよ。バイトおつかれさま」
「で、なに? 話って」
「うん。本当はもっと早く言うべきだったけど、櫻の件でごたごたしてたからね」
 と、言うと、三佳はすぐに思い当たったように沈黙を作る。
 7月頃、何度も言いかけて結局言えずにいたことがあった。それを無理に訊かずにいてくれて、こうして司から切り出すまでた待っていてくれたことには本当に感謝しなければならない。どうやって話せばいいか、司自身も長く迷っていたから。
「…善くない話?」
 司の様子からなにを読み取ったのか、三佳は気まずそうに呟く。
 う〜ん、と、司は肩をすくめて苦笑して見せた。
「僕にとってはそうでもないはずだけど」
 実際、司にとってはこの上なく有難い話だ。一応。
「じゃあ…」
「ねぇ、三佳。僕らが初めて会ったときのことを憶えてる?」
「は…?」
 唐突に変わった話題に三佳はぽかんとして、
「───えっ!!? …ちょっと待て、なんだ急に!」
 動転し、それをごまかすように大声を出す。照れているようだ。(泣いたから?)三佳にとっては打ち消したい過去なのかも。
 反則だったかもしれない。この3年、司は三佳のそばにいたけど、あの日と、それより前の三佳について訊ねたことは、ただの一度もなかったから。
「ごめん、冷やかしたりするつもりは全然無い。ただ、あの時、三佳は泣いてたじゃない?」
「う。……、…あぁ」
「どうして泣くのかって僕が訊いたら、なんて答えたか、三佳、憶えてる?」
「え……?」
 意外な質問だったのか、三佳は勢いをなくし、言葉を切る。しばらく考え込んだ。
「憶えてない」
「うん、いいんだ。気にしないで」
「なにか重要なこと?」
「いや、そうじゃないよ。少なくとも、これから話す内容が変わるわけじゃないから」
 そう。もうこの意志は変わらない。
 ただ、あのとき三佳が泣いた理由は、司に今回の決断をもたらした。あのときの理由に縋ってしまった。
 三佳や、他の誰にも相談せず、一人で考え、一人で決めた。それは2人の近い未来を大きく変えるものだったけど、それでも自分の中だけで悩み、選択した結果だ。その結果だけを、司は三佳に語ろうとしている。
「実はね」









01

 ばんっ
 破壊されるようにドアが開いて、事務所にいた史緒と篤志は同時に身構える。ノックもなく開かれたドア、どんなやっかいな客かと警戒すると、
「……あら」
 そこにいたのは小さな影。三佳だ。
 なんだ、と息を吐く。けれど史緒はすぐに異変に気付いた。三佳の様子がおかしい。
 手をノブに掛けたまま白い顔を強ばらせている。ゆがんでしまう表情を必死で抑えるように、頬が不自然に震えていた。
「どうしたの?」
「部屋で休む。声をかけないでくれ」
 平静を保つ声もどこかぎこちない。
「なにかあったのか?」
「なにも」
 篤志の問いにも短く答えて三佳はドアを閉めた。その向こうに遠ざかる足音。けれど、すぐにその足音は戻ってきて、またドアを開けた。
「篤志っ、時間あるなら史緒に夕食を食べさせていってくれ」
 そして返事を待たずにまたドアをしめる。今度は足音は階段を上り、上階に消えていった。
 事務所にはその余韻が残る。後を追って事情を聞いたほうがいいか迷っていた史緒、その横顔を篤志は睨みつけた。
「まだ三佳にそんな心配させてるのか」
「…っ」
 史緒は勢いよく首を横に降る。篤志の説教が始まろうとしたところで、また、今度は控えめなノックがあり、ドアが開かれた。
 入ってきたのは司だった。





*  *  *

 阿達家のお家騒動からひと月。一時の混乱はあったものの、多方面への事情説明もおおむね終わり、やっと落ち着きを取り戻したところだ。
 司にとっては他人事とはいえ、直後は本当に慌ただしかった。篤志だけでなく櫻のことも含めれば全体を把握している者など一人もいないし、話をまとめようにも何分多忙な人間が多い。合間を縫って、ようやく行われた会合には、阿達の3人、関谷の3人(篤志含む)、阿達咲子の父親である新居誠志郎、アダチの幹部と、それから蓮晋一も来たようだ。さらに、それとは別に、篤志を含む阿達家とノエル・エヴァンズらの集まりもあったらしい。櫻は今までの生活を変えるつもりは無く、ノエルの仕事が終わったら、また日本を離れるのだという。
 一方、篤志は、史緒との婚約を解消した後、改めてアダチに入る意志があることを示した。史緒もそれを理解しているし、阿達政徳も「関谷篤志が使えるようなら跡取りとして育てる」と発言。アダチ幹部から異論が無いわけでもなかったが、史緒と婚約した3年前からその話はあったし、これからの篤志の働き次第で納得させられるだろう。しばらくは兼業。少しずつアダチの仕事のほうへ移行するという。
「一番狸だったのは篤志だったわけか」
 と、からかうと、
「狐に言われたくない」
 と、返された。


 篤志の正体については、当然、A.CO.の面々も知ることになった。
 それぞれ驚いてはいたものの、納得するのは異様に早く、逆に当事者である篤志と史緒を驚かせていた。
「あ。なんか納得」
 と、手を打ったのは祥子で、
「親戚も兄妹も変わらねーだろ」
 と、意外性の無さ(、、、、、、)に溜め息を吐く健太郎。
 蘭は最初から知っていた。
 一番、動揺していたのは三佳かもしれない。
「茶番に巻き込むな」
 と、怒っていたけど、つまり「余計な心配して損した」という意味だ。

 そして、
 司はというと、一連のなりゆきを面白く思ってはいなかった。





*  *  *

 司が事務所に戻ると、室内には史緒と篤志がいた。
 事務所でこの2人が一緒にいるのは久しぶりのような気がする。あの騒動の前、篤志はアダチに出入りするようになり、こちらには顔を出していなかったので。
(…はぁ)
 余裕の無いこの状況のときに「癪の種」である2人を前にして、どっと疲労が積もる。司は溜め息を抑えるのに労力を使わなければならなかった。最近思考を煩わせている事柄のひとつであるが、それは史緒や篤志のせいじゃない。己の性格に問題があることは自覚していた。

 阿達政徳と史緒、そして櫻が、いとも簡単に「関谷篤志」を受け入れたこと。そして、結局、史緒と篤志は以前と同じような関係を取り戻していること。───司が面白くないのはそこだった。
 10年以上前に死んだと思われていた家族が突然名乗りをあげた。それは何食わぬ顔で何年も一緒にいた仲間だった。
 どう言い訳しても、それは周囲を欺いていたということだろう?
 もっと揉めると思っていた。最悪は史緒と篤志の訣別、良くても信頼関係が揺らぐだろうと思っていた。篤志への不信で政徳と史緒に連携が生まれるとか、他の仲間を巻き込んでの対立になるか、とまで想定していたのに。
 予想を遥かに超えて事態が丸く収まったことに、司は面白くない。
 昔から阿達一家に問題が山積みだったのは居候していた司もよく知っている。史緒と政徳の関係、史緒と櫻の関係、そしてその原因である篤志と亨。
 それが、篤志の正体が知れただけで緩和するなど、司から見ればおかしくてしょうがない。確かに、アダチの後継問題や2人の婚約の話は収束するだろう。けれど、わだかまりは残らないのか? そんな簡単に打ち解けられるのか? この先、同じように一緒にいられるのか?
 文句を言いたいわけじゃない。ただ、司の思考を越えた関係が目の前にあることが気に障るだけだ。
 勿論、口にはしない。態度にも表さない。
 今、司が抱えている問題は他にある。

「三佳は?」
 室内に三佳がいないことは判っている。史緒と篤志に向かって訊ねると、
「部屋で休む、って上がっていったけど。…なにかあったの?」
 と、不安そうな声が返った。
「うん、まぁね」
 史緒にそう言わせるだけの態度を三佳がとっていたのだろう。そうさせたのは自分だと思うと気が重くなる。
(でも、もう戻れない)
 今、ここに篤志がいるのは却って都合が良い。
「2人にも聞いて欲しいんだけど、今、時間ある?」

 ついさっき三佳に話したことと同じことを史緒と篤志に話す。
 薄情と思われるか冷たいと思われるか。そのとおり、それが自分の性格なのだろう。
 今はもうそうではないと知っている(、、、、、)けれど、他人が(たにん)のことを親身になって考えると、司は理解できない(、、、、、、)。親身になって意見して欲しくもない。だから相談しなかった。
 自分で選んだ別離だ。





*  *  *

「実はね、長い間、ここを離れることになったんだ」
 台詞は用意していた。感情を込めずに、司はそれを言った。
 三佳は司との長い付き合いの中で、声に出して返事をする習慣が着いてる。にも係わらず、今、目の前にいる三佳から、その聞き慣れた声はなかなか返らない。
 反応を待つ気は無かったが、司のほうも次の言葉が出てこなかった。この場の張り付いた空気をもう少し受け止めていたかった。その空気を招いた義務感、そして、なにかが変わる気配に、戻れないと解っていても躊躇いがあったから。
 季節は秋に向かうといっても、まだ冷たい物を注文する季節。テーブルの上のグラスの中で、氷が細い音を立てた。まるでなにかの、始まりの合図のようだった。
「具体的にどこへ行かされるかはまだ聞いてないんだけど、しばらくは流花さんの所に居座ることになると思う」
「………ぇ?」
 ようやく、声が聴けた。
「どういうこと?」
「ごめん、唐突に。びっくりするよね」
「……ちょっと、話についていけなかった」
「急にこんな話をする僕のせいだよ」
「ここを離れるってなに? すぐ、帰ってくるんじゃなくて?」
「うん、ちょっと長く」
「どれくらい?」
「短くて1年、長くて3年くらい。今はなんとも言えない」
「そんなにっ!?」
 三佳にしては咄嗟な大きな声。それを恥じたのか、次の言葉がなかなか出てこない。取り繕うような間があった。
「───、…どうして?」
「大半は検査になるかな。あとは手術。と、リハビリ」
「手術って!? どこか悪くしてたのか?」
 心配と不安が混じる悲痛な声。
 悪いと思いつつ、司は苦笑してしまった。
「わからない?」
「え?」
「ここ」
「!」
 司が人差し指で眉尻を叩くと、三佳が息を飲むのが判った。長い間があって、ゆっくりと重い息を吐いたあと、椅子にもたれる音がする。
「…治る、のか?」
 緊張を残しながらのかすれた細い声。こちらを見ているであろう三佳に笑って返した。
「まだ可能性の段階。あまり期待するなって言われてるし…」
 司は見えないはずの窓の外に遠い目を向ける。
「僕も、結果が欲しいわけじゃないんだ」





*  *  *

「と、いうわけなんだけど」
 史緒と篤志は声も出ないようだった。
 あと何回、この手のやりとりをしなければならないのかを思うと、司は小さく息を吐いた。
「いつ出発だって?」
「再来週」
「そんなに急に…っ!?」
「それほど急ってわけじゃないんだ。最初に話をもらったのは去年だし。6月頃から、早く来いって急かされてた」
「どうして相談…、……する奴じゃないな」
「そういうとこ、助かるよ」
 無駄で面白くもない説明を省けるのは本当に助かる。
「もっと早く言えよ」
「早く言ってたら、何かあったの?」
「おい」
「ごめん」
 茶化すつもりは無かったが、人付き合いにおいて不適切な切り返しだという自覚はあった。でも、謝ったものの、司の本心は翻意しない。
 別れの言葉を早く言ったからといって、気まずくなる関係以外に何が変わるというのだろう。
「三佳にも言ってなかったの?」
(あぁ…、───イライラする)
 最近の史緒(と篤志)に感じていた苛立ちが一気に再燃した。
 以前の史緒なら思っていてもそんなこと訊かなかったはずだ。もっと前の史緒なら思いもしなかったろう。
 出会った頃の史緒は人間関係など気にも留めなかったし、他人に口出しするような関心も持っていなかった。変化が見えた仕事を始めた当初だって、司との関係はもっとドライだったはずだ。
 それなのに、他人との馴れ合いを当たり前のように肯定する言葉を吐く。さらに、それを心配までしている。
 もちろん、昨日今日でそんな風になったわけじゃない。そうなるまでの過程、出会った他人と、取り巻く環境に司も関わっていたのだから納得はできる。ただ、最近、阿達家の騒動を終えて、何故か、それらを煩わしく感じるようになったのだ。
 史緒を責めたいわけじゃない。初めて会った頃に比べたら、史緒は大きく変わった。司と史緒の関係も変わった。
 きっと、司だけが、どこか大元の部分が変われていないのだろう。
「そうだよ、三佳にも、今日、言った。他のみんなにも説明したいから、次に集まったときにでも話をさせてよ」
「司…」
「自分のこととはいえ、勝手に話を進めてごめん。もしかしたら何か迷惑掛けるかもしれないけど」
「それは、いいんだけど…」
 淋しくなるわね、と呟いた史緒に、司は同情するように笑ってみせる。
 多分、昔と比べたら良い関係になったのだと思う。史緒の心情も解るし、そう言ってもらえるのは有り難いことなのだろう。
 けど、どこかお手本じみたやりとりに、気持ち悪さも感じていた。


 相談しなかったことを、三佳は責めないだろう。そんな風に思いつきもしないかもしれない。
「見えるように、なるかもしれないんだ?」
「うん」
「行くこと、もう、決めたんだろ?」
「うん」
「…ごめん」
「え?」
「いきなりだから、びっくりしてる。うん、でも、……いってらっしゃい」
 先に帰ると言って席を立った三佳。無理に引き留めることもできたけど、それはしなかった。
 この瞬間に2人の関係が変わることは解っていた。

 いつも一緒にいた相手に別れを切り出した。
 その後、どうすればいい? なにを話せばいい? なにを話す必要がある?
 なにかを要求するにしても、どうして欲しいのか、司自身が解らないでいるのに。
 時間はない。





*  *  *

 三佳はベッドの上に寝ころぶ。うつぶせになり、やわらかい布団を握りしめた。
「…っ」
 階段を駆け上がったせいだけでなく、息が切れて、胸が苦しかった。
 どっくどっくと心臓が鳴っている。全身が熱い。本当に熱くて、火傷しそう。
 胸を締め付けるものがある。息ができなくて、生理的な涙が浮かぶ。手足が震える。全身がなにかを訴えているのに、思考だけがまるで何十メートルも後ろにいるようだった。
(あぁ、この感覚は知ってる)
 昔。
 窓一つ無い薄暗い廊下を、ひきずられるように歩いた。嫌なのに、今よりもっと幼かった三佳はその力に逆らえなかった。
 微かな音を立てる蛍光灯を頭上に、まっすぐに続く廊下を行くしかなかった。
 その先に待ち受けるもの、手を引く人物がなにをする気なのか、必死に否定しながら。己の愚かさを痛いほど感じながら。
(怖いんだ)
 怖いという言葉の本当の意味を知った。
 あのとき、見上げた横顔を今でも覚えてる。
 あのときの生活も、環境も、とりまく人たちも、今とはまったく違うのに、同じような気持ちになるなんて。

 体を捻って、ベッドの上、仰向けになる。
 まだ昼間だから室内は明るい。やわらかな光と空気。ドアも窓も閉まっているので外からの音は無い。気持ちが落ち着いてくると、ここは穏やかな空間だった。
 時計の音に耳を澄ます。天井を見続けていると時間の感覚が薄れてくる。
 見慣れた天井の、見慣れた照明、その垂れヒモ。無意識に手を伸ばすと、胸から込み上げるものがあった。

 この部屋で目覚めた日も、同じように手を伸ばした。
 照明が灯っていない室内の明るさに驚いた。
 カーテンの向こう側の光の名前を知らなかった。
 無知だった自分。あの日から、成長しているのだろうか。



 机の上にある時計に目をやる。
 まだ、帰ってから30分も経っていない。


 ──長い間、ここを離れることになったんだ


「……」

 逃げるように先に帰ってきてしまったけど、おかしく思われなかっただろうか。
 司はもう帰っただろうか。それともまだ月曜館に?
 どうしてあの場から逃げてきてしまったんだろう。もちろん、用事なんて無かった。司の話のその先を聞かなきゃいけなかった。
 ただ、あのままでは、司の前で取り乱してしまいそうだったから。
 それを司のせいだと思われたくなかったから。
(どうしよう…っ)
 急かされるような気持ちだけが先走って、他に何も考えられない。
 直面しているのは、とても大事なことのはずなのに。

 司が決めたことなら何も言うことはない。この場を離れるというなら、笑って見送るしかない。
 彼自身のことだ。三佳が口出しする権利なんかない。する気もない。けど。
 だけど。
 司と会えなくなるってどういうこと?
 司のそばにいられないってどういうこと?
 依存しないようにしてた。重荷ににならないよう、邪魔にならないよう。それなのに、今、別れの話をされただけでこんなに苦しい。
「……っ」
 突然、地面が消えたような眩暈があった。心臓が悲鳴をあげて枕にしがみつく。

 あの日、屋上で、強い風の中でひとり、高い空と広い世界を見たときの気持ちと似ている。
 ひとりで、歩いていけるだろうか。あたりまえにあると思っていた、てのひらを離して。







02

 本来なら、司にとって、自分の行動を事前に誰かに報告しなきゃいけないなんてことは不本意だ。
 そうすることで、これからの自分の行動を否定されるのも嫌だし、今回のように別れを告げることで向けられる同情や哀れみ、悲観されるのはもっと悪い。さっさと次の場所に移って事後報告だけできたらどんなに楽だろう。
 ───と、思っても、それは本意ではなく、自分のその可愛げのない発想に苦笑するだけ。
 でもその通りに、もっと簡単に、この場所を棄てられると、以前は思っていた。



 事務所に集まる機会があったので、事前に史緒に言っておいたとおり、皆に説明した。反応は史緒や篤志とだいたい同じ。蘭も(流花から話が行くかと思っていたが)知らなかったようで目を丸くしていた。それぞれから、淋しさを隠しての不満、質問攻めに合う。それをいつもの会話と同じように返す。
 司としては本当に面倒くさいのだが、嫌ではない。これが必要な手順だと判っている。
 他人を無視して生きてこられなかった。そういう生き方ができた、その軽すぎる代償。
 史緒と阿達家を出たばかりの頃は、まだ、愚かにも一人で生きていけると思ってたから。
 まぁ、進歩なのだと思う。

 皆に言うことで、ひとつ肩の荷が降りた。
 ただひとつ。その場に三佳がいなかったことを除いて。


 月曜館で打ち明けたあと、せっかく事務所に行ったのに、先に帰った三佳に会わなかったことを後悔することになった。
 今日、三佳は不在。史緒が言うにはバイトに行きっぱなし。夜には帰ってくるらしいが、あの日からこっち、ほぼ毎日だという。
「忙しい時期だからって言ってたけど、本当はどうかしら」
 史緒の含みは、たぶん、当たっているのだろう。


 司のほうも出発の準備で忙しかった。世話になっていた人や病院関係などの挨拶回りに加えて荷物の整理、手続きがいくつもあった。
 アパートは家賃を払い続けるアテも無いので引き払うことにした。流花のところへ送る荷物と、それからいくつかの家具は史緒のところにしまわせてもらえることになっている。
 普段、司は他人を部屋に入れるのを嫌がるが今回は仕方ない。業者の手を借りて荷物を片づけていく。篤志と健太郎も時間を見つけては手伝いに来てくれた。

 それにしても、引っ越しをしてみると解ることがある。
 自分の持ち物の量。
「はぁ」
 段ボール箱に囲まれた部屋で司は溜め息を吐いた。
 ここはもう勝手知ったる自分の部屋じゃない。一歩踏み出すのも困難な、司にとっては事務所までの歩道より危険な場所となってしまった。手探りで移動するのに疲れて、室内でも杖を使い始めた。
 できるだけ身軽でいようと心がけていたはずなのに、こうしてまとめてみるとずいぶんな量がある。3年も住んでいれば当然なのかもしれない。そういえば、三佳が出入りするようになってからも家具が増えている。
 この段ボール箱の中には、阿達家に住んでいた頃からの荷物もあった。
 一方で、見えなくなる以前の荷物はほとんど無い。少なくとも司はそれを数えることができない。もしかしたら司の与り知らぬところで保管されていて、今は無人の阿達家に置かれているものもあるかもしれない。だけど、もし、そんなものがあることを知らされたら、司はすべて処分しに行くだろう。欲しくもないし見たくもない。存在していることも許せないだろうから。


 ベッドの端に辿り着くまでも、いつもの20倍は手間と時間が掛かった。さらに10秒掛けて腰を下ろすとそれだけで疲労困憊で、司はもう一度大きな溜め息を吐く。今日はまだ出掛ける予定があったが、先送りにしたいと考え始める。
 携帯電話を取り出しボタンを操作し、着信履歴を「聞く」。新しいものは無い。
(避けられてるなぁ…)
 引っ越し作業の合間に何度か三佳に電話しているが応答は無い。史緒に訊いてもバイトに行っているというし。結局、あれから一度も会っていなかった。
 確かに、司自身も迷っているところはある。別れることが分かっていながら、どう接すればいいか。いつも、当たり前のように一緒にいた相手に。
 ただ、もっと、ちゃんと話をしたい。
 話を聞きたい。
(三佳───)

 この3ヶ月、十分に考えたはずだ。
 目が治る可能性に賭けることと引き替えに、失ってしまうもの。
 居心地の良い場所、自分を受け入れてくれる人たち。
 かけがえのない貴重なものを、軽率な判断ですべて失くしてしまうかもしれない。
 いざこざが無かったとは言わないが大きな亀裂も無く、良くも悪くもぬるい、でも、自分を受け入れてくれた、人と居場所。
 そこから離れると決めたのは自分自身。
 どんなに未来が良いほうへ転がり続けても、今と同じ場所へ戻ることは不可能だ。

 また、すべてを失うのかもしれない。見えなくなったときと同じように。今度は自分の意志で。



 蓮大人に訊かれたことがある。

 ──目が見えなくなっても、一緒にいてくれるような人はいたかい?

 無条件で味方でいてくれる人。なにがあっても自分を受け入れてくれる人。たとえ世界中が敵になっても、一緒にいてくれる人。
 どんな意図を以てそんなことを訊かれたのか今も解らない。
 一体、誰にそんな存在がいるというのだろう。


 幼かった司はこう答えた。

 ──お父さんとお母さんがそうだと思ってた


 結局、見えなくなってから、一度も会ってない人たち。


(…あぁ)
 司はベッドの上に寝ころんで額に手をやる。
(頭が痛い)
 ひどい眩暈がして、無意識に三佳の手を捜してしまった。
 でも、今ここに彼女はいないし、これからも隣りにいない。






*  *  *

 昼時、ちょうど駅の構内に入ったところで、三佳の電話が鳴った。
 液晶に表示されている文字が「七瀬司」ではないことを用心深く確認してから通話ボタンを押す。すると、こちらが名乗るより先に、高い声が聞こえてきた。
「もしもーし」
 発信元はよく知るものだったが、想像していた声と違った。固定電話からなのでそういうこともある。三佳は声の主を特定するのに一拍遅れた。
「───凛々子(りりこ)?」
「おーっす。三佳、今、パパのおつかい中なんだよね〜? お昼ご飯どうするのって、ママが」
「すぐには戻れないから、こっちで適当に食べる。3時頃に帰るって伝えてくれ」
「わーった。あとねぇ、夕飯はお鍋だから、そのつもりでお腹空かせてきてねって」
「了解」
 自然と笑みがこぼれる。
「あれ、そういえば、なんでこの時間に凛々子が家にいるんだ?」
「あのねー。学校に行ってない三佳は知らないかもしれないけど、大抵の学校は土曜は休みなのー」
 そういえばそうだった、と三佳は二の句が継げなくなった。
 そもそも、凛々子の父親が三佳におつかいを頼むのも土日だけだ。平日に外を出歩くと補導されてしまうので。
「用件は以上でーす」

 凛々子からの電話を切ったついでに時刻を確認すると12時を回っていた。
 現在地は自宅から離れた駅の中。お腹は空いてる。次の目的地への移動中。タイミングは、良い。
(お昼、……どうしよう)
 三佳は普段あまり外食しない。いつもはほとんど自分で作って、外で出べるのは凛々子の家か、近所の月曜館くらいだ。こういう状況になってみると、生活の基本である食事をするだけなのに困ってしまった。
 今日みたいに一人だと、外食しづらい、というのもある。小学生が一人で入って一人で食事をしても変な目で見られない店はそう無いだろうから。
(だいたい、外で食事しようとすると野菜は摂りづらいし脂っこいし味も濃いし炭水化物に偏りがちだし…まともな物を食べさせてくれるような店は一人じゃ入れない、ファーストフードは口に合わないし。───あ〜、あいつちゃんと食べてるかな)
 飲食店を物色している途中、関係無いことまで考え始める。
(夕飯は外で摂るって連絡しないと…。今日は祥子もいるし、面倒見てくれてると思うけど)
 最近は篤志の代わりに祥子が事務所にいることが多い。祥子は史緒のことを嫌いと言っていても世話を焼かずにはいられない性格だ。本人は苦労するだろうが、史緒を任せるにはちょうど良い。夕方になれば健太郎と蘭も合流するだろう。
 ふと、三佳は携帯電話に目を落とす。
(司、どうしてるかな…)
 ちゃんと話をしなきゃいけないと解っているのに、三佳は司と顔を合わせるのが怖かった。あと少しで会えなくなってしまうのに。



 結局、駅内にあった地味めなおにぎり屋に入った。総菜も種類があったし味噌汁もある。考えていたよりずっと理想に近い。三佳は気を良くして、会計を済ませ、席を捜そうとしたところで。
 ───意外な人物に遭遇した。

「あ」

 と、口にしたのはどちらが先か。
 三佳はトレイを持ったまましばらく固まってしまった。
「櫻…?」
 店内の奥の席、そこには阿達櫻がいた。
(え。なんで?)
「よぉ」
 気さくに声を掛けてきたので三佳は軽く頭を下げる。
「どうも」
 お互い、まったく知らない仲というわけでもない。何度か顔を合わせて言葉も交わしていた。
「七瀬はどうした」
「…そんな年中一緒にいるわけじゃない」
「そうかよ」
 と、櫻は頓着なく笑う。
「今は仕事中なんだ」
「使いっ走りか?」
「あぁ」
「史緒?」
「いや、別件」
「ふぅん。…座ったらどうだ」
 向かいの席を指す。店内は混んでいたので相席は正直助かる。櫻と同席することについて複雑な気持ちが無いでもなかったが、三佳は大人しく櫻の向かいに座った。

 阿達家の騒動の後、櫻とは何度か顔を合わせていた。けれど、これまでは史緒や司、その他にも必ず誰かが一緒にいた。一対一というのはこれが初めてになる。
 櫻が周囲からどう思われているかは解っているつもりだ。そして櫻自身にそれを覆そうとするつもりが無いということも。
 正直、どう接して良いか悩んでる。三佳自身の櫻の評価は固まっていないから。
 だけど困ったことに、三佳にとって櫻は割と喋りやすい人物だった。
 子供扱いしないし、三佳がいつもの調子で生意気言っても気を悪くしない。乱暴な語彙を選択する性質も慣れてくれば気にならない。応答が速く鋭いせいで妙な緊張感があるが、それも楽しめるレベル。馴れ合いを好まないのはこっちも同じだ。
 史緒たちのように過去の(いさか)いも無いので、櫻のほうも割と棘のない対応をくれている(と思う)。
 たぶん、櫻は、櫻からの攻撃に負けず、ずけずけと物言ってくる人間を嫌いではないのだろう。
 それなら三佳の得意分野だ。だから三佳は櫻と喋るときは、少し失礼なくらいに、意識的に強く喋るようにしていた。

 櫻のトレイに乗っているのは、おにぎりひとつとお茶だけ。しかも、手をつけるつもりが無いのかテーブルの端に寄せて置かれていた。
(まったく、この兄妹は…)
 こめかみの辺りが痛くなってくる。
「それだけで、体が保つのか?」
 つい口を出してしまった。
「余計なお世話だ」
 確かに、今のは自分でもそう思う。
 櫻のほうも気に障ったわけではなく三佳のお節介に呆れたという様子だった。
「餓死する前には食うよ」
 そういう問題じゃない。と、三佳は大声で返しそうになった。
(似た者兄妹め)
 史緒が聞いたら気を悪くするであろうことを思う。でも本当に、この兄妹を甘やかした環境を恨みたい。
(あれ。そういえば篤志はどうだったっけ…)
(いや、それよりも、櫻と一緒に生活しているノエルもまさか)
 ちらり、と窺うと櫻もこちらを見ていて、ついでに表情を読まれたらしい。
「あれにはちゃんと食べさせてる」
 と、つまらなそうに言った。
 今みたいに、櫻はよく表情から思考を読みとる。司などは櫻のそういうところを酷く苦手としているようだ。三佳も何度かやられてその度に驚いているが、タネは解っている。司も言っていた。論理的帰結。あとは想像力と観察力。だけどそれが解ったからと言って真似できるものでもない。この男の個性としか言いようがなかった。
 その櫻が目の前で小さく笑う。
「史緒の世話は大変そうだな」
 先程の会話から今度は一体何を読みとったのか。三佳はその台詞に大きく頷いた後、冷やかしを込めて言った。
「妹のこと、気になるんだ?」
「いや、まったく。島田さんを(ねぎら)っただけ」
 微塵の隙も見せずに否定する。素直に受け取って良い物かどうか。
 どちらも本心では無いかもしれない。
 どちらが本心でも、ある意味怖い。
「それはどうも」
 適当な返事をして、三佳は自分の食事に手をつけ始めた。

「そういえば。どうして私のことはさん付けなんだ? 司や篤志のことは呼び捨てにするのに」
 ふと、思い立ったことを訊いてみた。
 櫻は初対面のときから、三佳のことを「島田さん」と呼んだ。
 単に、知り合ってまだ日が浅いからとか些細な理由かもしれないが、こちらが呼び捨てにしている手前、なんとなく決まりが悪い。
「あぁ、それは」
 櫻は眼鏡を押し上げて薄く笑った。
「七瀬を手懐(てなず)けたことに敬意を表して」
「……?」
 首を傾げて意味が解らないことを伝えても、櫻はすぐには答えない。三佳がどう解釈したかを測ろうとしているようだった。
「手懐けるって…」
 櫻は含みのある表情をそのままに椅子に寄っ掛かり息を吐く。
「昔から、あいつは見ていて面白いよ。蓮家の二番目がそう教育したんだろうが、己のハンデをよく理解して、周囲に頼らなければやっていけないことも判ってる。他人に依存して、共存して、甘やかされて生きなきゃならないことを屈辱と感じながらも、そうするしかないと諦めてるんだ。───でも結局、七瀬は、誰一人、信用なんてしない。愛想良く見えても警戒を怠らない。今は大勢と連んでるようだが、長く付き合おうなんて思ってないだろう。一蓮托生なんてのも絶対考えない。少しでも危険を察知したら、一人でも逃げられるよう計算し始めるよ」
「───」
 櫻は一体何の話をしているのか、三佳は再確認しなければならなかった。
 櫻は七瀬司について語っているはずだ。けれど、三佳は首を捻りたくなるほどの違和感を感じていた。それは、三佳が知る司とは違う。
(知り合う前の、司のこと、なんだろうけど…)
「七瀬自身も、己のそういう性質を解ってるんだろう。周囲は自分を裏切るかもしれない。でも頼らなきゃいけない。それがストレスで、昔はいつも疲れたようにしていた」
「……」
「島田さんが思ってるよりずっと、七瀬は周囲と距離を空けてるし、緊張した毎日を送っているということだ」
 ずき、と胸が痛む。
 櫻が語る司の過去が痛々しいのか。
 それとも、三佳と司の距離を指摘されたことが悔しいのか。
(……あ。これ、聞いてていいのかな)
 司の知らないところで、司の昔の話を聞くのは、よくない事ではないだろうか。これ以上、この話題を続けるのは危険な気がする。でも、
「それは、昔の話だろ?」
「うん?」
 三佳は否定したかった。
 櫻が語っているのは、今の司ではないと。
 「手懐けた」というのが「変わった」という意味なら、それは三佳とは関係無く、彼が成長した結果だ。だって、三佳が知る司は、そんな殺伐としてない。いつも余裕があるように笑っていて、仲間のことも気に掛けている。確かに、計算高い面もあるけど、それが周囲を信用してないということには直結しない、はずだ。
「私はその頃の司を知らないけど、今はみんなとうまくやってる、…と、思う」
 語尾が小さくなってしまった。自信が無いことを読みとられてしまう。
 櫻はテーブルの上に片肘突いて可笑しそうに笑った。
「島田さんは、自分は七瀬に信用されてる、と思ってるわけだ」
「それは…っ」
 もちろん、と答えてもいいと思う。司だって、「そうだね」と笑って肯定してくれると思う。
 でも、今の話を聞いた後にそれを即答するのは、なんだかとても考え無しのような気がして三佳は口篭もってしまった。
 その様子を櫻はじっと見ていた。
「確かに───まぁ、島田さんは例外だろうな」
「え?」
「七瀬と手を繋ぐだろう」
「は? ……手?」
「なんのため?」
「…なんのためって」
 櫻は話題を転じたのか。それともちゃんと継いでいるのか。
 三佳は話題の主旨を見失っている。収束点が判らないまま、櫻に訊かれたことを、ただ考えることしかできなかった。
(手が……、なに?)
 三佳と司はよく一緒に出掛ける。その際、普通に手を繋いでいる。それが何故かと問われるなら、
「杖代わり?」
 道案内したり、危険物を知らせたり。一言で表すならそういうことだと思う。
 櫻は肩をすくめた。
「意志のある杖なんか、あいつは欲しがらねぇよ」
「じゃあ、はぐれないようにする為」
「まぁ、それもあるか。でも七瀬は、相手が関谷や史緒なら肩を借りる。他の人間なら頼ろうともしないだろう」
「……?」
「咄嗟のとき、相手を突き放して一方的に離れられるからだ」
「───」
 どこまで本気か判らない。でも櫻はからかうわけでもなく、当たり前のように言う。
 手を握らせている三佳は例外なのだと。
「そういうやつだよ。今も、昔から何も変わってない。外面で笑ってても自分を守るのに必死。失明直後に身内に裏切られたから、他人を信用するのが怖い」
(身内に…?)
 司は家族のことを全然話さない。でも一度だけ。
 ──僕の両親は8年前から行方不明なんだ
 ──事故の責任を取るのが怖くなって逃げたんだろう、っていうのが、関係者の中では一番有力な説かな
 そう言ったとき、司はもう吹っ切れてるというように笑っていたけれど。
「七瀬は親に棄てられたと思ってるから」
「……棄てられたと思ってる(、、、、)、ていうのは? 本当は違うのか?」
「さぁ。それを否定できる人間がいないなら、あいつにとってはそれが真実だ」
 櫻の言うことはいちいち端的で断定的だ。話すことで三佳の反応を観察している。
 全部を信じるのは良くないと解っていても、三佳は櫻の発言に飲まれていた。
「七瀬の用心深さは気に入ってたけど、その七瀬を手懐けた島田さんにも俺は一目置いてるということで、説明終了」







03

 夕方、司は時間を見つけて事務所に顔を出した。
 事務所には篤志がいて、それから、史緒が出掛けるところだった。急な仕事が入ったのだという。
「もう少ししたら、祥子と、あと学生組も来るはずよ」
「三佳は?」
「峰倉さんのところ。最近はずっとそう」
「…そう」
 ここへ来た一番の目的が空振りした。史緒も司の心中を察しているらしく、複雑な表情で苦く笑う。
(さて、どうしよう)
 奥の机に座っていた篤志が顔を上げて目を丸くした。
「え、あの後、まだ会ってないのか?」
 篤志には関係ないよ、と言い掛けたが、それは喉元で止まった。───軽い憎まれ口では済まない気持ちが声に表れてしまう気がして。
(…何で、こんなに苛ついてるんだろう)
 司は、最近の自分の穏やかでない感情をうまく捉えられずにいた。
 生活環境が変わることへの不安やストレスは確かにある。身近な問題として、三佳を捕まえられないことも懸念事項のひとつだ。
 だけど、この気持ちは違う。そこは解っている。───この苛立ちは。
 目の前にいる2人。思いの外、うまくカタが付いた、阿達家に対してのものだ。
(しこりが残るだろうと予測してた、それが大きく外れたことがそんなに気にくわないのか?)
 まさか、と司は否定した。それくらいのことで、と思う。嘘ではない。
「ところで篤志はどうしたの? 最近、よく見かけるけど」
 今度はちゃんと“軽い憎まれ口”になった。
 もちろん、篤志がこの先しばらくはアダチとA.CO.を兼業することは知ってる。阿達家の騒動のとき、篤志が長くここを空けていたことへの皮肉だ。
「おいおい。一応、俺はA.CO.(ここ)に所属してるんだが」
「あれ。そうだったっけ」
「おまえな!」
「私、もう少ししたら出掛けるから、留守番頼んだの。頼みたい仕事もあったし」
「へぇ」
「司は? ここで休んでいったら?」
「いや、帰るよ」
「じゃあ、途中まで一緒に行きましょう。もうちょっと待ってて」
「うん」
 事務所に残って篤志と話す気にもならなかったから帰ると言ったのだが、かといって、史緒と話すこともない。けれど、ここで断るのは不自然だし、適当な理由も見つからなかったので司は頷いた。

 史緒と篤志は簡単な打ち合わせをしている。お互いの性格を知った上での事務的な確認事項、相談、主張。
 それはこの数年なんども目の当たりにしたごく日常的なものだ。
 3年前、この3人で事務所を立ち上げた、それ以前からも、そう。
 史緒と篤志のやりとりを司は見てきた。

 ただ、今、妙な違和感があるのは、この2人が兄妹だと知ったからだ。



「───」
 すっ、と脳に切り込むものがあった。

(あぁ)
(…解った)
 解ってしまった。
 一度、「解って」しまったら、もう「解らない」には戻れない。
「…っ」
 嫌悪感と一緒に吐き気が込み上げる。
 安堵感もあった。何に苛立っていたのか(、、、、、、、、、、)、やっと解ったから。
(そうなんだ)

 吹っ切れたような。悔しいような。
 笑ってしまいそうな。泣いてしまいそうな。


 十年以上前に死んだ亨。
 それを長く引きずっていた櫻と史緒。
 後に親戚を名乗って現れた篤志は、己の正体を隠し続けたまま、何食わぬ顔で兄妹のそばにいた。史緒の理解者となり、当たり前のように隣りに居座っていた。
 それからさらに数年。
 自らを亨だと明かした篤志。それを受け入れた史緒、櫻、そして3兄弟の父。
 篤志は「関谷篤志」を名乗ることを選んだけど、それでも彼を亨と認識した上で、それぞれが元の関係、ポジションに落ち着いた。
 驚いたことに、なんの亀裂もないまま。
 長い長いいたずらの行方。
 その間、対立やすれ違いがあって、傷つけ傷ついて。
 それでも、十年以上前の元の形に収まった、阿達の家族。

(認めたくないけど、これは…)

 篤志と史緒、櫻や政徳が和解するまでもっと揉めると思っていた。簡単に許せるはずない。あんなにバラバラだった阿達家がまとまるはずない、と。
 でも、彼らは家族としての結束を果たした。絆、か。

(嫉妬、か)

 見えなくなったばかりの頃、身近にあった不幸な阿達家(かぞく)を同列視して安心していた自分。
 だけど、今、集まった阿達家(かぞく)

(嫉妬かー……)

 同じことができなかった、己の境遇。





*  *  *

 峰倉家の食卓はいつも騒がしい。
 騒がしい原因である姉弟は毎日遊び回っていて、どちらかが夕食の席にいないこともしばしば。にもかかわらず、いつも騒がしいのは何故かというと、片方でも十分騒がしいからだ。
「遊んでないって! 地区大会が近いから練習時間が長くなってんだよ」
 弟の峰倉玲於奈(れおな)。三佳と同じ12歳で小学6年生。ふた月前、三佳に身長を超されたことを、未だにぐちぐち言っている。
「あたしも遊んでるんじゃないよぉ。学校のほうが忙しいの。今、生徒会選挙期間なんだよー」
 姉の峰倉凛々子(りりこ)。三佳たちのひとつ上で、私立中学の1年。眼鏡を掛けている。どこかぼんやりしていて、玲於奈や三佳に対し年上振らず、友達のように接してくる。
「生徒会だぁ? 1年のおまえが?」
 そして峰倉徳丸。姉弟の父。三佳のバイト先店長。
「ちが〜う。あたしは候補者じゃなくて、選管なの。選挙管理委員。この時期だけは、生徒会より権力持つんだー。腕章つけてね、一目置かれるカンジ?」
「選挙管理委員って、どんなことするの?」
 と、訊いたのは峰倉加奈。姉弟の母。三佳の家事の先生。
「一番の仕事は投票監督と開票集計だけど、他に賄賂が出回ってないかとか、癒着が無いかとかの見回り、かな」
「癒着って……、中学生が使う単語かよ」
 峰倉が呆れたように言い、三佳も笑った。
 今日みたいに、夕食の席に三佳も座ることは珍しくない。食事の支度を手伝ったり、凛々子や玲於奈と喋ったりもする。彼らの学校生活の話は意外と楽しい。
「そういえば」
 と、三佳は口を挟む。
「一年前、凛々子は受験勉強とやらで大変そうにしてたけど、今年、玲於奈はそうでもないんだな」
「俺は公立行くもん。試験はないよ」
「三佳はー? まだ学校行ってないの?」
「予定はないな」
「そうか! 玲於奈と同い年だってつい忘れちまうぜ。おめーも少しは自分のこと考えたほうがいいぞ」
「と言われても。学校に行ってる自分が想像できない」
「いつも三佳のことこき使ってるくせに、親父がそんなこと言っていいのか〜」
「じゃあ、玲於奈。おまえに言うぞ。おめーも少しは自分のこと考えろ。さすがにテストで9点はないだろ」
「ちょ、それ反則!」
 その後、話題は姉弟の学校の話と、近所の野良犬から時事ネタにまで発展し、笑ったり文句を言い合ったりした。

 峰倉家は家族仲が良い。と、思う。(他に比較できる家族を三佳は知らない。阿達家? あれは問題外だ)
 知り合って3年、もちろん親子間、姉弟間の喧嘩もあって、三佳もそれを見てきた。ついでに三佳が参加した喧嘩もあった。けれど、峰倉家にはそれをちゃんと収束させる習慣もあって、仲介者が双方ともきっちり謝らせることで終わる。変に(こじ)れないでそれができるのは、この家族の会話が多いからだと三佳は分析していた。
 凛々子と玲於奈はよそ者の三佳を特別視しないし(親戚かなにかだと思われてる節がある)、峰倉夫妻は三佳のことを3人目の子供のように扱ってくれる。甘えすぎるのは良くないと思っていても、居心地の良い場所だった。
 仲間とはまた違う関係。休む場所。帰る場所。───家族。
(…家族?)

 ──七瀬は親に棄てられたと思ってるから

「───…」
 視界が滲んで、あっという間に涙がこぼれた。
 なにが起こったか一瞬判らなかった。
 ぼやけた視界。頭のどこかで涙が出たと解ったけど、両手にご飯茶碗と箸を持っていたので拭うことができなかった。
「えっ、三佳、なんで泣いてんのっ」
 と、大声をあげたのは正面に座っていた玲於奈。こっちが訊きたい。三佳の思考はマヒしたように鈍く、次の行動に移れない。意志とは関係なく、涙だけがぽろぽろ溢れて止まらなかった。
「へっ? 島田? ど、どど、どうしたっ!?」
「三佳〜」
 注意して茶碗と箸をテーブルに置いて、三佳は手で顔を拭く。自分のせいで場の雰囲気を壊してしまったことを申し訳なく思う。
「ごめ…、なんでもない」
 でも涙が止まらなかった。
 司が子供の頃に失ったもの、その悲しみが解ったような気がして。
「…っ」
 こんな同情を司は嫌うだろう。
 だけど、彼のことを思うと、悲しくてしかたなかった。
「はいはーい!」
 ぐっと肩を掴まれたかと思うと、ふわりとやわらかい腕に抱きしめられた。
「みんなはちゃっちゃとごはん食べちゃって。───三佳はこっちにいらっしゃい」
 峰倉母に手を引かれて椅子から立ち上がる。
「おい…、おまえ」
「年頃の女の子の泣き顔を覗くなんて趣味が悪いわよ」
 心配そうなそれぞれを残し、峰倉母に肩を押されキッチンを出る。そのまま別室へ連れていかれた。ソファに並んで座り、軽く背中を叩かれる。
「念のため訊くけど、どこか痛いわけじゃないわね?」
 頷いて答えた。
「そう、良かったわ」
「ごめ…、ごめんなさい」
「謝ることじゃないでしょ? 泣きたいときは泣いちゃえばいいの」
「ぅ〜」
 声を我慢しようとしたら呻き声になってしまった。やさしく頭を撫でられる。
「三佳もね〜、もうちょっと甘え上手だといいんだけど」
 やれやれ、と三佳の頭の上で峰倉母が笑った。




  *

 夜も更けて三佳が帰宅すると事務所に明かりが点いていた。とりあえず帰ったことを伝えようと顔を出すと、室内に史緒はいなかった。代わりに何故か篤志がいた。
「よぉ、おかえり」
「…ただいま」
「まさかこの時間に一人で帰ってきたのか?」
「加奈さんに送ってもらった。───史緒は?」
「出掛けてるよ。今日は遅くなる」
「私用?」
「仕事」
 そう答える篤志も、なんだか忙しそうにしていた。確かに、大学に通いながら(卒業はするつもりらしい)仕事を2つ兼業するのは大変だろう。
 気を利かせて下がろうとしたが、ふと、思いついたことを口にしてみた。
「今日、櫻に会った」
「え…っ!」
 篤志は必要以上のリアクションで顔を向ける。
「……なんだ、急に」
「いや、何時頃?」
「正午」
「あぁ、…なんだ」
「なんだ、ってなんだ」
「その後、俺も櫻と会ったんだ。そのとき一悶着あったから…」
「喧嘩?」
 三佳は冗談半分で言ったのに、
「まぁ、そんなとこだ」
 篤志は苦笑しながら肯定した。
「喧嘩なんて、おまえらもそんな普通の兄弟らしいことできるんだな」
「うるせーよ」
「まぁ、仲良くやってるよりは、らしいかもしれないけど」
「そういうおまえこそ」
 ふと、篤志の表情から笑いが消える。(あ、余計なこと言われる)と、三佳は直感的に思った。
「会ってやらないと司が気の毒だぞ」
 予想どおり、余計なことを言われる。
(…篤志たちはなんで平気なんだ)
 ここから司がいなくなること、篤志や史緒はどう受け止めているのだろう。そんな簡単に納得できるものなのだろうか。
 篤志は淡々と続けた。
「二度と会えないわけじゃないんだから」
「……っ」

 ───そうだっけ?

 二度と会えないわけじゃない?
 本当に?
 ちゃんと会えるんだっけ? ───会えたこと、ある?

 だって、私には。
 あの日、屋上で司と初めて会った日、それ以前に知り合った人(、、、、、、、、、、、)は誰一人
 今、そばにいない。


 二度と会えないわけじゃない?
(そんなの、嘘だ)


「私は、…二度会えた人なんていない」
 思ったことは声になってしまったらしい。
「え?」
「もう休む」
「おいっ」
 篤志の制止を聞かず、三佳はドアを閉め、階段を駆け上がった。





*  *  *

 三佳は、司と初めて会った日、それ以前の時間をすべて棄てている。
 それまで生まれてから9年間。時間を共有した人、長く過ごした場所、習慣、今思えば、まるで夢だったかのような、今とは異なる生活。その、悪夢のような終わり。でも、確かに仲間だった人、尊敬した人、楽しい時間もちゃんとあった。
 けれど、それらをすべて切り離して、すべて棄てて、三佳はここで、今の仲間と生きてる。
 9年間も生きていたのに、もう、日常で思い返すことはほとんど無い、以前の自分。
 忘れてしまった思い出もある。忘れてしまった人も。
 ───そうだ。
 自分の父親のことさえ、ずっと忘れていた。
 思い出そうとしたとき、なにも憶えていなかった。ようやく拾い上げた父の口癖。後になって手に入れた写真。でも、他にはなにも思い出せない。
 父親なのに。血縁なのに。
 この世界でたった一人の家族だったのに。
(司と離れてしまったら、私は、司のことも、…忘れてしまうのかな)


 以前の生活が夢ではなかったことの証として、今と昔の唯一の接点、再会した柳井恵がいるけど、また会える確証はない。
 それ以外の人とは会ってない。どうしているかも知らない。
 もう会えない人もいる。
 三佳もそうであるように、みんな別々の、新しい生活をしている。お互いの知らない場所で。
 それぞれが過去の知人のことなど意識しないまま。
(同じように、そのうち司がいない生活に慣れてしまうのだろうか)


 こんな風に迷っていること自体、そのうちどうでもよくなってしまうのかもしれない。───昔はあんなことで悩んでいたな───などと、過去のどうでもよいことのうちのひとつになってしまうのかもしれない。
 確かに、人生を掛けて悩むことじゃないだろう。
 でも、今のこの苦しさを、そんな風に片づけてしまいたくなかった。



  *

 重い扉を開けて、三佳は夜の屋上に出た。
 時間は21時を回っている。季節は9月も後半、昼間はまだ夏を思わせる気候だったけれど、夜の寒さは体を冷やすものだった。どこか冬の匂いがする冷たい風が髪の隙間を流れていった。羽織っているカーディガンがとても暖かく感じる。三佳は襟を合わせて手摺りへと歩いた。
 屋上に照明は無い。廊下から漏れる明かりは頼りなく、足下は真っ暗。それでも慣れた場所、手摺りの前に立つ。
 いつもここから見下ろす公園は暗くてほとんどなにも見えなかった。西の空にはビルの明かりが作り出す夜景、そして遠く響く車の音。仰ぐと、ひとつだけ星が見えた。

 目覚めた日、初めて見たここからの夕暮れ。
 この広い外の世界で立っていられるだろうか。歩いていけるだろうか。あまりに広すぎる空間に放り出されて不安に思ったものだ。
 でも、司がいた。
 あの日、司に手を引かれ、名を呼ばれ、安心した自分。
(…そうか)
 あまり良くないことに気付く。
 ──七瀬と手を繋ぐだろう
 櫻が言っていたそれは、三佳が特別とか、信頼とかは、関係無い気がする。
 この世界に出たばかりの三佳のために、司が気を遣ってくれていただけなのかもしれない。危なくないよう、迷子にならぬよう。そう、幼子の手を引くように。


 司から信用されてない、とは思わない。
 でも。
 ──七瀬は周囲に裏切られるのが怖い
 もし今も司がそれを恐れているなら。
 いつも隣りにいながら、私は彼を守れていなかったことになる。
 頼るだけで、頼られる存在にはなれず。なにひとつ返せないで。
(…そう、なのかな)


 司はここを離れることに少しの抵抗感も無かったのだろうか。
 ここに、司を繋ぎ止めるものは何も無かったのだろうか。
(違う。櫻の言葉に惑わされるなっ)
 司は迷ったはずだ。
 ひとりで、長く迷って、考えて、そうして離れることを決めたのだろう。
 住み慣れた場所を離れることが辛くないはず無い。でも、それを引き替えにしてでも、目が治ることのほうが魅力的だから。───それはあたりまえのことだから。
 その苦しい選択をした彼を労わなきゃいけない。
 ちゃんと、会って、言わなきゃいけない。前は逃げてしまったから。ちゃんと。
 いってらっしゃい。元気で。さよなら、って。



「やっと捕まった」

 ひっ、と意味を成さない三佳の悲鳴は夜の屋上に消えた。
 振りかえると、明かりの中に人影が浮かび上がる。ドアから影が伸びる。
「……司」
 いつからそこに立っていたのだろう。声を掛けられるまで気付かなかった。
 司は三佳のほうへ歩み寄り、少し離れた位置で立ち止まる。そして笑った。
「こんなに会わなかったのって初めてじゃない? ってくらい久しぶり。まだ、たった数日なのに」
「……そうだな」
 手摺りから離れて相槌を打つ。たぶん、普通に声が出たと思う。
「櫻に会ったって?」
 誰に聞いた? と訊こうとしたけど解はすぐに見えた。篤志しかいない。そして三佳が帰ってきたことを司に教えたのも篤志だ。
「何か言われた?」
「別に」
「それは否定の言葉じゃないね」
「…」
 三佳が黙ってしまうと、司は気を取り直すように息を吐いた。
「あのさ」
「ん」
「この間は、いってらっしゃいって言ってくれたけど、それだけじゃなくて、もっと、三佳が今思ってること、考えていることを聞かせて欲しいんだ。…どう?」
「!」
 司は手を差し伸べた。いつもと同じように、自然に。
(あぁ───)
 今まで、何度、その手を取ったことだろう。当たり前のように。そうすることの意味を考えもしないで。
 櫻の言葉に惑わされるな。そう思っても、三佳は目の前の手を取ることができなかった。
「三佳?」
「───そんな言い方はずるい」
「え?」
「私がなにを言っても、司は行ってしまうのに。私が、私の要求を口にしても結果が変わらないなら意味無いじゃないか。我が侭を言ったって司は困るだろう? 私は自己嫌悪するだけ。そんな気持ちのまま別れたくない」
 気が高ぶっている自覚はあった。このまま余計なことも喋ってしまいそうだったが止められなかった。司の言葉を聞きたくなかったから。
「大丈夫、心配しないで。私はもう、初めて会った頃とは違う。司の手を取らなくても、平気」
「三佳、それは」
「ごめん、変なこと言ってるけど…、司の決断に口出しなんかしない。そう、今は、それを受け入れるのに時間が掛かってるだけなんだ。───だって、私はまだ想像さえできてないから。司がいない生活なんて」
(そうだ、簡単に想像なんてできるはずない。いつも一緒にいたのに)
(そして写真が示すように、かつて、そばにいてくれた父)
(その父のことさえ、私は)
 三佳は肩で息をして、大声を出そうと大きく息を吸ったけど、大半はかすれた吐息になってしまった。
「もしかしたら、忘れてしまうのかも、…昔と同じように」
「───昔?」
 司の問いかけには答えず、三佳は自嘲する。
「死んだ家族のことさえ忘れるくらい薄情だから」
 息を吸い直し、頭を振る。顔を上げ、司に向かって、しっかりと言った。
「行ってらっしゃい。元気で。 本当に、それしか言えない」
 それを最後に、三佳は口を閉ざし、司の横をすり抜ける。
 結局、司の手は取らなかった。
 司は追ってこない。声もしなかった。







04

 出発前夜。
 司がその日の予定をすべて終えられたのは夜8時を回ってからだった。けれど、そのまま一日を終わらせるつもりはなく、司は電車に乗って目的の場所へ移動していた。8時という時間はまだまだ人が多い。周囲の話し声に思考を邪魔されながらも、司は今対面している問題について考えていた。


 ──大丈夫、心配しないで。私はもう、初めて会った頃とは違う。司の手を取らなくても、平気
 そう言った三佳。
(余計なことを考えてそうだけど…、櫻がなにか言ったか)
 三佳がなにを考えてるかは大体解っている。
 司からの突然の別れの告白に混乱している。その戸惑いを口にすることが、司にとって迷惑になると思っている。迷いや悩みに他人を巻き込みたくないと思っている。
 元々、三佳は最初に会ったときからそういう傾向がある。
 あのとき、なにを同情したのか史緒は三佳を引き取ると言い、篤志はそれを反対した。そのやりとりを三佳本人に聞かせたのは司だ。そのとき三佳は、“ただの子供”ならここに居られないと判断したらしい。元からの性格も手伝って、大人振って、気を張って、重荷にならないよう、足を引っ張らないよう、酷く気を遣っていたと思う。
(三佳の気遣いに甘えて、彼女の強さに頼っていたのは僕らの落ち度だな)
 三佳は“ただの子供”として見られないようにしていた。
 でも、三佳は子供だ。
 物事を教え育てるのは周囲の人間の役目だろう。
 だけど、司も含め、史緒や篤志にその役目を真っ当できるだけの力があったはずもない。
(僕らもまた、子供だったから)






 司が峰倉家を訪れると、玄関を開けて出てきたのは峰倉徳丸本人だった。
「おぅ、七瀬か」
 大袈裟に驚くわけでもなく、気さくに応じてくれた。
 時刻は9時になる。予告も無く訪れるのは気が引けたが、連絡すれば逃げられてしまう可能性もある。無礼を承知で司はここに来た。
「夜分にすみません。三佳、いますか?」
 いるのは判っている。案の定、峰倉の回答は否定ではなかった。
「あー…。まぁ、上がっていけや」
 肯定でもなかったが。
「島田ぁ! 七瀬が来たぞ。顔合わせたくなきゃ上に行ってろ」
 峰倉が家の中へ向かって声を張り上げると、奥へと遠ざかる足音がした。三佳だ。
「あ、ひどい」
「サボるなよ。天の岩戸を開かせたきゃ自分で踊ってこい」
 司の軽い抗議に峰倉はからかうように答えた。
 その後、家の中に迎えられ、廊下を少し入った座敷に通された。峰倉に誘導されるままローテーブルの席に座る。その際、司が一旦座布団を避けて腰を下ろすと、峰倉は「あー、作法とかいーから」と煙たそうに手を払って、さっさと座るよう司に示した。

「最近、島田の様子がおかしかったのは、やっぱりおまえ絡みか」
 奥さんが置いていったお茶をあおってから峰倉は切り出した。
 司は頷くしかない。
「たぶん、そうなんでしょうね」
「島田に訊いても何も言わねぇし。…放っておいてもいいんだが、うちはお節介が多くてね。なんとかしろって俺が責められてるのよ」
 話が重くならないよう茶化して言ってくれる気遣いが司には有り難い。
「で? なにがあった?」
「その件について、峰倉さんにも挨拶しなければと思っていたんです。急で申し訳ありませんが…」
 と、司は峰倉に状況を説明した。
 司が明日、日本を離れること。目の手術の為だということ。長く帰らないこと。三佳にもその旨伝えてあること。
 説明は難しくない。ここ数日の挨拶回りの間に何度も繰り返したことだ。それでも10分は要した。その間、峰倉は一切口を挟まなかった。雰囲気を茶化すこともしない。話し終えてから気付いたが、その間、峰倉は一度もお茶を口にしなかった。そして、一段落すると息を漏らした。
「そりゃまた…、なるほどねぇ」
「はい」
 峰倉はまたひとつ大きな息を吐いて、
「ともかく、そうだな、…元気でやれよ。できれば、また、顔を見せてくれ」
「……、───そうですね。ここへ戻ったときには、必ず」
 司は返答に一拍遅れた。
 微妙な言い回しであることに、峰倉は気付いただろうか。
 遠い未来はどうなるか分からない。ここへ戻るのか、たとえ今そのつもりだとしても、無責任な約束はしたくなかった。
「すみません、それで今日は、三佳と話を付けたくてお邪魔しました」
「おぅ。いいんじゃないか? 場所くらいは提供してやる。なんなら泊まって行ってもいいぞ」
「いえ、今日は空港のそばのホテルに泊まる予定です。アパートは今日引き払ってきて、明日、出発なので」
「空港って成田だよな。じゃあ、時間が」
 と、そのとき、
「なになに、三佳を泣かせた男が来てるってー?」
 廊下を駆ける足音が聞こえた。元気の良い男の子の大きな声に司は虚を突かれる。そして今度は上の階から、
「玲於奈っ、余計なこと言うな!」
 と、これは三佳だ。
 男の子のほうは扉の向こうで「お話中だから静かにしてなさい」と窘められていた。
「騒がしい家で悪いな」
「いえ」
 確か、峰倉家には姉弟がいたはずだ。とすると、さっきの声が三佳と同い年だという弟だろう。
 仲の良さそうな家庭を目の当たりにして司は思わず笑ってしまう。
 しかし気が重い。
(三佳を泣かせた男、か)


「あの」
 言い難いという気持ちがそのまま声に出てしまった。
「どした?」
 峰倉は頓着なく訊き返してくる。
 一度、声にしてしまったのにまだ躊躇いがある。つい先日、屋上で三佳と別れた後、生まれた疑問。いや、それよりずっと前から、見送ってきた疑問を。
「訊きたいことがあるんですけど」
「おぅ」
 訊いていいのか、聞いていいのか。
「三佳の家族って、どうなってるか知ってますか」
「知らないのか?」
「はい、全く」
「…まぁ、知ってるっちゃー知ってるけど。ていうか、阿達やもう一人の兄ちゃんも知ってるはずだけど」
「彼らからも、聞いていません」
「なんで?」
「以前は、知りたいと思わなかったから。それに、三佳と付き合っていくのに、知る必要もなかったので」
「はぁ、なるほど。じゃあ、今、知りたくなった理由は」
「それは…」
 屋上で最後に三佳が言った言葉を思い出す。
 ──もしかしたら、忘れてしまうのかも、…昔と同じように
 ──死んだ家族のことさえ忘れるくらい薄情だから
 三佳の口から三佳の家族について語られることは滅多に無い。
 記憶にあるのは一度だけ、柳井恵にあった日、三佳は父親の名前を口にした。確か、島田芳野。その父親が写っているという写真を見て、三佳は泣いていた。
 三佳の家族について知りたくなった理由は、
「なんとなく、です」
「はーん、まぁいいけどさ。───言っておくけど、俺は島田から家族のことなんて聞いたことないぞ」
「でも、知ってるんですね」
「あぁ」
「知ったのは、3年前の三佳がうちに来ることになった事件のときですか?」
「いや、俺はそのへんの事情はさっぱり。ただ、島田の親父は一部で名が通った人だったから」
 峰倉は小さく唸って言葉に迷った。
「そう、島田には父親がいたよ。それだけ。あいつの家族ってーと、それくらいなはずだ」
「…母親は?」
「聞いたことねぇな。島田自身も知らないんじゃないか? 芳野さんは結婚もしてなかったはずだし。他に兄弟もいねぇ」
「父親は…もう?」
「あぁ、死んでる」
「いつ?」
「そろそろ10年経つな。島田が3歳とか4歳とか、それくらいだろう」
「…」
 想像していたことが外れて司は口を閉ざす。
 三佳が来た3年前、その事件のときに父親が亡くなったのではないかと推測していたので。
「あれ。じゃあ、父親が亡くなったあと、三佳はどこで?」
 父親が亡くなったのが3,4歳のとき。
 司が初めて会ったとき、三佳は9歳だった。
 その、約5年間の空白。
 峰倉は呆れ果てたという表情で司を見た。
「…。おまえ、あの事件のことも何も知らねーのかよ」
「はい」
「よくそれで島田の相手やれてたなぁ」
「知らないから、務まっていたんでしょう」
 少々、大人気ない切り替えしだったかもしれない。居心地の悪い沈黙が降りる。
 気にしなかったのか、それとも見逃してくれたのか、峰倉は余計な反応を示さずに話を続けた。
「父親が亡くなった後、島田は父親の友人に引き取られたんだ。言っておくけど、そいつは今も生きてる。3年前、そいつがちょっとやらかしちまったから、島田がこっちに来た、というわけだな」
「史緒が引き取った、と」
「それを望んだのは島田自身だ」
 そのあたりの事情は司もリアルタイムで見ていた。史緒と篤志が三佳の処遇で揉めている場に本人が突撃し、幼いながらに見事な啖呵を切ったのは司も見ていたから。
 三佳にはいくつかの選択肢があった。史緒に引き取られること、警察の薦めに従って施設に入ること、それから。
「やっぱり、あなたが引き取ったほうが良かったのでは?」
 あのとき、そういう話があったことは知ってる。
 今日、峰倉の家族を見て考えてしまった。どう客観的に見ても真っ当では無いA.CO.(うち)に関わるより、峰倉の家で普通の子供らしく生活したほうが良かったのではないかと。
「だから、選んだのは島田だって」
「子供にそこまで、決断とその結果の責任を負う覚悟を求めていいんでしょうか」
「島田には選べる環境と自由があった。他人の決断に後悔するよりは良かったんじゃないか?」
「…」
「それに比較は意味が無い。選べるのはひとつ、結果が見られるのもひとつ。どれが一番良い選択だったかなんて、最後になっても誰も判らないんだからな。───おい、七瀬」
 微かに苛立ちを含んだ低い声で名前を呼ばれる。
「あまり、現在(いま)を疑うな。あいつが悲しむ。それに、おまえだって迷ってるだけで、どうせ本心じゃないんだろう?」
「……、はい」
 弱音を吐きすぎた。
 うまくいってない現状の原因を過去の選択に押しつけようとしてしまった。

 ただ、今は、三佳の言葉を聴きたいだけなんだと思う。
 いつもの物怖じしない物言い。言い負かされるほどのはきはきした声───その声で、今、考えていることを聞かせて欲しいだけ。
 でも。

 三佳は“ただの子供”として見られないようにしていた。
 僕らも無意識のうちに、三佳にそういうキャラクタを要求していた。
 それなのに、別れるときになってわがままを言って欲しいなんて、ずいぶん勝手な話だ。






  *

 三佳は2階の一室、峰倉の書斎に逃げ込んでいた。6畳の空間にこれでもかというほど本が無造作に並べられ、乱雑に積まれている。その他、段ボールに押し込められたガラクタもあちこちに投げ出されている。奥のほうは埃で埋もれ、かつて掃除を試みた三佳はその物の量に諦めたことがある。そういう状況なので、この部屋を「書斎」と呼んでいるのは峰倉だけで、他の家族は「物置」と称していた。
 その部屋のドアの内側に背を預け、三佳は蹲っていた。
 司が来た。
(なんで?)
(このあいだ、屋上で、いってらっしゃいって。元気でって)
(ちゃんと言えたはず)
(言わなきゃいけないことは、ちゃんと言えたはず)
 ──三佳が今思ってること、考えていることを聞かせて欲しいんだ
(それ以上、なにを?)

 コンコン

「……っ!」
 ノックの音がすぐそばから聞こえて三佳は声にならない悲鳴をあげた。
「島田、七瀬来たぞ」
 峰倉の声だった。いつものどこかふざけたような喋り方ではなく、真面目な低い声。
「別れはちゃんとしとけ。後悔するぞ」
 と、厳しい声が続いた。
(…別れ?)
 ふと、一枚だけ残っている幼い頃の写真が思い浮かぶ。
 写真の中で三佳を抱いていた父親の記憶はほとんど無い。矢矧とはあの後会ってない。恵とは一度だけ会った。でも連絡先も知らない。今、どうしているのかも知らない。また会えるのかも解らない。
 彼らとの別れなんて無かった。ある日、突然、離ればなれになった。
(別れ方なんて知らない)
(上手な別れ方なんて……)
 ドアの向こうで峰倉の足音が遠ざかっていった。
 そしてもう一度ドアが鳴った。
「…三佳」
「!」





  *

 司が軽くドアを叩くと、その向こうで反応があった。
 ノックしたその音の響き方で、三佳が内側から体重を掛けているのが判る。背中を預けている、もしくは座っているのかもしれない。
 名前を呼んでも返る言葉は無かった。
 無理にドアを開けて三佳と対峙しても、先日と同じ、話は進展せず三佳を苦しめるだけだろう。今日、司は峰倉家に来たものの、三佳と会える可能性は低いと判っていた。それほど大きくない失望感を味わいながら、そっと息を吐いた。
 やっぱり開けてくれる気は無さそうなので、司はその場に腰を下ろした。三佳と同じように、ドアに背を預けて。
 司からすれば、三佳が目の前にいようが、板一枚向こうにいようが、あまり変わりは無い。周囲のノイズが無ければ息遣いも聞ける。声を聞けばその裏にある感情も解る。
 ただ、触れられないことが少しだけ残念だった。
「三佳」
「……ごめん、顔、合わせたくない」
 ドアの向こう側から、思ったよりしっかりした声が返る。
「うん、いいよ。このまま少し話を聞いてくれれば」
 肯定の沈黙があった。
 さて話し始めようとしたところで、司は小さく笑ってしまった。
 三佳に何を言おうと散々考えてきたはずなのに、いざ口を開こうとすると何も浮かばない。いや、聞いてもらいたいことは沢山あるのに、それらをいつものように順序立てることができなかった。
「そうそう。最近、ようやく自覚したんだけど、僕は嫉妬してたらしいんだ。史緒と篤志に」
 結局、思いついた断片的なことを、それを口にすべきか考える前に声にしてしまう。今、口をついて出たことは、三佳とはまったく関係の無い司個人の感情についてだったけど、それでいいか、と思う。
 三佳になにか伝えることができるのは、これが最後かもしれないから。
「…嫉妬?」
「史緒と篤志は、多くの問題を抱えながらもうまくいった家族だから。僕の家族はそれができなかったから。
 見えなくなって、親に裏切られたと思ってるところに、あの櫻と同居、その後は流花さんからは周囲を疑うことばかり教えられて…───僕のこういう性格が形成されるには十分な環境だよね。もし蘭がいなかったら、もっと酷いことになってたな」
「……蘭?」
「前にも言ったけど、僕は蓮家の他の兄姉にいろいろ教わった。楽器やゲーム、ちょっとした護身術みたいなものも。それと同じように、蘭からは“信頼できる人間もいるんだ”って教わったよ。蘭はそんなの意識してないだろうけど。
 彼女は嘘を吐かない、家族に愛されてるから周囲に気持ちを与える方法を知ってる。そうすることで生まれる信頼関係、絆。僕に蘭の真似はできない。でも、そういう人間関係があるって教えられた」
 言葉にすると気持ちを整理できる。
 思っていること、考えていることを並べ、時にはぶちまけて、ひとつの結論を出す。
 心の中で考えている間は修正が利く。いくらでも言い訳ができる。けれど言葉という形にしてしまったら、それを踏まえずにその先を考えることはできない。
 両親のことを口にしたくなかったのは、整理したくなかったからかもしれない。認めたくなかった、片づけてしまいたくなかったからだ。
「史緒と篤志と仕事を始めたものの、最初、僕はあの2人と長くやっていくつもりはなかったんだ。そのうち離れるつもりだった。
 ───あの頃、僕は疲れていたんだと思う。その前後に何かあったわけじゃなくて、なんていうか、長く蓄積されてしまった疲労。体がだるくて重くて、一人でいるとき急に涙が出てきたりして不思議だったけど、それもたぶん、疲れていたから。…周囲を疑うことに。無意識に休み無く警戒していることに。いろいろ、磨り減ってたんだと思う」
 今、振りかえることで初めて解ることがある。当時は自覚できなかった体の悲鳴。その原因。
「そんなとき、初対面の女の子に大声で泣かれて、ごちゃごちゃしていたものがいろいろ吹き飛ばされたっていうか」
「…、───えっ?」
 部屋の中から聞こえた調子の外れた三佳の声に、司は堪えきれずに笑ってしまった。
「感動、って言葉は変かな。でも、疲労で倒れそうになってるとき、ひん曲がってた性根にまっすぐな感情を正面から当てられて、すごいショックを受けたよ。そう、やっぱり、吹き飛ばされたって感じだったな」
 蘭と初めて会ったときも同じようだった。阿達兄妹との生活でくたびれているときに。
 あの頃、司自身も幼かったのに、まっすぐな気持ちを当てられただけで感動するなんて。

 三佳に会ったとき、夕暮れの風の中へ泣き声が空に吸い込まれていくようだった。
 つられて泣いてしまいそうだった。
「僕も、三佳と離れて平気なわけじゃないよ」
 三佳は子供だ、なんて言っておきながら、その子供に頼り切ってたのは、まだ子供である司のほうだった。
 初夏、街中で櫻に声を掛けられたとき、両親のことを考えたときも、思わず三佳の手を捜してしまった。三佳の手に触れることで安心できると知っていた。
 良き相談相手。三佳の目を通して視る世界。隣りを歩いた、楽しかった日々。
 今日から、もうあの手のひらを握れない。
 いつからか、三佳に甘えていたのは司のほうだった。
「僕は君に、すごく、すごく助けられてた。救われていた。守られていた。三佳の手を必要としていたのは、僕のほうだよ」


 ドアの向こうから言葉は返らない。
「ねぇ。どうしても出てきてくれない?」
 やはり反応は無かった。しょうがないとは思う。
「残念」
 三佳を責めないよう苦笑して、司は立ち上がる。
「行くね」
 そっとドアに手のひらを当て、その向こう側へ、最後の言葉を口にした。
「本当に、───ありがとう。三佳」







05

『ハル! 今日はどこか出掛けるの? 誰と会うの? 何時頃帰る? このあいだみたいのは、もうヤだからね!』
 朝からノエルがしつこくまとわりついてきていて、櫻はいいかげんうんざりしている。ノエルはもう仕事に出掛けるところだ。それでも時間に余裕があるのか、ドアの横で待つマーサは櫻が困っているのを見てニヤニヤしていた。
『二度と、怪我なんかしてこないでねっ。もぅ! ここって治安がいいんじゃないの? いい? ハル。からまれそうになったら逃げるんだよ?』
 数日前、頬を腫らして帰った日から、ノエルは毎朝これだ。頬を腫らしてきた理由について櫻が口を噤んでいると、行きずりに絡まれたと勘違いしたらしい。
『だって、ハル、ぜったい喧嘩しても勝てないじゃん!』
『そうよねぇ。用心棒にもならないなら、ノエルと居させる意味は半減よね』
『マーサっ! 変なこと言わないで!』
『わかったから、さっさと仕事に行ってこい』
『ハル、危ないことはやめてね? 今度、ハルに暴力ふるったヤツに会ったら、あたしがとっちめてやるから!』
 それこそ勘弁してもらいたい。
 もう面倒くさくなって、櫻はノエルの肩をマーサのほうへ押しやった。
『今日は部屋で大人しくしてるから。心配しなくていい』
『ほんと? じゃあ、早く帰るようにするね』
 ノエルは飛び跳ねるように櫻の頬にキスする。屈んでそれを返して、上機嫌になったノエルを見送った。
 ぱたん。ドアが閉まり急に辺りが静まった。櫻は部屋の中に戻り、新聞を手にして椅子に座る。ふぅ、と息を吐いたとき───携帯電話が鳴った。
「……」
 タイミングからしてノエルとマーサでは無い。そのとおり、記憶に無い番号が表示されていた。
 少し前までこのナンバーを知る者はごく少数だった。それなのに、ここひと月の間に多くの人間にばらまかれてしまい、最近はなにかと騒がしい。大方、今回もそのうちの一人だろうと、櫻は通話ボタンを押した。
「だれ? ───……あぁ」
 返ったのは意外な人物の名前だった。その深刻そうな声から、無駄な質問はやめた。わざと嫌みを言ってやるような相手でもない。
「用件は?」
 話の内容は端的で相手の説明手順になんの問題は無かったが、それでも通話を終えるまでに3分かかった。しかし通話の途中で、櫻は動き始めていた。これからの行動を頭の中で組み立てながら出掛ける支度をし、部屋を出るとき、ちょうど通話を終えた。
「今どこ? ───いいだろう。1時間後に駅前で。着いたら連絡する」





*  *  *

 朝、司は朝食を摂ったあと、ホテルをチェックアウトしてすぐに空港へ向かった。荷物はすでに送ってあるので、手持ちは小型の旅行カバンひとつと杖にサングラス、それだけ。
 天気は快晴。離着陸をする旅客機の音が空によく響いていた。
 司はバスから降りると第一ターミナル内の案内カウンターへ向かった。そこで付き添え人をつけてもらえたので、まず搭乗券を手に入れる。それからチェックインカウンターのアルファベットの確認と、そこから搭乗ゲートまでの経路を簡単に説明してもらった。
 丁寧にお礼を言って別れる。時間には余裕があった。司はもう一度、搭乗ゲートまでの経路を頭の中で確認してから踵を返し、人の流れの中を歩き始めた。
 初めて空港に来たときも感じたように、どこかで大きな機械が動いている音がする。たとえ意識しても普通の聴覚では捉えづらい音だ。それでも司にははっきりと聞こえる。初めて空港に来たとき───不安を抱えて蓮家に向かったとき、あの頃はまだ余計な雑音を排除するすべを知らなかったので、耳を塞ぐほどの大きな音に驚いたものだ。
 あのときと同じ場所に立ち、あのときと同じ場所へ向かう。
(今回もまた流花さんに泣かされるのかな)
 あり得ないとは言い切れない未来に笑う。そんなことを考えているうちに待ち合わせていた南ウィング4階に着き、見送りに来た史緒と落ち合った。


 昨日まで他のみんなも来ると言い張っていたが、「そういうの苦手だから」「そもそも学校があるだろ」と司が説得して、代表で史緒一人が来ることに収まった。
 その史緒が簡単な挨拶といくつかの伝言のあと、気まずそうに言った。
「三佳、捕まらなかったわ」
「そう」
「…いいの?」
「よくはないけど、ぎりぎりまで言わなかった僕の責任でもあるし」
「でも」
「それより───史緒に訊きたいことがあったんだ」
 史緒と三佳の話をするつもりはない。強引に話題を変えても史緒に気を悪くした様子はなかった。
「…なぁに?」
「僕が阿達の家に引き取られた後、すぐ、蓮家に連れて行かれたこと。あれって、史緒が手を回したの?」
「知ってたの?」
「まぁね」
「余計なことだった?」
「まさか。あのまま君たち兄妹と一緒にいたほうが地獄だったよ」
「サラっと言わないで」
 苦々しい棘のある声が返る。
「だから、感謝してるんだよ。ありがとう」
「………喜んでいいのかしら」
「もちろん」
 心からのお礼を言っているのに史緒は釈然としない様子だった。

「ここに、帰ってきてくれる?」
 しばらく迷っていたと思ったら史緒はそんなことを訊いた。
 今回、この質問は初めてだった。
 他の仲間にとってはそれは当たり前の事で、確認するまでも無かったのだろう。逆に、三佳は考えすぎて、気を回しすぎて訊けなかったようだ。史緒は考えた末、確認せずにいられなかったらしい。
 司は苦笑する。
「今のところ、そのつもり」
「今のところって…」
「史緒こそ、無責任にそんなこと言っていいわけ? 僕がもし見えるようになったら、今持っている能力の大半は捨てることになる。それでも雇ってくれるの?」
「大半を捨てたって、ただで帰ってくるとは思えないけど」
「はは。───あぁ、でも、数年後にA.CO.があるかのほうを心配すべきかな」
「言ってくれるじゃない」
「これからどうするの? 篤志はそのうち離れるんだろ?」
「それは桐生院さんとも相談中なの。人数が減るし、仕事を縮小することにはなりそう」
 困ったわね、と史緒はわざとらしく溜め息を吐いた。
「いつまでやっていく気?」
「私だって、将来を不安に思わないわけじゃないのよ」
 そう言いながらも史緒の声はどこか楽しそうだった。
「健太郎はどうだか知らないけど、蘭は目指してる職業があるし。三佳だって、うちで大人しくしてるとは限らない。いざとなったら、事務所をたたむことだってあるかも」
「そうなったら、史緒はどうする?」
「あまり考えたくないけど、そのときに私の経験不足が痛くなるのよね。学歴もないに等しいし。───真琴くんや文隆さんのとこ、雇ってくれないかしら。だめね、彼らも甘くはないわ」
 わざとなのか、まったく念頭にないのか。そこで父親の名が出てこないのは史緒らしい。
「でもどうにかなるわ」
 史緒の科白とは思えない根拠の無い曖昧な未来予測。それでも自信があるのか強く明るい声だった。

 史緒と出会ってから9年。
 同じ家に住み始め、最初はお世辞にも仲がよいとは言えない関係だった。史緒は無関心、司はまともに喋ることもできない史緒に苛ついてばかり。それなのに、結局は今日まで顔を合わせていた。
 そのあいだに2人とも変わり、たくさんの人と知り合い、関わり合ってきた。まさかこんな長い間史緒と一緒にいるとは、当時の司は考えもしなかっただろう。
 関わった多くのものと別れ旅立つ今日が来るとは、想像もしなかっただろう。
「そろそろ行くよ」
「……元気でね」
「そっちも」
 踵を返した司は、一歩を踏み出す前に、少し迷って振り返った。
「三佳のこと頼む」
「わかってる」
 覚悟を含んだ軽くない声で即答される。司が気に掛けていることはとうに見抜かれていたらしい。
「ありがとう。…じゃあ、さよなら」
 司は軽く手を振って、史緒に背を向けた。
 もう振りかえるつもりはなかった。





 ひとり、人混みの中を歩き始めると、どうしようもない感傷に襲われた。
 こんなに沢山の人の中にいるというのに、ちりちりと胸が掠れる孤独感。その奥に微かに込み上げるものがあった。
 司は小さく笑う。
(ここを離れることに未練が?)
(そりゃあるよ。今更考えることでもない)
(散々悩んだ結果の行動だ)
 そもそも、どうしてこの道を選んだか。
 もちろん、見えるようになるならいい。
 でも、それを後押ししたのは───。

 遠い日の記憶。
 今も耳に残る、女の子の大きな泣き声を思い出す。
 ──ねぇ。どうして泣くの?
 ──きれいだから
 ──きれい、って、なにが?
 6月の夕陽が横顔を焼く、屋上の上、さらわれてしまいそうな強い風の中で。
「今、見た、世界」

(あぁ…───)
 それはどうやっても司には分かり得ない感覚だった。
 この世界で見えなくてもどうにかなると自信を持っていた司はショックを受けた。見えないことは確かに納得していたはずなのに、改めてそれを思い知らされただけのはずなのに、強く胸を打たれた。
 ショックを受けたのはそれだけじゃない。
(きれい、という理由で泣けるんだ)
 もし司が同じ景色を見たとしても、同じように泣ける感受性は無いだろう。きれいだと感じられても、大声で泣くような感情表現はできない。でも。
 三佳は「世界」を見て泣いた。司はその三佳から、揺さぶられるほどの感動を与えられていた。

 今回の検査と手術に、100パーセントの保証は無い。
 ダメだった場合の絶望を味わうことになるかもしれない。
 誰でもなにかに挑戦するなら結果を期待したい。
 でも司の今までの経験が予防線を張るのは仕方のないことだった。
 期待しすぎない。
 結果が欲しいわけじゃない。
 努力してみたいだけ。後悔しないために。
 あの日の三佳に近づくために。



「───」

 ふと、司は人混みの中で足を止めた。
 引かれるようになにかを感じて、振りかえる。
 とくに変化の無い雑踏。気になる音も無い。
 でも、人を前にして、聴くのは声だけでないことは当たり前のように知っている。
 この多くの人の中でも。

 そこにいるはずないと思いながらも、司は呟いた。
「───三佳?」





* * *

 史緒は空港の展望デッキに上った。司が乗る便のフライトまでは時間がある。そのあいだ、景色の良い場所で休むつもりだった。
 エレベータから出ると広い視界に青い空が広がる。普段、建物だらけの街中で生活しているので、視力が捉えるもののギャップに目が眩んだ。窓に近づくと滑走路と旅客機が見える。さらにそばに寄ろうとしたとき───
「……えっ?」
 ふと目が合ってしまった人物、それが誰か気付き、史緒は声を上げてしまった。目を瞠り、口を開けて呆けてしまうほど驚いた。
「櫻…っ?」
 展望デッキの端にある喫煙所から出てきた痩せ形の男、櫻だ。史緒の声で向こうも気付いたらしく、どうでもよさそうに声を返す。
「よぉ」
「な…、なんでここにいるのっ?」
 史緒は狼狽えながらも櫻の出国予定を思い出した。
「…ノエルさんの仕事は確か来月まででしょ?」
「あぁ」
 櫻の反応はいちいち素っ気ないが無視するつもりは無いようだ。
 あれから史緒と櫻の関係はあまり変わっていない。険悪になることも無ければ世間話をするようなことも無い。父親に呼ばれた席で顔を合わせても、篤志が取り持っても、事務的なやりとりをするだけだ。そういえば、父親も篤志もいない場所で櫻と会うことなど無かった。
 それがまさかこんな場所で鉢合わせするとは。
「…司の見送りなんて言わないでね」
「あたりまえだ」
「じゃあ…」
 櫻は肩をすくめて息を吐く。
「この俺を(アシ)に使うとはね。大物になるよ、あのお嬢さんは」
「お嬢さんって…?、───ぁ」
 史緒はつい振りかえってしまった。けれど、もう、フロアが違う。
 もう一度、櫻に視線を戻す。その表情はなにも教えてくれなかった。
(来たの…?)
 櫻がここまで連れてきたという“お嬢さん”、思い当たるのは一人しかいない。
 自然と笑みがこぼれた。
 ふたりは、会えただろうか。
「───って、え? まさか車で? 免許なんて持ってた?」
「昔な」
 ハルの名前で取ったのだろうか。いや、櫻は昔持っていた憶えがある。でもそれはとっくに失効しているはずだ。最近、政徳が「阿達櫻」についていろいろ手続きしていたので、その際に更新したのかもしれない。え、じゃあ、車は? と思ったのが読まれたらしく、
「レンタカーだよ。おまえも乗ってくか?」
「結構です」
 即答して顔をそむける。櫻だって史緒の返事は判っていただろうに。
 そのとき。
 前触れもなく櫻の手が伸びてきて、なんの躊躇いも力加減も無く───
「いたぁ!」
 史緒の長い髪を掴み、ひっぱった。
 場所もわきまえず史緒は大きな悲鳴をあげた。だって、本当に痛かった。
「……っ」
 頭を抱えて痛みをやり過ごした後、顔を上げて櫻を睨みつける。
「なに…っ?」
「悪かったな」
 と、全く悪いと思ってない口調で櫻が言った。
「そう思ってるなら、やらないでっ」
「そうじゃなくて」
 と、櫻は言葉を句切る。でも表情は変わらず、関心の無さそうな目で。
「根性焼き」
「───…」
 その意味を掴み損ねて史緒は眉根を寄せる。5秒以上かかって、ようやくその単語が示すものに気付いた。
「…今更なに?」
 嫌悪感は無い。ただ櫻からの突然の謝罪に驚く。
「関谷に殴られたから」
「篤志?」
 無意識に首筋に手を当てて史緒は首を傾げる。篤志に知られた憶えはなかった。
(…え、殴られた!?)
 史緒の知らないところでこの2人はなにをやってるのだろう。
「じゃあな。島田さんはちゃんと送り届けるよ」
 と、櫻は背を向けてしまう。なにがなんだか判らない史緒は歩き出す櫻にどうにか声を返した。
「ええと…、私はもう気にしてないから」
 櫻は背中ごしに軽く手を振っていた。





* * *

「───三佳?」

「…っ」
 名前を呼ばれて、三佳は息を詰まらせた。心臓が飛び出そうなくらい驚き、目を瞠る。
 だって、ここは硬い床の上。大勢が行き交う足音と声、うるさいほどの雑音が占める空間。
 その中で、三佳はまだ一言も喋っていなかったのに。声を掛けるための息さえ吸っていなかったのに。2人の間には2メートルの距離があったのに。
 それなのに司は振り返り、ちゃんと、三佳の目の高さを捉え、どこか安心したようにふわりと笑う。
「三佳」
 疑問や呟きじゃない。意図をもって呼ばれた名前。
「…どうしてわかった?」
 返した声は小さく震えてしまったけど、驚きを多く含む声になった。司は苦笑する。これだけ長く一緒にいたのに、まだそれを訊くのか? とでも言うように。
「わかるよ。一番良く知ってる気配だ」
「───」
 2人の周囲を大勢の他人が通り過ぎていく。
 三佳が司を見つけることができたのは数分前。そのさらに15分前に櫻と別行動をとって、三佳コンコースの中を捜し回っていた。息が上がっていた。
「……」
 呼吸だけを繰り返して、声が出てこない。せっかくここまで来たのに。
 ただ、会えて良かったと思う。
 昨夜はドア越しの会話。その前は屋上の暗がりで。
 こんな風に正面から顔を合わせたのは、月曜館で、今日の別れを知らされた日以来だ。
 今日からずっと会えなくなる。───今日、会えて良かった。
 ここでなにを伝えられるのか、この先どうなるかも分からない。
 それでも、今日、こうして会えて良かった。

 三佳は喋る言葉に迷っている。そのあいだ司はやわらかい笑みを浮かべて、なにも言わずに待っていてくれた。
「あの…っ、ごめん。逃げてて」
「うん。どうしようかと思った」
 おだやかな声が返る。
「司と会えなくなること、納得するのが難しかったからずっと逃げてたけど」
「うん」
「……行かないで欲しいわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、離れるのが嫌だった」
「うん」
「変なこと言ってるけど、ほんとに、引き止めたいわけじゃない、…でも司がいないなんて、やっぱり想像できないから」
「うん」
 司の笑顔は揺るがない。むしろ嬉しそう。そのことがくやしい。
「……」
 煩わしく思ってない? 重荷に感じてない? まだ言ってもいい?
「ありがとう」
「ん?」
「私も、司に助けられてた。外のことをなにも知らなかった私にたくさん教えてくれて、話を聞いてくれて、…ありがとう。一緒にいられて、楽しかった」
「僕も、同じだよ」
「…っ」
 司につられて三佳も笑う。けど、涙がこぼれてしまった。
 泣くことでなにかが改善するわけじゃない。うまく喋れなくなる。デメリットのほうが圧倒的に多いはずなのに、どうして意志に反して、涙が出るのだろう。
「……離れてしまうこと、淋しい?」
「淋しいよ。三佳は違う?」
「私は…、本当はそう思うのが普通なんだろうけど、私は、怖い。司がいない生活に慣れてしまうこと、今まで過ごした時間を忘れてしまうこと、司のことを忘れちゃうことも」
 かつて父親のことを意識さえしなかったように。父親の言葉を忘れて、無責任に仕事を楽しんでいたように。
 残酷な時間の流れに今までの大切な時間が埋もれてしまうのが怖い。
「もし次に会えたとき、司が“ありがとう”って言ってくれた自分じゃなくなっていることも怖い。───ごめん、これは私の問題で、司に言ってもしょうがないのに」
 三佳が俯いてしまうと、司はゆっくりと歩み寄り、三佳の前に腰を下ろした。
 すぐそばにある顔が笑った。
「成長するのが怖いなんて、三佳の泣き言とは思えないな」
「…?」
「別に僕のこと忘れてもいいよ。三佳が変わったっていいじゃない。そんなことで嫌いになったりしない。この世界のどこかで、三佳が三佳らしくいてくれる限りはね」
「……それだけ?」
「それだけ」
 司は大きく頷いた。
「そうだ。僕にも、三佳と同じように怖いことがあるよ」
「なに?」
「僕が怖いのは、自分が(くじ)けてしまうこと」
「…?」
「これから、検査続きの毎日が嫌になるかもしれない。リハビリが辛くて投げ出すかもしれない。たとえ見えるようになったって、聴覚や嗅覚が衰えていくことに絶望するかも、そこから立ち直れないかもしれない。自分のためだけ(、、)にそれらと立ち向かうのは難しいから」

「僕にはここで待つ家族もいない。アパートも引き払ったし、帰る場所は無いと思ってる。身軽だし、気楽でいいけど、錨が無いぶん不安定でもある。長く住んでいたここを離れてやっていける自信なんて、本当は全然無いんだ。───でも、ここで、三佳っていう家族ががんばってるんだって思うと、僕もがんばれるよ」
「私が、私らしくいれば?」
「そう」
「私が、…司の家族?」
「僕が勝手にそう思ってるってこと。三佳のお父さんの代わりにはなれないけどね」
 今まで、司と三佳の関係はいろいろな形で表されてきた。
 仲間、友達、親友、相棒。「彼氏」「彼女」と呼ぶ人もいたけど2人はとくにそれを訂正しなかった。ずっと前に「いいじゃない、端からそう見えるなら言わせておけば。僕は悪い気はしないよ」と言った司は単に周囲をからかいたかったようだけど。
(家族?)
 ずっと一緒にいるわけじゃない。約束があるわけじゃない。離れてしまうこともある。でも帰れる場所。拠り所。
 親子や兄妹ではなく、家族。
 意外にもすんなりと三佳はそれに納得にしてしまった。

 ずっとそばにいた家族、司がいなくなる。今までのように一緒にいられない。
 それなら、自分はここでなにをする? 無為に時間を過ごすのか?
 なにをすべき?
「私、学校行く」
「え?」
「今、決めた。ここで、ちゃんと、私がやるべきことをして、自分のことを考える。学校に行ったって、すぐにはうまくやれないだろうけど、他の人が普通にやってること、このままじゃできないから」
 一気に言ってしまった後に不安がやってきた。司がいないことに加えてハードルがぐっと高くなった。
 でも、こうやって覚悟を決められるのは今しかない。
「じゃあ、次に会えたら、三佳は中学生か高校生かもしれないんだ」
「そう。中も外も成長するから、会っても気付かないかもな」
 三佳は茶化して言ったつもりなのに、
「わかるよ」
 司は腹が立つほどの自信をもって答える。
「絶対、わかる」


(今の気持ちを忘れずに帰れたらいいのに)
 司は念じるように叫んだ。
 また、ここに戻りたいと思う。でも未来がどうなるか分からない。状況が変わるかもしれない。自分の心が変わるかもしれない。
 結局は、忘れるのが怖いと言った三佳と同じだ。
「…もし見えるようになったら」
「え?」
「光を見るようになった僕は絶対変化がある。変わらないわけない。…それでも、また一緒にいてくれる?」
 自分でも信じられないほど弱気な言葉が出た。しかも傲慢な問いかけ。「見えるようになったら」という仮定も嫌だ。嫌悪する。後悔しても声になってしまったら戻しようがない。三佳を縛る約束はしたくないのに。
「ごめん、今のは」
 と言い繕うとしたとき、三佳は芝居がかった調子で、
「変わった後の司も同じことを言ってくれるとは限らないな」
 と、わざと突き放すように言った。
 一本取られたようだ。司は笑うことができた。
「そうだった。───じゃあ、ひとつだけ」
「なに?」
「また会おう。未来がどうなっていても、それだけは約束する」
 簡単だけど、一番大事なこと。
「帰ったらすぐに三佳のところへ行く。次はどう付き合っていけるか、そのとき話し合おう」
 その先、一緒にいられるかはわからない。全然違う2人になってるかもしれない。この約束さえ、どうでもよくなってしまうかも。
 でも、また会う未来までの自分を支えるものだ。
「うん、わかった!」
 三佳は大きく頷いた。
「じゃあ、約束」

 そう言って、司は三佳に手を差し伸べた。

 一瞬迷ってしまったけど、三佳は、今度は素直に司の手を取った。
 体温が伝わる。大きさの違う手。
 今、確かに触れている手を握り合う。
 見えないとわかっていても、三佳は笑顔を向けた。
 それに応えるように司も笑う。
「また会おう」






49話「いたずらの行方 後編」[2]  END
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