49話[2]/50話/目次
50話「未来」


[all]
すべての過去は現在(いま)へ繋がり
現在(いま)はあらゆる未来へ繋がる




■5月

 調査・仲介・相談を手掛けるA.CO.──。
 一時期に比べ活動を縮小したと言っても、設立から7年、現在も精力的に営業中である。その月日の移り変わりと共に、手がける仕事の分野にも多少の変化があった。取り扱いをやめた仕事があり、そのせいで離れていった客もある。けれど、一方で、新しく開拓した仕事と、そこに食いついた顧客も取り入れて、小規模ながら安定した活動を続けていた。


 その事務所を支えているうちの一人、所長である阿達史緒、23歳。
 日当たりの良い室内に、彼女は今ひとりだった。
「桐生院さん…、そういう面倒なものばかり、こちらに回すのやめて貰えませんか」
 受話器に向かって苦い声を出す。
 ショートの髪から覗く赤いイヤリング、首にスカーフを巻くのが史緒のいつものスタイルだった。
 今は他に誰もいないので、繕うことなく不満を口にすることができた。
「仕事を選べるようになったなんて、あなたも出世したわね」
「真琴くんや文隆さんのところも、この時期なら動ける人いるじゃないですか」
「私に文句を言う前に、あの2人に泣きついてもいいのよ? 自惚れないで欲しいのだけど、あなたにばかり面倒なのを回してるわけじゃないわ。適正を見て依頼しているんですからね」
「……それは、解ってます、けど」
 A.CO.が受ける依頼のうち、桐生院由眞を通してくるのは今でも3割は越す。しかも安定した重要な受け口だ。それをないがしろにはできない。
 史緒は電話を切ってから頭を抱えたが事態は変わらない。そのうち依頼書が送られてくるだろう。
 A.CO.での史緒の仕事は、事務全般と外部機関との交渉、営業がメインとなる。人手が無いので自ら現場に出ることもよくある。A.CO.そのものは業界の端の端、本当に小さな事務所であるが、警察や裏の組織に顔が利く阿達史緒の名は少しばかり有名だった。それを自覚することもひけらかすこともなく、史緒は着実に、ときに大胆に、毎日仕事をこなしている。


 こんこん
 ドアが鳴って、すぐに開いた。三高祥子が顔を出す。
「こっち終わりましたー」
 その声に史緒は顔を上げて応えた。
「おつかれさま。もう帰られたの?」
「うん、下まで送ってきたところ」
「さっきの方はもう5回目くらい? 状況はどう?」
「悪くはなってない、と思う。最初の頃よりずいぶん喋ってくれるようになったし」
 と、小さく笑う祥子は分厚いファイルを抱えて室内に入ってきた。
 祥子はさっきまで奥の部屋で客と話をしていた。
 はっきりと謳ってはいないけれど、A.CO.の仕事のひとつ──「相談、承ります」。
 これは祥子の専任、単独で行っている仕事だった。
 “はっきり謳っていない”理由は「相談」の種類を示せないから──祥子の能力で対応できるか一概には決められないからだ。
 最初は、仕事ではなく、単に客との雑談から始まった。それがどういうわけか口コミで少しずつ、祥子を指名する客が増えていった。評判と同時にどういう種類の相談が効いたかも伝わっているので、おのずと集まるのは祥子の能力を必要としている客だ。
 祥子は具体的な己の能力を隠しつつ、依頼人の話を聞く。意見したり、遠回しに助言したりもする。依頼人の自覚が無い悩みを指摘することもあった。問題が複雑になったときは直接出向いて、依頼人とその問題に取り組むこともあった。
 この仕事に関しては史緒はノータッチで、データは祥子に管理させているし、依頼内容も尋ねない。
 祥子は資格を持っているわけではないので、この仕事に関しては、たまに足を使うときに経費だけもらって、あとは志程度の相談料を受け取っている。それも全部史緒が吸い上げて、祥子の給料に加味してるという具合だった。
 他にも、史緒が懇意にしてる警察に協力したり、調査のため外に出ることもあり、史緒の仕事を手伝うこともある。それが祥子の仕事だった。
「後でパソコン使わせて。30分くらいで済むから」
「こっちはすぐ出掛けるから、ちょっと待ってて。ついでに留守番もお願い」
「はいはい」


 こんこん
「史緒っ!」
 ノックの後、勢いよくドアを開けたのは木崎健太郎、本分は勉学の大学院生。バイクで来たのだろう、ヘルメットを片手に掴んでいた。
「桟宮さんに言ってくれよ。あんたの仕事にオレを貸す気は無いって!」
 怒っているのか疲れているのか判らない様子で訴える健太郎に史緒は気のない返事をした。
「はぁ…。また手伝いに行ってたの?」
「脅されてんだよ! 下っ端の自覚が足りないとか、断ったら史緒の立場が悪くなるとか、大学に置いてる俺のデータ壊すとか──あのおっさんじゃ冗談にならねぇ…」
「立場云々はともかく…。私は桟宮さんからはなにも聞いてないわよ? 仕事としても請けてないし」
「えっ! あのヤロ…っ、やっぱ吹かしかっ」
「まぁまぁ。桟宮さんも上から無理難題押し付けられて大変なのよ」
「おっさんの肩持つのか?」
「そういうわけじゃ…。まりえさんも巻き込まれてるの?」
「あの人が御園さんのため以外に動くわけないだろ」
「…そうね」
「待て、史緒を通してないってことは金出ないの? オレ、ただ働き?」
「そのへんは桟宮さんに聞いて、交渉してみるから、落ち着いて。──それに、ケンが今日までお金のことを口にしなかったのは、それなりの対価があったからでしょ? 桟宮さん、ケンに怪しいこと教え込んで楽しんでるようだし?」
「うっ」


「こんちゃーっす!」
 大きなカバンでドアを押さえるように入ってきたのは川口蘭。21歳でこちらも大学生。ジャマにならないよう、カバンを端に置いて、みんな集まっている史緒のほうへ歩み寄る。
「あれ、ケンさん、はやーい。あたしのほうがぜったい先だと思ってたのに。さっきメールしたとき、まだ新宿だって」
「もうこっちに向かってるとこだったんだよ。道も空いてたし」
「ちぇー」
 ふくれっ面を隠さず、蘭はわざとらしく肩で息を付き腕を組んだ。でもすぐにその腕を外し、ぽんと手を叩く。
「そうだ、史緒さん。さっき宗さんのトコ行ってきたんです」
「うん?」
「このあいだの依頼の件、相談してきたんですけど、裁判になっても手間の割に旨みは無いだろうって」
「──そう」
「詳しい資料を渡せば弁護士を捜してくれるって仰ってましたけど、どうかなーって思って、保留にしてます」
「そうね」
「…あっ」
 何か思い出したように蘭は自分の荷物に駆け寄り、分厚いファイルを取り出した。それを持って戻ってきて史緒に差し出す。
「あのね、過去の事例にこんなのがあるの。学校でコピーしてきたから、後で読んで貰えます?」
「ありがとう。3日以内にまた話ができると思うわ」
「はーい」
 そこで、いつのまにか奥に引っ込んでいた祥子が人数分のお茶を淹れて戻ってきた。すぐに出掛けると言った史緒に気を遣ったのか、史緒の前に置かれたのは小さめのグラスだ。健太郎と蘭もそれぞれ礼を言って受け取り、口に付ける。
「わーい、喉乾いてたの。ありがとうございまーす」
「どういたしまして」
「そ−だっ、祥子さん」
「ん?」
「来月の」
「うん」
「篤志さんと、あと、和くんも来られるって」
「あ、ほんと?」
「蘭、篤志と会ったのか?」
「いいえ、昨夜、電話で。和くんのも、篤志さん経由で聞きました」
「ありがとね。これで、大体、まとまったかな」
「楽しみですね」
 手を叩いてはしゃぐ蘭に、祥子は素直に笑顔を返した。次にふと思いついてにやりと笑う。
「良かったじゃない、史緒。最近、会ってなかったんでしょ?」
 祥子からの冷やかしに史緒はとくに表情を変えず、
「来月に控えながらも同じ科白を返さなきゃいけない祥子に同情するわ」
 と、わざとらしく息を吐く。
「……っ、ちが…、明後日、帰ってくるし」
 結局、やり返されたのは祥子のほうだった。
 そのとき電話が鳴った。
 いつものように手を伸ばして、史緒は受話器を取り、声を改める。
「はい、A.CO.です。…───あら、お久しぶり。───えぇ、今は学校。O駅の……すぐ近くだから、行けば判ると思うわ。時間もちょうどいいし。うん、じゃあ、また」
 わずか20秒ほどで通話は終了。けれど、その間の史緒の表情の小さな変化、そして、それとは比べようもなく大きな何かを感じ取って祥子は訊ねる。
「誰から?」
 史緒はくすぐったそうに笑って、
「みんな、今日、時間ある? できれば夜は空けておいて欲しいの。私はこれから出かけるけど、6時までには戻るから」
 そう言って席を立った。






*  *  *

 HR(ホームルーム)終了を知らせるチャイムは、他の時間のそれとはひと味違う。廊下や昇降口に満ちる足音や喧噪も軽やかで、その日の授業から解放され肩の荷が降りた故の開放感がある。
 今はテスト前なので少しの重さが残っているけど、それでもやっぱり放課後の空気はそれ以外の時間とは違う賑わいがあった。
 高等部1年の教室に島田三佳はいた。周囲が浮き足立って帰宅する中、窓際の席に着いたまま、難問を解くような顔でレポート用紙にシャーペンを走らせている。
 三佳は周囲の音が耳に入らないかのように集中していたが、教室内に響いた声に、さすがに手を止めた。
「ミカ! 帰るよっ」
 顔を上げると、廊下から手を振る姿があった。隣りのクラスの斉みすずだ。
「もう少し」
 短く返した後、手元に目を戻して10秒ほど文字を書き込む。そしてやっと席を立った。机に広げていたテキストとプリントをまとめてカバンに押し込む。レポート用紙は枚数を数えてちぎってホチキスでとめた。
「遅いっ」
 廊下に出て、肩を怒らせているみすずに謝る。
「今日、ミカん家に行くんでしょ」
「現国のノート、持ってきてくれた?」
「ミカはそれさえなきゃ、アタシと肩並べるのにねぇ」
 放課後の廊下はなにかと騒がしい。方々で賑やかな声が飛び交う。
「みすずー、こないだの委員のプリント、どうなった?」
「あー、それはテスト後にして。どうせ来月の話でしょ」
「島田、帰るの? あんただけ遅れてた課題」
提出()してから帰る。面倒掛けて悪かったな」
「もー、毎回毎回、最後までねばるのやめなよ。少しは手を抜きなって」
「考えとく」
「みすず、また生徒会やらないの? 声掛かってるらしいじゃん」
「あんな無茶できるのは中学まで。やるとしたら反権力のほうね。おもしろそうじゃない」
「今度は一人でやってくれ」
「なに言ってんの、付き合わせるに決まってるでしょ」
「あんたたち、その会話、中学のときもやってなかった?」
 誰かが言って、周囲にいた結構な人数が笑った。胸を張っているみすずになにも言えなくなって、三佳は溜め息を吐いた。


 校門を出ると、駅へ向かう道に学生たちの波ができている。同じ制服の生徒がほとんどだが、しばらく歩いているといくつもの制服が入り混じる。近隣にはいくつかの学校があった。そのせいで歩道は学生で溢れ、少数の逆流する社会人などは歩き辛そうに足を運んでいた。
「なんか、今日、混んでない?」
「どこの学校もテストが近いからな。その上、金曜の放課後ならこんなもんだろ」
 三佳とみすずもその波の一部となって、いつものように喋りながら歩く。
「祥子さんのって、もう来月だよね。お祝品、なにがいいかな」
「悩むほど吟味しなくてもいいと思うけど」
「だめ。相手の一生に一度のことよ? 慎重に選ばなきゃ! それに楽しいじゃない、こういうのって」
「…あまり楽しそうに見えないけどな」
「悩んでるのはほんとなの! もう来月だってことに焦ってるの!」
 駅に近づくとすれ違う人影が多くなる。その隙間を抜けながら、みすずの声を聞く。
「そうだ、テストが終わったら玲於奈に付き合わせようかな。あいつ、妙に義理堅いとこあるし、ならわしみたいなことよく知ってるし。そういうところ、年寄りっぽいよね」
「あぁ、父親が厳しいからな、あれは」
「三佳も他人のこと言えないけどさ」
「なに、……、────」
 急に、歩道のど真ん中で三佳は足を止めた。

 なにかを感じた。
 みすずとの会話とは関係ない。まったく別の、なにか。
 その正体は解らないし、一体なにを感じたのかさえ判らない。
「どしたの?」
 急に立ち止まった三佳に倣い、みすずも立ち止まる。いや、なんでもない、と返そうとしたけど、体が動かなかった。
(…いま)
 今、なにか、近くに。
 なにか、知っているものとすれ違った。
 それを確認しようと思うより先に、背後から声がする。

「三佳」

(──!)
 その声は風になって耳まで届いたようだった。背中を押すような力があった。
 強く惹かれるように、いくつもの感情に掻き立てられるように、体が凍ってしまってうまく動かなかったけど、ぎこちなく、三佳は振り返った。

 男の人が立っていた。三佳と同じように、振り返った姿勢で。
 眼鏡の奥の目はまっすぐに三佳を見ていた。少しも視線を外さない。確かにその両眼は三佳を捉え、瞳に映し、そしてやわらかく笑う。
 知ってるけど、記憶と同じではない顔。
(……────)
 胸の中は騒がしくいくつもの思いが爆発してるのに、頭が働かない。三佳は呆けたまま、その男性を見つめ返した。
「ミカ?」
 すぐ隣りからのみすずの声は聞こえていたけど、思考にまで到達しなかった。

 胸が張り裂けそう。
 “彼”をこの目で見ている。その距離にいる。わずか5歩も踏み出せば触れられる。夢じゃない、その姿に。
 声を聞いた。ちゃんと、空気だけを震わせて耳に届いた。この場所で。声を出せば届く。その声に、きっと彼は笑ってくれるだろう。


「中も外も成長するから、4年後に会っても気付かないかもな」
「わかるよ。──絶対、わかる」



「ね? ちゃんとわかったよ」
 目の前に立つ彼──七瀬司は得意そうに言った。
 そうやって気負いも遠慮もなく、かつてと同じように喋るから、三佳は錯覚してしまいそうだった。
 この4年間、誰にも言わずにあった淋しさや切なさに悩まされたことが嘘ではないのかと。一晩の夢だったのではないのかと。
 それほどまでに、以前と変わらずに、その声が響いたから。
「あれ。忘れられちゃった?」
 三佳の反応が無いことに訝ったのか、三佳の記憶とは少し違う司の顔が首を傾げる。でもそう言いながらも、余裕のある表情。──判っているくせに。
 本当に、自信家なところも変わってない。
「……そんなわけあるか」
 ようやく発した声はかすれてしまい、小さく、たぶん届かなかったと思う。
 改めてなにか言おうとしたのに、体が震えて、おおきく震えて、うまく息を吸えなかった。
 鞄が足下に落ちる。でも拾えなかった。
 歯を食いしばっても遅い。あっという間に、司が見えなくなった。


 三佳は声をあげて泣いた。
 意味のない声のために喉を震わせて。涙を拭うこともせず棒立ちのまま。子供のように、ただ感情を吐き出すために。
 嬉しさも悲しさも無い。言葉で定義されたものじゃない。この体の中の大きな、収まりきらないくらい大きな、抱えきれないくらいたくさんの思いを、声というかたちで出すしかなかった。三佳は声をあげて泣き続けた。その声は通りに響いて、空にも吸い込まれた。
「三佳…」
 あわてて歩み寄った司が三佳の肩にそっと触れると、三佳は両手を伸ばし、司の胸に飛び込んだ。
「…ぅわっ」
 勢いがあったので司は尻餅をついた。三佳は司の背に腕を回したまま放さず、一緒に地面に落ちる。
「いてて…。無茶しないで、以前のような体格差じゃないんだから」
 聞いているのか、聞いていないのか、三佳は司の胸に顔を埋めて泣き続けていた。抱きついているというより、必死でしがみついているようだった。
 司は溜め息を吐きながら、胸の中にいる三佳の髪を撫でる。その顔を見せてもらえないことが少し不満だった。でもそれは、これからの時間の長さを思えば些細なことだ。
 ちゃんと、こうして触れられる場所に戻れた。
 ここへ帰ったのだから。





 さて。
 道の真ん中で地面に転がった男女を見る世間の目はやさしくない。
 それが同じ学校の生徒であるならなおさら。
「島田が男を押し倒した…っ」
「え? なになに? 薪女のコ?」
「誰か中等部行って、住吉呼んできなよ」
「どうしたの?」
「だれー? 泣いてるの……、って、うそっ、島田さんっ?」
 好奇の目をもって沸き立つ観衆。
「うっさい!」
 それを一喝したのはみすずだ。
 三佳と司をかばうように立ち、交通整理のごとく生徒たちを散らす。
「たむろしてないでさっさと行って。通行のジャマよ!」
 背後では、まだ三佳が声をあげている。みすずはそれを複雑な心境で聞いた。
 なんとなく、この場に留まるのは嫌だった。そうして、次の行動を決めた。
 みすずは三佳の鞄を拾い上げ、2人の足下に置く。それに気付いた男と目が合った。もちろん、初めて見る顔だ。でも、その名前は知っていた。
「七瀬さん?」
「そうだけど」
「ミカの家に寄ってくはずだったけど、今日はやめておきます。じゃあ、また」
 男がなにかを言い掛けたけどそれは無視して背を向ける。みすずは人溜まりを抜けて、駅へと早足で歩いた。
 携帯電話を取り出し、発信履歴の3件目にあった名前を呼び出す。
「今日、ヒマ? ちょっと付き合ってよ。どこか遊びに行きたい。──なによ、あんた、いつもテスト勉強なんかしないでしょ? このアタシが声掛けてるんだから、さっさと出てくるべき」
 ──なに、苛ついてんだ
「ば…っ、誰が苛ついてるって!?」
 ──三佳は? 一緒じゃないのか?
「取られた。──ううん、なんでもない。苛ついてないってば! ただ、なんか、……悔しいだけ」
 ──はぁ?
「なんでもない! いいから、出てきてよ。そうだ、買い物に付き合って。お礼はするからさ。──今、暴れたい気分なんだっ、よろしく!」






*  *  *

 同日、夜10時。
 月曜館の店先に、食事兼飲み会を終えて外に出てきたA.CO.の面々があった。
「うぉ、もうこんな時間か」
「三佳も来れば良かったのにね」
 先程まで店内で賑やかにしていた余韻を引きずって、夜の歩道でなんとなく会話が続いてしまう。
 今日、夕方、司が事務所に顔を出すと大騒ぎになり、そのまま月曜館に移動し飲み会に突入したというわけだった。途中、仕事を終えた篤志も合流し、4年ぶりに全員揃ったことを喜び合う。蘭が、事務所のロッカーにしまっておいたという昔の写真を引っ張り出してきて、懐かしい写真を見ながら盛り上がった。思い出話やそれぞれの現状を話しているうちに、結局、こんな時間になってしまった。
 ただ一人、三佳は来ていない。夕方、司と帰ってくると同時に部屋に篭もってしまった。
「酔っぱらいの相手はやだ、とか言ってたよ」
「テスト前らしいし」
「でも、せっかく司さんが帰ってきたのにー」
「司は今日どーすんの?」
「アパートの契約が決まるまでは史緒のとこにいるつもり」
「部屋は余ってるんだからそのままいてもいいのに」
「やだよ」
「……必要以上にきっぱり言わないで」
「おい、ケン。酒飲んだんだから、バイクはやめろよ」
「わーってます。こいつら送ってったら電車で帰るよ。バイク、屋根の下に入れといて」
「おぅ」
「そーなの、あたしは祥子さんちにお泊まりでーす。司さん、明日も写真持ってくるから、見てくださいねっ」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさーい」
「司ー、またなー」
 祥子の家へ向かう3人と、事務所へ向かう3人は手を振って別れ、夜の通りで解散となった。







 二次会というわけではないが、司と篤志はA.CO.の事務所で、机を挟んでお茶を飲んでいた。一緒に帰ってきた史緒は今は席を外している。篤志は事務所に寄る理由を酔い覚ましだと言ったが、史緒に話もあるようだった。
 司は蘭がくれたアルバムを広げて熱心に見ていた。
 写真の中には司自身もいる。けれど、その写真が見せる景色は、司が見ることができなかったものだ。髪が長い史緒、それから篤志。制服を着ている健太郎と蘭、もう少し遡った写真では祥子もそうだ。どれも、今より面立ちが若い。そして幼いとしか形容できない小柄な三佳。その隣りにいる自分。
 事務所や外の風景、その中に、あたりまえのように司も写っているのに、写っている自分は、写っている景色を見ることができなかった。
 見えなかった景色の中に自分が写っているのは不思議な感覚だった。
「おもしろいか?」
 と、篤志が覗き込んでくる。
 篤志は、今、仕事はアダチ一本らしい。だいぶ慣れたらしいが、梶に怒られたりもしているという。
 写真の感想を、司は少し迷ってから言った。
「眩暈がする」
「なんだそれ」
 真剣に答えたからか、篤志は訝しむ。それでも司は真面目に、写真を見ながら答えた。
「部屋の中も人のかたちも、僕が頭の中で描いていたものとはまったく違うから」
「どんなのを描いてたんだ?」
「それを、視力がある人に説明するのは難しい。生まれつき見えない人に世界を描写するのと同じだ」
「でも、司の場合、ずっと昔は見えてたんだから、視覚情報がどんなものかは知ってたはずだろ?」
「そのはずなんだけど。でも、見えなくなってる間に、視力以外の入力だけで最適なかたちになるよう、頭の回路が変わっちゃったんだろうね。──また見えるようになって、それを矯正するのにも苦労したんだよ、これでも」
「矯正…って、どれくらい掛かった?」
「少しずつだったから何とも。でも、1年半くらい。──可笑しいんだけど、“見える”ってことを、なかなか理解できないんだよね。例えば、そこに椅子がある。光が反射してその形がわかる。輪郭もはっきり見えてる。でも、それが椅子だと認識できない。『そこの椅子に座って』『え? どれ?』…真面目にこういうやりとりがある。最初はパニック起こしかけたよ」
 おどけて言ってみせたので篤志は小さく声をあげて笑った。
「いや、でもね、最初は大変だった。見えるようになったって、眼帯が外せるのは一日30分だけ。その30分の後、頭痛が収まらないから何の後遺症かと思ったら、単に眩しいんだって、医者に言われてやっと気付いた。夜でも眩しい。先が思いやられたよ。すぐに慣れたけど」
「はぁ」
 関心したように篤志は息を吐いた。
 そのとき、史緒が事務所に戻ってきた。
「客間、使えるようにしてきたわ。なにか入り用だったら言って」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 史緒は自分のぶんのお茶を淹れて、篤志の隣りに座る。史緒も、司が見ていたアルバムを覗き込んで、写真の説明をしたり、司に意見を求めたりした。
「そういえば櫻はどうしてるの?」
「あいかわらずよ。ノエルがくれるメールで、どうにか居場所は判ってるけど、本人が何をしてるかはさっぱり」
 櫻が長く日本を離れていたことを考えれば当然だが、写真の中に彼の姿は無い。機会があったとしても写りたがらないだろうけど。でも、櫻はともかく、ノエルの顔は見ておきたかったな──かつて対面した、櫻の連れというには意外で特異な人物について、司は思った。
 そうそう、と史緒が声を上げる。
「少し前、結婚するしないでもめてたみたいよ、あの2人」
「へぇ」
「続報が無いってことは現状維持なんだろうけど」
「まぁ、実際、結婚が決まったらノエルが静かにしてるとは思えないし…」
 どうやら、櫻は今でもノエルに振り回されているらしい。ノエルの気性を思い出して司も笑った。

 4年前から変わらないもの。4年前から変わらずにあるもの。良いも悪いも、望むも望まざるも、これから司は直面していくのだろう。
 心配はあるけど不安は無かった。4年という時間を超えて、この手で守れたものがあったこと、それが支えとなるから。








 司は屋上に出た。
 懐かしい重さのドアを開けると風が吹き込み、体の隙間を抜けていった。その風さえも懐かしく、司は笑う。そして顔を上げて、息を飲んだ。
 懐かしいけれど、初めて見る景色があった。
 夜でも人工の明かりに照らされて、周囲の街並みがよく見える。仰いでみると、黒い空の中に、雲と、微かに星が見えた。
 コンクリートの床に踏み出す。知らず、手摺りまでの歩数を数えている自分に気付き、司はまた笑った。こんな風に、過去の習慣を上書きする作業が、これからいくつもあるのだろう。
 ふと、いくらも歩かないうちに司の足が止まる。
 景色の中、闇夜にまぎれるように。──手摺りに座る三佳がいた。
 別段、司は驚かなかった。いるだろうと、当然のように思っていた。
(…あぶないなぁ)
 自分のことを棚上げしていることに自覚はあるので口にはしないけれど。
(──あぁ)
 既視感があった。
 広い視界の中、風にさらされて。高い空も遠い空もあって。
 ちょうどこの季節だった。時間は違うけれど。
 初めて会った日。三佳はこの景色を見たのだ。

 三佳が月曜館に来なかった本当の理由を、司は知っている。
 泣きはらした顔をみんなに見せたくなかったからだろう。
 司の姿に気付くと、三佳は片手を軸に手摺りから飛び降りる。そのまま手摺りに両腕を掛け、街の景色に目をやった。
 司はその背中に歩み寄り、隣りに並んで、同じ景色に目を向ける。
「勉強中じゃなかったの?」
「息抜き」
「学校はたいへん?」
「もう慣れた」
「そう」
 特に抑揚のないやりとり。ふたりは手摺りに並んで淡々と話し続ける。
「昔の写真、見たよ」
「どれ?」
「いろいろ。蘭が撮ってたやつ」
「あぁ。───どうだった?」
「三佳が小さい」
「そりゃそうだろ」
「あと、僕が大きい」
「大きい?」
「だって、最後に鏡を見たのは11歳──そこから自分がどんな風に成長してるかなんて、想像できなかったから」

 あ、と司が声を上げ、夜景に指を伸ばす。
「あそこの公園、桜が咲くの? 三佳がよく言ってたよね」
「あぁ」
「今年は終わっちゃったか。残念」
 そう言って司は空を仰ぎ、次に人工の光を指した。その動作は、まるで、見えることを誇示するようだった。
「東京タワー行ってみたい。テストが終わったら、付き合ってよ」
「いいけど…、そういえば私も上ったことはないな」
「地元なのに?」
「そういうものじゃないか?」
「うーん、そうかも」
「そうそう」
「あと、海。いつか三佳と行った」
「天気が良い日がいいな。あの日は、結局、降られて大変だったし」
「濡れて帰って史緒に怒られたよね。──そうだ、峰倉さんのところへはまだ行ってるの?」
「月2回くらいは」
「次のとき、一緒に行ってもいい?」
「もちろん。──でも、これもテストが終わってからだな」
「今日、三佳と一緒にいた子…」
「みすず?」
「僕の名前、知ってたみたいだけど、なんで?」
「あぁ、それは……、玲於奈が喋ったから」
「玲於奈って、峰倉さんとこの?」
「そう。仲がいいんだ、あの2人」
「なんだ。三佳が友達に僕のこと話してるのかと思った」
「……それはない」
「うん、なんとなく、判る」

 少し長めの沈黙のあと、司は夜風を吸い込んだ。
「誕生日会、しようか」
 この一言に、
「え?」
 今まで夜景から目を離さなかった三佳が視線を向ける。
 司はその視線を受け止め、微笑む。
 今日はじめて、三佳の顔をじっくり見ることができた。
「今月末。三佳の誕生日だろ?」
「…っ」
 その顔が見開く。──以前とは違う。ちゃんとその表情の移り変わりを視覚で捉えることができた。
「どう?」
 今まで知りながら見られなかった風景、人、知ることができなかった表情。それらをどんどん、これから新しく見ていくことになるのだろう。
 三佳は唇を震わせる。息を整えて、目に涙が浮かんだかと思うと、歯を見せて笑った。
「…屋上(ここ)で?」
 噛み締めるように言う。
「そう。ビニールシート敷いて」
「バイオリン、弾いてくれる?」
「いいよ」
「チェス、強くなった?」
「んー、どうかな。勝率はあんまり変わってない」
「私は、強くなったよ」
「お、すごい自信。じゃあ、勝負」
「あぁ」
 大きく頷いて不敵な表情を見せる。
 それなのに、急に、三佳はぱっと横を向いた。なにかまずいことをしたかと司は首を傾げる。
「なんで目を逸らすの」
「つ…司が、じろじろ見るから」
「え? 見ちゃだめ?」
「だめ…じゃないけど、恥ずかしいだろっ」
「そんなにじろじろ見てる? どうも加減がまだよく解らないな」
「そうじゃなくて…」
 と、語尾が弱いのに頑固に視線を逸らしたまま、もどかしいのか口を空振りさせる。
「昔の司はそんな風に視線をくれなかったから。…て、それが不満だったわけじゃなくて、その、違うことに戸惑ってるだけで」
 あわてふためく三佳を見るのも聞くのも珍しく、ついじっと見てしまう。調子に乗っていたらとうとう睨まれてしまい、司は景色に視線を移した。
 深呼吸して夜風を吸い込む。
「三佳」
 声を改め手を差し伸べる。三佳は意図を察するより先に手を乗せてくれて、司はそれを握った。
 目を瞑り、ひとつ息を吐いて、吸って、目蓋を開け、三佳の目を見て言う。
「また会えて良かった」
「…そういう約束だった」
「うん。約束どおり、また会えて良かった」
 二度、会えて良かった。またこの手を取れて良かった。
 この4年のあいだに、ここに戻りたい気持ちを忘れずにいられて良かった。
 過去にできなかったこと、諦めてしまったことを、恐れずに約束して、それを守れて良かった。未来へ、その強さを残せて良かった。
「うん…」
 三佳の手が握り返してくる。
「会いたかった」
「僕も、会いたかったよ」
 これからどういう関係でいられるか判らない。でも不安は無かった。こうして触れられる距離にいるなら、どんな関係も怖くないと思えた。
「ただいま。──言ってなかったから」
 司が言うと、三佳は可笑しそうに笑う。でもすぐに収めて、
「おかえりなさい」
 とても大事なものを噛みしめるように言った。










■6月

 史緒は長く緩い坂道を上る。
 大気が澄んであたたかい。空を覆うほどの光る緑の下、高原の中の一本道。木漏れ日が道を照らし、心地良い風が吹くと葉擦れの音が頭上から降ってきた。
 そっと振りかえる。確かにこの足で歩いてきたはずなのに、夢の中のような、どこか現実離れした風景。
 美しい写真の中のような、どこまでも続きそうな道。どこまでも。どこまでも。
「───」

 ふと、なにかを思い出しかけた。


「史緒さん」
 なにか思い出しかけたが史緒はこの時ひとりではなかった。そのため、すぐに思考を中断し、隣りからの呼び掛けに応じた。
「はい?」
「ありがとう。──本当に」
 そう言って、どこか遠い目をした三高和子は、漆黒に牡丹の花をあしらった江戸褄を着ている。今朝、彼女を迎えに行き、ここへ連れてきたのは史緒だ。その史緒も今日は薄いオレンジ色のドレス。薄手のスカーフをしている。
 今、史緒は三高和子と長く緩い坂道を歩いていた。
「和子さん」
 お礼の言葉を受けて史緒は苦笑する。
「それは何度も伺いました」
「いいじゃない。つい、胸からあふれ出ちゃうのよ」
「光栄ですね」
 和子は長い闘病生活をしていたとは思えないほどきれいに背筋を伸ばして歩く。坂道が辛そうなので史緒が手を引いているが、慣れない着物姿でも足取りはしっかりとしていた。
「あなたが私の病室に訪ねてきてから何年?」
「驚いたことに、もう6年です」
「まだそれだけ? もっとずっと、時間が流れてると思ったわ」
「ずいぶん経ってますよ。初めて会ったとき、祥子は高校生だったんですよ?」
「そうね。──あの子、変わったわ。史緒さんのおかげで」
 控えめな声の割に本当に嬉しそうに笑うので、つられて史緒も目を細める。
「私も変わりました。祥子のせいで」
「あら。ネガティブな言い方ね」
「だって、こんなの計画外でしたから。祥子がうまい具合に変わって役に立ってくれることは期待してましたけど、私にまで変化があったのは本意じゃありません」
「初めて会ったとき、あなたいくつだったかしら」
「16歳です。──なにを仰りたいかは判ります」
「良かったわね。あのとき変わってなかったら、今のも判らなかったでしょ?」
 冷やかすように言うので、史緒は降参を示す息を吐き、素直な言葉を口にした。
「良い結果を得られたとは、思ってますよ」
 今なら解る。人と人が出会い影響し合わないはずない。そうやって自分の世界が広がっていくのだ。
 視界が拓け、歩いてきた道の先に白い教会が見えてきた。
「あら、ステキ」
「祥子は奥の建物にいるはずです。こちらへどうぞ──」




 今日は祥子の結婚式だった。
 相手はいろいろあって知り合ったという4つ年上の男。幸い、祥子は人を見ることだけは失敗しないので、史緒も余計な心配をすることはなかった。けれど、そんな祥子でも相手と知り合って3年、完全に順風満帆とはいかず、少しのすれ違いもあったようだが、それを乗り越えてきたからこその関係がそこにあるのだろう。
 式場のスタッフに案内され、新婦の控え室のドアをノックすると、蘭が顔を出した。
「わぁ、おはようございます! 和子さん、本日はおめでとうございますっ」
「ありがとう。蘭ちゃんこそ、朝早くからありがとうね」
「どういたしまして。祥子さんのドレス姿、あたしが一番に見たんですよ、役得ですねっ」
 室内に招き入れられると、大きな姿見の前に座る純白のドレスを着た花嫁が振り返る。祥子だ。
「あらあら。綺麗にしてもらって、うらやましいわ」
 母の言葉に祥子は苦笑する。
 ベールはまだ被っておらず、丁寧に結わえられた髪に白い花が挿してある。サイドテーブルの上に手袋とブーケ。介添のスタッフは席を外しているようだった(もしくは気を遣って外してくれているのかもしれない)。
「おはよう」
 史緒が声を掛けると、
「…おはよ」
 祥子は小さく返してくる。そのまま目を合わせながら、お互いの出方を待つような、腹を探り合うような沈黙ができてしまう。普段から憎まれ口の応酬なので、その経験から、祥子は史緒がなにを言うかと警戒しているようだった。
 素直じゃない付き合い方をしてきたツケだろう。
 史緒は声と表情を改めて、心からの言葉を口にする。
「結婚、おめでとう」
「……」
 祥子は毒気を抜かれたような顔だ。でも複雑そうながらも笑って、
「ありがとう」
 と言った。

「私は受付の手伝いに行ってきます」
 そのまま残ってると祥子といつものやりあいをしてしまいそうなので、史緒は踵を返す。それ以外の意図も察したのか、蘭も付いてきた。
「あたしも、お客様の誘導してきますっ」
 ドアを開けて、室内に手を振る。
「じゃあ、後で」
 ドアを閉めると、親子2人が残された。



「あ」
 か細い声がして史緒が顔を上げると廊下の先に2人の男女が立っていた。服装からすると本日の参列客。しかしそれ以前に、史緒には2人とも面識のある人物だった。
 史緒は意識して女のほう──新郎の妹に視線を向けた。そして軽く頭を下げる。
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 細い声でゆっくりとおじぎする。頭を上げると、新郎の妹は隣りの男を紹介した。その内容は判りきっていたが、史緒は中断させることなくそれを聞く。さらにこの男は世間的に見てちょっとした有名人なのだが、2人ともそれに言及しなかったので、史緒もとくに触れなかった。そして、一度面識のある男に向かって挨拶をする。
「はじめまして」
「え…、あ、いえ。こちらこそ」
 男は一瞬戸惑いを見せたが、すれ違いざまに小さく、「ありがとうございました」と囁き、史緒はそっと微笑む。お互い、振り返らなかった。



 参列客が集まり始める。
 それぞれの親族と友人、恩人。全体の人数はそう多くない。新婦側のほとんどは史緒の知っている顔だ。駐車場からここへの道のりで顔を合わせたのか、みんな一斉にやってきた。
「おーっす、受付おつかれさん」
 健太郎は暑いのか上着を脱いで手で仰いでいた。
「おはよう。ホールに飲み物あるから行ってきたら?」
「そーする」
「名前を書いていくのが先よ」
「おっと」
「…まさか祥子がこういうことになってるとは思わなかったな」
 と、司は笑いながら芳名帳に自分の名前を書いていく。その後ろから声が返る。
「3年も付き合ってるんだろ。ずいぶん手間取ったほうだ」
「結婚まで3年って、遅いほうなの?」
「一般論」
 三佳も今日はドレスだ。最初は制服でいいと言っていたが、友人からダメだしがあったらしい。
「結局、賭けは史緒の一人勝ちだったしな」
 と、篤志が言って、史緒は笑った。
「先日はごちそうさま」
 祥子たちが付き合い始めた頃、この2人がいつまで保つか賭けをしたことがあった。仲間内の賭けの効力は絶対。例えそれが3年越しのことでも。レートを高く設定させられたにも関わらず史緒の一人勝ちだったため、数日前、みんなに奢ってもらったのだ。その日、初めて賭けのことを知らされた祥子は酷く怒っていたが。
「あ、一条さん」
 一条和成も祥子に招待されていた。
「おはようございます、史緒さん。本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます。──って」
 ホスト側である手前、丁寧に頭を下げる。が、史緒は声を落として言った。
「父さんが電報を送ってきてるけど」
「肩書きは伏せてあるはずですよ。一応、気は遣いました」
「それはそうだけど、どういうつもり?」
「娘の友人の結婚式にお祝いを送ってもおかしくないのでは?」
「……たいして面識無かったはずよね。一条さん、なにか吹き込んでない? 私と祥子のこと」
「さぁ」
「あーっ、和くん」
「やぁ、蘭、久しぶり」
「ほんと、久しぶりーっ。おじ様もお元気ですかぁ?」
「うん。ご実家のほうはどう?」
「おかげさまで、みんな、相変わらずですよ。──そうだ! 和くんと史緒さんは結婚しないんですか?」
 蘭の発言に史緒はぎょっとして、篤志は離れたところから睨んできた。
 和成は史緒も篤志も無視して蘭に笑い返した。
「そうだね。怖い兄2人と父親に睨まれてるから、まだ先かな」
「一条さんまで何言ってるのっ?」
「うわー、だんぜん応援しちゃいますっ。あたしにできることがあったら、なんでも言ってくださいねっ」
「ありがとう。じゃあ、手っ取り早く、すぐ上の兄を懐柔してくれると助かるかな」
「一条さんっ!」
 真っ赤な顔をした史緒が割って入っても、和成と蘭のにこやかな会話はなかなか止まらなかった。






 *

 なにがそうさせるのか、教会の中は空気が違う。
 高い天井から、光差す白い床。侵しがたい厳かな空間。白い花は飾られているというより、あたりまえのように、そこに在った。
 ひとり、中央の通路に立つ新郎。その左右を埋める人々。起立して、誰も口を開かない。──そして背後の扉が開かれた。
 拍手。
 捕らえられていた大気を解放するように、場は拍手の音で満たされた。
 史緒は新婦側の最前列にいた。右側には和子、左側には篤志が座っている。エスコートされてくる新婦を手を鳴らして迎え入れる。
「え」
 と、状況をわきまえて小声で、けれど篤志の驚きの声を、史緒は背後に聞いた。
「なんであの人が」
 新婦をエスコートしてきたのは新居誠志郎だった。篤志と史緒にとっては祖父、祥子にとっては仕事の取引先だ。
「自分がやるって聞かなかったのよ」
 式の準備を手伝っていた史緒は知っていたが、篤志はまったく知らなかったようだ。拍手の中、小声とはいえ、雑談は切り上げて、2人は式の主役へと意識を戻した。
 新郎新婦が並び正面を向いたとき、オルガンによる賛美歌がやんだ。ややあって、今度はヴァイオリンとピアノによるやさしい曲が流れ始める。演奏者は、新郎の妹と、その隣りにいた男だった。音量を抑えたやさしい音色が教会の天井に響いた。
 ヴァイオリンの旋律が主題を奏で始めると、新郎新婦は自然と見つめ合い、2人にしか解らない黙契の後、そっと目を閉じた。





 *

 天高く、教会の鐘が鳴る。
 石畳にピンクの花が降る。
 2人を祝福する大勢の人が、花を降らせていく。
 拍手と歓声。それに包まれた2人。
 暖かな日射しの中、森林の中に立つ教会は物語の世界のよう。
 幸せしか見いだせない光景の中、史緒も心から、2人を祝福した。


 史緒は人の集まりから外れ、一人、外を歩く。
 ふと振り返ると、朝、ここまで歩いてきた一本道があった。
 光と緑に包まれた、どこまでも続いていきそうな道。どこまでも。どこまでも…。
 教会を背にしていたので、史緒の視界の中には誰もいない。
 その道を前にして、史緒は今ひとりだった。そして。
(──あぁ)



(思い出した)
 自然と笑みが浮かぶ。

 “彼女”のことを思い出して笑うなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。
 何年もなかったことだ。


 少しだけ涙がにじんだけど、すぐに風で乾いてしまった。
 胸から込み上げるものは、口元をゆるませた。
 深呼吸をする。胸を満たす大気はとても清々しい。

 ────ねぇ。

 今も、こんな(みち)を歩いている?

 おおきな空の下で風に吹かれている?


    幸せになってね


 大丈夫。
 幸せだよ。

 これからもそうあるために努力する。

 願ってくれたこと、忘れない。


 幸せでいるよ。
 私も私の道で、歩いて、耳を澄ますから。

 ほんの少しの幸せも、聞き逃さないように。



「史緒さーん、写真撮りますよー!」
「はーい、今、いきまーす」
 離れたところから大きく手を振る蘭に、手を振り返す。
 史緒は教会のほうへ足を向け歩き出した。
 色鮮やかな、花の褥の上を。







50話「未来」  GrandMap   END
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