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 それはまだ七月の頭、梅雨も開けきれてない夏のはじめの頃。
 雲は気まぐれに雨を降らすことを休み、街を歩く人の手にただ荷物になるだけの傘を持たせていた。
 そんな季節にだけ現れる、ただ耳に触れる音だけのその存在を、いつのまにか待ち遠しく思ってしまっている人は一体何人居るだろうか。





 バンッ
 ドアを乱暴に開けて来店した客に驚き、従業員は不覚にもトレーを落としてしまった。幸運にもトレーには何も乗っていなかったので惨事は免れた。
 現れた客はショートカットがよく似合うスーツ姿の女性で、年齢は二十代半ば。毅然とした整った顔に従業員は見とれたがそれは本当に一瞬で、女性の明らかに怒りをたたえている表情とヒールを吐いた仁王立ちに自然と腰がひけてしまう。
「い、いらっしゃいませ。…お一人様ですか?」
 型通りの言葉を何とか口にすると、女性客はズイと歩み寄り低い声で言った。
「喫煙席に目つきの悪い男、居るでしょ?」
 さっさと案内しなさいよ、とスゴんでいるようにも取れた。被害妄想かもしれない。従業員は逃げ腰になりつつも女性を案内する。「目つきの悪い男」と断定したわけではないが、幸運なことに喫煙席に男性は一人しかいなかったのだ。

「ちょっとっ! 何、のんきに本なんか読んでんのよっ」
 日差しのよく当たるフロア、全体的に木目調で観葉植物が多く置いてある店内に大声が響いた。
 テラスに続く窓際の席で、その言葉通りテーブルに方肘をつき文庫本を読んでいた男は視線だけを上げた。
「…よー、篠歩」
 不精で伸びた髪、Tシャツにスラックスという格好の男は抑揚のない声で言う。髭を伸ばすことを嫌い、どんなときでも髭を剃って家を出るのは、この男の長所といえば長所だ。
 突然現れた女性に怒鳴られてもさほど気にもせず、ふわあぁと大きい欠伸をした。
「わっ、灰皿山盛り。一体、何箱開けたのっ」
 それは疑問ではなく非難だった。気遣いも少しばかりはあった。
 男はわざとらしくない程度の溜め息をついて、
「それはだなー」
 パタンと本を閉じる。
「徹夜明けだった俺は今朝八時の電話で十時に呼び出されて、その当人が一時間遅刻した間、ずっと吸ってたもんだから、何箱開けたかなんて俺にもよくわからん」
「……尋人」
「こんな小奇麗な喫茶店で居眠りしてたら追い出されるだろうし、眠気覚ましに、のんきにミステリーなんか読んでたんだが…。…お、もう十一時か、…それでだな、その待ち合わせで待ちぼうけ食わされてる途中に、お前がやってきたんだ」
 本当に眠いのか? とツっこみたくなる雄弁さで語る。女はさすがにバツが悪い表情を表し、声のトーンを下げた。
「……わざわざ遠まわしに責めなくても、素直に怒れば?」
「お前こそ、素直に遅れてゴメンナサイ≠ュらい、言えないのかよ」
 女の名は日辻篠歩(ひつじしのぶ)、男は八木尋人(やぎひろと)という。
 二人は大学のときの同級生で、腐れ縁も手伝って卒業後もこうして顔を合わせることがよくあった。
「で? 何むしゃくしゃしてんだ?」
 結局謝らなかった篠歩に席をすすめる。尋人は自分の心の広さに拍手を送りたい気分だ。合い向かいに座った篠歩は図星を当てられて、
「えっ、何でわかったの?」
 と、目を大きくさせた。
「おまえなぁ、八つ当たりされてる俺の身にもなれよ」
 長い付き合いだ、とは言いたくない。それ以前に態度と言葉でこれだけ当てられれば十分だ。
「…会社で上司に説教されたのよ。…まぁ、仕事中ぼーっとしてた私が悪いんだけどっ」
「珍しいな、仕事虫のお前が」
 驚いたのは、上司に説教されたことよりも仕事中に惚けていた、その事にだ。尋人は意外に思ったわけではなく、興味が湧いた。故にそのことについて尋ねると、
「それなのよぉっ!」
「うわっ」
 だんっ、とテーブルに体を乗り出した篠歩に尋人は驚いた。周囲の席の非難の視線も気付かないまま、篠歩は一気にまくしたてた。
「もーだめっ! 気になってしょうがないのっ。いつか誰かがと思ってたんだけど、もう駄目、もう限界っ。もう他人に任せてらんないわっ、私がやるっ!」
「……なんだよ、一体」
 そこまでの興奮の為にすっかり取り乱していた篠歩の目が、突然すっと冷める。
 真顔で、真摯に、篠歩は尋人を見据えた。
「『B.R.』が何者か知りたいの」



* * *



 『B.R.(ビーアール)』。その単語には大半の日本人が応するのではないだろうか。
「は?」
 八木尋人もそのうちの一人。しかしこれは友人の口から出た突飛な言葉に驚いたものだ。
「『B.R.』よっ、知ってるでしょ?」
 有無を云わせない口調で日辻篠歩は堅い口調で言う。その迫力に圧されて尋人は頷いた。
「そりゃ、まぁ」
『B.R.』とは、ここ数年の間、世間様を騒がせているバンドの名前だ。
 三年程前になるだろうか。はじまりは多分有線放送だったと思う。
 街中を歩くといつのまにか耳にしていた。喫茶店に入れば気付くと耳を傾けてしまう。誰かと会っているとき、買い物の途中、食事、散歩、いつもの日常のなかで。
 気付くと耳を傾けていることに気付く、そんな歌があった。
 初めは何件かの問い合わせの電話。少しずつ噂が広まり、話題が話題を呼んで、その歌がチャートに名を列ねる頃。誰もが、誰もその姿を知らないことを知る。
 『B.R.』は正体不明。どのメディアにも姿を現さず、音だけの存在なのだ。
 演奏形態はロックバンドの基本、ボーカルとギター、その他からなる5人(推定)で、ボーカルの声は男声とも女声ともつかず、性別すら分からない。
 デビューから三年。これだけ時間が経つと、レコードをリリースする周期が読めてきて、『B.R.』は夏にだけ曲を出すことに気付く。
 その秘匿さは世間の好奇心を掻き立てていた。
 マスコミは競って正体を暴こうとし、夏が近づくとテレビで名前を聞くようにもなる。
 でも、やはり聞くのは名前とその歌だけで、誰もその姿は見つけられないまま、三年目を迎えた。
「もう、三年よ。出てきてもいい頃合いじゃない。週刊誌はガセばっかだし、ウチの業界なんて本当に目の色変えて人と金使って探してるのよっ? それこそ表沙汰にできないような手段も使ってるの。これだけ手を回しても見つからないなんてありえないわっ」
「…だから、『Blue Rose』、なんだろ」
 殆ど呆れて口も挟めなかった尋人は、気分直しに冷めたカップを口につけた。
 『Blue Rose』とは、『B.R.』のデビュー曲のタイトルである。
「落ち着いてないでよーっ」
 泣きそうな声を出されてもどうしようもない。篠歩の野望(というしかない)には呆れるしかないだろう。
「篠歩…」
「お願いっ。協力してよ、尋人」
「何考えてんだ」
「だって尋人、昔から妙なところで頭キレるし、要領いいし…」
「俺はフリーのライターで、お前はさっき言ったガセばっかの記事書いてる記者だ。一体何の…」
「ガセばっかり書いてるのは週刊誌! 私は新聞記者よっ」
「社会部のな」
「……そうだけど」
 途端に声が小さくなる篠歩に、尋人は何度目かの溜め息を深々とつく。
「まぁ、仕事じゃないのは分かったよ」
 社会部の記者に芸能欄を埋める仕事が来るとは思えない。それにこの女は仕事よりも自分の純粋な好奇心のほうに熱を向ける性格なのだ。
「そうよ」
 力強い声。
「ただ、知りたいの」
 真っ直ぐな瞳。
「…」
 そんな気性を、尋人は昔から知っていた。

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