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「おい、今日一日ちょっと付き合え」
「……は?」
 その日。平日の朝七時の電話は開口一番にそう告げた。
 篠歩は咄嗟にその内容を掴めず、電話口で沈黙してしまう。声の主は分かっていたが、あいつがこの時間に起きているというのは、どうにも信じがたい。そしてその内容。とりあえず、何を言われたのか理解すると、
「尋人? あんた、この一週間連絡無しで一体何やってたのよ。こっちから携帯はつながらないし、この間のライブのときも一人でとっとと帰っちゃうし…聞いてる?」
 積もり積もっていた愚痴を吐いてみる。
 そもそも一週間前のライブ。あのとき尋人は、一度戻ってきたが、その後篠歩を残して帰ってしまったのだ。それ以降、連絡もつかず篠歩はイライラしていた。突然、連絡があったかと思えば早朝で、しかも内容がこれだ。愚痴を言いたくなるのも当たり前だろう。
「それらについては後で謝るよ。それよりどうなんだ、今日、出られるか?」
「わかんないわよ、そんなの」
「早く決めてくれ。今、お前のアパートの前に居る。さっさと用意しろ、すぐ出るぞ」
 は? と、今度こそ篠歩は言葉を失った。
「………一体何なの? 説明してよ」
「それも後でな。五分で支度しろ。いいな」
 ぷつん。一方的に、電話は途絶えた。
 篠歩は受話器を握る手が震えているのを自覚する。そしてその意味も、尋人に対する憤りからであることを理解する。
 がちゃんっ! と、かなりの破壊音をたてて、受話器は下ろされた。
「この…っ、マイペース男がぁっ!」
 大声を出すことで怒りを発散する。自分勝手でマイペースで無神経。そんな男だと知っているけれど、結局は付き合ってしまう自分を篠歩はわかっている。何より、そんな男だと知っていても、大抵、突き合わせているのは自分のほうだ。それから今回のような電話。
(…何かあったんだわ)
 何についてかは分からないけど、多分、そう。
 篠歩は受話器をあげ短縮ナンバー1を押すと、コール三回で出た応答に、有給願いを申し出た。


 一時間後。
「寒いよ〜。何で朝っぱらから、こんな所に突っ立ってなきゃならないわけ?」
 篠歩の住む町から電車で五〇分。ローカル線に乗り換えて三つ目の駅前。
 尋人に連れられてこんな所まで来てしまった。そしてこの場所に立ち始めてさらに一〇分。それだけで凍えてしまう季節なのに。
 学校が近くにあるのだろうか。駅からは学生服の若者が多く降りてきていた。
「……尋人」
 低い声で名前を呟く。説明を求めての呼びかけだったが、それは尋人にも伝わったらしい。
「ライブの日は悪かったな。先に帰ったのは、ちょっと調べたいことがあったんだ」
 意外にも素直に謝ったことに驚いて、篠歩はその横顔を見つめた。
「調べたいこと?」
「まぁ、それはまた後で。それより篠歩」
「…何よ」
 また、一つ逸らかされている。そのことを肝に命じつつ、尋人の発言に慎重な受け答えをした。
「一つ、確認していいか?」
「?」
 尋人は正面に立つと、いつになく真面目な顔で篠歩の目を見据える。
「俺はただお前に付き合ってきたけど、お前は『B.R.』の正体を知りたいんだよな? ただ、追いかけていたいだけじゃないんだよな?」
「尋人……?」
「それでいいんだよな」
 …すごく、突き放されたような気がした。
 でも、そう。間違ってない。尋人を付き合わせていたのは私だし、『B.R.』の正体を知りたいと言ったのも私。尋人の問い掛けの判断を迫られて然るべきなのも、私。
「………」
 ───後から思えば、ほとんど売り言葉に買い言葉で私は答えてしまったと思う。
 尋人はわざわざ、目的を見失わないよう、忠告してくれていたのに。
「……そうよ」
 握り締めた手のひらに爪が食い込んだ。
「初めに言ったわ。『B.R.』が何者か、知りたいの」

 繰り返し尋ねてはくれなかった。
 それは、たった一言の重みの証。

「よし」
 尋人は篠歩の頭に手をやって、くしゃりと髪をかきまぜた。
「……」
 言葉を返すのも忘れ、篠歩は尋人の言葉の意味を反芻する。
「……『B.R.』ね? 何か見つけたの? 今日、連れ出したのもその関係なんでしょう?」
「お前にしては鋭いな」
「尋人っ」
「慌てるなって…、…おっと」
 ごまかそうと目を逸らした尋人は、駅前の人波に視線を止めた。何かを見つけたのだ。
「……篠歩、付いてこい。いいな、何も喋るなよ」
 尋人は自分のバッグから道路地図を取り出し、前を歩き始めた。しょうがないので篠歩も渋々その後に続く。
 駅の周辺は学生の通学ラッシュ真っ最中だった。尋人は慎重な足取りで人込みに混じり、その流れに同化した。篠歩はどうにか、その背中を見失わないように付いて行く。
(『B.R.』……。何か見つけたの?)
 今日、尋人が呼び出した理由はこれだ。一体、何を……。
 尋人は、学生服を着た一団の一人、男子高校生に近づいた。
 篠歩は自分の心音が煩いほど響いているのを感じる。
(この男の子が……?)
 その男子高校生が何なのか、想像できるほど篠歩の胸中は落ち着いているわけではなかった。
「すみませーん。ちょっと聞きたいんだけど」
 がくっ、と篠歩は肩を落とした。地図を片手に申し訳なさそうに尋人は言ったのだ。
(……何だ。結局、道を尋ねたかっただけか)
 一瞬だけ、ものすごく期待してしまった篠歩は尋人の背中を睨み付けた。尋人はそんなことは意に介せず、男子高校生の反応を待つ。
 呼び止められた高校生はわざわざ立ち止まって振り返ってくれた。
「何?」
 かなり無愛想だが、どこへ行きたいの? と前向きに教えてくれる態度。いい人なのかもしれない。
 尋人は振り返った高校生の顔をじろじろ観察した。しつこいほど。
(尋人……?)
 その理解不能な態度には高校生も眉をしかめる。
「……?」
 尋人は確認していたのだ。
 そして、確信する。
 微かな笑みを浮かべると、ゆっくり、はっきりと、その台詞を口にした。
「君は『B.R.』のギタリストだ。間違いないね? 中野浩太くん」

 ───咄嗟のときに嘘が付けない。中野浩太はそんな人間だった。

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