/BR/祐輔
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 神奈川県C市。十二月十日。

「ただいま」
 山田祐輔は自宅玄関をくぐり靴をぬいだ。そこで、予想しなかった声を耳にした。
「あ。山田くん」
 高く響く抑揚のない声。
 祐輔が顔を上げると、線の細い女性が立っていた。茶色い髪を肩の上で切り揃えて、オレンジ色のセーターと茶色のロングスカート、それから客用のスリッパを履いていた。
「沙耶。来てたんですか」
 祐輔は驚いた。少しだけ。
「うん。今日、帰ってくるって聞いて。お帰りなさい」
 本村沙耶は祐輔の肩に手をかけて、頬にキスした。祐輔もそれを返す。
「一昨日はすみませんでした。約束してたのに」
「いいの。代わりにおば様がデートしてくれたから。帽子を買っていただいたんだけど、よかったのかな」
「あの人も娘ができたみたいで、はしゃいでるんですよ。気にしないで」
 二人は自然に一つ目のドアの部屋へ入った。そこは祐輔が開いているピアノ教室の部屋で、グランドピアノとソファと本棚が置かれている。沙耶が祐輔の家へ来たときは、何となくこの部屋に居ることが多かった。
「で、その母さんは買い物ですか?」
 実際に居るべき人物は沙耶に留守を預けて出かけてしまったらしい。コートを脱ぎソファに腰かけて、祐輔は呆れた声を出した。一方、ピアノの前に座った沙耶は蓋を開け、でたらめに鍵盤を叩いている。彼女はピアノという楽器にあまり思い入れは無く、満足に弾ける曲もないので即席猫ふんじゃったを奏でていた。
「沙耶は今日は何時ごろに?」
「九時くらい」
「僕は今回東京へ行ってたんですよ。電話してくれれば向こうで会えたのに」
 祐輔は苦笑した。今、沙耶は横浜の祐輔の家に遊びに来ているが、彼女は東京在住なのだ。完璧にすれ違いだったことには笑うしかない。
 しかし沙耶は祐輔に背を向けたまま、相変わらず抑揚のない声で言った。
「嘘。連絡しても会ってくれなかったくせに」
「…何故?」
「質問するのは私。───何かあったんでしょう?」
 ピアノの音がやんだ。
 理由は沙耶がピアノの前を離れ、祐輔の隣に座ったからだ。
「話しにくいなら、話さなくてもいいよ? 聞きたいけど」
 すぐ隣から真っ直ぐな視線を当てられる。
 沙耶の正直な台詞を聞いて、祐輔は笑った。そして、すぐに事情を白状した。
「僕が『B.R.』のキーボードだって言ったら、驚きますか?」
 あっさり言葉にしたにも関わらず、それでも視線を外してしまったのは何故だろう。
 山田祐輔が本村沙耶と付き合い始めたのは四年前。『B.R.』は三年目。
 『B.R.』を始めたときの約束通り、祐輔は『B.R.』について口外しないということを守り続けていた。二人の間の「隠し事」に、後ろめたさがあったのは確かだ。
 かなり長い沈黙の後、沙耶は言った。
「…情けなく思っちゃうかもしれない、な」
「?」
「『B.R.』は結構聴いているの、私も。…それを、山田くんの音だって気付かなかったのは、ちょっとしたショック」
 あいかわらず抑揚のない口調の、彼女なりの気遣い。
 そんな言い回しで、沙耶は秘密を抱えていた祐輔の罪悪感を軽減させた。
 祐輔は沙耶を抱き寄せた。
「ごめん」
「それだけ?」
 身じろぎもせず、間髪入れずに問う。祐輔はくすくすと笑い、細い肩を抱く腕に力を込めた。
「ありがとう」

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