キ/BR/実也子
≪16/16≫
外に出ると、実也子が階段に座り、佇んでいた。
空は真っ暗で星も見えない。しかし、ホール入り口の階段から正門まで真っ直ぐ伸びる通りには、両脇に街頭があり、道を照らし出している。実也子はその通りを抜けて歩く人々に目を向けていた。
しかし知己の姿を見つけると立ち上がり、手を振って、駆け寄った。
「長さん。…前田先生と、なにか、喋ったの?」
笑おうとして、笑えない。複雑な表情で覗うように言った。
知己は悩みもしないで即答する。
「おまえの悪口」
実也子は顔を歪ませて、
「ちょーさーん。それ、シャレにならないよぉ」
たはは、と苦笑いした。笑うことができた。知己は、ほれ、と手を差し伸べた。
「帰るか」
「……」
実也子は、その手ではなく腕に、がしっとしがみついた。知己は少しよろけたものの、そのまま二人、歩き始める。
こんな風に堂々と、二人で外を歩くなんて最近できなかったので実也子は上機嫌だ。
やっぱり好きだなぁ、と思った。
「男の子に生まれたかった」
はっきりと、唐突に言った。知己はしっかりとそれを聞いた。
「って、ずっと、思ってたの。あ、今は別。男の子じゃ長さんと恋愛できないもんね」
「……それで?」
「私は、自分のこと、汚いって思ってる。いつも無いものねだり、僻み、嫉妬。そんな感情ばっかり。ほんと、嫌になる。──でも意外と他人からは、そうは思われないの。昔から不思議だったよ」
まるで他人事のように、飄々と語る。とは言っても、他人の性格をそんな風に批判することは、実也子にはないだろうけど。
「弦楽器全般似通っているけど、とくにコントラバスをやる上で、無言のうちに要求される肉体条件ってわかる?」
「…いいや」
「身長と、腕の長さ、それと筋力。あとは左腕が強いこと」
実也子は左手首をコキコキと鳴らしてみせた。それから袖をめくって、肘までを知己に見せた。
知己に言わせれば、細いとしか思えない、白い腕。それをブンブンと振って、
「まぁ、腕の長さなんてある程度身長に左右されるもんだし? 身長は見ての通り。…こんな腕でも昔よりは太くなったんだよ? なっさけないくらい非力なの、私。───すごく煩わしいの。自分の体が思い通りにならないなんて」
実也子は知己に足を止めさせた。
今度は知己の右手を取って、自分の左の手の平と重ねる。じっとそれを見やってから、低い声を出した。
「私、右利きなんだけど、左手のほうがちょっと大きいの」
「知ってる」
ベーシストの左手は、楽器の特質上、鍛えらることが多い。ギターに比べれば弦は少ないものの、倍以上に太い弦を左手の指一本で押さえなければならないのだ。指一本の力強さが要される。先に実也子が言った「左腕が強いこと」というのは、こういうことである。
「それでも、私の手より長さんの手のほうがずっと大きいよね」
「当たり前だろ」
「どうして?」
「……」
「そう。長さんは男で、私は女だからよ」
続ける。
「弟子のなかで、女は私一人だったの。違うなんて思わなかった。同じだけの可能性があるんだと思ってた。でも…、体格や腕の力、その差に気付いたときはすごく悲しかった。自分の無力さが非力さが、悔しくて悔しくて、周りの人が成長していくのが疎ましくて、…結局、逃げ出したの」
迷いのない喋り方だった。
「もちろん、弦バス演奏者のなかには女性も数多くいるし、身長が一四五cmのプロだっている。でも私はあの中に…先生の下に居るのが耐えられなかった。自分が堕落していくのを感じるのは恐かったし、周囲を妬むことで自己嫌悪する自分が嫌だったから。…それが」
知己の目をしっかりと見て、目を逸らさずに言う。
「それが、前田先生のところをやめた理由なの。嘘ついて、ごめんなさい」
皆に嘘ついたことを、実也子は気にしていた。
今、知己に告白したことは全て本当だが、知己にだけ言ってもしょうがないのだ。ホテルへ帰ったら、また同じ説明を繰り返すことになるだろう。それでも、聞いてもらえて、良かった。
口にするのも我慢できなかった数日前に比べて、今は心穏やかに知己に言うことができた。
そう考えると、今日、前田公昭の演奏を聴いて、本人に出会えたこと。無駄ではなかったのかもしれない。ちゃんと、一歩進めるちからになったのかもしれない。
知己は微笑んで、実也子の肩を抱き寄せた。
「前田公昭からも、逃げてちゃしょうがないよな」
「さっきは突然だったから驚いただけだもん」
拗ねるように頬を脹らませる。次に、しっかりと前を向いて、実也子は言った。
「ちゃんと、会いに行くよ」
今は早く帰って、仲間たちの顔が見たいと、思っていた。
まず謝って、本当のことを話して、それからありがとうって言うんだ。
二人は並んで、最寄りの駅まで歩き始めた。
翌日。実也子は前田公昭と、二週間後に会う約束を取りつけた。
四年前。高校を卒業して、実也子は東京で暮らし始めていた。
五月。「もう、音楽なんかやめる」と言って、前田公昭の前から消えた。
勝手にやめて帰ってきた娘に、家族は何も言わないで暖かく迎えてくれた。稼業の手伝いや家族とのコミュニケーション、新しい幸せを見つける。
七月。知人の木田理江に事後報告するために東京へ行った。
その時、Kanonの曲を耳にした。
『B.R.』、そして「Blue
Rose」は思いの外、居心地が良くて。
勝手なことばかりやってきた自分に、色々なものが、沢山の人が、優しかった。
感謝を忘れちゃいけない、と。常に思い続けている。
ありがとう、って。言い続けたい。
ずっと。
end
≪16/16≫
キ/BR/実也子