キ/BR/実也子
≪15/16≫
ロビーの人波の中、背後から肩を掴まれた。
「やっぱ、来てた」
聞き慣れた声。実也子は目を見開いた。振り返りざまに叫んだ。
「長さん…っ?」
コンサートも恙無く終わり、ロビーに出たところだった。沢山泣いたおかげでメイクが崩れたので化粧室に向かおうとしたところだった。
行き交う人々の中、長壁知己が背後に立っていた。
実也子は目を疑った。祐輔が来るのは予測していたが、ここにいるのは知己だ。
「どうしてここにいるのっ」
「おまえを探して来いって、祐輔からチケット渡されたんだよ」
知己はそんな言い方をしたが、もしかしたら本当は知己のほうが発案したのかもしれない。それでも祐輔は協力を惜しまないだろうから。
怒鳴られると思って構えていたら、意外にも知己は穏やかな雰囲気だった。
「で。どうなんだ? ここまで来て、すっきりしたか?」
知己の優しい声を、素直に聞くことができた。
「──…ありがとう」
これは答えになってない。でも自然と口から出た言葉だった。胸が暖かかった。
皆の気遣いに本当に感謝した。
同時に、自分の身勝手さに嫌悪した。
何日か前に知己に「自分の問題は自分で解決する」などと大見栄を切っておいて、勝手にホテルから飛び出して、連絡もなく外泊して。
結局、何も進展してない。何も解決してない。
すごく、情けなくなった。
「ありがとう、長さん。…でも、あんまり……すっきり、してない。ごめんね」
小さい声で笑う。表情を隠すように前髪をかきあげる。この仕種は実也子の癖だ。
「…謝ることはないけど」
「ね、帰ろっ」
すがり付くように、知己の腕を掴んでひっぱった。駆り立てられるように、実也子は必死な形相だった。知己は突然腕を引かれて驚く。
「おい…」
「早く帰りたい、皆の所に」
知己の腕を引いて走り出す。
「…おいっ、危ない」
「──え?」
知己の声に顔を上げるのと同時だった。
どんっ
人波で走り出したら誰かにぶつかるのは当たり前だ。事実、実也子は背中から体当たりした。
「すっ…すみません…────あ」
どくん、と心臓が鳴った。
振り返り反射的に謝ると、そこに居たのはよく知っている人だった。
実也子は目を見開いた。呼吸が止まるのを感じた。
よく知っている人だった。
さっきまで、舞台の住人だった人。
初老の男性がそこには居て、実也子の顔を見ると目を見張った。
でもすぐに表情を和らげて、穏やかに笑った。
笑った。
「…おや、懐かしい顔だな」
「!」
懐かしいその声を間近に聴いて、実也子は動揺した。
本当に久しぶりに、耳にした声だった。
レセプションのためにロビーに出ていたのだろう。数人のスタッフが後ろに付いていたが、それを下がらせて実也子へと向き直った。
「元気でやってるか? 片桐」
「……ま」
声が震えた。
「前田先生…」
前田公昭が目の前で笑っているなんて、実也子は信じられなかった。
昔は少なくとも週に一度は顔を合わせていた人。六年間、師と仰いだ人だ。
この人についていく、と。そう誓ったときもあった。
「あ…」
会いたいと思っていた。
四年前から。そして四月からも。
「あの」
言葉が出てこない。
前田公昭を前にして、実也子は口をうまく動かせなかった。
耳の先まで熱い。
「片桐に先生なんて呼ばれるのも、久しぶりだな」
これを前田は懐かしさを含めて言ったのだが、実也子は歪曲解釈した。
「……ごめんなさいっ!」
「え。片桐っ?」
実也子はその場から駆け出した。
人波にぶつかりながらも全速力で、どうやら外に向かったようだ。
追いかけることはできなかった。
*
取り残されたのは前田と知己。
知己は溜め息をつきつつ、
(いつまで逃げる気だ、あいつ)
と半ば呆れた。
前田は実也子の知人と思しき知己に声をかける。
「僕は片桐に嫌われているのかねぇ」
肩を竦めながら、少し淋しそうに笑った。
「それはあり得ません。俺…いえ、僕たちは都内のホテルに泊まっているんです。今日は逃げてしまいましたけど、また、会ってやってくれませんか? 片桐実也子に」
「もちろん、喜んで。──あぁ、すまん。君は?」
そういえば自己紹介もしていなかった。
「申し遅れました。片桐実也子のバンド仲間で、長壁といいます。お会いできて光栄です」
知己が握手を求めると、前田は丁寧に握手を返してくれた。
それからじっと知己の顔を見て、言った。
「君とは会ったことがあるな」
はっきりと、確信があるように。
知己は正直に驚いた。
「よく覚えてましたね、もう十年近く前のことなのに」
「もちろんだよ。あいつが可愛がってたドラマーだからね。それにしても不思議な縁じゃないか、君と片桐が知り合っていたなんて。やっぱり片桐のほうから声かけたの?」
この台詞で、前田が実也子の性格を熟知していることは知己に伝わった。思わず苦笑してしまう。
「いえ、実也子は俺の昔のことを気付いてないんですよ」
「おやおや。昔、あんなに大騒ぎしていたのに」
前田は声をたてて笑った。
「あなたは、片桐実也子が芸能界に入ったことを批判しているわけじゃないんですね」
「? あたりまえだよ。誰かがそう言ったのか?」
「…いえ」
「僕は芸能界というところが苦手でね。あまり良い印象は持っていなかったが……親バカというべきかな。愛弟子が活躍しているとなれば、チェックしてしまうね」
ふと思い立って、前田は知己の顔を覗き込み、別の話題を切り出した。
「君は、片桐の恋人なのか?」
「……」
意表を突かれた質問だった。
けれど、これと同じ意味を持つ質問に、知己は一度も明確な回答をしたことがない。否定したいわけではないけれど。
「まぁ、答えなくてもいいよ。でも、もしそうだとしたらあの子は諦めたのか、それとも受け入れたのか…どっちなんだろうな」
「どういう意味です?」
「君は、片桐が自分を嫌ってた部分って、何だか知ってるか?」
「…? いえ」
もちろん昔の話だ。
あの頃、実也子は自分を嫌っていた。ただ、一つの部分を。
前田はそれを、「やめる理由」として本人から聞いた。
「女だってとこだよ」
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キ/BR/実也子