キ/BR/知巳
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『トモっ。命令。今すぐ出てこい。いつもの店。以上』
電話のベルで起こされた。手に取った受話器からの第一声がそれだ。そしてそれだけで通話は終わり、代わりに発信音が空しく響いていた。
それが、その日、一番に耳にした人の声だった。
そんな電話に叩き起こされて、さらには呼び出され、指定された(?)喫茶店に入れたのは電話があってから三十分後だった。元々、仲間が集まる店はアパートのすぐ近くなのだ。
「おーっす、トモ。ここだ」
店の奥で、小柄の中年男が手を振る。
「ヤス」
命令通りすぐに出てきたのだから誉めてもらいたい。折角の休みを返上して招集に応じたのだから。(とは言っても、予定は何もなかった)
「お前、休みだからって寝てばっかいるんじゃねーよ。いい年して、ツルむ女もいねーのか」
到着するなり、そんなことを言われた。余計なお世話だと返したいところだが、その台詞はそのまま事実なので否定できない。それから「いい年して」と言われてもまだ二十六だ。五十五のオヤジに、しかも恋人とは結婚もせず同棲生活を楽しんでいる甲斐性無しに言われたくはない。ひがみではない、と付け加えておく。
これだけ悪態付いても、実のところヤスのことを尊敬しているのだ。これでも。
「…それ、言うためにわざわざ呼び出したのか?」
半ばウンザリしながら、冷めた視線を送る。喜ばしいことに、ヤスはそれを否定してくれた。
「まさか。いちおー、紹介しとこうと思ってな。まだ会ったことなかっただろ。こいつと」
「は?」
(誰と──?)
たった今気付いたが、その親指が指す先には、テーブルに同席している人物が、もう一人居た。
「こんにちは」
低い声の挨拶。男性。年齢は多分ヤスと同年代で、五十歳前後といったところ。しかしベストに背広姿という、どこか品の良さを感じさせる雰囲気は似ても似つかない。
その、年齢以外共通点の無さそうな二人は顔を見合わせて笑った。
「はじめまして。前田公昭です」
普通、年下のほうから名乗るものだが、その男性は軽く頭を下げた。様式などには拘らない人間らしい。
それより。
(前田…?)
「えっ!」
心の中で名前を復唱するのと叫んだのはほぼ同時だった。
前田公昭。その名前はよく聞かされていた。
「ヤスっ! 前田、って」
「そー。俺の悪友ぅ」
「いや、そうじゃなくて!」
「そうじゃなくて…って、なんだ。失礼なヤツだな。俺の同窓で、ついでにクラシック・ベーシストの前田クンだよ」
もちろん知っている。
と、言ってもクラシック界のことに明るいわけじゃない。
自分の仕事仲間で、恐らく世界でも指折りののベーシストだと尊敬しているヤス。その彼が「尊敬するベーシスト」として公言しているのが、この前田公昭なのだ。
一度会ってみたいと思っていた。
「トモっ。感激してないで自己紹介」
「あ…っ、えと、はじめまして。長壁知己といいます」
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