/BR/知巳
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 電話に起こされた。
『長さんっ! どうしたの、今日は八時集合で事務所行くんでしょ? もう過ぎてるよ』
 この声は片桐実也子だ。その名前はすぐに頭に浮かんだ。知己が一瞬迷ったのは、現在がいつかということだった。
 今は今。Blue Roseの中に自分が居る、今だ。
 枕元のデジタル時計に目をやると、なるほど八時五分。知己はそれを見止めても、何が起こっているのか、次にどうするべきか頭が回らなかった。とりあえず自分がホテルの部屋のベッドの中にいることは分かる。
『長さん? 起きてる?』
「ああ。…今、起きた」
 実也子の高い声は眠気が覚めきってない頭にもよく響いて、意識がはっきりしてくるのを感じた。
「他の奴らは?」
 集合時間に遅れても慌てることはしない。思考すべきは自分が遅れたことで派生する不具合、その修正。仲間への謝罪は遅すぎてはいけないが、対策より早い必要はない。
 感情的に頭を下げることは、もうない。そんな年齢に、自分はなっていた。
『皆、ロビーにいるよ。希玖とかのんちゃんは直接事務所へ向かうって。どうする?』
 知己はかりかりと頭をかくと、
「先、行っててくれ。二十分差…くらいには着きたい」
 語尾は苦笑混じりに言った。実也子はすぐに返事を返してきた。
『わかったー。そう伝えておくね』
「は?」
 おまえもだよ、実也子。寝ぼけていたせいもあり、知己はそのようにツっこむのが遅れた。
 ただ、知己がそれを口にする前に、実也子は電話を切った。
「…」
 嘆息して、ベッドから起き上がり、大急ぎで支度を開始する。
 スリッパを履いて、洗面台の前に立つ。鏡に映るのは、三十を過ぎた見慣れた自分の顔。少しだけ違和感を感じたが、その理由はすぐに分かった。
 昔の、夢を見ていたせいだ。
 洗顔を終わらせタオルを引っかけて戻ると、ほとんど無意識でテーブルの上の腕時計を左手首にまいた。
 ふと、目に付いたのは、腕時計のカレンダー。
 五月三十日。
「………」
 急がなければならないのに、知己はその数字にしばらく見入ってしまった。
(……命日か)
 そんな風に、思った。



 先に行ってろと言ったのに、実也子はロビーで待っていた。知己がエレベーターから降りてくると、目ざとく見つけて駆け寄ってきた。
「おはよー、長さん。寝坊なんて珍しいね」
 いつもの明るい笑顔で手を振る。それに応えながら、
「おはよう。遅れて悪い、祐輔たちは?」
「とっくに向かったよー。私たちも早く行こ、タクシー呼んであるから」
 二人は、そのままエントランスまで走った。
 今日はnoa音楽企画の事務所へ集まり、新企画の打ち合わせが行われるのだ。昨日、知己自身が全員にスケジュールを伝えておいて、知己が遅刻していれば世話ない。
 本当に、こんなことは珍しいのだ。知己には。
 まるで詰め込むように二人はタクシーに乗りこんで、運転手に行き先を告げた。
「そういえば長さん。前田先生が、長壁くんによろしくって言ってたよ?」
 実也子の話題提議は唐突だったが、知己にはすぐに伝わった。
 五日前のこと。実也子は「前田先生とデートだよーん」と言って、上機嫌で朝早く出かけて行った。前田公昭は実也子の師匠で、長い間、確執があり疎遠になっていた関係を解くことができたのだという。
 そしてさらに半月前、前田のコンサートの会場でのこと。実也子は逃げたが、知己は前田と話す機会があった。その時のこともあり、前田は「よろしく」と伝えたのだろう。
「やっぱ、あの時、何か喋ってたんだ」
 何喋ってたのよー、と追求する実也子に、知己はしれっと答えた。
「だから言っただろ。おまえの悪口だって」
「長さんっ!」
(そういえば───)
 隣でむくれている実也子をどうにか宥めて、知己は思い返した。
 今日の夢。あれは九年前。前田公昭と初めて会ったときのことだ。
 半月前、前田のコンサートで再会するまで、会ったのはあの時一度きりだったのに、前田もよく覚えていたな、と思う。
(確か…、あの時、弟子の話もしてたよーな)
 そんなことを思い返したが、どんな話をしたのか、詳細はもう忘れてしまった。
 九年も前のことだから。

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