/BR/Lの歌
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 しん、と客席が静まりかえった。それが少しばかり長く続いたので彼女は首を傾げる。
「…あれ、反応無し? びっくりすると思ったのに」
 呑気な台詞がホールに響いた。それでも静寂は続く。次にフォローするように圭が喋った。
「あ、本当だから。この人、俺のかーちゃん」
 客席がどよめいた。悲鳴に近い声をあげる人が多数いる。その意外な関係に誰もが信じられないといった様子で並んで立つ2人を見た。
 そして。
 私はこの会場でおそらくただ一人、別の意味で驚いている。
(ひーちゃん…?)
 今更ながら思い立つ。森村、というのはひーちゃんの旧姓ではなかったか。名前は久利(ひさと)、男の子みたいな名前がイヤ、とよくこぼしていた。
(ほんとに…?)
(…ひーちゃん!?)
 どうして気付かなかったんだろう。CDから顔も声も知っていたはずなのに。
(ちょっと待って、私が森村久利子ファンだってこと、圭は知ってるはず。ということは、あの馬鹿は自分のことだけでなく、ひーちゃんのことも隠してたってこと? むかつくっ!)
 ───…ううん、ちがう、そんなことより。
(やっと逢えた…───)
 幼い記憶のなかで、いつも唄っていた人。笑っていた人。突然いなくなって、誰も何も教えてくれなくて。
 森村久利子は聴いてすぐに好きになった。でもまさかひーちゃんだなんて、ぜんっぜん思いもしなかった。
 私は、圭と一緒に唄うひーちゃんしか知らない。ベランダでひっそりと唄う、洗濯物を干しながら唄う、子守歌を唄うひーちゃんしか知らない。
 ステージで唄うひーちゃんなんて、知らなかった。
(圭のバカタレ…。何も教えてくれないで)
「もういいだろ! 紹介したんだから」
 その圭は居心地が悪そうで、早くステージから降りたいようだった。
「だーめ。一曲、一緒に唄おう」
「な…っ」
 圭は拒否の言葉を言いかけたが、その前に客席が沸いた。拍手と歓声が広まっていき、そこかしこで口笛が響いた。
「ちょっと待てって!」
 本気で慌てる圭、しかしそれでも客席は静まらない。
「あのなぁ」
 これ以上、駄々こねて、白けさせるわけにはいかないのだろう、圭は観念したように大人しくなった。
「…音響さんが大変じゃん」
「大丈夫よ、前もって言ってあったもん。このトークの間に合わせてくれてるよ」
「ハメられた…。なに唄うんだよ」
「あら。圭くんとお母さんの持ち歌はいっぱいあるじゃない」
「は?」
「アカペラで。昔はよく一緒に唄ったでしょ」


 圭が絶句したのがわかった。そのとき圭が受けたであろう激しい衝撃が私にも伝わった。
 いつかの七夕の景色が私の頭を駆け抜ける。とても懐かしい匂いを、私は思い出した。あの鮮やかな光景を。
(圭…)
 目頭が熱くなる。だめだ泣いてしまう。
 溢れてきてしまう。
(ねぇ、…願ったでしょう?)
 でも圭はそれに手を伸ばさなかった。その願いを口にしなかった。欲しいと言わなかった。それは馬鹿っていう。
 私はひーちゃんと圭の歌が好きだった。
 圭もそうなんでしょう?
 ずっと、願っていたでしょう?

 そして歌が響きはじめる。
 それはいつか聴いた歌と同じで、アイルランドの古い民謡だった。遠い昔と同じように、ひーちゃんと圭は唄う。ただ、圭の声は変わっていたけど、そんなこと気にならないくらい息が合って、それは響いた。
 客席からは物音さえしない。誰もがステージに目を惹かれ、そして耳を奪われた。光輝く場所に立つふたつの声だけが、空間を満たしていた。
(圭───…!)
 この瞬間を、私より強く、願っていたでしょう?
(…よかったね)
 並んで唄う2人に目をやるといつのまにかひーちゃんより圭のほうが背が高い。そんなことが馬鹿みたいに楽しい。私は笑ったはずなのに、涙が溢れてとまらなかった。
「…小林?」
 名前を呼ばれたけど、喉が詰まりそれに答えることはできなかった。
「おい、どうした」
 隣の相方が慌てたように覗き込んでくる。私は涙を流し続けている顔で、にかっと豪快に笑ってみせた。
「なんでもないよ」
 ───…この胸を突く幸福感を、今はまだ、言わないでおこう。
 もう少しだけ付き合いを重ねて、小憎らしい従弟を紹介するまでは。

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