キ/BR/お題326
≪1/2≫
【追跡】
時々、目的を見失うことがある。
涙が出るくらい不安で苦しくて弱気になって。自分に自信がなくなって。
気が付くと大きな溜息を吐いていて、周囲に鬱々とした空気を撒き散らしている。
(私、ここで、なにやってるんだっけ)
根本的な問題にまで遡ったりして。
なにが悪いわけじゃない。考えたって無駄なのは分かってる。
本当に、時々、そういう時期があるだけ。
なにもかもうまくいかない日々が通り過ぎるのを待つだけ。
ここから逃げ出して、家に帰りたくなってしまう自分を慰めるのに必死になりながら。
■
どういうわけか、目の前には牧歌的な風景が広がっている。
圧倒される視界の広さがそこにあった。一面の牧畑は息を飲むほどやさしい色をしている。あちこちに転がるロールベールはまるでジオラマのよう。その中にいる、私。
遠くで水辺が光っているのが見えた。
人の手が加えられてない樹木の整列があって、その枝からあたたかな光が射す。赤土の小径を照らす。小さな虫が列をつくって、石の下に潜っていった。
とても静か。
無音ではない。鳥の声、水の音、風の音。けれど、意識しなければそれらは音ではなかった。景色の一部だった。
毎日、騒音の中で暮らしていたことを自覚させられる。
立ちつくしているのに疲れて、でも今そこにある風景から目が離せなくて、そのまま草の上に腰を下ろした。
(地面があたたかい)
そんな当たり前のことにも感動してしまう。
(そっか。地球ってあたたかいんだ)
いい歳してなに馬鹿なことを。頭の片隅で冷静さを残していても、とても敵わない大きなものがそこにあることを、体は知っていた。
やさしい時間。やさしい景色。大気が心地よい。溶けてしまいそう。
(このまま溶けちゃってもいいかな。…あぁ、ダメダメ)
(会いたいな)
(───…帰りたいな)
「え。うぁ」
数時間ぶりに人の声を聞いた。
その、意味をなさない言葉、でも確かにすぐそばで聞こえた声に振り返ると、大きな目を大きく開いた女の子が立っていた。女の子といっても10代の後半くらい、Tシャツにジーンズという軽装で手荷物はなかった。近所の子だろうか。
「びっくりしたぁ! 妖精が唄ってるのかと思ったの!」
そう言われて、いつのまにか口ずさんでいたことに気付く。またやってしまった。これでいつも、「真面目にやれ」って上司から怒られてるのに。
「こんにちは。あなたこそ、そこの森に棲む妖精じゃないの?」
この景色の中でならそう言われても信じてしまいそうなくらい、身丈の割りに無邪気な雰囲気を持つ娘だった。両手を口に添えて笑う仕草もかわいらしい。
「ふふふ。ううん、あたしはこの道をまっすぐ行ったところのお家に住んでるの。人間だよ」
「あら、残念」
つられて笑うと、彼女は人懐っこく近づいてきて、すぐ隣り、草の上に座った。
「きれいな声。歌もステキね」
「ありがとう」
「あっと、ごめんなさい。あたし、じゃましちゃった?」
「そんなことないわ。誰かとお話したいと思ってたところよ」
「ほんと?」
「ええ。あなたは散歩中だったの? いい天気だもんね」
「ううん。家族と喧嘩して、家を飛び出してきたの」
「まぁ」
「向こうから謝りにくるまで許さないつもり!」
「いいの?」
「いいの!」
彼女は素直に怒気を表しふくれっ面を見せる。その仕草がかわいくて思わず吹き出してしまった。
華奢な手足とか、ふわふわの髪の毛とか。
(いいな〜。女の子も欲しかったな〜)
「お姉さんは? この近くの人?」
お姉さんという歳でもないのだけど。
「いいえ。バカンスで」
「この辺、なにかあるっけ?」
「目的があって来たわけじゃないのよね。仕事仲間の一人がすぐそこにコテージを持ってて、今、6人で来てるの。ちょっとした社員旅行」
「へ〜」
ここに来たのは2日前。
そして3日前に───仕事場から追い出された。
「調子が戻るまで帰ってくるな」
普段、あまり感情を荒げない上司はやっぱり静かな声で、でも重い言葉を投げた。
生活のほとんどを占めていたものを奪われた、絶望感で泣きたい。
(ここでの私には、これしかないのに)
追い出された表通りで本当に泣きそうになったそのとき、どういうわけか他の仕事仲間も仕事場から転がり出てきた。同じく、追い出されたのだという。
そして、これまたどういうわけか、誰かが、
「じゃあ、このままみんなで旅行に行こうぜ」
と、言いだし、
「あ。うち、最近、別荘買ったの。みんなで行かない?」
「おー! 行く行くー」
「最近、詰めてばっかだったしなぁ」
「やったー! 羽根伸ばそー!」
「じゃ、今夜、集合。よろしく」
と、口を挟む隙すら無く話がまとまってしまった。
「え。待って。だって」
仕事場に残ったのは上司一人だ。みんなの仕事も止まってるのに。
私が、うまくできないから。
「いいの、いいの。たまには休まなきゃ、いいものは作れないよ」
結局、半ば強制的に車に押し込められ、その日のうちに街を発った。
上司も、私に休ませるつもりだったのかもしれない。
みんなは、元気づけようとしてくれてるのだろう。
ありがたいけど、やっぱり情けなくて、少し涙が出た。
* * *
いつも都心に住んでいるので、目の前の自然に体が驚いている。
地方とはいえ、すぐそこは大きな工業都市がある。けれど、一歩郊外に出ればこれだ。本当に、人間が支配したつもりになっている土地など僅かでしかない。
高い建造物に囲まれて暮らしている私が、こんな平坦で広大な景色の中にいるなんて、なんだか現実離れしている。そして、若い女の子と並んで草の上に座っているのも、やっぱり現実離れ。
「じゃあ、お姉さんは、仕事場から追い出されてここに来たの?」
物怖じせずにはっきり言われるのはいっそ清々しい。
「そうなのよ。いつまでいるかも決まってないの。行き当たりバッタリ」
「お仕事って、なぁに?」
質問に答えると、彼女は少し驚いた様子だった。でもすぐに納得したように頷く。
「へー! ステキだね」
その後、彼女と、すぐそばに生えている草の話になった。そして小さな花。鳥。虫。彼女は詳しかった。
「だって、ここは私が生まれ育った土地だもん」
そう言って、整えられた指先で、躊躇なく土をいじる。
(私も帰りたいな)
生まれ育った土地に。仕事場でもマンションでもない、遠い海のむこう側。
なにもかもうまくいかない、この日々を捨てて。
≪1/2≫
キ/BR/お題326