キ/GM/01-10/07
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「祥子は、誰かを憎んだことがある?」
はじめ、祥子は突然の史緒の質問に軽く答えた。
「それに近い感情は、あんたに対して抱いているかもね」
コポコポとコーヒーがカップにそそがれる。祥子は振り返らなかった。
その姿を見つめ、史緒はさらに続ける。しかし、その言葉は祥子の返答を無視していた。
「本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感・・・。それから、少しの殺意」
「・・・・・」
祥子は眉をしかませた。いくら嫌いと豪語している史緒にでも、そこまでの感情は抱いていない。いや、そんなことよりも、突然何を言い出したのか・・・・、何を言いたいのだろう、史緒は。
「他人に特別な感情を抱くのは、何にしろ疲れるものだと思わない? 誰かに執着するなら、その人を好きでいるほうがよっぽど健全で、楽だわ」
祥子は黙り込む。次に発する言葉をまとめた。史緒の言っていることは、つまりこういうことなのだ。
「・・・だから、あんたは人を嫌いにはならないって言うの?」
「そうよ」
祥子は吐き気をおぼえた。
それは史緒がそう答えることに、何の疑問も抱いていないからだった。史緒の本心なのだ。祥子にはそれがわかった。
「それって・・・」
何か違う。そう言いかける。けど史緒の言葉が重なった。
「だからね、祥子も、私を嫌うことになんか力を使わないで、もっと他のことに使えば? ってことよ」
雰囲気を一変、明るい声で史緒はそんなオチをつけた。もちろん、祥子はキレた。
「あんたのそーいうところが嫌いだっていうのよっ! 私を怒らせてるのは、史緒本人だってことに気付いてないの!?」
「自覚はないわ。単に意見が合わないだけじゃないの?」
「あんたねぇ・・・!」
「こんにちはーっ!」
開け放たれたドアはそれなりの音をたてたが、同時に響いた声のほうがはるかに大きかった。
部屋に入ってきたのは川口蘭。ここのメンバーの一人である。おだんご頭で活動的な服装の少女は、跳ねるような足取りで、史緒と祥子のほうへと歩み寄った。
「遅れてごめんなさい、祥子さん」
「蘭」
「史緒さん、こんにちは」
「こんにちは」
「・・・祥子さんかっこいー、お仕事だったんですか? その格好」
祥子のいつにないフォーマルな服装を見て蘭が感嘆の声をあげた。
「あ・・・・着替えるの忘れてた」
「上の空き部屋、使っていいわよ」
史緒が人差し指で天井を指すと、祥子はバッグを抱えて急ぎ足で行動を開始する。上の階にいく為に部屋を出ていこうとする。が、先ほど蘭が入ってきたドアを開ける直前で振り返った。
「そうだ。史緒、新居さんから伝言。例の会社の調査、引き続き頼むって」
先ほどの言い争いを忘れたわけではない。しかし祥子にとっても、あまり気分の良くない史緒との喧嘩より、蘭と一緒に出かけるほうが大事だ。
「わかったわ」
事務的な会話が終わると、祥子はドアの向こうへ消えた。
史緒は、ふぅ、と軽く息をついて椅子から立ち上がる。窓の外に目をやると、寒そうな灰色の空が遠くまで続いていた。
「今日は? 買い物にでも出かけるの」
「ええ。史緒さんも行きます?」
祥子が聞いたら冗談じゃない、と低い声で言いそうな言葉だ。史緒は苦笑して答えた。
「それは祥子の心労を増やすだけよ」
「史緒さん」
二人は顔を合わせていなかった。蘭はいつものようにはっきりとした、でも少しだけトーンを落とした声で言う。
「あんまり、祥子さんをいじめないでくださいね」
史緒は窓に映る自分の顔を見て答えた。
「・・・そのことについての自覚はあるわ」
「私は祥子さんのことも好きなんですから」
蘭は微妙な言い方をした。
史緒は何も答えない。蘭はいつもの彼女らしくない、憂いの含まれている言葉を、そっと口にする。
「あたしがA.co.に入った本当の理由を知ったら、・・・祥子さん、怒るでしょうね。きっと」
「そうね。でも安心して。怒るとしても、それは私に対してだわ」
「・・・だから、心配なんです」
「蘭、お待たせ」
さっきの服装とは打って変わって、年相応、カジュアルウエアの祥子が現れる。蘭は物音を聞きつけた猫のように顔をあげて笑った。
「じゃ、史緒さん。いってきます」
「いってらっしゃい」
「もし篤志さんが来たら、待っててくれるように言ってくれます?」
「わかった」
何か約束があるの? 祥子がそう尋ねた。いいえ、ただ会いたいだけです、と蘭は答える。
そんなやりとりを交わしている二人は、事務所から出ていった。
遠ざかる会話。階段を降りる音。
一人部屋に残された史緒は、窓の下を歩いていく二人を見送った。
彼女はこういう少しの孤独を、楽しむことができる性格だった。
こん、と指で窓ガラスを叩く。窓は外からの冷気が伝わって、少々水滴がついている。
史緒はその水滴を指で拭った。
「私も・・・、祥子のことは結構気に入ってるんだけどな」
そんなふうに、呟いた。
end
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