キ/GM/01-10/07
≪3/4≫
車を降りたときに熱かった胸は100メートルも歩くうちに冷めていた。
ゆっくりと一定のテンポで、履き慣れないヒールがアスファルトを叩く。
通りに人影はなかった。ただ、少し離れた大通りからは車の音が絶えない。冷たい空気の中、少しだけ排気ガスの匂いが鼻についた。
祥子はゆっくりと歩いていた。
新居の言葉に動揺(きっと、そういうこと)した感情も、もう冷めたはずだった。
それなのに、
(どうして?)
少しだけ、目が滲んだ。
原因がわからないまま、祥子は髪をまとめていたリボンをむしり取った。ウエーブの髪が落ち、うつむいた祥子の顔を隠す。
足を止める。落ち着いて考える。
私は泣いてない。
なのに何故、涙が出るのだろう。
理由のない現象。
『この世から去る友人もいた』
もう友達なんていらない。そんなことを思えるほど、もう子供ではない。
思い出に変わらない過去は、今も、胸を刺した。
* * *
「・・・・げ」
祥子がA.co.の事務所の扉を開けた時、よりによって室内には阿達史緒一人しかいなかった。
窓を背にした指定席に座り、パソコンと向かい合わせていた顔をあげる。
「お帰りなさい。ごくろう様」
ストレートの黒髪が肩まで流れている。首を隠す薄茶のウールのワンピース、地味というわけでもないが、落ち着いた印象を受ける。17歳にして所長を務める。いや、祥子がここの人間たちと関わりを持つようになって一年が過ぎようとしている。一年前、つまり阿達史緒は16歳のとき既に、所長という肩書きを掲げていたのだ。それ以前のことについて、祥子はあまり興味を持ちたくない。
「蘭は?」
史緒相手に無駄口を叩きたくないので簡潔に切り出す。そんなあからさまな態度を露にした祥子の言葉にも、史緒は冷静に返した。
「少し遅くなるって。伝えておくよう電話があった」
「じゃあ月曜館にいるわ。蘭が来たらそう言って」
祥子の足はすでに扉へと向かっている。しかし、その足を止める声がかかった。
「待って」
祥子は振り返らなかった。ただ次に発せられる内容を、どんな言葉で拒否しようかとその一瞬で考えていた。人の感情は読めても思考を読める能力など持ち合わせていない。ただ史緒の用件なら全てを拒否してもいい。祥子はそう思っている。
「この仕事、手伝っていっても、暇つぶしにはなると思うけど」
「嫌よ。あんたと二人でいても、不愉快になるだけだもの」
気の効いた嫌味のつもりはない。これは本心だ。
史緒はそんな言葉も意に介せず、作業中だった手元の書類を手に取ると、ひらひらと祥子に振って見せた。
「先週切りの祥子の報告書、遅れたせいで忙しくなってるんだけどな。借りは作りたくないんでしょう?」
ぴりぴりする、というのはなかなかよくできた言葉である。
体内に電気が蓄まっていて、放電しきれない。八つ当りすべき導体が見つからない。そんな感じだ。目の前の人物には、どうやっても八つ当りは空振りしてしまうので、導体には成り得ない。だからこそ、ぴりぴりしてしまう。
史緒のデスクの隣に座らされ、祥子は整理されたファイルにペンを走らせていた。
その作業効率は本来の祥子の能力の7割といったところだ。あまり捗っていないのは、隣にいる人物のせいである。間違いなく。
(無視してればいいのよ)
そんなことを自分に言聞かせても、内心、祥子は史緒の気配が気になってしょうがなかった。過去、二人きりになって、史緒が祥子を怒らせなかったためしはないのだ。
逆に、史緒は史緒で、一度書類に目を戻すと、祥子の存在など忘れているかのように仕事を再開する。机の上のキーボードを叩く音と、ペンを走らせる音が交互に響いた。
普段、7人揃うことがある部屋だ。狭くはない。一度、顔を上げて空間を見渡すと、祥子は史緒と二人でいることに息苦しさを感じずにはいられなかった。
(「史緒は心の中までポーカーフェイスなの」)
少し前、史緒のことを、そう評したことがあった。
でもそれは少し違う。史緒は決して無表情と呼べる人柄でもなかった。
祥子以外の仲間に見せる和やかな笑顔、少しの憤り、応接用の愛想笑いも。
人並みに表情は動いてる。
(でも感情の起伏はない)
祥子が驚く点はそこだ。・・・そして、嫌悪して止まないところでもある。
別に、史緒の、感情が読めないところが嫌いなわけじゃない。(支配欲を満足させてくれる相手としか付き合えないほど、馬鹿ではないつもりだ)
ただ。
(本気じゃないのよ)
何に対しても。特に、祥子に対する挑発するような嫌味な口調までも。
他人を怒らせたり、からかったりするのも本心からじゃない。本音をぶつけてくるわけじゃない、史緒のはただ、他人を操作しているだけだ。
そういうのは嫌だ。祥子はそう思う。
史緒という人柄は気に入らないけど、認めている部分も少なからずある。
対等な喧嘩をしてくれるなら、こんな嫌悪感は抱かずにすむのに。
祥子は知っている。
そんな史緒の挑発するような言動の的になっているのは、自分だけだということを。
(つまり史緒は私を嫌いなのね)
では何故一緒にいるのかというと、お互い利用できることがあるからなのだ。
今、思えば第一印象はまだマシだった。第二印象は最悪の2文字以外では語れないけれど。
(そりゃ、初対面のとき声をかけたのは私の方だけど・・・)
「人生最大の汚点」。その時のことを、祥子はそう位置付けている。
はああぁぁぁ、と、大きな溜め息を漏らした。
「祥子、手が止まってる」
パソコンの画面から目を逸らさずに、史緒は言った。
「考え事してたのよ」
これはさすがに理由にはならないかな、と祥子は自覚した。それより祥子は無視すると決め込んでいたはずの相手に言葉を返してしまったことに気づかなかった。この辺り、まだ修業が足りない。
祥子の理由にならない理由に対しては、史緒の声は返ってこなかった。
「史緒って友達いないでしょ?」
唐突だった。祥子は考えるより先に口に出していた。
車の中で新居と交わした話題を思い出したのだ。本当に、突如思いついた質問、その声に嫌味を乗せる暇もなかった。この質問は「嫌味」ではなく「失礼」にあたった。
キーボードの音が、はた、と止まり、少しの沈黙が訪れる。
本当に、心底驚いたような表情で、史緒は顔をあげた。珍しいことだ。
「・・・・祥子に言われるとは思わなかったわ。そのセリフ、そのままそっくり返すわよ」
「な・・・っ!」
驚いた表情は確かに珍しい。しかし次の言葉は間違いなく祥子の知る史緒の「史緒らしい」言葉だった。
「私の話はしてないでしょう! 挙げ足を取らないでよ」
「・・・・いるわ」
一言。史緒の声は大きくなかったが、祥子を制するには十分すぎる重みを持っていた。
「え?」
「友達、いるわよ」
「ええ──────っ!!」
ばん、と思わず立ち上がる。本人、決して大袈裟とは思っていない叫びを、史緒は複雑な表情で聞いた。
「そんなに驚かなくても・・・」
「ちょっと待って、的場さんと御園さんは別よ! あの二人は仕事仲間でしょ」
「・・・あの二人も友達だけど」
「だめっ、それ以外! もちろん、ここのメンバーも抜きにして」
「女で一人」
「うそっ!」
あっさりと否定されて、史緒は嘆息した。さらに祥子は続ける。
「どうして史緒と友達付き合いができるの、信じられないっ」
椅子から立っている為、祥子の視線は史緒を見下ろすかたちになっている。史緒は肩をすくめてみせると、祥子の目をみて言った。
「相当、嫌われてるのね。私。祥子に」
「ここに初めて来たときも言ったはずよ」
何を今更、と言わんばかりに祥子はさらりと返した。そのまま踵を返しキャビネットへ、コーヒーをいれに行く。
史緒は祥子の後ろ姿を見て一瞬だけ、懐かしそうな表情を見せた。
「・・・そうだったわね」
その声は祥子には届かない。
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