キ/GM/01-10/10
≪1/2≫
1995年9月。
少女は、約一年ぶりにその地に降り立った。
「・・・もぉー、何でこんなに混んでるの」
その声は何故か嬉しそうだった。
人、人、人。人に押しつぶされながら、駅の改札を抜ける。
ここが通路であることが疑わしい程の、混雑した喧騒をくぐりぬけると、足を止め、嘆息した。そして、おのぼりさんよろしくキョロキョロと首を振ると、少女はにんまりと笑う。
駅としては、少女が知っている中でもかなり広い。広いはずなのに、この人口密度はいったい何だろう。今、来た場所を振り返ると、ホームから降りてくる階段にも人があふれている。デート中のアベック、休日なのにもかかわらず営業中のサラリーマン、急いで駈けてゆく学生・・・。
これだけの人数を同時に眺められるのは、「駅」という特殊な場所ならではかもしれない。
だから、少女は嬉しくて笑ったのだ。
少女はジーンズに花柄のカーディガンという服装で、唯一の荷物は背中のナップサックだけだった。年齢は11歳。髪は耳の上で二つに結んでいるが、それでも長い直毛が肩にかかっていた。
混雑に対する愚痴をこぼしながらも、その表情は明るく嫌味がない。
この少女も、沢山の人間を見ることが好きな性格だった。
まだ残暑が残る日差しの強い、暑い日だった。
目的地であるその家は都心から少し離れた住宅地にある。
駅から徒歩30分(少女はその距離を歩いた)、駅前の商業地を通り過ぎて店先の看板が見えなくなった頃、そこは見えてくる。
緩やかな坂を上ると、あまり広くない道の左右には一軒家が立ち並んでいる。少女は通り行く人に挨拶しながら進み、その家の前で止まった。
大会社の社長宅にしては、かなりささやかな家だ。
門柱には「阿達」と書かれていた。
ぴんぽーん。
前触れもなく、門の向こうの玄関ががちゃり、と音をたてて開いた。てっきり、インターフォンでの応答があると思っていたのに。
茶色の扉から現れたのは、咥え煙草の背が高い青年。右手でノブを押し、左手の上の分厚い本に目を落としたまま、声だけをこちらに投げた。客を迎ようとする態度ではない。
「どちらさん?」
本に集中していて顔を上げようとしない。本を読むのか、応対するのかどちらかにしてほしいのだが。
その足が敷居から外に出ようとしないのは、陽の光が眩しいせいだろう。
少女はその青年を知っていた。
背が高く、不健康なまでに痩せた体つきで、手足はその長さより細さが際立つ。それでも「華奢な好青年」に見えるのは、顔がある程度整っているせいかもしれない。髪は短くそろえているが、前髪だけは長く目にかかっていた。読書用の眼鏡は縁なしのミラショーン。本のタイトルは日本語でも英語でもなかった。それだけは少女にもわかった。
この青年の名は阿達櫻。歳は現在19歳。大学生である。
「あ、あの・・・」
対応に困り、少女が声をかけると、そこで櫻は初めて顔をあげた。本を読むのを邪魔されて、明らかに不機嫌な表情を見せる。少女の姿を認識すると、櫻は目を細め、抑揚のない声で言った。
「なんだ、蓮家の末っ子か。しばらくぶりだな」
「・・・・・・・・・お久しぶりです」
蓮蘭々。それが少女の名前だ。
「親父どのは元気か?」
「ええ、おかげさまで」
「"探しもの"は見つかったか?」
「櫻さんは?」
「まだだよ」
「あたしも、同じです」
そう答えると櫻は用が済んだらしく、蘭々がここへ来た用件を尋ねた。
「史緒なら別に帰ってない。何の用だ」
冷たく突放すような言い方に、蘭々は一歩退いた。わざと人を傷付ける人間は存在する。
天真爛漫、誰にでもすぐ懐いて人見知りしない彼女だが、唯一苦手とする人間が存在した。それがこの阿達櫻だ。
その表情にはいつも落ち着きと自信がある。それを持ち得るだけの知識と教養も、彼は有していた。ただ他人の言動を見透かしているような目つきと、他人を見下している物言いは気持ちのいいものではない。
この阿達家の子供は、何故か皆、歳不相応なほどに頭が良かった。しかしそのうち、ひとつ教えれば、十も百も理解するような天才肌はこの櫻だけで、他のきょうだいは英才教育も手伝っての努力の賜物という感があった。
「・・・今日は司さんの様子を見に来たんです」
上目遣いでむくれたような蘭々の言葉を聞くと、櫻は肩をすくめて皮肉を込めて笑った。
「それでわざわざ香港からか。ご苦労さん」
櫻は玄関から出てきて門を開ける。蘭々に中に入るよう、動作で示した。
蘭々は一礼して櫻の前を通り抜ける。その瞬間、思わず咽そうになった。
(すごい匂い・・・・)
本人にすでに染み付いている櫻の煙草の匂いだ。
彼の妹はこの匂いを嫌っていた。
本当に久しぶりにこの家の玄関に入ると、蘭々は懐かしさで胸がいっぱいになった。
櫻がスリッパを廊下に置く。
「あ、ありがとうございます」
蘭々はそれに足を通し、膝をついて、脱いだ靴を揃えた。日本人でもないのに、このあたりの作法は身についていた。
床の上、あらためて櫻と並ぶと身長差はかなりある。それは蘭々がまだ成長途中であり、櫻は成長期が過ぎた男性であることもあるが、彼は日本人の平均身長よりかなり長身だった。
「七瀬なら自分の部屋にいる。・・・ついでに新入りも見ていけばいい」
二階へと続く階段を指差して言う。しかしその目はすでに手元の本へと移行していた。
「新入り・・・?」
「あぁ、七瀬と一緒にいる奴がそうだ。うちの親父も気に入ったようだし、これから長い付き合いになるかもな」
あまり良くない意味の笑いと共に、櫻は言った。
広めのリビングとキッチン。洋間が3部屋と和室が1部屋。それにバス・トイレ。この家の一階の間取りはこんなものだった。そのうち洋間1室は櫻の個人部屋で、基本的に本人以外は立入禁止になっていた。
他にはめったに帰ってこないこの家の主人・阿達政徳の部屋は家具はほとんど無く、物置代わりになっている。それから政徳の秘書である一条和成の部屋も、この家にあった。
リビングに消えた櫻の後ろ姿を見送った後、蘭々は階段を上り始めた。
一段一段、この家の感覚を思い出しながら。
ふと、踊り場を過ぎたあたりで、蘭々はあることに気がついた。
一年前に来た時とは、雰囲気が全く違う。華が無い。
理由は知っている。
落ち着いたお洒落が好きで、この家の模様替えや家具の位置などの全権を握っていた笑顔の絶えない女性は、昨年、亡くなった。この家を飾る人間はいなくなった。
今、ここに住んでいるのは先程の阿達櫻と、七瀬司である。前述した通り阿達政徳と一条和成はめったに帰らない。
そして櫻の妹は現在海外留学中で、数か月ここには帰っていない。
(・・・帰りに、史緒さんのところに行ってみようかな)
帰路とは逆方向だが、蘭々にとってはそんなことは問題にならない。たとえそれが、世界地図上の話であっても。
ちりりん、と、どこかで鈴の音がした。音源を察した蘭の表情がぱっと明るくなる。
「ネコっ!」
軽い足音とともに、二階から黒猫が駆け降りてきた。鈴は首輪に付けられているものだ。
蘭々が手をのばすと、ネコはぴょんとジャンプして、蘭々の腕の中に収まった。
「やー、久しぶりー。元気だった?」
ネコはにゃあと鳴くと、蘭々の体に顔を擦り寄せた。
ネコ、とはこの黒猫の名前だ。もう七年もこの家にいるので、体もそれなりに大きい。全身の毛は見事なまでに真っ黒で、目を閉じると表情が見えなくなるほどである。この家の・・・というより、現在この家にはいない阿達史緒が飼っている猫なのだ。
かりかり、とネコが蘭々の首筋を引っ掻いた。
「なあに?」
引っ掻くといっても爪を立てているわけではない。そこに何かあるかのように、その何かを掴もうとするように、小さな手を伸ばしていた。
(そっか・・・)
思い出した。ネコは阿達史緒の腕の中にいるとき、よくそんなふうにしていた。
「ネコも史緒さんがいなくて淋しいの? 年末には帰ってくるって言ってたけど・・・」
あてになる約束ではない。
「司さんは元気?」
やわらかい体を優しく撫でて、蘭々はネコを抱えたまま、階上に昇った。
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