キ/GM/01-10/10
≪2/2≫
こんこん。右手で軽くノックをすると、中から「どうぞ」という聞き慣れた声がした。
「司さん、お久しぶりでっす」
ドアを開けるなり蘭々は弾んだ声で言った。驚かそうと思ってのことだったが、返ってきたのはいつもながらの落ち着いた声だけだった。
「やあ、蘭」
机に向かっていた少年が振り返って笑った。蘭、というのは蘭々の愛称である。
七瀬司。現在15歳。成長しきってない体格で、「少年」の域はまだ出ていない。
目は開かれているが、それがよく機能しないことを蘭々は知っている。彼が普通の生活に戻れるよう、訓練していた経過を蘭々は見てきたのだ。ある時期からみれば、比較するまでもなくその落ち着いた性格は、まるで別人のようでもある。
彼は阿達家と血縁はないが、長い間ここで暮らしている。世間的には阿達政徳が引き取った形になるが、籍は入れていない。養子ではなかった。その中途半端な関係を不思議がる者も多いが、表立って率直に尋ねる人はいなかった。それは七瀬司が、社会的に見ると「障害者」という枠に収められ、あまり良くない意味の訳有りなのだと、勝手に解釈してくれる人が多いからだ。
「半年ぶりくらいだっけ?」
「7ヶ月ぶりです。どーして驚いてくれないんですかー、久しぶりに会いに予告無しで来たのにー。父さまもたまには顔出せって言ってましたよっ」
蘭々が部屋に入ると司は立ち上がり、部屋の隅のキャビネットに向かう。その上に置いてある保温状態のコーヒーを、カップに注いだ。
「あ、私がやります」
「いいよ、座ってて」
そう言う司のカップを持つ手は、少しも迷ったり震えたりしていない。見えていないはずなのに。
余計な家具を一切置いてないこざっぱりしたこの部屋も、司の行動に支障を出さない為のものだと分かる。改めて蘭々は司の動作に、感嘆の吐息を漏らした。
蘭々の腕からネコが飛び出した。司のほうへと駆け出す。
「あ、ネコ?」
司はネコが近寄る足音を聞くと、急いでキャビネットにカップを戻した。
突然飛びかかられて、カップを落としてしまう危険性もある。そうしたら熱いコーヒーがネコにかかってしまうかもしれない。
一瞬のうちにそんなことを考えたことはおくびにも出さず、司はその場に腰を下ろし、足にじゃれるネコを撫でた。
蘭々は司に促され、先程まで彼が座っていた椅子に座る。カップを受け取りそれを口に含んだ。
「誰かいるんですか?」
ベッドに腰掛け、同じくコーヒーを飲んでいる司に尋ねる。
首を傾げた蘭に、司は驚いたようだった。
「あ、わかった?」
「いえ、さっき櫻さんが新入りがどうのって」
七瀬と一緒にいる奴、と言われても、この部屋には誰もいない。
「ああ。・・・おーい、篤志ー」
司はよく通る声で叫んだ。
(アツシ・・・?)
すると、ウォーキングクローゼットのほうで物音がした。この部屋と続いている広めの間・・・・確か司が書庫として使っているはずだが。
「・・・・?」
蘭々の呟きの後で、何やらガタガタという音が響く。しばらく沈黙があったかと思うと、突然ガラッと引き戸が開いた。
そして低い声。
「つーかーさー・・・・・・・」
疲れた様子の長身の男が現れた。恨みがかった声で司の名を口にする。その手には数冊の雑誌が抱えられていた。
蘭々は突然現れたその人物に驚いた。
床に座っているのでよくわからないが、体は大きめだと思う。髪が長い。ひとつに結わえていた。
男のその態度を予想していたのか、司はおもしろそうに声をかけた。
「レポートの資料になるような本は見つかった?」
男は息を吸い、司に何か言いかけた。が、あまり意味の無いことだと思い至って、言葉を飲み込む。溜め息をついて、呟いた。
「・・・一時間無駄にした思いだよ」
「役に立つ本は、いっぱいあるはずなんだけど」
「そうだな。俺に点字が読めたらな」
嫌味がこもった台詞は、司には効かなかった。
書庫、といってもその中に収められている本は、普通の人には読めないものがほとんどだった。昔、司が目の療養中に読んでいたもの・・・・点字である。
レポートの資料を借りに来た男は、この結果を予想していなかった自分の浅はかさに落ち込んでいた。本を床に置いて立ち上がると、その男は司より顔ひとつぶん背が高く、かなり長身だということがわかる。
片や黒猫を抱いた少年、片や大柄で長髪の青年。
この二人が並んだ姿は、どう見ても奇妙だった。それもどうやら司のほうが発言力が勝っているようだ。
蘭々が呆然とした目で見ていると、男はようやく少女の存在に気づいたようだった。
「あれ・・・?」
「前に言ったよね。僕がお世話になってた蓮家の・・・・」
「ああ。蘭々か」
合点がいったように笑う。
「蘭、彼は関谷篤志。櫻たちの再従兄弟だよ。横浜に住んでるんだけど、たまに遊びにくるんだ。歳は・・・えーと、17 だっけ?」
レポートが大変らしいよ、と笑う。篤志は司に睨み付けるような言葉を返す。
篤志は蘭々に向き直って。
手を差し伸べた。
「はじめまして、蘭」
「え・・・?」
気になったのは、きっと、台詞回し。それから多分、笑顔。
蘭々は手を返すことも忘れ、篤志の顔を見入ってしまった。
差し出された手のひら。そしてその言葉、その声さえも。
愛しいと思った。
感傷にも似た思い、懐古と郷愁。
胸がこんなにも痛いのに、嬉しいと感じた。
出会えた。
・・・・そう、感じた。
落ち着いて、落ち着いて、深くゆっくり息を吸う。
胸が熱い。叫んでしまうほど。
蘭々はうつむいた頭の下でにっこり笑うと、振り切るように顔を上げた。
圧倒されるほどの勢いで篤志の手を両手で握り、そのまま自分の胸元へと引き寄せる。
そして叫んだ。
「あたしっ、篤志さんに惚れましたっ!」
唐突、としか言いようがない。
蘭のその台詞は、この家にいる全員の耳に届いた。
滅多に動揺しないはずの司は不覚にも飲んでいたコーヒーを吹き出した。
さらに、下の階から質のよくない笑い声が聞こえた。これは櫻だ。
そして当の関谷篤志本人はというと、蘭と目を合わせたまま、
「────── は?」
と、奇妙に顔をゆがませて、よくわかってないような呟きだけを口にする。
それが、蓮蘭々と関谷篤志の出会いだった。
end
≪2/2≫
キ/GM/01-10/10