キ/GM/11-20/11
≪9/9≫
カクテルパーティ効果、という言葉がある。混雑している人波の雑踏の中でも、たった一人の声が浮かび上げ聴き取ることができるという心理的聴覚効果のことだ。
それと同じようなことが、視覚効果として祥子に働いたんだと思う。
沢山の文字の中から、無意識にそれは飛び込んできた。
記事の中には、知っている固有名詞が書かれていた。
「……なに?」
無意識のうちに呟いた声は、信じられないほど震えていた。頭痛を起こす程の激しい驚愕のせいだけじゃない。
思い出したくない過去。否、思い出さずとも、その記憶はいつもここにある。
(その、名前)(聞きたくない)
(どうして新聞に?)(どうして日阪さんの部屋で)
(単なる同姓同名)(あたりまえ)(わかってる)
(わかってるけど、どうしてここで)
(私に、見せるの────?)
胃が上下に跳ねた気がして、吐き気が胸から込み上げた。
「……っ」
咄嗟に口元を押さえる。
その苦さに涙がにじんだ。
同姓同名の他人と分かっても、前触れ無くその名を目にするのはやはり辛い。
「三高? どうかした?」
「あっ、いえ、日阪さん、これって…」
無理に笑顔を見せたこと、気付かれなかったようだ。
慎也は祥子が指差す先、壁へと目をやった。
もう何年も前、自分がまとめたスクラップに目を止め、懐かしがるようにそれを眺めた。
「ああ、その記事は」
そのうち一枚の新聞記事の写真を、指差した。
女の子がトロフィーを抱いて笑っていた。無垢な微笑み。
「これは、俺が尊敬するピアニストの記事」
「!」
(ピアノ───?)
その単語一つで祥子は愕然とした。
『私は小さい頃、音楽家になりたかった』と、彼女が言ったことを覚えている。
(まさか)
ただそれだけのことで、彼女とこの記事を結び付けるのは馬鹿げている。
(でも同姓同名)
祥子は不安になった。
動悸が上がって、目の前の小さな記事を読むことができなかった。
(まさか…)
自分の想像してしまった可能性をせせら笑う。
分かってる。当然。あたりまえだけど。
慎也の尊敬するピアニストが彼女であるはずがない。
数ある記事の内容は全て、ある少女のことについて書かれていた。
天才ピアニスト。
わずか7歳の少女が、トロフィーを掲げ笑っている。記事は絶賛の嵐、当時のクラシック界を震撼させた若手新鋭。年不相応な表現力。人々を引き付ける音楽。数々の受賞。
『私は小さい頃、音楽家になりたかった』と。
ああ、それから、誰もいない音楽室でピアノを弾いていた。
『嫌いなの、音楽が』。そう言ってたくせに、流れるような指でピアノを弾いていた。
写真の中で笑う女の子。その少女の十年後の姿を、祥子は知っている。
慎也は感慨深げに、懐かしそうに呟いた。
「中村結歌、か」
「───」
心臓が、止まるかと思った。
日阪慎也の口からその名前が出るとは、夢にも思わなかった。
中村結歌。
ここ六年、耳にしなかった名前。口にしなかった名前。
でも、心の中では、苦い思いとともに何度も叫んだ名前だった。
慎也は指差した記事について語り始めた。
「今も昔も、ずっと尊敬してるピアニスト。中村結歌っていって、確か三高と同い年だったかな。俺が10歳のときのピアノコンクール優勝者で、彼女は当時7歳だった。彼女の演奏を聴いたのは後にも先にも一回だけだったけど、…すごかったよ、あの子は。ほら、例の曲。あれの作曲者」
祥子は目を丸くした。慎也が初めて会ったときに弾いていた曲、尊敬していると言った音楽家の曲。…その作曲者が「中村結歌」だったとは。
「で、でも、たった7歳の女の子なんでしょう?」
「音楽と数学の才能の開花時期は際限なく早いよ。一を教えれば十も百も知る天才というのは、確かに存在する。…でも彼女の場合、両親揃って音大出で、そういう環境ではあったらしいけど」
そのあたりの情報は雑誌のインタビューから。
「…今は、何してるの? この女の子」
「それが、1987年12月13日のコンクールから、中村結歌は姿を消してる。音楽界からいなくなった。このことは業界一部で大騒動になってたよ。…でも、きっと今もどこかでピアノを弾いてるだろうって、俺は思ってる。彼女の行方をずっと追ってるんだ。手がかりも何もないんだけど、一生のうちにもう一度、彼女の演奏を聴きたい」
それはファン心理を超えて、生きて行く上での目標の一つになってしまっている。
「俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ」
壁一面のスクラップにまるで誓うように、慎也は真っ直ぐな瞳で言った。
10歳の時から16年間。一度諦めた音楽への道を再び歩き始めたのも、中村結歌という存在が忘れられなかったからだ。彼女の曲を弾き続けているのも、その存在を探し続けるという目的への戒めかもしれない。自分へ、その誓いを忘れない為の。
慎也は壁のスクラップに目をやっていたので気付かなかった。
その隣で、祥子の表情が凍り付き、青くなっていったことを。
「───日阪さん」
「ん?」
「ごめんなさい。今日はこれから用事があるので帰ります」
バッグを持って腰を浮かせる。
「そう? 送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。───わ……きゃっ」
わき目も振らず急いだあまり、祥子は室内のほんの少しの段差に躓いた。膝をついてしまい、ついでに両手をも床についた。髪が肩から落ち、祥子の顔を隠した。
「おい、大丈夫か?」
慎也が苦笑して、祥子の腕を持ち上げた。肩を支え、立たせてやる。
祥子はうつむいたまま、顔を上げようとしなかった。
「どこか…────三高?」
祥子の顔を覗きこむ。慎也は見た。その両眼には涙が滲んでいた。
「え? …どうした?」
「…さよならっ!」
祥子は踵を返し、走って、靴を履いて、ドアを開けた。
「おいっ! 三高!」
走った。振り返れなかった。自分がどんな顔をしてるか分からなかったから。
今の自分の顔を見たときの、慎也の表情を見るのが怖かった。
(俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ)
その台詞を聞いたとき、頭から爪先まで、血の気が引いた。
───怖い、と思った。
中村結歌を知る慎也と、この先も付き合っていくことを。怖いと思った。
慎也の声が追いかけてきそうな勢いだったので、祥子はアパートの外に出るとすぐにタクシーを拾った。
「浜松町、大門! 急いでくださいっ」
そう叫んだ後、息を吸うと、ひゅーと喉が鳴った。一旦、息を吸うと、今度は声を漏らさないように息を吐かなければならなかった。
何がこんなに苦しいのか分からない。
息苦しい。頭痛。吐き気。痛い。苦しい。
…だめだ。
(思い出してしまった)
あの、遠い夏の日を。
祥子は頭を抱えて、泣いた。
end
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キ/GM/11-20/11