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 1987年12月13日。
 名前が語り継がれることは無い。
 十年前の、あの奇跡のような演奏を聴いた百数十人のうち、どれだけの人間が覚えているだろう。
 あの「神童」を。そして演奏を。
 歴史に刻まれること無く、一人の音楽家は消えた。あの時あの空間にいた者は全て、たった瞬間だけでも、その音に対する感動で拍手を送ったはずだ。あの、ステージの上の少女に。
 そう。やはりあの中の数人は、忘れないまま死んでいくのだろう。
 神の音楽を魂に刻み込んだまま。生まれ変わっても、忘れないために。

 そして三高祥子も、その音楽を聴いた。



 どうしてピアノをやめたの?
 お父さんとお母さんが亡くなったことと関係してるの?(最後のコンクールと同じ日だった)
 死神って何の事?
 どうしてわざわざ東京へ出てきたの?(死神から逃げる為?)
 
 どうして死んだの? 何故。
 あの夏の日、遠く離れた、静かな霊園で。
 病気? それとも───…。
 …何があったの?

 死神に追われていたというあなたは、誰?


 結局、何も分かってない。
 調べることも出来ないでしょう?

 今となっては誰も、真実を知り得ないのだから。

 ────あなたがもういないという、現実を外に置いて。





2-8
 7月最後の日曜日。月曜日の週間天気予報では曇りになっていたが、それは昨日修正されて、その修正通り雲一つ無い空が広がっていた。遅かった梅雨明けもどうにか越して、夏本番が近付こうとしている。
「日阪さん」
 朝、祥子が慎也の部屋に顔を出した時、慎也は洗面台の前で歯ブラシをくわえていた。
「おー、三高。もーちょっと、上がって待ってて」
「はーい」
 遠慮なく、と祥子は靴を脱いで上がらせてもらう。
(あれ?)
 奥の部屋へ足を踏み入れると、以前来た時と違う違和感を感じた。その違和感の正体はすぐに分かった。
「…スクラップ、取っちゃったんですね」
 壁一面をあれほど埋めていた新聞雑誌の切り抜きが、今はきれいにはがされている。よく見ると白い壁は画鋲によってあけられた穴の跡が数多く残っていて、その名残を感じさせた。洗面所のほうから慎也の声が返ってきた。
「ああ。一区切りできたし、もういいかなと思って。今はファイリングしてあるから、見たいとき見ていいよ」
 本棚の片隅にそのファイルは挿し込まれていた。そのファイルの厚さが彼女の存在感そのものを表しているような気がして、それが慎也の部屋に置いてあることに、祥子は少し複雑になったりもする。
 ま、仕方ないか。
 納得してしまうのは、祥子自身にとっても彼女の存在が大きいことには変わりないからだ。
 ふと見ると、壁に一枚だけ、ピンで留められた写真があることに気がついた。
 祥子ははにかんだ。それは慎也と祥子が並んでいる写真で、ついこの間一緒に出かけた時に撮ってもらったものだった。
(……)
 まず一枚。そんなことを思う。
 もっと増えていけばいいな。それは贅沢な願いだろうか。
「三高? そろそろ行くかー?」
「あ、うん」
 そして二人は青い空の下を歩く。
 今日は、佐城高1998年度卒業3年3組同窓会「7月会」に行く。
 慎也も一緒に。そしてその後、G県K市、中村結歌の墓参もするのだ。


「結局、三高は何やりたいんだ?」
 アルバイトを始めたのは、自分の将来を探すためだった。慎也のその質問に、祥子は回答に窮することはなかった。
「ちょっと考えたんだけど」
「お?」
「カウンセラーって、何か資格が必要なのかな」
 先日、阿達史緒にも同じようなことを答えたところ、「その能力に適性は合っても、あなたの性格には合わないわね」と手厳しく言われた。
 カウンセラーに必要なのは、相談者の気持ちを理解する能力ではなく、相談者が悩んでいることを相談者本人に気付かせる能力なのだと、史緒は説明していた。他人とのコミュニケーションが不足している祥子では無理だと、暗に言いたかったのだろう。
 もう何年も前になるが、祥子は仕事で警察に連れて行かれ、犯罪者の自供を別室から見ていたことがある。勿論、嘘発見器として働く為だ。同じ部屋には史緒と、史緒と懇意にしている刑事がいた。祥子はすぐに気分が悪くなって部屋を飛び出して、吐いた。
 それでも、そういう使い方が、祥子の能力を活かす方法としては最適なのかもしれない。でも。
「人のために役立てられたらって思うの」
 この手に持っている能力の無力さに歯痒さを感じている自分がいた。何の役にも立たないことに絶望を感じたりもした。
 でもそれを過去のものにするために。
「史緒は無理だって言ったけど、…やってみたいの、私」
 力強い呟きをもらす祥子の横顔を見て、慎也は微笑んだ。
 慎也の右手が、祥子の頭をぽんぽんと叩く。
「いいんじゃない? 史緒さんだってどうせ、三高を煽るためにそんなこと言ったんだろ」
「えっ! どうして分かるのっ?」
 祥子でも(もしかしてそうなのかな)程度にしか分からないのに。
「あの人、あれで結構三高のこと気に入ってるよな。顔に出ないからわかりにくいけど」
「……」
 慎也に言われると無下に否定できないので、祥子は複雑な表情で黙り込んでしまうしかなかった。

 でも、そう。史緒との関係にしても、それから自分自身のことも。
 5年も前に比べると、何もかもが変化してきている。
 6年前まで、ずっと独りだった。
 中村結歌と会って、自分の無力さを知った。
 阿達史緒。本人の前では言わないが、理解者の一人であることは確かだ。
 そして日阪慎也。受け入れてくれた人。
 …きっと、想像もしなかったような未来が広がっている。
 もし、震える足で孤独を抱えていた過去の自分がどこかにいるなら、会えるなら、…いや会わなくても。
 エールを送る。
 がんばって、ここまで生きてきて。あなたを迎えてくれる人が、ここには沢山いるから。
 この青い空に誓って。
Epilogue

 その少女が、十七歳の夏───最期の瞬間に祈ったこと。誰も知らない。

 たった一人、あの孤独な友人に。
 仲間や恋人、…理解者が現われて欲しいと、祈った。

 切実に。
 近い未来、あなたと出会う誰かへ。
 願いが届いて欲しい、と。

 最期に祈ったこと。
 誰も知らない。

end

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