/GM/11-20/12
13/14

 今、日阪慎也という人間を前にして、祥子は結歌の最後のメッセージを思い出していた。
 メッセージと言うにはかなり不完全で、伝わりにくいものだったけど。それは三高祥子へのものだった。
 祥子はここ数時間の間に、結歌が最後に吐き出したという「これ」の正体を、何となく気付いていた。
 彼女は最後に曲を書いたのだ。
 そしてこれは祥子の願望にも近いのだけど、結歌はその曲を書くことで「恐れ」から解放されたのだと、祥子は信じたかった。彼女は最後に救われたのだと、ただ祈りたかった。
 真実は誰も分からない。ただ、そうでありますように、と。
 中村茅子からその紙片を受け取る前、祥子はその書き置きの内容が「結歌の抱えていた苦しみが少しでも分かるものであるように」と思っていた。
 けれど思惑は全く外れて、結歌は祥子を諭す言葉を残した。
 祥子はそれを読んだ途端、泣いた。けれどそれは悲しみの涙ではなかった。
「あ…」
 ふと、思い出して、祥子は自分の荷物の中から手の平に乗るくらいの包みを取り出した。
「なに?」
 慎也が覗き込んでくる。
「今日…中村さん家に行ったときにいただいたんだけど」
 結歌の書き置きを読んで、祥子が落ち着いた後に。
 巳取あかねに渡されたのがこの包みだ。
「結歌の書き置き、これの、“あんた”さんに、渡したかったの」
 と、言った。
「まったくもう、またメッセンジャー役しちゃったわ。6年間もね」
 とも、言っていた。
 中村茅子も巳取あかねも、クラスメイトたちも結歌の書き置きの意味が分からなかった。このメッセージの受取人にこの包みを渡したかったのだと、巳取は言った。
「なんだろう?」
 慎也にすべてを話すということに気が回っていて、これの存在をすっかり忘れていた。
 祥子はその包みを解いて、中身を取り出した。
 慎也も興味深そうにそれを見ていた。
「カセットテープ…?」
 祥子の呟き通り、それはカセットテープだった。ケースにすら入ってない。
 どうやらかなり古いもののようだ。プラスチックに擦りキズが沢山付いていた。テープ自体のメーカー名はよく聞くものだけど、今ではめったに見られないモノラルのテープだった。
「?」
 何気なくテープをひっくり返すと、そこには擦れた文字のラベルが貼ってあった。
《1987/12/13》
 慎也と祥子は同時に目を見開いた。その日付には、覚えがある。
「嘘。これ…、まさか」
「あ、俺、ウォークマン持ってる」
 そう言うと、慎也は慌てて自分の荷物を荒らし始めた。
 音大生というものは、大抵ポータブルの録音媒体を持ち歩いているものらしい。普及率ではMDとテープが半々くらいで、慎也は両方持ち歩いているようだった(友人と交換するときなど、どちらでも対応できるようにする為らしい)。最近ではCD-Rやメモリスティックなどもあるがこれらはまだごく少数しか出回っていない。
 ウォークマンにテープをセットして、二人はイヤホンを分けて耳にあてた。
 再生ボタンを押す。
 耳を傾けると、曲が流れ始めた。
 自然と、二人は目を合わせる。
 テープに録音されている曲は、想像通りのものだった。
 祥子にとっては、慎也がよく弾いていた曲。慎也にとっては、16年前に耳にした曲。
 16年前の、中村結歌の演奏だった。
「…」
 目を閉じると、そのときの光景が見えるようだった。舞台の上でピアノを奏でる少女。演奏されているのは、この曲、…演奏者は7歳の中村結歌。数百人の聴衆はこの音楽に魅了される。
 呼吸を忘れていたのか、慎也は深い深い溜め息をついた。
「…また、聴けるとは思わなかったな」
 胸がいっぱいになっていることが分かる。涙が滲んだ。
<今度、私の演奏聴かせてあげる>
 祥子は俯いて、その音楽を聴いていた。
(聴いたよ。私。あなたの演奏を)

「ありがとうな、三高」
「え?」
「中村結歌のこと、教えてくれて。…ありがとう」
(─────…)

 今、はじめて、許されたような気がした。
 救われたような気がした。
 この6年間、悩み苦しんだこと。いっそ忘れてしまいたかった───でも忘れずにここまで生きてきたこと。
 無駄じゃなかった。
 結歌を探し続けていた慎也に、彼女のことを伝えることが自分の役目だったとしたら、今までの何もかも、ちゃんとここまでの自分の一歩になっている。
 そう思うことができた。





「あの日のことは結構覚えてるよ」
 駅に向けての帰り道で、慎也は言った。
 時間はちょうど帰宅ラッシュで、駅方向からやってくる会社員や学生で歩道は人の流れができていた。2人は人波に逆らう方向へ歩いているわけだから、真っ直ぐに進むのはちょっと困難だった。慎也は祥子の手を引いて、できるだけ通行人とぶつからないように道を選んで進んだ。
「あの日…?」
「16年前、コンクールの日」
 中村結歌が音楽家として演奏した、最後の日のこと。
「俺も含めて大半の出場者は、出待ちの時間、ものすごく緊張してるわけだ。子供とはいえ多大なプレッシャーがかかってる、…どうしてかって言うと、全国大会にまで伸し上がってくるのは少なからず英才教育を受けてる奴等で、一丁前に自信とプライドを持ってるからだ」
 他人の緊張というのはこちらにも伝わってくる。
「同じ楽屋の中にいるから、息苦しくて仕方ない、ほんと。それにステージママってのが本当に何人もいて、そういう人達がさらに空気を悪くするわけ」
 そんな空気に嫌気がさして、慎也は廊下へ出た。静まり返った建物内をしばらく出歩いていると、ガラスの扉の向こう、中庭のベンチに女の子が座っているのが見える。その女の子はステージ衣装を着ていたので、コンクールの出場者だと分かった。
「後から分かったんだけど、彼女が中村結歌だったんだ」
 皆、楽屋の中で必死に緊張に耐えているのに。
 なのに、中村結歌だけは、寒くても天気の良い陽の当たる場所で日向ぼっこしてた。空を見上げ、笑っていた。地面に着かない足をプラプラと振りながら。口元が動いている…───。
 歌っていた。
 澄んだ空気、青い空、日の光の中で。
 なにものにも縛られず、ただ思いついた歌を。
「人が呼びに来るまで、彼女は歌ってた。その後、俺は彼女の演奏を聴いて、…驚いた」
 “ああこの子は、俺達には聴こえない音楽を聴いてるんだ”と。
 そんな存在がいるのだと、驚いた。
 神に愛されていた。
 そんなことを信じさせる程に、彼女の音楽は純粋で澄んでいた。
「その後、俺はすぐにピアノをやめた。確かな才能を持つ人間がここにいる、俺が何をしても自己満足にしかならないと思ったから。…結局は諦められなくて、今、こうしてピアノを弾いてるわけだけど」
 けれどそんな才能を持つ少女に、運命は味方しなかった。
 たった17歳でこの世を去ってしまったのだから。
 ───とある宗教で、こんな考え方がある。
 若くしてその生命を終わらせる者は、神に愛されている。愛されているからこそ、現世での生を早くに終わらせ、神の元へ召還されるのだ、と。
 もしかしたら彼女も、そんな存在だったのではないか。
 それは慰めにもならないけれど、不思議と温かい気持ちになる。
「…三高も、同じだよな」
 慎也は言った。祥子はつないでいる手に、力を込められた気がした。
「え?」
「中村結歌と同じ、君は聴こえないはずの他人の心の声を聴いてる。人って、中々自分の本音を言えなかったり隠したがるものだけど、でも本当はどこかで“聞いて欲しい”って思ってるところがあると思うんだ。三高はそれを聴いてくれている。…もしかしたら、中村結歌と同じで、それは才能というのかもしれない」
 祥子は慎也の顔を見た。彼は笑っていた。
「はじめて言われた…。そんなこと」
 慎也の言葉は真剣に本音で、言葉と一緒に気持ちも真っ直ぐ伝わってきて、祥子は口元に空いているほうの手をやった。泣けてきたからだ。
「えっ! …三高? 何で泣くのっ?」
 慎也はぎょっと立ち止まって、祥子の顔を覗き込む。その慌てぶりがおかしくて破顔した。声をあげて笑った。そして一度笑ってしまうと涙も止まらなくなって、さらに慎也はうろたえていた。
 混雑している歩道で、手をつないでいる男女が何をやっているのだ、と物珍しそうに振り返る人が何人かいたが立ち止まる人はいなかった。人波の中で立ち止まっているのは二人だけだった。
 もう一つ、慎也は言った。
「そりゃ、俺は三高に知られたくないこともあるし、やむを得なく嘘をつくこともあるかもしれないけど」
「いいよ」
 祥子はそれを遮って、
「日阪さんの嘘なら、騙されてあげる」
 二人は目を合わせて、それから二人して吹き出して、声をあげて笑った。
 ───多分、これから長い間。辛い嘘や優しい嘘があって、知られたくない心の痛みが沢山あるだろうけど、例えそれらを隠し苦しんでも、「わかってくれている」という思いで心が軽くなる。そんな気がする。
 全て、とは言わないから。ほんの少し、口にしなくても、この思い、伝わっていることが救いになると思うから。
 きっとこれから喧嘩もして、行き違いがあったりするだろうけど、きっと長く付き合っていく。
 愛しいと思う。
 共通の存在を心に抱いてきた、もう一人のことを。

13/14
/GM/11-20/12