キ/GM/11-20/16
≪1/7≫
「高校くらいは卒業してよね」
たまに、母はそう言う。視線を窓の外に固定させたまま。
突き放したような言い方。
白い部屋。ここは空気が澄んでいる。静かで───でも、居心地の悪い場所。
私はわずかに目を落として、いつも、母の指先を見ている。ここに来てから、いっそう細くなったように思う、白い指先。
胸が苦しくなる。居たたまれない。黙るしかできない。
お母さん。私もう、あの場所には居たくない。
何もないはずだった乾いた教室には、今はつらい思い出しかない。
周囲の景色を無視することに慣れたつもりだったのに、苦い空気に泣きたくなるなんて。
こんな感情があったなんて、知らなかった。
母は、僅かに口の端を持ち上げて、笑う。痛い。
「じゃあ、あなたに、他に何ができるの?」
1997年12月。
街はお定まりのようにクリスマス一色だった。
雲一つない…でも、星一つない、高く、抜けるような黒い空。空気は刺すように冷たくて、通りは人にぶつからずには歩けなくて。それでも街はきらびやかで、平日の午後、学生たちは道にたむろしていた。
放課後になると、この季節すでに日は落ちている。日の光にとってかわるのはネオン。ツリーのランプや賑やかな有線。この街は人を集める魅力がある。それとも、人が集まるから、街に魅力が備わるのだろうか。
人を避けずには歩けない通りに立っていた。
渋谷駅JR中央口前。
めったにこんな場所にはこない。例えば季節モノの買い物でもなければ足を向けようとも思わないこの場所に、三高祥子はいた。
(…もぉ、あの先生、怒鳴らなくてもいいのに)
悪態をつくでもない。ただ、クサっているのは、今日の学校での二者面談を思い出し、自分に非の無いことを主張したかっただけだ。
肩までのウエーブの髪を揺らし、紺のセーラー服に赤いタイ、茶色のコート姿。あまり飾り気の無いことがこの街とは不釣り合いだったが、その見目の良さに通り過ぎる数人が振り返っていた。
もちろん、祥子本人もその視線に気付いてはいる。
自分に向けられる意識にびくびくしていた時期もあったが、今では街行く他人のその類の視線は気にならなくなっていた。進歩といえば進歩だ。
三高祥子には生まれつき特異な特技がある。
生まれてこの方17年間、それは祥子を苦しませるだけでしかなかった。それでもずっと付き合って行かなければならないちからなのだと悟ったのは中学生の頃。3回も転校して、母親をうんざりさせた頃。
それは諦めにも近い。
高校に入ってからは誰とも付き合わないようにしてきたし、関わらないようにしてきた。それでもその場に居ることを許されるのだから、学校という場所は祥子にとって確かに都合がよい。社会に出たらこうはいかない。
───例えば喜怒哀楽、それより複雑な思い。祥子は他人のそれを感じ取ることができる。音が空気を伝い耳に届くように、香りが鼻に届くように。感情が胸に届く。
笑顔とは裏腹の悲しみや、裏切り、腹芸。
祥子は騙されることもできない。ヒトは嘘ばっかりだ。そのことに呆れるけれど、ヒトの中で生きていくしかできない。そして何より恐いのはこのちからを気付かれてしまうこと。
だから、一人でいる。
そんな祥子が今日学校で、進路調査の提出用紙を初めてまともに記入して出した。高校二年生の冬、この時期に初めてまともに書いた。
家事手伝い。そう書いた。
本当に長い間迷っていたおかげで、担任はひそかな期待を抱いていたらしい。しっかりした人生設計を考えていたとか、自分なりの将来を決めていたとか。
迷惑な話だ。結局、その後、一時間ほど続いた説教については思い出したくもない。
(しょうがないじゃない)
この特異体質のせいで、人が多く集まるところに行くのは嫌だし、特に学びたいことがあるわけでもないし、進学するだけの金銭的余裕もないし。
それに。
(お母さん、…具合良くないみたいだし)
祥子の母親、三高和子は今年の7月から入院している。病状はあまり良くはない。
それらのことを考えると、自分の下した結論は間違いではなかったように思う。
手軽に移動可能なアルバイト生活を続ける。
(結局、そういうことになるかな)
しかし問題がないわけではない。つまり問題があるということだが、率直に言うとそれは金。
最寄り駅から徒歩十五分のマンションの家賃や水道光熱費に食費、税金。そして、和子の入院費も。現実はシビアだ。
大変なのはわかってる。今まであまり努力してこなかったし。でも、学校という枠組みから外れても。
前向きに生きるのは得意ではないけれど、私は。
外の世界とのつながりを、手放したくないのだ。
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