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 ハッとした。
 街中。突然、心臓を掴まれたような気がして、祥子は振り返る。
 急に立ち止まった祥子に、非難の視線を向けつつも周囲の人波は変わらずに流れてゆく。そんな夕暮れ時、殺人的混雑の中。
(なに…?)
 ざわつく胸を右手で押さえた。鳥肌が立つのが分かった。
 目の前は相変わらずビルに囲まれたにぎやかな街並み。その風景に紛れるように。
 気持ち悪い。よくない感じがする。というより、明らかな悪意?
 とりあえず祥子は街路樹のある端に寄った。目の前は無数の通行人。誰も何も気付かずに、わずかにも気付かずに、それぞれの家路へと向かう。
 …分かってる。この感覚器官を持つのは祥子だけだ。
 でもこんなとき、孤独にも似た悲しさを感じるのは何故? どうして誰も分からない、この、ざわめきに。恐い。どうして誰も、この悪意が存在していることに気付きもせず、笑っていられる?
 祥子は顔を上げた。
(誰…?)
 こういうことは珍しくない。とくに、こんな人波の中を歩いているときはなおさら。
 そうでなくても祥子は人間がたくさんいる場所が嫌いだ。意識的に避けている。
 いつも、このような場所にいて、特異な感情に出会ったとき、祥子は大抵無視してきた。───それは当然だ。下手に手を出して厄介事に巻き込まれても困る。それ以前に、そんな度胸は祥子にはない。
 でも。
 無視するときの、その場所から逃げ出すときの自分の気持ちほど、苦しいものはない。
 まるで背中に何か貼り付けてあるような、それを振り切って、転ばないように駆け出す。罪悪感。
 お願い、誰か気付いて。
 誰かが誰かを傷つけようとしている。
 助けて。悲しいことが起こらないように。
 臆病な私の代わりに。
 ───でもこの感覚は祥子だけのものだ。
 事態を変えたいなら、自分が動くしかない。
(どこ?)
 突然、すぐ近くで発生した悪意に、祥子は思わず辺りを見渡した。
 この感情の発生源を捜した。
 この感覚は、大体の方向も分かる。音や香りと同じ、強い方が発生源だ。

 ターゲット発見。
 白いコートを着て、背中まで髪を伸ばした女子高生。───の、隣に立つスーツ姿の20代後半と思われる男。
 2人は人波のなかを、女子高生が男の後をついていくように、歩いていた。
 男は顔はそこそこだけど、どこか胡散臭い笑顔。おまけに両耳ピアスに茶メッシュの無造作ヘアときた。女子高生に絶えず笑顔で話しかけ、誘導しているようだった。
 女子高生が少しの躊躇いをもちながらも足を運ばせているのを見て、
(ああ、もう、なにやってるの…)
 全くの他人事であるにも関わらず、祥子はハラハラして目で追ってしまう。
 女子高生、と祥子が思ったのは少々早合点だったかもしれない。その女の子は確かに祥子と同世代であるが、別に制服を着ているわけではなかったからだ。ハイネックのセーターに、白いコート。その裾から見える膝丈上の赤いスカート。髪は見事なストレートで背中まで伸びていた。
 どちらにしろ、見るからに胡散臭げな男に付いていくなんて正気じゃない。
 何かに釣られた? 自分に限ってそんなのに騙されないなんて思ってる?
 でも祥子だけは、今、明確に真実がわかる。その、男の悪意を。
 思わず後をつけてしまった。この混雑のなかでは尾行がばれることも無いだろうが、同時に見失わないように追うのも難しい。
 それでも何とか、会話が聞き取れる距離までの接近に成功する。人波が壁となり、ほぼ同じ位置で立ち止まっていても気付かれないだろう。
 祥子の位置からでは女の子の背中しか見れない。背丈は祥子と同じくらいだろうか。
「長く歩かせちゃってゴメンねー、もう少しだから」
 男が女の子の顔を覗き込むように甘えた声を出した。それを聴いていた祥子は鳥肌が立つのを感じた。寒気がした。ほとほと、人間というものは恐ろしい。
 女の子は何か答えただろうか。その声は祥子には届かなかった。でも首の動きで、特に気にしていない様子がうかがえた。男はさらに言う。
「ちょっと待っててくれる? タバコ買ってくるからサ」
 女の子が頷いて、男は離れ、近くのコンビニへと足を向けた。
(───っ)
 女の子は一人になった。祥子はこぶしを握る。息を飲む。
 ああ、私は今、何を考えている?
 耳が痛い。
「っ…」
 だめ。
 行っちゃだめ。もう懲りたはずでしょう? 助けることなんて、できないって。
 指先が震えてる。わかってる、馬鹿げた正義感の表われ。
 …見過ごすの? また、何もできないまま。
(どうしろって言うの?)
 自分のなかの葛藤。もう深く考えない、答えが出ないのは、もう知っているから。
 足が、動いた。
「───…待ってッ!」

 叫んでしまった。
 女の子の肩を掴んでしまった。
 細い肩。
 祥子の力が思いの外強かったのか、反動で、体が向き直る。
 そのとき長い髪が、かすかに手に触れた。
 驚いて目を見開いた顔と、祥子は目が合った。少しだけ、祥子のほうが視線が高い。
「え…?」
 突然、見知らぬ人に肩を掴まれて戸惑わない者はいないと思う。目の前の女の子も例に漏れず、祥子を見て複雑な表情を見せた。
「…あのぅ」
「あの男、あなたを騙そうとしてる」
 直球。
 祥子のほうが動転していたせいもあるが、祥子は深く考えることができず、口走ってしまった。そしてそれを省みるくらいの余裕も、このときの祥子にはなかった。
「とても、嫌なことを思ってる。私、わかるの、あなた、騙されてるよ? 早く、今のうちにここを離れたほうがいい」
 目を見開き凝視する女の子に、祥子は一気に言った。
 言い終わったあと、息があがっていた。手に汗をかいていた。極度の緊張と、感情の昂ぶりのせい。
「───…」
 祥子の言葉を理解するのに時間がかかっているのか、女の子は相変わらず祥子の顔を見つめたまま。
(別に構わない、通りすがりの他人だもの)
 進歩の無さを、そう納得させる。
 自分が、困っている人を放っておけないようなお人好しだとは思わない。
 ただ、いつも。
 このちからの使い方を探しているだけだ。
 目の前の女の子の口が微かに開き、何か言いかける。が、声にはならなかった。
 ───その瞬間、祥子は見た。
 目を細めて口端で笑う、がらりと変化した表情を。
「おせっかい」
 確かに、女の子は小さく、失笑して、そう呟いた。
(え?)
 耳を疑う祥子を前にして、女の子は(女の子なんて言えない、だって表情がさっきと違う)、嘆息して乱れた髪を払った。その際、髪の隙間から赤い石のイヤリングが見えた。
「知ってるわ。あの男の下心なんて、初めから」
 と、つまらなそうに言う。
 悪寒が走り、祥子は引き腰になった。
 つと、第一印象とはまるで違う、鋭い視線に射たれる。
「───だけど」
「!」
 突然。彼女の腕が祥子の手首を掴む。逃げられなかった。手首を引かれ、引き寄せられる。覗き込む、知らない顔。
「どうしてあなたは、それを知っているの?」
 底知れない余裕を持った、不敵な笑顔。
「───…ッ」
 祥子は息を飲んだ。
(何、この子…)
 もう、目の前にいるのは普通の十代の女の子には見えなかった。すべての情報を吸い出すような瞳。
 その目に測られている、と感じた。声をかけた意図、言葉の真意。
 嫌な予感がした。
 あ、やばい。と、理由も脈絡もなく祥子は思った。
(目を付けられたっ)
 これは祥子のちから云々ではなく、直感。
「…っ」
 バシッと祥子は掴まれている手を振り払った。遠慮しなかった。
 逃げよう。
 何か捨て台詞でも吐こうかと思ったが、実際、そんな余裕なかった。
 祥子は、人込みに紛れて駆け出した。
(変な人に声かけちゃった………!)

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