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「───結局、あなたの計画通りになったのね」
 三高和子は本当に感心して、息をついた。
 誰に向けた言葉でも無い。
 というわけではない。
 ジャッと隣のベッドのカーテンが開いた。ベッドは空だった。そこで寝ていたはずの人間は、昨日退院したのだ。
 代わりに、そこに座っていたのは阿達史緒だった。
「そういうことになりますね」
 コートとバッグを抱え立ち上がり、和子の傍らに腰を落ち着けなおした。
「でも実際、この結果にする為にずいぶん動いたんですよ」
 史緒は微笑んだ。和子はそんな史緒の表情を見て、肩をすくめる。視線を前に戻して言った。
「努力家なのね」
「自分の思い通りに事を進めたいなら、当然のことです」
「なるほど。立派なご意見だわ」
 半分は皮肉だ。その皮肉が、自分の娘と同年代のこの少女に伝わったかどうか。和子はちらりと盗み見るが、史緒の表情からは読みとれなかった。
 阿達史緒。彼女は数日前、初めてここへ訪れた。娘───祥子のことを尋ねたい、と。
 自らが所長をつとめる事務所のメンバーに祥子を招き入れたいと思っていること、そして祥子本人にもアプローチ中だということ。その旨、母親である和子にも了承して欲しいということを、史緒は丁寧に礼儀良く伝えた。
 史緒は祥子のちからのことは一切口にしなかった。でも、祥子のそれを理解しているのだと気付き、和子は驚いたものだ。
 それが、つい先日のこと。
 そして今日、祥子がやってくるより数分早く史緒は乗り込んできて、和子に事情を説明するより早く隣りのベッドに身を潜めたというわけだ。
「よく気付かれなかったわね」
「何となく、コツは掴めました」
 と、笑う。
 なにそれ、と返すことはしない。そのコツとやらの感覚は和子もわかるからだ。それは祥子の能力を理解し、そのちからが及ばない範囲、限界を測り知ることができた後の作業だが、阿達史緒はそれをすでに掴んでしまっていた。そう、祥子の能力だって、完璧ではないのだ。
 だからこそ、和子のほうもこんな親子関係が保たれている。祥子が和子の本心の本心を知ったら、今の関係とは違ったものになるだろう。
 実は、祥子に今日郵便局へ行くよう和子が頼んだのも、史緒から頼まれたことだった。祥子に近づく手段はないかと相談されてのことだった。
「…いつか、来るんじゃないかと思ってたのよね。祥子のこと、言ってくるヒト。どこかの研究所とか、変なサークルとか…映画の見過ぎかしら。…フフッ、まさか、あなたみたいな同年代の女の子が来るとは夢にも思ってなかったわ」
 でもどんな人間が祥子の前に現われても和子は何も言わないと決めていた。祥子自身がついていくと決めた相手なら信じられるから。そういうちからを、祥子は持っているから。
「───和子さんの、祥子さんに対するそっけない態度は、内に篭って欲しくないからですね」
 史緒の言葉に和子は笑みをひっこめた。初めて会ったときからそうだが、どうも娘と同年代の子と話をしているような気がしない。この、阿達史緒という人間には。
「当たりよ」
 和子は素直に答えた。史緒にはこの先、娘の祥子を預けるのだ。誤解のないように理解してもらいたい。だから下手に感情を隠すことはせず、和子は日頃考えている本当のことを、そのまま口にした。
「あのちからのことで、辛いことや苦しいことがあるのはわかるの。人間不信に陥ったり、理解してもらえない感覚に腹を立てたり、…孤独を感じたり。そういうことは中学のときに乗り越えたみたいだけど、あの子が独りでいることは今も同じみたいだから。ただ、何かあるたびに私のところへ来て弱音を吐くようになるのは困るなって思ったの。───外へ出て、自分で理解者を捜し出して欲しかった。まぁ結局は幸運にも、向こうからやってきてくれたみたいだけど」
 甘やかされてるわね、と和子は苦笑した。一方、史緒はその台詞についてはひとこと言いたい。
「…お言葉ですが和子さん。私は祥子さんの理解者になれるなんて、自惚れていませんよ」
 うかがうように進言しても、和子は目を細めて笑うだけ。
 実際、史緒は三高祥子の利用価値を高く評価しているだけだ。
 それ以上の何を期待しているのだろう。和子も、そして篤志も。國枝藤子も。
 …そんな風にしか今の状況を理解していない史緒でも、それ以上追求するのは自分のためにならないと直感することができた。わざとらしく大きなため息をついて、立ち上がる。
「───では、約束どおり、三高祥子さんは私のところでお預かりいたします。和子さんはゆっくり療養なさってください」
「わかったわ。あの子のこと、よろしくお願いします」
 母親らしい表情でそう答えて、和子は毛布をはいでベッドから降りた。
「見送りは結構です」
「すぐそこまでよ」
 和子が床に立つと、史緒より少し背が高かった。病人らしい線の細さがやっぱり目立って、史緒はそれに気づくと自分の母親を思いだした。すぐにその想像を頭から振り払う。
 病室の入り口まで並んで歩いたところで、和子が声をかけた。
「あ、それから」
「はい?」
「祥子はどう思ってるか知らないけど、私は私を養っていくくらいの貯蓄はあるの。現役時代にそれくらい稼いできたし、保険も充分降りてる。あの子が卒業するまでの学費だってちゃんと払えるわ。もしあの子がそういう心配をしているなら、今すぐに働く必要はないって、それとなく伝えてもらえない?」
「いやです。…そんなこと言ったら、ウチで働いてくれなくなるじゃないですか」
 あまりにも史緒が否定を即答したので、和子はおもしろくなって「そうね」と笑った。
 廊下に出ると史緒は振り返って軽く頭を下げた。
「今日はこのへんで失礼します。また、来ます」
「……」
 最後の史緒の、いつもの笑顔を見てとった和子は、はぁ、と息をついた。
 迷ったけれど、やっぱりひとこと言わせてもらうことにする。
「阿達さん」
「何ですか?」
 軽く促した史緒に返ってきたのは、和子の厳しい表情と、強い声だった。
「覚えておきなさい。自分の思い通りにしたいなら、裏で動くだけでなく、その要望を素直に直接相手に言うことも大切なのよ」
「……」
 毅然と立つ和子。史緒は目を見開いた。
 和子の台詞は、すでに史緒の性格を見抜いていることを示していた。見抜かれている笑いを向けるのは相手に失礼であるし、自分にとっても無駄な労力を使うことになる。
 史緒は口を閉ざした。笑顔をしまい込み、真顔で和子と相対する。
「和子さん」
 和子の言いたいことはわかる。それが分かるくらいには、史緒は無神経ではない。
 本心をそのまま素直に口にしても、それは恥ずかしいことじゃない。そんな、裏で画策するばかりでなくて、自分の要望を直接伝えても、望む通りの結果が待っていることもある。
 自分の語彙に任せて素直に言葉にならない。プライドが邪魔して本心を歪曲させる。「立場」という責任を言い訳に用意して。
「私みたくは、ならないようにね」
 先程より少しくだけた表情で、和子は苦笑した。
「ええ」
 史緒は応えるように口端で笑う。
 それはいつもの彼女とは少し違う、少しだけ本音が覗いた顔だった。
「ご指導ありがとうございます。…でも、これが私の性格ですから」
 それだけ言うと、史緒は踵を返し、和子を残して歩きはじめた。コートとバッグを片手に、看護婦と外来で慌ただしい人波に消えていく。背筋が伸びて、ヒールの足取りも様になっている後ろ姿は、近寄り難い印象を与えていた。
 それは1998年2月中旬のこと。


 阿達史緒は病院から外に出ると、青い青い空を仰いだ。
 風が強く、長い黒髪が踊って、耳元の赤い石のイヤリングが見え隠れする。
 その、身を切るような風に、史緒はコートの襟元を合わせ直した。
 空は澄んでいた。
 本当に。どこまでも。
 この冷たい風に、雲が速く、流れていく。
(三高、祥子、か……)
 あんたのことは嫌いだから!
 史緒は口元で笑った。
 特に意味はない。ただふいに、彼女の捨て台詞を思い出しただけ。

 執着する対象がいる、というのは生き方を変える。
 その存在ひとつのために生きられるか生きられないか、前へ進めるかその場に留まるか。それは当人次第。

 どんなかたちであれ、一人、仲間が増えたのだ。
「…桐生院さんに報告にいかなきゃ」
 史緒は病院前の賑やかな歩道を歩きはじめる。
 いつもと同じように、人波は周囲に無関心で、そして、流れ続いていた。

end

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