キ/GM/11-20/18
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島田三佳は一人部屋の中で、その室内を見渡していた。朝、9時のこと。
部屋と言っても、ここは少し広めのキッチン。テーブルに据えられた椅子に腰をかけ、三佳は膝を抱えている。
視線を落とすと、少しくすんだ───けれど塵ひとつ無い───床。敷物の類は一切無い。壁際にはわずかな食器が収められている棚と、冷蔵庫、その上には電子レンジ。それらの間の壁には何も貼られていない。白い壁が見えているだけだ。
先程まで三佳が立っていたシンクには、今は水滴一つ残っていない。きれいに片づけたから。ただ、調理台の上にはコーヒーメーカーがまだ湯気をたてている。これも、三佳はすぐに片づけるつもりだ。テーブルの上の、コーヒーカップが空になってから。
目の前のテーブルの上には、カップがひとつ。それ以外に何もない。このカップは三佳専用であるが、この部屋は三佳の家ではない。
椅子は2つだけ。一瞬、大勢の来客があったときどうするのだろうと考えた。すぐにその想像はやめた。あまり意味の無いことだから。
けれど、三佳自身、他の誰かと一緒にこの部屋を訪れたことは、無い。
この潔癖なまでに片づけられた部屋に。
移動した物は元の場所に戻す───それが、この部屋を出入りする者の最低限のルールだった。
何故なら、この部屋の主にとって、すべてものの位置に意味があるからだ。彼にとって世界で唯一この部屋だけが、神経を張り詰めさせずに行動できる場所だから。
突発の危険や不安の無い、そう信じることができる場所。いつも、彼の何気ない笑顔の裏でさえ、頭の中では常にその環境を把握する為に計算が行われているのに、この部屋ではそれも無い。物の位置が常に一定で、それら全てが頭の中に描き出されているから。そんな奇跡の場所だから。
その安定性、安全性を一度でも覆したら、彼は安らぎの場所を失うだろう。
三佳はそれをよく分かっている。
部屋の見渡しついでに、三佳はあるものに目を止めて、軽く笑った。
それは壁にかけられた時計だった。これは初めてここへ訪れたときには無かったものだ。いつのまにか、そこに取り付けられていた。他にもある。カレンダーと、鏡、そして照明具。これらはすべて、この部屋の主である彼には必要無いものである。
何も言ってないし、何も言わないのに、一つ二つと増えてゆき、その度に三佳は彼の気遣いに嬉しくなった。
「三佳、どう? おかしくない?」
引き戸が開いて、この部屋の主───七瀬司が顔を出した。珍しく正装である。黒いスーツを着て、紺色のネクタイを締めた襟を息苦しそうに指で整え、三佳の前に立つ。つまりは喪服だ。十代の彼には、やはり少々野暮ったさを感じる格好だった。
三佳は膝を抱えていた腕を解いて椅子から降りると、司の元へ近寄る。
「ネクタイ、曲がってる」
「あ、そう?」
司は自然に腰を屈めて、三佳は自然に腕を伸ばし、司の襟元を整えた。手早くすませて、ぽん、と軽く肩を叩く。立ち上がりざまに司はありがとと短く言った。
2人は向かい合いの椅子に腰掛けた。司は空振りせずに椅子の背を掴んだし、座る角度も深さも戸惑うことはなかった。
「他の支度は?」
「うん、完了。───あ、コーヒー飲んでる? 一口ちょうだい」
「新しいのいれるけど」
「いいよ、そろそろ篤志が向かえにくるから」
三佳からカップを受け取ると、司はそれに口をつけた。そしてふと思い出したように言う。
「朝御飯ありがとう。おいしかったよ」
「どういたしまして」
いつものように平然と受け答えする三佳だが、おいしかったと言われて悪い気はしない。特に司相手なら。
「史緒に恨まれるかな」
三佳の同居人である人物の名前が出る。阿達史緒が家事全般苦手なことも、2人の同居生活で三佳がそれを担っていることも司は知っていた。
今朝7時、三佳は食材を抱えて司の部屋へやってきて朝食を作り司に食べさせた。三佳も一緒に朝食を摂った。すると、史緒はどうしているのだろう。
三佳はつまらなそうに答えた。
「あいつなら朝早く出かけた。礼服だったから、目的は同じなんだろ」
合点がいったように、司はああ、と呟いた。
そのとき、司の携帯電話が鳴った。曲目は「きらきら星」。篤志だ、と司は呟いた。
懐から携帯電話を取り出し、ボタンを押す。
「もしもし。おはよう」
『はよっス。今、アパートの下に来てる。一条さんも一緒だ』
「分かった。すぐ行くよ」
司はそれだけで会話を終わらせて、ぱちんと電話を折り、慣れた手付きで懐に仕舞う。
司が電話を終わらせる前に、三佳はすでに立ちあがっていた。帰り支度を始めるためだ。
「三佳? 君はどうする?」
「帰る。今日は洗濯日和だ」
「所帯染みた台詞だね」
「史緒のせいだろ」
玄関口で司は脇に置いてあるサングラスと白い細身の杖を持った。
三佳は、彼がそれを持ち歩くことを煩わしく思っていることを知っている。
「これはパフォーマンスだよ」
と、司は言ったことがある。
慣れていない場所で、司は自由に活動できない。
誰かに手を引いてもらわなければならないし、見知らぬ人の善意に頼らなければならないこともある。
「自分は障害者だと、アピールしなければならないこともあるんだ」
不本意だけどね、と笑う。これは、障害者として見られるのが嫌なのではなく、単に彼は自分の能力に自信があるのだ。
2人は靴を履いて玄関の外に出た。司が鍵を締め、歩き出す。
三佳は手を貸さなかった。玄関を一歩出た瞬間から、司が気を引き締めるのが分かったけど、ここはまだ司の活動範囲内だから。
このアパートは4階建で、司の部屋は2階にある。エレベーターはない。司はいつも、一階ぶんの階段を昇り降りしなければならなかった。本人はそんなことを気にも止めていないようだが、三佳は司が階段を歩くときは声をかけないようにしている。
だから、三佳は、階段に差し掛かる前に司に尋ねた。
「今日は、誰の法事なんだ?」
「阿達咲子さん。史緒のお母さんで、僕もすごく世話になったんだ」
すぐに答えた司に、へぇ、と三佳は短く答えた。
2人、階段を降り始めたので三佳はそれ以上何も言わなかった。
(……)
三佳は内心、自分の堪え性の無さに嫌悪していた。
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