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 その瞳は確かに見開いていた。あたしの目の前で。


 いつも調子の良いドアは、その日に限って蝶番が音を立てた。
 酷く耳障りで、あたしは眼を細める。
 ドアを開けて、…そうだ───そのとき、あたしは息を飲んだ。
 それを、確かに覚えてる。
 その部屋はよく知ってる部屋だったのに、知らない光景がそこにはあった。
 昼間なのに、薄暗い部屋。カーテンが引かれた部屋。窓も閉ったまま。
 カーテンからもれる僅かな日の光だけが、物の位置を教えてくれていた。
 あたしはすぐに部屋のなかへ足を踏み入れることができなかった。
 床の上は散乱していた。
 陶器の置き物や人形、ぬいぐるみ、本などが無残なかたちで配置されている。この部屋のなかに台風が訪れたのではないかと思うほどの、惨状。
 ただ、静かだった。
 何も聞こえなかった。
 風の音、車の音。小鳥の鳴き声さえも。

 ベッドの上に誰かいる。
 横になっている、小さな影。
 その影だけで、それが誰なのか、わかった。
 小さなからだ。毛布を体に巻き付け丸くなっている。
 長い黒髪が、白いシーツのうえに流れていた。
 小さな手のひらはシーツの上で、かたく、かたく握られていた。
 微かにも動かずに、そのちからを弱めることもないまま。
 暗闇のなかでも確認できた。その瞳は見開かれていた。
 それとわかるほど、大きく見開かれていた。
 瞬きもなく、見開かれていた。
 充血したその瞳が示すものは何もなかった。驚愕や恐怖、そういった感情のようなものも、瞳の延長線上にも何もなかった。
 そう。目の前にいるあたしさえ、その瞳には映っていなかった。
(…っ)
 あたしは恐くなった。
 だって、今まで、同じものを見て、同じように感じて、笑い合ったともだちの、その眼に、何も映っていないなんて。
 目の下には信じられないほど大きな暈。ボサボサの髪が、憔悴しきった顔を隠していた。
 でもその両眼だけは見開かれていた。
 近寄ると本当に小さく、擦れた呼吸がきこえた。
 無性に息苦しくなる、あたし。
 我慢できなかった。
 こんな沈黙があることを、生まれて初めて知った。
 恐くなった。だから名前を呼んだ。
 返事があることを祈って。
 彼女の、いつもの。明るい声の。明るい笑顔の。
 あたしは、名前を呼んだ。
「────…しお、さん」


 それは、蓮蘭々が、後に運命の相手と定める関谷篤志と出会うよりずっと以前のことだった。
 七瀬司とも知り合っていなかった。司を紹介してくれた一条和成さえまだ現われていなかった。
 そんな昔のことだった。

 だからその訃報を知らされた時、蘭々は悲しむより先に、異国の友人の元へ飛んだ。いなくなったのは蘭々の大好きなひとだったけど、同じように故人のことを大好きだったその友人を思って飛行機に飛び乗った。
 だって彼女の周りには、彼女のちからになる人が誰もいなかった。
 まだ、誰もいなかった。
 ───阿達亨を除いて。
 亡くなったのは彼女の兄。阿達亨。
 蘭々も、そして友人の阿達史緒も、彼を慕っていた。亨が死んだと聞いて、蘭々は咄嗟に史緒のことを思った。きっと悲しんでいるだろう。他の誰でもない、阿達亨が亡くなったのだから。自棄になってはいないか、深く沈んでいないか、そして胸が潰れる程のその悲しみを誰にも言えないでいるのではないか。
 蘭々は生まれて初めて、胸が騒ぐ、という感覚を知った。
 史緒の父親・阿達政徳は日本でも指折りの大会社の社長だ。蘭々は数えるくらいにしか会ったことがない。それは実子である史緒も同じだと言う。
 母親・咲子はあの家では暮らしていない。生まれつき病弱で、どこかで療養しているとか、…蘭々はよく知らない。史緒も数回しか会ったことない、と言っていた。
 亨の双子の兄・櫻。彼は、苦手意識の対象でしかなかった。その性格自体がよく分からない。
 何だろう、形容し難いけれど…櫻は別の世界を見ている───蘭々はそう思っていた。
 同じものを、同じように感じない人。
 明るく優しかった亨とは対照的で、櫻はいつも他人を見下しているような、そんな瞳をしていた。

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