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 1988年4月───。
 空港から出ると、その空の青さに気持ちが沈んだ。
 いつもなら気分が良くなるところだけれど、今日という日は別だ。願わくは、こんな日は二度と来ないように。
 付き人と一緒に空港からタクシーに乗り込んだ。
 阿達家に着くなり蘭々は飛び降り、茶色のドアに駆け寄る。ドアを開けようとしたが、ノブに手が届かなかった。以前、訪れたときと同じ風景なのに、大きなドアが蘭々の来訪を拒絶しているように感じられた。
 無性に苛立って小さな手でドアを乱暴に叩く。大した音にはならなかった。
「はやくあけてっ!」
 叫んでいた。その日本語が正しかったかは分からない。蘭々が日頃使う言語は英語と中国語なので、今叫んだ言葉が日本語として正確に発音されたか自信はなかった。
 もう一度、ドアを叩いた。
「あけてよっ」
 泣きそうになる。早く史緒に会わなければいけない。蘭々はそう思った。
(しおさん…っ!)
 やっと後ろから来た付き人より早く、扉は内側から開けられた。
「蘭さんっ?」
 出て来たのは中年の女性、この家のおてつだいさん。顔は知っていた。名はマキといった。心配なのか、安心したのか分からないような表情で彼女を迎えた。
「遠いところようこそお出でくださいました…」
 幼い蘭々でも、この家で不幸があったのは承知している。ただ、このような時に言うべき言葉は知らなかった。だから何も言葉を返せなかった。
「しおさんは?」
 マキは気まずそうに視線を泳がせた。
「あの、史緒さんは、今はまともにお話できない状態です。…なので」
「どこにいるのっ?」
 蘭々の怒鳴り声に、マキは言葉を飲んだ。5歳の子供の迫力に圧されたのだ。
「…ご自分の部屋に、いらっしゃいます。でも…」
 蘭々は最後まで聞かなかった。2階、史緒の部屋へと向かう。
 この家の2階には部屋が4つある。割り振りは、櫻、亨、史緒と、もう一つは空き部屋だった。ゲストルームは1階にあるが、蘭々がこの家に泊まる時は史緒の部屋に泊まっていた。
 櫻は留守のようだった。蘭々は何も言わず、史緒の部屋を開けた。そして驚いた。
「しおさん…?」


 反応はなかった。
 史緒は起きて、蘭々の前で眼を開けているのに、返事もなかった。
 背筋が凍った。
(聞こえないの? しおさん)
 ひどく、恐くなった。
「しおさん…っ!」
 叫んでいた。
 そのあと、呼吸が乱れている自分に気付いた。
 大声を出したこと、それに、暑くもないのに、あたしは汗をかいていた。
 返事はなかった。
「…っ」
 蘭はいままでにないくらい、乱暴に、史緒の肩を押した。
「しおさぁん…っ!!」
 それは小さな手の、些細なちからでしかなかったはずだけど。

 史緒の肩がびくっと動いた。
 何も見ていなかったはずの瞳が、わずかに左右する。
 大きく開かれた瞳はさらにしっかりと開かれ、そして蘭々を見止めた。
 黒い瞳と、目が合った。
 見る間に表情が生まれる。懐かしい、彼女の顔になる。
「…」
 口元が微かに動いた。息を吸う音が、ひゅう、と鳴った。
「───…らん」
 喉も、口の中もカラカラに渇いているような声が小さく響いた。半径10cmしか聞こえないのではないだろうかと思うくらい、小さい声だった。
 この部屋に久しぶりに、音が発生した瞬間だった。
 みるみるうちに史緒の黒い両目に涙が浮かび、それは顔を横切ってシーツに吸い込まれた。
「蘭…」
 目をつむって、顔に皺を寄せる。史緒は鳴咽をあげた。声を殺していた。
 史緒は泣いていた。
 何故だろう、ほっとした。
 だって、表情もなく、何も見ていないような状態よりは、良かったから。
 もう、部屋の暗さなんて気にならなくなっていた。
「───、櫻、が…」
 と、史緒は鳴咽の間に言った。
「え? さくらさん?」
 突然、何のことだろう?
 泣きじゃくる史緒の顔を覗き込む。
「…櫻の、せい」
 史緒はそう言った。次に叫んだ。
「櫻のせいだぁ…っ」
 その声には明らかな感情が込められていた。
(しおさん…?)
 多分、その感情の名は、「敵意」、ではないだろうか。
 史緒は胸がいっぱいになったのか、もうそれ以上は言葉にならない。こめかみを拳で押さえて、強く、頭をシーツに沈めさせた。
「どうして笑うの…───」
 呼吸が一瞬止まった。
 血が
 そう、呟いたあと。
 史緒は悲鳴をあげた。
 そして声をあげて泣いた。すべて吐き出すように。


 でもその涙は悲しみじゃない。蘭々はそう思う。
(…何かあった?)
 史緒は、亨が事故に合ったその現場にいた、というのは後になってマキに聞いた。
 何があったの?
 櫻さんがどうかしたのかしら
 何に怯えている?
 ───何を、見たの?
 蘭々は訊くことができなかった。きっと史緒は誰にも言わない。
 でも、それは。史緒を捕らえて離さない過去となり、精神的外傷となる。
 真実を知るのは同じく現場に居たという櫻と、亡くなった亨だけ。


 その後、蘭々の父親も来日し、阿達亨の葬儀が行われた。
 桜の花が舞う、春の日のことだった。
 史緒は部屋にこもったまま出てこなかった。
 母親の咲子は、この時、療養先から失踪していた。(1週間後に帰ってきた。理由について彼女は死ぬまで喋らなかった)
 結局、葬儀には父親と、櫻が参列した。
 葬儀の途中、蘭々は少しだけ櫻と話すことができた。
 その時の内容を、他人に語ることは、まだできない。


「あたし、ここにいる」
 その週の最後の日、蘭々は父親や他に来日した兄姉に向かってはっきりと言った。
 ちょうど、帰り支度を済ませホテルを引き払い、阿達家にいる蘭々を向かえに来た家族の前でのことだった。
「蘭々?」
 皆、驚いた。
「しおさんの傍にいる。あたし、そうしたいの。父さま、いいでしょう?」
 蘭々は必死で説得しようとする。言葉を知らない幼い娘からの一生懸命な訴えに、蘭の父親は思いとは裏腹にすぐに言葉を返せなかった。それは兄姉たちも同様のようだった。
「だめ」
 その場に響いたのは、他でもない史緒の声だった。戸口のところに立ち、蘭を睨んでいた。先程の蘭の主張を聞いていたようだ。史緒は相変わらず顔色が悪いものの、洋服に着替え、久しぶりに部屋から出てきていた。
「史緒さんっ?」
 驚く蘭の声を無視して、史緒は蘭の家族たちに向き直り挨拶した。
「おひさしぶりです、おじさま。わざわざこちらにおいでくださったのに、あいさつがおくれてもうしわけありません」
 史緒は我慢していたのだろうが、語尾が震えていた。それからすぐに視線を落とした。蘭はその意味に気付いた。
 史緒自身、自覚しているわけではないだろうが、このとき史緒は生まれて初めて、他人と目を合わせることに気まずさを感じたのだ。目を合わせることで、自分のなかの感情を読まれることを恐れたのだ。今までにない感情が、自分のなかに生まれたことを感じ取っていたのだ。
「───蘭。おじさまを困らせないで。私は平気」
 そんな台詞を言われたからって、蘭々は引けるはずない。
 それから何時間も、蘭々は史緒を説得しようとしたけど、最後には史緒は自室に閉じこもってしまい、出てこなかった。
 蘭々は、最後に史緒の部屋のドアを小さな手で叩いて言う。精一杯の、捨て台詞。たとえ一方的なものでも、蘭々は言わずにはいられなかった。
「しおさん、あたしに居て欲しくなったらすぐ言って。あたし、飛んでくるから。お願いだから我慢しないで。約束して、しおさん」
 しつこく、史緒がうんというまで、蘭々はその言葉を繰り返していた。

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