キ/GM/21-30/21
≪2/4≫
1988年4月───。
空港から出ると、その空の青さに気持ちが沈んだ。
いつもなら気分が良くなるところだけれど、今日という日は別だ。願わくは、こんな日は二度と来ないように。
付き人と一緒に空港からタクシーに乗り込んだ。
阿達家に着くなり蘭々は飛び降り、茶色のドアに駆け寄る。ドアを開けようとしたが、ノブに手が届かなかった。以前、訪れたときと同じ風景なのに、大きなドアが蘭々の来訪を拒絶しているように感じられた。
無性に苛立って小さな手でドアを乱暴に叩く。大した音にはならなかった。
「はやくあけてっ!」
叫んでいた。その日本語が正しかったかは分からない。蘭々が日頃使う言語は英語と中国語なので、今叫んだ言葉が日本語として正確に発音されたか自信はなかった。
もう一度、ドアを叩いた。
「あけてよっ」
泣きそうになる。早く史緒に会わなければいけない。蘭々はそう思った。
(しおさん…っ!)
やっと後ろから来た付き人より早く、扉は内側から開けられた。
「蘭さんっ?」
出て来たのは中年の女性、この家のおてつだいさん。顔は知っていた。名はマキといった。心配なのか、安心したのか分からないような表情で彼女を迎えた。
「遠いところようこそお出でくださいました…」
幼い蘭々でも、この家で不幸があったのは承知している。ただ、このような時に言うべき言葉は知らなかった。だから何も言葉を返せなかった。
「しおさんは?」
マキは気まずそうに視線を泳がせた。
「あの、史緒さんは、今はまともにお話できない状態です。…なので」
「どこにいるのっ?」
蘭々の怒鳴り声に、マキは言葉を飲んだ。5歳の子供の迫力に圧されたのだ。
「…ご自分の部屋に、いらっしゃいます。でも…」
蘭々は最後まで聞かなかった。2階、史緒の部屋へと向かう。
この家の2階には部屋が4つある。割り振りは、櫻、亨、史緒と、もう一つは空き部屋だった。ゲストルームは1階にあるが、蘭々がこの家に泊まる時は史緒の部屋に泊まっていた。
櫻は留守のようだった。蘭々は何も言わず、史緒の部屋を開けた。そして驚いた。
「しおさん…?」
反応はなかった。
史緒は起きて、蘭々の前で眼を開けているのに、返事もなかった。
背筋が凍った。
(聞こえないの? しおさん)
ひどく、恐くなった。
「しおさん…っ!」
叫んでいた。
そのあと、呼吸が乱れている自分に気付いた。
大声を出したこと、それに、暑くもないのに、あたしは汗をかいていた。
返事はなかった。
「…っ」
蘭はいままでにないくらい、乱暴に、史緒の肩を押した。
「しおさぁん…っ!!」
それは小さな手の、些細なちからでしかなかったはずだけど。
史緒の肩がびくっと動いた。
何も見ていなかったはずの瞳が、わずかに左右する。
大きく開かれた瞳はさらにしっかりと開かれ、そして蘭々を見止めた。
黒い瞳と、目が合った。
見る間に表情が生まれる。懐かしい、彼女の顔になる。
「…」
口元が微かに動いた。息を吸う音が、ひゅう、と鳴った。
「───…らん」
喉も、口の中もカラカラに渇いているような声が小さく響いた。半径10cmしか聞こえないのではないだろうかと思うくらい、小さい声だった。
この部屋に久しぶりに、音が発生した瞬間だった。
みるみるうちに史緒の黒い両目に涙が浮かび、それは顔を横切ってシーツに吸い込まれた。
「蘭…」
目をつむって、顔に皺を寄せる。史緒は鳴咽をあげた。声を殺していた。
史緒は泣いていた。
何故だろう、ほっとした。
だって、表情もなく、何も見ていないような状態よりは、良かったから。
もう、部屋の暗さなんて気にならなくなっていた。
「───、櫻、が…」
と、史緒は鳴咽の間に言った。
「え? さくらさん?」
突然、何のことだろう?
泣きじゃくる史緒の顔を覗き込む。
「…櫻の、せい」
史緒はそう言った。次に叫んだ。
「櫻のせいだぁ…っ」
その声には明らかな感情が込められていた。
(しおさん…?)
多分、その感情の名は、「敵意」、ではないだろうか。
史緒は胸がいっぱいになったのか、もうそれ以上は言葉にならない。こめかみを拳で押さえて、強く、頭をシーツに沈めさせた。
「どうして笑うの…───」
呼吸が一瞬止まった。
血が
そう、呟いたあと。
史緒は悲鳴をあげた。
そして声をあげて泣いた。すべて吐き出すように。
でもその涙は悲しみじゃない。蘭々はそう思う。
(…何かあった?)
史緒は、亨が事故に合ったその現場にいた、というのは後になってマキに聞いた。
何があったの?
櫻さんがどうかしたのかしら
何に怯えている?
───何を、見たの?
蘭々は訊くことができなかった。きっと史緒は誰にも言わない。
でも、それは。史緒を捕らえて離さない過去となり、精神的外傷となる。
真実を知るのは同じく現場に居たという櫻と、亡くなった亨だけ。
その後、蘭々の父親も来日し、阿達亨の葬儀が行われた。
桜の花が舞う、春の日のことだった。
史緒は部屋にこもったまま出てこなかった。
母親の咲子は、この時、療養先から失踪していた。(1週間後に帰ってきた。理由について彼女は死ぬまで喋らなかった)
結局、葬儀には父親と、櫻が参列した。
葬儀の途中、蘭々は少しだけ櫻と話すことができた。
その時の内容を、他人に語ることは、まだできない。
「あたし、ここにいる」
その週の最後の日、蘭々は父親や他に来日した兄姉に向かってはっきりと言った。
ちょうど、帰り支度を済ませホテルを引き払い、阿達家にいる蘭々を向かえに来た家族の前でのことだった。
「蘭々?」
皆、驚いた。
「しおさんの傍にいる。あたし、そうしたいの。父さま、いいでしょう?」
蘭々は必死で説得しようとする。言葉を知らない幼い娘からの一生懸命な訴えに、蘭の父親は思いとは裏腹にすぐに言葉を返せなかった。それは兄姉たちも同様のようだった。
「だめ」
その場に響いたのは、他でもない史緒の声だった。戸口のところに立ち、蘭を睨んでいた。先程の蘭の主張を聞いていたようだ。史緒は相変わらず顔色が悪いものの、洋服に着替え、久しぶりに部屋から出てきていた。
「史緒さんっ?」
驚く蘭の声を無視して、史緒は蘭の家族たちに向き直り挨拶した。
「おひさしぶりです、おじさま。わざわざこちらにおいでくださったのに、あいさつがおくれてもうしわけありません」
史緒は我慢していたのだろうが、語尾が震えていた。それからすぐに視線を落とした。蘭はその意味に気付いた。
史緒自身、自覚しているわけではないだろうが、このとき史緒は生まれて初めて、他人と目を合わせることに気まずさを感じたのだ。目を合わせることで、自分のなかの感情を読まれることを恐れたのだ。今までにない感情が、自分のなかに生まれたことを感じ取っていたのだ。
「───蘭。おじさまを困らせないで。私は平気」
そんな台詞を言われたからって、蘭々は引けるはずない。
それから何時間も、蘭々は史緒を説得しようとしたけど、最後には史緒は自室に閉じこもってしまい、出てこなかった。
蘭々は、最後に史緒の部屋のドアを小さな手で叩いて言う。精一杯の、捨て台詞。たとえ一方的なものでも、蘭々は言わずにはいられなかった。
「しおさん、あたしに居て欲しくなったらすぐ言って。あたし、飛んでくるから。お願いだから我慢しないで。約束して、しおさん」
しつこく、史緒がうんというまで、蘭々はその言葉を繰り返していた。
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