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≪3/4≫
1988年4月。阿達史緒は7歳、蓮蘭々は5歳。
それから一月に一度、蘭々は史緒のもとを訪ねることになった。少しの落ち着きを取り戻したものの、史緒は信じられないくらい無口になっていた。相手の目を真っ直ぐ見れなくなっていた。それから、顔だけで笑うということを、彼女は覚えたようだった。
何度目かに再会したとき、史緒は黒猫のネコを抱いて、一条和成───和くんが隣に立っていた。そのとき蘭々はこれでもかというほどの安心感を覚えた。単純に胸がすっとするような、幸福感を感じることができた。史緒は静かに笑っていた。
それともう一つ。亨の死を境に、史緒の母親である咲子が阿達家で暮らすようになった。
突然、間近で接するようになった母親の存在に、史緒は戸惑っていたようだった。でも史緒より先に咲子と仲良くなった蘭々や和成を通じて、史緒も、心を開いていった。
1992年、9歳の蘭々は、12歳の七瀬司と知り合った。
さらに3年後1995年。12歳になる年、東京の阿達家、七瀬司の部屋で、蓮蘭々は17歳の関谷篤志と運命的に(と、蘭々は言う)出会った。
1997年6月30日。史緒から、9歳の島田三佳を紹介された。
その間に、咲子は病死し、櫻は事故で亡くなった。それらの一件をまっすぐ受け止めるのに、蘭々も、そして史緒も少し時間が必要だったけれど、その悲しみに深く囚われるようなことはなかった。
史緒はもう一人じゃなかった。
10年後───1998年3月。
蓮蘭々は香港の自分の部屋で、日本から届いたエアメールに目を通していた。文面は日本語で書かれてあり、一枚の写真が同封してあった。
写真は明らかな隠し撮りで、対象人物は日本の高校生の女の子らしい。髪は肩までのウェーブで、セーラー服と呼ばれる日本の学校の制服を着ている。蘭々は数秒でその人物を頭の中にインプットした。
そしてすぐ、蘭々は日本にいる七瀬司に電話をかけてみた。現在の日本時間は夜の9時。この時間なら彼も家に帰っているだろう。
「史緒さんから手紙いただきました。一通りの事情は書いてありましたけど、誰なんですか? このひと」
『珍しく史緒が気に入ってる人間。でも向こうからは激しく嫌われてるよ』
さらりと面白そうに司は言った。
「新しく加わった人なんですか?」
昨年、史緒が何らかの事業を始めたことは知っていた。司は、そうだ、と答えた。
幼い日と同じ決断を。
まったく同じ気持ちというわけではないけれど、源となるこの気持ちはずっと胸のなかにあった。
躊躇無く口にした。躊躇など、する必要もないのだから。
「父さま。史緒さんが呼んでるの。あたし、行かなきゃいけない」
それは本当に心の底から湧き出る自らの意志。
川口蘭が日本に着いて初めての夜。
夜遅く、史緒は川口蘭の泊まるホテルを訪れた。
蘭は史緒を招き入れ、窓際のテーブルに添えられている椅子に、史緒を座らせた。自分も冷蔵庫からワインとグラスを取り出し、合い向かいに座る。
「乾杯しましょ、史緒さん」
史緒の来訪を喜んだ蘭は、にこにこしながら、
「今夜は無礼講です」
と、日本人でもなかなか遣わない言葉を口にした。
グラスに注がれるのは赤い水。グラスのひとつは史緒の前へ。もうひとつは自分の席に。
それから蘭は部屋の照明を落とした。外からの人工的な灯りだけでも、お互いの顔を見ることはできたから。
蘭がやっと椅子に落ち着くと、史緒は微かに笑った。
でもすぐに顔を伏せた。こんな風に内側から湧き出てくる笑顔は、おおよそ自分らしくない、感情的な本物の表情だから。
それを抑えてから、顔を上げた。
「───久しぶりね。こんなのも」
「3回目、でしたっけ。史緒さんが留学から帰ってきたときと、…ネコが死んだときと」
嬉しいときも、悲しいときも。こんな風に向かい合った。
共有した時間が長い、一番古いともだち。
「何に乾杯する?」
「それはもちろん、あたしたちの再会に、です」
蘭が力強く言うと、史緒も嘆息して、2人、グラスを鳴らした。
飲んでしまうのがもったいない程の、透きとおる深い赤色。窓の外の光を収束させ、テーブルの上に赤い波の影をつくっていた。
ひとくち、口に含んでグラスをテーブルに戻すと史緒が言った。
「あらためて───ようこそ。A.CO.へ」
所長らしい表情を見せながらも、喜びを抑えているのがわかる史緒の表情を見て、蘭も笑った。
嬉しかった。
目の前で史緒が笑っていること。すぐ近くに、篤志や司がいること。新しい仲間がいること。
こうして、史緒と語り合っていること。
この瞬間を、大切に感じた。
「ところで、何? 川口って」
と、史緒が苦笑混じりに訊く。
昼間、蘭がA.CO.の事務所を訪れたとき、三高祥子に向かって蘭は「川口蘭です」と自己紹介した。その名を聞くのは、史緒をはじめ篤志と司も初めてだった。
蘭は舌を出し、肩をすくめ、笑った。
「えへ。びっくりしました? 日本名のほうが都合が良いと思って」
「都合って…、あぁ、こっちでの学校決まってるんだっけ? その名前で手続きしたの?」
「ええ。全寮制の、父さまが知ってるトコなんですって。4月から3年生に編入するんです」
それから蘭は少しだけ声を落として、
「…それに、祥子さんにもそう名乗るほうがいいのかなって、思ったんです。…史緒さん手紙に書いてたでしょ? 偶然を装って、出会って欲しいって」
2人は黙って視線を合わせた。蘭は苦笑しながら言っていたが、やがてそれすらもしまってしまった。
先に目を逸らしたのは、史緒のほうだった。
史緒は何も言わなかった。ただこれは、肯定の沈黙だった。さらに、
「どこからでてきたの? 川口って」
と、全く別の話題を口にする。
「もぉ、そうやってごまかすクセ、相変わらずですねぇっ」
蘭も、いい加減、史緒とは長い付き合いだ。彼女の良い部分だけを知っているわけではない。
「あのね、史緒さん」
蘭の改まった声に、史緒は顔を上げた。
「ん?」
蘭は心なしか頬を赤くさせ、高揚したように息を弾ませ、けれどそれを必死で抑えようとして、言った。
「川口って、あたしの母さまの名字なんですって」
「───」
史緒は目をみはる
蘭は笑っていた。内面から込み上げる幸せを抑えきれない表情。
たくさんの気持ちがあって、あふれるほどの喜びがあって、いっぱいありすぎて、外に出しきれない、はにかんだ顔。
……いつからか、蘭はそれを口にしなくなっていた。
蘭の父親・蓮瑛林が、愛娘からの執拗な問い掛けにも決して答えなかったことを。
たったひとつの、素朴な疑問を。
史緒は初めて蘭と会った頃、蘭はまだそれを口にしていた。口癖のように、口にしていた。
いつからだろう。いつからか、蘭はそれを口にしなくなった。
諦めたわけでは、決してない。
蘭は変わらず笑っていたけれど、その胸のなかにはずっと、残っていたはず。
たったひとつの、素朴な疑問を。
(ねぇ、史緒さん)
(あたしの母さまって、どんな人かしら)
───史緒は息を飲んだ。
「おじさま…、教えてくれたんだ」
「そうなんです。…あ、教えてくれたのは名前だけですけど。でも、それでも、すごくすごく嬉しくて、…嬉しくて、こんなに幸せでいいのかーって思うくらいですっ」
目の前でテンション高くはしゃいでいる蘭。史緒は声をたてて笑った。眩しいくらい元気で真っ直ぐな蘭に、史緒はいつも助けられてきた。
「…ごめんね」
「えっ?」
「祥子に向かって、嘘つかせてしまったみたいで」
昼間の件だ。蘭は、なんだ、と笑って答えた。
「別に気にしてません、それに後で本当のこと、ちゃんと言うつもりです。───…でも、…そうですね。史緒さんが気に病むことはないです。あたし、嘘吐きだし」
答えて、苦笑した。
「蘭?」
何言ってるの、と。史緒は笑おうとした。
けれど蘭は真顔で言う。
「あたし、平気で嘘つきますよ。…取り返しのつかない嘘も、言ったことがあります」
「───でも、罪でない嘘もあるわ」
史緒はそんなことを言った。
すぐに弁護してくれる。…でもそれは、この告白の意味を理解していない証拠だ。蘭は苦笑する。
否定して欲しいわけじゃない。
ただ、記憶のなかに留めておいた記憶を、自分の感性がどんなふうに形にするのか、自分自身聞いてみたかったというのは、ある。
「…そうですね」
蘭はそう笑うことで、この場を収めようとした。
これも、嘘だ。
遠い昔。嘘をついた。
相手は、蘭が苦手なヒト。
目の前のともだちにも、あの嘘を懺悔することは、今はまだできない。
今は、まだ。
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