キ/GM/21-30/22
≪7/7≫
大塚真奈美は待ち合い用ソファに座り、エントランスを行き交う人間を眺めていた。
そんなに混んではいない。シーズンオフだし、ちょうどパック旅行の団体が捌けたところだから。
それでもエントランスから入ってくるのは、カートと旅行カバンを転がしてくる家族や若人パーティ。みんな笑顔で、どこかテンションが高い。これから踏みしめる異国の土に、心が満たされることを期待しているからだ。
ふと、真奈美は思った。
(そうよね、人間ってやつは、何をすれば満たされるのか、大抵知ってるよね)
───あの子は知らなかった。真奈美はそう断言する。
自分に欠落しているものは何か。欲しているものは何か。望んでいるものは何か。善悪を問わないストレートな欲望。そしてそれらを満足するにはどうすれば良いか。
あの子は知らなかった。欠落している自覚さえなかった。
知らないんだ。
淋しいという孤独。悲しみの涙。思い通りにならない憤り、切なさ。甘酸っぱい喜び、笑いあえる楽しさ。
うちの学科の授業は、あの子にはちんぷんかんぷんだったろう。理解できずにいたに違いない。
(知らないんだ…)
そう思ったらたまらなく哀れに思えた。
日本へ帰ったあの子は、何かと出会えただろうか。
思索にふけっていた真奈美はふと気配を感じて顔を上げた。目を細めて笑う。
「───…やっぱり、来た」
やわらかく呟く。
目の前には阿達史緒が立っていた。薄地のコートを着てショルダーバッグを抱えている。空港内の喧燥を背景に、変わらずの無表情でたたずんでいる。きっと内心は不本意だ。真奈美は笑った。
「彼らにせっつかれて来たんでしょ?」
「…そうやって、他人を操作するの、悪趣味ですよ」
嫌悪ではなく呆れて、史緒は息をついた。
「何言ってんの。あんただって私と同じ人種じゃない」
2日前、真奈美は阿達史緒と再会をはたした。本当に偶然。突然に。
仲間と一緒にいた。史緒は笑っていた。
史緒本人は中座したものの、真奈美はその仲間たちと少しの時間話すことができた。彼らとの別れ際、真奈美は言葉を残してきた。自分が2日後の午前の飛行機で日本を発つこと、史緒ともう少し話をしたかったなぁなど。さりげなく念入りに、あからさまにならない程度にしつこく。
そして真奈美の予想通り、今日、史緒はここへ現われた。真奈美の予想通りに、親切でお人好しな彼らが史緒を説得してくれた証拠だろう。
史緒が座ろうとしないので、真奈美は隣りに座るようにすすめた。
「ねぇ。ちょっと話さない?」
「乗り遅れますよ」
「そう邪険にしないでよ。出発まで2時間あるの」
「…」
何でこんな早くから空港で時間を潰してるんだ、と史緒は言いたかったに違いない。答えは史緒を待ち伏せしていたからだが、史緒が訊いてくれなかったので真奈美は答える機会がなかった。
史緒は無言で真奈美の隣に腰を下ろした。その横顔を覗き込んで、
「それにしても、ほんと、史緒は変わったね」
「自覚はあります」
即答を返してきた。真奈美が言いたいことは判っていたようだ。
「へぇ。じゃあ、変化の原因もわかってる?」
「ある程度は」
「ふーん」
えらい成長ぶりだ。さらに自分の変化、自覚、原因、すべて分析しているのはさすがと言っておこう。
真奈美は少し言葉に迷って、言う。
「私、史緒のこと買い被ってたな」
「?」
史緒は顔をあげて、真奈美のほうを向いた。それに視線を合わせて、
「史緒にはアンガージュマンがあるのかと思ってた」
と言った。
「自己拘束?」
史緒は少しの興味をもって尋ねた。
engagementとは、責任をもって、ある存在に自らの存在を賭けること。誓約、契約という意味もある。サルトルの思想では「社会的政治参加」という意味もあるがこの場合は、別。さらに日本語の「婚約指輪」は、英語では「engagement ring」という。「engage ring」は誤り。
真奈美は笑う。
「今回の翻訳は約束≠ニしておこうかな。こういうのって日本語訳にするのは難しいね」
You have engagement. I thought.
はっきりとした目的を持っているのだと思ってた。いまは何を犠牲にしても最後には手に入れる、自分への誓い。約束。そんなものを、史緒は持っているのだと思っていた。だから、周囲を省みず、盲目的に勉学に励み、自分を高めているように見えた。そんな生き方をしているのだと思っていた。
「───…でも、違うよね。今も、昔も、目指すものがあるわけじゃない」
「…」
「昔のしぃちゃんは何も持ってなかっただけ。今は、ただ、現在を、守っていきたいだけ」
彼らと共にいる場所を守ろうとしているだけ。
「───」
史緒はうつむいて、何も答えなかった。他人でしかない真奈美の説教など耳に入れてないのかもしれない。それでもいい。言わせて欲しい。
史緒に再会して、彼女の変貌ぶりにそれは驚いた。でも真奈美はさらに、現在の阿達史緒についてもある種の懸念を感じていた。
「今の生活を守っていきたいって思ってる? 恐いね、そういうのは。…大変だと思うな」
相変わらずうつむいたまま。でも膝の上で組まれた両手に変化があった。それを横目で見て、続ける。
「前へ進む勢いがないまま、何かを守っていくのは辛いんじゃない? 外乱に対しても、弱くなると思う。もっとずっと未来にある何かを目指さないと、不安に時間を潰されることになる」
守っていくだけというのは、不安になるものだから。
具体的な目標を持つことは大切だけど、抽象的な目標を持つことも、真奈美は大切だと思う。完全な終わりが来ないように。何の目的もない生活なんて絶えられないだろうから。
他人に諭すなんて自分らしくないけど、3年前とは別人のような史緒に───あの頃は言っても理解されなかったであろうことが、今は伝わりそうな気がして。らしくもなく、必死になってしまう。
「もっと望んでもいいんだって、思わない?」
「真奈美さん」
史緒は顔を上げて真奈美の声を遮った。静かな声だった。
史緒はちゃんと、真奈美の言葉を聞いていたようだった。真奈美を黙らせたいと思ったわけでもない。史緒は感情の読めない表情で真奈美に話しかけた。
「私に変化があったって、真奈美さんおっしゃってましたけど、それは誉め言葉ですか、それとも非難ですか」
真奈美は史緒の表情を見た。真顔だった。
史緒のその質問は心底真剣なものだった。
「───…」
真奈美は嬉しいような悲しいような、複雑な気分になる。
(そうか…。決められないよね)
どちらが人間として良い方向なのかなんて、どちらが正しいかなんて、…そうだ、そんな答えはない。だから単なる個人の意見として判断するしかない。
「…誉め言葉よ。一応」
「私は判らないんです。この変化が良いことなのか悪いことなのか」
あるとき、昔の自分が背負っていたものを自分自身で消した。そうしたらいつのまにか周囲に人が増えていた。そして昔の自分には戻れなくなっていた。今を大切だと思うけど、あの頃ひとりで必死に抱えていたものもやはり同じように大切だと思うのだ。
「選択の幅が広がっただけ、自分の世界が広がったと思えばいいよ」
真奈美はそんなことを言った。
「自分で判らないときは、周りの人たちに訊いてもいいんじゃない? どっちの自分が必要とされているか、望まれているか」
「…そんな他人任せは嫌です」
「理想通りじゃないほうがスマートなこともあるの」
反論を許さない強さで、真奈美は押し切った。
それからね、と別の話題を口にする。
「昔、私が史緒につきまとってた頃、実は友達と賭けてたんだ」
「賭け…?」
「アダチシオを笑わせられるかって。でもだめだった。私じゃ役不足。───でもおととい、史緒が笑ってるの見たよ」
真奈美は史緒の顔をのぞき込む。もちろん史緒は笑ってはいなかったけど。
ちなみにこれも誉め言葉よ、と前置きしていから、
「よかったね」
と、真奈美は笑顔を見せた。
多分、もう阿達史緒と会うことはないような気がする。
私は懐かしさだけで他人と会おうなんて気にならないし、史緒は史緒で…理由は挙げられないけど、私に連絡などよこさないだろう。その証拠に、史緒が最後に少しだけ本音を口にした。それは2度と会うことがないと踏んだからだ。
そんな風に会おうという気にならないのは、きっと私たち2人の間には与え合えるものが何も無いからだ。それを悲しいとは思わない。そんな人間もいて、そんな関係もある、という現実を受け止めることが、私の強みになるだろう。
今回の帰国はそう考えると、退屈な講演会だけに終わらず充実した日々を過ごしたのかもしれない。
帰り、空港に着いたときに吉川の連絡先は強引に奪い取ったし、阿達史緒とは再会できたし。
飛行機を降りるともう、そこにはいつもの日常が待っている。
でも今回のような非日常が、日常の色を変える。それを改めて認識する。
そんな、有意義な日だった。
end
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キ/GM/21-30/22