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いつか祥子に聞いてもらおうと思っていて未だ言えていないことが、蘭にはあった。
それは別に隠すようなことじゃないし、隠したいことでもない。単に話す機会がなかっただけだ。
蘭は祥子に、自分の本名も言ってない。蘭の国籍も、多分祥子は勘違いしている。それ以外にも、史緒とどれくらい昔から知り合いだったかとか、篤志と司とはどんな風に出会ったかとか。前に好きだった人のこと、大切な家族のこと。
蘭にとって祥子は史緒たちと同じ、無くてはならない人だ。本当のことは知ってもらいたい。
ああ、でも、言い出せないでいるのはきっと、A.CO.での人間関係が変わってしまう恐れがあるからだろう。蘭は史緒の昔のことはよく知っている。でもそれを祥子に知られてしまったら、今のままではいられない気がする。そんな予感がする。
「蘭」
びくっと、蘭は祥子の呼びかけに飛び上がった。考え事をしていたためだ。
「はいっ、何ですかっ」
祥子は本棚の本を指差して言った。
「なんか…洋書がいっぱいあるんだけど、蘭が読んでるの?」
すごいね、というニュアンスを含めた祥子の台詞。
本棚の中身はハードカバーの書籍や新書、単行本などが収められている。ぱっと見、実用書やドキュメンタリーが多いようだ。それらの中には英文のものが沢山あった。祥子はそれらをぐるっと見渡した。
「う…っ、はい…あたしが読んでます」
「法律の勉強したいって言ってたけど、英語ができなきゃだめなの? ごめん、私、疎いんだけど」
と、控えめに祥子が言うのを聞いて、蘭はキレた。
ぐっと両手を握る。膝を立て、床を蹴って、
「───…祥子さぁんっ!! ごめんなさい…っ」
祥子に思い切り抱き付いた。「え」祥子は床の上で正座した姿勢で蘭のタックルをくらったのでバランスを失う。危うく倒れそうになったがどうにか体勢を立て直すことができた。蘭は祥子の首根っこにしがみついたままだった。
「蘭! 危ないよっ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
祥子の言うことを聞かず蘭は何故か謝罪の言葉を連呼している。祥子は半ば呆れて嘆息した。
「…なに? 突然」
「あたし…あたしっ、祥子さんにずっと言わないでいたことがあったんですぅ」
と、蘭は叫ぶ。
(言わないでいたこと…?)
何のこと? と祥子は考える。でもさっぱりわからない。
がばっ、と蘭は顔をあげて、
「あたし、日本人じゃないんですっ」
と言った。もちろん、蘭にとってこれは事実で真剣で大真面目なので蘭は真顔だ。しかし祥子は口端をゆがませて、
「───は?」
と、呟く。冗談にしか聞こえない台詞に首を傾げる。でも蘭がこんな冗談を言うとは思えない。え、じゃあ、本当? …突然の告白がうまく思考に到達していない。でも蘭は必死になって続けた。祥子の反応には目を向けてないらしい。どんどん話を続けた。
「今までうやむやにしてたんですけど、あたしの実家は中国の特別行政区、つまり香港なんです。ご存知の通り、ちょっと前まではイギリス領でした、だから、英語はほとんど母国語なんです」
「───へ?」
ようやく意味が掴めてきて、祥子は目を丸くした。
「あの、ごめんなさい。隠してたわけじゃないんです…、───ただ、ちょっと、言いにくくて」
少しだけ落ち着いた蘭がそう繋ぐ。
(香港…?)
祥子は世界地図を思い浮かべた。しかしそれではレンジが広すぎるということで、次に天気予報などで見られる日本を中心としたアジア地図を思い浮かべた。香港は確かあの辺だったな、と考えた。祥子は地理はあまり得意ではない。───ああ、そうだ。確か1997年7月1日に「香港返還」ということで何かとニュースになった。その頃の学校のテストでも出た。
確かに、祥子は蘭のことを日本人だと思い込んでいた。いや、大抵の知人のことを「日本人」だと意識したことはない。それはあまりにも当たり前のことであって、再確認する必要もないことだからだ。自己紹介のときに国籍を言う習慣がないのと同じだ。蘭についても、そう。日本人だと意識したことはない。でも、「日本人ではない」と言われて、とても驚いている自分がいた。
言葉をくれないでいる祥子の顔を、蘭は覗き込んだ。
「ごめんなさい、祥子さん。怒りました?」
「え?…ううん」
祥子は我に返って蘭に笑いかけた。
「そんなことはないけど…───えっ、本当に香港の人なんだ? …うん、びっくりしたよ〜」
まだ混乱しているせいで、うまくまとまらない返答をする。蘭は安心したように溜め息をついて、いつもの笑顔を見せた。
「よかった〜」
祥子も笑ってみせた。蘭のことを話してもらえて嬉しかった。
「あたしの家族の写真を見ていただきたいんですけど、まだ箱の中なんです〜」
「うん。後で見せてよ」
「はいっ」
力強く、蘭は頷く。それから祥子は、少し疑問に思ったことを口にした。
「あ、ねぇ。史緒が昔からの友達っていうのは…?」
「ええ、友達ですよ。あたしの父と、史緒さんのお父様がお友達で、あたしは小さい頃から日本にはよく遊びに来ていたんです」
「篤志に一目ぼれっていうのも?」
「篤志さんとは史緒さんのご実家でお会いしたんです。その頃、史緒さんは留学中でしたけど」
「待って。司とも知り合いだったよね」
「司さんは…、事情があって一時期、香港のあたしの家で滞在したいたんです。だから、あたしの家族と一番仲がいいのって、実は司さんなんです」
新たな人間関係を教えてもらって、祥子は興味深く頷いた。
(…あれ?)
「じゃあ───…、蘭が日本へ来た理由は?」
「え? そ、それは…っ! 篤志さんたちの近くに居たいから、です」
蘭らしくなく、少しだけムキになって答えた。
「…」
祥子は考え込む。
蘭がA.CO.にやってきたのは祥子より後だ。祥子より一月ほど後だった。初めて会ったとき、確かに蘭は他の4人と既に知り合いのようだった。昔からの友達だと言っていた。
上京したと言っていた。それは嘘ではない。しかし厳密に言うと中国から来日したということだ。蘭は東京で暮らし始めた。都内の学校に編入して、通い始めた。中学3年の4月、中途半端な時期の編入だった。
その頃祥子は史緒との生活に嫌気がさしていて、我慢も限界にきていたころだった。そんなときに破天荒に明るい蘭がやってきた。祥子は、本当に、蘭に救われたと思う。蘭がいたから、A.CO.を辞めずにいられたと思う。蘭がいなかったら、自分は今、ここにはいなかっただろう。
「ねぇ…、蘭?」
なんだろう。何か、ひっかかる。
ちょっと、変な感じがする。
「どうして、もっと早くなかったの?」
蘭はその行動力を持っていながら、篤志と一緒にいたいなら、どうしてもっと早く、日本へ来ていなかったのだろう。…どうして?
ねぇ、なんか、
「どうして、あの時期にここへ来たの…?」
───…タイミング良すぎない…?
「祥子さん…っ」
蘭は悲痛な声をあげた。
蘭は動揺のあまり、持っていた木箱を手から離してしまった。落とした。
木箱の中身は封筒がぎっしりつまっていた。フローリングの床に封筒が散らばる。自然、祥子はそれらに目をやった。
何十とある封筒はすべて同じ模様、赤と青の斜線の縁取りで、つまりエアメールだった。一辺が切り取られていることから、それが過去にやりとりされた手紙であることが判る。多分、百は越える数の封筒が足元を埋め尽くす。
封筒のひとつから、一枚の写真が滑り落ちた。蘭の足元に。
それは三高祥子の写真だった。アングルから、それが隠し撮りされたものだということが窺える。
「なに、これ…」
祥子が呟いた。
蘭は口元を押さえて息を吸い込んだ。苦い空気が肺を満たした。
それは、祥子にも伝わった。
『あたしがA.CO.に入った本当の理由を知ったら、…祥子さん、怒るでしょうね。きっと』
過去そんなことを、史緒に言ったことがある。
そのとき、史緒は何と答えていたっけ…。
蘭はすぐに思い出せないでいた。
つづく
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