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「掃除、終わった」
 ドアの音とともに三佳が事務所へ入ってくる。階段下にぶちまけた薬品と割れたガラス瓶などをひとりで始末してきた。司はそういう作業は手伝えないので、大人しく事務所で待つ。もとより、三佳は手伝われることを望まなかったのだけど。
 シャツの袖をめくり、水で洗った両手が赤くなっている。薬品を処理した後、消毒してお湯で手を洗い、最後に水で流した。それらの作業に20分ほどかかった。
 ソファに座っていた司は三佳が立つ方へ手を差し伸べた。
「おつかれさま」
 三佳はとぼとぼ歩いて、司の隣りに座る。落ち込んでいるようだ。視線を落とし、何も言わなかった。司は三佳の肩に手を置いた。三佳はその腕に頭を預けた。
「史緒に何か言われた?」
「…怒鳴られた」
「それくらい、心配したってことだよ」
 わかってる、と。答えたかったのに、喉の奥が乾いて声にならなかった。
 だって本当に解っていたんだ。
 史緒の気性、性格。A.CO.のなかで誰より史緒の私生活を見ている、一緒に暮らしているんだから。
「…っ」
 声につまる。それを我慢すると呼吸が乱れた。
 その呼吸を聞かれたくなくて、三佳は司の腕から頭を浮かせ、そのまま倒れ込んで司の膝に顔をうずめた。握り締めた自分の手が、小刻みに震えていた。
 司は膝の上にのる三佳の頭をぽんぽんと撫でた。
「史緒は気に入った人間をとことん守る性格だから」
 守りたい人間しか、傍に置かないから。
 そんな風に自己中心的に史緒は人を集める。
 一緒に居たいと願った人を守れなかったとき、史緒のプライドは酷く傷つくだろう。
「だから僕たちも、自分自身を大切にしなきゃいけない。…わかるだろう?」
 司の優しい声に、三佳はぎゅっと目をつむる。今、頭のなかに溢れている記憶を追い出そうとする。でもそれはひどく難しかった。追い出そうとしても、余計、思考に侵食してくる。煙を払うため振った手に、煙が触れるように。
「───…」
 一瞬、弱音を吐きそうになった。でも声にならない。まだ自分の口から言葉を紡ぐことができない。
 三佳は、自分が司の近くに居られるのは、三佳が司の過去を知らないからだと思っている。三佳は司の過去を知らない。そしてまた、司も三佳の過去を知らない。知られたくないと思う。
(わかってる…)
 わかってる。史緒のことじゃなく、司の言ったことでもない。
 ヒトを傷つけるのは、本当に怖いコトだから。

*  *  *

 川口蘭は、中学校の卒業式を終えて引越しを始めていた。
 私立京理学園中等部、学生寄宿施設麻宮寮。編入生だったためにそこで暮らした時間はたった1年間だが、いざ去るとなるとやはり感慨深いものがある。ルームメイトの萩原絹枝や元クラスメイト達が荷物まとめを手伝ってくれて、予想より早く、撤退する準備が整った。
 蘭が寮を出る前夜、十数人の仲間たちが食べ物飲み物を持って蘭の部屋に集まった。お別れ会と称して朝まで大騒ぎ。そしてその様子は朝になって管理人から教師陣に通報された。管理人にバレた理由は、多数の生徒が夜10時の点呼に不在だったからだ。それでもあんな大騒ぎを朝まで放っておいてくれたのは管理人の情けだろう。
 罰として、蘭を含む計18名は朝8時から1時間、食堂で正座させられた。後輩達の物珍しそうな視線を受けつつも、正座している生徒達はみんな嬉々として、中学生活最後の罰則を楽しんでいた。
 誰かが正座したまま歌い出した。それはこの学校の校歌で、また別の誰かが歌い始めて、やがて大合唱になった。蘭も大声で歌った。少しだけ泣けた。
 ここから去るのは自分だけだ。淋しさと切なさと、新たな生活への不安。
 でもこの道を選んだのは自分自身だから、弱音を吐くわけにはいかない。
 だけど結局、堪えきれずに蘭は泣き出して、1年間付き合ってきた友人達に、心からのお礼を何度も繰り返した。
 その日のうちに、蘭の荷物は引っ越し屋に運び出された。


「本は? 出しちゃってもいい?」
 三角巾をつけた三高祥子が振り返る。「お願いしまーす」と蘭は答えた。そしてフローリングの床の上に立ち、室内を見渡した。ダンボールの山がいくつもできている。そのことに溜め息をつく蘭ではないが、祥子が来てくれなかったら大変なことになっていただろう。
 今日は祥子が荷物ほどきの手伝いに来てくれているのだ。
 蘭は学校法人早坂橋高等学校の寮へ引っ越しをした。
 寮、と言っても普通のアパートで、どうやら学校が不動産屋と契約し、物件を斡旋しているというものらしかった。中学の寮よりはA.CO.の事務所に近くなる。新しい散歩道を開拓しなければ、と蘭は今から楽しそうだ。
「ねー、蘭」
 膝をついて本を本棚へ移しながら、祥子が話し掛けた。
「何ですかぁ」
 蘭も、細かいものをひとつひとつ箱から出しつつ、答えた。
「前に、史緒には好きな人がいるって言ってたでしょ?」
「はい」
 祥子の何気ない問い掛けとしては想像もつかないことだったが蘭は全く気にしていない様子。いつもと同じ相打ちを打った。
「それって、篤志のこと?」
「違いますよー」
 やんわりと即答されたことが不服で、祥子は手を止めて蘭のほうを見た。蘭が慌てることを期待していたのだ。
「でも怪しくない?」
 そこで蘭も振り返る。祥子に視線を向けた。
「あたしも昔は心配だったんですよ。もしかして史緒さん、篤志さんのこと好きなんですか、って」
「それで? どうしたの?」
 興味津々で祥子が尋ねると、蘭はあっさりと答えた。
「史緒さんに直接伺いました」
 その行動の素直さも蘭らしくて、昔(どれくらい昔かは知らないが)からこういう性格だったのだとうかがえる。祥子はくすっと笑った。
「なんて答えた?」
「それ以前にあたしの質問が理解されてもらえなかったようです」
 たはは、と蘭は苦笑した。
 あれはいつだったろうか。
 蘭が篤志と出会ったのは蘭が11歳のときで、もう3年半も前のことだ。そのとき史緒は留学中だった。だから当時は、史緒と篤志がどんな仲で、どんな会話をするのかなんて知らなかった。実際はもっと他人行儀な風だったが、顔を合わせれば史緒は普通に挨拶していた。蘭はそのことに大変驚いた。当時の史緒が普通に挨拶するなんて考えられないことだ。
 だからたったそれだけのことで、蘭は史緒に向かってこう言った。
『もしかして史緒さん、篤志さんのこと好きなんですかっ?』
 そのとき史緒と蘭、2人だけだった。ただ隣りに篤志と司がいても、蘭は気兼ねなく同じように尋ねただろう。
『好きか好きじゃないかに分類しなきゃいけないなら、どっちでもない』
 しらっと史緒は真顔でそんな風に答える。蘭はうなだれた。
『もぉ、史緒さん。あたし、真面目に訊いてるんです』
『私も、真面目に答えてるんだけど…』
『じゃあ、篤志さんのこと、どう思ってます?』
『どう…って、背が高いな、とか』
『あの、そういうことでもなくてでですね…。印象とか性格とか…』
『印象っていったら、初対面のときは親戚なんていたんだ≠チて思ったけど。他には七瀬くんが少し明るくなったのは篤志のせいかな、とか。あとは、そうね───…』そこで史緒は軽く笑ったようだった。お母さんみたいかな、と言って笑った。
「史緒さん、恋したことないんじゃないかしらって、思ってしまうこともあるんですけど、ね」
 祥子に昔話をした後、一人で微笑む。
 現在の史緒も、恋愛する余裕なんて無いように見える。そういう幸せを感じたことないんじゃないかと思ってしまう。ずっとずっとずっと前、蘭と史緒の好きな人が同じだった頃に、そういう感情を置いてきてしまったのではないかと思ってしまう。
 でも違う。一時期の史緒は───黒猫を抱いていた頃の史緒は、うつむいたままでも、許せない人間がすぐ傍にいたままでも、恋をしていた。例え史緒がその感情の名前を知らなくても、きっと、そう。そうなんだ。
「じゃあ、誰よー」
 降参、と祥子は白旗をあげる。
「祥子さん、知らないと思いますよ。それに史緒さん自身、自覚がないみたいですし」
 それから蘭は力んで、頬を膨らました。
「あたし、すごく期待してたのに、拍子抜けです」
「あはは」祥子は声をたてて笑う。「でも、そういう話を聞くと、蘭も史緒とは結構付き合い長いのよね」
 と、何気なく言った。
 ぎくり、と蘭は内心で思った。
「え…あ、はい。そうですね」
 珍しく蘭は言葉につまる。
 祥子はそれだけ言うとまた手元の作業に集中し始めた。発展させたい話題でもなかったようだ。蘭は胸をなで下ろした。

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