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 10分ほどで七瀬司が事務所へやってきた。
 とにかく早く来い、と篤志に呼び出されていた彼はタクシーを使って帰ってきた。すぐ近くの医療施設に顔を出していたらしいが、そこからでも、自分の足で帰るのは得策ではないと司は判っていた。司は自分の鼓動で時間を、歩幅で距離を測っている。下手に急げば目的地へ辿り着くことができない。
 祥子が司にひととおり状況説明をして、蘭と祥子は一緒に事務所を後にした。三佳のことは心配だったけど、下手に蘭たちがいるより司と2人だけのほうが三佳は落ち着くだろうと思った。
 そういうわけで、祥子と蘭は並んで駅へ向かう。その途中のことだった。
「───三佳って…史緒にとって何なのかな」
 と、祥子は独り言のように呟いた。その呟きの内容を理解しかねて、蘭は首を傾げる。
「一緒に住んでるし、特別なのかと思って」
 あんな風に、史緒が三佳を助けたのは、祥子には意外だった。助けないほうが史緒らしい、って言ってるんじゃない。ただ、咄嗟のときに体が動くのは、理屈じゃないから。条件反射的に反応できるのは、日頃から何らかの心持ちをしているからではないだろうか。
 蘭は、祥子の発言に思うところがあった。少しの時間でたくさんのコトを考える。う〜ん、と頭を悩ませる。言うべきか、言わざるべきか。
「確かに…、篤志さんの反対を押しきって、史緒さんは三佳さんを引き取ったって聞いてますけど…」
 と、結局、控えめに言った。
「ふーん…」
 そっけない声を返す祥子。何やら考えている様子。
 蘭はその横顔を見て不服そうな顔をした。一瞬、迷ったが、やはり自分の言いたいことは言わせてもらうことにする。史緒は怒るかもしれないけれど。
「あのっ」
「ん?」
 考え中であるにもかかわらずすぐに顔を向けてくれた。そんな祥子だから、ちゃんと理解して欲しいと思う。
「祥子さん誤解してます」
 蘭は足を止めて、まっすぐに祥子を見据えて言った。
「今日のこと…、三佳さんじゃなく祥子さんでも、史緒さんは同じように助けたと思います」
「まさか」
 祥子があまりにも早く、しかも笑いながら答えるので蘭は悲しくなった。ずずぅん、と胸に重りが積まれた気持ち。胃の口が締められたような鈍い痛み。
「ホントですよぉ、もぉ…」蘭はこぶしを構えて祥子に力説する。「だって史緒さん、ものすごいワガママなんですからっ」
「…は?」
 突然、話が飛んだ気がする。蘭はおかまいなしに続けた。
「史緒さんは、気に入った人間しか近くに置きません」
 ほんと、ワガママなんです、と付け加える。それは言い切ることができる、真実。
「A.CO.のヒトたち、皆さん、全員、そうです。史緒さんは気に入らないヒトと一緒にいられるほど、寛容じゃないんです」
 「気に入った人間」という集合枠、円がそこにある。それより外側はすべて「興味のない人間」。それが阿達史緒の世界だ。(以前ひとりだけ、どちらにも属さない人間がいたがそれは大きな例外だ)
 その「気に入った人間」枠には、ほんの数人しかいない。
 地平線より向こう、続く大地の上のほとんどが「大好きな人間」でその中の一部が「大大大好きな人間」という世界を持つ蘭とは大きく違う。
 そんな蘭でも、史緒を取り巻く環境をよく理解している。
「───…気に入った、人間?」
 祥子は自分を指差して、「冗談でしょ」とぎこちなく苦笑した。いつもの仲の悪さを思えばそれも当然だ。
 蘭はムキになって言い返した。
「この間、お会いした大塚さんが言ってたでしょう? 昔の史緒さんは孤立してて、誰ともお話しなかったって。あたしが知る昔の史緒さんも、そういう人でした。…史緒さん、変わったんです…っ。祥子さんや、三佳さんに会ってから」
 気に入った人間。興味のない人間。
 昔は本当に、そんな単純な図式しか史緒の中にはなかった。
 A.CO.設立後はもう少し複雑になったようだけど、それはアメリカ留学で経済学を修めてきたから?
 愛想を振り撒かなければならない他人。単純に気に入らない人間。それでも付き合わなければならない関係。社会に出ればそういったものが必然となるので、史緒は経済学を学ぶにあたり、世界観を矯正しなければと努力したのかもしれない。
 仲間が増えたことでもっと複雑になった。仲間が増えるたび、史緒が自分の世界観を構築し直した過程を思うと蘭は胸が熱くなる。嬉しかった。
 でも、基本的な図式に変化はない。
 気に入った人間。興味のない人間。
 人嫌いだった史緒が共に過ごすようになったヒト。それ意外の人間。はっきり言って単純なのだ。
「どうして史緒さんが気に入った人間しか傍に置かないのか、祥子さん、わかります?」

*  *  *

 引きずられるように病院へ連れて行かれると、意外にも早く診察室へ招かれた。
 小さい病院のせいもあるだろうが、篤志の受付への態度が急患扱いにされた理由だろうか。慌ててはいなかったが迫力はあったと思う。大したことないのに大袈裟なのだ。数人の待ち患者のなかで史緒は肩身が狭かった。
 そして憤りにも似た溜め息をつく。
 さっき。篤志が事務所へ帰ってきたとき、史緒は内心で焦った。付き合いの長さで蘭や司に劣るものの、史緒の振る舞いの変化に篤志はとにかく目ざとい。うんざりするほど目ざとい。史緒本人でさえ気付いていない体調不良なども何故か気がつく。初めて会ったときから本当に不思議だった。篤志よりずっと付き合いの長い一条和成が「まるでお母さん≠ナすね」と笑ったことがある。その当時、史緒はまだ笑うことができなかった。ただその台詞の面白さに目を丸くしただけだ。
 篤志に隠し事はできない。どんなにうまく隠してもこの足の痛みは篤志に気付かれるだろうと思っていた。でも。
 でもそれをそのまま口にするほど無神経ではないと思っていたのに。(もし祥子が聞いたら「あんたに無神経なんて言われたらおしまいだ」とでも言うかもしれない)
 三佳や祥子の前であんな風に暴露するなんて。史緒が憤っている理由はそれだった。
 診察は15分程度で終わり、足首に湿布を貼られその上から大袈裟に包帯を巻かれた。靴が履けなかった。
「あの、もう少し簡単になりませんか?」
 と、一応要望を出してみると、人の良さそうな老人の医師はあっさり快諾してくれた。包帯をほどき、薄地で固めのサポーターをつける。ずいぶんと軽くなった。足首の固定が心もとないが史緒には充分だった。
 診察室の外で篤志は待っていた。
「大丈夫か?」
 史緒がドアから出てくると椅子から立ちあがり、歩み寄る。
 何ともない。そう言おうと思ったが、史緒の背後から低い穏やかな声が篤志に告げた。
「捻挫です。骨に異常はありませんが、思いっきり捻ってますのでしばらくは安静に」
 さきほどの老医師だった。史緒が振りかえると相変わらず人の良さそうな顔で医師は立っていた。老医師は史緒の視線に気付くと目を向けてにっこりと笑う。
「お嬢さん。心配してくれる人に痛みを隠すのは失礼です」
 今度は小さい声だった。苦い説教だ。医師は軽くウィンクしてみせた。
「湿布と痛み止め出しておきます。お大事に」
「…お世話になりました」
 丁寧に頭を下げながらも、刺々しい声にならないよう最大限に努力した。内心を声に表してしまうのは感情をコントロールできていない証拠だ。史緒は自分のそれを許すことができないでいた。沽券に関わる。
 薬をもらった後、少し休んで行こうと提案したのは篤志だった。史緒としても、この足ですぐに歩き出すのは辛かったので、その提案はありがたかった。───と思ったのは大きな間違いだと、すぐに察した。ソファに腰を降ろす動作で、篤志が怒っていることに気付いたからだ。それは当たっていた。
「…もう少し他人の気持ちを考えろ。痛いときは痛いって言え。あれじゃ三佳が気の毒だ」
 厳しい顔と声でそう言われ、史緒は少々むっとした。「怪我した私が怒られるの?」と言い返そうとしたが、よくよく考えてみるとそれは皮肉でも嫌みでもない。単にここで起こっている現象であり事実でしかないので、史緒は口にはしなかった。
 すぐに痛みを訴えれば、三佳になら応急処置くらいできた。篤志の言いたいことも判るが、外圧的でもそうでなくても、痛覚も口にしないのが史緒の性格だと、付き合いが長いのだからそろそろ気付いて欲しい。
「あんまり無茶するなよ」
 先程よりいくぶんやわらかい声がかかる。史緒は今度は素直にそれを聞いた。
「…今日のは見逃してよ」と失笑混じりに呟く。「私は、自分が痛いのは嫌だから」
 篤志は意外そうな視線を史緒に向けた。何言ってんだ、とでも言いたいかのように。
「痛くしてるじゃないか」
「そうじゃなくて、ね」
 返答を予測していた史緒はすぐに切り返す。
「もし三佳が怪我でもしたら、私、すごく痛い思いをする気がするの」
 どうしてそのとき動けなかったのか、何故それだけの冷静さと行動力を今までの生活の中で培ってこれなかったのか。きっと、果てしない後悔に襲われる。
 篤志は、どうして史緒がその先まで考えられないのかと、苛立つ。
「同じ理由で、今回は三佳が痛い思いをしてるって、判ってるか?」
「構わない。自分勝手なのは承知してるの。改善するつもりはないわ」
「そう割り切るのは別にいいけどなぁ、でも───三佳のこと、おまえは知ってるはずだろ?」
「───」
 ハッとした。うつむき、口を閉ざす。皆まで言わなくても、篤志と同じ昔を史緒は思い返したようだった。そして三佳も。
 あまり思い返したくはない過去を、思い出させてしまった。
「自分勝手ってのはそういうもんだ、覚えとけ」
 吐き捨てるような篤志の台詞に、史緒は何も言い返せなかった。

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