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 惨、状───。
 祥子が階段下へ駆け寄ると、そこには史緒と三佳が抱き合うように重なって、床に倒れていた。
 その周囲には白い発泡スチロールの破片やしわくちゃの新聞紙がぶちまかれている。それから怪しげな小瓶がいくつか、学校の化学室でしか見る機会がないシャーレや名前を知らない器具も放り投げられ、一方で透明な液体が床に線を引いていた。
 そして、それらが入っていたと思われる大きなダンボール箱が口を開けて少し離れたところで横になっていた。
 すぐに想像はついた。ダンボール箱を持ったまま、階段から落ちたのだろう。
「史緒っ、三佳っ」
 すぐに起き上がらない2人に、祥子は叫んだ。
 さらに祥子は理解した。抱き合うように倒れていたのは、史緒が三佳の頭を守るように両手で抱えていたからだ。三佳を守る代わりに、史緒の頭部は無防備で、長い髪が床の上に流れていた。その上にも、発泡スチロールや新聞の梱包材が落ちていた。
(まさか落ちてきた三佳を受け止めたのだろうか…)
 祥子が10秒悩んで、救急車を呼ぼう、という結論に至ったとき。
「…っ」
 史緒の腕の中から、三佳が頭を上げた。咄嗟に祥子は手を差し出した。
「三佳…っ、大丈夫?」
 三佳は祥子の手を借りて、頭を押さえながら上体をあげた。視界がはっきりしないのか、瞬きを繰り返しながらも答えた。
「…なんとか」
「救急車呼ぼうか?」
「そんな大事じゃない…。5段目から落ちただけだ」
 まだ立ち上がれないようだが、三佳は床の上で息をつく。梱包材だらけの周囲を見渡して苦笑しながら、「しくじったな」と呟いた。
 そして次に史緒が起き上がった。
 ぐいっと頭を上げて、半ば倒れ込むように三佳の双肩をガシッと掴む。
「───三佳…っ、怪我はっ!?」
 すごい剣幕で詰寄った。
 射るような瞳に間近から直視され、三佳は声を失う。いつもの史緒からは考えられないその激しいまでの勢いに三佳と祥子は驚いた。三佳は数回、唇を空振りさせてから、
「ない」
 と、呟いた。
「…そう」
 と、史緒の表情が緩んだのは束の間。
 史緒は音を立てて一瞬で息を吸うと思い切り大声で叫んだ。
「馬鹿っ!」
 怒鳴られると予測できなかった三佳の肩がびくっと揺れた。祥子も耳が痛くなるのを感じた。
「気をつけてっていつも言ってるじゃないっ! 危険物を扱ってる自覚くらいあるでしょうっ? ───待ってろって言ったのに、言うこと聞かないんだからっ。他人の助け手を断わるなら責任もって安全に運びなさいよ、自分のちからくらい自覚してよ、一人前だとでも思ってるのっ? こんなことになるなら、危険物持ち込み禁止にするから!」
 三佳は声もなく、史緒の怒鳴り声をぶつけられていた。視線を落とすこともできなかった。
 最初はらしくなく大声を出す史緒に驚いていた祥子だが、その辛辣な発言に少しずつ冷めて、反感を覚えた。
「───ちょっと。それ言い過ぎじゃない?」
 と、床の上に座る2人に口を挟む。
「三佳に怪我はなかったんだし、今回はここを掃除すればいいだけの話よ。それに三佳の趣味についてとやかく言うのはお門違いでしょ」
 確かに三佳の失態かもしれないけれど、史緒の発言は明らかに言いすぎの感がある。
 今回のことで、この先三佳は気をつけるようになるだろうし、2人とも怪我が無いなら良しとすればいい。
 史緒は三佳の肩から手を離して立ち上がった。スカートの裾を払う。
 歩を進めて、祥子の目の前に立った。
 冷めて、上目遣いに据えた瞳と目が合う。祥子はたじろいだ。…阿達史緒のこんな感情的な目を見るのは初めてかもしれない。
「じゃあ、祥子のときはそういうことに注意して声をかけてあげる。それでいいでしょう?」
 挑発的な口調で、史緒は祥子に言った。いつもの皮肉ではない、明らかな嫌味。
 祥子はカッとした。
「な…っ、…そんなときがあっても助けてもらわなくて結構よっ」
「三佳、そこ片づけておいて」
 祥子を完全無視して、史緒はふぃと顔を反らせた。そのまま事務所のほうへと向かう。
「ちょっと、史緒…」
 その時だった。
「なにこれーっ、どうしたんですかぁっ!」
 場にそぐわないすっとんきょうな高い声が響いた。川口蘭だ。
「何かあったのか?」
 関谷篤志もいた。この2人の登場に史緒は表情を曇らせたが誰も見ていなかった。
 祥子が三佳を気遣って深刻にならない程度に状況説明をした。その間、三佳は床の上に座り込んだままうつむいて動かなかったし、史緒は事務所のドアに肩を預け、それを聞いていた。
「えー、じゃあ、あたし、片づけ手伝いますよ」
「いい。私がやるから、放っておいてくれ」
 蘭の申し出に三佳は短く断わった。祥子もその心痛がわかるので、でも、としぶる蘭を押し留めた。
 その後ろで、史緒はそっと事務所のドアを開けた。
 早く、座りたかった。
「───…おい、史緒」
 と、篤志が呼びかける。
「…っ」
 舌打ちが聞こえてきそうな表情、史緒は顔をしかめた。こぶしでドアを叩いた。
 気付かれたくなかった。
「どうしたんだ、…足。怪我でもしたのか?」
「篤志…っ」
 史緒は苛く苦々しい声を出した。どうしてわかってしまうのだろう。この相手には。
 それより驚いたのは祥子と三佳だ。
「え…、史緒? まさか怪我したのっ?」
「何でもないわ、騒がないで」
 そう言った史緒の表情からは、先程三佳に向けていた刺々しさが消えていた。
「ちょっと捻っただけよ、痛みも大したことないわ」
 史緒は足を痛めたことを肯定した。祥子は驚いた。先程、史緒は立ち上がって、祥子に近付いて、それからドアのところまで歩いていった。その間、何の異変も感じなかったのに。…それにそうだ。痛いという思いさえ、祥子は感じられなかった。ただ史緒からは刺々しい苛立ちのようなものが伝わってきただけだった。祥子の能力にも引っ掛からなかったのに、篤志は一目で史緒の不調を見抜いてしまった。
 その篤志は祥子たちの後ろを横切って、ドアの向こうへ消えようとする史緒の腕を掴んだ。
「史緒」
「…ちょっと、篤志」
「病院行くぞ。黙ってるってことは、結構ひどいんだろ」
 有無を言わせない篤志の迫力に史緒はすぐに言葉を返せなかった。
 篤志は史緒の腕をひっぱり、ずるずると廊下へ引きずり出した。
「待って。ちゃんと病院へは行くから、篤志は残って」
「司には連絡した。すぐ来るよ」
「…」
 三佳を一人にできない、という史緒の思いを篤志は見抜いていたようだ。
(侮れない…)
 史緒は、…わかっていたけど、何度も実感したことだけど、今更だけど、篤志のことをそう思った。
 史緒は観念したように、素直に篤志の腕に支えられて歩き始めた。その歩調はいつもと変わりなかったが、今度は顔の表情で無理しているのがわかる。歩き方を崩さないのは見栄を張っているのだ。
 篤志が言う。
「蘭、史緒の上着取ってきてくれないか」
「はい」
 蘭は事務所の中へ向かう。
 史緒は祥子に言った。
「悪いけど、司が来るまでここにいて」
「わかってるわよ、それくらい」
 祥子はぶっきらぼうに答える。史緒が怪我している手前、ストレートに強く言い返せない。
 三佳が、声を発した。
「史緒…」
 小さな声だった。
 史緒は三佳に笑顔を向けた。
「大丈夫。すぐに帰るわ。…怒鳴って、ごめんなさい」
 ぽん、と三佳の頭に手を置く。
 蘭からコートを受け取ると、篤志と史緒は一階へと降りて行き、外でタクシーに乗り込んだ。

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