キ/GM/21-30/24
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1999年3月。
朝。
A.CO.の事務所に初めにやってくるのは、意外に思われるかもしれないが最年少の島田三佳である。
欠伸をしながら専用のコーヒーカップと新聞を持ち込む。カーテンと窓を開けて、新聞に目を通す間に一通りの換気を済ませる。気になるようなら簡単に掃除もした。
この建物の4階に住まう彼女は、起きてから身支度を整えると、朝食を作る。同居人と朝食を食べて、後片付けをして、事務所にやってくる。それが大体8時半のこと。
三佳が新聞の一面記事を読み終わった頃、2人目が事務所にやってくる。
「3月になっても、まだまだ寒いわね」
A.CO.の所長であり、三佳の同居人、阿達史緒。ファイリングされた書類とバックアップ用MO一枚を脇に抱えて入ってきた。
「風邪なんかひくなよ。看病が面倒だ」
「お互いさま」
史緒は専用の机の前に座るとパソコンの電源を入れる。そして今日一日の予定を確認すると、大まかな段取りを組む。そのメモを取りながら、手を休めずに史緒は声をかけた。
「三佳は今日バイトあるんだっけ?」
「ない」
「じゃあ、今日はみんな結構ヒマかな。私は午後出かけるけど、留守番頼める? あと桐生院さんから連絡あったら、対応お願い」
「ああ」
いつもの事だから、三佳は素っ気無く言葉を返す。三佳が目を通している新聞は、3面目に突入していた。
普通、新聞を熟読するには中学卒業程度の漢字読解力が必要である。島田三佳は今年で11歳。小学5年生になるが、新聞は勿論、ある分野の専門書を読みこなす頭脳が備わっていた。
この2人が一緒に暮らし始めてそろそろ2年になる。
「三佳。司の予定、何か聞いてる?」
七瀬司も事務所のメンバーのひとり。彼は個人主義的なところがあって、自分の行動をいちいち報告しない。スケジュールを知らせるのを仕事だと割り切らせても目立った改善はなかった。三佳と行動するようになって少しは落ち着いたようだが、先に仕事を伝えておかないと突然ふらりと出かけてしまうことがよくある。
「町田へ行くって言ってた」
「そう」
その場所が示すものを史緒はよく知っていたので軽く流した。三佳も、ある程度は知っているのでそれ以上の説明はしなかった。
関谷篤志は今日は大学の進級パーティに呼び出されたと言っていた。(篤志は留年したわけだから仲間からの嫌がらせだ)川口蘭は先日中学の卒業式を終えて、今日は入学する高校の寮へ引越し。三高祥子がその手伝いに行っているらしい。木崎健太郎は学校。
史緒はいつも通り、事務書類の処理に取り掛かる。時々、依頼人や関係機関との電話対応、クレームにおわれることもある。三佳はたいてい本を読んでいるか、自分の仕事をするか、史緒の仕事も手伝ったりした。
本日は快晴。窓の外は青空が広がっている。気持ち良い天気だが、放射冷却により体感気温はかなり低い。それでも、街路樹の枝先が膨らみを見せ、春が来ていることが感じさせる。
そんな、穏やかな日のことだった。
昼時のこと。
それはたった一本の電話で引き起こされた。
事件と呼ぶには内輪ごとすぎたが、騒動の始まりは間違いなく、この一本の電話だった。
電話が鳴った。史緒はパソコンに視線を固定させたまま、慣れた動作で腕を伸ばす。
「はい、A.CO.です…」
と、言いかけたところ、
「史緒さぁあんっ!!」
受話器の向こう側から泣き叫ぶような声。
誰か、はすぐに判った。聞き慣れた声だ。しかし、その人物がこんな悲鳴を出すなんて滅多にない。
痛々しい声は緊急性を訴えていた。
史緒はすぐに有事だと察した。
「蘭? どうしたの?」
史緒は椅子から立ち上がり、すぐに動ける体勢に入る。何事かと三佳も目を見張った。
電話の声は川口蘭だ。いつも破天荒に明るい彼女が、息を荒くして、泣いているような声で、何事か口走っている。うろたえている。動転している。
「どうしよぉ…あたし…。史緒さん…あたし、大変なこと」
「落ち着いて! 何があったの?」
史緒は蘭の置かれている状況を察知しようとした。蘭は今日、引越しをしていたのではなかったか。一体、何があったというのだ。
「史緒さん、ごめんなさい…っ、あたし、こんな事になるなんて思わなくて」
「蘭! 落ち着いて説明してっ」
「あの」蘭は叫んだ。「───祥子さんがそちらに向かってます!」
受話器から漏れた悲痛な叫び声は三佳にも聞こえたようで、史緒と三佳は目を合わせた。
お互い妙に冷めた目の複雑な表情になる。
「───…は?」
蘭の意味不明の説明に史緒の緊張していた体から一気に力が抜けた。
(祥子が事務所へ来る…?)
だからなんだ、と突っ込みたかった。
祥子は蘭の引越しの手伝いをしていたはずだ。蘭のところから事務所へ向かっているのは状況的に別段おかしくは無い。祥子のその行動の意図は判らないが、蘭は一体何を慌てているのだろう?
史緒は状況を整理するために一度深呼吸した。しかし、状況を整理するだけの情報が何も無いので整理のしようがない。史緒はこぶしを額に当てた。考え込んだときの癖だ。
「あのね、蘭…」
と、言いかけたところ、蘭のほうも少しだけ落ち着いた声を返してきた。
「あたしが…、日本へ来た理由を訊かれて…あたし正直に答えました、史緒さんや篤志さんに会うためだって。だってそれが、本当だもの…、それが本心だもん! でもそのとき、史緒さんがあたしにくれた手紙…、日本へ来る前にくれた手紙の、祥子さんの写真を祥子さんに見られちゃって、…尋ねられたから、あたし答えるしかなくて…っ」
「───」
要領を悪い蘭の説明からでも、史緒は正確に現状を理解した。そして蘭の話の続きを、史緒は見抜くことができた。
「史緒さんにお呼ばれいただいた手紙ですって答えちゃって───」
蘭が祥子相手に巧い嘘をつけるとは史緒は思ってない。蘭を責めることはできない。
祥子は、一年前に史緒が何をしたのか気付いただろう。
それを知った結果、祥子がどんな感情を表すか、容易く想像できる。
どんな行動を取るか、何となく想像できる。
「祥子さん…、『私を手懐けるために蘭を利用した』って、すごく怒ってるんです…、そちらへ向かってます、…史緒さん、どぉしよう…」
こんな日が来るとは思っていた。
史緒はわかっていた。祥子のその台詞は、正しいことを。
〈だって、私は蘭を利用しようとしてるのよ?〉
一年前、他でもない蘭本人にそう言ったのは自分自身だ。
祥子がどんな気持ちでここへやってくるか、わかる。そう、いつか、こうなることが判っていた。それなのに史緒は何の善後策も用意していなかった。自分らしくない不精さだと思う。
史緒はわざとゆっくり息を吸った。
「蘭、状況は判ったわ。あなたは自分の部屋で待機よ」
「そんな…っ」
蘭の言い分には耳を貸さず、史緒は一方的に電話を切った。そしてすぐに言う。意識的に少し、やわらかい声で。
「三佳、できれば席外してくれない?」
これからどうなるかなんて、史緒自身、想像もできなかった。
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